亜米利加船渡来日誌-解読文
嘉永七年正月11日ー同20日 艦隊が小柴沖に到着、浦賀奉行交渉開始
同正月21日ー晦日 誕生日空砲数十発、上陸は横浜と決まる
同2月朔日ー 2月10日 横浜応接所設営し上陸迎える。 饗応の料理
同2月21日ー2月晦日 会談、 贈答品の機関車模型、電信機設置
同3月朔日ー3月13日 交渉終了、艦隊横浜を去る
応接役々・地誌 関係者名、警護場所担当、知識の吸収
ペリー書簡(第一次来日時) フィルモア大統領親書、ペリー書簡

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               ペリー艦隊の再来

    掲載解読文の元文書は添田家文書として残っているもので、横浜開港資料館フィルムの
コピーを古文書教室のテキストとして使用されたものです。 日誌の筆者、添田知通は当時
市場村(鶴見区生麦近辺)の名主を務めていた。
    
    ペリーが1853年米国大統領の国書を携え4隻の軍艦で来日し浦賀に上陸、 国書を
幕府役人に手渡し返事を翌年頂きにくると言って帰国しましたが、本日誌は翌年1854年ぺりー
が再来し、その艦隊が見えたところから始まり、東京湾を去るところで終わります。  日誌の
後には筆者自身が入手した各種の情報がまとめられています。 
  
    この時に日米和親条約(神奈川条約)が締結され、筆者が交渉の経過と其の内容迄も
垣間見ている様子がわかります。 以外に思うのは江戸幕府の情報開示は結構進んでおり、
 約半年前の第一次ぺリー来日で持参した大統領国書やペリー自身の書簡(英文のみならず
オランダ語、漢文で持参)などは再来の頃には公開されていたと見え、当時の知識階級の間に
は流布していたと思われます。

    参考としてペリー持参の書簡(英文)、日米和親条約の原文(書き下し)及び解読文等
はじめ関連資料、注釈を逐次追加してゆきます。


























 参考文献  ”Narrative of The Expedition of An American Squadron to The Chaina Seas and Japan 1852-1854”
  

ペリー持参の大統領親書(国書)英文

   同現代文訳
添田日誌の書簡は漢文翻訳と思われ重々しい感じだが
原文はシンプルで明解、特殊な尊称(your majestyなど)
を除けば現代のアメリカ人が書くちょっと格調の高い
ビジネス英語としても良い見本だと思います。
日米和親条約(原文、解読、英文) 日本文は現代の我々には非常に読みにくいものですが、
英文は至ってシンプルで現代の企業間の契約書の基本部分
と変わりません。 ただ現代の正式な英文契約書にはやたらと
弁護士のためのような内容が付け加えられ分厚く、ややこしく
してなっていますが。
アメリカ艦隊日本遠征記にみる挿絵 上に示した参考文献の版の古いものに載せられた挿絵を掲載
しています。 挿絵はクリックで拡大して見ることができます。



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