清明上河の跋を見る
跋の大意は多分こういう事かなと推量で書いています。 長い巻物の絵を分割して下記に示します。
番 | 分割写真 | 上段跋 | 跋大意 |
1 |
清明上河 図是宋 代之翰林 画史張 擇端所 作之神 品也 擇端字 正道東武 人幼読 書遊学 |
清明上河図(題字) 翰林学士趙孟頫 (1254-1322) 清明上河図は宋代翰林画師の張擇端の 作で非常に優れた名品である。擇端、 字(あざな)は正道、東武(山東省)の 人で幼くして書を読み、 |
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2 |
於京師 後習於 絵事本 工其界劃 尤擅於 市橋邑 屋舟車 山村草 樹馬牛 人物以及 衣冠之出 没遠近無 一不臻其 妙并自 成其家 敷也 |
都に遊学した。 後に絵画を習い、建物等に 定規を使う界画の技法を身につけ、その得意 とするところは市橋、村屋、舟車、山村、 草樹、牛馬、人物及びその服装など、また 遠近の技巧を凝らした家敷並みなどである |
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3 |
清明上河 図乃描 絵北宋之 都城及 汴河両岸 清明時 節之市 俗人事 而故名也 其画面 幽雅写 景生動 逼真城 郊農 村清明 |
清明上河図で描かれた絵は北宋の都城、 及びそこを流れる汴河(べんが)両岸の 清明祭の頃の町の風物、人々の風俗など である。 その画風は幽にして雅、表現は活き活きと して真に迫るものである。 城外の農村の清明 |
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4 |
時節之 田野景 色疏林 落霧村 舎漁家 阡陌縦 横田畝 井然村 頭之大道 上人員簇 擁有騎 而奔馳 有踏青 掃墓而 帰者此 |
時節の田園風景は疎らな林があり、霧が 農家や漁家をおおい、田畑の畦は縦横に 整然としている。 村の中心の大通りには 人々が集まっており、そこを駆け抜けて行く 騎馬が有る。 若草を踏み墓を清掃して 帰る者も有る。 |
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5 |
處乃以拱 橋為中 心橋上行 人煕煕攘 攘擁擠 不堪并 見商肆 林立有駐 足而観者 橋下之舟 楫川流 不息篙 師纜夫 牽重舟 逆急流 力図寸進 □街市則 |
此処にある虹橋を中心として、橋上は行き 交う人々で入り乱れ押合いへし合いに 堪えられない程である。商店が林立して いるのが見え、足を停めて観る者も有る 。橋の下では川の流れに舟の楫は休む ことなく、竿を挿す者、とも綱を曳く者達が 重い舟を急流の力に逆らい、少しずつ 進めようとしている |
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6 |
見商店鱗 列市容之 繁行人往 来頻々南 来北往有 士農工商 医卜僧道 胥隷騎 而趕集合 戴貨之 貨車者 多匹之馬 車拖曳者 婦幼乗 轎者有以 物易物之 |
市街地は商店が鱗のように列をなし町が 繁昌している。通行人の往来は頻繁で南へ 、或いは北へ人々は往来する。 官吏・農民・ 職人・商人・医者・占い師・僧侶・学者・小吏・ 下僕・武人などいる。荷を乗せた車を引いて 走る者、多頭の馬車を曳かせる者、婦人や 幼児を駕に乗せる者、 |
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7 |
貨郎担 者執斧 而鋸者困 而睡者以 板為輿 者驢贏 馬牛彙 跑之属屋 宇則官府 之衙市 廛之居村 荘寺観之 盧屏障 離塵之制 店肆之所 鬻則若 |
物物交換の商品を担ぐ者、 薪割のため斧や 鋸を持つ者、 疲れて居眠りしている者、 板で車を作る者あり、牛馬の蹄を掻く音もする。 建物には官の役所、商店、寺院を観、黒の 衝立で埃を防いでいるところもある。 店舗では飲み物、食べ物を始め、 |
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8 |
渇若饌 雅貨百物 有題扁 名氏字画 人興物多 至不可指 数而筆 勢雅意 而逸趣生 動隠見 殊形向背 相準無 其錯誤 之跡也然此 図之玅若 非画作 |
あらゆるものを売っており、商店主の氏名、 字の看板を掲げているところも有る。人や 風物が非常に多く描かれ、数えきれない 程である。絵筆の勢いは優雅で味わいに 優れ、活き活きとして、対象物の表裏、変化、 向背が正しく描かれ間違いの跡が無い。 然るにこの絵の製作にあたっては |
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9 |
夜思月累 歳積不能 到其妙處 実為希世 之神品 癸亥之仲 春月 瓊州太守 楊如壽 |
昼夜分たず幾月も歳月を積み重ねなければ このような素晴らしさに到達できないだろう。 実に世に稀なる名品である。 癸亥の年 (1143、1203?) 春月 瓊州(海南島)太守 楊如壽 |
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峩峩城闕旧梁都門五漕渠 何事東南最闐溢江准財利 走舟車車轂人肩困撃磨珠 廉十里沸笙歌而今遣老空 垂涕猶恨宜和興政和(宋之奢靡至宣政間甚也) 京師復此豊沛根本謀度漢高 不念遠方民力病都門花石日千艘 大定丙午清明午一日張著跋於燕山月畔 註 梁(後梁、唐滅亡後、五代十国の最初の王朝、907-923) 徽宗の時代(1100-1125、政和1110-1118、宣和1119-1125) 北宋滅亡 1127年 大定丙午: 金の年号 1186年 花石: 徽宗が庭園を作るため主に江南から珍花、名木、奇石を強引 に運ばせ、輸送にあたり民を苦しめ、民衆の反乱の原因となった |
高くそびえる城門は旧後梁の都で門は五つの運河に 通じている。何時でも東南の門は淮水を経由して 運ばれる財物の舟や車で最もごった返している。 運搬する車はきしみ、人の肩は疲れ、玉飾りのある簾の 奥から笙の笛や歌が十里四方に聞こえるほど都は 繁栄していた。今では前王朝の古老たちは宣和と 政和の時代を思い空しく涕する。(宋のはでやかさは 宣・政の間が最も甚しかった)。 都を漢の高祖の故郷である豊沛に比すものにしようと、 遠方の民力が衰えるのも考えず、徽宗の趣味で集めた 花石樹を積んだ船が日に壱千艘も城門に入った。 |
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この複製版巻物に載せられた跋について 清明上河図は長い歴史の中で個人や王族の所有を経て居り、その間所有した多くの人が跋を残しています。 最も古いものは金人、 張著によるものですが、 この複製品では絵の上にある跋は明の時代の李東陽と言う人のものを元に作成したと思われ、巻末の跋は 張著ではなく、少しあとの酈権(1,196年、金人か)と言う人のものを使っているようです。 以下はすべての跋の元になった張著の跋です(原文は句読点なし) 翰林張擇端、字正道、東武人也、幼讀書、遊學於京師、後習繪事、本工界畫、尤嗜於舟車、市橋郭徑、別成家數也 、按向氏評論圖畫記云、西湖爭標圖、清明上河圖、選入神品、藏者宜寶之、大定丙午清明午一日、燕山張著跋。 |