「ただいまー」誰もいない、明かりもついてない部屋に帰り靴を脱ぐ。
お風呂をわかして、ご飯を作って。
もう何度も繰り返した習慣だ。お風呂に入って、大きく手を伸ばす。
このときほどお風呂の大きな部屋を選んだことに喜びを感じる瞬間はない。「今日も一日お疲れさま」
自分で自分をねぎらうと、たっぷりのお湯を味わうように鼻まで
お湯につかる。
ぼんやりと今日の出来事、明日のことを考える瞬間だ。わたしは今日のこみっくパーティでのことを思い返していた。
そう、あれはいつものように彼のところに同人誌を取りに行ったときのこと。「ちわー いつもすみません」
そう、笑顔で彼に話しかける。
もう何度目かのやりとりですっかり顔なじみだ。
こういう仕事をしてるうちに営業スマイルが染みついてしまったけど、
彼に見せる笑顔は違うって、そう思う。「あ、はい、これが今回の新刊です」
彼がいつものように本を手渡してくれる。。
なるべく彼に会えるようなタイミングで取りに行くことにしているけど
毎回会えるとは限らないから、今日はついているみたい。「はい、確かに。それじゃ、これがお代で、あとこれを…」
差し出したのは、本の代金の入った、依頼主から預かった封筒。
いつもはこれだけなんだけど、今日はちょっと違う。
封筒とラッピングした包みに入れたクッキー。
案の定、彼がびっくりしてる。「あ、あの、この包みは?」
「さあ? わたしにも守秘義務ってもんがありますから」
そう、わたしという依頼主への「守秘義務」が。
わたしはそういうとそそくさとその場をあとにした。
怪訝そうな彼を残して。包みの中身は、前の晩ちょっと、いやかなり夜更かしして焼いたクッキー。
こんなことしたのは片手の半分以下で足りてしまうくらいだから、
手つきはおぼつかないし、出来上がりもそれなりだと思う。
誰からかもわからないようなクッキーだから、もしかしたらそのまま
ゴミ箱にポイッと捨てられちゃうかも知れない。
ひとしきり仕事をしてから、自販機でジュースを買って休憩していると、
不意に話しかけられた。「ボンジュール ミス鈴鹿、休憩かね?」
「あ、大志さん。どうも」
話しかけてきたのは、大志君と言う「こみパ」でも有名な男の子。
彼の友達で、よく店番していたりする。「手作りクッキーとはまた粋なことですな」
「え? な、なんのこと?」
「ごまかしたってダメですよ。さっき和樹に渡してたあれが、ミス鈴鹿の
お手製と言うことくらいすぐにわかります」「ちょっと露骨だったかな? ばれないと思ったんだけど」
苦笑しながらそう答えた。
これじゃさっきのあたしは単なる道化だ。「いや、同志和樹は未だに首をひねってますよ。あいつ、ああ言うところは
鈍感ですから」「そ、そう? あはははは」
笑ってごまかしにかかる。
うれしいような、ちょっぴり残念なようなそんな気分。「ミス鈴鹿。本気ですか?」
「え? ほ、本気って?」
「ええ、あのクッキーが、得意客に単なる気まぐれであげたサービス、なら
問題はないんですがね」「あ、いや、その、ちょっとは本気…なんだけどね」
そう言っては見たものの、ちょっとくらいの本気じゃ夜更けまで似合わない
クッキーを作ったりしない。「ふう……」
意味ありげに溜息をつく大志君。
しばらく言葉をため込んでからおもむろに口を開いた。
「ライバルは強力ですよ。ミス鈴鹿」
「らい、ばる? え?」
「ミス鈴鹿のライバルは、南女史だ。どれほど強敵かは言わなくてもわかりますね?」
「み、南さんが!?」
「ええ、まだ南女史も弟、そう、弟以上の感情を持っていないようだが…
間違いない。きっと近いうちにそれ以上の感情を持つことになる。
もとより和樹が南女史にひかれているのは明白。ならばどうなるか、
想像は容易です」「う・・・」
そう、彼が南さんと仲がいいことは知っている。
こみパの会場で彼と南さんが話しているのをよく見かけるし、
準備会の事務所でも最近頻繁に彼を見かけるようになった。でもそれは運営サイドの責任者と参加者の間のやりとりだと思っていた。
いや、思いこもうとしていた。
思いこむことで、不安をうち消そうとしていた。それだけ彼と南さんは仲が良さそうに見えた。
もしかしたら… そんな予感は、大志さんに言われるまでもなく、あった。「まいったなあ。 よりによって南さんとはねえ」
鼻の頭をポリポリとかきながら、精一杯の笑みを、
端から見たらきっと苦笑いにしか見えないような、そんな顔をして
わたしは天井を見上げた。
まるで初めて聞いたかのように。
いままでまるで気づいてなかったかのように。
どのくらいそうしてただろうか?
自分の中でかなりの時間が過ぎ去った後、大志君の声が聞こえた。「おっと、もうこんな時間だ。それでは失礼しますよ。ミス鈴鹿」
「あ、うん …大志さん。ありがと」
わたしは上を見上げたまま、そう答えた。
「あ、そうそう、ミス鈴鹿。 和樹のヤツ、貴方のクッキーを目を
白黒させながら全部食べてましたよ」「え?」
「それじゃ」
……
そっか、食べてくれたんだ。全部。
目を白黒させてたって言うことは、あまり美味しくなかったんだろうな。
そんなモノを、捨てちゃってもいいようなモノを全部食べてくれたんだ。
「さ、仕事仕事!」
わたしは立ち上がると伸びをしながらそうつぶやいた。
なんだかココロが、暖かかった。
”よし、次はもっとうまく作ろう”そう思った。
「ちは〜 まごころ運ぶペンギン便。お届けにあがりました!」
fin990717
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拙作をお読みいただき、ありがとうございました。
このお話は、こみパに出てくる運送屋さん、鈴鹿さんのお話です。
本来の設定では、あのクッキーは鈴鹿さんの焼いたものではないのですが、
あのイベント(?)を初めてみたときの印象をそのまま素直にふくらませてみました。
鈴鹿さんは南さんシナリオの最後のほうに見せ場があるだけの
端キャラなんですが、その見せ場が格好よくって惚れ込んじゃいました。
ネット上を見回しても、あまり鈴鹿さんのお話は見かけないですね。
イベントでも、1冊見つけただけです。
このお話が、彼女の魅力を伝える手助けになれば…と思います。なお、このお話は奈落掲示板、およびリーフ図書館のSS書き込み掲示板に
投稿したものを再録したものです。20000125 再録