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はるのさくら

 
 

「おー、よぉー。椎那ちゃん、こっちだこっちー」

向こうから 坂の上のおじさんの声がします


「しい姉ちゃん、あっちだってよ」

隣にいるケンタさんが 声のした方向を指差します


「おまたせしましたー」

わたしも声のした方向 みんなの待っている場所に向かって手を振ります




今日は 年に一度のお花見の日

毎年こうして 近所の方々と桜を見に来るのです


お弁当持ってお酒を持って みんなで楽しく宴会をする日

年に一度の おきまりです


マスターや坂の上のおじさん達は 朝からここで場所取り

わたしの作るごちそうの詰まったお重を 今か今かと待っていたみたいです




「遅くなってすみません。はい、特製のお重です」

何段にも重なった重箱を みんなの前に広げます


「へーよ。追加のお酒」

ケンタさんは みんなに追加のお酒を配っています


待ってました とばかりに伸びるお箸

どうやらわたしのお料理は みんなのお気に召したみたいです




「あー、ケン坊はここな」

坂の上のおじさんが 自分と裏のおばあちゃんの間を指差しました


「あ、ずりい。しい姉ちゃんの隣取る気だな」

「いーからよ、年寄りの言うことは聞くもんだ」


むくれるケンタさん 笑うおじさん

わたしの隣でマスターが 苦笑いしています




ケンタさんの 蝦夷の国でのお話に花が咲き

おじさんが 得意の浪曲を謡います


マスターとわたしの お決まりの漫才

裏のおばあちゃんが 舞を舞います


いつの間にか マスターとおじさんは二人揃って寝ていました

おばあちゃんが そんな二人にタオルケットをかけています




わたしは 大きな桜の樹の下に立っていました

桜の咲くこの丘の上で 一本だけ花を付けていない桜の樹です


「しい姉ちゃん、どうしたよ」

ケンタさんが 隣にやってきました


「今年も咲かないんだなぁって、思って」

わたしはそう 答えます




この桜が最後に咲いたのは 一体いつなのか

もう誰にも わからないんだそうです


古い書物には 「何十年かに一度花を付ける」と書かれています

それはとても見事な桜なのだそうです 言葉では言い表せないほど


でも その何十年が一体何年なのか

今ではもう 誰にもわかりません




「咲いたとこ、いっぺん見てみてえな」

ケンタさんが わたしの思ったとおりのことをつぶやきました


「そうですね。いつか見れるでしょうか?」

ケンタさんのつぶやきに そう返します


「見れるよ。忘れた頃にきっと」

なんとなくだけどな とケンタさんは笑って言いました




「よーぉ、けーるぞー」

向こうから おじさんの声がしました


どのくらい この桜の前にいたのでしょう

おじさんもマスターも いつの間にか目を覚ましていました


片づけも済んで もう帰るだけみたいです

ケンタさんと二人 急いでみんなのところへ戻りました




「あの桜かぁ、生きてるうちに咲いてるとこを拝みてえーな」

おじさんが あごに手をやりながらそう言いました


「そうだなぁ」

マスターもおばあちゃんも うんうんと頷いています


「咲いたらよ。あの真下の特等席で花見な」

ケンタさんが笑いました みんなもつられて笑います




桜色に染まる 丘の上

ぽっかりと空いた穴の中に立つ 花のない桜の樹


「いつかこの桜の樹が花を付けたら この下でお花見しましょう」

そんなわたしの言葉が 舞い散る桜の花びらに乗って流れていきました


fin20010926

 


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