flourishのホームページ
オンライン・栄光のバブル展
【愚者は己の経験から学び、賢者は歴史から学ぶ】
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このページでは、1990年過ぎに一応の崩壊を見た(経済学的には1986年月〜1991年01月とも言われる)第二次世界大戦後日本産業資本主義バブル現象が生み出した数々の現象とその分析を書き記して行きます。
なお、このページでは下位項目は「あいうえお」順に並べていきます。

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何故こんなページを書き記すのか?


そもそも本ホームページ提供者はバブルに全く無関係の超地味な商売なもので、およそその恩恵なんてものはありませんでした。結婚適齢期に顕著なバブルに突入した事もあって貧乏人は相手にもされず結婚が大幅に遅れるわ、ようやっと手に入れた自宅はまだバブルの影響で高値掴みさせられるわで、いいことは何もありませんでした。おまけに、バブルが潰れて不況が長期深刻化すると、長期低位安定の給料を見て、

「潰れなくていいなぁ、給料が高くていいなぁ」

と周囲はさもしい目を向ける始末。年賀状に失礼窮まりない暴言を記したガソリンスタンド経営の御曹司の知人までいました。 やっとこさ結婚した相手は、元々は手堅く育てられた人ながら、やはりバブル的風潮に踊って”楽しく”月日を過ごした後、宴から目が醒めたのであり、未だにバブル後遺症に日常生活で悩まされております。
バブルは日本国民の大部分が踊りまくった狂気であり狂喜であり、その影響は凶器となって日本民族子々孫々を末長く苦しめる事になります。バブルによって利を得た米国は凶暴化し、その暴力が多くの国民を苦しめると言う始末にも至りました。さりながら、バブルについては、それを起こし、それによって利を得た人々は口を噤(つぐ)み続けています。このままではバブル後にどのように対処するべきかも判然とせず、また再びバブルを起こさないようにするにはどうしたら良いのかも不明なままに終わってしまうでしょう。明らかに、バブルについての冷静な記録は多ければ多い程良いのです。そして、バブルによって心理的にも経済的にも傷つけられた小生は、バブルについての理解を深める事を願っています。
以上のような事から、本ホームページ提供者は、バブルに関する記録と分析を、断片的ではあっても提供しようと考えるに至ったのです。

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定義と概論

バブルとは何か? 商品経済においては、商品の交換価値は均衡状態においては投入された労働時間に比例すると期待されます。だが、均衡状態なんて滅多に実現しないのが世の常。となると、ワケワカのあられもない願望や期待によって特定商品の交換価値が極端に上がると言う事が簡単に起こり得ます。このような特定財の極端な交換価値上昇を取り敢えずバブルと呼んで起きましょう。
歴史上最初のバブルは、オランダに起こったチューリップバブルであり、それは1635年から1637年の間だったと言われています。既にオスマントルコからチューリップの原種が齎され、球根が高根で交換されるようになりつつありました。特に、今日においては殆ど見られないウィルスに犯された事によって生じた放埒な花弁の模様の球根が好まれていました。だが、1635年秋からは手形によって、つまり現物のチューリップの球根ではなく、生産が予想される球根に対して売買が行われるようになったのです。勿論、売買は球根が取れる時期以外にも通年行われるようになりました。時あたかも、オランダは遠洋航海による貿易の成果を独占し、繁栄を極めていました。球根一つで畑一つと同じ値段なんて時もあったようです。勿論こんな事は長くは続かず、チューリップバブルは崩壊し、やがてオランダは制海権をイギリスに奪われて衰退します。チューリップに投資されたお金がもしオランダの軍事力に投入されていたらば、オランダの繁栄はもっと長く続いたでしょう。
即ち、バブルとは「ある領域での貧困と別の領域での極端な過剰」を特徴とするものです。過剰とは、特定財の交換価値が急激に増大する事をも含みつつ、当該財関連の財の増大を齎す事を意味します。特定の財の交換価値が急激に増大する事は、単純に当該財の値上がりに過ぎません。そうではなく、生産力がそれなりに十分な事を前提として、当該財に関する過剰が生じなければ、バブルとは言えないのです。バブルと言う概念を殊更に立てるならば、不足による値上がりではなく、誤った認識による更なる高根及び過剰への期待による過剰と高根の高進、こそがバブルの中心的概念でなければなりません。特定の財及び関連財の生産の増大と人々の期待感が併せて再生産される事、がバブルなのです。
※ よって、バブル的に生産される財は、その貨幣価値と総量の積和が増大すると期待されます。対して、単なる値上がりでは、財の総量はさして増大しませんから、その積和の増大は、少なくとも顕著なものではありません。
以上のように、本ホームページにおける「バブル」概念は、経済体制が資本主義であろうが封建主義であろうが、関係はありません。世界商業帝国だった時代のオランダにおける商品経済の浸透度は今日のオランダよりも遙かに低かったであろうことは間違いありますまいが、バブルを起こしたのは古のオランダでした。また、イースター島の悲劇は、愚にもつかない石像建設と部族抗争に明け暮れた事での島民全員の事実上の破滅でしたが、バブル的生産以外の何物でもないと思われます。これは、原始共産社会において発生したバブル生産現象でした。とは言え、商品経済の浸透が甚だしい場合には、生産の偏りはより容易に起こるのは確かではあります。
だが、他方、生産の根源である人間の労働時間や自然財は所詮は有限ですから、ある領域での財及びその関連財の生産が過剰になる事は、別の領域での財の生産がおぼつかなくなる事に至ります。これが、バブルによる貧困の必然です。これらの一連の現象を「バブル的生産」と呼びましょう。
なお、過剰に投資が行われる領域ではしばしば、当該領域を占有している人々が無能化する現象が指摘できます。これによって、過剰投資が行われた領域が強化されるどころか、却って生産能力が低下する現象が見られるのです。
かかるバブル的生産様式に対する概念は、「真の内需充実」です。決して”内需拡大”ではありません。これは端的に言えば「天然自然と人間そのもの及び公共に投資する事」です。即ち、本ホームページ提供者は、経済の根源は生産力であり、生産力の根源は天然自然はさて置いて、人間の労働の価値であるとする古典的見解に賛同します。
例えば、江戸時代の後期は基本的に「天然自然」への投資が続いた時代と言えます。戦国時代及び元禄年間迄の水田開発ブームによって荒れ果てた山河は植林や伐採禁止、更には田ん圃を中心とする栄養物質の循環過程の成立によって緑を増やしていきました。荒れた武蔵野原も江戸に流れ込んだ栄養物を循環させる事で、相当豊潤な畑作と雑木林の一帯に生まれ変わったとされます。
「人間への投資」や「公共への投資」がどのようなものかは、より複雑のように見えますが、やはり明瞭に認識し得るものでしょう。基礎になるのは、WHOの健康の概念でしょう。人は当然健康でなければなりません。Well-Beingでなければなりません。加えて論理的な思考力、冷静な判断力が備わって心身共に健康な人、が多数生み出される事、が人間への投資です。勿論、その一端として、先天的な障害を持つ人が生まれるのを恐れる必要のない社会とか、老人を含めた全ての人が動きやすい町や村づくり等があるのは言うまでもありません。知識や情報が簡単に利用できる社会、公共交通機関が楽に利用できる社会、誰もが十分に医療を受けられる社会、そもそも心身の健康が常に維持されるような整備された町や村や食料の流通システム、簡便で有益なスペック、良質な法律等等…。
かかる人や世の中が、次のステップとしてどれほどのパワーを発揮し、それによって更に日本ばかりか実質的に世界を発展させ、世界の生産力を持続的かつ安定的に増大させるか、想像するのは楽しいものです。
同時に、かかる”内需充実”は、真の”次の生産”を準備するものである事に強く着目するべきです。
さて、以上の定義からすれば、我が国のバブルは実に1973年10月17日にOPECが公示価格を21%引き上げた石油ショックにその起源を発する、と言わなければなりません。この時期迄の日本は、とにかく生活に必要な物資が全般的に不足と言う状態が続いていました。この不足を石油等の地下資源によって”取り敢えず”充当していったのが高度経済成長期でした。然るに、石油ショック後、日本経済は内需充実には向かわず、米国への輸出を加速し、冷戦とベトナム戦争等によって紙くず化しつつあった$を急激に吸い込まさせられるようになりました。$が溜まりまくった10年以上の助走期間の間に、ある領域では貧困が、別の領域では過剰がありました。
労働の成果は、労働分配率が上昇しなかった事から分かるように、基本的に地主、経営陣及び株主、そして国家及び地方公共団体に手厚く分配されました。だが、それら手厚く分配された成果は、土建公共事業等を筆頭として次々と浪費されました。この浪費の一部が、バブル期の華やかな浪費となっただけの事であり、再投資には日本全体として失敗を続けてきたのです。
だが、かような浪費によっても(偏ったが故に一部において過剰になった)労働の成果の”過剰”は解消できませんでした。しかも、アメリカと言う最大のバブルが存在し、これをプラザ合意によって各国に転嫁する事が合意されました。かくして、バブルがスタートします。

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各種の錯誤

バブルは”間違っている生産”の集大成ですから、物質現象たる人間の心理(※観念や思想や行動パターンや社会的習慣や政治的な約束事などなど)にも”間違っている”事が当然蓄積されて行き、それが原因となりまた結果となって、更にバブル的生産が進行します。
権威主義
この項目は、項目配列のアイウエオ順や年代順の規則を無視しても筆頭に持ってくる価値があると思われます。即ち、日本のバブル的生産様式の根本に権威主義が存在し続けていると本Webページ提供者は考えつつあるのです。
権威主義の概念はある意味多様ではあります。だが、その”結果”は甚だしい不生産即ち無駄として産出される点において同じであると言えるでしょう。以下にまずそれらの定義を列挙します。
心理学と社会学の分野では権威主義的パーソナリティがナチスドイツに傾倒したドイツ国民の心理を分析する概念として古くから知られています。これは、心の奥底に常に不安があり、それを解消するために権威にすがる事を言います。権威主義は今日のパーソナリティ理論においては、情緒不安定傾向と勤勉誠実性が過剰に高く、論理的思考の部分的な低下によって特色づけられる事になります。
権威主義のある種の定義は、権威をより所にして科学的合理的議論による事なく相手に一定の見解を押しつける事にあります。
また別の定義では、権威をより所にして自己を正当化する事である、とも言われます。
これらの全ての定義において”権威”と言う摩訶不思議な存在が必要とされます。出来の悪いカミサマだと言っても良いでしょう。自分の不安をなだめ、自分の説を押しつけ、自分を正当化するのは全て権威と言う”お上”なのです。”お上”と通じている事によって権威主義を振り回す人々は合理性を破壊して様々な目先の利益を得る事が出来るのです。彼らは権威の陰に隠れて、あたかも自分が権威の代弁者であるかの如く語ります。彼らは、権威から発せられる命令が有益であると信じなければなりませんし、その命令が有益であるかのように行動しなければなりません。
このように定義づければ、権威主義の破壊的な作用は全く自明であると言えるでしょう。それは、様々な領域において有効性と合理性がない”お上”を作らずにはいられません。有益であったかどうかの判断の代わりに、”お上”の”おことば”が判断基準となり、行動が適切であったかどうかの方針決定にすり代わります。勿論、”お上”を祭り上げ続ける事のコストも大変なものです。
ただし、バブル的生産の根本に全て権威主義があるとは限りません。例えばかのオランダのチューリップバブルにおいては、チューリップが”お上”になったのだ…と言う言い方はトートロジーに過ぎません。オランダの市民において一般的に”権威的な存在”の概念が普遍的に存在していたとしなければこの概念は適用出来ません。だが、カルバン主義に基づいて行動し躍進しつつあった当時のオランダ人は基本的に反権威主義的だったとむしろ言うべきでしょう。彼らは、キリストに近づく事が正しい宗教であると信じており、キリストの権威をア・プリオリに信じていた訳ではなかっただろうからです。
さて、日本において圧倒的に権威の源であり続けているのは、まずアメリカ合衆国であり、次に日本国政府そのものでした。これに、大規模な企業とその幹部、企業経営者、医師と言うあたりが続きます。この階層構造はかなり複雑です。
アメリカかぶれ(ヒロシマ・ナガサキ60年03月01日初出)
殺伐たるアメリカ社会の物真似が、以下に記す不平等等を放置する観念を助長した極めて重要な要因でありましょう。勿論、このアメリカ気触れは、アメリカ発のバブルを受け入れさせる素地をも作りました。
高度経済成長の幻影
バブルは、明らかに高度経済成長の”幻影”でした。高度経済成長を当然視し、必然視する観点から、バブルは許容され、推進されたのです。第二次世界大戦後の日本は高度経済成長で特徴づけられる、と人々は信じきっています。これらの人々は、日本の高度経済成長は1950年頃から1980年代終了までの40年近くに亘って継続したと信じています。
だが、これは甚だしいウソです。まず、池田勇人総理大臣によって「国民所得倍増計画」が打ち出されるのは、実に1960年7月です。この年の2月に、東証ダウは1000円台を回復したとの記録がありますが、これ以降ようやっと株価は一本調子で上昇を開始し始めるのです。皇太子成婚によってテレビが大きく注目されて売り上げが伸び始めたのが、1959年であり、消費が拡大し始めた時期はこれに一致します。
そして、高度経済成長が事実上終了したのが、1970年代のどこか、になりますが、やはり1973年の10月の石油ショックとするべきでしょう。少なくとも、その時点で高度経済成長が可能な存立基盤が大きく揺らいだ事が認識されるべきでした。事実、翌1974年、戦後初めてのGNP成長率マイナスが記録されました。また、1975年4月、ベトナム戦争においてサイゴン(現在のホーチミン市)が陥落、ベトナム戦争は終了しました。これによって、米国と言う気前の良い輸入市場は事実上消滅したのです。これまた高度経済成長の要因は消えたと認識されるべきでした。
となると、高度経済成長はタカが十数年だけ続いた現象に過ぎなかった、と本ホームページ提供者は主張します。甘く見ても、1950年代の後半から20年程度と言う事になるでしょう。よって、1970年代半ばから1990年過ぎ迄の十数年間の間に齎されたとする”上昇”は基本的に全てバブルである、と本ホームページ提供者は考えます。
だが、2003年の今に至るも、人々の観念は高度経済成長時代の産物に縛られ続けているのです。
※ それくらいならまだしも、ある経済関連の本で筆者は高度経済成長が20年以上続き…と平然と述べているのです。ここまで頭が縛られてしまうと、どうにもなりませんね。
※ 2003年冬の現在、日本企業の株価は下落の一途を辿っています。この年の夏から2004年夏迄の一時的な上昇は、一部のマスコミが報じるように、総選挙で与党が勝利するために損失の発生を承知で税金や年金資金が豊富に使われた結果であったのはほぼ間違いないようです。以上の論からすれば、TOPIXを基準とした株の大底は1970年前半の水準になるでしょう。それ以上の下落は、日本が”開発途上国”に完全に転落する事を意味するのであり、もしそこを突破して下落するのであれば、後は”底なし”になります。その可能性はどんどん高まっていますが…。なお、1973年のTOPIXは丁度400と言うところでした。2002年夏の水準の半分以下です。
この愚かな誤解の最大の原因は、第二次世界大戦によって日本の工業生産力が事実上壊滅した所から戦後がスタートしたと言う所でしょう。日本の高度経済成長に批判的な経済学者がしばしば指摘するように、”ゼロからスタートすれば、成長率が驚異的になるのは当然”であります。誤った観念に縛られている人々の頭の中では、戦後の混乱期が終わり、朝鮮戦争が始まったあたりから、バブルが終了した頃までの事がカウントされているのです。
金神
Carl Marxの物神概念はつとに著名ですが、今日の一般的な観念からすると些か唐突に見えます。と言うのは、凡ゆるモノとサービスが商品化された現在、人々は農民と雖も商品を消費せずには一日も暮らすことができないのであり、殊更に商品の”輝き”を意識する事はないからです。他方、Marxの時代には、人々は”共同体の中で作られたもの”にまだまだ囲まれていました(※例えば、母親が子供に作ってあげた手袋、とか隣近所に分けて上げた家庭菜園の胡瓜は、商品ではありません。また、本ホームページは無償であり、これも商品ではありません。)。
しかし、高度資本主義社会の現在においても、商品の一種に過ぎないMoneyの輝きは一向に褪せないどころか、寧ろより強く怪しい光を放っているように思えます。人々は「全てと交換が可能な権力である所の商品であるMoney」に向かって止みません。この傾向は必然的にMoneyに対する相対的な見方を消し去り、Moneyを全能の神へと押し上げます。”金神”の登場です。
問題はここからです。金神への篤い信仰の結果、人々は余りにも単純に「お金を市場に豊富に出回らせれば不況は解消する」とか「地域にカネを散蒔けば地域振興になる」と信じるのです。
金神概念の根本的な問題は、それが「実質的に有益な材の蓄積と同じように、それどころかそれ以上に蓄積される」と言う点にあります。何しろ神様なのですから、あればある程良い(※多神教の場合ですね。一神教の場合は、大抵の場合、多神教の宗教での”沢山の神様”の代わりに、多数の天使や聖人が同じ役割を果たします。)。吝嗇と言うのは、かかる敬虔な宗教行動なのであります。
だが、あればある程良いと言うのは、使用価値を持つ材の場合に限られるのです。例えば、工業の基礎材であるボルトやナットの類。必要なスペックの物がきちんと引き出せるならば、まぁ多少多めに作っておいてもそれはそれで有益です。食品のように速やかに駄目になるものでない限り、使用価値を持つ、本来の意味での材は多少余分にあっても困る事はないどころか、寧ろ有益です。だが、金神は、一見すると幾らでも蓄積できるように見えます。ボルトやナットは蓄積し過ぎると倉庫を持つだけでえらく大変です。ところが、貯金通帳は幾らためても、一見すると何の問題もないように見えます。実際、この問題は大方の金持ちではない人々にとっては結局の所問題にはなりません。何しろ必要な支出が多いのですから。大方の人々は”必要の共和国”なのであり、やれ食料だ、服だ、子供の教育費だ、家のローンだ、と言うあちこちの”必要”の声を満遍なく聞いて、バランス良く支出していかなければなりません。
だが、問題は金持ちや国家や大企業と言ったレベルでの行動の場合です。これらの経済主体が吝嗇に走る、即ち金神様を敬ってどんどん増やした場合、カネとモノの交換の連鎖が回らなくなってしまいます。何しろ所詮は人間、”必要の共和国”はそう大した量ではありません。必要の共和国を十分に満たしたらば、後は”強欲の帝国”だけしか残りません。名目的な財の大きさを増やすゲームに没頭するしかなくなるのです。これでは経済は回りません。また、自分たちだけが金神様を増やそうとするのですから、貧乏人には金神様が回らなくなってしまいます。
ところで、近代経済学と称する体系においては”需要”と言う用語は自動的に”価格によって消費量が変動するもの”と言う意味合いを帯びるようです。だが、圧倒的に多くの人々にとって、消費は基本的に”必要の共和国”の原理によって行われているものです。お米を買う時に高いお米を買うか、安いので我慢するか、はその部分においては”需要”です。だが、お米を買うと言う点では変わりがありません。お米を消費する事で栄養を賄うように食器も、日常生活のサイクルも、全てが組み立てられています。”必要の共和国”は、かかる「個人毎の生活の組み立て」によって生じます。
そこで、内需拡大と言う場合には、どうやら近代経済学とか言う体系が頭に入った人々が単純に金額の増大をイメージするのは当然になります。だが、本ホームページは、「個人、社会及び自然そのものの使用価値を高めること」をもって”内需充実”と称しています。それは、定義から明らかに”必要の共和国”の拡大であるのです。
永遠の”モノ”(ヒロシマ・ナガサキ60年06月22日初出)
役に立たないモノを蓄積し続けると言う点で、日本人のかなり多数は同じ事をやっています。日本人は、モノを勿体ながります。適当に使ってしまって構わないとか、徹底的に使いつぶす、と言う使い方ができないのが日本人なのです。
例えば、使いもしない洋服やコレクション等があちこちで大量に作られたり、ちょこちょこ使うに過ぎない建物が非常に頑丈だったり美麗だったりします。クルマもちょこちょこしか使わないのに、とても綺麗にしているし、装備も立派です。移動距離あたりトータルコストとして幾らかかっているのか、きちんと計算している人がどれほどいるんでしょうか?
これは恥ずかしながら小生のかみさんも全く同じです。彼女は、自分と子供の洋服を大量に買い込み、出し惜しみしてロクに使わず、今や体に合わなかったりしても後生大事に溜め込み、別段広大でもない自宅を窒息させています。それらを散々蓄積した挙げ句、フリーマーケットに売りに出そうとします。だが、勿論それらの大抵は売れません。金銭的な面でも一回あたり上手く行って2、3千円程度にしかなりません。純然たる金額に換算したらば、これらの使えないモノの保管料は莫大なものになっているでしょう。そんな事をするよりも、気に入った服だけを短期間で徹底的に使ってしまった方が遙かに人生が楽しい事でしょう。
そう言えば、毎年季節になると背広を新調する人がごく希にいるようです。お金持ち…と思うべきではないのかも知れません。と言うのは、毎日その背広を着ていくならば、まぁその季節だけで潰れてしまうでしょうから。クリーニング→保管の手間暇と保管によって潰れる家の面積を考えてみましょう。東京のやや郊外のマンションが70平方mで4000万円程度としましょう。鉄筋コンクリートの建物は60年程度が寿命なので修繕費&管理費が毎月2万円とすると、1440万円となります。また、固定資産税と都市計画税もかかるので、これらを年間平均10万円としましょう(古くなると資産評価が下がるので、税が安くなる)。合計6040万円であり、これを60年で割ると、年間ざっと100万円が70平方mを”場所”として確保するための最低限のコストとなります。勿論この他に電気代程度がなければ場所としても機能しないのですが、取り敢えず計算から除いて置きます。これは、毎月1200円を1平方mにかけていると言う事を意味します。よって、服やら雑具やらに1平方m余分に面積を取っていて、この生活習慣が60年間改まらない場合、実に86万4千円が”失われる”事になるのです。勿論、この面積を他のもっと有効な事に使った場合の機会費用は幾らになるのか、一概に計算する事さえ出来ません。
この事に関して言えば、「大和とは何か?」と言う本も一つの参考になるかも知れません。この書によれば、旧日本海軍は折角建造した大和・武蔵を出し惜しみし続け、有効に戦闘に利用できませんでした。大和は、小形空母一隻を撃沈しただけで沖縄の海に沈みました。同形艦武蔵に至ってはもっと酷く、文字どおりなんの戦果も挙げる事が出来ないままフィリピン・レイテ湾沖に沈みました。兵器は二つの意味で消耗品です。第1は、戦争そのものが現代戦争においては物資消耗戦であると言う事、より重要な第2の点は、技術の急速な発展が常にあるが故に陳腐化が著しいと言うものです。戦っても、戦わなくても兵器はどんどん”消耗”するのです。であれば、徹底的に使いきった方が勝ちに決まっています。それは、戦艦と言う極めて高価なモノであっても同じなのです。特に、大和は完成した瞬間にもう時代遅れの兵器となっていました。徹底的に使う、例えば陸上部隊を攻撃する、空母を護衛する、と言うような方法で使い潰すしか無かった筈でした。
同様の事は、パソコンフリークにも見られます。”完璧なパソコン”を組み上げようと言う衝動をパソコンフリークの間に認めるのは実に容易です。所詮は技術的な進歩があってネットワークの一部としてどんどん交換していくパーツに過ぎないパソコンやその構成部品にある一点の時点での完璧を求めようとする傾向は広く見られるものです。問題は、その”完璧”がどれほど長く使えるものなのかと言う事なのですが。
以上のような行動様式が無駄な投資を生み続けているのは言うまでもありません。どうも、日本人には”永遠なるモノ”の観念があるのかも知れません。と言うよりも、”モノは神様”なのです。

何でもカネで買える(西暦2005年07月04日初出)
本Web頁で扱っている日本資本主義バブル現象は、基本的に資本主義の上に立脚した現象です。と言う事は、あらゆる財貨が全て金銭と交換可能な世界において成立した現象でした。よって、凡ゆる財貨やサービスが金で買えると言う状態及びその信念が成立している事は、このバブル現象の成立の前提要件であります。
このような風潮の強さについては余りにも多くの証拠を挙げる事が出来ます。人は、何かの存在を見ると、反射的にそれが売れるものか・買えるものかどうかを考える所まで来ているように見えます。かような自動思考は、認知行動療法においては治療の対象なんですが。
かかる自動思考の反映で、国家や自治体でさえ、気に入らなければ別の何かと取り替えられると人々は考えているようです。勿論、妻や夫や子供も。どうもそれを前提として人々が行動しているとしか考えられないような事が多々見られる事です。これは、経済学の用語を用いれば、代替財が極めて多様で豊富になっている事を前提とした行動だと言えます。実は、代替財なんてなく、あるものを改良するしかない場合が非常に多いのですが。公共と言うのは、そういう事なのであります。
ちなみに、議会制民主主義と言うのは代替財が豊富にある事を前提とした、つまり様々な政策が多く揃っている事を前提とした制度であると言えます。だが、この選択肢を提出しようと言う人々の集団は非常に単調化されて行ったのが高度経済成長後の趨性でもありました。そして人々は、選択肢がない以上そもそも”買い物”をしないと言う行動に出たのです。あたかも、品揃えの悪いスーパーマーケットには行かないように。かくして、投票率は大幅に低下をする事となります。商品の無意味な種類の豊富さに比べて、何たる悲惨な貧困でありましょうか。

不平等に対する鈍感
”勤勉”と言う事さえ、ある意味では非常にエゴイスティックなものです。何しろ、周囲の人が何も変化しなくても、自分だけが只管働いてお金を得れば、それで自分は幸せになれると言うのですから。
最も傲慢な人々は、「どんな手段であれ、自分だけが金持ちであれば良い」と本気で考えています。
もうほんの少しだけ謙虚な人々は、単に賭博に勝ったに過ぎない事をころりと忘れて「自分は高い価値のある仕事をしたのだから、他人の何百倍もの収入を得る権利がある」と考えています。
更にもう少々謙虚な人々が、自分の勤勉に対して社会が報いてくれる事を期待します。
更に謙虚な人々は、単に自分が会社や商売で勤勉に働くだけではなく、公共世界そのものにきちんと投資する活動をしなければ、世の中はもたない、と理解し、そのように活動します。
最も謙虚な人々は、自分たちが地球と言う天然自然の塊の一部にしか過ぎないのであり、自分たちの活動そのものが地球と言う生命の流れに寄与するものでなければ、生存を許されない、と信じています。
なお、この不平等概念は、金神に強く裏打ちされている事に注目しましょう。これが何百年前とか何千年前とかでしたらば、”共同体の中で自分だけが特権的な地位を占める事(※勿論、このような階級分化をCarl Marxは既にして別共同体になった事だと指摘するのですが)”が目標となったかも知れません。
不平等と言う事は、実は資本主義経済にとって致命的なダメージであると言う事に強く注目する必要があります。と言うのは、所得のレベルであれ資産のレベルであれ、一般的に富者は消費性向が低いからです。”必要の共和国”を満たしたらば、後は”強欲の帝国”しか残っていないのです。”強欲の帝国”においては必要を満たし、人を強く賢く優しくするための健康な消費は行われません。更にカネを増やすための行動か、所謂奢侈消費だけが行われるのです。
さて、この不平等に対する鈍感と言うのはどこから来るのでしょうか?そもそも日本社会について、ある人々は民主主義が定着していない、民族主義が定着していない等と主張し、かような大きな集団の中での平等観念がないのだ、と主張しています。これは、かなり正鵠を得た主張のように思えます。別の言葉で言えば、日本は様々な利権集団やら職能集団やら学閥やら地域閥やらに分断された”蛸壺社会”なのだとも言えます。これを別の言葉で言えば、本ページにも記しているように”小集団主義”であるのだとも言えます。そこには”大集団”であるところの公共は存在せず、ただ、自分たちが認識できる利益集団が存在するだけなのです。

総需要に対する無配慮―または”消費”と”生産”の概念の解離について
自由経済を口実にした総需要喚起に対する無配慮は、広く見られる現象です。”需要”とは、次の生産への投資に過ぎません。人や社会、自然そのものは、次の生産活動のために再投資が必要です。再投資が必要なのは、工場や道路等だけではないのです。
さて、この総需要喚起に対する無配慮は、不平等観念から必然的に由来します。何しろ、自分だけが経済成長すれば良いのです。国民皆に投資が行き渡り、国民が皆賢く豊かになったらば、お偉いさんや傲慢な経営者は、特権的な地位を失ってしまうでしょう。かくして、生産は特定の集団が恣意的に行うものとなりました。
この事を別の切り口から論じてみましょう。それは、”消費”と”生産”を対立的に把握する一部の経済学者(※モドキと言いたいですが…)のウソを見抜く事です。Carl Marxは消費を奢侈消費と一般的な消費に大別しました。前者が今日一般的に用いられる”消費”の用語に等しい概念です。後者は、先に記したような生産の一過程です。働く人間を教育し、体力を回復するばかりか向上させ、判断力を増大させ、相互の関係性を密接にして社会を豊かにする事…。これこそが、本質的な意味での生産の一過程であるのは明らかです。消費と称されている事は、実はその多くが生産なのです。
勿論、同様の用語法によってエコロジーを論ずる事が出来ます。生産にとって必要な自然を回復させる事が生産でなくて何でしょうか?
この奢侈消費と一般的な消費の区分は今日忘れ去れています。はっきり言って、金持ちに諂う学者たちがこの区分を必死になって隠したからです。金持ちが行う、次の生産に全く繋がらない奢侈消費をごまかすために、働く人の働く力を生産する事を消費と称したのであり、今日ほとんどの人々がその用語によって洗脳されてしまいました。
役に立たなくてもいい
生産は互助的なものであり、何らかの意味で人は自然や他人等のために役に立ち、それによって他人や自然はまた自分にとって役に立ち…と言うサイクルが成立しなければ世の中は回っていかないのであります。
だが、バブルへの助走期間において、我が国では言うなれば、「役に立たなくて良い」とする観念が広まっていったとしか思えないのです。この観念は、「カネがあればいい」「オイシイ立場にありついていればいい」と言う観念と表裏一体のものでした。「カネがあればいい」「オイシイ立場にあればいい」と観念した瞬間、自動的に「役に立たなくて良い」ことになってしまうからです。本人が口ではどう言おうと、そうなります。
労働懲罰説 対 労働神事説(2004年02月23日初出)
社会学者や宗教学者等が広く認める所では、ユダヤ教等旧約聖書をも聖典とする諸集団においては、労働は苦役であり、エデンの園で神との約束を違えて禁断のリンゴを食べたアダムとイブは”額に汗を流して”労働しなければならないとされるようになった事に由来します。ヒンズー教においても、労働は輪廻の階梯においてブラフマンに未だ十分接近できていないクシャトリア、バイシャや、そもそも階梯を上るべくもないシュードラ階級のものであると言えます。
これに対して、日本の神道においては、労働は神事であるとされ、奨励されます。24時間働く事が正しい神との付き合い方です。
だが、世界中人間は誰もそう大きな差異があるものではありません。24時間働き続けられる労働と言ったらば、その強度は極めて低いものであろう事は、容易に想像がつきます。実際、明治時代以前そして明治以降も大方の日本人の働きぶりと言うのは、実にゆったりしたものだったと言えます。ゆっくり田んぼの草を取り、縄をなう、そんな世界です。武家や商家への奉公人以外は、職住は接近しており、通勤地獄もありませんでした。その代わり、明瞭な休暇は盆暮れ以外にはありませんでした。
だが、この”労働神事説”に基づく世界に、明治以降、そして分けても高度経済成長期以降、密度の高い労働が強要されるようになります。労働神事的な素朴な観念があったところに密度の高い労働が要求されるようになったのですから、たまったものではありません。人々は銭金もうけと組織への隷属以外のあらゆる活動−自らの教養を高めること、地域共同体での仕事、子供の育成、政治への参加、近隣の植物や昆虫を育てる事等等−を失っていきました。これこそが、バブル的生産の根源であったと言えるでしょう。
誤帰属(西暦2005年06月10日初出)
本Web頁提供者の分析の一つの要点は「高度経済成長は概ね1974年に終了している筈なのに、それに対して日本全体が変化をする事が出来なかった」のが生産や投資の歪みになったと言うものです。これは、一応衣食足り、収入も所得倍増計画で目論んでいた水準(以上!)になり、アメリカ軍はベトナムで敗退した事によって気前の良い市場が消滅し、石油ショックがあって本質的に限りない経済成長なぞできないと言う事が明らかになった…と言う所から認識できた筈であるし、するべきだったと言うのが本Web頁提供者の論点です。
高度経済成長期の言うなれば雑駁な生産方法とは異なる方法を取るためには、高度経済成長終了の時点を明瞭に認識する必要があります。だが、そもそも当時の日本人は1974年において本質的に高度経済成長が終了した筈と認識出来ていたんでしょうか?1970年代後半から1980年代前半を扱った文書を見ると、どうもこのような認識がきちんと成立していたとは到底思えない記述に時々突き当たります。
それは例えば「石油ショックの影響が癒えて…」とかと言うものです。単なる台風一過、であり、日本人に良くある安全観に立脚したものです。経済の落ち込みを単なる一過性の災厄としか認識しておらず、本質的な社会の変革を促すものだとは考えていなかったと言う事です。
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バブルへの助走とバブル、あまたの現象
表層的な現象として、こんな事があった、あんな事があった、の記事です。それぞれの項目が何故バブルと関連するのか、の分析をも記します。一応あいうえお順です。
最大のバブル、アメリカ

歴史的に見れば、アメリカと言うバブルから20世紀後半の様々なバブルが始まっています。本来価格が大幅に下落してしかるべき存在だったのが、アメリカと言うバブルであり、日本が自ら生み出したバブルに加えて、世界中に散まかれたのがこれでした。
アメリカでのそもそもの問題の根源は、やはりバブル的生産でした。米国を築いたWASPたちは極めて貪欲です。貪欲は当然ながら生産の歪みを生じさせるものであり、アメリカ合衆国は本質的にバブル的生産に容易に滑り落ちる素質を持っていると言えるでしょう。
とは言え、日本のバブルを直接生産するに関与したアメリカ自身のバブル的生産の系譜は、概ね1950年代後半から指摘されるべきでしょう。生産力の増大を人と天然に投資するよりも、アメリカのエスタブリッシュメントたちはベトナム戦争によってカネを循環させて巨大企業特に軍需企業を潤し、自らの懐を潤す事に賭けたのがそれでした。
かような動きをするエスタブリッシュメントは所謂「軍産複合体」の一翼なのであり、既に1961年1月、アイゼンハワー大統領は8年の任期を終了しようとする時点で「軍産複合体」の存在と、それが米国の自由と民主主義にとって脅威となる事を演説して警告しました。
さて、ベトナムにおいては長年旧宗主国のフランスと、単独統一を目指す北ベトナムとの戦争が続いていたのですが、アイゼンハワーに続く米大統領であったケネディ大統領は、次第にベトナムにのめり込んで行きます。1962年2月には、米軍司令部がサイゴン(現ホーチミン市)に設置され、軍事介入が開始されました。だが、彼は決定的な関与をまだ避けていたと言えます。しかし、1963年11月、ケネディ大統領はダラスで暗殺され、容疑者のリー・ハーベイ・オズワルドも2日後、移送の最中に劇場主ジャック・ルビーに射殺され、事件は迷宮入りになります。当然ながら、軍産複合体による暗殺事件説が消えない事件でした。
ケネディ大統領の残任期を勤めたジョンソン大統領は1964年9月のトンキン湾事件を口実として、ベトナム戦争の泥沼に本格的に突入します。この戦争は実に1973年3月迄継続されました。既にソ連との冷戦が継続していたにも係わらず、それでは彼ら軍産複合体エスタブリッシュメントにとっては不足だったようです。米国は、米国自身の発表によれば、1389億ドルの戦費と6万人(※内直接戦死者は4万6千人)の若者の命を注ぎ込みました。なお、このトンキン湾事件は米国による完全な捏造である事が、今日明らかになっています。
1975年4月、北ベトナム軍が南ベトナムを完全制圧し、ベトナム戦争は終了しました。米国は、軍事をバブル的に生産する事により、支配階級の既得利権を10年に亘って保持・増大させ続けたのです。
なお、朝鮮戦争が終了した時点で更に冷戦を引き延ばし、またベトナム戦争に米国を突入させた勢力は爾後、所謂ネオコンと称される人々となり、2000年代に至って”テロとの戦争”にアメリカを突入させる事となります。2000年代においては国家破綻が戦争を続ける以外に回避できない程に進行していましたが、この原因はそもそもこの冷戦・ベトナム戦争時代に作られたのであり、要するに彼らはマッチ・ポンプをやった訳です。これら、軍産複合体勢力は一貫して米国を過激に軍事的とし、米国の財政を破綻させ続けました。
さて、ベトナム戦争とソ連との冷戦によって米国の社会は著しく荒廃し、米国経済は甚だしく疲弊します。経済面では、1971年5月、ドイツマルク切り上げの噂によってドル売りが殺到、西ドイツ政府は外国為替市場を閉鎖すると言う事件が起きています。1971年8月15日には、$とAuの交換停止と言う歴史的な事件が発生します。これを行ったのは、後にウォーターゲート事件を引き起こして辞任したニクソン大統領でした。米国は恒常的な財政赤字、貿易赤字及び企業の赤字によって膨大な負債をかかえており、Auの保有額以上のドル紙幣を発行しており、$がその価値を維持できなくなったのは経済学の観点からして当然のことでした。
このような変化をアメリカ経済の指標で見ると、1973年〜74年の間、株式市場は実に50%下落し、これは1929年の世界大恐慌の発端となった「暗黒の木曜日」に次ぐものでした。また、この間はインフレ率が年間11%と高く、長期国債も28%下落しました。つまり、アメリカの”富”が全て減少したのでした。
それはさておき、この処置により、$は絶対的な貨幣の地位を滑り落ち、以降、主要な貨幣に対して下落を続けていきます。しかしながら、米国はこれに対して、IMFや世界銀行を通しつつ、極めて狡猾で暴力的な方法により赤字の補填を長年に亘って行い始めます。その一つの完成形は、1985年9月のプラザ合意でした。ここでは単純な$の交換価値の切り下げが合意されたのではありません。欧州及び日本が”内需拡大”をすることが合意されました。これは、これらの国々が役に立たないアメリカの製品とサービスを積極的に購入すると言うことです。”内需充実”ではないことに注意しましょう。なお、このプラザ合意こそが日本国内に円をじゃぶじゃぶ状態にし、バブルを作った直接的なきっかけであった事に注意する必要があります。円高不況を回避するために低金利政策が行われたのですが、そもそも日本が石油ショック後に内需充実路線に向かっていればこのような低金利政策は必要はなかったのです。
また、ヨーロッパやアメリカ諸国もアメリカを中心とした資本主義経済の破綻を防ぐべく行動し、1975年11月には第1回先進国首脳会議がフランスのランブイエで開催されます。
多分、米国が平和的で倫理的なリーダーとなれた最後のチャンスは、ニクソン大統領の残任期をフォード副大統領が引き継ぎ、次に大統領になったカーター大統領の時代だったのでしょう。だが、ベトナム戦争の敗戦(※それはそもそも米国自身が引き起こした愚かな戦いでした。誇り高いベトナム民族は漢民族やましてやロシア人の足元に、そもそもが所跪く筈もなかったのであり、ドミノ理論は不適切でした)にうんざりしていた米国民はカーター大統領を”チキン(※弱虫)”として1981年に退けます。続くレーガン政権(2期)→ブッシュ(父)政権時代は軍事力の拡張と行使により、米$が復活の手掛かりを手にします。プラザ合意のように、付け回しにも成功しました。かろうじて先にコケてくれたソ連と、引き続く1991年のイラクへの大規模戦争での勝利によって、米国ははっきりと軍事力と恫喝によって経済的な利益を手にするルーチン”だけに”頼るようになります。続くクリントン政権は極めて”共和党”的な政策を行い、会計監査方式のごまかしとITによる労働生産性の誇大広告によって日本、独逸及びサウジアラビアから資金を集めまくり、$を更に垂れ流しました。続くブッシュ(子)政権は京都議定書脱退、国内でのあらゆる福祉施策の廃止、アフガニスタン・イラクへの侵略等凡ゆる手段を用いて富裕層の維持を図りにかかっています。
アメリカそのものが超巨大なバブルに過ぎないと言う事は、その莫大な莫大な貿易赤字により端的に示されます。アメリカ最大の輸出品は”$と言う名前の紙屑”なのです。次に来るのが戦争です。$が機軸通貨である事とこの暴力の力によってアメリカは辛うじて”まだ”デフォルトにならずに済んでいます。
より細かく見ると、周知のようにアメリカの企業は長年に亘って全体として借り入れが大きく、赤字です。家計も赤字です。財政も赤字です。これは長年に亘ってアメリカの全ての経済単位に過剰な投資が行われ続けているにも関わらず、一向に黒字に転換していないのです。
昨今、経済単位として天然資源そのものを論ずる必要があるとの観点が強まっています。この観点からしても、アメリカは絶望的に赤字の連続です。石油を含むエネルギーの一人当たりの消耗量は欧州と日本の2倍ですし、二酸化炭素の排出量も群を抜いています。農地の荒廃も進行する一方です。ただ、reservationの対象となっている山地や湿地帯等の破壊は止まっています。
これらの全ての領域での赤字にもかかわらず、アメリカからのアウトプットは、戦争を他国に吹っ掛ける事と、$と言う名前の紙屑だけです。この生産の歪みは、当然のように日本にも波及します。日本は、アメリカ国債を買わされる等により、このツケを払わさせられ続けます。
知性・理性・学術・学歴

学力、知性、科学的態度、理性、抽象的思考能力等の高等教育の成果は、最も甚だしく値切り倒されたものの一つでしょう。それらは、金銭的にも社会的にも全く評価されませんでした。悪い意味で、日本は”実学”のみが尊重され、高度に抽象的であったり一般的であったりする体系は全く尊重されませんでした。だが、労働の密度を上げる方向に社会が変動している以上、ある一定以上の水準での労働の価値を改善するのは、知性や学力等広い意味での知能以外にはあり得ないのです。
だが、大方のホワイトカラーは、これが出来なかったようです。科学的問題解決を行える人々ではなく、よってシステムが変更になったり世の中が変化したりすれば、彼らの経験は忽ち陳腐化しました。
値切り倒しの甚だしさですが、例えば高度な科学的問題解決能力を基礎として保証しているハズの修士や博士の称号は、標準在学年数が企業や官庁での勤務年数と等しい経験年数に換算されたに過ぎませんでした。大学卒でさえ、後述するように実は中学校レベルの暗記能力で評価されていたに過ぎません。必然的に、これらの生産は極端に貧困になりました。
高等教育機関は自身が出す学生の”品質保証”の努力を怠り続けました。例えば、大学によって成績AやBの意味はまるで異なると認識されていました。大学での教育が評価されないのですから、当然です。大学も経営主体である以上、顧客から要求されていない事を実施する事は損ですから、品質保証は全く行われなくなりました。
企業等は、独自の採用基準を維持する事への投資をけちり続けたと言えるでしょう。その投資の不十分さを、大学選抜試験に求めたと言えます。
中等教育においては、欧州ではpracticalコースとtheoreticalコースが分かれている所が多々見られます。後者は、爾後の高等教育へと繋がり、前者はドイツならばマイスターコースへと繋がります。日本においては、教育内容が同じ普通科が殆どと言う形になり、抽象的思考の教育を受ける積もりのない生徒たちは意欲を失い、抽象的思考の教育を受けたい生徒は公立学校を見放しています。
大学への選抜試験では、知識つまりは記憶能力だけが問われ続けています。科学的抽象的な思考能力の訓練に耐え得るかどうかの試験は、未だに行われているとは言い難いのです。数学の成績をもって抽象的思考能力の殆ど唯一の指標と見なす暴論すら行われています 。かくして、入試問題は奇問化し、受験生は只管暗記だけに励む事になりました。
※このような試験だけが行われている一つの理由は、人間や社会に対する科学的態度がついに日本においては成長しなかったからである、と思われます。
結果として起こったのは、高等教育が行われているとは言い難い”大学”の乱立と、具体的な技術技能がある訳でもなし、勿論科学的な判断能力が付いているとも言い難い若年労働者の大量生産でした。即ち、日本においてはバブル崩壊後も、高等教育の成果は貧困、半端な学歴は極端に過剰、と言う状態が続いています。
青田買い―そして、早期からの就職活動(ヒロシマ・ナガサキ60年04月13日初出)
この用語は元々農業産業の用語でした。まだ実がついておらず、十分米が取れるかどうか判然としない田ん圃に金を払って買い取ると言う意味でした。オランダのチューリップバブル後期においてまだ栽培されていない球根に対する証券が売買されたのと同じことです。これが、就職しようという学生、特に大学生に対して用いられるようになった時期は不明ですが、少なくともその意味合いは、企業側が早めに有望そうな学生を確保しておこうと言う、求職側に有利なものだったと言えます。
バブルの時期になるとこの用語は事実上消え、企業は地方出身の学生が面接に来る際に航空券を渡したり、面接に来た学生に食事を奢ったりの妙な優遇策が何かと取られるようになります。
そして、バブルの崩壊も相まって不況が深刻化した1990年代後半からは、学生たちは只管早期から就職活動に勤しむようになります。特に大学生は3年生になった時から活動を始め、事実上4年生の春には勝負が付いていると言う状況になってきました。
就職しようとする大学生を巡るこれら一連の変化の影に、絶対的に変化しない傾向があります。それは、要するに大学3、4年生での教育の成果を見ずに採用しようと言う事です。大学1、2年生の間は一般教育が行われる時期であり、科学的問題解決能力の初歩が身につくかまたは専門の基礎がための時期です。当然、3、4年生になって科学的問題解決能力や専門的能力が身につくかどうか、未だに判然としない時期でもあります。その段階で採用しようとか就職しようとか、実におこがましい。学生も企業等も、大学での教育に何らの価値をも置いていなかった訳です。
いじめ・校内暴力
小中高等学校における”いじめ”が問題視されるようになったのは、1980年代前半からであり、1980年代半ばには学会レベルでもシンポジウムが開かれる等、はっきりと問題視されるようになりました。関連書籍も急激に増えています。他方、校内暴力も1970年代の後半から顕著になります。
だが、いじめや校内暴力については大きく分かれる二つの見方があります。第1の見方は多数派であり、この時期に子供の暴力がいじめや校内暴力、家庭内暴力に向かうようになったと言う見方です。この見方は、そもそもこの時代以降のいじめは、学級集団全体がいじめに荷担するようになったと言う点で、常に人間社会に存在する攻撃行動や一般的ないじめとは性質を異にすると言う主張にも裏打ちされています。また、いじめられていた子供が突然いじめ側になったり、またその逆になったりの変化が激しいと言う点でも”通常”の攻撃行動とは異なるとされています。
第2の見方は少数派であり、この時期にこれらの問題が問題視されるようになったのは、子供に対する監視の目が強くなったに過ぎないのだ、と言うものです。
少なくとも、いじめを受けた人たちは、人権を擁護するような対策を望んでいます。日本型バブル的生産の顕著な特徴の一つに、科学特に人間や社会に関する科学への投資が極めて薄弱な事が挙げられます。かくして、いじめ現象の正確な把握は困難なままに留まっています。他方、いじめを行った人たちは放置され続け、さしたる処罰や処遇を受けることなく社会に送り出されています。また、この時期は、日本が石油ショック後の生産システムを内需充実型に変化させる事に失敗して問題が吹き出しつつあった時代であり、何れの見方を取るにしても、学校や個人レベルに様々な歪みが蓄積されていた時代ではあると言えます。
いじめ等を別の観点から見れば「本来学校においては同級生等のピアが相互に支援する事で皆の能力が高まる事」が期待されていたものが、競争主義の激化により、このピア機能が機能しなくなった事の一部に過ぎない、とも言えるでしょう。競争はピアを排除します。そして、暴力的な問題が起きた場合、ピアは最早機能しておらず、警察やカウンセラー以外にそれを止めようとする人もいない、と言う二重の意味においてピアは崩壊しているのです。この中において、もし子供たちの暴力ざたの強さや頻度が何十年か前よりも低下したとしても、暴力ざたは直ちに”問題”になってしまうのです。学校等における「競争→子供等に対する投資の切り捨て」については、別項を参照して下さい。
勿論、かようなピア機能の低下は、直ちに不登校の問題を引き起こします。回りが誰も助けてくれないなら(そして、授業が単に知識の伝授であるならば)、誰も学校になぞ行く必要は感じないでしょう。
2006年には山脇由貴子氏による「教室の悪魔」と言う比較的小さな書が出版(ポプラ社)されました。この書はこれまでのいじめ研究やいじめ対策の実践の集大成のような所があり、特筆されるべきものと言えます。この書の主張は様々な面において明解なのですが、現代のいじめをどう把握するかと言う点でも「要するにいじめは犯罪行為である」と主張しており、「規範の低下現象である」と主張していると理解出来ます。規範の低下(アノミー)は、確かに高度経済成長が終わり、大人たちが何をどうしてよいのか段々分からなくなり始めた事と対応しています。そして、全員で一人をいじめればそれは悪ではなく正義である、と言うリンチのへ理屈が規範に取って替わるのでした。
山脇書から見られるもう一つの”原因”は、子供たちの日常の退屈さ、です。本書に記されている実例を見れば、まぁ子供たちがどれほど丹念に大人のいじめを真似し、柔軟性を発揮してある場合には独創的にいじめの方法を開発しているか、驚くべきものがあります。もっと生産的なことでやるべき事が彼らにはないのでしょうか?ないのだ、と思われます。銭儲けの場ばかりが多くなり、かつ自分たちがやるべき事と言ったらば受験競争だけになってしまい、彼らには行うべき、行うに値すると感じられることがなくなってしまったのでした。それは実は大人の社会がそもそもそうで、銭儲けと競争と言う殴り合いだけに大人たちは向かってしまったのでした。
かように、いじめ問題は、非常に多くの面において、バブル的生産を如実に反映していると言えるでしょう。もしバブル的生産が行われ続けていなければ、そもそもいじめが大きな問題にはならなかったでしょう。また、問題とされるようになったとしても、解決への努力が結実したでしょう。
ところで、いじめ問題が1980年代前半に増大したとし、その問題の渦中にあった子供たちが10〜17才程度だとすると、その親たちは概ね1940年〜1950年頃に生まれたと言う事になります。またしても団塊の世代を中心とした世代…。子供の問題にどう対処するのかと言う点でも、団塊の世代は旧世代とは異なった行動(もっとはっきり言えば好ましくない)を取ったと言う事なのでしょうか?
岩波文庫(ヒロシマ・ナガサキ59年11月12日初出)
日本を代表する出版社の一つである岩波書店が出している文庫シリーズ。古今東西の名著を多く収めており、日本を代表する出版シリーズ。
元より、岩波文庫自体はバブル的ではありません。だが、岩波文庫が辿った道のりにバブル的生産を見ることが可能でしょう。
岩波文庫は正に日本の文化を代表するシリーズであり、かつてはどんなに小さな本屋にも多少は岩波文庫または類似シリーズの岩波新書が置いてあったものです。他の書籍と異なり、これらは本屋の完全買い取りであり、返本の効かないものだったと聞きます。それだけ確実に売れるものであると同時に、本屋であれば岩波文庫が置いてあって当然・岩波文庫が置いてある事はその本屋が”マトモ”である事の証でもありました。だが、バブル崩壊後、1990年代半ば以降、各地の小さな書店は急速に衰退していきます。そして、同時に岩波文庫もそれらの書店の店頭から消えていったのでした。
良くも悪くも、日本の文化や技術は教養主義に裏打ちされていました。幅広い分野での知識と理解がある事は、単純に専門領域にだけ詳しい事よりも好ましい事であると信じられていましたし、実際に教養ある人は、柔軟で自発的で多様な行動を随所で示しました。大学においては、幅広い教養を身につける事がかなり重視されて来たと言えます。大学を卒業していなくても、企業や組織において上位等級に行こうとする人々は、当然のように幅広い教養を身につけようとしました。岩波文庫はまさにかような教養主義に対応するものであり、教養主義を代表する存在であったと言えるでしょう。
だが、教養主義は金銭崇拝即ち資本主義化が進展するにつれて、緩やかにかつ確実に衰退していきます。教養が確かに身についている人々が優遇される事もありませんでした。1990年代以降、大学においてかつて2年間を費やして行われた教養課程は廃止されて行きます。合わせて、書籍は後の世代になればなるほど、読まれなくなって行きます。そして、岩波文庫の存在感も緩やかに衰退して行ったのです。
AO入試(仏暦2553年04月29日初出)
Admission Office入試の略称。大学の設立目的・理念に適合する学生を入学させようとする入試方法の事。
AO入試の元々の意味はかようなものなのですが、まさにバブルの真っ盛りの1990年に慶応義塾大学の湘南キャンパスの各学部が本入試方法を採用するや、それは10年も経たずに単に”無試験でレベルの低い学生を入学させる”事と事実上同義になってしまいました。学力試験では測定できない側面を評価する、と言う美名があるためです。明らかに、AO入試は大学生の質の低下を伴った量の増大、つまりはバブルに決定的な影響を与えた要因の一つでした。
AO入試は、大学・大学進学希望者・企業等大学卒業生を採用する側にとって、”目先のメリット”がありました。
大学進学希望者にとって、試験勉強をしないで、自分の特長をあれこれと言い繕うことで入学できるAO入試は、実に楽なものです。大学の講義や単位取得がいい加減で、甘っちょろいものであるのはすべての人に知れ渡っていました。となると、入学さえできれば卒業できるのだから、その入学でもラクをしようとする訳です。入学希望者は大学で何か本気で能力を付与して貰おうとは思っていないのであり、働く事の価値によって名誉であれ金銭であれ自分が評価されると言う概念を持っていないのであり、彼ら彼女らが欲しがるのは卒業したと言う名前だけなのです。これは”ごまかし勉強・ごまかし仕事”のメンタリティそのものと申せましょう。
大学にとって、とにかく定員を充足させる事が出来るこの方法は、推薦と並んで安直に学生をかき集める方法になりました。大学は、文部省の定める諸要件を満たしていれば莫大な補助金が交付されます。日本の大学には本質的な意味での私立大学はないとすら言えます。定員が充足されているのもその要件の一つですから、とにかく学生を集めなければなりません。これに加えて、AO入試を最初から年頭に置いていない大多数の入学希望者の間の入試競争の激しさは低下していないのですから、AOで定員をある程度満たすと、入学偏差値は下がらないと言うトリック効果もあります。勿論、そもそも卒業生が”価値ある働き”ができる人物に育っているかどうか、を考えもしないことがこのようなインチキ・ごまかしをやる根底にある要因です。
最大の問題は、企業等大学卒業者を採用する側です。彼らは、働く人たちの働きそのものの価値を評価しようとはしません。彼らは、企業の利益とは従業員が企業のアウトプットに付加する価値そのものである事を、理解できないのです。ですから、採用する側にとって必要なのは、同族経営企業であれば自分たちの一族に忠実な人間、トップが特定大学卒業者で固められていれば同じ大学の卒業であると言う事だけなのです。どうせ仕事は中間管理職や経営層であっても定型的で護送船団方式によって固められているものであり、丸投げなり会社の中の”外様”にやらせれば良いだけのものなのです。私も全くそうなのですが、組織の中の”外様”は差別されているが故に、必死で・本当に働かなければならないのですから、あれこれと押しつける事が簡単なのです。
以上のように、AO入試は、日本社会の非生産性がもたらす大学の堕落の一つの現象に過ぎません。既にスポーツ推薦と言うような事も行われていたのですが、それに新しい堕落の道が加わっただけとも言えます。だが、それが始まったのがまさにバブル真っ盛りの、しかももっとも金満であると見なされている大学からだったと言う所に、誠に象徴的なものを見る事が出来るでしょう。
ところで、2009年、徳島から入学試験を通って島根県立大学に入り、通学していた女子学生が惨殺されると言う事件が起きました。ご遺体は中国山地のあちこちにバラバラにされて放棄されると言う残虐さであり、日本犯罪史に残る事件と言えましょう。2010年04月現在容疑者は逮捕されていませんが、土地勘がある人物が犯人と目されています。しかも被害者の人柄には何の落ち度もなく、あえて言えばAO入試で入ってきた同級生たちを批判する文章を演習等でこっぴどく批判したと言う程度のことしかないと報じられています。島根と言う、働かずに人様の働きに寄生する連中が大手を振っている地域で、それを批判する女子学生を惨殺した…と言う可能性が浮かび上がります。この事件が「AO殺人事件」と後世名付けられる可能性はかなりあるように思えます。さもなければ、地元べったりの島根県警察がさりげなく迷宮入りさせてしまうのかも知れません。
科学雑誌(ヒロシマ・ナガサキ60年03月15日 初出)
所謂科学雑誌の盛衰に関しては、文部省科学技術政策研究所の報告「我が国の科学雑誌に関する調査」が簡便にして要を得た、そして後述するように思いっ切り要点を外した報告として、インターネットで容易に読む事ができます。
この報告書の要点は、1980年代前半において科学雑誌の部数、雑誌数共にピークがあったが、その後只管減少した 人口あたりの科学雑誌の部数はアメリカ合衆国の10分の1である、と言うような所でしょうか。
歴史的に見れば、1980年代になり始めの時点において科学への関心が一応は盛り上がったと言う点は、高付加価値労働による生産システムに転換しようとする意欲の現れと言えなくもありません。その努力は、バブルを越えて部分的には後年に結実します。
ところがこの報告書には、と言うよりも何をもって科学と見るのかと言う点における日本人の認識構造には、強烈な欠陥があります。この報告書は、所謂自然科学系の雑誌のみを科学雑誌と称して、人間科学や社会科学系の雑誌を一切カウントしていないのです。
だが、その後のバブルの経緯を見れば、この当時の日本において必要だったのは、社会科学や人間科学だったのは全く明らかでした。例えば、経済学をマトモな科学として育てていれば、少なくともバブルはこれほど猛威は振るわなかったでしょう。
大体、典型的な総合科学雑誌としてこの報告書で真っ先に取り上げられている日経サイエンス(Scientific Americanの翻訳版)には、本ホーム頁提供者も随分お世話になっているのですが、心理学、社会学、経済学、考古学と言った”文系”の科学記事が大量に並んでいるのです。これは、他の”純日本系”の科学雑誌とは随分様相を異にしていたものでした。流石に1990年代後半からは”純日本系”の科学雑誌もやや様相が異なりますが…。
そう言えば、かなり長期間本ホーム頁提供者はこの日経サイエンスを定期購読し、熟読していました。カネのない学生時代から始まって、結婚してかみさんの目が厳しくなった頃まで続きましたから、我ながら良く勉強したものです。さて、ある時記事内容等についてのアンケートを求められた事があります。当然、どんな記事が余計かと言う質問があり、考古学についての記事であると強く記載したのです。この事は他の読者も同様だったようで、暫くScientific Americanの記事の中から考古学関連の記事はそのまま翻訳せず、要約としての掲載に止めていた事があります。これは、日経サイエンスをScientific Americanの単なる翻訳雑誌から脱却させようとする努力の一環だったようです。だが、このやり方は間もなく取りやめになり、日経サイエンスは、Scientific Americanの記事を概ねそのまま翻訳し、加えて日本版独自の記事を増やした雑誌として再度変身し、考古学関連の記事も前と同様に良く掲載されるようになりました。今から思えば、総合科学雑誌はどうあるべきかの観点を欠いて、考古学の記事はいらないと回答した本ホームページ提供者は不明を恥じるしかありません。心理学の研究者として考古学関連の情報は別のチャネルでそれなりに入っていましたから、ついつい総合科学雑誌には”所謂科学技術”の情報だけを短絡的に求めてしまったのです。職業的蛸壺主義だったと言わざるを得ません。
本ホームページ提供者の恥ずかしい過去はさておいて、科学全般に対する関心が再び低くなったままと言うよりも、何をもって科学と見做すかと言う観念もネジ曲がったまま、日本はバブルに突入して行きました。
QC
QC(Quality Control)は我が国において広く普及し、日本の工業の発展に寄与したと信じられています。そのとおりです。”7つ道具”も広く普及しました。が、実はその後「新・QC7つ道具」「TQC,TQM」と言うのが続く筈だったのが、それらは概ね立ち枯れてしまった事は、綺麗さっぱり忘れ去られています。
”新QC7つ道具”は、KJ法(※内容はこれですが著作権の関係から別名になっています)等の発想法と主成分分析から構成されていました。これらは1979年ごろに公開されました。正に日本の高度経済成長が終了し、次の生産様式を模索している時点です。実に適宜を得ていたと言うべきでして、これらの技法が普及したならば、日本の産業や社会構造は高付加価値型、つまり「互いが互いを知恵によって支援し合う社会」に転換した…筈なんですが、行われた事は単純な労働強化であり、今ごろになって「論理的思考能力が学生から失われている」だの「データ・マイニング〜」なんぞと言っている訳です。QC関係者も、未だに新7つ道具の普及を図っている始末。
そもそも、「QC=QCサークル活動」と言う考え方が非常に強かったようです。これは、我が国に根強い「小集団主義」を如実に反映したものであり、QCがマネジメント活動であると言う認識またはやり方は寧ろ希薄だったもののようです。ちなみに、QCサークルでの活動に対してきちんと残業手当が払われたかどうかも判然としません。となると、実はQCでの成果なるものは、単に違法無賃労働の成果に過ぎなかった場合があったのでしょうか?
そうこうしている内に、ISO9000なんてのが登場し、生産工程のシステム化は完全輸入品となるに至りました。
競争
2002年のこの時点になってやっと”初等・中等教育の”通信簿の相対評価への縛りが緩められるなぞ、心理学の観点からすれば怠慢の極みであります。初等・中等教育とは、”既に分かった世界を着実に身につける”側面が大きい段階であり、”何がどこまで出来るようになったのか”を評定すると言う意味での絶対評価こそ適切なものです。我が国が高度な技術や人間性でもって国を立てている以上、少なくとも中等教育迄はきちんと育成する方向での教育が行われるべきでしょう。絶対評価の代わりに行われたのが一つの教室や学年内での競争≡相対評価であり、それは即ち競争であり、つまりはぶん殴り合いでした。
小生自身も、この競争原理では大分痛い目に合いました。自分を取り巻く現象の理解や書物に興味があり、理科と社会が好き、と言うノリで勉強的な事や美術的・音楽的な科目については自ら興味を持って勉強してきました。勿論、自分の興味が持てる範囲で、です。そこで、高等中学校(高校のコトですぞ)には県内3本指の受験校に入ったのですが、テキメンに”相対的な”成績が低下しました。運動関連はさして興味が持てなかったし、大体がところ興味と意欲を持たせてくれる教師もいなかった訳で、中学校段階から体育の授業は非常に苦痛でした。驚くべき事に、美術や音楽でさえ興味と意欲をかきたたせてくれる教師はいなかったように記憶しています。小生の年代では、中学校段階から厳しい競争原理によって学校が成立していたのだ、と思えます。大学は存分に自分の興味と関心の赴くままに勉強できました。
この、教育の競争原理を厳しく批判する論者は少なくないのですが、例えば「久富善之 学校と教師の困難・危機と希望 労働の科学 57巻4号 2002年」は、雑誌出版全体からすれば極めてマイナーな雑誌での掲載ですが、非常にツボを得た論考だと思えます。教育の競争原理が1980年代に極大に達し、その結果設備、制度、教育方法、信頼感醸造等凡ゆる面で世界に大きく遅れを取ってしまった…との論旨は非常に説得力があります。
かかる意味での競争は何のために行われたのか?それは、「競争させることで、本来あるべき投資を値切り倒す」→「余裕のできた資源を飽くまで利権構造の維持に使う」ためでした。日本が先進国から転落しつつある2003年の現在、むしろこの方針があちこちで徹底されようとしているのは、呆れ果てたことであります。
なお、学校内競争に対する反対論が生じると、運動会で一等賞を作るのをやめてみたりとか通知票を全廃してみたりと言う筋違の方に話が進み、根本にある「競争によって投資を値切り倒す」ことへの批判が行われなくなると言うのも、我が国において一貫して存在する捻じれた論理であります。競争なし≡評価なし≡教育なし、になってしまうんであります。
ただし、2004年現在行われている”絶対評価”なるものが意欲だの態度だの、およそ絶対評価できないものを対象としている事については、厳しく批判しておきます。絶対評価に馴染むのは「ある知的行動ができるのかどうか」の評価なのです。
共通一次試験
大学を受験しようとする人全てが受けなければならないものとして、1979年1月から実施。爾後、延々と実施され続けています。
この試験もまた、非合理と非論理の所産と言えます。大学格差を是正すると言う謳い文句で発足しましたが、全員が受験する一つの物差しが出来上がってしまえば、大学格差はより強烈にレッテル化されるのは明らかです。一体この制度が何故始まったのか、2003年の今日覚えている人は誰もいないのかも知れません。
経済学
バブルは基本的に経済現象ですから、経済学に対する人々の理解はバブルの防止やバブルから教訓を得る点において決定的に重要です。だが、この領域での人々の理解が実に怪しげであった事を示す逸話には事欠かないものです。
バブル当時の事です。旧マスターネットでの某ボードでの会話。ある政治家の私設秘書であると称する人と色々と議論をしていたのですが、バブル真っ盛りの頃、その人は「日本は物価上昇率は落ち着いているので、経済的には問題ない」との趣旨の発言をした事があります。当然「土地やそれに付随するコストは物凄く上がっている」と逆襲した所大慌てで訂正された事がありました。
1990年代後半、職場の同僚との雑談。「物価の上昇は、貨幣の過剰供給によっても齎される…」と話した所、大いに驚かれた事があります。貨幣も所詮は商品である、と言うのは当然の常識であると思うのですが…。
研究機関(ヒロシマ・ナガサキ60年12月20日初出)
よくよく見ると、非常に多くの企業や組織には「何々研究部」「…研究課」「〜研究所」なんて組織があるものです。それらの数は、なかなか表には出てきませんが、どうも膨大なものであったようです。
これらの”研究する事になっている組織”が本気で研究機関であったのであれば問題もないどころか素晴らしい事なのですが、実はこれらの組織のかなりの数が「心や体が壊れかけていて他の所では使い物にならない人の収容所」「昇任人事を待つための踊り場」「一緒にくっついている機能の隠れ蓑」として存在しているに過ぎなかったのは明らかです。少なくとも、これらの研究機関に優先的に優秀な人材が回されると言う事はまずもってなかったと言えるでしょうし、必要な研究に応じて人員を増やすと言う事も行われなかったのでしょう。そしてこんな実態は、永遠に表に出る事はないだろうと思われます。
他方、科学的問題解決をする事ができる人々は、出世コースでせっせとごまかし仕事(別項参照)に励み、科学的問題解決能力を錆び付かせて行った、と言う訳です。
高等教育は遊び(ヒロシマ・ナガサキ60年07月09日初出)
「高等教育は遊び」と言う観念がいつの頃からか、日本に蔓延していたのは間違いありません。他の諸項目にも記載していたように、少なくとも高度経済成長後期からバブル崩壊直後迄の間、間違いなく大学は「レジャーランド」でした。理工学部や医学部はともかく、それら以外の学部は「遊んでいて卒業できる」代物でしたし、学生たちも遊んでいました。彼らは、激烈な受験競争の”ご褒美”として大学生活を過ごしました。この面でも、大学は単なる中等教育の継続に終わってしまいました。
「高等教育は遊び」と言う概念は、日本の大学が欧米に追いつき追い越すために知識を吸収するために設立され、それは第二次世界大戦後も変わりがなかった事を考えると非常に奇妙な事です。学問のどの分野においても、吸収するべき事は大量にあり、学生たちは遊んでいるどころの話ではなかった筈です。
かような激しい知識の吸収はエリート意識によって裏打ちされていました。大学生のエリート意識は、1969年の東京大学安田講堂攻防戦をピークとする学生運動以降、消滅したと言えます。これ以降、大学は明白にレジャーランド化し、日本は高等教育による国家の発展可能性を失って行きます。
確かに高等な文化活動や科学活動は、ある意味では遊びに似ています。それは命令されてやるものではなく、自ら行うものであり、ある程度の財や生産力の蓄積があって初めて成立するものでありました。だが、現代の高度科学技術社会においては科学や文化は今日において必須であり、決して手遊びの類ではないのです。和算の伝統を現代の科学や大学に持ち込むのは少々閑雅過ぎると言うものです。かような「文化や科学が文字どおりの余技・暇潰しとする観念」の出所は今後追求されるべき問題でしょう。
公立学校(ヒロシマ・ナガサキ61年10月27日初出)
公立学校への投資の細さは凄いものがある、としか言いようがありません。
ごまかし勉強(ヒロシマ・ナガサキ60年08月20日初出)
藤澤伸介の用語。「ごまかし勉強(上下)2002年 新曜社」において登場。本質的な学習が、当該領域の知識や技能を定着させるだけではなく、それらの知識技能と関連領域の関連性を理解し、学習する一般的な方略を学び、引いては学習する事そのものの面白さを喚起すると言うものであるとする。対して、1980年代から一般に流布した「ごまかし勉強」は、当面の試験にだけ良い点を取るための単純な暗記作業、それも何を暗記するべきかの教材も市販教材及び大手塾に依存したままのものであり、よって勉強は単なる苦役であると言う観念しか形成されない、とする。そして、この勉強方法は要するにごまかし、即ち検査を通りさえすればいいと言うものであるので、広範な実力の低下、企業倫理の低下、唖然とするような事故の原因等を招くとする。
本書の指摘は実に恐ろしいものです。心理学者の端くれとして、本書に記載されている理論的な事項を小生は全て承知していました。そもそもどんなに”知的”に見える行動も、範囲を限定すれば非常に簡単なアルゴリズムで実現できる場合が多いのも、現代認知心理学の常識であります。だが、現実の若年者での世界においてかくもごまかし勉強が流布しているとは全く知らなかったのです。そして本書を読んで、小生が勤務している組織において大方の人々がマニュアルは熱心に読むけれども勉強は自らはせず、書物を読んだり教育を受けたりしてもマニュアルを頭に叩き込むが如き態度を頑なに取る理由が、ようやっと分かったのです。(は〜
ごまかし勉強を社会全体として涵養している風潮の根本には、「高等教育や中等教育、特に高等教育の内容や意義を理解できず、何でもかんでも初等教育のやり方でやってしまい、人材としての評価も要するに初等教育に毛の生えた程度の段階でやってしまっている」と言う病根があると思われます。実際、藤澤氏は、ごまかし勉強対策として学校教育での定期考査において出題範囲を指定したり、いい加減な出題を作ったり、一見公平そうで学力の本質を測定していない問題を作る事を止めるべきことを第一に主張しています。ある記憶すべき事項を徹底的に反復定着させようとするのは、明らかに初等教育の方法です。企業が入社試験で学生時代の学習方略をチェックするべき事も対策としていますが、そもそも企業がどのような論理で人材を集めて続けてきたかは他項に記したとおりであり、そのやり方は基本的に高等教育の成果をまるで考慮しないものであったのです。
以上のような観点からすると、藤澤氏がごまかし勉強流布の歴史的経緯について可能な限りのデータを掲載していますが、それらの年代は如何にもと思われるものになってます。例えば、1980年代は受験圧力が減り、ごまかし勉強のための大手学習塾が興隆を始め、ごまかし勉強が繁茂し始めた時期としていますが、正にこの時期は高度経済成長後の社会体制の転換が上手く行かずにずるずると年月が重ねられていた時期でした。そして、学習方略を自習する書であったとしている旺文社や学研の「中1、2、3時代」「中1、2、3コース」…のシリーズが廃止になったのは正にバブルの最盛期の1991年でした。
ところで、本書は誠に価値のある書籍の一つですが、昨今の「公立学校はダメ、私立じゃなきゃ」と言う風潮も教育産業が金儲けの論理によって流布させたものである事を指摘しています。公立であろうが私立であろうが、どの大学を出ようが、問題解決能力や生活能力が身につけば良いのは言う迄もありませんが、どのような人がマトモなのかの判断とそれへの因果性の認識を失ってしまった親世代はかような”信仰”に縋るしかないのです。そして、土建に替わって今度は教育においてバブルが形成されると言う訳です。
サイトカテゴリー(ヒロシマ・ナガサキ61年02月18日初出)
2005年に至って、インターネットの検索サイトやポータルサイト、メールマガジン等のカテゴリーから「科学・技術」がどんどん消えていきました。これはどこの国のサイトでも多かれ少なかれそうですが、我が国の場合科学技術によってしか国が立たないのに、これは実に困ったものです。そもそも科学に対する興味や関心が日本人はさしてなく、研究は遊び・高等教育は余技と言う観念に満ちていたのですから、経済的余裕がなくなれば、どんどん関心は低下すると言うものです。
サークル(ヒロシマ・ナガサキ60年07月12日初出)
高等教育の機能を失っていった大学では、1980年代に入ると「サークル」と称する究極の遊びグループの活動が盛んになります。この時期は、学生運動が終焉を迎えて10年程度の時期に当たります。本ホームページ提供者の出身大学においても「パフェ研究会」だのカラフルな「大学雑誌」だのが出始めたのがこの頃で、同時に本ホームページ提供者は大学院を卒業し、超地味な仕事に就いたのでありました。
このようなサークルの典型が2003年に組織的強姦事件が発覚して大量の逮捕者を出した早稲田大学の「スーパーフリー」と言えるでしょう。1982年の創設からいわゆるイベント(オールラウンド)・サークルとして設立、「健全な出会い」、「普通の大学生のための社交場」をうたい文句に会社組織でパーティーを開催していたとの事です。だが、このサークルは1990年代後半に至って変質し始めます。強姦事件の首謀者として逮捕された和田真一郎は1994年早稲田大学入学、1995年から8年間代表の座にあり、1999年頃から組織的強姦を繰り返すようになります。この時期は日本経済の破綻が明白になり、自殺率や犯罪件数が急上昇した時期と一致します。スーパーフリーの誕生と変質は、物の見事に日本社会の変遷を反映していると言えるでしょう。
地震予知(西暦2003年07月29日初出)
2003年現在、「予知がある程度可能な地震はプレート沈み込み型地震であるが、それはごく一部だし、時点もおよそ正確ではない」との認識が一般的です。だが、地震予知と言う概念は大いに流布し、1978年には地震予知を前提とした大規模地震対策特別措置法まで成立しました。
地震予知(直前予知、の意味ですが)なる怪しげな概念が流布した原因は幾つかあげられるでしょう。第1には、官僚・政治家・一部の学者が利権獲得のためにいかにも直ちに実現可能であるかのように喧伝した事です。彼らは彼らの懐を潤すためにそうしました。第2には、国民全員の科学教育の不足です。
間接的な、だが最大の原因かも知れない第3の原因も考えるべきでしょう。それは、土建利権の利益保護です。と言うのは、地震が予知不可能であるとなったらば、対策は被災規模の抑止(mitigation)しかあり得ないのです。当然都市計画はより緻密で確かなものでなければならず、建築物の水準はより高くなければなりません。それは粗製乱造をしている、そして粗製乱造によってしか利益を得る事のできない土建利権にとって脅威だったからではないでしょうか?
以上のように、地震予知と言う少なくとも20世紀においては相当非科学的な概念が流布した背景にもバブル的生産に至った原因が同様に作用していた、と考えるべきです。そして、大規模地震対策特別措置法が高度経済成長が事実上終わった1970年代の後半に登場したのは、単なる偶然ではないように思われます。
奨学金
高等教育を受けている人々に対する奨学金の貧困さは、我が国が特に先進諸国と比較した場合最低最悪であると言うのは、広く知られています。この具体的な分析は専門家にお任せするとして、個人的な経験を記しておきます。
奨学金に関しても、都市-農村格差が歴然として存在していました。それは要するに、日本の勤労者の主体を占める給与所得者からの搾取体制の一部です。本ホームページ提供者の場合も、大学学部の段階で日本育英会の奨学金を申請した事があったのですが、父親が給与所得者で所得制限にひっかかり降りなかったのに、明らかにより裕福な学生生活を送っていた同じクラブの山梨県の農家の娘が奨学金を受ける事ができた、と言う経験があります。それは1970年代後半の事でしたから、物価上昇率はそれなりの水準でした。この時代に無利子の奨学金の貸与を受けた事は、利子に加えて物価上昇率分の所得転移があった事を意味するのであり、サラリーマン世帯から農家世帯へのあからさまで強制的な所得転移が行われたのを目の当たりにした訳です。
本ホームページ提供者は大学院で修学していた際に、日本育英会の”無利子だが所詮は貸与”奨学金を受けていました。日本育英会の貸与奨学金は、指定された研究機関、大学等の教員に卒業後5年以内に成れれば、返済しなくて良いものでした。だが、本ホームページ提供者は、公的機関の研究員なのに指定機関ではない所に就職してしまったため、多額の奨学金を苦しい思いをして返済しました。修業修了前に国家公務員上級試験を次席で通ったのですから、成績が悪かった訳でもありますまい。こういう場合、奨学金は生活費も含めてロハなのが先進国の通例であります。だが、ここは所詮日本、借入金は168万円、この返済に毎年14万円、12年に及びました。科学者の給料は安いものです。1983年4月の初任給の手取りは9万円しかありませんでした。勤務先の独身寮宿舎は一人3畳分・2名の相部屋だと言われ、書籍を置く場所もありませんでした。仕方なく兄弟2名でアパートを借り、これが一人当たり2.5万円の月額家賃でした。当然食費もかかり、これは3万円程度でしたか。最初の同期生同士での研修では、かくして一緒に酒を飲むカネもないので「私は人付き合いが悪い」と罵られたものです。加えて、自腹で学会費や図書費を捻出しなければならず、この負担はかなり堪えたのは確かです。
さて、返済をしている時、本ホームページ提供者にトドメを刺す事件が起こったのであります。メインバンクとしていた第一勧業銀行(※2002年からみずほ銀行)の窓口を経由して日本育英会に送金していたのですが、ある時送金のために窓口に赴いた所、窓口行員おもむろに曰く「で、宝くじ買いませんか?」。馬鹿野郎〜!
職業高校(ヒロシマ・ナガサキ60年05月16日初出)
知能及び性格の個人差には、少なくとも遺伝的要因が相当関与しているのは今日全く明らかになりましたし、少なくとも、中等教育を受け始める10才代前半にはその個人差はより大きくなる事も明らかです。そして、それらの個人差を相当程度認めながら一つの社会なり動物種としての統一を維持していくところに、社会や人間としての発展性があると言うべきでしょう。他方、社会全体を維持していくためには、職業の分化は相当程度止むを得ないのも現実です。
これらの観点からして、中等教育以降の教育のコースが幾つかに分かれている必要性があると言えますが、この点においても拡大する歪みが再生産された面が濃厚でした。それは、所謂職業高校の位置づけです。
何しろ、誰もが良く知っていているように、工業高校・商業高校・農業高校・水産高校は、大方は”低位高”になったのが現実でした。”世襲職業”である農業と水産業はともかく、工業高校と商業高校の卒業生が関連する職業にどの程度就き、就業し続けたのかのデータがどうも見当たりません。率直に言って、商業高校と工業高校の卒業生は低位高の普通高校の卒業生と同様に、単に”低位の”仕事をやる人生を送っているように思われるのです。
バブル的生産の根本は「権力・カネ・土地だけが尊重され、人の働きはそれらを支えるためのものとして浪費され続けること」です。農業と水産業は、土地と権力を世襲的に握っている人々によって構成され、よって農業や水産業の専門高校に行く青年たちは生まれながらにして幾分かの権力とカネを握っていました。そこで、農業高校や水産高校は偏差値が芳しくなくても問題視されませんでした。だが、工業高校と商業高校に行く青年たちの親はそれらを持たないが故に、子供たちを普通高校→大学へと進めさせることができませんでした。これは何も学費だけの問題ではなく、勉学を指向する文化を修得させると言う点においてこそ問題だったのです。かくして、工業高校と商業高校に進学した青年たちは、将来の権力・カネ・土地を得る可能性をその時点で大幅に剥奪されてきたと言えます。
この結果、”低位の”仕事は益々低位化し、日本全体の生産力は失われていく事になりました。
※子供の学業成績には親の文化的側面の影響が極めて濃厚であるらしい事が近年明らかになってきています。それは学力についての所謂「沖縄問題」の研究等から明らかになっています。勿論、塾等へ行かせる余裕があるかどうかと言う事で親の経済的な要因の影響も極めて大きいのですが、その影響を数値的に除いても沖縄県の青少年の学力が振るわないのは何故か、と言う事なのです。
進学率(ヒロシマ・ナガサキ62年03月31日初出)
1990年頃迄4年生大学への進学率は25%程度でした。要するに文部省がそこに定員を押さえ込んでいたのです。ところが、この時から大学の設置許可がばんばん出され、少子化も既に進行していたこともあり、2004年には45%程度になってしまいました。
同時に、私の見る所では、この頃から出身大学別の高等教育としての学力格差が非常に小さくなってしまった感があります。ある意味、これは入学偏差値と言う単純な中等教育の成果がそのまま卒業生の能力にならなくなった、とも言えますが、何しろ高等教育の成果を尺度化するのは非常に困難です。どちらかと言えば、”上位大学”の力が低下したからのように思えるのですが。(^_^;)
一体、人口の半分が高等教育の成果が身についていると言える状態になるものでしょうか?それが出来ているならば、日本はちゃんとした民主主義国家になっているように思えますし、こうまで無責任が跋扈している事もないと思えるのです。バブルの終了と同時に、教育バブルが始まったのかも知れません。
石器捏造
経済破綻も押し詰まった2000年、東北旧石器文化研究所の藤村新一・元副理事長が旧石器遺跡捏造をし続けていた事が発覚、これまで日本で発見されたとされる旧石器時代の遺跡なるものは全部ウソだった事が判明しました。宮城県考古学会の特別委員会は、捏造が少なくとも1974年から連綿と行われてきたと判断したとの由。まさに高度経済成長が終了した筈の時点から、高度経済成長終了以降の失敗が余りにも明白となった2000年に至るまで捏造が行われてきたとは、実に暗示的な出来事です。
※大分県聖嶽(ひじりだき)遺跡は藤村氏は関与していませんが、遺跡そのものが旧石器時代のものである可能性はあるものの、そこで発見された人骨は旧石器時代のものではないとされています。ただし、この件は藤村氏の行為と並列に挙げられるべきではありません。聖嶽の研究者は学問の世界では良くある”系統立った間違い”に至っただけであり、これは学問の進歩に必須の事です。藤村氏のように意図的に捏造したのではありません。
だが、これは暗示的どころか、バブル的生産を繰り返してきた日本社会全体の体質を如実に反映した出来事だったように思われます。捏造が行われた背景として、3つの点が挙げられます。業績を上げて名声や利益を得たい、と言う風潮の高まり オラが村に遺跡が出た事による村興しへの渇望 捏造をチェックできない日本の学会の非力さ です。
第1の点は、このような欲望は誰もがあるものですが、それが科学的な正しさへの希求を上回ってしまっている点に問題があると言えます。なお、科学を希求しないと言う点では、これは藤村氏個人だけの問題ではありません。第2、3の点にも背景的要因として関与する事です。
第2の点は、所謂過疎化とその対策の問題です。観光によって経済を循環させるにしても、都市住民が望んでいる慰安ではなく、遺跡やらけばけばしい遊びやらによって人を引き付ける事しか発想できなかった、と言う点にバブル的生産の根本精神が如実に反映されています。この意識構造の根本については「実家」の項をご参照下さい。
第3の点については、そもそも藤村氏が「これは石器だ!」と叫べばそこが遺跡になったと言う具合だったようです。彼が”正しい”事はどうやって科学的に確認されたのでしょうか?方法論そのものを再検討出来るのが科学的な手法の良い所なのですが、ある石ころが石器であるかどうかの判断基準の構築をする余裕が日本の考古学会にはなかったと言う事です。何しろ日本は科学者の数が少ない訳で、ましてや人文社会学者は冷や飯の連続だと言う事です。チェック機能を働かせるだけの人材を揃える事はできませんでした。学者となり得る可能性のある人々は、使わない道路やらビルの製造管理、お偉いさんの持ち上げ、等に動員され続けていたのでした。
大学院
メーカーに就職しようとする理工系の学生にとってさえ、大学院は魅力に乏しい所でした。給料や地位や仕事の内容が学部卒に比べて良くなる訳ではなかったからです。メーカーが理系の学生に求めたのは、自分たちが伝統的な方法で作ってきた技術、日本製品の世界への雄飛を果たした誇り高き技術(※それらはやがて別の方法で技術を蓄えた欧米や新興諸国によって追いつき、追い抜かれて、NHKのプロジェクトXで紹介されるようになります。)を効率よく継承して、手頃な品質と価格の製品を作ってくれる事でした。ましてや他の系統の学生においておや。大学院生たちは、大方は冴えない日々を送っていました。
さて、小生が大学院にいた時、某学部生が”院生”と言われていた我々を何かの書類にうっかり書き記して曰く−「陰生」。ワープロはなかった時代、”本気”にそう思ってたんだな〜;
中等教育(ヒロシマ・ナガサキ60年05月28日初出)
中等教育が妙に過剰であると言う点が、我が国の教育システムの最大の問題である、と本ホーム頁提供者は主張します。その裏腹に、高等教育は甚だ脆弱であり、過不足です。即ち、日本は端的に言って「初等的な中等教育を終了した人々の国」であり、要するに「中学校卒業者の国」であり、これが高度経済成長迄の発展を支え、その後の失墜を決めたと思われます。中等教育と高等教育の分離とそれぞれの位置付けの失敗こそが日本の知性や論理的思考能力において決定的な問題点だったと思われます。
そもそも若年者の教育は初等教育・中等教育・高等教育に分類されます。我が国の学制は第二次世界大戦後のマッカーサー改革において米国流が導入され、アメリカ教育使節団の報告書が、「高等教育は少数者の特権ではなく、多数者のための機会となるべき」として戦前の多数あった中等教育を単線化する事で今日の姿になりました。旧学制における高等学校・専門学校・師範学校・高等師範学校・大学等は”適当な真ん中から”高等教育と中等教育に二分され、昭和22年3月に制定された「学校教育法」として発足します。この結果、現在我が国の初等教育は幼稚園と小学校、中等教育は中学校・高校(高等中学校)・専門学校、高等教育は短期大学・大学・大学院と区分されます。
初等教育は要するに読み書き算盤であり、市民として生活可能な最低限の素養を与えるものです。中等教育は、科学的問題解決が不要な比較的定型的な職業能力を身につけるかまたは、高等教育を受ける素養を身につける段階です。高等教育は科学や学術により、問題を発見しそれを解決する能力を身につける段階です。よって、国としての様々な問題解決の切っ先は高等教育を終了した、またはそれと同等の能力のある人々に期待される事になります。高等教育も、既存の問題解決が出来る段階と、問題をそもそも発見できる段階が区別されるべきでしょう。それらは、それぞれ大学学部乃至修士クラスと博士クラスに区分されます。
なお、第二次世界大戦前の制度が否定された理由は、教育システムを単純化する事で平等な社会が実現される、と言うものでした。
さて、我が国の学制において問題と特長は中等教育にあります。義務教育は中学校迄であり、この点において第二次世界大戦前よりも、全国的な教育水準は嵩上げされる事になりました。よって中等教育の途中迄全国民が均一な教育を受ける、と言う事にこそ、問題と特長が共存しています。一体この中等教育の段階では何が期待されるのでしょうか?専門職能中学校と言うのは存在しません。初等教育は既に終わっています。やっている事は、基本的に高等教育を受けるための素養を与える事です。だが、大方の生徒はそのような素養を必要とは感じていません。実に半端です。そして、高等教育を受ける資格があるかどうかを巡って、生徒たちは長い受験競争と言う戦いを始めさせられており、多数の脱落者の存在が予感されています。
そう言えば、本ホームページ提供者は大学院で学んでいた頃、某学習塾の教師をしていた事があります。それは、小学校6年生から中学校1年生のクラスでして、最も”難しい”時期であると言えます。その中の、小学校6年生の数学のクラスで一番できの良かった女子が「どうして中学校で勉強しなければならないの?」と真剣に問うて来た事があったのを、今でも忘れる事ができません。成るほど、中学校と言うのは、小学校高学年の反復です。反復しながら学年が進むに連れて少しづつ新しい内容を入れるように文部省のカリキュラムは組まれています。逆に言えば、できる子にとって、学校の勉強を単に達成動機だけで見ようとすれば、実に詰まらない代物になってしまうのです。勉強や学問を自分でやることがおもしろいと思って生きてきた本ホームページ提供者にとって、その段階で面白みが分からない子供に対して説得力のある説明をする事なぞ、出来ようがなかったのです。きちんと説明できなかった事は、今でも悔やまれます。
閑話休題。
だが逆に、中学校卒業水準の識能が社会全体として均一に必要とされるならば、これは社会全体として極めて効率が高い結果となります。この効果が明瞭だったのが、高度経済成長期迄でした。高度経済成長期迄は、凡ゆる職場や地域において経験でこと足りる程度での創意工夫をする余地があり、経験による創意工夫のためには中学校卒業迄の識能は非常に有効だったと言えます。
だが、高度経済成長期を過ぎると、新しいモノ・コトを生み出したり、問題を改善するために必要な識能の水準は急激に上昇します。これは社会が成熟したと言う事なのであり、当然の事です。科学や学問にきちんと立脚した方法論や知識でないと歯が立たなくなります。または、極めて熟練した職人の技量が必要になります。ここで、当然の事ながら高等教育の重要性が浮上します。他方、多くの領域においては問題解決が終了し、比較的定型的な仕事で十分社会として利益が上がる領域が多数出現することになります。ここは、中等教育を終了し、専門職能に集中した人々が働く事で高い効率を上げる事が可能になるはずです。ポイントは、職種や職能別と高等教育がそれらの職種や職能毎に設けられているかどうかは別個の事であるべきだと言う事です。例えば看護士養成のための短期大学+1年の課程を卒業した人は、更に2年以下の修業で大学卒資格を与えられるようなシステムが構築されるべきでした。
しかし、現実に起こった事は、全く逆でした。欧州において良く見られるような中等教育でのtheoretical courseとpractical courseへの分離は第二次世界大戦後行われませんでした。分離は高等中学の段階で行われて来ましたが、職業高校は単に低位校となっただけでした(職業高校)。
中等教育から高等教育への選抜プロセスにおいては、他の部分でも色々記しているように、単純な暗記や単純な計算能力だけが重視されており、高等教育に相応しい素質が選抜の対象になっていません。
大学教育の成果は全く評価されませんでした(青田買い、大学院、つぶし、体育会系)し、そもそも2004年以降の国立大学独立行政法人化や奨学金の扱い(奨学金)等に見られるように、高等教育を振興しようと言う傾向は極めて薄弱と言わざるを得ません。
なお、このような”余剰”のシステムとして短期大学の存在はやはり強く批判されるべきでしょう。短期大学は一応高等教育に区分されていますが、殆どの場合に現実に起こった事は、”上等な高等中学校”化でした。保育学科や栄養学科を除き、これらは高等職業中等教育でさえなく、嫁入りのための準備期間として設定されたに過ぎませんでした。であるならばそのような学科が多く揃えられていたならば家庭生活の向上が見られたでしょうが、これも必ずしもそうではなく、短期大学校は全般的に極めて半端だったとしか言いようがありません。
大学の高等教育機関としての地位と能力は急激に失われています。例えば2004年現在、ついに救命救急士養成課程を持つ”大学”が登場しました。救命救急士の仕事の重要性は言う迄もない事ですが、明らかにその仕事は基本的には定型的な側面が強いのであり、上位の中等教育の成果によって資格が与えられるべきものです。勿論、救命救急士の仕事の領域で改善が必要な場合、救命救急士が高等教育を受けて改善を行ったり、近接分野の高等教育修了者が改善を行う事が適切と言えるでしょう。例えば、米国のMittchelは消防官だった人ですが、問題意識に目覚めて心理学の修士号を取得し、メンタル・ヘルスを維持するためのCISD法で今日著名です
他方、大学生の学力低下が問題視されています。
以上のことを全てまとめると、高等教育の中等教育化と中等教育の偏った過剰がある、と総括せざるを得ません。theoretical courseの学生にとって中等教育は基底的な知的技能ばかりが重視されると言う意味で過剰、対して高等教育は過不足です。practical courseを指向する学生にとっては中等教育は基本的にtheoretical courseとして作られているので全く過剰ですし、わずかに存在する職業高校は侮蔑されています。
高等教育の位置付けや意義が”分からない”事は、論理性や知性、科学性の欠如と表裏一体です。特に、人文系の科学への無理解に極めて近接しています。我が国が”中卒者の国”を脱却しない限り、どのような方法での繁栄も所詮はバブルに終わるに過ぎないように思われるのです。
聖嶽遺跡事件(ヒロシマ・ナガサキ60年03月15日 初出)石器捏造
大分県本匠村聖嶽(ひじりだき)洞穴は1961年に調査が行われ、当時の調査技術水準からして旧石器時代の石器があるとの結論が下されました。だが、学問や科学は常に変化し、進歩するものです。当時は炭素同位体による年代評定法さえ十分には確立していませんでした。当然爾後再調査が行われるべきですが、悲しいかなここは日本、”文系”の学問に対する投資は極端に少なく、再調査が行われることなく、月日が流れました。
この言わば忘れられた遺跡が俄然”脚光”を浴びてしまったのは、別記する藤村氏石器捏造事件に絡んで週刊文春誌が批判記事を2001年1月に掲載してからです。聖嶽遺跡も捏造なのではないか、と言う訳です。ようやっと再調査が行われ、2001年の調査技術の水準からして、聖嶽遺跡には年代の異なる石器があった事や旧石器時代の石器と考えられるものはない事等が判明しました。洞窟なんてのは複数の時代に複数の人々が利用して不思議ではありませんから、複数の時代の石器が発見されたとて怪しむには値しません。また、縄文時代には既に当時の日本人は相当遠距離間の交易や移動を行っていたのも、現在ではほぼ常識になっていますから、遠隔地の石が発見されても怪しむには足りません。勿論、1961年と言う”大昔”の判断が間違っていたなんてのは、当然あり得ることであって、問題にもなりません。
だが、週刊文春誌は調査を行った別府大学自体に疑惑があるとも取れる記事を掲載します。これが契機となり、1961年調査の担当者だった賀川光夫別府大名誉教授は遺書に抗議の遺志を記して、自殺します。遺族は週刊文春を提訴、2004年5月には地方裁判所は賀川故名誉教授の遺族側の全面勝訴の判決を下しました。
この事件で、何故週刊文春は疑惑があるとの記事を繰り返し掲載したのでしょうか?様々な観点から分析が可能でしょう。日本のマスコミに特に顕著なスキャンダリズムが要因の一つとして上げられます。読者が面白がって売り上げが伸びれば良いと言う観点が強すぎます。それは要するに、悪い意味での商売の論理・金もうけの論理にしか過ぎません。
科学や学問に対して実は日本人は関心も理解もないのだ、とする観点からすれば、例え週刊文春の記者が善意であったとしてもこの事件をより良く理解できるかも知れません。と言うのは、様々な傾向からして日本人が科学や学問の研究をリスキーかつダイナミックでその時々の暫定的な結論なのだとは決して見なしていないのは明らかだからです。例えば、本ホーム頁提供者も悩まされている事なのですが、学会大会に参加したり書籍を購入したりすれば、問題解決への資料が確実に得られるハズとの圧力が強烈にかかって来ます。科学や学問は極めてダイナミックで、不確実さがある故に魅惑的なものです。そして、常に変転窮まりない世界においては、学問の結果はより安定した指標を示すものではあれ、やはり時代と共に変化するのは避けられません。だが、大方の人々は一度出た論文や”結論”は決して覆らないのだ、と観念しているのでしょう。ですから、科学の分野で”間違い”があれば、それは即捏造と言う事になってしまうもののようです。
それにしても、このような幼稚な見方が、科学と技術でご飯を食べているハズの国の国民の大多数の姿とは、何たる事でありましょうか。当然ながら、かような科学や学問に対する硬直した見方は、生産の様式を歪め、劣化させ、バブルへと至らしめるのです。
集団主義-学校にて
学校では、ありとあらゆる所で「全員が同じことをやると言う意味での集団主義」が強調されました。実はこれは「教育への投資を最低限に押さえて均質な、長時間低賃金無頭脳労働に従事する人間を作る」と言う意味において競争主義とコインの裏表なのでした。肝心な点は、教育への投資をケチって企業の利潤や公的機関が”自由に”使える金銭を極大化する事なのでした。
この集団主義は、続いて”職能等の小集団の利益だけを墨守しようとする行動様式”につながっていきます。この点については、「社会」欄の”集団主義”へ。
つぶし
大学卒を評価する基準は3つありました。第一は理工学系の卒業かどうかで、これは即戦力と言う事で、研究室・学部・学校推薦によってメーカー系に就職しました。
これら以外の学部の学生の評価基準こそこの「つぶし」です。「つぶしが効く」とは、「受けた教育の専門領域への拘りや、抽象的だったり科学的だったりの教育成果に拘らずに、どろどろとした低賃金労働を長時間やる気がある」とか、「専攻がまぁ使えなくはない」と言う事でした。
文学部は、ツブシの効かない学部の最たるものでした。人間の本質に迫ることこそ、他国を理解して付き合ったり、自分たちの生活を豊かにしたり、個人と社会を健全にすることであったのですが。また、呆れるほど大量に生産された経済学士は、バブル経済の進展に対して批判能力を全く持っていませんでしたし、これまた呆れるほど大量に生産された経営学士はワケワカの土地や建物にカネを注ぎ込み続けて怪しみませんでした。同じく大量に生産された法学士は、憲法の精神(※方向性)が踏み躙られ、司法が利権集団に従属していく事に何の批判能力もありませんでした。”つぶし”を効かされた結果であると言えましょう。
なお、第3の基準は言う迄もなく「入学試験の偏差値」です。
※「つぶしが利く」と言う事が優先される事は、実はある種の人権問題であると言えるのかも知れません。形式陶冶の美名の元に、ある相当長期間熱中して行った有為な活動が全面否定される事を意味するからです。
※「大学生をその大学の入学試験の偏差値で評価する」のは随分馬鹿げた事、と言うのは、例えばこういう事です。大学入学試験の偏差値は、大体が入学者の高校の偏差値と相関します。その高校の偏差値は、非都市部では中学との相関はあまりありませんが、都市部だと有力私立中学校があるので、既に中学校の入学試験の偏差値と相関してしまいます。と言う事は、”質の良い”大学卒業者を選んで入社させる事は、質の良い小学生を選んでいるに過ぎない、って事なのですね(笑)。
体育会系
言うまでもなく、それぞれの人毎に適した運動はより奨励されるべきです。スポーツはストレスに由来する問題を低減させる事が知られていますし、肉体と頭脳の満遍ない育成が好ましいこと、言う迄もありません。
だが、この分野においても一貫して「競争という名の資源投入回避、目先の結果(※ 何タラ大会での勝利、できればオリンピックでの勝利等)の絞り出し、人間を育てることの回避」が繰り返されてきました。その代わり、”体育会系”の学生が人材を採用する企業等からは過度にもて囃されました。
この体育会系と言うのは、上下関係が過度に強調された運動クラブに学生時代に所属していた事です。1970年代後半になって増加した”体育の同好会”は体育会系であるとは見なされませんでした。かような学生は、「上下関係において従順。低賃金長時間労働に耐えられる。礼儀作法がきちんとしているので教育訓練のコストが少ない。」と見做されていたのです。よって、入学試験の偏差値の低さは、”体育会系”である事によってカバーされました。それどころか、大学や高校に入ってからの学業成績さえさして考慮されませんでした。
だが、大学や高校だってかような人間を集める事に実に熱心だったのです。大学においては、学業成績が好ましくないが体育会系でしかもスポーツの成績が良い受験生を受け入れるために「第2文学部」「経営学部経営学科」等の”特別な”学部や学科が用意されました。
個人的にはこの”体育会系”偏重主義により、某高等中学校で非常に苦しい目に合いました。入学して、たまたまくじ引きで”体育委員”となり、委員会に出席してみたらば、いきなり「この中から体育クラブに入っているものはそのまま帰れ」と言う。で、残った者の中からいきなり籖引きが行われ「当たったものは応援団だ」と言う。つまり、騙され、無理やり、本ホームページ提供者は応援団をやらさせる事になった訳です。これは、心理的にも非常な痛手だっただけではなく、勉学や自分のやりたいことを見つける点においても計り知れない損失でした。何しろ、1年間、毎日のように放課後大声を出させられ、罵声を浴びせかけられ続けたのですから。消極的に練習をサボり、2年になる時には脱会しましたが、その時には本ホームページ提供者の自発的な意欲なんてものは、すっかり萎えていたのでした。ちなみに、本ホーム頁提供者は、自ら好んで囲碁部に入っていたのですが、勿論こんな調子では囲碁部ではロクな成績を残せませんでした。東奥日報誌の縮刷版に恥ずかしい碁譜が今でも残っているだろうと思います。(^_^;)それにしても、欧米においては囲碁やチェスはsportsの部類なんですけどね。そうそう、それに、この高等中学校の校訓は「自律自啓」でした。この当時の校長や教員は先人が残した校訓を何だと思っていたんでしょうか。
また、小生が大学生だった頃、某大学の入学試験でこんな事があったと言う”伝説”が流布していました。曰く「某大学がスポーツの成績が優秀だった学生を入れさせようとしたが、英語が零点になりそうだった。内規では何れかの受験科目が零点だったらば流石に駄目と言う事だったので、関係者は焦った。ところが、答案を良く見た所、”Tokyo”と言う綴りだけがまともにできていた。そこで、これに1点を与えて、無事入学させた。」と。
舐めきっている人たち、または差別する人たち(ヒロシマ・ナガサキ60年10月01日初出)
多くの証拠から、平均的に日本人が研究や調査、分析と言った高度な情報処理の仕事が安直に出来る代物であると認識しているのが明らかですし、勿論その価値を殆ど認めていないのも明らかです。
例えば大学は遊んで卒業できるとの認識と裏腹でしょう。(高等教育は遊び)そう言えば、小生の職場の後輩を大学院に通学させる計画を立てるにあたり、何人かの偉い人たちは「職場で仕事をしながら大学院に通えば良い」と宣ったのでした。少なくとも、心理学や人間工学と言った分野の大学院においては、片手間で修了する事は絶対的に不可能である事をまるで認識できないようです。彼らは、科学や技術や学問を舐めきっているのです。
では、どう見ても我が国がどのような分野であれ科学や技術によってご飯を食べているのが明らかな事を、これらの人たちはどう心の中で辻褄を合わせるのでしょうか?それは、ずばり「差別」によってであるように思われます。科学や技術に専心したり専従している人々を3Kとしたり、「オタク」と罵声を浴びせたり、「難しい事を言っているが現場では使えない」と蔑称し、煩瑣なだけで実はやっている事は単純な規則や組織体系を作る事で、彼らは科学者や技術者を従属させ、沈黙させ続けているのです。
理工学部
明治以来、何とはなしに理学と言う用語は工学と言う用語と密接不離のものとして語られてきたようです。これは、欧米に対抗するためにその果実だけを急激に輸入する必要から行われた事でした。だが、これほどバブル的生産を喚起し続けた概念はない、と本ホームページ提供者は主張します。大正期あたりで、理工学部と言う用語は撤廃されるべきでした。
と言うのは、理学とはつまりはscienceであり、実証データをもって世界を説明する原理を探求するものです。これには当然人間を科学する事も含まれるのであり、人類そのものが自己反省を行う行為を含むものです。ですから、理学と言うのは、歴史学や経済学にもごく近い、と言うよりも基本的に同じことをやっている行為なのです。対象が人間以外の存在であるか、人間関連であるか、の違いだけです。他方、工学はtechnologyであり、欲望に従って世界を改変する行為であります。例えば経営学科は非常にしばしば経済学部の中に経済学科と並んで設置されていますが、冗談ではありません、経営学はtechnologyに属する行為なのです。
よって、本来理学は工学の暴走を防ぐ働きがある筈です。工学が妙に発展すればどうなるのか、を予測するのもまた科学の仕事に当然入るからです。これらが”結託”してしまえば、これは裁判官と検察官がツーツーであるようなもので、恐ろしい事態に至るであろうことは当然です。だが、目先だけの銭儲けの為には自己反省たる科学なんてないほうがいいのです、目先だけの犯人でっち上げの為にはまともな裁判官がいないほうがいいのと同じように。果たして、バブル当時の人々は、皆が同じ対象に投資を続けていれば過剰生産となり、やがて投資対象の値段は暴落すると言う事さえ分かっていませんでした。
※より厳密に言えば、財が有限であるならば、買い占めにより価格は只管高騰します。だが、技術が発達した今日において、殆どの商品財は有限どころか、買えば買う程生産者が増大するのです。例えば、ゴルフクラブ会員権がその典型でしょう。ゴルフクラブ会員権の値段が高騰するに連れ、日本全国がゴルフ場化して行きました。そして、消費者は極端に増大する事はありません。財の消費こそがそれなりに発達した社会においては真のボトルネックなのです。サプライサイドの経済学と言うのは、それなりに発達した社会においては適切ではありません。だが、投機者たちは、あたかも全ての投機の対象は有限財であり、消費者は無限に沸いて出てくるかの如く振る舞うのです。
海外資産

これに直接関わった人はもとより多くはありません。だが、我が国の財を直接失うと言う点で、実に害のあったもののようです。高根でアメリカ等の不動産を購入し、経営に失敗すると安値でまたアメリカ資本に売り払ってしまったからです。それらの差額は、まるまるアメリカの儲けにになりました。これらが一体幾らになるのか、まともに計算できている学者はいないのかも知れません。おまけに、これらの不動産資産は、アメリカ等の経済がまた順調になると値上がりした訳で、最初に高値で購入した日本企業の機会利得の喪失をも齎した計算になる訳です。
クルマと交通

バブルの中のバブル、バブルの王様です。2002年春の現在、建築物については無駄だったものが実に多い事を認める人たちも、コト交通関連での「溢れる過剰による貧困」が跋扈している事を認め得る人は多くありません。人々はクルマに嗜癖しています。クルマは人々を狂わす、”狂う馬”でありましょうか。そして、クルマ、特にマイカーの激増と道路の激増は表裏一体で進められたのでした。
ある研修にて
本ホームページ提供者は、1989年9月に職場の長期研修に入りました。開発や研究担当者ばかりの研修です。その中での一こま。OR(Operations Research)の実習にて、部外講師が見えて、幾つかのグループに分かれての修得でした。部外講師は、ある農村に農業道路を引いて農産物の搬出をより良好にする計画の最適化問題を出しました。本ホーム頁提供者が属していたグループのメンバーは”優秀”であり、立ち処に最適解を算出して見せました。解はどこから見ても完璧であるように見えましたし、実際その後の教育でも部外講師が示した解説では我々の解と同じ結果で解説が行われました。だが、グループで結果を出した直後に何故か部外講師は繰り返し「本当にこれでいいですか?」と念を押したのです。
部外講師のこの念押しは長年本ホーム頁提供者の疑問になっていました。何故講師はああもくどく、それでいいのかと尋ねたのか?だが、バブル現象をはっきりと認識するようになって、改めて講師の偉さを本ホーム頁提供者は認識したのです。即ち、講師は道路を附設するコストを考慮したのか?そもそも道路を造らないと言う判断はないのか?土建利権は道路附設のコストを上昇させるのであり、当然より慎重に判断するべきではないのか君たちは一応”優秀”な人達なのだろう、だったらそのような判断もできるようになるべきではないのか?と言いたかったのではないだろうか?と。
クラウン(ヒロシマ・ナガサキ61年07月11日初出)
トヨタ自動車製造販売の高級乗用車。1955年に初代発売開始。以降、「レクサス」が登場するまでは日本最高の乗用車とされ、「いつかはクラウン」と言うトヨタ自身によるコマーシャルフレーズと共に、あこがれの乗用車としての地位を占める。また、所謂”黒塗り”として要人の専用車としても多用される。バブル崩壊後に登場したバージョン以前は、ふかふかした乗り心地、豪華な内装と言った評価を得ていた。
バブル時迄のバージョンのクラウンの存在は、クルマが実用道具であると言うよりも、経済的成功のステータスシンボルや憧れの商品として使われた状況を如実に示しています。トヨタ自身も1960年代後半、カローラを売り出し、これは”大衆にとっての憧れのクルマ”としての地位を狙って売り出され、クラウン同様に成功を収めました。どのようなクルマを使うかによってステータス、つまりは権力の大きさが誇示されたのです。
少なくとも都市部ではクルマは実用品では必ずしもありません。日本の公共交通を担った人々は奮戦し、クルマの数が人口の半分を超える現在においても公共交通は田舎においてさえ手頃に使えるシステムとなっています。特に、長期的視点に立てば、公共交通や歩道の整備を要求しそれに見合った税金を支払う事と、手っ取り早くクルマを買う事のバランスは非常に微妙です。即ち、クルマは基本的にはステータスの誇示及び自分自身が然るべき地位にある事を確認するための道具、として専ら消費されたと言えます。子供たちがお互いが持っているメンコやカードの強さを誇示し合うように。その頂点にあったのがクラウンであり、かような階層システムを生み出したのもまたクラウンであったと言えます。だが…そんな程度のために、毎年大量の交通事故死傷者、莫大な道路への投資、多大な排ガス公害などなどが生じたのでした。
なお、クラウンが変身し、レクサスや日産のシーマがクラウンに匹敵する高級車として登場したバブル期以降も、高いステータスを示すクルマがなくなった訳ではありません。大ぶりで豪華な内装のクルマが高級車と見做され続けている点には変わりがありませんが、高級車も走行性能が上がり、乗り心地もふかふかと言うよりも固く、刺激的なものが好まれるようになっています。クルマを運転する事が極めて普通の事となり、金満家や権力者も必ずしもお抱え運転手に運転させる訳ではなくなった事を反映しているでしょう。また、カネや権力を持っている事の誇示が文字どおりの筋力≡パワーの誇示と見做されるようになり、クルマにも俊敏、大馬力等のイメージが求められるようになったからと言えます。人々は、只管機械を操る事に執着していると言えます。この時代以降、ロボット技術が向上し、パソコンが急激に普及した事もあり、人々は機械を操ることに益々魅せられたと言う事でしょう。だが、機械は所詮機械、大きな限界があり、生産の根源は人の能力である事には何ら変わりがありません。人の能力を蔑ろにし、人から支えられる事を喜ばない(逆に、人を支える事にも楽しみを見いださない)と言う点で、バブル後に登場したクルマを巡るこの傾向は、バブル的生産様式と一貫したメンタリティを示しているものとも言えます。
クルマと同じく早い(ヒロシマ・ナガサキ61年09月14日初出)
ある朝、私がいつもの通勤電車に乗っていると、途中からどやどやと3名程の高校生と思しき若い男たちが乗り込んできました。この路線にはかなりの部分で一般道路が平行して走っています。朝の事とて、同じ方向に多数の乗用車が、かなりの速度で走っていました。さて、彼らの一人が駄弁って言うには「お〜、この電車クルマみたいに早く走ってるよ〜」。
唖然としました。狭軌の通勤電車と言えども、最高時速は120km近くにはなります。駅毎に停車するとは言え、クルマが電車と同じ実効速度で走っているほうがむしろ、おかしい。クルマは途中で信号機付き交差点がありますし、勿論最高速度は高々40km程度に押さえられているハズです。だが、殆どのクルマは明らかに常態として速度違反をしてその分歩行者等に大きな危険を負わせています。交差点でも無謀な行為が実に目立つようになりました。電車は滅多な事では事故を起こしませんが、クルマは日常茶飯事です。「クルマは無理と大きな損害を重ねて、時折ようやっと電車と同じ実効速度で走っている」と表現するのが適切なのです。この高校生君にかような観念を植えつけてしまったのは、大人の責任と申せましょう。そして、それはバブル的生産様式の中から生み出されたものだったように思えます。
ところで、彼の観念の歪みはこれだけではありませんでした。彼は続けて話題を転じて「…高生はバカだよな」と言い出しました。他の2名が「いや、そんな事は…」と言っても彼はその主張を曲げませんでした。確かに”…高生”はその入学偏差値が何割何部で表現したイチローの打率と良い勝負である事でこのあたりではつとに有名です。だが、彼の”本当の賢さ”も随分な水準であるように思えるのです。
黒塗り(ヒロシマ・ナガサキ61年07月11日初出)
”偉い”人専用の高級乗用車の俗語。封建時代の王侯貴族の馬車に相当。専属運転手が付くのが普通。賓客が来る場合には、トップ等が賓客を乗せて同乗し、もてなす。車種としては非常にしばしばトヨタのクラウン、日産のセンチュリオン。三菱系企業の場合にはデボネア。
黒塗りの実態は文字どおり黒く塗り込められており、なかなか表立っては現れないものです。そもそも、定義が些か曖昧です。よって、台数が日本全国でどれだけあるのかは判然としません。これは、公共組織においてさえそうなのです。1990年代に入って、各地でオンブズマンが活動するようになり、かつインターネットの発展があって、やっと情報がぼつぼつ公開されつつあると言う状況です。だが、どのような組織でもトップに成り上がった人は必ず黒塗りを愛用し続けています。”それなり”の企業で黒塗りと専属運転手を抱えていない所はまずないでしょう。そして、黒塗りの走行距離は通常極めて少ないものであり、当然専属運転手もまた然り、と言う訳です。勿論、台所が苦しくなると、専属運転手が兼務と言う所もまた多い。ここらへんは全て”黒く塗られた”世界の向こうに未だ存在しています。
黒塗りの必要性は、実は極めて低いと言うべきです。タクシー会社は通常”ハイヤー”と称する高級車両をも提供しています。黒塗りの走行距離は極めて低いのですから、概ねハイヤーで足りるものです。実際、各地のオンブズマンの試算はそうなっています。直ちに使えるようにする、と言う理由もあるかも知れませんが、直ちに使えるようにするためには予備がいるのであり、ハイヤーを持っているタクシー会社は周辺に幾つもあるのが普通です。黒塗りの中で秘密の話をする、と言う理由もあるかも知れませんが、大部分の黒塗りは偉いさんの送迎に使っているに過ぎないのですから、まず必要がありません。
結局のところ、黒塗りと言うのは組織内の権力を誇示し、自己満足を図るためのものと言い切って差し支えないでしょう。そして、権力と言うのは非常にしばしば科学的合理性や協同性と相反するものであり、本質的にバブル的生産であると考えるべきです。
そう言えば、私が以前母校の大学の行事に参加した時の事です。帰路、大学のキャンパスの中に黒塗りがやって来て、OB参加者の一人、森永乳業の偉い人を乗せて帰って行ったのでした。大学と言うのはマトモな所であれば黒塗りが乗りつけるなんて事はまずもってありません。学問は権力と本質的にそぐわないものです。誠に奇異な風景でした。そして、森永と言うのは1955年06月、所謂森永ヒ素ミルク中毒事件を起こした事で安全やリスク管理関係では極めて著名な企業です。確認されただけでも乳児死亡130名、中毒症状12344名を出し、生き残った子供たちも神経症状等で長く後遺症を残しています。何しろ”身内の不祥事”は隠す奴隷体質が身についている我が国ですから、実際の被害者はもっと多いものと考えて良いでしょう。でまぁ、勿論この森永の偉い人は直接の責任者ではなかったでしょうし、事故から40数年も経過してはいます。だが、私が彼の立場だったらば、恥ずかしくて黒塗りなんぞには乗ってこれなかっただろうと思います。黒塗りは恥の感覚を塗り込める作用があるのでしょうか? 大妻女子大学の校訓は「恥を知れ」と言う誠に男らしい骨っぽいものだそうですが、残念ながら我が母校は男女共学大学なんであります。それはともかく、黒塗りと言うのはかくの如きものであるようです。
健康被害
花粉症なんて、バブル以前は一般的ではない病気でしたが、すっかり蔓延してしまいました。最初の花粉情報がマスコミで流されたのは1987年03月09日です。花粉症、喘息、アトピー等の様々な免疫系疾患に自動車の排気ガスが重大な負因となっていた事は、これから益々究明される事でしょう。2002年現在、喘息とディーゼル排気ガスとの因果関係は、概ね誰もが認める負因となりつつあります。
国鉄
日本国有鉄道の略。第二次世界大戦前から各鉄道会社を合併させて形成した巨大鉄道網。1987年、JR各社に分割民営化。
極めて早期から、各政治家による鉄道の地元利益誘導により、赤字ローカル線が多数付設され、国鉄の赤字は膨大なものになって行きました。拡大する鉄路に鉄道マンの充足が間に合わず、労働争議も華々しいものになっていきます。そして、民営化されてJRになるや、それら大量のローカル線は悉くが廃線になって行きます。
結局、無理やり引いた鉄道は、田舎にとっても何の利益も齎しませんでした。民営化は問題の”解決”ではありませんでした。そもそも問題が起こるべくもなかったのであり、マッチポンプと言うべきでしょう。
自転車(ヒロシマ・ナガサキ60年3月9日初出)
どのような技術や道具であれ、それが主流であるか隙間的な存在であるかは、様々な条件によって決まるものです。自転車は、比較的平坦で積雪も少ない場所においては十分主流の交通手段になり得るでしょう。しかしながら、自動車と関連施設をバブル的に増産する事で経済を維持する事に慣れてしまった日本では、自転車に対しては一貫して殆どなんの投資も行われてきませんでした。大都市部の駅近隣で通勤手段としての自転車駐輪場が積極的に整備されるのは、ようやっとバブル期以降の事です。
自転車は、欧州諸国においては交通手段の面もさる事ながら、有力なスポーツでもあり、道路で競技するロードレースが極めて盛んです。勿論、我が国においてはそのような事はありませんでした。競輪は日本独自の自転車競技ですが、皆が楽しむスポーツではなく、ギャンブルに過ぎませんでした。博打や飲酒にしか楽しみのない低所得階級からかき集めたカネで笹川良一とその財団(※今日の日本財団)は羽振りを利かせ続けましたが、同様の類でした。日本においては一貫して、スポーツ自転車は殆ど市民権を得られなかったと言えるでしょう。
本ホーム頁提供者は、まさにバブルの時期とその残り香がたっぷり染み付いていた時期にスポーツ自転車に親しみ、これらの矛盾と問題を目一杯浴びながら走り続けました。また、自転車ロードレースはまさにバブルの頂点の時期に日本において華々しい大会が開かれました。二度と日本で国際ロードレース大会が開かれる事はないでしょう。
自動車事故によるリスク
自動車事故による年間負傷率は、1970年頃の年間人口比1%近くをピークに暫時減少して1980年頃には半減したものの、その後バブルが弾けた頃からもりもり上昇を続け、2003年現在は、再び年間1%程度のリスクに戻ってしまいました。元の木阿弥と言う訳であります。リスクの反騰はバブル後ではありますが、生産力の増大がまるで身についていないと言う点で、誠にバブル的な現象といえます。
他方、死亡者数は警察庁発表のデータでは暫時減少を続けていますが、厚生労働省発表の値はこれよりも5割近く多いのです。警察庁の統計は事故によって24時間以内に死亡した件数だけをカウントしているからであり、厚生労働省は事故との相当因果関係がある場合を全てカウントしているからです。そして、マスコミはあたかも自動車事故による損害は減少し続けているかのように、警察庁の死亡統計だけを報道し続けています。マスコミはごまかし仕事(ごまかし仕事)をしています。
シルバーシート
1973年9月15日、東京の中央線の電車に初めてシルバーシートが設置されました。老人、妊婦、病人等を優先的に座らせるべき席として設定されたものでした。座席に余裕があって、疲れた人なら誰もが座れるならばこのようなものは特に必要はなかった筈なのですが、大の男も皆、過剰労働と遠距離通勤で疲れており、老人等にも席を譲らないと言う非難に答えるために設定されたものです。爾後、シルバーシートは、様々な鉄道やバスに蔓延していきます。
高度経済成長が終了するまさにその瞬間に登場したシルバーシート。「計画性なし、都市へのまともな投資なし、人間への支援なし、公共機能軽視、個人の努力に全ての矛盾皺寄せ」の高度経済成長〜バブル期間の社会風潮と権力関係を如実に反映した代物でした。2002年の今、皆疲れ果てているのであり、シルバーシートは事実上意味を失っています。

バブルの時、流行ったのが白いクルマ、でした。ゴージャスとかのイメージだったのでしょう。
この色だと、東京近辺は空気がクルマによって汚れているので、直に黒い線がボディに出てくるのであります。クルマにとっては自業自得だが、クルマを持たない、持てない人間にとっては公害以外の何物でもない、のはタバコと同じこと。
新型車両(ヒロシマ・ナガサキ61年10月06日初出)
2006年12月に、JR中央東線の東京←→高尾間の通勤電車に新型電車が投入される事になったとの由。アンケートによってつり革や網棚の高さ等を5cm程低くし、保安装置を二重にして故障耐性を高めたもの。この区間に新型車両が投入されるのは、実に24年ぶりとの由。
実はここらへんの区間を頻繁に利用する私はこのニュースを読んで激怒してしまいました。4月に転勤した先の職場のあまりの状態に疲れ果てて激怒する余裕なんてないのですが、それでも激怒してしまったのであります。
理由の第1は、”アンケートによって”寸法を決めたと言う所が余りにも非科学的。と言うのは、かような人体計測によって設計を決める方法は人間工学の基本的な方法の一つであり、あまりにも当たり前の事をどうしてやっていないんだろうと言う事です。研究開発の投資をケチったとしか思えません。
第2に、優先席と女性専用車での網棚やつり革の高さを別途調整したと言う点です。当たり前の話ですが、女性専用車は朝以外には男女車両になります。身長の高い女性もいます。その車両は身長の高い人々には逆に使いにくいものになってしまうでしょう。優先席も同様です。妊婦は全て身長が低いのでしょうか?小細工を弄しても効率はさして上がらない。
第3には、これら第2の問題のような小細工を弄して、より本質的な問題が全く手つかずになっている事です。地元優先と言う美名の元に地主の財産保全を優先させ、この年がら年じゅう込み合っている中央線の相当部分が未だに複々線になっておらず、2005年の時点でようやっと全線高架化の工事が様々な犠牲の元に行われていると言う有り様なのです。また、複々線化されている一部の区間も各駅停車と快速が同じプラットフォームで乗り換えできずに、ために各駅停車の利用率が極端に低いままです。
第4の理由は、24年ぶりにようやっと新型車両が投入されていると言う事です。まぁこの間に老朽化した車両が更新されなかった訳でもないでしょう。だが、それらの老朽電車は、青梅線や五日市線等に回され、ぼろぼろの不愉快な代物となっています。と言う訳で、「青梅線の歌」を歌います。「線路は続くよどこまでも」の曲でどうぞ。
電車はぼろいよ 軋んでる
線路はいいけど 駅臭い
中央線の お下がりで
今日も走るよ 青梅線
誰もが使う、超重要路線に対する投資がこのような有り様。方や、カモシカや狸が乗るのかと言う過疎地に次々と建設される新幹線と高速道路に飛行場…。
「諸君、これが日本だ!」
新東京国際空港
所謂成田空港の事。航空需要の増大によって羽田空港が満杯になる事を見越し、1966年に建設の閣議決定。1978年5月20日開港。
だが、この空港は実に大揉めに揉めた空港です。当初は千葉県富里に新空港を建設する計画が発表されたものの、地元の強い反対によって今度は千葉県三里塚に建設する事がいきなり、何の根回しも無く閣議決定されました。この変遷の背後には、右翼系有力政治家同士の抗争があったとも言われています。他方、都道府県知事等が公共の福利に必要と一方的に認定すれば土地を強制的に収用できるとする土地収用法も制定したため、紛争は一層激しくなりました。これらにより地元農民は強硬に反発、反対運動に左翼系過激派も乗り、過激派と政府、千葉県、公安当局の文字どおりの殺し合いの戦いに発展してしまいました。1995年に至って、ようやっと政府はこれまでの建設手法の非を認め、一部反対派と和解したものの、2003年現在なお滑走路の拡張等が思うに任せない状況です。
この空港は更にアクセスについても多くの問題を抱えてしまいました。東京都心から遠くなってしまったと言うのはともかく、当初は新幹線を乗り入れる予定で地下駅まで建設されながら、結局は新幹線の乗り入れはなく、成田線から分岐延長した在来線が乗り入れました。他方、当初から京成電鉄は積極的に延伸しようとしたものの、空港ビルから直接乗り入れる駅はなかなか建設されませんでした。JRの乗り入れ駅も遠いままに推移し、乗客はバスにえっちらおっちら乗って移動しなければなりませんでした。これらは過激派対策と言う見方もできますが、何か利権絡みの抗争があったとも、そもそも計画なんて何も考えていなかったとも見て取れます。かくして驚くべきことに、この空港は新幹線を利用しても、飛行機を利用しても、東京近郊以外の地域からの乗り継ぎが極端に不便な東京圏ローカル国際空港になってしまいました。それどころか、東京近郊からさえ直通電車が殆どなく、渋滞に巻き込まれる可能性が高いバスしか使いようがないのです(※例はこちらの「シンガポール旅行記」にて)から、絶望的です。
この空港は、バブルを生み出した日本の歪みを相当直接的に映し出していると言えるでしょう。日本全体として見れば明らかに大規模空港を作る必要があるにも拘わらず、幾ばくかの農民地主の利益が優先するとする観念が流布していました。他方、政府は実に高圧的な態度に終始して建設を進めたのであり、コンセンサスもへったくれもあったものではなかったと評価できます。そして、2000年代に至ると、東京都に再び国際空港を持ってきたくてしょうがない石原慎太郎知事等が羽田だ横田だと言い出し、国際空港成田一本化路線に揺さぶりをかけてきます。利権と権力争いによってグランドデザインが目茶苦茶にされ、全体的な投資効率がどんどん低下すると言う病を象徴する空港です。
※ところで、前々から思っているのですが、これまたバブルを生み出した土建利権の象徴である「東京湾横断道路」。これって、当初の新東京国際空港富里案との絡みが何かあるのでしょうか?
台数
次の表は、自動車登録台数の一覧です。1974年の石油ショックで「石油がなくなりそう」と言う事を誰もがはっきり認識し出してから最もエネルギー効率の悪い交通手段が倍以上に増えるのだから、そもそも頭がどうかしていると言うべきです。
特に、このようにデータを集計して並べてみて驚くのは、長銀や山一證券の倒産が起こった1997年に至るまで、自動車登録台数の増加率がさして減少していないと言う事です。全体的な増加率の低下傾向は顕著ですが、逆にバブルの絶頂とされる時期の増加率の増加は僅かなものです。バブル的な生産構造は1997年迄続いていたと言う風に考えるべきなのでしょう。
ところで、この表にはご覧のとおり欠落部分があります。2003年以降のデータも入手出来ていません。各市町村や都道府県単位の登録台数は各自治体がネットで容易に見えるようにしているのですが、総登録台数の統計はネットで容易にアクセスできるようになってはおらず、この表は相当苦労して、あちこちの都道府県がこま切れに出している資料を繋ぎ合わせる等して作成したものだからです。そして、全体的な統計は、日本自動車検査協会と言う国土交通省の外郭団体が数万円(!)で販売しているのです。国民の知る権利は事実上侵されつつあると言えるでしょう。勿論、こういう統計が容易に国民からアクセスできるようになっていないと言うのも、バブルの根幹たる非科学性の一端ではあります。

駐車場
本ホームページ提供者の記憶の中では、かつては町のあちこちは野原や空き地で、そこは子供が遊ぶか、野良猫が散歩するか、野の花が咲き乱れておりました。家々の庭には様々な野菜や木が植えられていました。現在、それらの”空き地”は全て駐車場となり、かつて存在していたそれら生きているものたちは、”蒸発”してどこかに行ってしまい、後はアスファルトで固められてしまいました。都市がヒートアイランド現象を起こすわけです。
認知構造(2005年11月17日初出)
バブル的生産様式の”論理”は我がかみさんを観察すればたちどころに明瞭になるのでありまして、これはクルマに関する”常識”についても同様です。東京近辺の交通至便な所に住む私はかつてクルマを持っていた事はあっても今は勿論クルマを持っておりませんし、大体彼女も自分では殆ど運転した事がありません。その父親がクルマが好きで未だに保有して乗り回し、自分自身の実家や妻の実家を訪問するにもクルマにしている程心身が頑丈なので、実家に行く度に乗せてもらうと言う生活をしています。さて、このような彼女の”クルマでの移動がどれほど便利でコストが低いか”の”意識”の一端と言うのはこういう所です。
これでも、まだ…?
彼女の中にあってクルマは”必須”らしいのですが、私の家は、
「500m先には4線相乗り&バス停留所付き・目下駅舎と駅前広場&道路大拡張中の駅、100m先には小学校、200m先には巨大総合スーパーマーケット&大型食品スーパーマーケット&大型総合病院、マンション入り口前にはコミュニティバスの停留所、マンション裏手入り口には児童遊園、裏手300m先にはタクシー会社本社、500m先には森の深い公園」
と言うマンションなんであります。これで一体どうしてクルマが”必要”なのか、私には彼女の心理と論理は想像を絶します、ああ心理学者失格だ〜。
ちなみに、マンションの他の住人もかなりの人が彼女と同病のようでして、マンション全戸分は駐車場がないために、駐車場を巡ってしょっちゅう啀み合ったりしております。2006年02月現在、駐車場空き待ちの戸が実に全戸数の3分の1もあると言うのです。
ゼロ
我が子の幼稚園での同級生が小学校お受験をしました。で、この事に関する夫婦の会話で曰く「あのお宅はさっとクルマで移動するから…」。つまり、電車ではなくいざとなればそのお宅は親がクルマで子供を私立小学校に送り迎えすると言う話なんですが、この話題で対象となっていた小学校と言うのはそのお宅から十数kは離れています。
東京近郊のこの辺りの朝晩は、これはうっかりするとまるまる1時間はかかってしまう距離です。しかもそのお宅には下にもう一人いて、9時半頃に小学校とは反対方向自宅から1.5kmにある幼稚園への送迎も行わなければなりません。父親の仕事はどちらかと言えば時間が不規則で勤務時間が多めのようであり、私の目からはあまりアテになるようには見えません。となると、そのお宅の母親は二人の子供を乗せて毎日朝7時頃に出発して8時前頃に小学校に到着、そのまままた幼稚園に下の子を送り届けると言う生活をする事になります。下の子は毎朝1時間半程度のドライブをするかも知れません…。
と計算すると恐ろしくてやっていられないんですが、私のかみさんの頭の中では十数kmと言うのは20分もあれば到着する事実上ゼロの距離と言う事になっているようです。(;
老化と苦労と
と言う訳で、私自身もかみさんの実家を訪問する際には義父のクルマのお世話になるのですが、流石に高齢でそろそろ運転が危うい所があるな、と思われる時が出てきました。そもそも、昨今の道路事情は悲惨さを加える一方です。これで壊滅的な結果が起きていないのは、ひとえに甚だしい渋滞が恒常的に続いているからだと断言できますが、ドライバーの心身の負担は増える一方だと言えます。もっと負担が増えているのは歩行者なんでありますが。
でまぁ、かみさんは義父の運転技量の確実な低下もどうやら見えていないようですし、道路交通の悲惨化もまるで見えていないようです。マイナスに目を瞑れば、+しか見えないのは道理と言うものです。
歩道橋沖縄県那覇市県道221号線与儀交差点にて2002年12月撮影
歩道橋とは、交通量の激しい道路を跨いで作られている跨路橋のことです。クルマがすいすいと走る上を、必死の思いで人は登り降りをして道路を渡ったのでして、極めて多数が設置されました。勿論、エスカレーターなんてのは付けられませんでした。余りにも歩行者にとって負担が多く、流石に近年新規設置はなくなりました。将来的には消滅する可能性がありますので、記録として記載しておきます。こんなに老人子供を含めた歩行者を苦しめてまでお車を快適に通そうとした、と言う記録、です。
建築物

道路等の公共事業と共に、バブルの中のバブル、バブルの王様がこれですね。今更申すまでもありません。
そういえば、本ホームページ提供者は子供の頃、エジプトのピラミッドがどうして作られたかを不思議に思っていたもので、やがてそれが王の権威を誇示する単なる宗教的意味合いに過ぎなかった事を知るや、「何て馬鹿な人たちなんだろ〜」と思っていたものです。だが、人間と社会の本質の理解において馬鹿だったのは本ホームページ提供者の方でしたね。目下、我が国は”ピラミッド”、それも人々の心に働きかける事さえない”ピラミッド”を次々と作って飽きる事がないのですから。交換価値とは、終局的には単なるコトバのことです。つまり、人間は、自分たちが作った”コトバ”に支配される存在なのです。
AIDS(ヒロシマ・ナガサキ62年06月26日初出)
通常はAIDSと言えば疾病名ですが、バブル期においては最も派手に不動産投機を繰り返した企業である麻布建物、イ・アイ・イ、第一不動産、秀和を指しました。これらの企業の幾つかは犯罪に関与し、全て速やかに消滅して行きました。
アスベスト(ヒロシマ・ナガサキ61年11月01日初出)
珪酸マグネシウム塩を主体とする天然鉱物線維。難燃性があり、繊維状であるので、一時期盛んに用いられたが、古くから肺癌を多発させる事が知られており、世界的には暫時廃止。だが、日本においては2005年にアスベスト後遺症によるガン患者が多数発見され社会問題化。法律の未整備も発覚。
もはや狂気としか言いようのない怠慢と言えます。アスベストを利用して儲けた連中もまたアスベストによる被害から逃れられません。現代におけるリスクというのはこのような”遍在性”を持ち、誰が責任を負うべきかが判然としなくなると言う「リスク社会」論をBeck1989は展開しました。そのとおりの事がアスベストではこれから更に起こるでしょう。
だが、お上品な言葉でごまかすべきではありません。アスベストの害は相当早期から明らかでした。アスベストは建物の防火には抜群の性能を発揮しますので、これなしで建物の防火に十分を期そうとするならばよりしっかりした都市計画が必要とされたのに、誰もそれを供給しませんでした。関係者の怠慢と多少の金銭的利益への誘惑に勝てなかった事により、恐るべき損失が日本中に散まかれたのです。
小中学校校舎(仏暦2551年06月25日追記)
土建バブルの影響が殆どなかったと言って良いのではないでしょうか?少なくとも小生が見る限り、バブルの時期に義務教育の学校の建物が積極的に立て直しされた例と言うのは、あまりないような?相変わらず生徒たちは1学級40人の部屋に詰め込まれています。おまけに、耐震性も不足の建物が多いのです。2008年現在、全国の小中学校の60%少々しか耐震補強工事が完成していません。2002年現在、小生の地元の市では、小学校の便所の老朽化が問題になっています。大学でさえ、一般の講義を行う部屋は椅子の間隔が狭く、カバンやコートを置くのにさえ苦労します。この時期にも積極的にカネを集めて施設を整え続けたのは私立学校であり、それが私立学校の評価を益々高める重要な要因となっています。
とは言え、2008年06月、思わぬ所で「小学校校舎にもバブルがあったのだ!」と世間に知らしめる事件が発生しました。東京都杉並区杉並第10小学校で、あろうことか校舎屋上から”校舎内の”1階に男子小学生が転落して死亡したのです。この校舎は、1階から3階迄が豪華ホールのように吹き抜けになっており、3階の上が屋上と言う構造だったからであり、死亡した小学生は天窓を突き破って落下してしまったのでした。勿論、かくも豪華な校舎は滅多にあるものではありません。そして、この豪華な校舎に似付かわしくない校舎の使われ方も明らかになってしまいました。彼は何も遊びでこっそり屋上に上がったのではなく、算数の体験授業をする(※歩幅を計り、平均を算出する)のに校庭の面積が足りないので、このクラスだけが屋上で授業をするハメになったのでした。屋上は明らかに施設維持の要員以外が通常出入りするような構造になっていませんでした。天窓の周囲には柵はなく、天窓自体の強度は人間が乗れるものではありませんでした。屋上は配管だらけであり、手すりの高さも低かったようです。校庭等の面積が足りないならば足りないなりに屋上が使えるように作れば良いだけなのですが、そうですらなかったのです。実用をきちんと詰めないために実用性がなく、見栄えの派手さだけがあった、と言うバブルの典型のような校舎でした。
青函トンネル
1985年3月貫通したものの、利用度は誠に低いとしか言いようがありません。諸外国人の目から見れば、このトンネルは津軽海峡が軍事封鎖された場合に対処する国防用としか思えないとか。経済的合理性が全く感じられないと言う訳です。
2004年現在、ようやっと新幹線が八戸まで来ている状態です。
建物の品質
1990年代後半から日本においても「住宅や学校等人間が中で活動する建物の断熱構造は内断熱ではまずいのであり、外断熱であるべきではないか?」との認識が広がって来ました。内断熱は結露が防止できないし、マンションでは無断熱が内断熱相当の状態になります。「Q値が同じならば外でも内でも断熱効果は同じだ」と主張する内断熱派も残っていますが、基本的な議論は「外断熱&防湿対策のための空気循環確保を施した建物こそが適切」と言う線に落ち着いたと言えるでしょう。だが、外断熱の建物は2002年の現在においても極少数派です。
また、1981年迄の建物は耐震基準が大幅に劣る事も今や有名になりました。高度経済成長が終わっても数年間は質の悪い建物が乱造されていた訳です。
更に重大な問題は、木造住宅の品質の悪さであり、2003年現在においても、新築木造住宅でさえ寿命はせいぜい30年に過ぎないのです。
これらの事共は、まともな研究を進める事もしないし、欧米の風潮から学ぶことさえせずにいい加減な建物を粗製乱造してきたと言う事なのでした。
※”外断熱”と言う用語は、正確にはコンクリート製建物の断熱方法の呼称であり、木造住宅の場合は”外側断熱”が正しいのだそうな。だが、物理学的に見れば、強度を担う構造部材の外側から丸ごと断熱すると言う点では同じ事であり、単に工法が違うと言うだけで異なる用語を押しつけると言う点に、非科学性と内輪の論理貫徹を見ると言ったらば、言いすぎでしょうか?
手頃な住宅
これは生産が極端に乏しかった典型的な例でしょう。静止人口を考慮すれば、一夫婦あたり1〜3人の子供と、場合によっては老夫婦の同居と言う所を狙っての適切な品質の住宅が大量に供給されるべきでした。だがその結果は…惨憺たるものであり、非人間的です。勿論、高度工業国家の国民を育む環境からは遠いものです。
住宅に関する悲惨な生産状況は、土地と建物の価値に関する歪みきった値付けに現れています。不動産の価値は土地の価値と建物の価値に大別されます。だが、一貫して土地の価値だけが過度に尊重され、建物の価値は蔑ろにされ続けている事は、バブル的生産そのものであると言えます。この捻じれた現象は、2004年の現在においても同様であり、特に住宅においては「うわモノ(住宅そのもの)は20年で価値はゼロ、土地の価値だけになる」と平然と語られており、また実際に日本の一戸建て住宅の圧倒的多数を占める木造住宅は頑張って30年程度しか耐久性がありません。ローンの支払いが終わった瞬間、家はゴミと化している訳です。
かくも低品質ながら、一戸建て住宅取得への社会的圧力は極めて大きなものがありました。「庭付き一戸建て」と言う言葉がありました。庭付き一戸建てを手に入れる事が男の甲斐性であるかのように喧伝が為されました。働く人々は、ゴミのような家を購入する為に労働の成果を剥奪されて行ったのです。
飛行場各種
空港がばかすか作られている事、狂気としか呼びようがありません。我が国が先進工業国から転落しようかという2002年初夏の今、静岡空港が建設されようとしています。関西国際空港は物理的に沈没しつつ(爆笑)、赤字が累積しつつあり、それでいて新しく横風滑走路が建設されようとしています。中部国際空港は日本で最も航空機が密集している空域(※ここは東京大阪福岡のジェットルートが走っているのです。静岡上空でJAL機同士が空中接触を起こしそうになった事件は、偶然ではありません。)の真下に、名古屋から遙かに離れて建設されました。本来そこに関西国際空港が作られる筈だった神戸沖合いには、神戸空港が作られました。それだったらば最初からそこに国際空港を作れば良さそうなもんなのですが。それでいて、周辺住民の健康を騒音によって蝕んでいる伊丹空港が廃止される気配はありません。(※あれは、伊丹ではなく”痛み”空港ですな。)
また、忘れてはいけないのは、農林水産省が推進した農業飛行場と言う奴です。これは1994年に成立したWTOとウルグアイラウンド対策として農業の競争力を増大させると称して行われた5年間で7兆2100億円と言う途方もない税金を投入して行われた事業のごく一部なのです。だが…勿論これらの飛行場もまた使われる事はなく、勿論日本の農業の競争力が増大する事もありませんでした。
飛行機は確かに早く飛びますが、決して空を勝手に飛び回っている訳ではありませんし、勝手に飛び回ることもできません。現在、我が国の空は管制不可能な状態に陥りつつあると言えましょう。
ミンチ解体
建物を壊す時に、部分毎にバラすのではなく、全体を重機によって叩き潰し、ごちゃ混ぜにして破棄すること。大量の産業廃棄物が出され、リサイクル率ゼロ。これが2002年7月の法律改正まで平然と行われていました。どうも小生の感覚では、バブルの前迄はそれなりに部品毎にバラす事をやっていたのが、バブルの時に急速に普及したように思えます。
臨海副都心
東京都、大阪府及び北九州市が、これを作ってしまって、恐るべき借金を拵えた事で有名。地元でないと案外見落とし勝ちです。
東京都の場合、年度一般予算が6兆円の所に2兆円とも3兆円とも言われている累積赤字のようですが、目下一所懸命隠しています。臨海副都心を作った鈴木都知事の後の青島都知事、そのあとの石原慎太郎知事、何れもこの件から逃げ回り、隠し続けています。有権者も問題視しようとはしていないようです。
コンピュータ

Windows
日本国内の各メーカーがバブル的生産に傾いて技術力と製品開発力を失って行ったのが1980年代以降の動向と言えるでしょう。
この間、Microsoft社のOSがパソコンにおいて独占状態となって行きますが、正にバブルが頂点を迎えた1990年前後、Microsoft社の独占は危機を迎えます。DOSの性能の限界は余りにも明らかとなりました。他方、UNIXがパソコンでも利用可能な程パソコンの性能は向上しつつありました。当然、GUIも搭載可能となり、GUIなパソコンOSへの期待が高まりました。既にマッキントッシュやAmigaは高い評価を得ていました。国産OSにおいてもX8600の評価は高く、Just-Windowsのようなアプリケーションを切り替えるタイプのシステムの利便性も認識されつつありました。勿論、BTRON・OSは圧倒的な操作性をもって完成に近づきつつありました。また、IBMはOS/2をもってDOSの次のOSとして投入する戦略を築きつつありました。
Microsoftは当初はIBMと連携を組んだものの離別、Windows3.0及び3.1を投入します。このOSモドキはDOSの上に乗っているタスクスイッチャーに過ぎず、極めて不安定でファイル構造にも進歩がないものでした。この基本構造はWindows Meに至るまで10年に渡って継続されます。だが、またしても独占状態を得たのはMicrosoftでした。
かくして、操作性・安定性・処理速度等殆ど凡ゆる面において劣り、投入資源量が大きいパソコンを人々は使わされるハメになります。人々は、これで良いのか、の判断基準さえも奪われ、Windowsを使い続けていきます。これはまさにバブル的生産そのものでした。日本人は経済的バブル崩壊後、海の向こうからやってきたバブルOSによって知的労働においても労働の成果を奪われて行く事になります。
シグマ計画
1984年に、通産省の諮問機関である産業構造審議会は、「1995年半ばにはソフトウェア技術者が大量に不足する」と言う所謂ソフトウェア・クライシスを主張し始め、これに対処するためと言う名目で1985年から5か年がかりで国費を投入してOS、それもUNIX・OSの開発が進められました。これをシグマ計画と称します。コンピュータハードウェアの進歩はこれ以上はあり得ないとの前提に立ち、OSの各モジュールを部品化してサーバーに保存し、各企業等に提供する事を目指しました。つまり、技術のあるプログラマがいなくても、モジュールを組み合わせるだけでソフトウェアができあがると言う訳です。で、これは国庫から250億円余りが毟り取られただけに終わりました。
ともかく名目がつけば技術的な検討もきちんと行われないままに国費が遠慮なく散蒔かれた、誠にバブル的なプロジェクトでした。また、国費が直接散まかれた訳でもないTRONプロジェクトとシグマ計画とが混同され、TRONプロジェクトの足を引っ張ったと言うオマケまで付きました。
そういえば、富士通のF-9450シリーズの最後から2つ目のバージョンはF-9450Σであり、まさに1985年に発売されました。中身は独自OSでしたのでΣ計画とは関係ないと想われますが、国家プロジェクトを連想させる事で売れたのでしょうか。こういう、技術の中身をきちんと押さえないでイメージで売ると言うのも、随分バブル的な事でした。
シグマ計画は別の、より重要な意味でも甚だバブル生産的です。シグマ計画がどの側面に投資を行ったかの観点からすれば、「プログラマーやSE即ち人を育てるシステムに投資せずに、たかが法律系官僚がこさえたシステムが人間の創造性を凌駕できると信じていた」点が最大の問題でしょう。その根本には「偉い人である我々が望めば、プログラマーなぞいらない世界が出来上がるのだ」と言う、生産の根幹と言う現実を無視した思い上がった発想がありました。シグマ計画はプログラマー教育システム構築計画でさえなかったのです。第二次世界大戦後日本のバブル的生産システムは一貫して人・自然・都市・公共への投資を蔑ろにし続けています。その”方針”はここでも遠慮なく発揮されたと言う訳です。
専用日本語ワープロマシン(ヒロシマ・ナガサキ61年06月16日初出)
1974年は高度経済成長が終了した時でしたが、ほぼその時、コンピュータ革命が始まりました。労働生産性の向上と生活者としての一人一人の生活を支援すると言う点において、コンピュータの利用は今一つ芳しくなかったように思われます。むしろもて囃されたのは、専用日本語ワープロマシンと言う装置でした。
そもそも1970年代の初頭、既に相当のコンピュータが普及していました。だが、それらは巨大で麗々しく大きな部屋に収まって”高級な”計算を実行しているものでした。私も1970年代の後半、大学においてFORTRANの演習を受け、自発的に熱心に計算機室に通いました。当時、コンパイルエラーを出しても、計算が上手く終了しても、1回あたり200円が徴収されました。これは2005年の物価水準からすると400円程度の感覚です。
だが、1976年08月、NECからTK-80が登場し、同時期にPET,Apple2等のアメリカ産パソコンが上陸、続いて多くの国産パソコンが登場するに及んで状況は一変します。極めて容易に、様々な計算やシミュレートが個人レベルでも実施できるようになったのです。また、始めてのコンピュータゲーム「エイリアン」が登場したのもこの時代でした。私とその大学の同級生たちは大学のコンピュータ室での計算機利用料の余りの高さに恐れを成して、その大型コンピュータを「恐怖のインベーダーゲーム」と呼んだものです。何しろ、インベーダーゲームは1回100円でしたから。
確かに初期のパソコン(※初期にはマイコンと呼ばれていました)は極めて高価でしたが、それでも大型電子計算機でしかやれなかった情報処理が個人レベルで出来るようになった事は驚くべき未来が約束された事でした。また、1983年10月には今日のジャストシステム社によりNEC,PC-100で動く最初のパソコン用日本語ワープロソフトが発売されました。こうして、概ね1980年代前半には個人の情報処理能力を飛躍的に向上させる素地が整っていた、と言えるでしょう。当時のお金でも概ね一人当たり50万円程度を投入すればパソコンを一人1台割り当てる事が可能でした。
だが、圧倒的に普及したのは、専用マシンとしてのワープロでした。最初の日本語ワープロは1978年に発表された東芝のJW-10であり、実に630万円しました。その後、1980年代後半に突入すると、10万円台の日本語専用ワープロ機が普及します。だが、これらは基本的に文書清書機能しか持ち得ませんでした。
第1の理由は、同じメーカーであっても多少機種が異なるともう文書を保存したディスクの間に互換性がなくなるからです。よって、「良く使う文書を定型様式化して共同で使う」と言う使い方さえ殆ど実行できませんでした。第2の理由は、やはり欧米諸国と比べるとタイプライターの歴史が事実上なかった事によるものでしょう。和文タイプと言うものが確かに存在しました。机1つを占領するほど大きく、操作に時間と熟練を必要とする清書マシンでした。欧米諸国の人々が自分の文書を作るためにタイプライターを気楽に使った歴史は日本にはなく、ようやっと日本語ワープロにおいてそれが始まったのです。人々は真っ先にパソコンや類似機能に日本語タイプライター機能を、それだけを求めました。この観点からすれば、パソコンは明らかに余分な機能が多く付いていて、意味もなく高価なものだったと言えます。
そもそも当時は、プリンターが様々な問題を抱えていました。主流であった感熱型は印刷物の保存が効きませんでした。ドットインパクト型のプリンターでの印刷物は耐久性がありましたが、印字が粗いものでした。熱転写型プリンターはこれらの問題は少なかったのですが、ランニングコストが恐ろしく高いものでした。かくして、長い間役所はプリンタで印刷された文書を”正式なもの”としては受け付けてくれなかったのです。だが、この状況はページプリンタの低価格化やインクジェットプリンタの登場によって改善されて行きます。
こうして、人々は”美しく、耐久性のある文書”作りに1980年代の後半から1990年代の前半のまさにバブルの時期に熱中して行きます。これは、2005年現在において、人々がパワーポイントで美しいプレゼン文書を作る事に熱中している事と似ていました。より重要だった筈のデータの共有化、データの数量的処理、データの表計算的処理と言う極めて重要な機能の日本における普及は捗々しくないままとなりました。パソコンの普及は遅々として進みませんでした。専用日本語ワープロは、事務室や数名の部署毎に1台づつ鎮座するようになりました。勿論、メーカーによっては専用ワープロマシンへの表計算ソフトの搭載やネットワーク化を熱心に進めた所もあります。富士通のOASYSシリーズ等はその典型でしょう。だが、それらは受け入れられなかったのです。人々が欲していたのは、違っていました。
日本語専用ワープロマシンを使っている人は、2005年現在もおられますが、既に最後のワープロ専用機は数年前に発売終了となりました。未だにコンピュータによる情報共有化、情報の高度処理の概念は十分普及しているとは言えません。私が勤務している職場は、2005年6月、あろうことか各部署への回報を総務に設置する”物理的なかわら版”でやる事になりました。この時代、回覧物なぞ、片っ端からスキャニングして共有フォルダにでも突っ込んでおけば良いでしょうに。信じられない…。気が遠くなります。軽微な秘匿性のある閉鎖されたパソコン・ラインと、インターネットに繋がるラインの二つがあるのですが、どちらも半端に整備・運用している始末で、その結果が”かわら版”です。ワープロ専用機とその美麗な印字の追求は、誠に高くついたものです。
酒とかタバコとか食い物とか

肝心な部分での貧困と余分な部分での有り余る過剰を特色とするバブルは、酒宴においてこそその特長を最も存分に発揮したものです。酒宴による友誼の増進は貧困、騒々しさは過剰、と言う次第です。
一気飲み
”いつでもどこでも酒宴を騒がしくする”と言う余剰を最も手っ取り早く演出してくれたのがこの一気飲みです。1980年代半ばのバブル間近の時期に登場し、芸人がブームを煽りました。急性アルコール中毒で亡くなった学生も続発。今、これらの亡くなった方は、あるいはバブル後のこの馬鹿げた状況を救う能力を持っていた人だったかも知れない、などとも思います。
かく言う小生も一気飲みを”やらせた”事があります。() 職場の大人しい後輩の女性が宴会で上司から「何か芸をやれ」と因縁をつけられ、場が凍った事がありました。同じ職種の先任者であった小生が仕方なく彼女に一気飲みをやらせたのです。ビールがコップになみなみ一杯だったと思いますが、彼女は確か飲めない体質だった筈で、それなりに苦痛だったろうと思います。1990年2月、正にバブルの全盛期でした。その女性職員は爾後結婚して男子を2人生み、子供の将来の教育をも考えて日本を見限り、家族まるごと豪州に移住してしまいました。日本は、有能な女性をその子供二人と夫ごと失った訳です。ザマミロ、バブルおやじ
宴会旅館(ヒロシマ・ナガサキ60年2月17日初出)
旅館やホテルにも様々なタイプがあります。純粋に宿泊だけの機能に限定したビジネスホテルや、ゆったりと長期滞在して疲労を癒すためのリゾートホテル等です。
これらの中で、宴会をやってそのまま宿泊し遊び回るために特化した宴会旅館は、高度経済成長期からバブル期に顕著な存在でした。と言うよりも、2004年の現在に至っても、日本の旅館やホテルは、ビジネスホテルか、結婚披露宴のためのホテルか、宴会旅館の何れかしかない、と言う姿からなかなか脱却できていないと言えます。
宴会旅館の典型は、熱海を始めとする各地の温泉街にありました。一度に数百人もの人々が宴会ができる広大な畳部屋が各旅館に作られ、そこでは企業の慰安旅行を主体にして様々な集まりの宴会が開かれ、宴会の後は主として男性宿泊客たちが売春行為を含む乱痴気騒ぎをしながら宿泊したのでした。かくして温泉マーク()は”逆さくらげ”と俗称され、売春を意味するとまで意識されるようになって行きました。
宴会旅館は、ストレス発散の場であると考えられていました。だが、次第にかかる宴会そのものに対する嫌悪感が増大し、バブルが崩壊した1990年代半ば以降、急速に衰退していきます。
さて、2004年に至り、白骨温泉や伊香保温泉等で相次いで「単なる沸かし湯を温泉と称していた」「沸かし湯に他の温泉のエッセンスを入れていた」「地熱発電所の廃水を温泉にしていた」等のインチキ温泉が相次いで暴露され、騒ぎになりました。そもそも「都市の働く人々にとって必要なのは何もしなくて良い慰安の数日である」のであり、一泊程度の温泉旅行は基本的に無駄無意味であると言うべきです。あちこちの温泉がインチキならば、わざわざ赴く迄もない。都市やそのごく近郊のスーパー銭湯等によって慰安を得る事の方が遙かに適切な事でしょう。
グリッシーニ(仏暦2511年06月29日初出)
細長く固いパン。チーズやハム等に、一種の付け合わせとして供される。
我がかみさんに言わせると、このグリッシーニは、バブルの時代にパスタにも添えられて出てきたそうな。どちらも小麦から作られているのは同じことで、そういう同種類のもの同士って付け合わせになるもんなんでしょうか?やはりバブルの時代と言うのは、根本的に非文化的だったように思えます。
金箔巻き寿司(仏暦2550年02月15日初出)
日本におけるバブルの真っ最中に出版されたA.T.Durning,1992,How Much is Enough ?,Norton & Company(邦訳:どれだけ消費すれば満足なのか、ダイヤモンド社)を今更ながらに読みました。15年経っても基本的動向は何も変わらないのですから、本書も悲しい事に寿命が長いものです。何せ本書には、既にして中国はおろかインドにおける消費主義の大規模蔓延まで記されているのです。
さて、この中にバブルに突入して日本では”…金箔巻きの寿司とか犬用のミンクのコートといった、非常識な消費の波が起こったが…”と記されているではありませんか。ミンクのコートは流石にないものの、今や犬用の”服”はすっかり馴染み深いものになってしまいました。どこのペットショップやホームセンターでも普通に売っているものです。犬用服がバブルの時に始まったと言うのは、そうだったかも知れません。
それ以上に驚いたのは、金箔巻き寿司なるものが世の中に存在していると言う事です。金箔入り日本酒と言うのはかなり以前からあったものです。だが、金箔巻き寿司なんてものが世の中にあるとは、そしてそれがバブルの時に始まったとは…。確かにネットで検索してみると、その手の記述が幾つか見つけられます。…と言う驚きからあえてこの項目を設けて見ました。(^_^;)
それにしても、無垢のAuは基本的に生物は代謝出来ません。だからこそ”永遠の輝き”を保っていられる訳です。当然、食べても消化されませんし、何だか胃腸を傷つけそうな気がして、こういうものを”食べる”と言う人の気が知れないのですが…。この手のイカモノを食べると言う傾向には、経済的な興奮によって生じた過剰な外向傾向の上昇を原因として考えるべきなのかも知れません。
激辛ブーム(西暦2003年03月12日初出)
1980年代前半に登場。食べ物を何でもかんでも唐辛子的に辛くする事。ボルツ等、消化されない程辛いカレーを出す店さえ登場する始末。言葉自体は。せんべいの老舗、神田淡平店主・鈴木昭の造語である由。”激辛”と言う用語は1986年に”流行語大賞”を獲得します。
辛みは刺激であり、刺激を追求する傾向が性格特性の一つである事は近年心理学の定説になりつつあります。そして激辛の中身たるや、知恵や知識、熟練等がさしていらない刺激追求であると言う点で、派手に身を飾ること、クルマに乗ること、金を散財する事、仕事で派手にやる事、お偉いさんになってもっともらしい顔をする事、ヤバイことをやる事等と同類のものであると言えます。即ち、激辛ブームはバブルを起こしたメンタリティと全く同根であり、バブルのまさに直前に登場した前駆現象と言えるでしょう。
※ところで、この頃、大量にスパゲッティを食わせる店が結構あったように記憶しています。これは事実でしょうか?もしそうならば、ちょこちょこの大食いと言うのもアタマのいらない単純な刺激なのですから、激辛ブームと同じ類であると言えます。本気のフードファイティングは、自己の心身状態の微妙な調整を伴うスポーツであろうとは思いますが。
ゲロ
酒のみによって人は何をしているのでしょうか?少なくとも、その生理的帰結は1990年代半ば頃まではしばしば駅や道端に撒き散らされた吐き戻し、通称ゲロでした。
何故せっかくお金を払って食べた物を吐き戻す程に飲んだのでしょうか?それは通常、「嫌なことを忘れるため・ストレス発散のため」でした。今日の概念で言えば、ストレスマネジメントの一環として行われた、と言う訳です。だが、これほど出来の悪いストレスコーピング(簡単に言えば、ストレス対処法の事)もそうはありません。ストレッサーとストレス反応を忘れる程に熱中できる事は他にもある筈だし、それを探して身につけておくのが知的な事と言うべきです。酒をもってストレスコーピングとしていたのは、かような人間への投資を削除していたと言う意味で、誠にバブル生産的でありました。
ストレスマネジメントの必要性が人々に実感されるようになってきた1990年代半ば以降、ゲロがめっきり減ったのは、一応は賢明な事だと言えるでしょう。だが、それは単に収入が減ったので酒が飲めなくなったと言うだけの事なのかも知れません。
高級ウィスキー
先日、愚妻が買い叩いてきた某輸入高級ウィスキー、バレンタイン。バブル当時は1本3000円以上はして、結構あこがれの存在だったそうな。それが1000円ちょいだったとかで、御購入。リビングの棚に飾ってくれました。小生はそれを面白がって、デジカメでパチリ。その後も、時々1000円程度で購入しています。
高級ウィスキーは、バブルの主役の一つであったと言えます。そもそも高度経済成長期において、ウィスキーは「高級な酒」の地位を獲得していました。美味しければ酒は何でもいいと思われるのですが、酒はその種類によって”地位”があったのです。ウィスキーは高級で男の飲むモノ、ワインは妙な趣味がある男か女の飲むモノ、ブランディはお金があるが妙な趣味がある奴が飲むモノ、ビールは宴会の景気づけ用、日本酒は田舎者が飲むモノ、焼酎はカネのない連中が飲むモノ…。これらの地位の体系が雰囲気として崩れたのは、バブルの崩壊後の1990年代後半以降と言えます。個人が趣味で飲めばいいものを、どうしてこんな体系が出来上がったのだろうか。このような体系を人々の脳みそに擦り込むために、どれだけの雑誌や書籍やコマーシャルが作られ、人々はそれを見聞きして脳味噌を無駄に働かせた事だろうか、と思われるのです。
ところで、こうして列挙してみると、フランスの酒に対する蔑視が目立ちます。ウィスキーやジンはアメリカ崇拝によって支えられていました。ビールはドイツのものと言う印象が日本では強いのですが、アメリカ人もバドワイザーは飲むと言う事で、完全には否定されませんでした。勿論、中国酒やウォツカ等は、この”高級酒”の階梯にははなから入れても貰えませんでした。アメリカへの度を過ごしすぎた傾倒は、こういう所からも擦り込まれたものと言えます。
栓抜き
先日、愚妻が買い叩いてきた昔の栓抜きは、金属の鋳物で、取っ手がネクタイの形と模様になっているものでした。こんな所にさえ余剰は発揮されたのです。
ところで、あの栓抜き、当然別の栓抜きもあるのだから、どこかに退蔵されて、唯でさえ狭い建物を一層狭くしている筈です。詰まらない遊びが確実に生活を苦しめる、これがあふれる商品の一般的な姿でした。
促進剤(ヒロシマ・ナガサキ61年04月14日初出)小集団主義
酒は、何らかの心理的・社会的事象を促進させ、抑制させるために用いられるとも言えます。一時的に気分を高揚させ、ストレッサーを忘れるために飲むと言うのは確かなのですが、因果が巡ってどのような効果が示されるかをもきちんと見ておくべきでしょう。促進するために用いられた目的となる効果の一つは「小集団の育成、維持」でした。小集団への”入会”の儀式には必ず酒が用いられました。大学の新人歓迎コンパ(※おい、20才前だぞ)、企業の新人歓迎会、時折行われる宴会、政治屋たちの料亭での密会などなど、全てこれ小集団を形成し、小集団への加入を打診し、小集団の結束を固めるために行われるものです。
酒を飲む事で小集団の形成が高まる傾向には、それなりの心理学的な根拠があると言えます。皆がそれなりに酒を飲めると言う事を前提とすれば、酒を飲んでお互いに忌憚なくしゃべり合うことで、ストレスを一時的に減少させ得ます。ストレス、即ちある種の興奮の低減は動機づけを引き起こすのであり、言語的な動機づけの経路によって特定の行動を強化させる作用を示すと言えます。
さて、小集団主義が我が国に及ぼし続けている壊滅的な影響を思えば、酒の毒性と言うのは、医師たちが警告を発する以上のものだとも言えるでしょう。
タバコ消費量の推移(ヒロシマ・ナガサキ61年06月09日初出)
タバコの有害さについては今更言う迄もありませんが、タバコがどのように使われて行ったかはバブル的生産様式を如実に反映するものだと思われます。と言うのは、タバコと言うのは安直な興奮維持&麻痺剤なのであり、比較的単調な作業を只管推進させるにはなかなか好都合な薬物だからです。余計な事を考えずに、悶々としながら作業を進められると言う訳です。
まず、第二次世界大戦後日本においてはタバコは圧倒的に紙巻きたばことして消費された事は特記すべき事です。現代もエジプト等では水タバコと言う閑雅な嗜好品としてタバコが消費されているようですし、江戸時代においてはキセルと言う方法で吸われました。これらは手間暇をかけ、仲間とだべって体を休めながらタバコを嗜むものであり、時間を潰す道具のようなものです。だが、第二次世界大戦後の日本においては、タバコは直ちに吸い、直ちに後始末ができる紙巻きタバコの消費量が圧倒的です。水タバコやらキセルやらパイプのように手間暇をかけて時間を潰す”馬鹿な”真似をしてはいけないのです。ここにも、タバコが専ら安直な興奮維持&麻痺剤として利用されてきた状況が窺えます。
たばこ消費量の推移はどうだったのか?こちらのたばこ関連情報によれば、タバコ消費人口を15才以上として(※法的には勿論20歳以上にしか喫煙は許されていませんが、行動科学的にはまぁ妥当な数値でしょう。かくあるべしと現状はこうだ、はまるで別の事です)、一人当たりの消費本数がピークに達したのは1975年だったようで、年間一人当たり3393本と計算されています。年間本数は、約2902億本でした。だが、この10年前の1965年には一人当たりの本数は2350本だったのに対して、1985年には3192本と、あまり減少していません。2000年でも2989本です。1975年にピークに達したと言うよりも、消費量が飽和してプラトーに達した状態と言えます。
高度経済成長が終了しても高度経済成長中の生産スタイルが永く続き、これが爾後の日本の発展を阻害したと言うのが本Web頁の一貫した主張の一つですが、タバコについても同様の傾向を見て取れるように思えます。金回りが良くなるに連れてたばこの消費量が増えていきましたが、その後もたばこを吸い続ける事で只管単調な作業を、意識を麻痺させながら遂行すると言う生産様式が蔓延し続けたように思えます。
なお、2005年の現在喫煙率が低下しているとされていますが、そもそもこのようなデータは、よほどちゃんとした社会学的・心理学的調査技法を駆使しない限り、眉に唾つけて読むべきです。何しろ日本人が心酔して止まないアメリカからしてたばこはもう止めようと言う風潮が強くなったのです。喫煙しているかどうかはアンケートや安直な面談調査によって行われます。覚醒剤や大麻を警察が捜査するように調べているのではありません。喫煙者の内、自分の外面を良く見せようと思う人々は当然ながら「喫煙していません」と答えるでしょう。
ところで、天皇家が何かにつけて配った所謂「恩賜のたばこ」は、第二次世界大戦後は1985年が配布のピークであり、年間約260万本配布されたとの由。これもついに廃止されるとの事でこの欄を記載してみたのですが、特殊な状況で配られ使われるタバコと言え、配布・消費量がバブル直前の1985年にようやっとピークであった事も、かなりおぼろげながら「高度経済成長期の単純な生産スタイルがかなり永く続いた」と言う事を支持してくれるように思えます。
日本全国酒飲み音頭
1979年、バラクーダが歌ってヒットさせた歌謡曲。極めてシンプルに楽しい音楽。だが、この当時のオジサンたちに必要だったのは、酒で鬱憤を晴らすことではなく、良く勉強し、脳みそを健康に保ち、社交と見聞を広げる事であった筈であり、こんな事してる暇はなかった筈なんでありました。この歌に唄われたそれぞれの都道府県の酒のツマミの名産も、環境破壊や経済の衰退によって次第に消滅しつつあります。
ビアガーデン
ビルの屋上等、野外に設置されたビアホール。1979年頃がピークで、サラリーマンが仕事の帰りに同僚と連れ立って鯨飲馬食したものです。ニュートーキョー、ライオン等が著名な経営会社でした。ビルの屋上をビアガーデンにしないで緑地帯にでもしていればヒートアイランド現象も起こらず、大都市の生産性はもっと向上していたかも知れません。
ちなみに、ビアガーデンのピークの頃に団塊の世代は30才代初頭前後の伸び盛りでした。彼らは大いに飲み食いし、怪気炎を上げ、今や有効性を失ってしまった生産様式を延々と続けていた、と言う訳です。
昼酒(ヒロシマ・ナガサキ60年01月26日初出)
我が国においてはハレとケの区分が明瞭であり、酒はハレに属するものであり、よってハレの時(結婚式、お祭り)でない限り昼間から酒を飲む習慣はありません。食物の一部として酒を飲む習慣がある地域とは大いに異なります。よって、昼間から酒を飲む事は、ある種の”異常事態”でありました。だが、一部の労働の領域では昼間から酒を飲む事がかなり進行していたようであり、今後その発掘が行われるかも知れません。
その最も顕著な領域は、土建であったようです。何かにつけて酒を会社側が労働者側に提供するのは当然かつ日常的な事態であったとは、実は小生はお見合いの席で某婦人から聞いたのでした。(-_-;)
小生自身の身近でも極めて高い地位にありながら朝方水割りをこっそり一杯飲んでから仕事にかかる人や、登山用の小さな水筒にウィスキーを詰めて、時々口に含みながら仕事をしていた人が昔はいたのも事実です。だが、彼らは一応こっそり飲んでいたのであり、明らかにハレとケの識別は生きており、昼酒を飲む人々は暗黙の内に低い階級に属すると認識されていました。
他方、欧州から浸透した昼酒の習慣も徐々に広がっていきました。小生自身が昼間に初めて酒を飲んだのは、スウェーデンの自動車メーカーであるボルボ社が日本に本格進出する積もりで、まずボルボ社が誇る安全性に関するセミナーを開かれた時でした。そのセミナーに出向いた所、軽い昼食が振る舞われ、そこでビールも出たのであります。日本の安全観からすれば、危険行為を安全セミナーでやってのけたようなものでありました。
それはともかく、こうして昼酒はそれなりに広まっていたもののようです。この行為は、明らかにハレの席の喜びを減じ、酒を飲んだ後の仕事の効率を長期的には低下させる行為でした。この行為の影響がどのようなものになるかは、今後明らかになるかも知れません。
社会

人間と人間の関係も結局は何らかの形で”作られる”ものであり、やはり生産の余剰と不足が生じる領域になります。ここでは、かかる社会関係や、社会関係に深く根差した、所謂psychosocialな領域を扱ってみます。
アッシー君、メッシー君
若く美貌の女性が、群がる男をこき使っていた様子を揶揄した言葉。クルマを出させて足代わりに使うのがアッシー君、食事代を出させるのがメッシー君。かつて、男は”公共”を担うが故に男であるとされました。だが、バブル的生産においては財力のみが男の甲斐性になってしまったのであり、この状況が背後に隠されている言葉でした。
オウム真理教(ヒロシマ・ナガサキ60年03月01日初出)
誰も明瞭に指摘しませんが、数々の組織犯罪を行った宗教集団・オウム真理教の興隆と崩壊は、バブルの時期と奇妙な迄に一致します。1984年:前身となった「オウム神仙の会」発足、1985年:麻原の”空中浮揚写真”を様々なマスコミが取り上げ一気に勢力拡大、1987年:オウム真理教と改称、1988年:富士山総本部開設、1989年:東京都から宗教法人資格を取得、1990年:選挙に大量出馬全員落選、1992年:東京総本部設置と言う具合です。正にバブルの絶頂期にオウムは絶頂を極めます。この時期、既に坂本弁護士殺害や信者のリンチ殺人等を起こしているのですが、より過激にこの集団が殺人を行い始めるのは、バブル崩壊後です。1994年:松本サリン事件、そして1995年:東京地下鉄サリン事件を実行します。
1980年代前半は、高度経済成長が終わった後の日本がその生産力を有効に転換できずに社会全体の閉塞状態が高まっていた時期です。自殺率も緩やかに上昇していました。この状況の中での個人の心の解決を宗教めいたものに求めた人々がオウムを形成したと言えるでしょう。即ち、オウムは我が国のバブル的生産が生み出した子供であるように思われます。
なお、1970年代後半からオカルティズム(※オカルティズム)が蔓延していた事も指摘する必要があるでしょう。非合理的なものに救済を求める傾向を抱いた若者たちが数年後にオウムに流れ込んだ可能性は大いにあります。
オウムは一時期1000億円の資金があると豪語し、実際、ロシアから大型ヘリコプターを購入したり、あちこちにサティアンを建設しました。サリン等を生産する設備も勿論揃えられました。バブルの崩壊と共にオウムの資金繰りが怪しくなり、それが殺人等の犯罪を助長したと言う可能性を検討する必要があるように思われます。
オカルティズム
オカルトとは、隠されたもの、と言う意味です。隠された世界、それも科学的方法論によって明らかにされた理論ではない、情念が噴出する事で形成された諸理論によって我々の運命や社会や自然が支配されるのだと考えるのがオカルティズムの基本です。そして、その非科学的な理論を明らかにすることで、予知や世界の制御を行おうとするのです。
科学の理論は当初は仮説からスタートします。仮説は根拠に乏しく、飛躍した論です。この段階では科学の理論とオカルトの理論の間に差はありません。だが、科学的検証法を繰り返し適用する事によって、仮説は科学的理論として一応の承認を受けるのに対して、オカルトの理論は検証を拒否し、人々の情念にのみ依拠して存在し続けようとするのであり、この点においてオカルトと科学的理論は決定的な差を示す事になります。バブルと言う病の根幹は非合理性と非科学性にあります。かかる非合理性とオカルティズムは、非常に広く流布したものです。そして、2003年以降の日本で、再び興隆を見る事になるでしょう。
※と書いていたらば、果たして2004年6月頃から次に記す血液型性格学をマスコミは垂れ流すようになりました。
オカルティズムの典型として、「ABO式血液型性格学」を上げる事ができます。ABO式血液型性格学は日本発の心理学理論であり、科学的には既にして1930年代後半に完全に否定された理論です。然るに、1971年に能見正比古が「血液型でわかる相性」を出版するや、通俗心理学理論として非常に興隆を見るに至りました。高度経済成長終了間近のこの時代にかかる非合理・無根拠窮まる論が再登場して興隆した所に、バブル発生の根の深さが思い知らされます。なお、能見は実はこれまたバブル発生の心理的根幹となった「歴史をまるで顧みない」と言う罪をも犯しています。と言うのは、能見の血液型性格学は1930年代後半に登場して否定された古川学説そのままだからであり、それを隠して独自の説であるかのように装っているのです。
かようなオカルトブーム開始の時代において、「ノストラダムスの大予言」が出版されたのは1973年、超能力者とされるユリ・ゲラーが来日したのが1974年、心霊写真ブームがあったのが1975年頃をピークとしたものでした。心霊写真とは、写真のちょっとした傷や映り込みの光を霊が写ったと騒ぎ立てる事です。まさに高度経済成長が終了せんとする時点において、早くもその行き詰まりがオカルトブームに転換したように思われます。
本格的オカルトブーム開始である1970年代後半の状況での一つの現れとして、「口裂け女」を上げておきます。1979年に小学生層に流布したデマで、バリエーションは色々あったようですが、「赤い服を着てマスクをした女が夕方近づいてきて、あたし綺麗?と尋ねる。いいえ、と答えるとマスクを外して、耳まで裂けた口を見せる。」と言うあたりが基本パターンだったとか。正に日本の高度経済成長が終了した時期。何か、の不安が小学生たちをこのようなデマ話に走らせたのか、それとも美人であるだけでもて囃される事への憎しみか。残念ながら当時既に小学生ではなかった小生には図りかねますし、あまり研究も行われていないようです。ちなみに、この当時の小学生は概ねバブル当時に社会人となった層と一致します。
「口裂け女」の流行と同一時期は、様々な占い等が盛んになり、”天中殺”が流行語となり、第2次ブームと称する人もいるようです。1979年4月に女子中高生向け占い・おまじない雑誌「マイ・バースディ」が創刊された事は象徴的でした。占い・おまじないはカウンセリング的なものであるとの主張もあります。だが、カウンセリングは基本的に自己を様々な観点から客観的に把握し、自己洞察を進め、もって自分で自分を苦しめていた自分の要因に対処しようとするものであるのに対して、占いやおまじないは自己を恣意的な枠組みに入れるものに過ぎない点で決定的に異なります。
このオカルトブームの流れは、以降も継続します。高度経済成長後の社会体制転換に失敗し続けているのですから、当然でしょう。”神秘系”と称されるオカルト的な事物を専ら取り上げる雑誌「ムー」が1979年に創刊されました。やはり”神秘系”の雑誌「トワイライトゾーン」が1982年に創刊、宜保愛子の霊視ブームは彼女自身がテレビに登場するのが1986年頃から、Mr.マリックの超魔術・ハンドパワー・ブームが始まったのが1989年頃から、となります。この一連の流れに、オウム真理教等のこの時期の新興宗教は乗っていき、勢力を拡大するのです。
1999年には、一風変わったオカルティズムが登場しました。江本勝による「水からの伝言」です。あろうことか、水に声をかけて氷結させると、その言葉が「ばかやろう」と言うような汚い言葉の場合と「ありがとう」と言うようなきれいな言葉をかけた場合では結晶の綺麗さが違うのだ、と言うのです。この本は十万冊単位の売れ行きを示し、各地の学校で道徳教育に取り入れられる始末に至りました。
オンナたちの目
所詮はオトコはオンナの目に芳しく写る事を願って日々行動するものでありますよ。となると、バブル的生産にオンナたちによる眼差しが寄与したであろうことは、証明するのは難しいものの、著しいものがあったと言うべきです。天の半分を女性が支えているならば、天が崩落した原因の半分もまた女性にあった筈です。
本ホームページ提供者は、思考や知識、人の心理のシミュレーション等については非常に冒険的です。”危険思想”や”異常心理”を平然とこなしています。稀覯本を探して胡乱な場所を歩き回る事も厭いません。もし縁があったらば、珍種を探して人跡希な場所に平然と赴く植物学者にでもなった事でしょう。これらの活動性は、少なからず有益なものです。だが、”男性的な”外見ではありませんし、決断を直ちに下して活発に活動すると言うタイプでもありません。FFPQやYGでチェックすれば、外向傾向は低い方にあからさまに入ってしまいます。さりながら、登山は長年に亘ってこなし、単独登山も相当数行いましたし、自転車ツーリングも一日100k以上を走るのは平気と言う風で活動を続けました。
さて、そんな本ホームページ提供者を大学時代の同級生のある女性は評して”積極性や活動性がない”とかと述べた事があり、この一言は本ホームページ提供者を長く傷つけたものです。この女性は自ら潜水やらヨットやらをやって来た人なので、その目からすれば尚更そう見えた事でしょう。
かかる”男性的な”イメージは高度経済成長期に大いに跋扈していたと言うべきです。大金を稼ぐこと、筋肉質である事、果断である事等が大いに尊重されていました。強いタバコやコーヒー、酒をがんがんやり、クルマをがんがん走らせ、長時間労働をするのが、男らしい事でした。犯罪すれすれや、犯罪そのものも賞賛されました。これらは、私には全て縁のない事柄でした。要するにポジティブなストレス反応(※アドレナリン的とでも申しましょうか)に満ちたナイスガイのイメージです。これらのイメージは、当時の映画やテレビドラマに満ち溢れていました。(わたしをスキーに連れてって)これらのイメージは、オンナたちの目から発せられていました。
だが、このこっぱずかしい文章を書くために様々に思い出してみれば、この本ホームページ提供者もぽちぽちとモテなかった訳ではなかったのでした。だが、そんな時に示した本ホームページ提供者の態度は拒否的なものでした。”男性的でない”自分がモテる筈もなし、と言う観念があったのは間違いありません。そもそも、どうして先程記した彼女の一言で小生が傷ついたのかと言えば、かかる”男性性”の神話に自分自身も縛られていたからに他なりません。
つまり、オンナたちの目なるものは、実はオトコたちをも支配した、ある種の観念、言わばマチョイズムなのでした。その観念やらあるべき姿なるものは、高度経済成長期等のある時期の、これまたある種の仕事をする人々だけに適合した姿だったのです。
ちなみに、私を痛く傷つけた彼女は独身を通し、近年マラソンに励んで各種大会でかなりの成績を残し、挙げ句、最近肝臓を痛めてしまった、と言って来ました。(-_-;) 彼女は一体何に縛られていたんでしょうか? 巨人の星
クレジットカード(ヒロシマ・ナガサキ62年01月08日初出)
クレジットカードは日本においては1960年に第1号が登場し…などなどの正確な記述は他所にお任せしましょう。また、クレジットカードを増大させようとする企業側の論理は信用取引を増大させて実質的なMを増大させる事にある、と言う点も、一応バブルの心理と社会メカニズムの大前提ではあるのですが、論ずるのを除外して置きます。ここではクレジットカードについての事件を列記し、クレジットカードについて日本人がどう観念してきたかの一助としようと思います。余りにも当たり前過ぎる事を人々はしばしば意識しないからです。
私が最初にクレジットカードなるものを持ったのは大学院を卒業した年の事で、ド貧民がど〜してそんな事をしたのか、と言えば、華の吉祥寺を一人で散歩していて、吉祥寺の街並みの最奥にある西友にたまたまふらりと入ったところ、そこに大学学科の後輩の女子が勤務しており、お願い〜と言われたもので西友のカードを作ってしまった、と言うのが最初だったのであります。これは1983年の事でした。このカードは遂に使われる事がなかったと記憶しています。結婚して暫くの後、このカードは正式に廃止しました。だがその後、西友系の巨大ショッピングセンターが近隣に完成、気に入った我がかみさんが、改めてセゾンのカードを作ったのでありました。
さて、ここまでの記述からお分かりのように、一応定職があるとは言え、ど貧民の人物がクレジットカードを作ると言うのは大層な事だったし、ましてやそれを使おうとしても当時はクレジットカードを扱う店と言うのは”高級”だったのであり、到底使う機会はなかったと言えます。クレジットカードの加入には審査があり、この審査は厳しいものだと一般に想像されてもいました。ちなみに、華の吉祥寺を一人で散歩して、日用品を買う店であると観念されていた西友にふらりと入ってしまう所に、ド貧民のド貧民的心理が余すところなく表れていると申せましょう。
次にカードを作ったのは、マスターネットに入会した際のものであり、これが1989年のバブル真っ最中の事です。4万円近い入会金と言い、クレジットカードを作らないと入会できないネットと言い、今思えば私にとって唯一のバブルの”華”がこのマスターネットだったようです。このカードはそれなりに使われましたが、概ね1万円以上の高額商品を入念に検討した後に購入するためのものとしてのみ使いました。このカードは、1996年6月にマスターネットを退会した後も暫く維持しておりましたが、その後出身大学がカードを発行して卒業生の”囲い込み”を始めた際にそちらに加入、廃止しました。
カードに対する控えめな態度は、誰においても同様でした。1990年代半ばバブル崩壊後に私はクレジットカードの安全性が確立出来たと考えたので、利便性もさる事ながらポイント制のお得感も相まって、むしろクレジットカードを積極的に使うようになっていたようです。周囲との会話等で、いつの間にかクレジットカードを最も積極的に使う人種になっているのが明らかでした。とは言え、相変わらず一番お金を使わない人種だった事も間違いがなかったのですが。日本人全体として、この時代においてはクレジットカードはまだまだお金持ちが使うもの、または高額商品をお金持ちの気分になって買う場合に使うもの、と言う観念が支配的だったのは明らかです。
さて、1990年代後半初等、まだ1997年の金融崩壊が発生していない当時の思い出としては、ある集会でアメリカンクレジットと言う当時高級とされていた高額年会費のクレジットカードが話題になった事があります。私は、このカードを自分には縁のないものだと述べたのですが、周囲はたまたまプチリッチな人たちばかりだったようで、ど〜してそうなのか?と疑問に思われたと言う事がありました。あの、プチリッチな人たちは1997年以降の波により、どうなった事やら。
以上のような記述から、お金を巡る意識の一旦を明瞭に見る事が出来ます。バブルを形成した心理の一つは間違いなく、「高額なものは素晴らしい」と言うものでした。クレジットカードがこの素晴らしい高級品の概念と固く結びついていたのは間違いなく、それは1990年代後半にまで至ったのです。人々は、クレジットカードを使う際に、相当の高揚感を覚えていたであろうことは間違いありません。
だが、その直後からクレジットカードを巡る企業側の動きは劇的に変化し、実に気楽にクレジットカードは発行されるようになりました。同時にクレジットカードに様々な特典やポイント制度(買い物をすると、その店だけで通用するポイントが付与され、これを現金と同様に使う事が出来ると言う方法。一種の債券。)が合体したものが普及しました。かくして、本Webページ提供者でさえ、夫婦合わせて数枚のクレジットカードを使わざるを得ない時代になったのです。また、各種電子マネー(SUICA、おさいふ携帯等)が登場し、ここにおいて、ようやっと「高額なものは素晴らしいと言う概念と緊密に結びついたクレジットカードと言う魔法のカード」の時代が終わったのでした。代わりに登場したのは「現金や貯金がなくても買い物をしても大丈夫だと錯覚させる道具」の時代でしょうか。
公共性
甚だしく”生産”が低下したのが、社会の中の公共部門でしょう。それは、蚕食されました。例えば、マイカーと言う代物は公共財である空気や空間を蚕食する事で成立するものであり続けています。
国民の祝日と半ドン(西暦2003年08月09日初出)
第二次世界大戦後、当初は国民の祝日はさして多いものではありませんでした。「1月1日:元旦」「1月15日:成人の日」「3月21日頃:春分の日」「4月29日:天皇誕生日」「5月3日:憲法記念日」「5月5日:こどもの日」「9月23日:秋分の日」「11月3日:文化の日」「11月23日:勤労感謝の日」と、合計9日だけです。
だが、祝日は増殖して行きます。高度経済成長期の最中の1966年には「2月11日:建国記念日」「9月15日:敬老の日」「10月10日:体育の日」と3日増えました。1989年には昭和天皇の死亡に伴い「4月29日:みどりの日」となり、新たに「12月23日:天皇誕生日」となります。1996年には「7月20日:海の日」が追加。更に、国民の祝日が日曜日にかかった場合にはその翌日の月曜日に休日を振り替える事になり、成人の日と体育の日は第2月曜日に、海の日と敬老の日は第3月曜日に振り替えられる事になりました。
またこの他に、土曜日は従来「半ドン」と称して半日だけ出勤する習慣が続きましたが、これは1876年に官庁の業務を土曜日半日、日曜日休日とする布告が出て以来のものでした。だが、1990年代に土曜日も官庁を閉鎖する方針が打ち出されて以降、次第に週末は土日が休日である(週休二日)、と言う習慣が定着し、半ドンは消滅します。同様に、年末年始の特別休暇の習慣は従来からありましたが、夏季休暇を特別休暇として付与する習慣や労働契約も普及しました。
こうやって休日は増加したのですが、これでは勤労者の圧倒的多数を占める給与労働者の休暇は、土日及び国民の祝日等に集中してしまいます。これでは休養・娯楽施設が混雑するだけで、有効に利用する事ができません。明らかに重要なのは仕事を合理的にして有給休暇を増やす事であり、これによってリクリエーション施設を分散利用し、真のリフレッシュが図れた事でしょう。
だが、怠け者で知恵の足りず、それでいて高給を貪る経営者層や上級管理者層にとっては、職場で様々な労働者がてんでに休暇を取った場合にも組織の効率を維持する方法は取れなかったもののようです。例えば、休暇を各人が取れるようにする場合、各労働者は自分の持ち分を持って、ある種の請負の形で作業をする事になります。各労働者間の調整が管理者には求められますが、これは全員に一斉号令をかけたり、お互い良く話し合って決定しろなんて丸投げ(ごまかし仕事)していれば済むものではありません。
他方、かような動向は学校にも及びました。小中高等学校は2000年から本格的な週休二日制度に突入しますが、これは同時に授業の時間を大幅に減らす事と裏腹でした。授業時間を減らせないので、少なくない学校では学校行事の時間を削り、生徒指導が更に疎かになって行きます。
※以上のように、職場と学校を含めた社会全体への影響があったので、本項目は「社会」の範疇に納めてあります。
国民の祝日の連鎖、即ち黄金週間と”五月病”との関連もそろそろ疑ってかかるべきです。4月下旬から5月上旬が所謂”黄金週間”となって連休が重なるようになったのは第二次世界大戦後比較的早い時期からでしたが、この時期において人々はレクリエーションをしなければならない、と言う強迫観念に襲われる事になりました。年末年始は所謂年中行事をこなしていれば足ります。年中行事ですら相当のストレスの原因となる事が良く知られています。増してや、レクリエーションをしなければならないが、具体的にやる内容や実現可能性は各人が勝手にやらなければならない黄金週間において、少なからぬ人々にかかる同調を強要する社会的ストレスとレクリエーション活動を計画し実行するストレスは相当なものだと考えるべきです。しかもまずいことに、この時期はただでさえ温かくなって活動水準が、と言う事はある種のストレス水準が上がっている時期です。おまけに、4月の年度始めにおいて進学・進級・就職が重なり、ストレス水準が上がっています。3月の年度末業務処理でストレス水準が上がったところに、これら新しい人々への対処がストレッサーとなり、そのストレスが高いまま今度は”レクリエーションしなければならない”ストレスがかかる事になります。”レクリエーション”において人々は自動車交通の猛烈なラッシュや混雑する行楽地の不愉快さに耐えなければなりません。これでストレス性の問題―その中には抑鬱等が含まれます―を起こさない方が余程どうかしていると言うべきでしょう。
即ち、国民の祝日の増加及び振り替えによる実質的増加は、一見すると慰安と自由の増加のように見えながら、バブル的生産である「知恵なし・合理性なし・人間の尊重なし・人への投資なし・人手を集めての長時間低賃金労働」を如実に反映するものであったと言えます。
コメ(ヒロシマ・ナガサキ61年07月05日初出)
日本におけるコメの問題は、誠に様々な社会的・心理的・生態的・外交的な問題が絡み合って複雑な様相を呈しています。単にある種の食べ物と言うのに留まらない複雑さを我々は押し付けられています。バブルと言うのは合理的な生産の量と質から外れる事の一つです。当然、コメの生産においても様々なバブル的生産が見られるのです。
日本におけるコメのバブル的生産による歪みは、実に江戸時代の藩幕体制に始まります。藩幕体制においてはコメは貨幣であり、あらゆる物品との兌換性がありました。これにより、東北地方のようなコメを作るのに適していないところにおいてもコメの生産が強制されました。大規模な飢餓が東北に多く、その影響で現代においてさえ東北地方が経済的に劣位にあるのはコメ生産の強制によるものです。ジャガイモ導入以前であればブナの実を含む各種雑穀の混合栽培が、ジャガイモ導入後はジャガイモの利用こそが東北においては好ましい生産物だった筈でした。だが、コメ以外による年貢の供出は北海道南部の松前藩におけるシャケ以外にはついぞ認められなかったのです。とは言え、東北以外においては、日本全域でおおむねコメは最も適切な栽培植物だったと言えるでしょう。
さて時代は替わり、現代社会において、穀物は食物の中では通常劣等財となりました。コメと言えども同様です。つまり、選択肢があって所得がそこそこにあれば、肉等が選ばれる傾向が強いのです。
※と言ってもこれは相対的なものです。例えば、ブッダの時代のインドにおいてはコメは贅沢品でありました。弟子たちが「お前たちはコメを平然と食べている。なまぐさいものを食べているいるんだ!」と非難された事に対して「我々はコメに執着しているのではなく、コメがお布施として出されればコメを食べているに過ぎない」と反論している様が仏典として残っています。
実際、高度経済成長期前には年間1人あたり100kg近く消費されていたコメの消費量は、その半分程度にまで減少して行きます。他方、国民の一人当たりの総摂取は増大し続けました。ここまではごく自然な人間行動の科学です。だが、コメを巡るバブル的生産が進行し、コメがある意味バブルそのものになっていく状況が大雑把に言って二つありました。
第1は、パンとの関係です。これも、問題は二つに分割できます。1-1問題は、都市住民の生産性を無視したコメの強制でした。高度経済成長期の間、都市における生産活動においては技術的にコメよりもパンが手頃であり続けたのは明らかでした。パンは短時間で独身者も食事を取る事が可能でした。これに対して、コメは電気炊飯器の登場と普及があったものの、基本的には”調理しなければ”食べることができませんでした。この問題がクリアされるのは、コンビニお握りが登場してからです。だがこの問題に対して”田舎の人たち”が取った態度は、都市住民にとっては辛い、または宗教的なものだったのです。”田舎の人たち”は”コメを食うのは当然”と言う方針でいたように見えます。一体、田舎の人たちは自分たちが都会の人たちにとって役に立つ存在でなければならないと考えていたのでしょうか?
1‐2問題は、パンへの志向そのものがアメリカによって人工的に作られたものであると言う事です。第二次世界大戦後アメリカは一貫して小麦等の生産に対して様々な補助を与えており、格安の小麦やトウモロコシを輸出し、諸外国の農業生産を破壊して支配している政策を取っていると言えます。これによって世界各地の気候と合致した合理性を持つ農業生産の基盤は破壊され、甚大な環境問題を生み出しました。日本においても、敗戦後パンと脱脂粉乳の給食がアメリカの援助によって行われ、合わせて「米食は頭を悪くする」と言う栄養学的に適切とは言い難いキャンペーンが展開されました。これは、アメリカと言うバブルを促進する方向に働いたと言えるでしょう。
第2の問題は、コメの生産のためと称して、莫大な補助金が農村地帯に投入され、これが利権化し、様々な弊害を生み出した事です。補助金を差配するためにコメ議員と呼ばれた国会議員が多数誕生しました。彼らは、都市と農村部の一票の格差を拡大して存在し続けたのであり、2、3倍どころか一時期は10倍近い一票の格差が生じました。2005年においてさえ、5倍の格差を合憲とする裁判例が出ている程です。これにより、日本の議会制民主主義は機能を失っていきました。コメの価格は人工的に税金の投入によって高く保持されたので、他の作物への転換が進行しませんでした。また、この格差によって農村部にふんだんに道路、飛行場、港、公的建築物等が建設され、土建利権が形成されました。農民はこれらの補助と土建によって兼業化し、単に零細な土地を保有するだけの存在に転落し、競争力を失って行きました。バブル期以降飛行機によって野菜を豊富に運べるようになると、野菜輸入や輸入生花にさえ対抗できなくなって行きます。当然、かような援助にも限界があるのであり、コメの価格はタイ等に比べて10倍以上になってしまいました。これに補助金が投入されているのですから、実質的なコメの価格はもっと高かった筈です。これら一連の弊害は、都市部に投入されるべき資金が全て農村部に強制的に投入された事を意味します。それも、技術主体的でスマートな農業に投入されたならばともかく、漫然と兼業でコメを作り続ける事に投資され続けたのですから、悲惨でした。
かくして、日本人の大部分にとって食糧問題は、前門の農村利権集団・後門のアメリカ農業利権集団と言う状況を強いられ続けたと言えるでしょう。ジャガイモを大量に食べるようにしてしまった方が良かったのかも知れません。
さて、バブルを抜けた瞬間の1993年夏は、日本全国猛烈な冷夏でした。熱帯原産のコメは当然収穫出来ず、惨憺たる有り様。平年が1000万t前後の生産量であるのに対して、783万tしか取れませんでした。日本人が消費するコメは粘り気の強いジャポニカ品種であり、世界的に生産量が少ないのです。かくして、日本人は普通に食べていた筈の”お米”が手に入らないと言う状態になりました。大量の”外米(インディカ品種)”が輸入されました。店の店頭からはお米が消えました。そう言えばその頃、ある日いつものように通勤途上で某デパートの前を通過しようとしたところ、長蛇の列が出来ていたことがあります。不審に思って列に並んでいる初老の婦人に尋ねた所彼女は恥ずかしそうに「お米です」と言います。そう、この日、このデパートでは北海道だかどこかの物産展が開かれる事になっており、そこには当然お米が出品されるのであり、それを目当てに人々は並んでいた、と言う訳です。こうなると、立派にコメに対する執着と言うべきでしょう。ちなみに私は当時スポーツ自転車に励んでおり、独身の朝食は専らスパゲッティだったので、さして打撃を感じなかった覚えがあります。
さて、このバブル直後と言うよりも世間の風潮はまだまだバブルだった時代のコメ不足現象は、実にバブル的生産そのものを地道に示していたものだったと言えます。と言うのは、バブルを本Web頁は「一部領域での生産の過熱」であると定義しているのですが、当然かような生産の過熱の前提としては当該財に対する消費や希求の固執がある筈です。そうでなければ、過剰生産なんぞ起こりようもないのです。コメ、それもジャポニカ米は人工的にかような固執が形成されていたと言う意味で極めてバブル的でした。やはりブッダとその直弟子は偉かった。ジャポニカ米に執着する事は、苦しみの元だったのでした。
根性
広い意味での知性の欠如と、単純な商品経済の拡大を狙っていれば良かった高度経済成長期が終わり、さりながらこの風潮だけが残りました。”ひたすら粘る””単純労働をひたすら時間をかけて繰り返す”事です。この用語が最も頻繁に使われたのは体育系の方面で、例えば”根性を出せ””根性を出して練習すればできる”と言う調子で、体を壊すだけで何の効果もなかったウサギ跳びなんてのが長く流行りました。メンタルトレーニングはさっぱり流行りませんで、日本の選手団は世界で敗退を続けていきます。
そう言えば2002年初夏、ある生涯学習教育会社のテレビコマーシャルにこんなのがありました。
「パソコンが使えずに苦しみまくっている初老にさしかかった男。妻が叱咤激励。男は”昔はどんな仕事でも、笑顔と根性で乗り切ったものだ〜”と叫び、華やかな時代の自己イメージが登場…」
論理的思考能力やら知性やら情報処理能力やらがこの教育会社のサービスで改善されるかどうかはともかく、バブル以前と現在の落差を実に良く表現しているコマーシャルです。
自殺
かつて自殺は”ビョーキ”でした。精神分裂病(統合失調症)患者の自殺率が顕著に高くなる事もあり、精神分裂病≡手の施しようもないビョーキ≡自殺、の図式が長く幅を効かせていました。だが、自殺は、ストレス症状の一種だと考えるべきです。ストレスは極めて様々な症状に繋がる可能性があり、その一部の現れが自殺に過ぎません。
日本の自殺率は第二次世界大戦後の傾向として、1950年代後半の数年間、顕著に上昇します。決して敗戦直後に高かったのではない事に注目しましょう。朝鮮戦争特需の好景気が終わり、社会は閉塞状況に突入していました。これが1960年頃からの高度経済成長期には低い水準となり、15人/10万人・年程度の値が高度経済成長期を過ぎた頃迄継続します。これが1980年代の前半、再び上昇し、20人/10万人程度の値に跳ね上がります。そして、1980年代後半、バブルが始まるや再び低下しますが、バブルが弾けた1990年代後半から25人/10万人以上と言うこれまでにない高い値を示す時代に突入しています。
自殺はどうして起こるのでしょうか?ストレスの高さが背景になっている事は明らかです。だが、ストレスは極めて様々な形で”噴出”するものです。どうしてストレスが自殺と言う形に”噴出”するのでしょうか?もう一つの要因を考慮しなければなりません。それは、ストレスに加えて「誰にも助けて貰えない」と言う状態ではないでしょうか?1950年代後半は、農村社会及び農村社会的な都市社会の関係の解体が進んでいました。だが、高度経済成長期は、「会社を中心とした共同体関係の進展」があった事に注目するべきです。学生運動に見られるように、企業社会に反対する運動に所属した人々も共同体関係の中にいました。だが、石油ショック後の経済を輸出ドライブによって切り抜けようとする圧力により、人々は圧迫され、分解されていきます。”後期”会社人間の登場であり、会社の中でも個立化が始まった人々は再び自殺に走っていきます。バブルによる一時的な経済状態の回復→ストレスの低下があったものの、この状態も崩壊した現在、人々は再び自殺へと走っているのです。
ところで、「精神分裂病≡手の施しようもないビョーキ≡自殺」の図式が医学界から消えたと思ったらば、2002年の今日「うつ病≡直るビョーキ≡自殺」の図式が幅を効かせています。だが、ストレスは非常に様々な要因によって形成されるものであり、投薬によって単純に鬱を押さえれば良いと言うようなものではないのです。
実家・本家(西暦2004年02月23日初出)
自分の兄弟の内、”家を継いでいる”長男の事。
実家概念は、極めて強力にバブル崩壊迄の日本人を縛ってきたと言えます。田舎の人々は”本家”であり、都市に移住して働いていた人々は”食いっぱぐれの次男坊、三男坊”でありました。この概念により、政治制度においては都市部と非都市部の国会議員あたりの有権者数格差はまるで考慮されませんでした。2003年に至ってさえ、参議院選挙での有権者数格差が5倍を合憲であるとする判断が最高裁判所で下される始末です。これにより、国家全体の投資は歪み続け、殆ど使われる事もない鉄道や道路やら文化施設やらが田舎に大量に生産され続ける事になります。
レクリエーションや宿泊施設ですが、都市の労働者にとって最も重要であったはずの慰安の役割を果たす施設は、殆ど建設されませんでした。実家・本家概念に縛られていれば、都市で働いていた人々を慰安すれば大きな需要があるだろう、と言うような発想は出る筈もありませんでした。田舎の人々にとって都市住民は、銭金を掻き集めるべき対象だったように見えます。勿論、逆もまた真なり、要すれば憎しみと差別のまなざしを向けられた都市住民は、田舎の人間をやはり銭金をかき集めるべき対象として見返す事となります。これは一種の兄弟喧嘩と申せましょうか。そう言えば、2005年06月、最もバブル生産的な世界である相撲界の頂点を極めた花田家の凄まじい元横綱同士の兄弟喧嘩がマスコミに露出しましたが、兄弟相克と言うのは実に古典的でどろどろとした”にほん”の姿ではあります。
他方、毎年、夏休みや正月休みの季節になると、多くの人々が大挙して”実家”を訪問しました。彼らを受け入れた長男の家の嫁に極めて多くの負担が被せられました。これは、実家概念を維持するための神事だったと申せましょう。この神事のために、都市住民の休暇は休暇としての機能を果たさず、リクリエーション施設はある一時期だけに過度に混雑して機能を果たさない、と言う始末に至りました。
終末論(ヒロシマ・ナガサキ60年05月11日初出)
どんな時代、どんな社会も、転換期や滅亡期を迎えると”終末論”が流行るものです。平安時代には仏法が現世において亡びるが観音の救済によって来世を迎えると言う仏法終末論が流行りました。高度経済成長が終了し、その転換に失敗したのがその後の日本の姿なのであり、当然そこに終末論があります。
終末論は彼岸論ですから、心理的にはオカルティズム(オカルティズム)と密接な関連があります。現在の世界からの飛躍と言うよりも脱出を求める動機がそこにあります。
終末論そのものを扱った小説やら映画やらとしては、1983年に映画化された「幻魔大戦」はハルマゲドンを扱い、人間の文明が滅んだ後の勇気ある少女の活躍を描いた「風の谷のナウシカ」が映画化されたのが1984年、やはり人間の文明が滅んだ後の世界での勇者を描いた「北斗の拳」がアニメ化されたのが1984年でした。
かく言う、本ホームページ提供者は「風の谷のナウシカ」は熱心に見たものです。二番館で5回ほど、1万2千円もするビデオも購入しました(;。尤も、同時に「うる☆やつら」だの「綿の国ほし」はじめ大島弓子や、陸奥A子等も大量に読んだり見たりしていましたから、終末論に浸っていた訳ではないし、科学的訓練を終えているのですからそもそも終末論に浸りきる事もありませんでした。
科学の目と自分の人生を素直に考える目からすると、終末論は「人間の文明と言う奴も所詮は成立する前提や条件があり、それを外すならば文明は亡び、人は苦しむ」と言う事をとことん納得させてくれる機能があります。かような理解と納得に至った人々は、文明を滅ぼすような条件を作らない・至らせないために努力するようになります。だが、このような思考と行動の経路に至らない少なからざる人々は、オウム真理教を始めとする怪しい宗教、彼岸への飛躍としての自殺、社会を改革して彼岸へと連れていってくれそうなファッショな指導者等へと走ることになるのでしょう。
怪しい宗教の典型であるオウム真理教が1995年に事実上壊滅してからは、急速に自殺が増大しています。この波の次には、ファッショな指導者を求める動きが強烈になるであろう事が予想されます。
遵法
2003年の現在、暗数を勘案しても犯罪が増大していると言えるでしょうし、犯罪総数の相当部分を外国人が行ったものであるとしても、やはり日本人の犯罪の増大は明らかでしょう。この点を取ってみても、所謂遵法の風潮が低下した事は明らかです。
ある人々は「守るべき法律が煩瑣かつ複雑になっているためだ、要するに倫理の過剰だ、社会が複雑になった事の必然の結果だ」と主張しています。また、ある人々は、極めて単純に法律を尊重しようとする傾向の低下、要するにアノミーであると主張しています。
何れかはともかく、道路交通での遵法に関して2003年の今、本ホーム頁提供者が衝撃を受けている幾つかの事を記載しておきましょう。これらは、概ねバブルの前あたりから顕著になったように思われる現象です。
昨今のクルマによる歩行者への横柄さは大したものです。道路交通法は基本的に歩行者を保護するものであり、クルマに対して厳しい義務の遵守を求めるものです。その一つが、信号のない横断歩道を歩き始めた歩行者がいたらば、直ちに一旦停止する義務です。実は、本ホーム頁提供者は自動車免許を取得する際、最後の検定でこれに引っ掛かり、1回余分に検定料を払いました。; だが、これを守らないクルマの昨今多いコト!横断歩道を歩いていて、轢き殺されそうな思いをした人は希ではありますまい。また、赤信号で止まっている際に平然と横断歩道の上に乗っているクルマも今や普通の光景になってしまいました。
軽車両は車道を走行する義務(※高速道路及び自動車専用道路を除く)があり、自転車は部分的に歩道を走る事が許容されている事もあります。だが、昨今は自転車は歩道を勝手気ままに走り回り、車道を走ろうとするとクルマがけ散らしてくると言う状況にあります。かくして人々の心理の中では逆転現象が生じ、”自転車は歩道を走らなければならない”と思い込まれつつあるようです。
そういえば、先般、本ホーム頁提供者の職場の安全教育の場でこんな事がありました。自動車保険に関する教育で、某氏が質問して曰く「自転車が車道を走った事による責任と言うのは保険の査定では勘案されないのか?」小生の大脳皮質はこの瞬間、凝固して湯豆腐となったのであります。
その自転車だってご立派な走り方をしているものです。本ホーム頁提供者も以前、自転車に子供2人(※子供一人迄ならば良いのですが、2人は法規違反です)を乗せて歩道を暴走しているヤンママのママチャリに轢かれそうになり、逆に因縁をつけられかけた事があります。; 勿論、歩道を自転車の走行が許可されている区間であっても、自転車は歩行者を優先させる義務があります。
職場の某後輩2名、雑談をしていて判明した驚くべき無知。道路の縁石に橙色の破線が描かれている場合がありますが、これは「停車可、駐車禁止」の意味であります。橙色の実線は「停車・駐車何れも不可」です。だが、彼らは知りませんでした。どうして彼らに自動車運転免許が与えられたのでせふか?埼玉県公安委員会の皆さん、オシエテ下さい。
こういう状況の中では、あれこれ反省したり法律を勉強して軽車両を運行するなんて事はするべきではなかったのでしょうね(自爆)。ストレスが増えただけなのでしょう。クルマは自転車等を蹴散らし、自転車やバイクは歩行者を蹴散らし、大人の歩行者は子供や老人を蹴散らし、ワルガキ共は我が儘に道路や通路にたむろして他人の交通を阻害する事で日本の道路交通は成立しています、スバラシイ。
小集団主義
この用語は些か曖昧過ぎるでしょう。ここで扱いたいのは「職能等集団の観点及び利益だけを優先させ、個人としての幸せとか国全体の将来を考慮しない小集団中心主義」を意味します。この現象は非常に根深く、かつ歴史性と普遍性があるのですが、この現象を克服しない限り当該社会や人類全体に未来がない事も確かです。
小集団主義は、至る所に顔を出し、まず高度経済成長に寄与しました。農村共同体から放り出された人々は企業にその集団的居場所を求めました。これが企業での生産性向上に寄与したのは明らかです。QCは”=QCサークル”と認識されるようになりましたが、事実上これだけによって効果をあげた可能性があります。
だが、小集団を維持するのも、決してコストがゼロではありません。小集団内部の人々はお互いに様々な意味での贈り物をしあわなければなりません。その規模が大きくなると「花見酒経済」と言う事になります。この過程で小集団内の人々は次第に無能化します。
小集団主義のコストとして、小集団の外には損失を付け回して恥じる事がありませんし、小集団を越えた、国家やら地域やら全体の公共利益等を考える事もない事は重大な問題です。公共を担うべき権力を信任されて付与された人々が小集団主義に走ったと言う事が、政治家や官僚の腐敗・汚職、経営者の背任・怠慢を生んだ根本的な原因であると言えましょう。
小集団主義の跋扈の中で、科学技術を担う人々が徹底的に差別され、酷使されて行った事は特大筆するべき問題と言えます。1990年代後半になり、「理系の仕事は文系の仕事に比べて余りにも割りに合わない」との主張が増え始めました。人間を対象とはしていても、内容は理系の仕事をしている本Webページ提供者には、実に骨身に染みる主張です。では、”文系”の人たちは何をやっていたのかと言うと、何よりも「自分たちの利権集団を維持発展させる方法を専らにやっていた」「自分たちの利権集団が立派に見えるような作業をしていた」と言うべきです。所謂理系の人々は、医者や建築関係者を除き、小集団をあまりうまく形成出来なかったと言えます。
小集団主義の別の問題として「ネットワークを根本的に理解できない」と言う点があります。一応小生もそれに属している研究の仕事が、昔からネットワークで仕事をしている典型的な領域の一つです。この仕事のやり方と言うのは、例えば必要があれば、地球の反対側の研究者と協同して研究を進め、それぞれが給料を貰っている組織に対して報告書を作る等のスタイルで仕事を進めてきました。昨今は、このネットワーク型の仕事をする領域は随分増えたとの印象があります。
だが、小集団主義者はこのネットワーク型の仕事は本質的に理解できません。小集団主義者はこう言います。「秘密が漏れないのをどうやって保証するんだ?」「まず、組織の中で十分議論をしてから仕事を進めなさい」「大きな組織でないから信用できない」「組織として仕事をする」…これらは尤もらしい言い分ですが、全てネットワーク型の仕事を阻害するご発言なのです。そして、組織の個々人に対しては奉仕する積もりはさしてないが、組織目標に対しては極めて勤勉なネットワーク型人間は疎外され、潰されていくことでしょう。
世界の中で進歩的な領域は、間違いなくネットワークで仕事をする時代になっています。小集団主義者は、淘汰されていく事でしょう。問題は、小集団主義者がネットワーク型人間の足を引っ張っている事です。小集団主義で凝り固まり続けていく日本は、何よりも小集団を大切にする小集団主義者自身と共に、世界から破棄されることになるでしょう。
タイムカプセル(ヒロシマ・ナガサキ60年05月07日初出)
ピラミッドやら仁徳天皇クラスの古墳やら記念碑やら、古来人は”永遠にある情報を後世に伝える”と言う事に労力を注いできました。タイムカプセルはこの一種であり、金属等の容器の中にその時代の自分たちを象徴するようなモノを入れて後世に伝えようとする事です。どうやら世界的に見れば1971年に日本万国博を記念して松下電器産業と毎日新聞社が主催となり作られた「タイムカプセルEXPO'70」が最初であり、これは5000年後の人が開けるようにと大阪城本丸跡の地下に埋まっています。爾後、タイムカプセルはあちこちの学校やら事業所やらで大いに流行り、ステンレス製のタイムカプセルを製造販売する会社迄登場しました。
だが良く良く考えてみれば、ある情報を後世に伝えようとするならば、わざわざ土の中に埋めなくても良さそうなものです。彫刻や記念碑と言う形もありますし、しっかりした歴史記録の文献として残しておけば、大学や等の学術文献システムが数百年に亘って保存してくれる事は、既に証明されています。大体土に埋めた所で、地震があれば一発で破壊されるし、大水等で流出する可能性もあるし、中身が酸化・腐敗する可能性もあるしで、土に埋める方法は寧ろ問題が多いと言えます。悪意ある人の破壊から逃れるのは埋めるのが一番と言う意見もあるでしょうが、場所が特定出来るならばいずれ悪意ある者の意図を挫く事は出来ません。
タイムカプセルは、ある情報を伝えるとはどういう事かの観念の歪みによって生み出されるように思われます。どうして何年もの間、当該情報を”開示しない”事に価値が置かれるのでしょうか?情報は使い減りするものではないのですから、それらを閉じ込めておいて何の価値があるのでしょうか?ここに既に”知”に関する歪みを見て取れます。
かように、”知”は日本では一貫して軽んじられて来たことですが、特にメタ認知の欠如が顕著です。メタ認知への軽視は、人文社会学への軽視と表裏一体です。さて、そこにタイムカプセルがあると言う記録、即ち”メタ記録”が失われてしまえば掘り出される可能性は極めて低くなるのであり、メタ認知が欠如し勝ちな知性の欠陥と同形であると言えます。即ち、タイムカプセルは、科学的・歴史的な認識方法に真っ向から反しています。
タイムカプセルは、かように様々な点において非合理なものです。タイムカプセルは、「高度経済成長期の日本人の宗教行動の一種である」と考えるのが適切なのでしょう。まず、土の中に埋めると言う点に不動の土地と言う信仰が見て取れます。この信仰は土地バブルの根源となりました。また、より古典的な宗教観念に由来する側面としては、土は女性を意味するのであり、そこに自分たちの分身と言うべき記念物を埋めてまた掘り出される事を期待するのは、一種の再生儀式であるとも言えます。
こうして考えてみれば、タイムカプセルは小なりと雖もバブル的生産そのものであり、博物館やがマトモに整備・維持されなかった事と表裏一体の現象であったと言えます。
団塊の世代(西暦2003年年04月30日初出) 中尊寺ゆっこ ビアガーデン
所謂第二次世界大戦後ベビーブーム世代の事。狭義には1947年から1949年生まれの世代で、出生数が顕著に他の世代よりも大。
世代論はとかく危ういものです。明らかに個人差は世代差よりも大ですし、階級差も勿論大きな影響があります。しかしながらバブル的生産にあたって、それぞれの世代がどのような役割を果たしたのか、と言うのも一つの観点ではありましょう。
この観点を押し進めるならば、そもそもこの世代は第二次世界大戦直後の食糧難の時代に受胎して生まれました。ハードウェアとしての人間の頭脳の基礎が作られる時期に栄養不足だったのです。素朴に考えて、この世代の頭脳に既に厳しい制約が課せられていたとしても驚くには足りません。
団塊の世代及びその付近の世代で大学生であった人々は、大学紛争が最も激しかった時代の学生に相当しています。1969年には東京大学の安田講堂にバリケードが張られ、大学紛争は最高潮に達しました。だが、大学紛争なるものは挫折します。それは、社会全体を知的なものにする事に、要すれば失敗したとも、大学が高等教育を放棄した事だとも言えます。と言うよりも、大学紛争を幾ら分析しても、一体当時の学生である彼らの主張が何であり、何を目指そうとしたのかまるで了解できません。明白な主張があったのは、インターン制度を批判した東京大学医学部の闘争だけだったと言えるでしょう。単に虚弱なハードウェアだった脳味噌たちが加熱して暴走しただけ、と考えるべきもののように思われます。そして、団塊の世代は大学でマトモに勉強しないままに卒業だけはしてしまいました。ちなみに、この世代の大学進学率は数年の幅を取っても15%以下でした。大学紛争は大都市部だけの現象だったとしても、それらはトップ校だった訳で、要するにリーダークラスの数%が学業を完成しないままに社会に出てしまったのです。
非常にしばしば、団塊の世代は競争が激しかったと言われますが、実際の所は高度経済成長期で学校も職場も拡大を続けていた時代でしたので、彼らが経済的に困窮したと言う証拠は認められません。寧ろ、2006年現在で見れば、彼らは最も大きな生涯所得を手にする世代だと言えるでしょう。
さて、高度経済成長が終了した1970年代半ばの時点において団塊の世代は20代後半から30代前半でした。この当時、日本の各企業や組織は石油ショックを実質労働賃金の切り下げ、公的セクターが各個人に行う投資の切り捨て、アメリカへの輸出ドライブと言う3点セットによって乗り切り始めた時代でした。これに”素直に”彼ら団塊の世代―肉体的労働を最も激しく行える年代の彼ら―は応じたと言えるでしょう。日本の企業において年功序列賃金は確立していました。日本の企業は、小集団主義に立脚した、只管長時間労働を繰り返す事を最も称賛し、その手法に専ら依存していました。彼ら団塊の世代はまさにかかる”単純肉体労働”に応じられる年齢において更なる”単純肉体労働”に応じ、労働分配率の上昇停止に甘んじたのでした。同時にそれによって、彼らは将来自らがより知的であったりシステム的である事による生産性や社会全体の効率を改善する努力を放棄したと言えるでしょう。
この数年後、1970年代の後半、”ニューファミリー”と言う造語をマスコミは持て囃すようになります。それは、只管働くだけではなく家庭を大事にし、自分の生活を大事にするライフスタイルを確立したと称する人々の事でしたが、その年齢対象はずばり、30才代に突入した団塊の世代でした。だが、より顕著だったのは、この世代が全く非政治的だった事でしょう。大学紛争を政治運動だと理解すると、これは些か奇妙な事です。彼らは、非常に消極的な存在になっていきます。
1980年前後は彼らは30才代になりかなりの責任を持たされた仕事を始めたと言えます。また、概ね育児を開始した年齢にも到達していました。ところが、この子供たちは2000年前後から引き籠もり、NEET等の形で成人してしまいます。非常に多くの人々が、単に団塊の世代の子供たちは不況の時代に遭遇したに過ぎない、と弁護しています。だが、何故彼らはもっと社会的な行動、例えば政治的なプロテスト等、を取れないのでしょうか?どうして彼らは、もっと激しく新しい事物の創造に向かい、もって自分たちの窮地を打破しようとしないのでしょうか?団塊の世代の育児はかなりの失敗だったと言わざるを得ません。
彼らの消極的な行動は、階級間の移動調査においても立証されると言えます。「40才の時点での企業や社会内部での地位を戦後日本の階級であるとするならば、1980年代後半において階級の固定化が明瞭になっている」と主張する社会学者がいます。これは興味深い観点です。それは、まさに団塊の世代において起こった事でした。これを、社会において支配階級が強制した結果であるとする見解は些かイデオロギッシュに過ぎます。”上昇”志向の停滞によっても同じ結果は起こり得るのですから。そして、第二次世界大戦後の日本の企業は経営者もサラリーマンであるか、創業者が社長であった時代です。支配階級による上昇の抑圧と言うのは些か現実から外れているように思われます。
次に、1980年代後半は先に述べたように日本の階級が固定化しつつあった年代ですが、同時にバブルが開始された時点でもありました。この時40才代と言う、日本の組織においては実質的な権限を握り始めていた年齢に達していた彼らは、バブルを実質的に推進したと言えるでしょう。勿論、公的な責任者は当時の50才代、60才代、うっかりすると70才代の世代が握ってはいたのですが。彼ら団塊の世代は、バブルの推進者であり、バブルの増殖を怪しむ事も出来ませんでした。
そうして、バブルが弾けた後、彼らはいよいよ組織の中の地位を上昇させて行きますが、バブル破裂による社会と組織の崩壊に対して事実上為すすべもありませんでした。
そして、2000年代、我が国の年金制度が明瞭に崩壊に向かっている現在、50才代後半に達した彼らは”年金がペイする最後の世代”となりそうです。その年金の原資を彼らは積み立てている訳ではなく、彼らは莫大な未積立金をこしらえているのですが(※この件については、年金の項目を参照のこと)。つまり、彼ら団塊の世代は、後の世代が払いきれない年金支払いを受けとる事を約束されている訳です。
また、この頃には団塊の世代は企業や組織のトップに立っていたのですが、数えるのも嫌になるほどの組織の不祥事が多発した時代です。明らかに団塊の世代はこれらの不祥事に大いなる責任がありましたが、彼らは概ね逃げ回るだけでした。
こうして見れば、団塊の世代は消極的な無責任世代だと総括されても、まぁ仕方がないかも知れません。な〜にが「いちご白書をもう一度」だ! ふざけんな!
チャレンジ
新しいモノ・コトを作ること、新しいモノ・コトを見つけること、これらのチャレンジは、数値的に表現するのは非常に困難ではありますが、高度経済成長期後半からバブル期に確実に失われていったものの一つでしょう。一つの論拠として、バブルの崩壊前から新技術の開発ではなく、東南アジアや中国等で安くモノを生産して儲けようとする企業は実に多かったのです。他方、技術と言えば、従来の安価な手作業技能を持つ人々(※パートのおばちゃん等もかなりそうでした)に頼ろうとばかりしていたと言えるでしょう。
科学者は基本的に新しいコト・モノを作り出す人々ですが、科学者に対する人々のイメージは実に静的だったのではないでしょうか?何でも知っている物知り博士、と言うのが一般的なイメージでしょう。チャレンジする人々とは決して見なされていませんでしたし、科学者は基本的に貧乏で冷遇されていました。
また、バブル期の後ではありますが、例えば2002年の現在未だにもって超漢字の2万円が高価だ、と称する人たちがいます。かつては、超漢字は数万円はしました。だが、それにチャレンジし、新しいモノ・コトを試そうとする人々が沢山いました。これだけ完成度が上がり、有益性が顕著になったモノにさえチャレンジしようとしないどころかチャレンジの意義を認めない人々が沢山いるのです。
蚤の市(フリーマーケット)
バブル崩壊後、これは非常に流行り始めたもので、正確な統計は期待するべくもありませんが、実感として確実に増えたものです。
どうしてバブル後に流行った現象をここに記載するのか?それは、蚤の市は「商品に本質的な価値がある」と言う観念に多分に裏打ちされて流行っているように思われるのであり、その意味で甚だバブル的な行動であるように思われるからです。
と言うのは、こういう事です。およそ、どのようなモノであれ、使用価値は必ず存在します。問題は交換価値であり、交換価値を膨らませたものが商品であり、交換価値が極端に大きくなってしまう現象がバブルなのです。当然そこには「自分がこれを使うと言う事、即ち使用価値」から離れた交換価値がモノそのものの”全体的価値イメージ”に侵入しなければならないのです。これが物神と言う事です。
さて、蚤の市の出品の中には確かに幾ら古くても交換価値が十分大きいものも多分に存在します。古美術品等はその最たるものでしょう。だが、蚤の市の出品の殆どは、出品者が持ち帰っているのです。幾ら安くても、大勢の人が市を訪れたとしても、それらのモノの殆どは買い手が付かないのです。それらのモノは本来、捨てるしかないものなのです。ここに明らかに、出品したモノに対する交換価値の評価誤りが存在します。思い出を伴った使用価値によって交換価値を割り増しする錯誤が存在している可能性が大なのです。
なお、これまたバブル後の現象ですが、ネットワークオークションと言うのも、かかるフリーマーケットの増大と全く同一の現象であると言えます。総棚ざらえをしても高々数千円にしかならないモノたちを大層な手間暇をかけ(つまり、それだけ資源エネルギーを費消し)、しかも見ず知らずの他人に自分の住所氏名を明らかにする危険性を払ってまで売るくらいならば、全部ゴミにして捨ててしまった方がマシと言うものです。このように言うと環境問題云々と言う声が上がるでしょうが、そもそも半端に処分してしまうようなモノは半端に買い込んでしまったものなのであり、買ったモノは徹底的にこき使ってこそモノも浮かばれ、本当の環境問題対策になると言うものです。さもなければ勿論最初からモノを買わなければ宜しい。商品と戯れる暇があったらば、人生やるべき事は幾らでもあると言うものです。どんな低賃金労働者であっても、日給1万円近くにはなるのです。「商品に本質的な価値がある・自分の人生や労働には本質的な価値がない」と言う錯誤に陥っているのでなければ、とてもではないが馬鹿馬鹿しくてやっていられないのがフリーマーケットやネトオクと言うものです。
かかる”甘い”評価がバブルを作り出した元凶の一つであるのは明らかでしょう。
不良ルック
どんな時代も、若者は多少は反社会的なものです。それが社会を進歩させる原動力の一つでもあります。だが、バブルの前10年程度の長きに亘って流行した”ツッパリスタイル”と言うのは、単に社会に対して拒絶するだけのものだったように思えます。そして、広く教育に投資をしない(※学歴への投資はありましたが)と言う意味で、そもそもオトナ世代は若者を拒絶し続けてきました。
1981年には「なめ猫」が登場。猫に詰め襟ガクラン、鉢巻きスタイルをさせたもの。これは、コマーシャリズムから登場したキャラクターでしたが、大いに流行り、写真等も良く売れたようです。ソフトに人を拒絶する動物種である猫に、積極的に拒絶するツッパリスタイルを合体させ、二重に拒絶を示して見せた所がミソ。やがて、日本はバブル上昇期に突入して行きます。
ふるさと創成
各市町村に国庫から一律1億円づつを特別支出した事業。1988年11月の竹下登首相の提唱により実施。
この事業のバブル性は4つ指摘できるでしょう。第一は、国と地方自治体の資金配分関係がどうあるべきかの議論が全く行われず、一方的にあたかも恩恵であるかのように”中央”から”地方”へとカネが散まかれた事です。バブル的生産とは”あらゆる領域での無駄遣い≡投資不足”の事ですから、税金をどう配分するかの議論においても同様の問題がそのまま温存されたと言うべきです。第2は、ふるさと作りなるものが結局はカネを単純に散まく事で達成されるものだと言う金神信仰に裏打ちされた行動だった事です。第3は、こうして散まかれたカネが少なからぬ場合何に用いられたかと言うと、温泉をちょこちょこ掘ってみたり、さして利用されない保養所を作ってみたり、と言う結果に至った事です。これらが何に使われたかを網羅した調査って、どこにあるのでしょうか?そして第4には、まさにバブルをぐんぐん上っている時に、国家までが金回りが良くなったかのような顔をしたと言う点です。
ところで、使い方として当時話題になったものとして、1億円の金塊を作ってみた町がありました。これは今日でも物笑いのタネになっているようですが、巨大金塊作りは話題性がありますし、金塊そのものは資産保全として悪くない対象ですから、別段非難されるべきものではありません。
より問題があるのは、このカネで大量に宝くじを買ったと言う自治体があったようで、その半分しか当籤がなかったと言う結果に終わった筈です。籖と言うのは、大数の法則がありますから、多く籖引きをやればやるほど、その結果は期待値そのものに限りなく漸近します。当籤金付き証票法の規定により、宝籖の寺銭率は50%を切ってはいけない事になっています。これに販売等をした銀行(当時は第一勧業銀行)の実費数%分を加味すれば、平均期待率は半分以下になるのです。こんな当たり前の法則さえ理解できていない事こそ遙かに大きな問題であり、バブル的生産の根本原因である科学性や知性の欠如そのものだったと言えるでしょう。
またまたところで、今回ふるさと創成がいつ行われたのかをThe InterNetで調べようとしたのですが、このような事さえきちんと残っているサイトは殆どないのですね。歴史性の欠如は、斯くのごとし。
ふるさと創成で作った金塊(仏暦2552年11月5日初出)
さて、ふるさと創成金で巨大金塊を作った兵庫県淡路市、2009年10月に至って金塊を”返還する”と言うニュースが。え?あれって買ったんじゃなかったの?実は企業に作らせてそれの展示等の利用権を得ていただけで、その金塊の保証金(※億円ですね)を当該企業に預けていただけなんだそうな。当該企業はこの間、その1億円を運用して利益を得ていた訳ですが、金利はばかすか低下、Auそのものの価格も上がりまくり。保証金を6000万円積み増しして欲しい→出ません、で返還と言うことになったそうな。
最終的に、この一連の経緯が淡路市にとって得だったか損だったかは非常に微妙です。単純な銭勘定だけの話だったらば、やれAuが値上がりするのは既に予測可能だったとか、このタイミングで1億円が戻ってきて意味があるのかとかと果てしない些末な議論が沸き起こることでしょう。だが、それらは何れも結果論です。
だが、そもそも自治体は一種のNPOであり、お金もうけをする組織ではありません。1億円を住民のためにどのタイミングで何に使うか、こそがまず問われなければなりません。それこそが、本Webページがあちこちで主張するconceptであります。その観点からすると、この一連の経緯は実にconceptを欠いている、としか言いようがないように見えるのであり、この欠如こそがそもそも非生産性と言うバブル的生産の本質と言うべきでありましょう。
ヤング(西暦2003年年07月08日初出)
この用語がもて囃されるようになり、衰退して死語となった時点を正確に指摘するのは困難です。例えば、ニッポン放送の長寿ラジオ番組「オールナイト・ニッポン」がサブタイトルとして「ビバ ヤング」を称したのが1968年04月でした。しかし、NHK総合テレビの歌番組「レッツゴー・ヤング」が1974年に登場し1986年に終了したと言う事は、一つの目安になるでしょう。少なくとも、2006年現在において、この用語は明らかに死語になっています。
”ヤング”と言う用語は、大まかに言って”成人世代が若年世代をよいしょする際に用いられた用語”であると言えます。例えば「このヤング野郎!」と言うような罵声はまずもってありませんでしたし、”ヤング世代”が自らを”ヤング”と呼ぶ事もあまりありませんでした。
高度経済成長が終了した後、大人世代は自らのノウハウや政治的・社会的な資源投入の方法を改善する事ができないまま、相変わらず若年労働力の摩耗による生産に依存し続けた事が、この”よいしょ”の原因であると言えるでしょう。「レッツゴー・ヤング」が高度経済成長が終了した直後に始まり、バブル上昇開始の時点で終了したのは偶然ではありますまい。と言う訳で、今こうして書いていても気持ちの悪い語感のある流行語です。
ちなみに、よいしょされて低賃金長時間低生産性労働に仕向けられようとしたその”ヤング”の年代は、「レッツゴー・ヤング」を基準とすると団塊の世代直後から10年程度です。「オールナイト・ニッポン」を基準とすると、団塊の世代も入る事になるでしょう。
人口

「目先の銭金が儲かれば良い、特に金持ちや権力がある人が儲かりさえすれば良く、投資の合理性なぞ考えない」バブル的な生産の観点からすれば、人間を作ると言うのは最も”実入り”が少ない仕事なのですから、大幅減産になるのは明らかで、果たしてそのとおりになっています。
そもそも人はどうして子供を産み、育てるのでしょうか?十全な理論はまだ提出されていません。多分、非常に多くの要因が関わっているのでしょう。多数の要因が遺伝的にも社会心理的にも関わっていて、子供を育てようとする動機づけに多数の回路がある事は種の存続にとって安定要因であるのは明らかですから、その意味での多数の要因が関わっていると思われます。要するに人が何故子供を生み、育てようとするか、に対する答えは極めて多数あり、簡単には出尽くさないだろうと言う事です。だが、それをいいことに、明らかに誤った理論が跋扈するのは容認しがたいものがあります。
所謂人口転換が生じる以前の社会においては「子供は自分の老後の生活を支える財である」から大量に子供を作ると言う要因が強かったのが、多少とも科学的な研究に基づく結論であると言えるでしょう。
最近の日本においては人口転換は高度経済成長期直前に生じました。高度経済成長開始直前迄に合計特殊出生率は急激に2少々に低下し、高度経済成長期を通じて静止人口水準を維持し続けました。この間、子供の生存率は高まり、親世代の余命も長くなり「少なく生んでちゃんと育て、長く生きる」と言う社会になりました。これが人口転換と言うことです。データは、こちらあたりをどうぞ。即ち、高度経済成長は、人口転換が起きたからこそ可能になったと言えるでしょう。即ち、親たちが「子供は少なくてもしっかり育つから大丈夫」と考え始めたのです。まずもって公共機能によって提供される衛生や医療の充実があってこそ、次に商品経済の拡大があり得たと言う事なのです。
※非常にしばしば「経済的充実→人口転換」論が展開されます。だが、1990年代後半以降の中国の高度経済成長が、それ以前の「一人っ子政策」が定着した後に生じた事からも、通常の論とは逆である「成育環境充実→人口転換→経済成長」論こそが妥当であると言えます。実際、「子供が確実に成長して老後を支えてくれる」のが分かるならば、何も経済的な繁栄がなくても子供を減らして問題がないと判断するのは、至極合理的と言えます。
さて、高度経済成長がまさに終了した筈の1974年から、合計特殊出生率は再び低下を始めます。人口転換後なぜ更に合計特殊出生率が低下し続けているのか? ここにおいて議論が分かれるのです。本ホームページ提供者の日常感覚、及び高度経済成長が終了した時点から再び合計特殊出世率が低下し始めた事からすればこの理由は非常に明白です。最も重大な要因は、「子供がまともな市民としてやっていけるように育てるコストが、家計の規模からすると非常に大きい」からです。下らない代物やご立派なお偉いさんの玩具ばかりが生産され、まともに住める家や安全な町、まともな教育が相対的に極端に高根になっています。教育費は2002年の現在においてもなお平均出費が増大しており、ぎりぎりまで出費され続けています。住宅に対する出費については言うまでもありません。これ以上何をやれと言うのでしょうか?明らかに税金の出費配分を変更するしかありません。
哀れな我が子(ヒロシマ・ナガサキ60年04月07日初出)
西暦2000年代に至って日本社会の崩壊は極めて明瞭になり、これによって子供を産み、育てようとする動きを阻害する新しい要因が出現しました。それは、「こんなにどんどん落ち込むばかりの国で生まれてくる我が子が可哀想過ぎる」と言う観念です。合計特殊出生率は只管低下を続けています。低下要因に新しいものが加わったのです。
このような直感的に認識可能な要因をきちんと証明する科学の力が日本には元々乏しく、これがバブルを生み出した要因でもありました。
巨乳(ヒロシマ・ナガサキ60年05月06日初出)
”きょにゅう”と読む。巨大なちぶさの事。元々日本語にはなくバスト110センチのAV女優・松坂季実子をマスコミが1989年に囃してこう呼んだのがはじまり。
明らかに日本女性のバストの平均値は増大してきました。栄養、特に脂肪分の摂取量と比例関係にあるのも明らかであり、まさにバブル現象の一つと申せましょう。この言葉自体もバブル期の真っ最中に登場したのであり、バブル的な刺激享楽の一面を示しています。
とは言え、実は巨乳がどの時点からどのように進行したのかのしっかりしたデータはなく、下着メーカーの簡単なサンプル調査とか下着メーターのブラジャーの出荷データ程度からしか間接的に推定できません。何しろ、人体計測が国家としてちゃんと行われたのは実に1990年代後半だったのですから。むしろここに、非科学的なバブル的生産を見る事ができるでしょう。
きれ〜なねぇちゃん―男と女の生産力(西暦2003年06月29日初出)
何というふざけた、かつ男女差別的とも見えるタイトルでしょうか。だが、働いた人ではない所や有効に利用できる訳ではない所に銭金が溜まっていくのがバブル的生産です。同様に子孫を生み育てると言う力の主体である女性が子供を生み適切に育てる力がある訳ではない所に溜まっていく、のもバブル的生産と言うべきです。この観点からすると、どういう女性が人気があり、どのような所に”溜まって”行ったのかは、バブル的生産を如実に反映するものです。
子供を生み育てる力の女性側に現れた問題と言う点について言えば、「きれ〜なねぇちゃんが本当に子供を生み育てる力があるのか、また生まれた子供が成長する力において優秀なのか?」は大いに問題があると言えます。美人がもてるのは古今東西変わらぬ現象ですが、実は美人の内容は時代や地域によって物凄い差があります。楊貴妃は現代日本においては単なるデブのブスと判断されるでしょう。そして、楊貴妃が物凄く多産だったと言う訳ではありません。逆に、現代のすらりとした小顔の女性が楊貴妃の時代に行ったならば、彼女は怖い顔をした獣のような異形の人間と見做されるかも知れません。美人と言うのはその時代においてもて囃された女性であり、その時代においてはもて囃される女性とそうでない女性がいる、と皆のアタマが揃っていたと言う事を反映しているに過ぎません。
さて、そうしてみると、現代の人々の頭に擦り込まれた“きれ〜なねぇちゃん”のイメージは第一に「八頭身美人」であるのは間違いありません。身長と若年期の蛋白質摂取量に相関があるのは明らかですから、身長と経済力等の間に相関があろう事も概ね期待できるでしょう。これは、生殖において優利です。だが、彼女たちは概ねその美貌でもって煌びやかな生活をする事に動機づけられ続けました。これは、その後の育児において明らかに不利です。即ち、八頭身美人と生殖の成功率の間に相関があったかどうかは、相当問題であり、データが必要です。しかも、少なくともツィギーのブーム以降は、異常な迄の痩身が美人とされたのも間違いない所であり、これは1990年代以降の若い女性の拒食症と言う心の病を生み出していきます。勿論、これは明らかに生殖にとって不利です。
他方、美人がどこに溜まり、それ故にどのような男性が美人にありつけたかは、かなり明瞭な傾向が一貫して指摘できます。美人は一貫して金回りの良い所に集まりました。銀行、定期航空、商社、医師等です。工業生産系企業は日本の生産の主流ですが、実はそこには美人はあまり集まっていなかった事は、相当顕著な現象と言えるでしょう。これらの企業の給与は必ずしも高くはなかったのです。公的部門も同様でした。
蛇足ながら、銀行と雖も小生が知る限り三菱銀行は例外でした。堅調な業績を誇りながら、三菱銀行の窓口嬢たちは美人とは言い難かったように思えます。三菱銀行が東京銀行と合併し、東京銀行の窓口嬢たちが三菱銀行に進出したとき、その美貌に本ホームページ提供者は驚嘆したものであります。
また、生殖力と生産力の点からすれば、高給取りの男性がその財力でもって出生率が高かったか、その後その子供たちが有能であったかについてはこれまた疑念があります。高給取りの男性の子供の生産力とはつまり二世何タラの人たちの生産力と言う事になり、この継承性が次第に高まっていった点については実証データがあります。つまり、日本の社会が封建社会宜しい硬直したものに近づいていったと言う訳です。だが、生産性と言う点からすれば強い疑念を呈する研究者もいます。
コマーシャル
2000年代に突入してから、テレビに出てくるコマーシャルの中の家族の数が、子供二人から子供一人になっているCMが増えましたね。現状を如実に反映していると言えましょう。
世界情勢と日本
世界的に、所謂先進工業諸国の合計特殊出生率は低下の傾向にありますが、やはり幾つか指摘できる特徴があります。第1に、1990年代アメリカ合衆国の値は静止人口達成水準に概ね復帰している事。第2に、スウェーデンが一時的でありましたが、女性の労働者化を容易にする施策を行い、静止人口達成水準に復帰した事。明らかに、人口は社会・経済状態を鋭敏に反映するのです。人間も”生産物”である事には変わりがない訳です。
他方、我が国は1970年代の初期、即ちバブル状態が発生し始める寸前に静止人口達成水準(※概ね2.08)を切った後は、只管転落を続けております。この間人口が若干増大を続けたのは、要するに平均寿命が伸びたからでした。
先輩(ヒロシマ・ナガサキ60年03月19日 初出)
人間の行動は可塑性が極めて大きく、これが人間の強みであります。で、この何でもあり、に入れる内容としては、それまでの”人生の先輩”がやってきた行動パターンを取り込むのが圧倒的な分量となります。
さて、これは男女の交わりについても同様であり、逆に言えば、男女の交わりについての行動パターンを継承仕損ねた社会集団は、人口が減少して必然的に亡びるしかありません。
この観点からすれば、ここ何十年かの行動パターンの継承は、失敗の連続だったと言えます。何故か、アメリカ映画に出てくる流儀が適切であると繰り返し繰り返しマスコミは絶叫していました。親たちの世代は、常に商品労働に従事するのに忙しく、お手本にはなりませんでした。学校の年齢別の集団”だけ”が残った結果、子供たちは先輩の恋愛行動を学び難くなりました。子供たちは、常に受験勉強に忙しく、恋愛行動を学ぶ事ができませんでした。
この状況を数量化するのは甚だ困難だし、今となっては不可能でしょう。これは、本ホーム頁提供者の、率直な印象と言う所です。
ところで、2000年代に入る頃から、恋愛に関する心理学研究が次第に盛んになってきました。経験的な恋愛流儀の伝承が失われた所に学問が入ってきて、行動パターンの再構築が行われつつある…と言う所でしょうか。う〜ん、本ホームページ提供者にとっては、遅すぎました。(;
DINKS
Double Income No-KidSの略。夫婦両方が労働による収入があり、子供は作らず、収入を全て自分たちの娯楽等に費やす事。1988年頃の流行語。
2003年現在、所得税の配偶者控除の撤廃、年金の配偶者からの徴収等、子供を産み育てるシステムとしての核家族の更なる投資削減及び破壊が進行中です。それに先立つこと十数年前に、まず子供を作らないという決断をした夫婦に対する心理的攻撃があり、それを反映した用語と言えるでしょう。
と言うのは、別項に記しているように、合計特殊出生率はバブルをぐんぐん上っていくこの時点で既に単純再生産可能な率である2を大きく下回っていたからです。既にこの時点において、「取り敢えず商品的な豊かさは達成されたが、または、達成されたが故に、子供を安心して生み育てる環境は貧困なものになっていた。特に、豊かな商品群と比べると。」と言う状態であったと言えるでしょう。この状況の中で、幾組もの夫婦は究極の選択としてDINKSを選択したと言う訳です。
他方、無知・無能なより年長の世代は、「豊かな生活のために子供を産み育てる義務を放棄した」として若い世代を非難するためにこの用語を用いたと言う訳です。
独身者
ついこないだまで独身子供なしだった本ホームページ提供者からすると実に心痛に耐えないのですが、昨今独身者の多いこと!晩婚化と言うよりも”結婚不可能化”状況が猛烈な勢いで進行しています。 子供を作ることを目的としない夫婦(※できない、と言うのは問題とされるべきではありません。できるかどうかは結婚してみないと分からない所がある訳で、これは、先天的な障碍者が生まれてくる事もそうですが、社会全体で次の世代を生み出すにあたってのリスクの共有の問題なのです。リスクを夫婦にだけ全て負わせるならば、誰もそんなリスクを負おうとはしないでしょう。)と言うのは、意味があまりないと言うべきですが、それ以前の問題です。どうやら昨今の若い人たちは「結婚して家族を持つ事が夢」と言う考えを持つ人が増えているようです。明らかに、結婚して子供を持てただけで中流と見なすべき社会に日本は転落してしまいました。
貴男や貴女の赤ちゃんは”蒸発”してしまいました。
代わりに、訳の分からない橋や道路や建物や、ご立派な方々のハクやらに
なってしまいました
さぁ、泣いてください
誰もいない立派な道とビルの中で
消えてしまった貴方の赤ちゃんのために

東北地方特有の轆轤人形こけしは、間引きされてしまった子供(特に女子が多かった)を密かに供養するために作られたと言うのが確実です。ご立派な建物やら道路やらにこけしを供養して上げたいとすら思えます。
丙午(ひのえうま)(ヒロシマ・ナガサキ60年04月07日初出)
高度経済成長真っ盛りの最中の1966年は干支で言うと丙午でした。丙午生まれの女の子は苛烈で夫を尻に敷く、と言う愚にもつかない俗信が広まっていたため、出生率が急落したとされました。実際、合計特殊出生率は高度経済成長期間に2少々の静止人口水準を維持し続けていたものが、実に1.58に急落します
だが、俗信だけによる急落説に心理学者として本ホームページ提供者は疑念を抱いています。この反動で翌年はやや出生率が上昇したとされますし、その前年は駆け込みによるものか、僅かに出生率は上がっています。だが、この間の数年は僅かに合計特殊出生率は上向いていた時期でした。また、この年の落ち込み実数を前後の年で埋め合わせするには遠く及ばない減少でした。
以上の事から、「そもそもこの年の激減は、子供を産み育てる力が社会全体としてなくなっていく中で、ちょっとしたきっかけによって出生数がカタストロフィックに減少した」と考えられます。きっかけは何でも良かったのです。何かきっかけがあれば、子供を産み育てると言う、困難で収入を伴わない仕事はほうり出されてしまっていただけです。人々は子供を産み育てると言う苦労を放棄する”言い訳”を欲していました。既に、子供を産み育てる事はどんな意味においてもペイしない仕事になっていたのでしょう。
年金(ヒロシマ・ナガサキ60年03月12日 初出)
人口の激減も相まって、日本の年金制度は崩壊しました。この問題が誰の目にも明らかになったのは、1990年代後半からですが、既にバブルの前から専門家たちには認識されていたもののようです。
問題はどこにあるのか?非バブル的生産の観点からは、お金そのものには本質的価値を認めません。存在するのは、その時々と未来の生産力だけです。よって、年金制度は当然のことながら、現役世代からの税収の一部を割り当てる方法しかあり得ません。
日本の年金制度はかような非バブル的生産方式の観点とは真っ向から反するものです。日本の年金制度は積み立て方式であり、現役世代が積み立てたお金を政府が運用し、年金の支払いに当てると言うものです。お金の価値は未来不滅だとでも言うのでしょうか?ここで、積み立てたお金から取り崩せる分だけを素直に割って年金として支払っていればまだしも、まず約束した支払金額ありきになっているのです。
一見話は非常に難しそうですが、本質は簡単窮まりない話です。「政府が口約束をして払うことになっている多額の年金の積立金を、そもそも受給世代は払っていない」と言う事なのです。2004年現在、この未払いの積立金(未積立金)は実に450兆円になっているとの計算があります。”制度が約束している金額”と言うのは、甘言に過ぎません。歴代政府は、最後の年金ペイ世代である団塊の世代迄の高齢者を、後世の若者の税金を勝手に使って買収してきた、と言っても過言ではありません。
なお、崩壊が明白になった2000年代初頭に行われていた賦課方式に移行したのは1973年と、まさに高度経済成長の終了の時点でした。明らかに、高度経済成長による錯誤が崩壊に影響しています。
崩壊の原因を別の観点から見ることもできます。何故年金積み立て方式に歴代政権や官僚たちは拘ったのでしょうか?積立金を企業や官営企業の貸付金として利用可能だったからだと断言できるでしょう。それを配分する所に利権が生じます。そして、グリーンピアなどのように、役に立たない建物や道路等の増産に使われてしまった、と言う訳です。
予測
散見される悪質なバブル擁護論の中には「各地の道路やビルは人口増大を想定して建設したものであり、予測が外れたに過ぎない」とするものがあります。要するに子供を生まなくなったから悪いのだ、若い奴等が悪い、と言うのです。だが既に記したように、合計特殊出生率は高度経済成長期に概ね平坦な水準で推移し、その末期には静止人口水準を若干割り込んでしまっていました。また、終了後には只管低下を始めています。このようなデータをきちんと踏まえていなかったのは、愚かしい事でした。
※データを踏まえると言うことは、科学的態度の初歩の初歩であります。勿論、半端で理論と論理の裏づけのないデータや測定精度が怪しいデータは、却って悪しきものではありますが。
この議論をするならば、旧人口問題研究所、国立社会保障・人口研究所の予測が一貫して大外れだった事を指摘しないわけには行きません。出生率は常に高目に予測されました。彼らは無能だったのでしょうか?それとも、厚生省等の圧力によって極端に高い値を”ご託宣”し続けたのでしょうか? 経験からして、後者だったと思われます。同時に、厚生省官僚によって人口問題研究所を無能化する様々な方策がじわじわと打たれ続けたであろうと想像するのはそう難しくないのです。これは、研究とか科学とかが、単なる”お飾り”であれば良い、と言う非合理な権威主義(と言う事は、権力を握った人たちだけがオイシイ思いをし続けると言う事)に由来するものでした。
付論(欺瞞に満ちた”理論”たち)−女性の労働商品化の強化
人は何故子供を持とうとするのかに多数の要因が絡んでいるために理解が困難であることをいいことに、欺瞞に満ちた議論が多くあります。その一つが「女性が子供を保育園等に預ける等して労働することで女性の開放が進み、出生率が上がるのだ」と言うものです。家庭と言う封建制の遺物から解放されて商品労働の軛に落ちた女性はもりもり出産に励むのだそうです。どうもその関係を補強する心理学の理論と言うのは存在しないと思うのですが、ともかくそう論ずる人たちがいます。そして、女性の労働力化推進→出生率上昇と言う関係は、確かにスウェーデンにおいて事実でした、そのあとまたすぐに落ちてしまったのですが(失笑)。
※2003年、日本心理学会の大会発表の範疇に「ジェンダー・フェミニズム」が登場しました。この領域で研究をしている人たちが、かような誤った論理に嵌まった”研究”なるものを続けるならば、これらの研究もまたバブル的生産の一部と見做さざるを得ません。
だが、スウェーデンのこの経緯は、先に述べた「子供がまともな市民としてやっていけるように育てるコストが、家計の規模からすると非常に大きい」から出生率が下がると言う仮説にも、実は完全に合致してしまうのです。と言うのは、母親が養育を放棄して賃金労働すれば、確かにある程度は家計の収入が増えるからです。
※ だが、やってみた人は誰でも分かるように、保育園や学外保育の経費と労働するための必要経費(※服、化粧、労働者たる母親が自分自身に投資する分等など…)が増えるので、実は家計の可処分所得は案外増えないのです。例えば2003年現在、幼稚園と保育園の月謝はそれぞれ月3〜4万円6〜7万円とほぼ倍ですが、それでも保育園の育児時間は夕方迄であり、フルタイムの労働をする場合には保育時間は全く不足であり、更に保育料を払わなければなりません。小学校の段階でも同様です。小生の妻の友人たちの中にはこのワナに見事に填まってしまい続けている人が何人か見られます。スウェーデンでも同様の事が起こった可能性があります。
また、そもそも我が国では元来、女性は子育てを終えるとまた何らかの形で就業する人が多く、女性の就業率はM字曲線を描くと言うのが以前からの定説でしたし、これは社会全体としてみれば合理的なものです。子育てを終えたらば、学識や見識のある女性ならば議員になる、なんてのが続出するようならば、もっと結構なことであります。
※ 心理学を生業とする立場からすれば、子供に専ら張り付いて養育するべき期間は、思春期前期迄が一つの区切りでしょう。
※ 議員はもっとマトモな学識と見識を備えた人がなるべきである、のは言う迄もありません(爆笑)。
※ 以上の議論は、勿論工業化社会を前提としています。家の周囲においてやるべきことがより増大するであろう、来るべき(※来たらしめなければいけない)エコロジー社会では事情は相当異なります。これらの議論を混濁するべきではありません。
以上のように、M字を台形にしてまで女性の商品労働化を進めようとする人は、社会を継続して維持・発展させようとする合理的な判断から逸脱した事を主張しているのだ、と本ホームページ提供者は主張します。この人たちは、 女性の商品労働化を進めることで、より安価かつ安直に労働力を購入しようとするさもしい経営者たち 女性を育児から手をひかせ、家族どころか親子の関係をも破壊しようとする悪質なフェミニストたち(※これら、破壊衝動を内包する悪質なフェミニストたちは、カウンセリングや心理療法の対象とこそされるべきでしょう)、から構成されています。
付論(欺瞞に満ちた”理論”たち)−曲線の曲解
こちらにおいて、本ホーム頁提供者は「記述統計学」と「数理統計学」の差異を強調し、数理統計学の考え方で分析をするべき事象を記述統計学の論理で尤もらしく表現するのは不適切だと批判しました。
同様の問題は、人口問題においても存在します。合計特殊出生率の動態を、第二次世界大戦以降一貫して低下してきたと称する人々が存在します。なるほど、そのとおりです。だが、人口転換とそれ以降の更なる低下を区別するべきであることは既に論じたとおりです。このような論者たちは、曲率が変化している事の背景にある力動を考慮していないと言う点において、ホッケー・スティック曲線から毒物の閾値が本質的に存在すると勘違いする生理学者たちと、一見すると逆の事をやっているように見えながら、同類なのです。
さて、人口動態は何によって左右されるかを理論化しながら合計特殊出生率のデータを通覧すれば、社会全体に関与する力動がある事が明瞭です。と言うのは、そもそも人口のように多数の要因によって決定されるのが明らかな現象がひょろひょろと変動するのは相当異常な事です。丙午現象も、背後に子供を産み育てる環境の逐次の悪化を想定しなければかくも大きな落ち込みは説明困難です。多数ある要因の内大方は動いていないが、全体に関わる要因の何かが変動しているのであり、変動しているのは経済的な環境だけなのです。
働く

サラリーマンの給料は、最も値切り倒されたものの一つです。働くと言う事はバブル的生産においては単なる”餌”であり、潜在的に最も蔑視されている活動です。
ある研修にて
本ホームページ提供者は、バブル真っ盛りの1989年9月に職場の長期研修に入りました。開発や研究担当者ばかりの研修です。その中での一こま。発想法の研修だったと思います。部外講師が見えて実習を交えての修得でした。どういう筋でそういう話になったのかは忘れたのですが、我々研修者は「景気が悪くなる事で我々の職場は改善される」と主張したのです。部外講師は、そんな馬鹿な!君たちの職場は税金で賄われている以上、景気が悪化すれば税収が減少して、職場は悪くなる!と叱責されたのですが、我々は頑として説を変えませんでした。結局、じゃあそういう話の筋でまとめるだけまとめてみなさい、と言う事になったと記憶しています。”正しい”結論を得る事が目的ではなく、発想方法を修得するための訓練だったのですから。
ただでさえ地味で金回りの悪い職場、しかもその中で技術や更には科学でもって仕事をする立場。これらの仕事は、バブル的生産が染みついた我が国において投資が増加させられる事はありませんでした。となると、景気が良くなればなるほど”相対的に”自分たちの仕事の質が劣化させられ、優秀な大学卒業者たちは金回りの良い所にだけ流れ、”相対的に”自分たちの立場が悪くなる事を我々は熟知していたのでした。
おたく(ヒロシマ・ナガサキ60年05月01日初出)
他者と没交渉に自己の狭い趣味に徹底的に没入する人々の事。この用語は中森明夫が「漫画ブリッコ」(白夜書房)1983年6月号掲載の「街には”おたく”がいっぱい」で用いたのが最初とされます。1989年、埼玉県において宮崎勤が5才以下の女児を4人連続して殺した事件が発生、宮崎がおたく的趣味を持っていた事から俄然注目され、この用語は孤独になり勝ちな人を侮蔑的に呼ぶために用いられるようになりました。
おたくを定義し・理解するにあたり、本ホームページ提供者は次のように考えます。そもそもおたくの趣味においては行為ではなくモノを媒介する必要があり、モノを媒介するが故に他者と没交渉でありながら孤独ではない状態であり続ける事が可能なのですが、ここでのモノとは、対象として突き放された存在なのです。科学的概念や商品もモノの一種です。よって、おたくが関与するモノは極めて小さな集団においてのみ通用するものではあっても、基本的に普遍性と客観性を備えている、または普遍性と客観性が説明され得る・明示され得る存在です。普遍性と客観性があるからこそ、おたくたちは孤独ではないのです。
おたく現象は、バブル現象と爛れきった程に密接な関係があります。明らかにおたくは若者から登場しているのであり、1970年代半ばに終了した高度経済成長による経済的余力が若年層に―多分に親を通して―回った事により、形成されました。だが、おたくはモノを媒介としているのであり、これは凡ゆる存在が商品化された事によってようやっと成立し得たものと言えます。また、ここが重要な点ですが、商品とは対象化された存在であり、客観的な存在であると言う一面があります。商品過程には社会を分解させる毒がありますが、同時にそれは普遍的・客観的な面があります。即ち、おたくは、客観化や普遍化の過程と表裏一体の関係にあります。客観的で普遍的な存在を媒介とするが故におたくは孤独ではなく、ネットワークとして他者と結合しているのです。
そこで、本ホームページ提供者は、「おたくは、資本主義が成熟した段階において次の生産様式を生み出す際の現象である。この際、子供たちも商品に浸されているが故に最初に消費様式として登場したのであり、彼らおたくの行動様式は次の生産様式を規定する。」と考えます。
実際、1980年代におたくが集った主要な”趣味”は、コンピュータ及びゲーム、アニメ、コミックでした。これらは、1990年代において日本の主要な”輸出産業”になり”日本の顔”にさえなります。明らかに、自ら徹底的に打ち込む対象を持つ事は、ある程度成熟した社会での生産において決定的に重要です。元気ハツラツとマニュアルどおりに動く人間が必要な仕事も沢山ありますが、そうでない”創造的な”仕事の比重が遙かに大きくなっていく筈だったのが高度経済成長後の日本だった筈です。
それにも関わらず、企業や社会において、おたくやおたく的に働く人(古来からのその典型例は芸術家であり科学者であり技術者でした。)は不幸で冷遇され続けました。日本の社会は、一貫しておたくやオタク的に働く人を根暗で人付き合いが悪く、従業員としては使いづらい、ともすれば犯罪者に転落しやすい連中と見なし続けました。1990年代に日本の国際収支や日本のイメージはこれらオタクによって支えられたことが余りにも明らかになった後でさえ、どの評論家もマスコミも、かつて自分たちがオタクに罵声を浴びせかけた事を詫びもしませんでした。
かくして、高度経済成長後の日本は、おたくやオタク的に働く人を生産の中枢に取り込む事に失敗しました。これは、企業から創造性を大幅に削ぎ取ることです。社会全体として見ても、例えば政治過程をモノとして突き放して扱い、それに没入する人々が必要でした。だが、日本はそれらの人々を育成し政治の枢要な部分に据える事に失敗しました。かくして、政治は果てしない利権同士の泥仕合となり、客観性を失い、政治が関与する生産の合理性は失われていきました。
本ホームページ提供者が、とかく病理的社会現象として把握される事の多いおたく現象を「働く」と言う項目の下位にあえて置く理由は実にここにあるのです。
なお、連続幼女殺人事件の犯人宮崎勤は手のひらを上に反転させることができない身体障害者でした。身体障害者を社会の中に位置づけることができない日本社会は、彼をモノの世界に追いやることになります。そこは、要するにオタクの世界でした。宮崎は、二重に日本の社会から疎外された人であったように思われます。
会社人間
高度経済成長期には、労働者へのペイをはずむ事で有効需要が急速に増大し、それが結局は企業の売り上げにも跳ね返りましたから、給与は急激に上がり、経済は成長しました。人々は、働けば収入が増えるのだ、と言う観念を素朴に成長させます。この時代の会社人間を”前期”会社人間と呼びましょう。それは、「亭主元気で留守がいい」とも言われた、誰もが概ね満足していた時代でした。
他方、石油ショック後、日本と各企業はアメリカへの輸出を加速しつつ、企業の利益を極大化する事で生き延びる事を図ります。ここで公共サービスを含めて国民にとって付加価値の高いものを生産する体制に切り替えれば問題はなく、日本は繁栄を続けられたでしょう。だが、起こされた事は、労働者の締めつけであり、それによる有効需要の大幅な減少でした。
かくして、締めつけと高度経済成長期の甘い夢が相まって、家庭や自分の人生、ましてや近隣社会や日本、世界全体を考えることなく、あらゆる行動基準が企業の利益だけとなり、全ての時間を労働に投入する”後期会社人間”が誕生します。これを評論家の佐高信氏は”社畜”と呼んだと言えるでしょう。そして、”社畜”は自滅への道でした、個人にとっても企業にとっても社会全体にとっても。
過労死
"karousi"、今や、国際語です。”カミカゼ”と共に日本民族が命懸けで生み出した世界的用語の一つです(爆怒笑)。そう言えば、tsunamiも国際語だそうでして、どうも日本から生まれた国際語は人が消耗品として死ぬ話ばかりであるのは、実に不愉快なものです。
閑話休題。過労死は、バブル期を境にしてその性質を異にします。高度経済成長期からバブル期迄は自らがんがん働く事で、長期不況期になると組織内で圧迫されて働かざるを得ず、死亡する例が目立っています。なお、過労死が労働災害であると認定されるようになったのは、やっと1990年代後半でした。
それにしても、高度経済成長期のビジネス啓蒙書の類を見ると「働きすぎて死んだ人間はいない」等の威勢の良い文言がころがっていたものです。ウソもいいところです。こんな啓蒙書をばらまいた筆者連中を丹念に探し出して暴いていく事も、今後重要な仕事でしょう。
給料運搬人(ヒロシマ・ナガサキ60年11月05日初出)
仕事ばかりしていて家庭を顧みない男たちを罵倒するためにマスコミが作り出した造語の一つです。登場時点は不明ですが、勿論高度経済成長期が過ぎて以降に登場したものです。家庭にいる妻たちの一部がこれを用いて亭主を罵倒したとされます。
だが、考えてみればこれは実に不思議な悪口です。家庭に対して顔が向いていなくても、その男性は仕事をちゃんとしているのです。2000年代前半の昨今、特にお偉いさんたちのかなりがマジメに仕事をせずに大金を貪っている(マジメごまかし仕事)のが明らかになった事に比べると遙かにマシであり、社会全体としてはきちんと帳尻が合っているのです。
つまり、この用語が登場してそれなりに受け入れられた背景に「会社や組織で働く事が公共性を失った」と認識されるようになった事があると言えます。これこそが重大な変化だったのです。「あんたは自分のために働いているのであり、自分のためばっかりに時間を使わないで一寸はあたしたちのために時間を使って頂戴!」と言う事です。誠にごもっともです。”働く”と言う事が徹底的に銭儲けだけ、社会全体への寄与がない行為に転落して行った過程で登場した用語だったようです。
競争
最も盛大に拡大再生産された社会的関係が、これでした。競争と言うと尤もらしく聞こえますが、要するに敵対です。石油ショックの後、企業の構成員同士を敵対させる事で労働生産性を上げつつ賃金を値切り倒したと言う見方に、小生は全面的に賛成します。明らかに、GDPの伸び率に対してサラリーマンの可処分所得の伸び率が遙かに下回っているからです。この競争主義は、ただでさえ企業毎労働組合しか発達させ得なかった我が国において、ますます労働組合、ひいては勤労者の立場そのものを弱くさせたのは言うまでもありません。帝王学の要諦は「支配される者たちを分裂させ、対立させろ」、であります。
そして、これによる有効総需要の抑制は、余剰資金を企業や一部の公的部門に集中させ、役に立たない代物とバブルを生産する事になります。
教育での競争主義については、「学歴と知性」をご覧下さい。
金融業と理工学部
バブル当時、「理工学部の学生がメーカー勤務を志向せず、金融業にばかり流れる」と言う事が一部マスコミにて問題視された事があります。この傾向がどの程度だったのか数値的には不明ですが、いかにもありそうな事でした。これによって金融業が確率論に基づくリスク計算をきちんとできる業態になればそれはそれだったのですが、実は単に給料がいいからメーカーではなく金融業と言うだけの話だ、と言われたものです。果たせるかな、その後、日本の金融業は投資リスクを制御する能力もつかないままに、只管衰退していきます。この当時、金融業に就社した数学を扱える諸君は、”つぶし”を効かされて…今何してるんでしょうね?
ごまかし仕事(ヒロシマ・ナガサキ60年09月14日初出)ごまかし勉強
「ごまかし勉強」を著した藤澤氏は、「ごまかし勉強が身についてしまった人は、ごまかし仕事を専らにやるようになる」と述べました。ごまかしを繰り返していくと、目先の検査やチェックだけを通ればいい、と言う”仕事”を”悪い意図”さえなく、やってしまうようになると言うのであり、それがJCO事故等のような誠に奇妙な組織事故を平気で起こす原因であると言うのです。
かかる「ごまかし仕事」が生産性の維持改善や社会の維持改善にとって致命的であるのは言う迄もありません。それらは本質的に無駄であり、そこに投ぜられ、価値があるとされた貨幣は、基本的に不良債権です。これらごまかし仕事は言うなれば「魂の篭もっていない仕事」です。高度経済成長が終了した後、少なからぬ仕事がごまかし仕事になったのかも知れません。少なくとも、2004年の現在、世にごまかし仕事は実に多く見られるのです。そもそも高度経済成長期以降、大人たちがごまかし仕事を平然とやるようになったから、ごまかし勉強法が提供されるようになり、子供たちはそれに馴染んで行き更にごまかし仕事が拡大する…と言う悪循環でありましょう。
さて、藤澤氏が挙げた「ごまかし仕事」は、言うなれば「ごまかし仕事の原型」です。「目先の尤もらしい基準さえクリアすれば事たれりとする」やり方を展開すると、ごまかし仕事の他のタイプを列挙する事ができます。
「ごまかし仕事タイプ02」として、誰もが目にしていて、誰もが認識している筈なのに、誰も表立って取り上げなかったものがあります。それは、「在任中だけ、妥当とは言い難い方法で組織のリソースを動員して目先の目標をクリアし、後は知らぬ存ぜぬ」と言うタイプのごまかしです。目先の営業成績を、営業マンの人脈を使い潰して達成する、と言うようなあたりが典型的なパターンです。これは同時に、「問題の先送り」と言う事でも知られています。職位が高い人々がこれをおっぱじめると、”下”の人たちは悲惨で、どんどん使い潰される事になります。挙げ句は「金の卵を産む雌鳥」の首を締めて平然としています。バブル後の所謂「失われた10年」はこのタイプのごまかし仕事の連続だったと言えるでしょう。
「ごまかし仕事03」として、「問題を扱っているが、問題を解決していない」と言うのもあるでしょう。問題を根本に遡って解決するのは誠に難しいものかも知れませんが、これをやらないで”当面無事”を各方面を叱咤激励して”乗り切って”しまうと言う訳です。このタイプ03は、タイプ02とは異なり、ある組織そのものが恒常的に”やってる顔してやってない”組織になる(または、最初からそれを目指して作られる)場合があるので、あえてタイプ02とは区別されます。
なお、これまで列挙したような「ごまかし仕事」は、「ごまかし勉強」と並んで、日本人の美徳であるとされた”努力”と表裏一体である事に注目する必要があります。努力とは所詮は一時的な活動の高さです。どんどん能力が伸びる時期、特に思春期等においては努力と言うのは適切な事でしょう。だが、成人においての一時的な活動の高さのかなりの部分は、ごまかし仕事に投入されてしまったもののようです。
「ごまかし仕事04」として「振り付け、振り付けられる事に慣れすぎる」と言うものがあります。大抵の仕事の領域には、その担当者でなければ判断できない部分が必ず存在します。それに応じて、担当者には裁量を与えなければなりません。この、担当者でなければ判断できない領域が大きい仕事をnon-manual、小さい仕事をmanualと称します。ハンバーガーショップの店員はマニュアルの一つの極致であり、基礎的領域の研究者はノンマニュアルの極致と言えるでしょう。当然、その他の職種は全てこれら二つの点の間のどこかに位置する事になりますし、どこに位置させるべきかは成果を踏まえて合理的に判断されるべきです。内閣総理大臣や大統領と言えども、マニュアルな仕事が必ずあり、憲法や議会、最高裁判所によって縛られなければならないのです。
だが、上位の職種の人々が振り付け師になり、下位の職種の人たちが振り付けられる事に徹底的に慣れてしまい、そのような振り付けをし・される事が仕事なのだと勘違いしている人々が少なくありません。これらは、無駄に裁量の幅を狭める事を一所懸命やっている訳で、現実に持っていくと無駄作業になってしまうわけですが、一見すると非常に熱心に仕事をしているように見えるごまかし仕事なのです。
「ごまかし仕事05」は言うまでもなく(;)”たらい回し”です。そう言えば、本ホームページ提供者の職場の某OBが「ウチの仕事は、バレーボールであり、ラグビーではない」と揶揄した事があります。”仕事と言うボールが来たらば直ぐにそれをどこかに打ち返すばかりで、仕事をきちんと抱え込まない”と言う訳です。
「ごまかし仕事06」は05の垂直版であり、所謂”丸投げ”です。請け負った仕事をそっくり下請けに出してしまい、自分たちは何もしない事です。丸投げにおいては銭金だけは丸投げした方がしっかり取るのですから、たらい回しよりも悪質です。
「ごまかし仕事07」もあります、沢山ありますね。いい加減止めにしたいんですが、何しろ日本人の少なからざる人たちは長年に亘ってごまかし仕事を延々とやってきてくれたんだから、このリストは随分長くなってしまいます。(; で、それは「能力を無視した仕事を始めること」です。「やれる力があるのか?やれなかった場合のリスク対処は行われているか?」も考えずに目先で獲得したい利益に釣られて始めてしまい、どうしようもなくなって放り出す、と言う事です。決してチャレンジではない事に注目しましょう。目先に期待される利益ですらなく、獲得したい利益と言う点に、ごまかし仕事の救いようのなさがあります。この言わば、兵站無視仕事による失敗のツケは、部門間であればたらい回しになったり、問題の先送りになったりします。または、目先の妙な基準を勝手にでっち上げて「できたと言う事にする」ことで手仕舞いにしたりします。
「ごまかし仕事08」は、「金儲け」です。え?そうです、企業は決して金儲けをする組織ではありません。延々と赤字ではないと言うのは、私企業にとって最大のクリアすべきポイントではありますが一つの単なる基準であり、逆に大金が儲かっていると言うのは必ずしも基準を大きくクリアした立派な業績ではないのです。従業員にはディーセント・ワークを、社会にはまともな製品やサービスを提供し、その結果として投資者に若干の金銭的利益を配給する、と言うのがマトモな企業のあり方なのです。昨今IT企業に良く見られるような、経営者層が馬鹿高い銭金を得ているがそれは株式相場をあおっただけの結果だとか、従業員は悲惨、と言うようなパターンは、”金儲けが企業の目的”と言うごまかし仕事の結果であると言えます。
「ごまかし仕事09」は、「偉い人の転勤の繰り返し」です。転勤は様々な組織上の目的から行われるものですが、「非常に様々な仕事を経験して広い識能が身についた」と言う事になっているのに、実は転勤先では事実上何もやっていないと言うのは、非常に多く見られるパターンです。なお、この際にそれぞれの転勤先では当該”偉い人”は他の様々なタイプのごまかし仕事をやっているだけ、と言う事になるのです。
「ごまかし仕事10」は、「お茶を濁す」です。本気でやらなければならないのに、別の何か尤もらしい仕事めいたものをやってみせることです。例えば、教育訓練で従業員の態度変化を本気で起こさなければならない分野―安全管理やコンプライアンスがこの典型ですが―において、長期間の教育や地道な働きかけに替えて華々しい講演会をやってみせる、と言うのが典型的なこのタイプのごまかし仕事であります。(爆笑、理由は伏す
「ごまかし仕事11」はご存じ「会議」です。これは言う迄もないでしょう。(自爆)
「ごまかし仕事12」は、「別の派手っぽい事をやって、やらなければならない事をやらずにごまかす」事です。「お茶を濁す」の過激版です。内政がまるで駄目な政治屋が派手な外交活動をやり、挙げ句は戦争までおっぱじめてみると言うのは、このタイプの典型的なものです。見た目がまるで違うので、一応別の区分を立ててみました。
「ごまかし仕事13」は、「命令されてからやる」です。どんな仕事においても、それぞれの担当者が自発的にやらなければならない部分があります。ハンバーガーショップの店員でさえ、客から注文を受けて、それを上司に報告してから命令を受けてハンバーガーを作る訳ではありません。
「ごまかし仕事14」は、「やっつけ仕事」です。手早くポイントだけを上手く押さえたと言うだけに留まらない、根本的な所で手を抜いた、と言う意味合いがこの言葉には込められています。
「ごまかし仕事15」は「前例踏襲」です。様々な状況が同じで、アウトプットも満足できるものであれば、殊更に前例を変更する必要はありません。そうではないのに無理やり前例踏襲で「これはいつもこうやっています!」と上司を説き伏せて無理やりやってしまう、と言ったやり方の事です。
「ごまかし仕事16」は、「ハコモノ行政」です。この俗語の含意には様々なものがありましょうが、少なくとも「作られた組織や建物が有効に使われているか・有益に機能しているかは検討しない」と言うものがあります。この場合、これらの組織や建物は、何か仕事をやったかのように装う―そして非常にしばしば単に特定集団の懐を潤す―ために作られたのですから、明らかにごまかし仕事の範疇に入るのです。
「ごまかし仕事17」は「基準を勝手に作ってしまう」です。例えば、応用分野の研究機関で実用になっているかどうかを真摯に検討しようとせずに、学術雑誌に研究の切れ端が掲載された事をもって業績だと称することです。きちんとした手順を踏んでいれば、これだけ大量に学術雑誌のある現在、どこかの学術雑誌に掲載されるものです。それよりも難しいのは現場の役に立っているかどうかであり、応用研究の現場は大学の研究よりも遙かに難しいものではあります。この見方が逆転しているのは、日本の高等教育なり何なりの根源的な問題、即ち権威主義の産物であると言うべきかも知れません。
「ごまかし仕事18」は「予算消化」です。公務員の世界及び官僚化した巨大企業にかなり普遍的に見られる事であり、”予算を取ってくるのが仕事”と言うコトバが使われる所ではこのごまかしを延々とやっているのです。例えば、適当な実験機材を購入しちょろちょろとデータを取ってこれと言う結論も生み出さずさっさとその機材は用途廃止にしてしまうことを延々と繰り返すこととか、これまた必要性の検討は何もせず只管道路を造り続けるとか、どこであれ補助金を突っ込み続けるとか言うことなどなど、このごまかしの例は枚挙に暇がありません。
これらのごまかし仕事は、実際上の価値を生みません。当然、その仕事の成果に対しての価値づけ(例えば企業の株価)等は全て上滑りのものであり、実体を反映しないものであり、その価値づけが上昇する事はバブル以外の何物でもないのです。即ち、「バブルとはごまかし仕事そのものの集大成」であると申せましょう。
なお、日本が悲惨の極みに達した第二次世界大戦に至った経緯というのも、詰まる所はごまかし仕事の集積の結果です。ごまかし仕事07に記した「兵站無視」なんてのは、典型的に旧日本軍特に旧陸軍の統制派がやったごまかし仕事なのでした。
残業時間
2003年の現在、これまでの日本の労働統計における労働時間値は信頼できるものなのか?と言う疑問は確定したものと言えるでしょう。本ホームページ提供者も同一の観点に立たざるを得ません。労働統計値は、明らかに生活実感から懸け離れています。1990年代末になって「サービス残業」と言う用語が流行しましたが、これは何もこの時代にこの違法な残業が増大したものではなく、これまでは無賃の残業を行う事でそれなりの見返りがあったのが、なくなった事を意味するに過ぎません。厳密に時間で定義されるパートタイムにまで違法無賃残業が跋扈している模様です。営業の接待は、残業時間にカウントされていましたか?QCサークル活動が行われた時間はどうでしょうか―QCが素晴らしい成果を上げたと言うのは、実は単なる無賃労働の成果に過ぎなかったのではないでしょうか?
そう言えば、本ホームページ提供者が1983年に今の仕事を始めた時に初任研修があったのですが、その中のある質疑応答の場面でトップマネジメント部門に採用されたM君が質問して曰く「残業をした場合にはどの程度残業手当がつきますか?」本ホームページ提供者は、自分を除く残り全員がこの組織について知識が非常に豊富である事に驚いてばかりいました。本ホームページ提供者が最もウブかったのですが、それにも増して、残業しても手当が付くかどうかが判然としないのが当然と言う所にもっと驚かされたものです。「ああ、俺たちの人生に未来はないな」とかすかに思ったものでした。
長時間交渉
公共部門での予算獲得等で延々と繰り広げられたのが、これでした。敵対的な国同士とかならばともかく、基本的には国内での調整事項は合理性と透明性に基づいて行われるものであって、時間をかけて粘ったからどうと言うものはない筈なのですが「徹夜で交渉して、予算を増やした」と言った自慢話が至る所に転がっていたものです。合理性が徹底的に欠けていたとか、同じ組織と言いながら結局は些末な末端組織だけが並んでいて(集団主義)全体的な目標達成はなしだったのだ、とか言う事を端的に示す現象だったと言えるでしょう。
通勤時間
長くなる一方でした。若くて殆ど常に仕事ばかりしている人たちばかり集まった高度経済成長の時代は工場と住宅がごちゃごちゃと並んでいても良かったのかも知れませんが、高度付加価値経済時代、更にはエコロジー経済時代となると、十分に計画された都市が必須となったのですが、間に合わず、と言うよりも作る積もりもなく、だらだらと通勤時間が伸びる羽目になりました。
通勤時間を勤務時間に準じて遇するべきかどうかはさて置いて、少なくともこれが実質的な勤務時間である事は様々な面で完全に認識されるべきでありました。少なくとも、ILOの労働ストレスの程度の判断等においては通勤時間と残業時間が平時勤務時間に含まれるのは常識になっています。
ハウスマヌカン
ファッション性の強い服を販売する店における”生きたマネキン”を兼ねた販売員。自ら当該店舗の服を徹底的に纏い、その素晴らしさを訴えて販売活動を行った。1982年頃に登場。1984年頃の正にバブルを上り始める直前に全盛。
今日、死語になったこの用語。それにしても、販売員が着ていた服の代金は誰が出したんでしょうね?ハウスマヌカン自身だったと言う話を良く聞いたものです。となると、これは新手の労働搾取の一種だったのでしょう。そのような事をするしか企業は”儲ける”事ができなくなっていたのです。そして、世の中は(※今でもそうだし、いよいよそうですが)果てしない金儲けと言う事なしには成り立っていなかったのでした。
なお、かようなハウスマヌカンへの服の販売は、今日の投資詐欺やらパートをやるためにパソコンを買わせる詐欺の類の元祖とも言えます。
フリーター(ヒロシマ・ナガサキ60年03月09日初出)
所謂定職に就かず、アルバイトを繰り返しながら生活している人々の事。
このような就業形態を取っている人は、昔からどこにでも僅かながらづついたものです。だが、かような用語が殊更にマスコミによって作られたのは、バブルが頂点を迎えた頃の事のようです。当初は、「自分の夢を叶えるために殊更にこのような就業形態を取る人」の意味合いだったのですが、程なく「人生の目的や意味が分からないので、何となくアルバイトを続ける」と言う消極的なモラトリアムの延長の意味あいを込めて使われるようになりました。
だが、1990年代後半、日本経済が明白に崩壊過程に入るや、雇用情勢が極端に悪化し、アルバイトで食いつなぐしかないと言う若者が急増しました。また、親たちが次々とリストラされ、雇用条件を切り捨てられていくのを目の当たりにし、労働意欲は顕著に低下していきました。このような時代になっても、フリーターと言う呼称が無節操に使われ続けました。
また、この頃にはイギリスの類似した用語であるNEET(Not in Employment,Education,Training )と言う用語も良く用いられるようになりました。NEETは、そもそも働く意欲がないと言われた集団でした。
他方、”フリーター”の急増に対して対策として行われたのは職業教育の水準に留まるものであり、フリーターとして生活し続けざるを得ない・そもそも労働に希望が持てない状況に対しての批判は乏しいものだったと言わざるを得ません。即ち、仕方なくアルバイトで食い繋いだり絶望が身に染みてしまった若者に対して、「フリーターになっているのはお前たちが悪いのであり、俺たちは悪くない」と大人世代は宣言してしまったのです。もし、それが事実の大部分だったとしても、そもそもそのような子供を育てたのは彼ら大人世代だったのですから、天に唾する見解としか言いようがありません。
重大な要因が見過ごされていた可能性を忘れるべきではありません。一貫して勤労者の大部分は過酷で長時間の労働に従事させられました。それによって得た利益の大部分は農村部や一部の特権階級に配分され、働いた人々が得たものはごく僅かでした。かような労働の過酷さと成果の配分の不平等を子供の時から見ていた若者に勤労意欲を起こせと言う方が無理と言うものです。所得を収奪された側の都市部勤労者の子弟は、当然ながら「働くのは酷く辛いし、それによって得るものは殆どない」と言う確信を擦り込まれて育ちます。果たせるかな、2005年になると、低所得者層の子弟の方にNEETの率が高いと言う調査結果も発表されるようになりました。
他方、補助金や公的助成を浴びるように得て育った農村部や特権階級の子弟は、勤労を馬鹿にするようになります。2006年06月、秋田県北部出身で在住の畠山鈴香は、自分の娘である彩香ちゃんと近隣の小学1年生米山豪健君を殺害した容疑で逮捕されました。彼女は高校卒業後に仲居、ホステス等を転々とし、ロクな職能がないにも関わらず娘を1名設け、逮捕当時やや手狭で平屋ながら小奇麗な一戸建て(県営住宅)に住み、生活保護を受けていました。逮捕された時、彼女は私が決して着ることのない、お洒落が専ら目的のジーパンを履いていました。彼女のマトモな勤労意欲のなさと、それにも関わらずの生活水準には驚嘆させられます。この事件は、一体どれだけの資源が単に田舎出身で田舎に住んでいると言うだけの人々に投入され、その結果はいかばかりのものだったのか、の典型的な例となるでしょう。
かくして、2004年3月の高校卒業者の内実に30%以上が卒業と同時に”フリーター”となるに至りました。
ファッション・風俗・遊び

これまた凄いバブル現象だった筈…なんですが、本ホームページ提供者はあんまり関心がなかったもので、さしたる記憶がなかったりします。
あるバブルな体系
「そ〜か、何につけバブル的思考及び行動の格好のサンプルは、我が愚妻である!」と気がつきました(自爆)。彼女の服に関するシステムを考えてみましょう。
彼女の場合、とにかく服の量が多いのが第一の特徴です。そんなのあたりまえじゃん、と言うなかれ。これによって、「どこにどのような服があるのかの整理整頓が記憶のレベルでも実物の整理のレベルでもつかず、ますます服を買い込む」と言う悪循環に陥っているのです。これはあらゆる整理整頓の”敗北の方程式”の一つでもあります。次に、「このお洋服を入れるための巨大な箪笥」「巨大な箪笥を入れる為の大きなお家」が欲しくなり、更に悪循環は完成されるのであります(ひ〜!)。
第2の特徴は、所謂流行をやっぱりおっかけていると言う事です。
だが、より顕著な第3の特徴があります。それは、”黒服系”であると言うことです。別項に記載したとおり、バブル期そのものの時には意外なことにファッションは色彩と多様性を失っていました。体にぴったりフィットする服で黒系であった、と単純に総括できます。「ワンレン・ボディコン」「わたしをスキーに連れてって」 私は時折かみさんに「黒服やめろ〜」と言っておるのですが、なかなか効果を現しません。
ところで、”黒服系”も色々と細部の違いはあるらしいのですが、これを見ると私は魔夜峰男作のマンガ「パタリロ!」を思い出します。このマンガの主人公はある裕福な小国の少年国王なのですが、いつも軍服のような黄色い服を着ています。だが、いつも同じ服を着ているのかと言うと、実は少しづつディテールが違うのだそうで、一寸づつ違う服が彼のクローゼットには1000着も並んでいる…と言う事になっています(爆笑)。何だか、バブル期の服って、そういう感じです。
ある悲惨な男のファッション
服飾関連の人たちは、”金にならない”客をどのようにあしらってきたのか、を記録しておきましょう。それは、本ホームページ提供者に起こった事共です。ざっと言って「ある狭い範囲のサイズの服や靴だけが安価で提供され、それ以外の体型の人間に対しては高価どころか、そもそもモノがない」と言う状態が続いてきました。本ホームページ提供者の身長は171cmです。これは、2003年現在の若い男性の平均値よりもやや低い値です。だが、当時としては大柄の部類でした。また、足は28cmモノが必要であり、これは2003年においても大柄です。
この結果は悲惨なものでした。これが、仕立て服や仕立て靴がそれなりに存在していたより以前の時代だったらば何とかなったでしょう。だが、時代は既に既製服、既成靴の時代でした。本ホームページ提供者が靴販売店に行くや「靴は皮が伸びるから、やがて足に合いますよ」と靴販売店は口を揃えて言いました。だがこの言いぐさが何も本ホームページ提供者の巨躯においてだけではなく、一般的に大嘘だったのは爾後外反母趾等靴による足の変形による健康への問題が騒がれるようになって、明らかになります。服も同様です。
これらの問題をある程度解決してくれたのは、アイビー・アメトラの専門店でした。アイビー・アメトラの服は比較的余裕をもった作りになっていたからです。これらの店は2003年現在殆ど消滅していますが、1980年代半ば頃迄は興隆していました。だが、これらの店の商品は高価でした。そう言えば、大学院1年生の時、身体に合ってかつ適度に体温を保持してくれる服のあまりの少なさから、私は”暴走”してしまったのです。当時、相当高価だったイクジーズブランドのジーパンを購入してしまったのでありまして、育英会の奨学金が月額7万円だったのに7千円もしたのであります。とは言え、その当時、様々なズボンの類は何れにしても数千円はしたのであり、そしてそれらの中に私の身体に合うものは殆どなかったのです。だが、大学の助手等からは贅沢だと非難を浴びました。貧乏人は毎日をそれなりに快適に生きる権利はない、と言うのが彼女たちの主張のようです。ちなみに、私が出た大学はお洒落で小金持ちとの評判のある私立大学でして、それにも関わらず私がそこに入学したのは後述するように心理学を満遍なく学びたかったからと、学費が実は私立の中で一番安かったからでありました。にも関わらず、一見お洒落に見えるジーパンで非難を浴びせかける所に、むしろ権威主義の風潮が跋扈し、それによって支配せんとする欲動を感じるべきだったのでしょう。
さて、かくして靴屋や服屋たちは人の身体に合わず、人の健康を損ねる靴や服を販売し続ける事で、安直に利益を得続け、人生を楽しんだと言う訳です。
以上の経緯は実はより重大な”計画なし、科学性なしによる都市計画の失敗”と密接に結びついています。それは、平均身長が大きくなったのだから、当然町は広くならなければならないし、電車等も大きくするのは無理として本数を増やす等しなければならなかった、と言う事です。だが、そもそもこれら公共機能をきちんと設計する事は等閑視され続けてきたと言えるでしょう。日本人の身体の大きさの各指標を総合的に計測する事業に通産省が投資して結果が一応出たのは、実に1990年代の後半でした。日本人の身体は大きくなり、相対的に町は狭くなり、服や靴は人の身体にマッチせず、よって不愉快で効率の悪い存在になって行くのです。
ゴルフ
ゴルフは最もバブル的なスポーツだったとして特出しされる価値があるでしょう。
まず、その会員権なるものが誠にバブル的でした。単に優先的にプレーする権利を確保するためだけで数千万円、安くても1500万円程度の会員権を購入する必要がありました。バブルが崩壊すると、その値段は数十万円、数百万円程度に暴落して行きます。
なお、ゴルフ場の会員権の中には、ゴルフ場の土地そのものの分割保有権であるかの如き装いをして売り出されたものがある事も記しておかれるべきでしょう。確かに、東京の小金井カントリークラブはそのようになっているそうですが、殆どのゴルフ場の会員権は単なる優先プレー保証権に過ぎませんでした。大体、田舎の山のてっぺんにあるゴルフ場の土地にどれだけの価値があると言うのでしょうか?土地神話に裏打ちされた虚妄だと言えるでしょう。
だが、会員権売却代をあてこんでゴルフ場は開発されていきました。一か所作るのに平均何億円が投じられたのでしょうか?それが全国に2500か所は作られたと言います。このお金は、実際の力でした。都市を改善したり、若者を教育したり、我が国の平和外交を推進したり…使い道は幾らでもあった筈です。それらは全て、土をほじくり、安物のクラブハウスを立て、芝生を張るために費消されたのでした。
ゴルフ場の他に、これまた日本中の都市部のやや郊外にゴルフ練習場または”打ちっぱなし”と呼ばれた施設が乱立しました。ゴルフは歩き回りながら玉を穴に入れると言う些か象徴的に猥褻な行為を行うスポーツですが、これらゴルフ練習場は単にスイングを練習するために只管クラブで球を打って打って打ちまくるものです。周囲は高い、何本もの柱によって緑色のネットを高く張り渡し、ゴルフボールが場外に飛散するのを防止する構造になっていました。この施設は本来は優良な住宅等になるべき所に乱立したのであり、周辺の環境を劣悪化させました。東京の駅前にさえゴルフ練習場はかなりの数存在しました。土地の有効利用の観点からすると、誠に罪深い存在だったと言えるでしょう。
必要とされたお金の話に戻ります。会員権の他に、一回プレーする度に数万円が必要とされました。この価格は誠に法外なものだと言えます。専門洋書ですら1万円とか2万円程度に過ぎないのです。当然、クラブ等の道具も必要です。クラブ一本数万円程度はしたものであり、他のスポーツと比べても非常に高価でした。お金がないのに付き合いで、または幻想を抱いてゴルフを続けていた人々も、狭い自宅に何本ものゴルフクラブを置いていました。その場所は、ひょっとしたらば彼自身が勉強するためのデスクとして利用するべき空間だったかも知れません。
このように無理をしてゴルフをしていた人々は、当然ながら家族との軋轢を生みました。家族揃ってやれるスポーツやレクリエーションをしていたらば、もっと人々は幸福で有能だったでしょう。
当然、ゴルフを潤沢にプレーできる人は、保守系政治家、中小企業の経営者、医者、大企業の接待費を使う権限を有していた人たち、及びこれらの人たちから接待される立場にある人たち等に限られていました。テニスやスキーがその最盛期と言えども全ての人が楽しむ事が不可能ではなかったのに比べると、非常に限られたものだったと言えます。
バブル期はヘリコプターが増えた時期でもありましたが、驚くべき事に、その目的のかなりの部分はゴルフ場に接待客を連れていくためのものだったのです。
このようなゴルフへの耽溺は日本中に蔓延していました。例えば、年次は明瞭ではないのですが、バブル当時、パソコンの絵のコンテストが行われ、私も参加した事があります。当然私の絵はブービー賞だったのですが、上位には何とゴルフ場に寝そべって寛ぐ絵が入賞したのです。当時のパソコンお絵かきは、まだまだパソコンの描画能力が限られていた事から、美しく見せるテクニックを競っていた面がありました。この作品はテクニック的にはこれと言うものはありませんでした。どう見ても、ゴルフ場で寛ぐと言う所に大方の人々が共感したとしか思えなかったのです。それにしても、ゴルフ場で寝そべったらば大量の農薬を吸い込みそうなもので、考えただけで恐ろしいのですが…。 (^_^;)
かく言う私も、仕事を始めて最初に配置された部門の部長にゴルフを仕込まれかけた事がありました。1983年、正に生産様式の転換に失敗した日本がバブルへの助走を始めていた時期です。こんな給料の安い所でゴルフなんて…と思ったものです。その部長は、職場の敷地の片隅に無理やりつくられたゴルフの小さな練習場にビデオカメラを私に持たせ、スイングを映させたのでした。さて、彼は時々短い練習用のクラブを自分の席の周囲で振ってゴルフスイングの練習をしていました。当時この部門の部長席は部下たちの事務室と一緒の部屋にありました。まだ部長室を別に取れる程の余裕がなかったのです。さてある日、その練習クラブがすっぽりと彼の手を離れ、私のデスクに置いてあった電動鉛筆削り(鉛筆をモーターの力で削る装置)にものの見事に命中したのです!もう少々軌跡が上を向いていたらば私の顔面を直撃し、私は重度身体障害者、悪くするとそのまま死亡し、今頃本ホームページは存在しなかったでありましょう(爆笑)。
そう言えば、駅のプラットフォームで笠をクラブに見立てて振り回す大馬鹿者も決して少なくありませんでした。これまた周囲の人々を無意味に危険に陥れていたものです。
だが、ゴルフを巡る浪費と損失はこれだけに留まりませんでした。1990年代後半、こうやって経営が立ち行かなくなった各地のゴルフ場は次々とアメリカ資本に売却されて行きました。2005年にはゴールドマン・サックスとローンスターがそれぞれ92コースずつを保有すると言う事態に至ったのです。そして、日本人は相変わらずせっせとゴルフ場に通い続け、これら米国資本に大事なお金を貢ぎ続けたと言う訳です。
権力と金力を誇示するためだけに行われたスポーツ、それがゴルフでした。多くの人々が権力のおこぼれにあずかり、自分も権力の一部であるかの如き幻想を夢見るために無理やり大枚を叩いてゴルフに行きました。まさにバブル的生産様式を一身に具現する代表的存在と言えるでしょう。ゴルフは日本人から様々に有益に使える時間、土地、お金を徹底的に奪い取り、平らな緑の幻想を見させ続けたのです。なんてスバラシイ…。
ビバ、ゴルフ!

下半身産業・下半身関連行動(ヒロシマ・ナガサキ59年2月初出)
世界中どの時代でも、多かれ少なかれ大人たちは性的に放埒であり、セックスに熱心です。そもそも人間は女性の巨大な女房や男の口髭、殊更に存在している陰毛、年がら年じゅうの発情状態等を見れば、明らかに最もセックスに熱心な動物です。そして、ボノボ程ではないにしろ、性的な関係をもって社会を結合させる一つの重要な手段として発展して来ました。
だが、何ごとにつけ過ぎたるは及ばざるが如し。出生数が激減したにも拘わらずセックスだけは過激に熱心、の観がありました。また、より問題なのは、セックスを商品として売る傾向が極端になった事です。その一つの現れが、こちら。また、「コギャル」の項も参照。
傘入れ
愚妻がバブル期に購入した豪華とさえ言える折り畳み傘入れを彼女はまだ持っています。濡れた折り畳み傘を満員電車の中で収納するためのものでした。日本製、丁寧な作り、結構豪華な刺繍飾りに布使いと、実にバブルっぽい。そしてそもそも「こんな物を持たざるを得ない程人体と人体がぴったりくっつく満員電車と言うのがいつまでも放置されていた」と言う点が誠にバブル的生産っぽいものです。2002年に至ると、そもそ電車の中でこういう形で他人に迷惑をかけないようにする…と言う気配りさえ人々はなくして行きます。愚なれば貧す、貧すれば鈍す。
ケン・ドーン(仏暦2551年08月03日初出)
豪州のアーティスト。ビビッドで華やかな色使いとデザインでバブル時代に人気を博する。Tシャツが多いに人気だったとか。
これはこれで一つのアートであり、別にバブルと共に日本人が忘れるべき人でもないように思えるのですが、どうも気分が高揚しないと服まで地味になると言うのはどういう事なのか?自己を客観的に見る目が備わっていない事によるものだと思われるのです。
巨人(ヒロシマ・ナガサキ62年03月07日初出)長嶋茂雄、巨人の星
マーラーの… ばきいっ! 失礼しました。日本最古のプロ野球チームの一つ。セントラルリーグ所属。正式名称「東京読売ジャイアンツ」爾後「読売ジャイアンツ」。”ジャイアンツ”から”巨人”または”巨人軍”と愛称される事が多かった。1965年から9年連続リーグ優勝。長嶋茂雄、王貞治等のスタープレーヤーを輩出。テレビ中継の視聴率も良好で1983年のピーク時には関東地区で平均27.1%を記録。だが、爾後長期的に低落し、2005年には同じく関東地区で平均10.2%。
1950年代後半から1970年代前半迄続いた高度経済成長とそれに伴う人口構成の激変の産物そのものだったと言えるのが巨人軍でした。優勝歴等については何処かを参照して頂くとして、その全盛期が本Webページが主張する所の高度経済成長期にぴったりと当てはまるのは、何も偶然ではないと思われます。
それにしても不思議なのは、他にも首都圏にあった球団は多かったのに、どうして東京に集まってきた人々が殊更に巨人軍に自分自身を重ね合わせるようになったのか、と言う事です。親会社である読売新聞の影響としか考えられません。新聞等の大規模マスコミの言説をそのまま頭に入れてしまう思考停止、と言う図式が透けて見えます。勿論、大規模マスコミと言う所に、戦前は天皇を担いだ軍部やら、怪しげなカルト教祖とか、が入る事もある、と言う訳です。
コギャル
短いタイトなスカート、非常に濃いメーク、脱色したり染めた髪、人工昭明で焼いた膚(※ガングロ)、プリクラ、ケータイで身を固め、売春を平然と行ったハイティーン層の事。1993年頃に登場。この前駆現象としてバブル期にブルセラショップ(※若い女性が自分のセーラー服やパンティを販売するための代理ショップ)、ダイヤルQ2(※NTTが提供した、NTT以外が電話を経由して行う様々なサービス。非常にしばしば売春のために用いられたので、この用語は殆ど売春仲介メディアと同義となってしまった。)が登場していたと言える。
コギャルはかように、バブル崩壊直後に登場した風俗です。だが、以下のように見ていくと、実はコギャルの登場はバブル的生産そのものの心理と極めて密接な関連があると本ホームページ提供者は考えます。
コギャルは「自分を徹底的に商品化した子供たち」と総括できます。コギャルたちが母親が作ったセーターを着たりしたでしょうか?自分で作ったアクセサリーを好んで纏ったでしょうか?服は全て売っている、それも”きらきら”して見えるものばかりです。膚や髪も日焼けサロン等の商品サービスの手を介して変形させています。夏の間に海に行って焼いた、と言うのですらないのです。身体はピアスと言う商品によって穴が開けられます。プリクラは、単に自分の顔と通称を交換しまくると言う点で、”トモダチと言う自分”を徹底的に商品化している面が濃厚です。ただし、そこにおいて貨幣はなく、プリクラはプリクラと交換される物々交換の世界に留まっていますが。そして、最後に、彼女たちは売春を平然と行う事で、自分自身の商品化を完成するのです。彼女たちは、”先輩”たちがブルセラやQ2で自我の周辺部分を商品化する事を見て育ち、次には自分たち自身を商品化したのです。
さて、問題はここからです。自らを商品化した事で、コギャルたち以外の誰かがそれを喜んだでしょうか?または、それによって誰かが助かり、力を得る事で、社会全体の生産力が増大したでしょうか?安価に若い女体が手に入った買春男たちは喜んで多少は力になったでしょうし、プリクラやロングソックスの製造販売会社も多少は金回りが良くなったでしょうが、それだけです。コギャルと言う商品化現象は、どうも世の中全体の流れを良くしたとは考えにくいのです。この商品化”も”失敗でした。
かように、コギャルは自らを商品で固め、自らを商品としています。他方、商品が溢れればそれが単純に良い事なのだ、と信じる点で、これは高度経済成長→バブル期の基本的なメンタリティと完全に一致します。それを子供たちが主体的に実施してみせたのがバブル崩壊後だった点で、コギャルは注目に値すると言えます。即ち、バブル的生産のメンタリティはバブル後も大して変化していないのだろうと推定されます。少なくとも彼女たちの世代が老衰する迄は。
ところで、「石川結貴、2007年、モンスターマザー、光文社」においては、10年前にコギャルで今母親になっている女性たちにインタビューした一節があるのですが、その当時の少女売春の客として50才前後の男が多かった事が記されています。つまり、団塊の世代の諸君(もう長幼の序なんぞ、あるか〜!)はコギャルの一番のお得意さんだったと言う訳です。ま〜たこいつらかよ〜。
マージャン(仏暦2551年07月07日初出)
このゲームは、バブルの時代には既に下火になりつつありました。だが、このゲームに耽溺した人々が何をしたのかと言う観点からすれば、マージャンははなはだバブル的な生産様式に深く関わっていると言えます。
マージャンは、”お仲間”を形成し、維持するために行われました。かつて、サラリーマンのおつきあいの三種の神器として「ゴルフ、マージャン、宴会」が上げられたものです。カラオケの登場後は、宴会の座をカラオケが占めました。
潤沢な健康を浪費することは、ある種の快楽であるようです。生産に追われる人々にとっては信じ難い事なのですが、事実として認めざるを得ません。徹夜で、タバコを吸いながら、酒を飲みながら、近くばかりを見ているので視力も悪化させる、独創的とはおよそ言い難いどちらかと言うと単調作業に属するゲーム(何しろ、運に左右される部分が強い。将棋や囲碁が明白なsportsであるのとは異なります。)に複数の男が一つの小部屋に缶詰めになって熱中する。不健康不健全と言う他はありません。だが、このB級贅沢こそが、企業の中の派閥やら利権を握ろうと言う人たちの間を取り持ったものでした。
サーフィン
バブル的なスポーツではないのですが、まつわりつくイメージが実にバブルっぽいスポーツでした。サーフィンと言うよりも、「格好だけはサーフィンをやる人を真似た陸サーファー」がバブルっぽいと言うべきかも知れません。
Gショック、エアーマックスブーム(仏暦2550年05月02日初出)
Gショックは日本のカシオ社が1983年から製造販売している堅牢さが売り物のデジタル式腕時計。エアーマックスはナイキ社が製造販売している高性能スニーカー。何れも日本においてはバブル直後1990年代半ばにブームになり、入手困難モデルは数十万円単位の値段がついた。
多くの技術を盛り込んだ、堅牢で高性能な装備品は好ましいものです。それは間違いなく使用者の必要を充分に満たし、場合によっては命を救ってくれさえするでしょう。だが、それらが購入され、持て囃されたかの様態が余りにもバブル的過ぎました。これらのハイテクギアは、アウトドアスポーツをする人々、本気でスポーツを愛好する人々、更にはプロフェッショナルな人々にだけ使用されたと言うよりも、そうでない人々に圧倒的に購入され、持て囃されました。それらは、徹底的に使用され、性能をフルに出し切って破棄、または人生の記念品として愛蔵される、と言う使われ方をしていません。多くは、そんな性能が全然必要のない人々によって購入され、うっかりするとコレクターによって購入され、ひょっとしたらば値上がりするかも知れないと言う期待だけを担わされ、しまい込まれ、飽きたからと言うので捨て去られました。
あらゆる存在は所詮ある意味では消耗品です。徹底的にこき使ってこそ、モノの存在価値は発揮されます。徹底的に機能を追求した商品が交換価値、つまりは価格の観点からだけで持て囃され、しかもそれが経済的バブルがクラッシュした後に発生した点に、バブルを形成したのは日本人の商品に対するメンタリティそのものだったことを如実に示すブームだったと言えます。
ちなみに、私は一度だけGショックを使っていた事があります。某女性雑誌の読者アンケートに当選したかみさんが豪華台湾旅行に招待され、その際に台湾でだけしか売っていなかったGショックをおみやげに買ってきたのでした。勿論、相当の高額で。(^_^;) Gショックもメンテナンスフリーではありません。たかが腕時計に細々と神経を使う積もりのない私のGショックは数年で摩耗して寿命を迎えました。そして、今は、4000円にもならない(でも充分高額で、機能も高い)電波式10m防水デジタル腕時計を愛用しています。
ジュリアナ東京と六本木ヴェルファーレ
ジュリアナ東京は踊りを主体とした享楽の店であるディスコティックの一つ。バブル世相の象徴中の象徴。1991年東京にオープン、1993年に至って大評判を取ります。既に経済的なバブルは崩壊していましたが、享楽的な風潮は暫く続いた訳です。
ジュリアナ東京が評判を呼んだ理由は、”お立ち台”と称する、最も派手な女性客が踊るための高座を設けてここで客同士を競わせた事や、そこで踊る女性客が使った派手な扇(※ジュリ扇(セン)と称した)にありました。お立ち台で最も有名を馳せた女性が”荒木師匠”であり、後年歯科医と結婚しましたが、離婚しました。金持ちとされる歯科医と結婚した点で、荒木師匠は”流石だ”と評価されたものです。なお、ここでの踊りなるものは次第に”パラパラ”と称する、上半身の動きだけは派手で統制の強いものへと変化して行きました。1994年08月31日、閉店。
ジュリアナが閉店しても続く店はあるもので、1994年12月には六本木ヴェルファーレがオープンします。1500名収用の大規模ディスコでした。だが、ディスコで主体となるユーロビート等のダンスミュージックのブームはまさにこの年が最後であり、ヴェルファーレは只管赤字を垂れ流し続け、2006年11月閉店しました。
省エネルック
1979年政府の提唱で登場。要するに半袖の背広。1973年の石油ショックに対し、「冷房による電力消費量を減らそう」と言う事で登場したもの。全然流行りませんでした。
「そもそも都市が熱すぎる」「そもそも建物の断熱性が低すぎる」と言う所に焦点が合っていない訳で、合理性を欠いていると言う点でバブルの原因の一つの現れとも見て取れます。
茶髪(ヒロシマ・ナガサキ59年11月26日初出)
髪の毛を茶色、場合によっては金色に染める事。1990年代半ばごろから若者に流行、2000年代当初に至って、青年女子や男子にも流行、誰もがやる当然のような風俗となる。
本ホーム頁提供者は、分析をすればする程、バブルを生じた心理や社会・経済システムはその当時だけの変化では決してなく、その前後に亘って継続した一連の歪みが齎した物であると結論せざるを得なくなっています。そのため、まず「バブル的生産様式」と言う概念を立て、この一部分として人間心理の変化を織り込むと言う理論構成を取ってきています。よって、バブル後の現象であっても「バブル的生産様式」に合致すると判断される場合には、遠慮なく当該現象をバブル現象の一端として扱うのです。
”茶髪”現象も、同様にバブル期後の現象ではありますが、バブル的生産様式に該当するものと考えます。
第1の理由は”たかが外見を珍妙な形に整える事に驚くべき労力を支払っている”からです。頭皮の外側の見栄えを整える暇があったらば、頭皮の内側の大脳皮質を鍛える事に時間と労力とカネを使ったらば如何なもんだろうかと思うのですが、様々な社会の歪みにより、極めて多くの人々が髪を染めるのに多大な労力を浪費するようになってしまいました。
第2の理由は”茶髪そのものは商品または商品サービスなしには成立しないものであり、社会の過度の商品化現象の一端”だからです。
ところで、かつては散髪した髪は鬘や薬品等に転用されたものですが、茶髪の普及により利用価値がなくなってしまったそうです。鬘にするには痛みすぎているし、ワケワカの薬品が染み込んでいるので髪から有益成分を抽出するにも不向きなんだとか。けだし商品は、必ずゴミを伴うものではあります。
Tバック
臀部の殆どを露出し、陰部のみを隠蔽するファッション。後ろから見ると布地がアルファベットのTの字に見えるのでこう呼ばれた。商品とは”きらきら”と”セックス”なのだ、と痛感させられます。
テニス・ゲレンデスキー
いずれもバブルに限ったスポーツではないのですが、やはりバブルにおいて顕著になったスポーツであると言えます。例えば、バブル期、柔道が盛んになったのかと言うと別段そんな事はないわけで、スポーツにもバブルの匂いが強いものとそうでないものは分けられるのです。
※例えば本ホームページ提供者は、これら3つのスポーツに殆ど経験がありません。その他のスポーツにはそれなりに経験があるし自らやってもいるのですが。ゴルフに至っては、全くやった事すらありません。
これらの内、ゴルフとゲレンデスキーは土建バブルとも密接な関連があった事は強く指摘されるべきでしょう。ゴルフ場とゲレンデスキー場は全国各地に作られまくり、それらは1990年代の終わり頃から次々と破綻し、使えそうなゴルフ場には外資ハゲタカファンドが群がっていきます。
スキーと言えば、東京湾岸に1993年7月にオープンした通年スキー場「ザウス」を指摘しない訳には行きません。ピーク時年間102万人を集めたこの人工スキー場も2001年には70万人に落ち込み、建設設備償却のために年間20億円の赤字を出し、経営企業の三井不動産は2002年9月30日をもって閉鎖し、後日解体されました。バブルのピークに計画・建設された、ある種のモニュメントと申せましょう。
長靴、または私の足はワタシじゃない(ヒロシマ・ナガサキ61年07月01日初出)
長靴は、極めて実用的な代物です。それは足元がドロドロの場合や大水の場合に履くものであり、足を保護するためのものであり、基本的にファッション性はありません。殆どの場合が黒か、女性用ならば単に赤。その代わり、値段も極めて安価なものです。
長靴は、高度経済成長期を通して明らかに使用率が減少したと言えるでしょう。例えば、宮崎駿のアニメ「となりのトトロ」は高度経済成長が始まる直前の時代が描かれていますが、そこにはしっかり長靴が登場します。だが、高度経済成長期からその後にかけて道路事情が改善され、長靴がどうしても必要と言う状況は大分減ったと言えるでしょう。本Web提供者は1970年代の後半、青森市から東京のおしゃれなと言われる某私立大学に入学し、当初は長靴を愛用して登校したのですが、既に周囲では長靴を使用している人は皆無でした。級友たちは軽い哄笑をしていたものです。とは言え、尊敬すべき某教授はこれまた使用されなくなった風呂敷を愛用しており、小生は心ひそかに心強く思っていたものであります。
閑話休題。
だが、だからと言って、長靴の価値がゼロになった訳ではありません。大体、歩道は泥にこそならなくなったものの、水はけ良く綺麗に仕上げられるようになった訳ではありませんで、長靴を使わなくなった人々は雨の日は足をびしゃびしゃに濡らして歩き回っているだけなのであります。このような歩行者への投資の不足はやはりバブル的生産様式と言えるのですが、幾ら歩道が整備されたとしても、やはり長靴がなければ足は濡れてしまいます。別記する「コギャル」や彼女たちの真似をした女子高校生たちの間で1990年代、”ずる長ソックス”が大流行しましたが、これは雨で濡れると非常に悲惨だったと思われます。だが、それにも関わらず彼女たちは豪雨の中、ずる長ソックスで登校していました。
かような足を濡らす事は不愉快でストレスを無意味に上げるだけですし、身体を冷やして風邪を引く事にもなりかねません。ズボン、靴下、ストッキングの処置も大変です。だが、彼ら彼女らは、”いつもの綺麗な靴を履くこと”を何よりも優先させているようにしか見えません、何か至上の権威から命令されてでもいるかのように。それとも人々は自分の足は自分のモノじゃないと思っているのでしょうか?足から来る苦痛のシグナルに鈍感になってしまったのでしょうか?
どうも、高度経済成長期を通過し、その後もずっと、人々は「通念とか暗黙の掟のようなコトバ」に縛られる傾向が強くなり、これが長靴等の衰退として現れているようにも思えるのです。
農協ツァー(ヒロシマ・ナガサキ60年10月26日初出)
農家の人々がツァーを仕立てて海外旅行をした事。農協とは、農業協同組合の事。田舎根性まる剥き出しで海外各地で日本人の評判を落とすような言動が多いと思われていた。やっかみと蔑視を込めた呼称。
農家が都市勤労者に先んじて高価な海外旅行を楽しめたのは、闇米に続く米価格維持政策によるものであるのは間違いありません。これは、政策的な所得の強制配分でした。問題は、これによって行われた農協ツァーがその後の農業の生産性改善に有効だったか、と言う事です。明らかにそうではなかった、と言えるのであり、典型的なバブル現象の一つと言えるでしょう。
メーク
女性のメークで、太い眉、厚い唇を強調し、髪はふんわりロングでサイドを後に流すと言うと言うのは、実にバブルっぽい流行でした。当時の芸能界のアイドル歌手は大体この手のヘアスタイルでした。
具体的な例として、本ホームページ提供者が2003年現在住んでいるマンションはバブル上昇期に建設されたのですが、そのパンフレットの表面に描かれているのが、このファッションでテニスをしている、と言う風景でした。そして、メークをしてテニスと言うのが、そもそもバブルっぽい。また、こちらの「1990年世界自転車選手権」のポスターでも見てください。
遊園地(ヒロシマ・ナガサキ60年06月03日初出)
物語性を持たせると言う趣向で、”テーマパーク”と称するやや捻った遊園地が次々開園したのもバブル期の一大特徴でした。
バブル期のテーマパークの典型が、長崎県佐世保市に開設されたハウステンボスでしょう。1988年に着工、1992年に第1期オープンと、まさにバブルそのものとして誕生しました。分譲住宅も併設され、新しい町を築く事を目標としましたが、2003年あえなくテーマパーク部門は倒産・更生が行われました。
スキー場、ゴルフ場と、バブルの時期には派手な遊び場が次々と開設されました(テニス・ゴルフ・ゲレンデスキー)。マリンスポーツの施設も展開が続きました(わたしをスキーに連れてって)。だが、これらの”遊び場”は、大量の金と時間を消費するものながら、労働者の慰安や疲労回復等にはさっぱり寄与しなかったと言えます(国民の祝日等)。
ロリータ系ファッション(ヒロシマ・ナガサキ60年08月13日初出)
女性向けファッションの一潮流。ロングスカートのワンピースを基調として大量のフリル、造花、レース等で徹底的にフェミニンな雰囲気を演出するもの。絶対王朝末期フランス風ファッションを思い起こせばかなり近いが、女性の肉体を締めつける等の要素は、むしろジーンズファッション等に比べて遙かに少ないと言える。ナチュラルビューティーの系統の色彩が強い。
この系統のファッションの日本における起源は、やはり何と言っても1982年のピンクハウス社の設立に始まると言えるでしょう。”ピンパ”と俗称されたこのファッションはこの時期一瞬だけ日本を席巻し、速やかに日本はバブル期の統制されたワンレン・ボディコン・マーメイド・ブラックルックに雪崩れ込んでいきます。その後、2000年代前半にやや流行が戻した事がありますが、基本的に極めてマイナーな流派であると言えるでしょう。
このファッションは、当然ながら相当の余剰生産に裏打ちされなければ維持する事ができませんから、多分にバブル的なものの臭いがします。だが、ファッションはTPOなのであり、ロリータ系ファッションは決して日常着になる事はなく、なるべくもなく、一貫して晴れ着であったのであり、それもその本人にとって意味のあるハレの場で用いられる、極めて自己主張の強いものであると言えます。それ故、小集団主義に犯されている日本においては相当異端視されてきたとの見解もあります。
なお、ロリータ系ファッションが徹底的に個人的な晴れ着である事と対比すれば、所謂和服は徹底的に日本社会的な晴れ着であると言えます。何しろ非実用さの点からすれば和服はロリータ系ファッションと同様どころかもっと悪い、としか言いようがありません。しかも、ロリータ系ファッションよりも遙かに高価です。
本ホームページ提供者の観点からすれば、ロリータ系ファッションをやっている女性は色々な意味で頭が良くなければならないだろうと思われ、この点において肯定的に評価するべきものと思われます。何しろ、TPOを明瞭にしてぎりぎりの所で着用しなければ他人から非難を浴びますので、社会的知能が高くなければいけません。また、自分の空間の片付けが相当きちんとできて、自分の服はじめ持ち物をきちんと意識し整理できなければかような過剰な装飾を物理的に維持する事は不可能ですが、これは言語的、論理的、空間的能力が高くなければいけません。
以上のような観点からすれば、ロリータ系ファッションはバブルの直接的な産物と考えるべきではないと思われます。むしろ、ロリータ系ファッションと接した様々な人々の行動の中にバブル的なものを浮き彫りにするものであるように思われます。
ワンレン、ボディコン
バブル絶頂期の女性ファッションの代表。ワンレンとは”ワンレングス”の略。長い、軽くパーマをかけた髪を一纏めにして横に垂らす髪型。ボディコンとは”ボディコンシャス”の略。身体にぴっちり張り付くタイトスカートルック。二つ纏めて”マーメイドルック”とも呼ばれました。やっぱり商品とは”セックス”と”きらきら”なのでしょう。
書籍・文化・文芸

これらはイベント的なものが多いので、年代順に並べてみます。
デカンショ節(初出仏暦2551年02月29日)
大学生寮歌として明治時代に広まった歌。1番の「デカンショ〜デカンショで半年過ごす。後の半年寝て暮らす。お〜いお〜いデカンショ」が余りにも有名。
デカンショ節の起源については諸説あり、デカンショが”デカルト、カント、ショーペンハウアー”ではないとの説もあるようです。だが、より重要なのは、デカンショ節においては「哲学なんぞをやっている連中は1年の半分は寝ているだけだ」「哲学なんぞをやっている連中は外国の文物を弄くっているだけだ」と言う牢乎たる観念がここに示されており、歌う人聞く人全てが暗黙にそれらを前提としていたと言う事でしょう。自分たちを含む世界をどう把握するべきかを蔑ろにしたツケは、勿論その後の”日本人の無思考”そのものとなって、あらゆる面で目一杯祟ることとなります。
演歌
江戸時代以降の日本地域の歌舞曲に朝鮮民族の音楽、更には西洋音楽が混入して出来上がった。第二次世界大戦後日本の主流を成した音楽。5音階を基調とするペンタトニックであり、「ファ」「シ」が用いられない。コブシと言われる強調アクセントを用いるのが重要とされる。心理的印象としては、概ね陰鬱に属すると言える。
演歌は、単に流行歌の一音楽形態ではありませんでした。演歌は”日本の心”であるとしばしば言われました。演歌の歌詞、歌われ方等は、忍従と故郷への追慕、生産性の低い(※子供を産み、育てる事のない)恋愛感情等を強調するものでした。これらの点からして、演歌は高度経済成長期以降の低賃金長時間低品質労働の強制と、会社共同体への従順を強調するための道具だった、と言えるでしょう。
当然、このような労働形態の不適切さが認識される時代が到来します。1990年代後半、演歌は急速に衰退し、演歌歌手と言われる芸人がテレビ等に登場する回数は極端に減少しました。そして演歌は、一つの音楽の形を面白がると言う観点で細々と生き残って行くようになりました。
ハッスル(仏暦2550年10月13日初出)
1963年に登場した流行語。頑張りを示す、の意味。下半身の躍動をも暗に示す。
高度経済成長期初期に登場したこの用語、まさに”只管頑張れ”の時代の用語だったと言えます。
巨人の星(ヒロシマ・ナガサキ61年06月23日初出)巨人、長嶋茂雄
少年スポーツ根性マンガの典型とされた作品。プロ野球チーム・東京読売ジャイアンツを追い出された元ピッチャー(星一徹)が息子(星飛雄馬)に夢を託し、過酷な野球訓練を施す。息子は高校野球で活躍、念願の巨人軍に入団するも小柄なのが災いし、野球生命は危機に。そこで、次々と魔球を開発しプロ生活を続けるも、ついに筋肉を壊し、巨人軍を去る…と言うストーリー。1968年03月30日〜1971年09月18日の間は、テレビアニメとしても連続放映された。
高度経済成長真っ最中のこの作品、当然ながら高度経済成長を推進する”不条理な過酷な労働と酷薄な日常”に満ちています。まず、この時代は未だに親は子供の人生に大幅に介入できるとする観念が濃厚でした。飛雄馬の人生は、一徹によって無理やりに箍を填められていきます。また、低賃金労働階級も何年か前よりはマトモな生活が少しづつできるようになった…とされながらも、都市インフラへの投資がまともに行われず、生活状況はさして改善されませんでした。よって、飛雄馬は一徹に猛烈に反発しながらも、只管野球をやって”浮かび上がる”目に期待せざるを得なかったのです。挙げ句、飛雄馬は最後には身体を壊してしまいます。指の腱が切れたようですから、どんなまともな仕事にも就けそうにもありません。更に、家族を持つ事も出来なかったようです。惨憺たる人生としか言いようがありません。このような暗黒の人生を”男の美学”と称して、繰り返しマスコミは子供たちの頭に擦り込み続けたのでした。冗談抜きに、後日の出生率の大幅低下はこの時に準備されたと断言出来ます。人間は、行動を”模倣”するのです。
※実は、私もその影響を多大に受け、少しづつそのマインド・コントロールから脱しつつある所なのです。本Web頁は、マインド・コントロールから脱却するための一つのツールと言う側面もあるのです。
この作品には飛雄馬の野球のライバルとして花形見鶴(※ああっ、また江口なギャグが…)、いやさ、花形満と言う自動車メーカー社長の御曹司が登場します。この御曹司は飛雄馬の姉の晶子と結婚するのですが、何故か飛雄馬にはかかる係累による恩恵と言うものは何も舞い込みません。日本のみならず世界の上流階級と言うのは係累を作ってお互い結託して利権を増殖させ続けているのは良く知られています。だが、下層階級にはかかる恩恵は”禁止”される、と言うメッセージがこの作品から読み取れると言えるでしょう。勿論、単に”のろのろと高いカネをかけて移動する”ためだけに費やす装置の産業の当主が最もリッチなのだ…と言う観念を子供たちに擦り込む役割をも果たしました。
この作品はオカルトと非科学の臭いも濃厚です。それも、後半に行くほどそうです。飛雄馬は巨人軍に入団してから、”球が軽い”ために、ばかすか打ち込まれます。そもそも”球が軽い”とは随分非科学的な表現です。一般的に、球に回転が与えられる程、バッティングは困難になりますが、それは投手の身長とはさして相関がありそうにもありません。カーブもナックルも、球への回転を制御する事によって成立する投球なのです。で、ここから彼は”魔球”を開発し、勝利を握り続けるようになります。類似の野球マンガに比べて本作品に登場する”魔球”はまだしもマトモだったと評する向きもありますが、十分にオカルトなものです。魔球の1号はバッターの動きを予測してバットにボールを当てるもの、第2号は球がホームベースの直前でV字型に運動する事で砂を巻き上げその煙幕の中に消えるもの、第3号は全く球に回転がないためバットを振っても球に当たらないもの、と言う具合でした。最初から科学的に嘘または可能性に過ぎない事を前提として作られた作品ならともかく、リアルな現実に限りなく近そうな顔をして作られた作品が唐突にオカルトに突入していくのは、現代の大人の目で見れば、誠に珍妙どころか薄気味悪いものですらありました。何しろこのマンガ及びアニメには実在の野球選手や監督が次々と登場するのです。
以上のように、この作品は、バブル的生産様式を一身に表象するものだったと言えるでしょう。
決断(ヒロシマ・ナガサキ59年08月25日初出)
連続テレビアニメ。1971年4月3日〜9月25日迄事実上25回放映。第二次世界大戦当時の日本軍指揮官の各場面での決断に至るプロセスを中心的な題材とした番組でした。こちらが目下インターネット上で唯一かつ最も良質な紹介サイトです。本ホームページ提供者は放映を見て、かなり強い印象を受けました。今でも主題歌を歌える程です。
残念ながら2003年現在、このアニメを見直せる可能性は殆どありません。よって、内容の細部を再検討する事は極端に困難です。だが、少なくとも戦争と言う最も過酷な状況でのぎりぎりの判断過程を系統的な分析の俎上に乗せたと言う点で、極めて高く評価できるものと言えます。それは、判断及び判断支援の科学的研究の萌芽であるとも言えるでしょう。判断プロセスの心理学的研究は、ようやっと1970年代後半に萌芽したに過ぎません。だが、このアニメには日本国内外からの”戦争賛美だ”、”日本軍賛美だ”と言うあれられもない非難が浴びせられたようで、本来あった筈の第26話も有耶無耶になってしまったもののようです。このアニメの辿った経緯は、科学性の欠如と言う体質を如実に反映するもののように思えます。
日本列島改造論(ヒロシマ・ナガサキ60年02月02日改定)
田中角栄の著作。1972年出版。1972年7月に田中内閣が成立、田中が唱えた「日本列島改造論」をまとめたもので、過疎と過密を解決するために工業地帯の再配置、25万都市構築、新幹線や高速道路の整備を主張。88万部のベストセラーに。
田中自身は1974年立花隆により越山会を中心とした裏金作りが暴露され、国会で裁断されて首相を辞任します。更に金権腐敗政治の象徴のようなロッキード事件によって1976年7月に逮捕されます。逮捕後も暫くは闇将軍として政界に君臨したものの、1985年2月に手下の竹下登等が創政会を作って事実上派閥を脱退し、政界権力をも失いました。そして、田中角栄が死亡したのは実に1993年12月、バブル崩壊直後だったのは何とも皮肉な暗合であったと言うべきです。
日本列島改造なるものは基本的に、大都市部が生み出した生産の果実を過疎地域に強制的に再分配するものだったと言えます。この過程で、大都市部への再投資は抑制されます。他方、過疎地域は自らが生産方法を開発する事なく安直に補助金に依存するようになり、却って生産性を低下させて行きます。まさに、バブル的生産を政治制度として確立したものであると言えます。
政治的観点に心理的観点を加えれば、この論は高度経済成長前の時期の農村労働力の観念に依存していました。「そこに住んで働いている人の観点からではなく、固有の権利を持つと観念されている各地方、つまりはクニの観点から解消しようとした」と言えます。投資は”地方≡クニ毎”に、もっとはっきり言えば、意図的に歪められた投票権の地域格差に比例して再分配され、決して人毎や、ましてや将来のあるべき姿に応じて行われたのではなかったのです。投票権の地域格差は、それぞれの地域から選出された議員が土建利権等と結託して銭金を得て政治的勢力を増大させる事で、固定されて行きます。我が国の公的投資及びそれに引きずられて民間投資は甚だしい歪みを呈していきます。
だが、この構想や田中的手法そのものは手を替え品を変え、高度経済終了後どころかバブル後も継続し、誰も使わない道路や新幹線、誘致に失敗した工業団地等を次々と生み出して行きました。田中角栄こそは、バブル的生産を作り出した代表的な人物だったと言えるでしょう。実際、田中角栄が権力を失ったのは実に1985年2月と言うバブル発生時だった事に注目する必要があります。制度が出来上がってしまえば、それを作った人間はもういらなくなる、と言う事です。
なお、田中角栄については2003年現在においても「独自の外交を展開しようとしたがアメリカに潰された悲劇の政治家」だとする主張が見られますが、外交面で田中がやろうとした事が仮にその通りだったとしても、所詮国内の生産においてかかる大きな間違いを侵している以上、その外交なるものを継続する事は不可能であったでしょう。
長嶋茂雄 巨人、巨人の星
プロ野球選手。1958年東京読売ジャイアンツに入団、1974年10月現役引退。ミスタージャイアンツ、ミスタープロ野球と称され、絶対的な人気を集めました。
まさに高度経済成長期に現役選手としてほぼ同じ時期を過ごした王選手と共に人気を欲しいままにした、象徴的存在と言うべきでしょう。同時に、ジャイアンツ球団も連戦連勝、東京に労働者として集まってきた人々のシンボルのような存在になりました。まさに高度経済成長が終わった筈の1974年の引退と言うのも、余りにも象徴的すぎます。そして、泥沼不況が本格化した2001年に至ってようやっと長嶋茂雄は巨人軍の監督からも引退し、他方「東京読売ジャイアンツ」は”東京”の頭文字を外して企業の属物である事を強調するようになりました。これまた、余りにも象徴的過ぎます。かてて加えて、2004年夏のアテネオリンピックでは日本の野球チームの総監督を勤める予定だったものが、3月に脳卒中で倒れてしまいました。同時に、日本は最後の経済的余力を使いきってしまっていました。そして、期待されていた日本チームは銅メダルに留まりました。これまた、余りにも余りにも象徴的過ぎます。
この間、野球と言う楽しみを巡る人々のメンタリティは基本的に変化しなかったのです。長嶋人気や巨人軍人気と言うのは、本人の実力や魅力はさて置いて、実に「高度経済成長的生産→そのままずるずる・バブル的生産」そのものと密接に関連しているとしか言いようがありません。
中島みゆき
現代日本を代表する歌手の一人。1975年「あざみ嬢のララバイ」でデビュー、以降継続して音楽活動を続ける。曲調は沈んだものが多い。
所謂”暗い歌”は世界のどこにでもあるものです。暗い曲調を使って沈んだ気持ちを少しづつ支えていくようなタイプの歌です。だが、このような曲が、それも一人の歌手に託されて連綿と高度経済成長後に支持されてきた点に、ある種のメンタリティの流れを見る事ができるでしょう。達成した筈の高度経済成長、だが、それによっても汲み上げられなかった、いや寧ろ増大した”暗い世界”。そして、2000年に入ってからNHKで「プロジェクトX」、別名”昔は良かった”の放映が開始され、そのテーマ曲に彼女の歌が採用されます。何とも象徴的な事です。
ところで、この「プロジェクトX」の主題歌は「地上の星座」と言うタイトルでしたが、中高年男性に支えられてヒットチャートをじりじり登って行きました。テレビインタビュー等によれば、どうやら裕福でない中高年男性たちは”自分たちこそが地上の星座”だったのだ、と感じていたようです。だが、どうして彼らは自分たちを”脚光を浴びることのない地上の星座”だと殊更に感じたのでしょうか?それは、彼らが投下した労働は殆ど(!)が無駄に終わったからです。膨大な不良債権とその源である不動産たち、徹底的に労働させられて空虚になった自分たちの人生等などを思えば、”自分で自分にご褒美”を上げなければ、人生の帳尻が合わないのは当然であります。
空白の一日(仏暦2550年02月27日初出)
1978年11月21日のこと。プロ野球選手・江川卓がプロ野球の選手契約関連諸規則の狭間を突いて、この日にドラフト会議によらず東京読売ジャイアンツと選手契約を結び、それが適法であると主張した事件。
この事件の細部についてはあちこちに詳しい解説があるのでここで解説することは避けますが、この事件が人々の考えや気持ちに与えた影響として、「順法精神やモラールと言ったものを壊す働きをした」ことは想像に難くありません。ドラフト会議の精神は基本的に、ある球団が強くなり過ぎてプロ野球が面白くなくなることを防ぐ、と言うものです。この方向性は、不合理なものではありません。事細かな規則の不備をあげつらってこのような基本的な方向性に全く反する行為をするのは、根本的な”裏切り”と言うものです。それを最強の球団である読売ジャイアンツが行い、これまた最強の選手である江川卓が行い、それが結局はそのまま通ってしまったことで、人々は「果てしなく貪欲であり、そのためには”些末な”決まり事なぞ守らないのは良いことなのだ」と言う”規範”を擦り込まれた訳です。この規範は、バブル崩壊後に日本社会の崩壊を更に決定的にした新保守主義の主張と根本的に全く同一です。江川は、後日のホリエモンと全く同じ役割を果たしたと言えるでしょう。
合理的な合意や規則を守らない社会は、当然に生産性を低下させ、散り散りばらばらになる他はありません。ある意味、見えにくい経路ではありますが、この事件とそれを結果として容認した社会全体の風潮は、非合理な生産システムとしてのバブル的生産の一端である、と思えるのです。
なんとなく、クリスタル
田中康夫の小説。1981年出版。何とはなしに優雅で所在のない都市生活をするある女子大学生を描く。そこに登場するお値段の張るモノたちに事細かに解説がついていて本文よりも脚注解説の方が多いんじゃないかと言われたものです。
実は本ホーム頁提供者は田中氏と同世代なんでありまして、既にしてマルビ(※↓「金魂巻」における貧乏人の略称)の道を劇走していた当時、氏が平然とこのような世界を描くのを全く別の、羨望すべきかも知れない事、と思って見ていたものです。当時の本ホームページ提供者の目からすれば、田中氏はバブル的繁栄の享楽者・具現者でありました。
だが、その後氏は様々な社会活動や執筆活動を経て長野県知事になり、無駄ダム建設を止めにかかり、長野県の財政を単年度黒字に転換させました(※残念な事に、これまた膨大な赤字を生んだ長野オリンピックの後でしたが。)。「豊かで文化的な生活をするためには、これまでとは違った事をやらなければならないし、これまでやってきた事でダメな事は止めなければならない」と知ったのかも知れません。ついでに言えば、所在なげに浪費を繰り返すばかりの女の子なんて、どんな意味でも生産性がなかったのだ、と自著を総括すればもっと宜しいかと思うのです。
金曜日の妻たちへ(ヒロシマ・ナガサキ59年05月19日初出)
TBS連続ドラマ。1983年2月11日〜5月13日放映。不倫の代名詞ともなった非常に人気を博したドラマでした。
既に高度経済成長が終わって遙か、だが人々は未だに次に何をやったら良いのか全く分かっていなかったのでしょう。そのエネルギーの捌け口がこのような所に現れたと言う訳です。エネルギーは股間ではなく、大脳皮質前頭葉に回るべきものでした。
ところで、2003年初夏、ゴマだれソースのコマーシャルにこのドラマがもじりで登場(※それを見たので思い出してここに登場して貰ったんですが (^_^;))しました。何でもかんでも20年前に逆戻りのこの時代の空気を反映しています。はたまた、股間に回っていたエネルギーが枯渇したので、ゴマだれソースで補給する必要が出てきたのかも知れません。
おしん
1983年4月、NHKの朝の連続テレビ小説。明治時代後半の貧しい娘「おしん」の健気な一生を描いた作品。
既に高度経済成長はとうの昔に終わり、次の生産様式を模索しなければならない時期に、少なからぬ人は高度経済成長を達成した余韻に浸りまくっていた…と考えるべきなのでしょう。ちなみに小生は「びんぼ臭くていやな番組」と思っていました。勿論マトモに見たこともありません。もっと明朗な社会を作るべきであり、わざわざ浸るようなものではないと思っていました。
さて、2003年3月、東京証券取引所の平均株価が20年前の水準に戻った正にその時、NHKはこの番組を再放送してくれました。あまりにも素晴らしすぎる暗合と言うものです。
金魂巻(きんこんかん)
渡辺和博他によるノンフィクション。1984年出版。凡ゆる職業における”金持ち”と”貧乏人”に取材して、その対比を事細かに漫画的に記したもの。
”カネがカネを生むのだ”と宣言し、国民皆の商品的生活が均一に向上すると信じられていた高度経済成長が完全に終了した事を宣言したような書籍でした。
科学万博
1985年4月つくばにて開催。正式名称「国際科学技術博覧会」。
万博があって、どうしてこれをまたやるの?と言う感じでした。科学万博の展示品のお下がりがその後1987年に「未来の東北博覧会」「青函博覧会」へと流れてきたのは、知る人ぞ知る事でありました。ちなみに、小生は科学万博は行っていませんが、1987年8月に東北博覧会はしっかり見ました(自爆)。東北博覧会の内容は、まるで未来でも科学でもなかったと記憶しています。何しろ当時のパソコンの独占者PC-9801でマルチメディア臭い事をやってみせるものばっかりでしたからね〜。
別に科学的でも知的でも技術的でさえないイベントであり、次の生産に繋がっていっていません。そこに多額のカネと多くのヒトが動いたと言う点で、バブル的生産の一つの典型と言うべきです。
岡田有希子
アイドル歌手。1967年生まれ。1984年歌手デビュー。アイドルとしての理想像を全て具現し絶大な人気を得るも、1986年4月8日、高校卒業を期に始めた一人暮らしのマンションでガス自殺、一時事務所に救出されるも、同日昼過ぎ飛び降り自殺。
バブルをぐんぐん昇っていくこの時代、昇っていったアイドルの突然の自殺であり、何とも暗示的でした。当時も跡追い自殺で自殺率が上昇しました(※統計的に有意)し、そもそも1980年代中頃は一時的に自殺率が高い時期でした。やがてバブルに至って自殺率は一時低下しますが、1990年代後半から歴史的な高さで推移します。岡田有希子ファンで、1990年代後半以降自殺した方もおられたでしょう。その瞬間、彼が夢見たのは、岡田有希子の姿だったのでしょうか?
吾妻ひでお(仏暦2552年10月22日初出)
SF不条理ギャグマンガ及びロリコンマンガの開拓者。1980年代後半に活力を失って行き詰まり、1989年11月〜1990年02月及び1992年04月〜1993年03月の2度に亘り失踪、浮浪者乃至は浮浪者に近い生活を送る。爾後更にアルコール中毒になり強制入院。2005年、これらの体験をギャグ風味に綴った「失踪日記」によりまたしても新しいマンガの領域を拓く。
ここで興味深いのは、吾妻ひでおが浮浪者生活を送った時期は、正にバブルの時代だったと言う事です。「失踪日記」を一読してみれば明らかなのですが、2009年の時点からは信じられないほど、浮浪者・吾妻は食料にもお金にも恵まれていたとしか言いようがありません。い○げや、料亭、住宅等からは、残飯や賞味期限切れ食品どころか新品の箱づめお菓子までもがゴミとして豊富に放出され、浮浪者・吾妻はそれらを漁って、逆に太って帰宅したりします。勿論、決してそれは安楽な暮らしだった訳ではない筈ですが、それでもセブン−イレブンの店主たちが賞味期限切れ寸前の弁当を安く販売させろと戦いを起こした時代とは隔絶しています。お金も結構あちこちに落ちているし、シケモクは結構長いのがあちこちの吸い殻入れに転がっている、と言う具合です。
もし彼がバブル後の悲惨な経済状況で浮浪者になっていたならば、傑作「失踪日記」はなかったでしょう。
尾崎豊(仏暦2550年06月02日初出)
シンガーソングライター。1983年デビュー、1985年アルバム「卒業」が大ヒット、以降次々大ヒットを放ち、若年者のカリスマ的存在となる。1992年26才で急性覚醒剤中毒で死亡。
年代的に見て、尾崎がバブル期に大きな人気を得た存在であるのは明らかです。この意味で、尾崎はバブルの産物とも言えそうですが、尾崎はバブルの産物とは通常見做されていません。それも当然で、彼の歌はかなり象徴的な形でそしてかなり破滅的な様相で若者の”苦悩”を唄ったものであり、華やかなところが何もないからです。
だが、私は彼の歌や彼に”共感”したり”反発”した人々がやはりバブルを生み出したバブル的生産様式に合致するものと判断します。と言うのは、”苦悩”にしろ”共感”にしろ”反発”にしろ、一体何がどう彼なり彼に共感した若者において作用しているのか、誰も明瞭に言語化出来ていないからです。
これは誠に杜撰なことです。曖昧な存在を言語化し、意識化することこそが社会的存在である人間の前進であったり、科学的であったり、論理的であったりすることだからです。尾崎に共感した人々はバブルの輝きが増せば増すほど、自らの内に沸き上がる疑問や不条理の連続を言語化できなかった。世の中が光に満ちていると言うことになってしまったため、自らの内を表現する言語が尾崎の他になくなってしまったのです。ですから、もしバブルがああも光を増さなければ、尾崎はかくも大きなシンボルとはならなかったでしょう。しかも、少なからざるファンは10年以上を経過して未だに”若さ故のわだかまり”を解消出来ていないように見えます。
逆に、尾崎を単に暴力的なメッセージであるとして批判する側も、一体尾崎に共感した若者たちが何に苦しんでいたのか、全く言語化出来ていません。バブル期以降の心理学ブームの存在にも関わらずのこの状態は、非常に驚くべきことだと思えます。
そして、2000年代に入ると、単に一時期大きな人気があったと言うだけで、尾崎は中学校や高等中学校の教科書にも登場するようになりました。”それは何だったのか?”が徹底的に反省されていない点において、第二次世界大戦に対する曖昧で硬直した議論と、尾崎に対する共感と反発の継続は、同一の構造だったと思えます。
プリンセス・プリンセス(ヒロシマ・ナガサキ59年07月07日記載)
若年女性5人組のバンド。1987年から1996年の間、同性から広く支持を集め、多くのファンを獲得。ファーストアルバム「恋はバランス」。
彼女たちの音楽に特に強いバブル性があるかと言えば、何とも言い難いものがあります。この時代における音楽は常に華やかな余剰の香りをまき散らして売り込まれ、聞かれたものだからです。だが、登場から引退迄の期間がこうまでバブルの上昇からその余韻の完全消滅の時期に一致するミュージシャンもそうはいないのです。彼女たちが引退した翌年、山一證券、長銀等が破産し、日本の破滅は誰の目にもはっきりしたものに成っていきます。
わたしをスキーに連れてって
1987年公開の邦画。監督:馬場康夫、 俳優:原田知世/三上博史/田中邦衛/高橋ひとみ等。ゲレンデスキーは、テニス、ゴルフと並んで、高度成長経済→バブル社会でもっとも流行ったスポーツであり、その象徴のような映画、時期もまさにバブルをぐんぐん登っていった頃でした。製作プロダクション名も「ほいちょいクラブ」と言う、如何にも世の中カネがあってお気楽に生きられますと言う雰囲気を醸し出しているものでした。
この映画に登場する様々なアイテムは、まさにバブル当時に流行したものが多く見られますし、バブル的生産の根っことなった現象も多く見られます。バブル現象とバブル的生産の見本のような映画と言えます。
まず、ファッションは、ある意味では地味であり、一種の戦闘制服のような印象です。SALLOTと言う架空のスキーファッションのブランドが登場しますが、色合いは地味です。男女の服も、奇抜だったりだらけた感じはしません。今から思えば、随分狭いスパンの些末な差異をもってカッコいい・悪いと言っていたものであり、美的な独創性はさしてありません。
アマチュア無線が連絡用として登場しますが、本来科学技術の振興のために行われていた筈のアマチュア無線が単なる連絡用に堕落した究極の姿がここにありました。これがバブル的生産の一環であるのは言うまでもありません。
タバコが重要なアイテムとして頻りに登場しますが、タバコをがんがん吸って過酷な仕事をばりばりやったり、徹夜で遊ぶ事が若々しくカッコイイと言う事になっていた訳です。既に日本は、矢鱈に過重な労働や危険を闇雲に犯す事で利益を得ようとする事はできない時代に突入していました。にも関わらず、これらの行動がカッコイイとされていた訳であり、現実と観念の解離は極めて甚だしいものがありました。
登場する男性は当然映画ですから、当時の基準からしてカッコいい訳なのですが、やせこけて筋骨質であり、如何にも力仕事や危険を顧みずに仕事をやってのけそうな印象をあたえています。クルマでの雪道高速走行やら薄暮・暗やみでの山岳スキー走破等、呆れ返る程の危険行為が素晴らしいこととして登場します。これは、スキー用品ブランドのSALLOTのプレス発表の現場にサンプル商品が届いていなかった事から、プレス会場に商品を届けるためにあえて行われたものでした。即ちこれらの”冒険”はそもそもSALLOTプロジェクト用の販促商品の管理が甘かった事からやらざるを得なかったものであり、マネジメントが根本的に欠如していたと言えます。
バブルの風潮のサンプルのようなこの映画について記載すれば切りがないのですが、コートが頻繁に登場している点については言及する必要があるでしょう。爾後、東京においては真冬でもコートは次第に流行らなくなっていくのですが、地球温暖化とヒートアイランド現象の深刻化により、そもそも真冬でも立派なコートが必要なくなったと言う事と、経済的な苦境によりロングコートよりもジャンパーに毛の生えたようなものをスーツの上に羽織るのが普通になったと言う事情があります。ヒートアイランド現象は、バブルを生んだ要因と密接な関係のある、都市計画の欠落と表裏一体の現象でした。
ちなみに、本ホームページ提供者は、この映画のコマーシャルを見て、世人を強烈に羨ましく感じていたものであり、そのクセ当時はお金がないのと気恥ずかしさでついに見に行くことがなかったと言う、逆の意味で思い出深い映画です(自爆)。
馬場監督はこの後、1989年にこれまたバブルの華やかな匂いのする「彼女が水着に着がえたら」を作ります。この映画は、これまた泡沫のように栄えて消えていったマリンスポーツがふんだんに登場し、登場人物が勤労している所がまるで描かれていないと言う点で、もっとバブリーな雰囲気を上手く表現している映画でした。
もしバブルがもっと続いていたらば、テニス・スキー・ゴルフに続いて、マリンスポーツがバブルなスポーツとしてより顕著な存在になっていったのでしょう。だが、マリンスポーツは、概ね萌芽でついえ去りました。
中尊寺ゆっこ(西暦2005年02月03日初出)
女性漫画家。1987年デビュー。1989年「お嬢だん」がヒット。バブルの風潮を赤裸々に描き続け、下品で享楽的な中年男と同じことをしてみせる「おやじギャル」なるキャラクター群で人気を博する。経済的バブル破裂直後の1993年渡米、1998年帰国後結婚し2女を設ける。2005年1月、S字結腸ガンで死去。
彼女はまさに、バブルの風潮を表現するためだけに生きて死んだ人だったと言えます。結腸ガンは脂肪分の多い贅沢な食事によって罹患率が上がりますから、バブル的生活によって死んだと言って差し支えないでしょう。子供を二人もうけましたが、小学校にも上がらない内に母親である自分は死亡してしまいました。子供たちは一体これからどうなると言うのやら、無責任とさえ言えます。彼女は十分人生を楽しんで、さっさと世を去りました。
本ホームページ提供者は、バブルを作り享楽した人々に激しい公憤を感じます。バブルを楽しんだ人々に怒りに満ちた嫉妬を感じます。だが、バブルに生き、バブルを表現し、バブルが跡形もなく消えた瞬間に自らも消えた彼女には、”天晴れ!”と言わざるを得ないのであります。
ところで、「おやじギャル」が模倣した”オヤジたちの世代”と言うのは、またしても団塊の世代(団塊の世代)あたりなのでした。まさにバブルの時に彼らは40才代でした。既に日本はそれなりの生活水準にあったのですから、もう一寸は文化的なスタイルを取れなかったものなのでしょうか? いやはや
くう ねる あそぶ(仏暦2552年07月07日所出)
日産のスポーティーカー・セフィーロのコマーシャルの一環として糸井重里が発案した用語。一種の流行語となる。
人間、食べて・休息し、そして働かなければ生きていけません…のに、”働く”が”遊ぶ”になっている!誠にバブルの時代を良く表現したキャッチコピーだと申せましょう。
斉藤了英
大昭和製紙株式会社会長。1991年長者番付第1位。1990年、何れも人類の遺産と言うべき、ファン・フォッホ作絵画「医者ガシェの肖像」を124億円(史上最高価格)、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ガレット」を119億円、ファン・ホッホの「アイリス」を83億円と相次いで落札。何れの作品も倉庫に入れっぱなしにしたまま、「自分が死んだらばこれらの名画を一緒に棺桶に入れて焼いてくれ」と発言し、欧州諸国から大顰蹙を買い、日本人の名誉に大きな傷を付けました。本間俊太郎・宮城県知事への一億円ヤミ献金疑惑で1993年逮捕、有罪判決。1996年、79歳にて死去。死の際には、これらの絵画は幸いな事に銀行に差し押さえられていました。
斉藤氏なる人物は、創業者社長の息子にして1961年から社長、1982年からは会長。1988年には息子を社長に据え、次男は代議士、三男は中曾根元首相の姪と結婚、弟は代議士から静岡県知事と、実に華麗な人脈の中心にいました。そのような人々が本当の所何を考えているのかを、このバブル真っ最中に起きた事件は如実に示すものでした。かような人物によって支配され形成された国家がどのような代物になるかも、土台見えていたと言うものでしょう。
美少女戦士セーラームーン
少女漫画。1991年12月「なかよし」に連載開始。1992年3月(※多分3月28日土曜日)からはテレビアニメ放映開始し、”男子”青年層にも爆発的にヒット。1997年2月にようやっと連載及び放映終了の大ヒットとなる。その後も演劇の連続公演、キャラクター商品の発売に加え、実写版が2003年にテレビ放映される等、人気は長く続きました。戦闘服とは思えないきらびやかなコスチュームにずらりと並ぶ美少女戦士、これまたずらりと登場する美形の敵役、如何にも古典的少女漫画らしい丁寧で華やかな作りの絵で、バブル最後の栄光と言う雰囲気が濃厚でした。
ちなみに本ホームページ提供者は、全くの偶然で最初の回のアニメ放映を直に見、しかもビデオにまで収録しており、暫くは仲間内で威張っておりました(笑)。
※とは言え、この作品、バブルの絶頂期から崩壊期に人気を博し、最終巻のコミックが1994年に出版された少女漫画「日渡早紀:ぼくの地球を守って」の「月から地球を見守る異星人たち、その異星人たちが地球に転生して物語を綴る。」と言うあたりがどうも似ています(^_^;)。まぁ、このあたりのオカルトとか前世ブームについては、別項を参照して下さい。
サンタフェ(仏暦2550年04月30日初出)
各地に同一の地名が存在したり軍艦の名前にもなっているが、特にアメリカ合衆国西部・ニューメキシコ州の州都が風光明媚で有名。ここは複雑性の数学を扱うサンタフェ研究所がある事でも知られている。勿論、これらはバブルとは全然関係がないわけで、日本バブル現象においては1991年に出版された女優宮澤りえのヘアヌード写真集のタイトルとして著名である。実に150万部を売り上げる。
この写真集が出版された時、宮澤りえは18歳でした。日本の法律においては、様々な点から保護されるべき存在である未成年です。未成年の全裸を見て欲情することは”ロリコン”として従来唾棄されるべき趣味でありました。それが天下公然行われたのですから、日本人の品性の地に落ちるや、窮まれり。より重大な問題は、当時かような事を指摘する人が誰もいなかった事なのでした。品性下劣な人間が良き社会を作れるハズもなく、このヌード写真集が持て囃されたことはバブル現象と非常に深い所で繋がっているとしか思えないのです。
家なき子(ヒロシマ・ナガサキ61年03月24日初出)
日本テレビが1994〜1995年に放映したドラマ。不遇な若い娘の日々を描いた作品。主人公役安達祐実。ヒロインが叫ぶ台詞「同情するならカネをくれ!」が大流行りした。
バブル的生産の基礎は、凡ゆる事物が商品化される事です。究極的商品は言うまでもなく金銭であり、それは権力そのものです。同情なんていらない、カネをよこせ、と言う叫びは正に社会全体が商品化して身動きが取れなくなっている状態を如実に示すものだったと言えます。
ヨコハマ買い出し紀行(仏暦2550年08月31日初出、仏暦2551年07月04日10月30日追記、仏暦2552年03月02日追記)
芦奈野ひとし作の連載漫画。1994年04月〜2006年04月に月刊アフタヌーン誌に連載。人類文明が地球温暖化その他の要因により滅亡しつつある時代の三浦半島において、人間そっくりのロボットであるアルファさんその他の穏やかで伸びやかな日常生活を淡々と描き、その風景描写により根強い人気を博した。
バブル直後に連載が開始されたこの漫画、その長閑な風景や登場人物の言動が、騒がしかったバブル時代に嫌気を感じていた人々の共感を得たのは間違いありません。だが、本作品とバブル的生産の関係はそれだけではありません。この作品に登場する人々の言動は生産様式の観点からすると極めて硬直しており、結局はバブル的生産様式から脱却出来ていないと見えるのです。
この作品に登場する人々は全て、文明が崩壊しつつあり要すればこれまでの工業生産様式が妥当しなくなっているにも関わらず、相変わらず都市文化生活を頑なに繰り返しています。貿易が崩壊しているであろうにも関わらず、輸入品であるコーヒーと石油がしつこく描き続けられている様は薄気味悪ささえ感じさせます。彼らは広大な土地が周辺に広がっていて決してそこは不毛ではないにも関わらず、農耕や林業を殆どしようとしません。漁業も同様です。彼らは、化石燃料なしで動く有力運搬手段である自転車やリヤカーを決して使いません。子供たちがどんどん少なくなっているのに、子供を生める人たちを保護し、出産を支援し奨励しようと言う方策を何も取りません。登場する唯一の少年であるタカヒロ君はあろうことか僅かに存在する若い人間の女性には目もくれず、ロボットであるアルファさんに欲情を抱く始末。彼らは、一見お互いを認め合って穏やかににこやかに過ごしているように見えて、お互いに孤立してばらばらなのです。その中で、アルファさんたちロボットは、日本が作り出した機械化都市文明の姿を忠実に模写し伝承し続ける存在として設定されています。
バブルに突入する前から、日本が社会や心理にまで踏み込んだ高度技術社会に移行しなければならないのは間違いありませんでしたが、この点でもこの作品の中の人々は概ね落第です。彼らは、新しく登場した存在、例えば街灯の木や、ビルやら人間にそっくりの外見をしたキノコに興味を示さず、ましてやきちんとした探求行動を示しません。人口がどうしてどんどん減っているのか、の生理学的、社会心理的、経済的な分析も行われていないようです。これら、好奇心やら探索こそが技術や科学の常に変わらぬ根幹なのですが、彼らはそれらの探求が欠けているのです。ロボットである自分たちの存在の根源に対してさえ、主人公のアルファさんは興味も関心も示しません。アヤセ氏や、アルファさんの保護者である初瀬野氏は放浪している人々です。一時期はアルファさん自身も、三浦半島の近傍を放浪します。だが、それはあくまで”あちこちを見て、記憶に刻みつける”だけであり、神秘や原因や問題の探索行動では決してないのです。視線はどこまでも平行に移動するだけで、深まりません。アルファさんに至っては、1年間放浪して出稼ぎの旅をして、西は大月あたり、北は日野あたりにしか到達していません。
技術に対する観念の硬直性、そして逆に高度科学技術への親和性のなさは、機械への過剰な信頼感に逆に見られます。地上に決して降りてくる事がない飛行機であるターポンなるものが登場しますし、主人公のアルファさん始め、ココネ、マルコ、ナイと言った人間型ロボットは驚くほど堅牢で、決して故障しませんし、部品の交換等もありません。それは、アルファさんが使っているスクーターも同様なのです。どう見ても、それは20年程度、部品を交換せずに走り続けています。
勿論、自然に対する目の欠如は、街灯の木や巨大キノコを無視するだけではありません。このマンガには驚くべきことに、満天の星が描かれていません。文明が滅んでいき、随分空気は澄んでいるでしょうに、そもそも自分たちの世界のもっと向こうにある世界に対して何の関心もないので、星が出てこないのです。
本作品に登場する人物の非合理性・非現実性とだらしなさは、道路に対する観念においても同様です。アルファさんたちの世界では道路も少しづつ荒廃してはいるのですが、そのテンポは明らかに遅く、荒廃の経緯は穏やかであり、非現実的などと言うものではありません。例えば、私が通勤しているある田舎町では歩道があちこち波打っており、夜なぞはうっかりすると蹴躓いて転倒しそうなのですが、それは歩道の下に街路樹が根を伸ばしているためです。また、道路は土砂崩れや大水によって案外簡単に破壊されます。常にメンテナンスが必要なものでもあります。そのような風景はこのマンガでは全く描かれておらず、アルファさんやココネさんは粗略なスクーターであちこちをブイブイ走り回っています。機械や人工物に対する過剰な信頼感がまたしても見られます。また、石油の輸入が滞っているであろうにも関わらず、自転車やリヤカーや牛馬が全く描かれていませんが、そのような方法が日本人の頭の中から殆ど消滅しているから、本マンガに浸っている限り左程不自然に思えないのです。今、日本は田舎にさんざん作った滅多に使わない道路を維持できなくなりつつあります。非常に過酷な経緯を辿る廃道化は間違いなくこれからの日本の風景の大きなテーマとなります。それが事実上描かれておらず、さりとてクルマの代替手段すら描かれていない本マンガは、今現在の日本人の非現実的なメンタリティを映し出して余りあると申せましょう。
この世界の中で、アルファさんたちはよって”特権階級”として君臨しています。君臨する対象は、”過去に営々と人類文明を築き続けてきた先祖たち”であり、”生まれることなく終わった未来の子供たち”です。アルファさんたちは”働かない人々”です。文明を継承すると言う事もなければ、新しい文明を生み出す事もありません。
アルファさんが”経営”している喫茶店にロクにお客が入っておらずコーヒーが切れてしまっている事に対して、同じくロボットのマルコさんは「あんたは仕事と言う事をちゃんと考えているのか!」と一喝します。だが、その怒りは長くは続かず、アルファさんによって何やらごまかされてしまいます。まぁ実際の所、必要なのはまず人口を維持すること、人口を維持するのに必要な食料や被服や住居を確保する事であり、マルコさんがやりたがっていた”絵を描く事で身を立てる”と言うのはそれらが満たされた後にようやっと成立するものです。マルコさんはその願望が満たされないとなると、アルファさんと同じ水準に、つまりその日暮らし程度のアルバイト的仕事にくら替えしてしまい、同じく働かない人々に目出度く仲間入りしてしまいます。
当然ながら、この世界は急速に確実に滅亡に向かって行きます。それに対して、「こんなの嫌だ〜!」と言う叫びが、どこにも出てこないどころか、暗に歓迎するような言辞がちりばめられます。そして、この漫画の最後は恐ろしい言葉で締めくくられます。
「人の夜がやすらかな時代でありますように」
つまり、機械化都市文明どころか人間としての知的認識さえ失われる程に文明が低下したとしても、そこにはやすらかな日々があるのだ、と言う訳です。それを見守り続けるのは長生きなロボットであるアルファさんたちと言う訳です。読者は、アルファさんたちの平穏な姿や愛らしさに慰撫されて、ゆっくりと死(その前に、失業等の社会的な死)を迎える、と言う訳です。2000年代に至っても、日本においては”癒し系”が人気を博し続けました。読者は、アルファさんたちに”癒され”、”元気を貰う”だけであり、新しい視点や新しい生活様式を貰う訳ではさらさらないのです。勿論、癒しと視線の身代わりの主であるアルファさんたちも最後には壊れてしまうのは必定なのですが。
現代の用語で言えば、この漫画の登場人物は”spiritualityを完全に欠いている”と評価できます。知的生命体である人間が生きようとすれば、嫌でもおうでもスピリチュアリティが問題となります。それを欠いていると言うのは、結局のところ倫理や様々な価値を没却して単に金銭的な量の増大を求めたバブル的生産とさして異なるものではありません。興奮と銭もうけを安穏に摩り替えただけです。その意味でこの漫画は、この時代の人々の思考・行動様式を実に忠実に表現して見せた点で、ある種の傑作であると言えるでしょう。
長野冬季オリンピック
1998年1月、長野県内各地で実施。スピードスケート、ショートトラック、ジャンプ及び女子モーグルの活躍で、バブル後の激しい不況に突入していた日本人はウサを晴らしました。
オリンピックは長期間に亘って準備が行われるものです。このオリンピックも誘致活動が始まったのは1988年、開催決定は1991年。バブル真っ盛りの時代です。誘致と開催地の決定に当たって西武グループが関与して莫大な利益を上げ、膨大な借金を長野県及び県下市町村に残した等、土建バブルの色彩が濃厚としか言いようがありませんでした。事実、2007年に至って、ラージヒルとノーマルヒルの二つのジャンプ台は修理維持費が維持できなくなり、公認競技場の地位から転落の危機を迎えています。
2002年サッカーワールドカップ
2002年6月、日本と韓国が共催で、各地で開催。日本チームはまぁまぁの成績を残し、いよいよドツボの不況の中の日本人のウサを晴らしました。
この開催がFIFAにて正式決定となったのは1996年5月の事でしたが、日本側が招致を開始したのは1987年の日本サッカー協会での決議であり、FIFAに正式表明したのは1989年と、正にバブルの真っ盛りでした。そして、日本各地でその後利用のメドが乏しい施設が次々作られ、各自治体に膨大な借金が残された点でも、土建バブルの色彩が濃厚としか言いようがありませんでした。
お笑いブーム(仏暦2550年04月13日初出)
笑いは人間性の本質であり、それがしばしばブームを呼ぶのは驚くべき事ではありません。だが、2000年代に入ってのお笑いブームと、その直前1990年代後半のお笑いブームは、幾つかの点でバブル的生産を体現する所が多いものと思われます。
まず、お笑い芸人の数が非常に増加しました。所謂芸能人の中に占める比率が極端に増大したと言えます。俳優とか歌手と言うジャンルは消滅し、芸能人、それもお笑い芸人と言うジャンルだけが残ったかの如き有り様。美貌で知られるモデルや女性アナウンサーを次々と妻として射止めたのが全てお笑い芸人と言う状況が出現しました。お笑い芸人が笑いを取る訳ではないテレビ番組に次々と登場しました。
次に、笑いの質が非常に単純化し、即興的になった事です。この時期のお笑い芸人と言うのはそれ以前の範疇からすれば漫才であり、それだけでした。劇の中で笑いを演じたり、テレビにて番組構成を凝った形で作り、その中で笑いを取るようなことがなくなりました。しかも、従来の区分からすれば所謂”どつき漫才”と言うべき、突っ込み役が呆け役を実際に殴り、また笑いと言うよりも暴言を吐くような演芸が増えました。また、笑いのタネも、元々そうではあったのですが、社会的批判・風刺を込めたものが全く消滅しました。
これらの観点からすれば、この時期のお笑いブームと言うのは、極めて短時間で手に入るストレスコーピングであったと考えるべきでしょう。一瞬だけ攻撃的なカタルシスを伴って笑う、それだけで、後には何も残しませんでした。本来のストレスコーピングは次に、ストレスに対処した人をエンパワーメントする、つまり生産的な過程へと向かわせるべきものなのですが、それは全くなかったのです。エンパワーメントの過程において、特に社会的風刺や批判は重要ですが、これが全くなかった点に顕著にバブル的生産様式を見て取るべきだったのが、この時期のお笑いブームだったと言えます。
韓流ブーム(ヒロシマ・ナガサキ61年02月04日初出)
2004年以降、韓国の男優が日本の中年女性に持て囃されるようになった事。最初に人気を集めたのはペ・ヨンジュンであり、それに続いて極めて広い範囲の韓国男優、挙げ句は韓国女優が人気を集めた。
過去の様々な問題があったとしても基本的に友好的な隣国なのですから、相互に文物の交流があるのは至極当然の事です。私自身も職場で韓国からの留学生に教育したり、2、3日に1回はキムチやらを食べてもおります。だが、この時のブームと言うのは誠に特異で激しいものでした。
この当時の韓国男優と言うのは、大雑把に言えば、20〜30年前の日本男優に類似していると言えるでしょう。高度経済成長終了からバブル開始迄の”幸せな時代”の俳優たちです。清潔、精悍、優しさ等のイメージを撒き散らしていました。本Web頁に記したように、1990年代後半からの日本は、この時代の文物のリバイバルが多く登場します。生産や社会、政治の構造の転換に失敗し続けた事により、先に希望が持てない時代。あたかも不幸な老人が幸せな過去の思い出に浸るようなものだった、と言えます。
本質的な問題は、過去に浸るしかなく、結局は様々な変革を来たらしめる事が出来なかった事であり、この傾向はバブルを生み、増大させ、放置した要因そのものだったと言えます。
トリノオリンピック(ヒロシマ・ナガサキ62年03月07日初出)
2006年02月にイタリアのトリノ市で開催された冬季オリンピック。日本が獲得したメダルは女子フィギュアの荒川静香の金メダル一つだけ、6位以内の入賞者数も激減しました。
煌びやかな事をやるにも、広い意味での国力が必要です。合理性が欠ける日本人の社会と心理の結果はかくの如し、と言うのは当然の批判です。だがもうひとつ注目するべきなのは、荒川静香がメダルを取ったのは日程がほぼ終わる頃であり、それまでには日本の”惨敗”が明らかになっていた、と言う事です。この結果、驚くべき事に幾つかのマスコミは「トリノオリンピックはなかった事にしよう」と言う調子のタイトルの記事を垂れ流したのでした。
当然ながら、真摯に事実に向き合う事なき社会は、亡びるの他はありません。嫌な経験をなかった事にして前進が可能な程世の中は甘くありません。模倣だけで済む程人類は進歩が乏しい存在ではありません。かかる現実認識の甘さは、バブル的生産と言う”非現実的な”行動と表裏一体としか言い様がないのです。
2006年サッカーW杯(ヒロシマ・ナガサキ62年06月26日初出)
2006年06月からドイツにおいて開催されたサッカーの世界大会。日本は初戦の豪州に3対1で破れ、欧州の強者(つわもの)クロアチアとは引き分け、世界の王者ブラジルには当然のように4対1とぼこぼこにされ、惨敗に終わりました。
サッカーにかなりの投資をしているにも関わらず日本が一向に強くならない原因に科学的合理性の欠如があるのは当然としても、この大会で極めて顕著だったのは日本のマスコミの報道ぶりでした。些末な”事実”を針小棒大に取り上げ、豪州やクロアチアには当然勝てるから決勝トーナメントに行ける、と言わんばかりの報道が繰り返されたのです。サッカーは起伏と偶然性に富んだスポーツではありますが、それにしても実力の差と言うのはきちんと見ていれば明らかと言うものでしょう。一体、スポーツ分野のマスコミ関係者は何を見ていたのでしょうか、何を読者に見せようとしたのでしょうか?
当然ながら、真摯に事実に向き合う事なき社会は… 以下同文 (-_-;)
バブルへGo! タイムマシンはドラム式(仏暦2550年02月21日初出)
2007年、バブルが明白に終了してから14年と言うこの時点において、「わたしをスキーに連れてって!」等を制作したホイチョイプロダクションが再びバブル映画を世に放ちました。私は、月にレンタルビデオ店にてレンタルしようとしたところ、10本程あったものが全て借り出されており、翌翌週月21日にようやっと借りられたのでした。皆、好きなんだね〜。とは言え、この作品そのものはバブル当時の風潮を徹底的に描くというよりも、家族の繋がり・愛国心・勇気等がテーマであり、演技も大道具小道具も良く、とても楽しめる良い作品だと言えます。
だが、この映画の基調を成す社会経済的観点はあまり適切なものであるとは思えません。成る程、いきなりバブルを潰すようなことをするべきではなかったと言うのは適切です。これら一連の動きによって計画的に濡れ手に泡の大儲けをした連中がいたのも確かでしょう。だが、ここにこれまで記したように、そもそもバブルは日本が「生産的であると言うのはどういう事なのか?」についてまるで間違った道に填まり込んだ結果の一つとして生まれていたに過ぎないのです。
ちなみに、バブルの世界を生きていたかみさんによれば六本木スクエアビルが出てきただけで十分なんだそうですが、その直ぐ傍らの一角(自爆)に出入りして仕事をしていた私にとってはそんな世界がそこにあったことなぞ、何の記憶もありません。あたかもスラム街が華やかな摩天楼の道路を隔てた隣に隣接していたようなものでありました。
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関連ページ
バブルの貧困と過剰が語られている、関連ページ。。
マスターネットでの私の書き込み:パソコン通信で活発に活動をしていた当時は、正にバブルの絶頂から崩壊の時期でした。その時代の空気はいやでも書き込みの内容に映し出されています。それにしても、こうして見ると旧マスターネットって、完全にバブルの産物だったんですね…;
F-9450の思い出:折角の優れた独自パソコンはどうして廃れてしまったのか?そこに転換の最後のチャンスだった1980年代後半の日本の失敗が見て取れます。
バブル景気何でも百科事典:良く纏められているサイト
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そして今、そして未来…
以上の観点からすると、バブルは終わっていません。バブルを生み出す政治的・社会的構造、人々の観念は何一つ変わっていないどころか、寧ろ強化されています。一貫して存在し続け、日本の発展を阻害している根底的な歪みは
「労働成果の農村部及び特権階級への過剰な配分」
「科学的合理性や知的判断への蔑視」
「生産全般(環境問題、経済学…)への視点の欠如」
「低賃金長時間低品質労働の反復」
と言った所に総括されるでしょう。これらは、戦後日本の高度経済成長期においてのみ許容された原理・原則・やり方なのです。それらは、投資の不適切を生じ続けており、我が国及び我が民族の将来を引き続き、更に甚だしく危うくし続けているのです。
これらの根本的な歪みはただ一つの言葉に集約されるかも知れません。それは、
「進歩がない」

と言う事です。歴史を見れば、最も典型的には、戦艦大和は進歩していない存在でした。

「進歩とは、異なる次元で思考し行動する事」

なのです。大和は、それ以前の戦艦よりも巨大な砲を積んでおり、その主砲は従来の戦艦よりも多少射程が長く、どの戦艦よりも数多く搭載されていました。だが、それらはレーダー、無線暗号そして、航空機に対してなす術もなく破れました。戦艦大和と戦艦武蔵は合わせて、輸送船を改造した小形空母を1隻沈めただけの戦果しかありませんでした。戦艦大和には”強化”はあっても”進歩”はなかったのです。
進歩のない者は決して勝たない

進歩のなさは、2007年の現在において既に33年に亘って継続中です。30年に亘って続いた誤りをひっくり返すには素朴に考えても30年以上の期間が必要になるのかも知れません。
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ワタシは気楽だ、そしてアナタはさぁ働いてください
さて、こんな文章を綴っている本ホーム頁提供者はどうなんだと言うと、こうやって色々分析していて思うのは
「な〜んだ、俺がどうも人生が上手くないのは、日本のバブル生産システムによるものなのか〜」
「んじゃぁ、俺にはどうしようもなかったことだし、責任がないんだから、気楽でいいや」
と言うものでした。小生が高等教育を受け始めたのが高度経済成長が終了した時だったのですが、どうも小生自身の人生はこの時からはっきりと転落の道を辿り始めたようです(自爆)。
とにかく自分が価値があると思ってやってきた事は、全てバブル的生産の観点からは交換価値がないものとコケにされ続けてきた事ばかりでして、分析すればする程、そうです。笑うしかありません。;
大学は心理学を徹底的に勉強できそうだと判断した某私立大学に入りましたし、その判断は正しかったのですが、より高い(※はっきり言えば、最高の 自爆)偏差値の大学をも狙えた成績だったもので、遊ぶためにわざわざ東京のカス私立大学に入ったと当時在学していた高校から罵倒されました。そして、その後も”損した”と思わせられる事は度々でした。
TRONプロジェクトの応援をしている一人ですが、かかる公共的なボランティアワークはバブル的生産においては無価値とされ続けていますし、そもそも総合的なシステムを作る、と言う事はバブル的生産からすれば手っ取り早いカネにならないので無価値なのです。
人間を科学すると言うこの仕事も、コケにされまくってきた仕事です。そもそも科学する事は実はカス扱いされて来ましたし、ましてや人間を科学するなんて事は論外とされ続けてきました。就職にも勿論、酷く苦労しました。
勤務先も、様々な議論はあれ、国全体の基盤を担うものであるのですが、バブル的観点からすれば疎んじられてきた所です。そう言えば、バブルのまさにピークの時に、誘われて合コンに参加した事があります。今から思えば無謀と言う他はありません。男子が順番に勤務先(※決して仕事ではない)を自己紹介して最後に小生が勤務先を述べた時に女子の間に広がった凍った空気を小生は生涯忘れないでありましょう(自爆笑)。
仕事で、日常生活で、家庭生活で、いやんなる程様々な問題がやってきます。かみさんは未だにバブル的に生活を飾ることに本質的な価値を見いだしています。子供を育てる環境はうんざりするようなものだし、職場の図書室は未だにOPACどころか図書カードしかありません。4月からは専従の図書員もいなくなります。ストレスは大方高い水準に張りついております。だが、これらは全て何の事はない、バブル的生産に由来するものでありました。
小生はバブル的生産に棹さし続けています。他にも棹差し続ける人は少なくありません。棹差し続ける人が多ければ、あるいは日本や世界の流れは変わり、人類の大きな発展へと舵取りが変わるかも知れません。だが、そうでなければ、棹さす人たちは人生の終わりに自分たちの人生が単なる摩耗と消耗の連続であった事に落涙するでありましょう。また、日本中の荒れ果てた町の錆びた鉄柵に朝露の落涙が見られるばかりとなるでありましょう。
そこで、こうです。
「落涙には、私は責任はありますまい。
バブルで良い思いをした、ア・ナ・タ、アナタが働く番ですよ。
さもなきゃ…、引っ込んでろ!」
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