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  今回この豪農の館でこの漢詩を見た時、 当主はどのような気持ちでこの掛け軸をかけられたのかなと思いを廻らせた。 遠い先祖の苦労を偲び、その気持ちを忘れないようにということを子孫に伝えるためか、 それとも当時抱えていた多くの小作人たちの苦労を思ってか、 一方この豪邸を支えた小作人達の生活は如何だったのだろうかと。 
憫農      李紳

鋤禾日当午     
汗滴禾下土      
誰知盤中
  
粒粒皆辛苦


  

                         豪農と憫農

読み下し文
農(ノウ)を憫(アワレ)む  李紳
禾(カ)を鋤(ス)いて日 午(ゴ)に当(アタ)る
汗は滴る 禾下(カカ)の土
誰(タレ)か知らん 盤中(バンチュウ)の(ソン)
粒粒(リュウリュウ)皆(ミナ)辛苦(シンク)なるを


詩解
稲の田畑を鋤いていると、太陽は真上にのぼり、
汗は稲の根もとの土に滴りおちる 
誰もが分かっているだろうね、茶碗の中のご飯一粒
一粒が皆、こうした農民の苦労の結晶であることを。

李紳 (780-846)中唐の政治家



 

 先日新潟の従兄弟を訪ね、博物館となり公開されている豪農の館を2箇所見学した。 
何れも江戸時代初期から農家としてスタートしているが、代々庄屋を務め明治以降は大地主として
富を蓄積し、明治10年台に豪壮な館を建設している。 戦後の農地改革でこれらの地主階級は土地を
手放さざるを得ず、豪邸も個人の手から離れ、現在は財団法人となり有形文化財として保存されている。
どの程度豪邸かといえば伊藤家は8,800坪の敷地に建坪1200坪の本邸、 一方市島家は8000坪餘
の敷地に600坪の本邸という具合である。 地主としての規模は市島家で例にとると、田畑1,830町歩、
山林3,000町歩、 小作人2,600人、米の売上約2000トンということである。
 今回漢詩の題材として偶々、この豪農、伊藤家の座敷の壱つに、憫農(農を憫れむ)という漢詩の掛け軸が
懸っていたものをとりあげた。