満州残照 −大連、瀋陽、長春の列車の旅ー |
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恒例の詩吟愛好者グループの中国旅行が今年も行われ、参加者25名で旧満州、現在の中国東北地方へ列車の旅をした。 成田から真西に空路をとり、朝鮮半島の上を跨ぎ、三時間で遼東半島先端の大連空港に到着する。 大連では近郊の旅順をバスで訪れ、日露戦争時の激戦地、203高地に上る。 翌朝列車で4時間遼寧省都瀋陽を訪問、清王朝初期の故宮、陵墓、東北軍閥の居宅や満州事変博物舘見学。 翌日午後再び列車で三時間余、長春迄足を伸ばし旧満州国の史跡を見学する。 帰路は長春から空路大連に戻り、大連より帰国する。 四泊五日の行程で近世から近現代迄の史跡を訪ね中華料理、韓国料理を堪能する。 又同行者の中には満州で生まれた人、或いは親が満州に勤務した人等も数名おり、何か浅からぬ縁を感じさせる旅だった。 (090420) |
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旅順へ 大連空港からバスで小一時間旅順へ向かう。 気温は 4月中旬の声を聞くと急に暖かくなり東京付近と変わらない。 この日大連は雨だったが旅順はめったに降らない所との 事で、期待したが残念ながらやはり雨だった。 旅順は百余年前、日露の激戦地だった。 当時旅順の 港はロシア海軍の拠点であり、この港を制するためには 港背後の203高地をと呼ばれる丘を占領する必要があった。 しかしロシアもこの丘に堅固な要塞を構築しており、 攻防は2ヶ月余に及び日本軍は大きな損害を蒙るが、 ロシアも次第に食料の補給に事欠き遂に日本軍に下る。 |
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砲弾慰霊塔 203高地を制した日本軍は見晴らしの効く山頂に観測 所を設け、射程を電話連絡しながら麓に据えた28センチ 重砲により山越えで港内の艦船を次々と破壊したという。 203高地の頂上には砲弾をかたどった戦死者慰霊塔が あり今では観光スポットとなっている。 塔には旅順攻撃の 司令官だった乃木将軍自筆による「爾霊山」の文字が 刻まれている。 これは「あなたの霊」と「203」を掛けた ものの由。 又将軍の子息もこの山腹で戦死し小さな碑が ある。 注: 203高地とは海抜203メートルの山、この地の戦死者は日本一万余、 ロシア5千との事。 写真左は砲弾の慰霊塔(爾霊山)、右は子息碑(乃木 保典君戦死之所) |
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水師営会見所 203高地攻防戦を日本が制し日本とロシアの会見が 行われた建物が残されている。 元々この家は農家だった 由で、土間に当時のテーブルが置いてあるが3人宛程度 しか座れない大きさで、壁には書物で良く見る乃木、 ステッセル両将軍とその幕僚達数名の写真が大きく引き 伸ばして貼ってあるだけである。 水師営は地名で昔清国 の水軍の兵営がこの付近にあった事によるとの事。 日露両軍の戦場となり地元の中国人にとっては迷惑な 事だったと思われる。 乃木将軍は軍人よりむしろ文人、教育者と言う説もあり 以下の漢詩が有名である。 山川草木転荒涼 十里風腥新戦場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽 |
大連旧日本人家屋 1905年ポーツマス講和条約により、日本はロシアが 敷設した旅順から長春迄の東清鉄道の権益と付属地 及び関東州(旅順、大連付近)の租借権を譲渡された。 日本は鉄道運営のために南満州鉄道株式会社(満鉄) という国策会社を設立し、大連に本社を置き植民地経営 の一歩を踏み出す。 満鉄は鉄道事業だけでなく事業 範囲を拡大し炭鉱、、重工業、映画等にも進出する。 大連には日本人家屋が今も多数残っているが取り壊しも 進んでいる。 これらの家は70年以上前のものと思われるが、洋風戸建で 今時の建売住宅展示場で見かけるようなデザインである。 当時の日本国内の基準から見れば至ってモダンな家である。 |
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大連街角 初日宿泊のホテル前風景、スマートな路面電車が走って おり町並みはたいへん綺麗である。 大連だけでなく今回 訪れた瀋陽、長春も全般に人々が落着いており、道路、 公園なども良く整備清掃され、どこかヨーロッパの町並みを 思わせる。 しかし今中国ではモータリゼーションの波が 押し寄せ、ガイドの話では車優先との事。 確かに朝の ラッシュアワー時に徒歩や自転車で横断する人々をホテル の上から見ているとハラハラするが、その割りには交通事故 が多いとも聞かないし目撃もしなかった。 大連は三方が 海で夏は涼しく冬は余り寒くなく住みやすい所らしい。 この日の夕食は海鮮料理だったが、その味とバラエティー の豊富さは素晴らしく四日間で最高だった。 |
大連駅 早朝次の目的地瀋陽に行くために大連駅から列車に 乗る。 この駅は上野駅をモデルに1937年満鉄により 建築された由。 昨日の雨と打って変わって本日は快晴と なる。 この大連駅から列車で四時間、約400km北の 瀋陽(旧奉天)に向かう。 ポーツマス条約では日露両軍は満州から撤退する事に なったが、譲渡された鉄道及び付属地の警備隊は残して 良い事になった。 当初租借地である関東州の旅順に 警備隊司令部が置かれた事から、後に関東軍と呼ばれる 様になった。 この関東軍も組織の常として自己増殖・ 自己防衛し、20年後の昭和になってからは日本政府・ 軍部中枢が最早コントロール不可能になった様である。 |
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瀋陽北駅 大連から列車で4時間、瀋陽北駅に到着する。 瀋陽は 遼寧省の省都で人口は720万余、以前は奉天と称され 東北地方の中心だった。 近世には清王朝を建てた 女真族(満州族)の故地であり、近現代では清朝末から 中華民国時代初期に東北軍閥である張作霖父子が拠点を 置いた所であり、又1931年(昭和6年)には満州事変の 発火点となった場所でもある。 瀋陽では東北軍閥公邸、柳条湖918歴博、遼寧博物舘、 瀋陽故宮、清昭陵を見学する。 |
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東北軍閥元帥府 中国の歴史では統一王朝の末期には必ずといって 良いほど各地で軍閥が群雄割拠する。 孫文が1911年に 辛亥革命を起こし中華民国を建国した後も暫く軍閥が 割拠する。 張作霖は満州馬賊の頭目だったが、北洋 軍閥(領袖は袁世凱)に参画し、やがて自ら奉天派軍閥を 率いる。 日本の協力を得て東北三省を実質支配し、 更に北京に入城し中華民国の主権者を名乗る。 ところが蒋介石の国民党軍に敗れ根拠地奉天へ列車で 戻る。 しかし満州支配を画策する関東軍にとっては、 最早張作霖は邪魔になると言う事で、奉天の手前で列車 爆破したとされる。 負傷した張作霖は自動車で左の ロマネスク調の私邸に担ぎ込まれ、ここで死亡した由 (1928年6月没)。 |
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張学良銅像 張作霖の長子で1901年出生、父の死後奉天軍閥を 継承するが、父の政敵蒋介石に協力し国民党副総統と して共産党と対峙すると共に日本との協調も断絶する。 日中戦争中、共産党に協力した事から国共内戦後 台湾で50年間軟禁され、解放後2001年100歳で死去 1905年 日露戦争終結、ポーツマス条約 1911年 辛亥革命、孫文南京に中華民国臨時政府樹立 1912年 宣統帝溥儀退位、清朝消滅。 袁世凱中華民国総統となる 1925年 孫文死去、蒋介石が国民党の権力を握る 1928年 張作霖爆死、蒋介石国家元首となる 1931年 満州事変勃発 1932年 満州国建国、清朝退位の溥儀執政、二年後皇帝となる 1945年 満州国消滅 1949年 中華人民共和国成立、国民党台湾へ亡命し中華民国存続 |
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918歴史博物館 1931年9月18日、ここ柳条湖で南満州鉄道が爆破された。 関東軍は中国人ゲリラの仕業と言う事で軍を動かし、忽ち 満州全土を制圧してしまった。 日本政府は事件の不拡大 を指示したが、軍の暴走を止められず次々追認せざるを 得なかった。 一方中国側の国民党政府は国内共産党とも 対峙中で多忙であり、関東軍への反撃は避けた様である。 東北三省を制圧した関東軍は国際世論や日本政府中枢 に取繕うため、既に退位させられた清朝最後の皇帝、溥儀を 担ぎ1932年に満州国を建国する。 これが昭和6年の満州 事変と呼ばれるものであり、鉄道爆破は関東軍による計画的 な自作自演と言われている。 博物舘には抗日に関する写真が大量に展示してある。 勿忘918が標語 |
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遼寧省博物舘 真新しい博物舘で原始から近代迄の文物が展示してある。 台湾の故宮博物舘に展示物・構成共に良く似ており、余 り珍しいものは無い。 しかし写真のドルメンは東北地方 特有のものか、今迄見たことがなく現地の若い人も見学 していた。 彼方此方の博物舘を見て思う事は、人々が大陸間を交流 する事など無かった石器時代に、何故同じ様な材質、形の 矢尻や石斧を作り出したのだろうか、却って文明が起こり 人々もある程度移動する様になってからの方が地域(黄河、 メソポタミア、ナイル等)の特色が出てくる。 更に歴史時代 に入ると益々独自の文化が発展しているが、交通・情報が 高度に発達した現在は又何所に行っても同じ様な町並みに なる。 |
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崇政殿(瀋陽故宮) 女真族の清王朝初代ヌルハチ、二代ホンタイジが執務を 行った宮殿で1625年に建てられた。 ヌルハチは女真族を 統一し1616年ハンの位に付き国号を後金とした。 二代目 ホンタイジはヌルハチの子で1626年にハンに即位する。 1636年には国号を後金から清に変え、自らの称号を皇帝 とする。 又女真を満州と変え、万里の長城を挟み明と 対峙するが1643年死去。 三代目順治帝の時、1644年 明王朝が李自成の乱で滅びたので、逆賊を討つという 名目で順治帝は北京に入城し、明に代わり全国に号令 する。 中国を統一した異民族(非漢民族)王朝としては元 (モンゴル族)と清(満州族)の二つであるが、武力で全国 を征服した元に対して清は無血入城を果たした。 |
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東院大政殿(瀋陽故宮) 瀋陽故宮の中では一番古く、ヌルハチの時代に建てられた 執務室で、モンゴルのパオを象った八角形の建物である。 左右に右大臣、左大臣の執務所を先頭に十の小さな建物が 並ぶ。 二代目ホンタイジの時は主に儀式に使われた由。 元々女真族は狩猟民族であるためか、大きな建て物でなく 質素でこじんまりしている。 |
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清昭陵(世界文化遺産) 清昭陵(北陵とも言う)は清朝二代目ホンタイジとその 皇后の陵墓で、45万平方メートルの広大な昭陵公園の 中にある。 陵の正門含め5−6ヶ所の門を潜り最後は壁に 突き当たる、その壁の外がドーム形の陵墓になっている。 陵そのものには何の飾りも無いシンプルなものだが、 そこに至る迄の門はみな立派で、さすが世界遺産という 感じである。 ホンタイジは1643年に死去し、その子順治帝は未だ 幼少であったのでその叔父が指揮して北京入城を果たした 由。 順治帝は若くして死去したが、4代康熙帝、5代雍正帝、 6代乾隆帝と名君と言われる皇帝が続き、少数の満州族 で良く漢民族を治めている。 |
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瀋陽駅(旧奉天駅) 東清鉄道時代から駅舎はあったが、満鉄時代1910年に 現在の様な赤レンガの新駅舎を鉄道付属地に建設し 奉天駅と称した。 どこか東京駅に似て中々風格がある。 東京駅もこの頃工事をしているが、1914年に開業なので 奉天駅の方が完成は早い。 今回瀋陽では到着も発車も 次の瀋陽北駅を利用しており、この駅は車窓から見学した。 駅周辺は北駅の方が新しい高層ビルが林立していて 新市街、こちらは旧市街という感じである。 今から150年前の江戸時代、欧米の圧力で恐る恐る 開国した日本が、その僅か50年後に外国にここまで進出 したエネルギーは凄いものがある。 |
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地平線に沈む赤い夕日 瀋陽から次の目的地、長春へ向かう列車から広大な 地平線に沈む太陽を眺める事ができた。 日露戦争で この満州の平原で戦った兵士達の心情を歌ったと思われる、 「此処はお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に 照らされて 友は冷たい土の中」という歌が思い起こされ 無言で感慨に耽る。 日露戦争でも多くの犠牲を払い、 更に日韓併合、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、 どこか最初の段階でボタンの掛け違いがあった様な気が してならない。 明治以後征韓論に端を発する日本の 進路にもっと他に取るべき選択肢がなかったのだろうか。 |
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長春へ 瀋陽から列車で三時間半、大平原を3百キロ走り長春へ 着く。 戦前は満州国の首都で新京と言われたが、同国 消滅後長春となり吉林省の省都となった。 現在人口は 740万人という。 満州国当時の官庁が今でも多数残って おり、往時の面影を偲ばせる。 特に道路がたいへん広く 整備されているが、これは満州国時代日本の技師の設計 によるものらしい。 長春ではバス車窓からみる満州国時代の官庁、旧関東軍 司令官官邸、満州国皇帝宮殿、南湖公園など見学する。 |
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旧関東軍司令部(現中国共産党吉林省委員会) 近寄って見ることは出来ないが、屋根はお城の天守閣の 様な形ちをしており、今でも古びた感じはしないから 手入れを良くしていると思われる。 満州国時代は全ての 重要案件がここで練られ、ここから発せられたものと思われる。 現在は共産党委員会なのでやはり政治・軍事の最高 機関である。 75年以上権力の最高機関が君臨している 建物であり警備も厳しそうである。 関東軍司令部は始め 旅順にあったが満州国建国に伴い長春に移り、この施設は 1932年起工、1934年に完成した。 |
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旧関東軍司令官公邸(現松賓舘ホテル) 広大な敷地の林の中にある。 昔若い頃聞いた話で、 アメリカでは本当の金持ちの住む家は入り口から私道を 車で暫く走るような所だ、と教えられた事があるが正に そんな所である。 しかし栄枯盛衰は世の常で、最後の 当主はソ連軍に捕虜として抑留されてしまった。 代々の司令官は満州に於ける最高権力者である筈だが、 彼らも実務を握る部下の幕僚達の暴走を抑えられなかった のが現実のようである。 現在この建物は国賓級の人が泊まるホテルになっている との事。 党の要人などが泊まり主席クラスも泊まった事が ある由。 |
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旧国務院(現吉林大学基礎医学部) 国会議事堂をモデルに建造された様だが、満州国は 議会を持たず国務院が皇帝直属の最高行政機関だった。 然し重要人事は関東軍司令官の同意を必要とし、次官 クラスの要所要所に日本人が配置され、皇帝の思う通りに はならなかった由。 この旧国務院には現在吉林大学医学部が置かれ、他の 旧満州の中央官庁の多くは吉林大学や研究所に今も 活用されている。 中国では土地が国有のせいか、建物が古くなると隣に 新しいビルを建て、古い方は廃屋の侭になっているのを よく見掛けるが、70年以上立つ満州時代の建物を メンテナンスして使っているのは以外だった。 |
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偽満皇宮博物院(満州国皇帝宮殿) 中国では満州国は偽の国という評価でこの様な名前が 付くのかと思う。 中身は満州国の皇帝溥儀の宮殿である。 ただ宮殿というと何となく豪華な建物を想像するが、 普通の大きな家が幾つも敷地内にあるという感じである。 建物には皇帝の居住する建物、親戚の宿泊所、公邸など、 又幾つかの建物は修復中だった。 又敷地内に新しい 建物で東北被占領史陳列館を併設しているがこれは 見ていない。 内容は918歴史博物舘と同じようなものと聞く。 |
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緝熙楼 溥儀が執政・皇帝として14年居住した空間で寝室と 后達の部屋からなる。 元々は宮殿が間に合わず塩の 専売公社の建物を急遽仮宮殿とした由。 溥儀は1906年光緒帝の甥として生まれたが、光緒帝に 子が無く死去したため、1908年僅か2歳で清朝12代皇帝 となる。 辛亥革命や北洋軍閥の袁世凱により6歳で退位 させられ清朝は終わる。 袁世凱との約束で帝位は失っても紫禁城に居住できたが、 1924年の蒋介石のクーデターで紫禁城を追われ天津の 日本租界に住む。 そして1932年関東軍に説得され 満州国執政、1934年に皇帝となる。 自らも望んで皇帝に なったが自分の思惑通りにならず鬱々としていたと言う。 |
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同徳殿。 これは建国後日本人の設計で溥儀の居住用として 建てたもので緝熙楼に比べればかなり広く豪華になる。 しかし溥儀は日本人が建てたもので盗聴器などがある のではないか、と疑い夜は泊まらなかったとの事。 結局仮宮殿の方に14年間夜は居住したことになる 満州国崩壊後の溥儀はソ連の捕虜となり、東京裁判で ソ連側の証人として、自分は日本の傀儡であり被害者で ある事を強調している。 1950年共産党支配の中国に ソ連から引き渡され、戦犯として再教育を受けた後、 1960年釈放され普通の市民になる。 その後看護婦と 数度目の結婚をし、平穏に暮らすが1967年北京で病死 する。(61歳) |
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南湖(長春市内、南湖公園) 旅も終わりに近づき、重い歴史の疲れを公園で癒す。 長春は映画の町、自動車の町として有名との事。 映画は 満鉄の事業をそのまま引き継いだものであり、車はドイツと の提携らしいが、これにも満鉄時代の技術が継承された 筈である。 又東北三省には満州国時代の多くのインフラが 残され、他の省に比べて豊かだというが、918歴博等では 抗日運動を基調とする負の遺産ばかりが強調されている。 過去はやむを得ないとしても、近年日本に対する要注意の 警告のつもりで展示しているらしいが、石原都知事の顔写真 や小泉元首相の靖国参拝、他数名の写真があるのは如何な ものか。 我々の常識では何故彼らが中国にとって要注意 なのか理解に苦しむ。 |
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あとがき 企業でコンプライアンスと称して法令順守、企業倫理の 徹底等がこの10年程特に叫ばれる様になった。 それでも 虚偽の原産地表示、違法献金等後を絶たない。 国家レベルもコンプライアンスをしっかりしないと、過去の 関東軍の様な暴走が起こり、又それを囃す者が出てくる。 法令・倫理違反が起きない様に取締るよりも、どうしたら 起きない体質を作るかが大切ではないだろうか。 それには国民一人ひとりが相手の立場を考え行動する 事だと思う。 大連だけでも5000人の日本企業駐在員が いると聞くが、日中の通商を通して、或いは我々の様な 旅行の交流を通して相互に理解する事の積み重ねが肝要 と考える。 |