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                         江南吟行記
  
昨年のシルクロード旅行に続いて今年も詩吟愛好者グループの中国旅行に参加させて戴き、三月中旬に江南地方を旅行しました。 
成田から空路三時間で上海空港に到着、空港からチャーターバスに乗り、四泊五日の行程で漢詩ゆかりの地を中心に蘇州、無錫、南京、鎮江、上海の名所旧跡廻りと中華料理を堪能してきました。 (070326)
蘇州へ
バスは空港から一路蘇州へ向かう。 春と言ってもまだ
早いためか緑も少なく色彩に欠け、何となく現代風水墨画
の世界を高速道路で2時間ほどひた走り蘇州を目指す。 
途中で羽田から横浜に向かう時にみるベイブリッジと全く
同形の吊り橋の景色があった。
蘇州は2500年以上前の春秋時代に呉の都が置かれ、
その後呉文化圏の中心となったが、破壊と建設が繰り返された。
 明代以降は安定、絹織物の生産地として発展し現在市の
人口600万、その内三分の一が市街地に住む由。
蘇州では虎丘(雲巌寺、剣池、千人石、試剣石)、寒山寺、
留園など訪問。
雲巌寺塔
蘇州市内北部に虎丘と呼ばれる低い丘があり、その中心に
建つ塔(雲巌寺塔)は北宋時代初期(961年)に完成したもの。 
レンガ作りで高さ47メートル、八角形七層の塔である。
 400年程前から傾き始め現在では15度程傾いており、中国の
ピサの斜塔と言われている。 
何故「虎丘」と呼ばれるかは色々説があるようだが、現地ガイドの
話では丘自体が寝そべった虎でこの塔が尻尾のようだからと云う。
蘇州の近辺では何処からでもこの塔は見える。 今回の旅行で
見た建造物でほぼ完全な形をしているものでは最も古いものと
思われる。
試剣石
虎丘には又2500年程前の春秋時代末期に栄えた呉の闔閭王
(こうりょ、夫差の父親)の墓があったといわれ、剣池という所が
その場所と云う伝説がある。 又剣池の隣には闔閭王の時代に
鉄で作られた干将・莫耶一対の剣の内、干将で試切したという
作り物の岩がある。 
註:呉の刀工、干将は呉王から鉄塊を与えられ刀の製作を
命令された。 経験した事のない硬い金属で苦心したが、妻の
協力を得て二本の鋭利な刀が完成、自分と妻の名をとって
干将と莫耶と命名し、干将一本だけ王に献上した。 
やがてネコババが明るみに出て干将は殺されるが、莫耶の刀は
行方不明となった。 今昔物語にも収録されている
唐の詩人、李白の蘇台覧古はこの蘇州(姑蘇と云った)を訪れて、
呉の都だった頃の伝説を偲んで詩を詠んだものと思う。

蘇台覧古 李白   蘇台覧古
(ソダイランコ) 李白
旧苑荒台揚柳新  旧苑荒台揚柳
(ヨウリュウ)新たなり
菱歌清唱不勝春  菱歌清唱
(セイショウ)春に勝(タ)えず
只今唯西江月有  只今唯西江
(セイコウ)の月のみ有り
曾照呉王宮裏人  曾
(カッ)て照らす呉王宮裏(キュウリ)の

旧苑:古い庭園、 荒台:荒れはてた宮殿跡
菱歌: 菱を摘む時の歌、 不勝春: 春は感傷的である
呉王: 夫差、 宮裏人: 絶世の美女西施
寒山寺(蘇州)
寒山寺は南朝の梁天監年間(502-509)に建立され、始めの名は
妙利普明塔院と云われたが唐代に高僧の寒山が住職となった
事から寒山寺と云われるようになった由。 
何度も焼けて現在のものは清朝末期の光緒年間(1875-1908)
建立という。 
この寒山寺は隋の時代に築かれた南北を結ぶ大運河沿いにあり、
唐の時代に張継が科挙の試験に落ちて、寂しい気持ちでこの運河を
通り故郷に帰る途中、この付近で舟中泊の際に寒山寺の鐘の音を
聞いて詩にした「楓橋夜泊」で寺も一躍有名になった由。
観光客にも鐘を撞かせてくれるが、半鐘に毛の生えたような音で
詩情は今ひとつである。 
楓橋夜泊  張継   楓橋夜泊(フウキョウヤハク) 
月落烏啼霜満天   月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓漁火対愁眠   江楓
(コウフウ)漁火(ギョカ)愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺   姑蘇
(コソ)城外の寒山寺
夜半鐘声到客船   夜半の鐘声 客船
(カクセン)に到る

楓橋: 寒山寺前の運河にかかる橋、左の写真は楓橋から
     運河の船を写したもの
姑蘇:蘇州のこと
客船: 左のような舟を繋いで夜を過ごしたものか 
留園
蘇州は昔から金持ちが多く庭園作りを競ったと言う。訪問した留園は
明末(1593年)に作られた総面積6,900坪程の庭園であり、中国の
四大名園の一つである由。 太湖から引揚げた石灰岩の奇石(花石樹)
が所狭しと樹木の代わりに置かれている。 池を中心にあずまや
風の建物があり日本の庭園と共通するものもあるが、奇石が賑やかで
静寂さとか、わび・さびはあまり感じられない。 しかし中国の名庭園の
条件としてはこの花石樹があることが必要条件との事。 蘇州には
この留園を始め芝園、獅子林、拙政園など世界文化遺産に登録された
庭園が数箇所ある由
無錫(むしゃく)へ
無錫の由来は昔ここで錫が沢山取れたが、掘り尽くして無くなって
しまったので無錫と命名された由だが真偽の程は判らない。
しかし中国は青銅器の時代が長く(3500年前の殷の時代から
春秋時代末期迄1000年位か)、錫はその青銅の原料として大量に
使われた事も想像できる。 無錫ではエレクトロニクス関連の日系企業が
多い。 市人口は400万余、その内市街地に半分以上住む。
無錫では恵山、太湖遊覧など。 
左の写真は恵山寺前の門前町。 恵山の泥人形はお土産として
有名らしい。
恵山寺
恵山の中腹にあり、南朝時代の古刹の由で清朝時代に乾隆帝もここを
訪れ自ら扁額を揮毫したと由緒書きにある。 しかしこれも何度か建て
替えられたか伽藍は新しい。 慥このお寺と記憶するが、大きな釈迦像
とそれを取巻く四天王像があったけれど、かなり日本の寺院で見るのと
は違っている。 カラフルで新しく、バチあたり的に言えばありがたさが
今ひとつ感じられない。 
古刹といっても相次ぐ王朝の交代とそれに伴なう価値観変遷に晒され、
伝統の断絶があるような気がしてならない。 飛鳥・奈良朝時代に多数の
遣隋使、遣唐使を送り中国に学び、その伝統を守ってきた日本にこそ
一部かも知れないが本当の昔の中国文化が残っているのではないだろうか。 
太湖(無錫)
太湖は無錫から蘇州にかけての巨大な淡水湖で面積は琵琶湖の
4倍程あり、豊かな水産物を産出するという。 その昔湖底の石灰岩の
奇石は庭園作りに欠かせない物として江南は勿論、北方へも運ばれた。
 
北宋最後の皇帝、徽宗も庭園作りの為に開封の都までこの石を運ばせた
ため、過酷な労力提供を強いられた江南地方で民衆反乱が起きて国が
滅びる原因の一つとなった由。 
ここではチャーター遊覧船に乗って琴と胡弓の合奏を聞きながら
無錫旅情の世界を満喫した。 途中江ノ島のような島があった。
淡水真珠
太湖では淡水真珠貝の養殖が盛んに行われており、淡水真珠の
研究所(販売もする)と称する所で説明を聞く。大きな養殖カラス貝を
開けると真珠が三十数個出てきた。 カラス貝の中に貝柱の肉片を
入れて置くと真珠ができるそうである。 従来の日本の真珠はアコヤ貝
1個に付き真珠一粒と云う事なので、それに比べると淡水真珠は
大量生産でありコストは安くなりそうだ。 サイズや形にはバラツキが
あるようだが母集団が大きいから選別すれば良いものが取れるのでは
ないだろうか。  
南京へ
南京は今回訪問した他の都市を含む江蘇省の省都であり、古くから
江南の中心となっている。 王朝の都としても六朝だけでなく、
五代十国の南唐、明、太平天国、中華民国まで含め十朝の都と
いう数え方も有る由。 ただ夏暑い事でも有名で中国の四大竈都市の
一つとも云われている(重慶、武漢、南昌、南京)。
人口は800万弱の大都市だが更に拡張中と思われ、市内いたるところ
道路工事が行われていた。
左写真はホテル前の市街地風景
南京では長江大橋、玄武湖、中華門、中山陵訪問
南京長江大橋(南京)
長江をまたぐ2階建ての橋で上段は道路、下段は鉄道で全長は
4500m余、1960年から8年を経て完成している。 橋の博物館の
屋上にエレベータで上り橋を一望できるようになっている。 
工事後半は文化革命で中国が揺れに揺れた時期の筈だが、
そのためかどうか博物館入口正面には巨大な毛沢東の立像がある。 
この橋の完成で北京と上海が鉄道で直結した。
我々が中学生の頃中国の大河は黄河と揚子江と習ったが、
揚子江というのはある時期上海から南京の間のみ云って居たのを
日本人が間違えて全てと理解したらしい。 云われて見れば今の
地図は全て長江となっている。
玄武湖(南京)
南京の中心部に近い場所にある周囲15キロの湖である。 東にある
紫金山からの水はこの湖を経て、市内を流れる秦淮河から長江に注ぐ。 
南京は2500年前の春秋時代には呉の城があり、その後三国時代の
呉及び東晋に続く南朝(宋、斉、梁、陳)の六朝の都として栄えた。 
更に明の初期の都にもなり、名前も金陵、建業、建康、応天府などと
呼ばれた。 その間玄武湖は王侯貴族や皇帝の舟遊びの場所だった
という。 
訪問時は雨がしとしと降るなかで湖岸の柳の若葉が水に映え対岸には
南京のビル街が雨にかすんで見えた。 多くの詩人たちがここで詩を
詠んだと言うが、韋壮(晩唐の詩人)は次の詩を詠む。
金陵図   韋壮  金陵(キンリョウ)の図 韋壮(イソウ)
江雨霏霏江草斉  江雨霏霏
(ヒヒ)として江草斉(ヒト)
六朝如夢鳥空啼  六朝夢の如く鳥空しく啼く
無常最是台城柳  無常は最も是
(コレ)台城の柳
依旧煙籠十里堤  旧に依って煙は籠む十里の堤


霏霏: しとしと降る雨
斉: 揃って生茂る
六朝: 三国の呉、東晋及び南朝の宋、斉、梁、陳の六王朝
台城: 宮殿
煙: 霧
中華門(南京)
明の太祖洪武帝(朱元璋1328-1398)が築いた南京城の正面城門で
完全な形で保存されている由。 江戸城で云えば大手門に相当する
ものだが、中国やヨーロッパの城は城壁で町全体を囲む様になっており、
城門自体は砦のようになっている。 城壁に添って秦淮河が流れ天然の
堀のようになっている。
中国の広い国土、長い歴史の中で多数の王朝が興亡し、その中で
漢民族の統一王朝としては周、秦、漢、晋(西晋)、隋、唐、宋(北宋)、
明などだが、明を除き全て北から興り全国を統一している。 
明は唯一江南から興った統一王朝だか、三代目永楽帝から都を北京に
移し、以後南京と呼ばれるようになった。 広大な中国を治める政治の
中心はやはり北と見える。
秦淮河(中華門上より臨む)
晩唐の詩人杜牧は秦淮河で次の詩を詠んでいる。
秦淮泊  杜牧   秦淮に泊す 杜牧
煙籠寒水月籠沙  煙は寒水を籠
(コ)め月は沙(スナ)を籠む
夜泊秦淮近酒家  夜秦淮に泊して酒家に近し
商女不知亡国恨  商女は知らず亡国の恨み
隔江猶唱後庭花  江
(コウ)を隔てて猶お唱(トノ)う後庭花


亡国:南朝最後の国陳の滅亡(589年隋に滅ばされる)
後庭花
(コウテイカ):陳最後の皇帝が作った寵姫を称える歌
中山陵(南京)
孫文(通称孫中山1866-1925)は1911年の辛亥革命により満州族の
清朝を倒し、漢民族の主導権を取り戻した革命家として評価されている。
 中山陵はこの孫文の巨大な墓であり、南京の東にある紫金山の
一角を利用して作ってある。 今回見学はしていないが明の太祖の
陵もこの山にある。 
1926-1929年の建造当時中国の人口が3億9千2百万だったとの事で
階段は392段あるという。 最上階の大理石の建物の中に大理石の棺が
あるが、ガイドの話しでは中は空との事。 孫文の遺言“革命未だ成らず”
は有名だが、死後直ぐにこれだけの大陵墓の建造に取り掛かったのは、
当時の為政者にとり孫文はシンボルとして重要だった事が想像できる。
鎮江へ
鎮江は隋代に作られた杭州から北京までの京杭大運河と長江の交わる
所で交通の要路として栄えたと言う。 大小の山が多く緑に町が囲まれて
おり、運河開通により交通の便が良くなった為か古くから観光に力を入れ、
唐や宋の時代の文人たちはこの山水に富む鎮江に遊んだと言われている。 
一方アヘン戦争の時は最大の激戦地だったという。 
現在市の人口は300万ほど
左の写真は鎮江市内の中心にあるホテル近辺の景色。
鎮江では金山寺、北固山公園を訪問
金山寺(鎮江)
長江の三角州に今から1600年程前の東晋の時代に建立されたという
古刹であり、 当初の名前は擇心寺といったが唐の時代より金山寺と
いうようになった。 当時は舟で参詣したが今では陸続きになっている。
 室町時代の画僧雪舟はここで修行したという。 大変立派な建物の
寺院であるが、ここも何度も立て替えられたものか古い感じはしない。 
寺院の場所が小高くなっており高台に建つ慈寿塔は八角七層で
高さは35メートルの由。 狭い螺旋階段を上りきると最上階からの眺望は
素晴らしく、雨にけぶる早春の江南を一望できた。
江南春  杜牧    江南の春  杜牧
千里鶯啼緑映紅  千里鶯啼いて緑紅に映ず
水村山郭酒旗風  水村山郭
(サンカク)酒旗の風
南朝四百八十寺  南朝四百八十寺
(シヒャクハッシンジ)
多少楼台煙雨中  多少の楼台煙雨の中
(ウチ)


江南: 長江下流の南部地域
水村: 河沿いの村
山郭: 村や町の城郭
酒旗: 酒屋の目印の幟
多少: 多くの
甘露寺(北固山公園)
甘露寺は鎮江の北固山公園にあり、海抜53-トルの山の頂上にある。
三国時代に呉・蜀が協力して魏に対抗するために、この寺で呉王孫権の
妹と蜀王劉備との縁談の取りまとめを孫権の母親立会いで相談をした
というから、かなり古い時代(1700年以上前)に建立されていた事になる。 
今の建物は新しく、公園自体が歴史テーマパークのようになっている。 
古いもので残っているものとしては唐の時代の鉄製の塔の一部がある。 
山の上から長江を見下ろす景色は雄大である。 
阿部仲麻呂記念碑(北固山公園)
仲麻呂(698-770)は717年派遣された第八回、594名の遣唐使節団の
中の一人だが中国に残り、玄宗皇帝に仕えた。 753年に帰国の船に
乗るためにここ鎮江に来た時に北固山を見て故国の三笠山を思い出し、
望郷の想いで「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」
と詠んだと云われる。 
左の記念碑は1990年に日中友好団体によって建てられたもので、上の
和歌と中国語訳が前に二行刻まれている。
ところが仲麻呂の乗った船は遭難してベトナムに漂着、仲麻呂は再び
長安に戻るが、船遭難の知らせを聞いた仲麻呂の友人だった李白は、
仲麻呂が死んだと思い「哭晁卿衡」という詩を残している。
 
哭晁卿衡  李白   晁卿衡を哭す  李白
日本晁卿辞帝都   日本の晁卿 帝都を辞す
征帆一片遶蓬壷   征帆
(セイハン)一片蓬壷(ホウコ)を遶(メグ))
明月不帰沈碧海   明月帰らず碧海に沈み
白雲愁色満蒼梧   白雲愁色 蒼梧
(ソウゴ)に満つ

晁卿衡(チョウケイコウ): 仲麻呂の中国名
征帆: 旅行く船、 遶:屈曲して進む 
蓬壷: 東海にあると信じられていた島、日本をさす
蒼梧: 昔舜帝が巡業中に病死した場所と云われ、客死を連想させる。 
白雲が彼の死を弔うように哀しみの色をたたえて蒼梧あたりに満ちている。
 (中国名詩鑑賞、前野直彬著)
上海へ
上海は中国の都市としては比較的新しく1842年アヘン戦争後、欧米列強の
租界地となり商業・金融の町として発展し、1920年代には東洋最大の金融
の中心となった。
1949年の中華人民共和国成立時に外国資本は香港に移ったが、その後
上海は工業都市としても発展し、現在は中国最大の金融・工業都市で
人口は1800万人を超える。 頻繁に訪れる人でも、上海は来るたびに変ると
云う。
左の写真は外灘(バンド、港)と呼ばれる古い上海から、市内を流れる黄甫江を
挟んだ向かいの新しい上海の浦東新区の高層ビル街を臨んだもの、写真手前の
方は古い上海の中心地、黄甫区で20世紀前半に建てられた重厚なビル街が
残っている。
上海雑技団
旅行最後の夜は雑技団(サーカス)の曲芸を見物する。 90分の間に
体操選手のような組立て運動や、回転運動、皿回し、こま回し、手品など
色々ある。 中でも圧巻は小さな球の中での複数オートバイ走行。 
昔1台のものは見たことがあるが、ここでは次々と数を増やし最後は5台の
オートバイが縦横斜めと走り廻っていた。 幾ら運転技術が良くても1台でも
故障したら大変な事になりそうだ、と見ている方が疲れる。
魯迅記念館
市内の魯迅公園には近代中国の作家、魯迅(1881-1936)の記念館及び
墓がある。 魯迅は1904年医学の勉強の為日本に留学するが、ある事件で
卑屈な同胞の態度を見て、自分の使命は人の病気を治すよりも精神の
改造が必要である、と退学して中国に戻り啓蒙文学者として活躍する。 

阿Q正伝、狂人日記など有名なので学生時代読んだ事はあるが、その当時は
何を主張しているのか判らずじまいだった。 しかしこれだけ中国で尊敬されて
いるのだから、中国人民に大きな影響を与えたに違いない。 
今回記念館ショップで日本語読み下し及び英文訳のある魯迅詩集を買ったが、
読めても内容を理解するのはやはり難しい。 
リニアモーターカーで上海空港へ
超電導と呼ばれる物理現象の応用で強力な磁力を作り、磁石の反発と
吸引で車体を浮き上がらせると同時に水平移動をさせる。 
日本では未だ実験を繰り返しているが、上海ではいち早くドイツの
技術で実用化した。 最高時速431Kmだから新幹線の倍くらい早いが、
距離が短い為最高時速で走る時間も少なく全体で7-8分で市内から
空港に到着する。 静かに加速するが400kを超えるとさすがに多少の
震動もあるけれど乗り心地はよい。
15分毎に発車し、料金は片道50元(¥850程度)
左の写真は最高時速を示したところ。
後書き
長江の水に恵まれた江南地方は六朝文化が栄えた古い歴史をもつ
地域であり、ひょっとすると町全体が博物館のようなのではないか、
と期待もするがそれは無理な事である。 考えてみれば六朝の最後の
王朝と云っても日本の飛鳥文化よりも古い時代であり、豊饒の地で
あれば有るほど次々と変る王朝により、破壊と建設が行われる事が
当然で、建造物などがそのまま残っている事などありえない。 
それでも比較的近年に建て替えたり、補修したりと保存に力を入れて
いる事が良くわかる。 
それはそれとしても4千年の歴史を刻んだ人々を育んだ長江の流れ、
幾多の王朝の栄枯盛衰を見てきた玄武湖、或いは唐時代に多くの
文人達も往来したであろう運河、などを眺め古代へのロマンに浸ること
ができた。 
最後に上海空港で見かけたポスター、断片的にしか読めないが印象に
残ったので写真を取り、友人の知り合いである中国人留学生に手伝って
もらったがこのような事のようである。
「私たちの理想の住む所は、
青い山、清らかな水があり、鳥が囀り、花が香る
それにとても青い青い空がある
環境を護る事は自分が善くなる事に等しい」 
我理想家園
有青山緑水
有鳥語花香
還有甚藍甚藍天空

保護環境等於善待自己

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