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シルクロード吟行記
        
2006
年4月、詩吟愛好者達30名のグループ旅行に初めて参加させてもらい、中国の新疆ウィグル
自治区のウルムチとトルファンを訪問した。 これまでも話には聞き、映像なども数多く見て
きたが、実際に体験してみると改めて地球の広さ、歴史の重みを感じると共に水と緑の大切さ
を思い起こさせるものである。(20060426)

黄塵万丈、黄沙の歓迎

成田から北京へ空路
3時間程だが、其処は日本では見たことのない黄砂の世界だった。 飛行機が雲の中を延々と降下して行くと思ったが、実は雲ではなく黄砂との事。 到着してみると霧のような埃のような、昼間でも車はヘッドライトをつけるほどである。 2000km彼方、西域のゴビやタクラマカンの砂漠地帯から偏西風の乗り飛んで来、この時期(4月―5)一ヶ月ほど続くとのこと。 黄砂は今に始まったことではないが、今年は十数年ぶりの酷さという。

西域へ

北京から空路四時間、幸い黄砂も少なく天山山脈の山々を見ながら西域の真中、新疆ウィグル
自治区の区都、ウルムチに到着する。 其の昔唐の詩人、王維は長安の都から西域に転勤する
友人に送る詩を詠んでいる。 長安の近くもやはり黄塵が多かったものか。


 送元二使安西 王維    元二(ゲンジ)の安西(アンセイ)に使(ツカイ)するを送る 
渭城朝雨浥軽塵       渭城(イジョウ)の朝雨(チョウウ)軽塵(ケイジン)を浥(ウルオ)
客舎青青柳色新       客舎(カクシャ)青青(セイセイ)柳色(リュウショク))(アラ)たなり
勧君更尽一杯酒       君に勧(スス)む更に尽くせ一杯の酒を
西出陽関無故人       西のかた陽関(ヨウカン)を出(イ)ずれば故人無からん

 
註 安西 安西都護府、 後述のトルファンにあった
  王維 (701-761、盛唐、高級官僚)
  渭城 長安(今の西安)の西北、感陽の町
  客舎 旅館
  陽関 西域への通過関所、甘粛省玉門関の南、この西は今の新疆ウィグル自治区
  故人 知己、友人

ウルムチ市 (新疆ウイグル自治区区都)
天山山脈の北側高原にあり、標高700-900mで清朝時代に西域管轄の中心にしたもので、ウルムチ名は1952年から。 新疆ウイグル自治区は中国31の省、自治区の中最大の面積で全体の六分の一、日本の四倍、人口12百万人。 北はアルタイ山脈、中央に天山山脈とタクラマカン砂漠を抱え、南は崑崙山脈に接する。 ウイグル人が過半数を占め13の民族が住むという。 ウルムチ市の人口は200万余。
右は紅山公園からウルムチ市内を一望する

林則徐が何故ここに?
市内紅山公園には清朝末の硬骨の政治家、林則徐の銅像が建ち、町を見下ろしている。 彼が欽差大臣として亡国の原因となるアヘンを焼き捨てさせたことから英国とのアヘン戦争になった。  しかし正義が通らず林則徐は此処新疆に左遷され、清朝は英国に敗北する。 一方林則徐は此地でも善政を行い、住民達に非常に慕われたという。 この公園は海抜910m

新疆ウイグル自治区博物館

この博物館は日本でも有名になった「楼蘭美女」のミイラを始め、数体のミイラを展示している。 いくら美女だ美女だと言ってもミイラはミイラ、余り気色のよいものではない。 これらがこの博物館の目玉のようで他には13の少数民族の生活模型など。 変わっているのは文物、遺物も当然展示してあるが、何処までが展示物で何処からがミュージアムショップなのか区切りが良く分らない。 真剣な顔をして見ていると、いきなり説明員から売り込みがかかり面食らう。 まさかミイラは売らないと思うけれど・・・

天山天池
ウルムチから120km程北、天山山脈に少し入ったところ標高1900mの湖で長さ3km、最大幅1.5kmで芦ノ湖の様である。バックの天山の山々は美しく、標高5-6千mで氷河を抱えている。 湖はこの季節未だ氷結していた。

李商隠(812-858、晩唐の官僚政治家、詩人)は周の穆王が仙境を訪ね、西王母に会った伝説を元に次の詩を詠んだが、地元の人はこの天池こそが
揺池だという。

揺池  李商隠
揺池阿母綺窓開  揺池(ヨウチ)の阿母(アボ)綺窓(キソウ)開く
黄竹歌声動地哀  黄竹(コウチク)の歌声地を動かして哀しむ
八駿日行三万里  八駿(ハッシュン)日に行く三万里
穆王何事不重来  穆王(ボクオウ)何事ぞ重ねて来(キタ)らざる


西王母(仙女)が美しい窓を開けて
黄竹を吹いて呼んでいる
一日三万里走る馬をもっているのに
穆王は何故再来しないのだろう

風力発電設備群
ウルムチからトルファンに向かう高速道路の両側に風力発電装置が延々と林立する。 この辺は天山下ろしの風が強い地域で風力発電に適している由。 現在300基程だが500基まで増設予定との事。 今のところコストが高く、一般用としては採算が合わず、現地の化学工場専用という事である。
この付近(ウラノール)に唐時代、最前線の砦(輪台城)があり、詩人岑参(715-770、盛唐)も走馬川行奉送封大夫出師西征(走馬川行、封大夫の出師西征を送り奉る)と言う長い詩の冒頭で風の強さを以下に表現している。
平沙莽莽黄入天    平沙莽莽(ヘイサモウモウ)として黄(コウ)天に入る
輪台九月風夜吼    輪台(リンダイ)の九月風夜吼え
一川碎石大如斗    一川(イッセン)の碎石(サイセキ)(ダイ)(ト)の如く
隨風滿地石乱走    風に隨(シタガ)って滿地(マンチ)(イシ)乱れ走る


砂漠はもうもうとして天は黄色に染まる
輪台城の九月の風は夜吼える
川じゅうに砕けた石があり、大きなものは一斗もありそうだ
風が吹けば石という石が乱れ走る

トルファン市へ
トルファンはシルクロードの主要オアシスとして、漢の時代には車師前国、唐初迄は高昌国、元民の頃からトルファンと呼ばれるようになった。 古くから栄えて遺跡が多い。 現在は観光と干し葡萄が主要産業で人口25万人ほど。 ウルムチから高速道路で3時間、天山山脈の切れ目を横切り、山脈の南側にでるとトルファン盆地である。 年間降雨量は16mmと極端な乾燥地帯だが天山の雪解け水を独特な地下水道で利用している。
 
交河故城
トルファン西10kmほどの所にあり、二筋の川が交わる土の崖の上に長さ1650m、幅300mにわたり官庁、寺院、民家などの壁の遺跡が残る。 唐の時代に安西都護府があったが元の頃は廃棄された由、 日干し煉瓦でできており、雨が降れば溶けてしまいそうだが雨は降らない。 遺跡には植物は全く無く、なんとも埃っぽい。 この城を取巻く川には今でも水が少し流れており、小さな木が水際に生えている程度である。 
唐の詩人岑参は役人として此辺に勤務しており、同僚の長安への帰京を送る詩を詠んでいる
送人帰京  岑参        人の京に帰るを送る  
匹馬西従天外帰      匹馬(ヒツバ)西(ニシ)天外従(テンガイヨ)り帰る
揚鞭只共鳥争飛      鞭を揚(ア)げて只(タダ)鳥と共に争い飛ぶ
送君九月交河北      君を送る九月交河(コウガ)の北(キタ)
雪裏題詩涙満衣       雪裏(セツリ)に詩を題(ダイ)して涙衣(ナミダコロモ)に満つ


高昌故城

トルファンから東南40km程に方形で周囲5kmの高昌城遺跡がある。 現在の遺跡は隋唐時代のもので日干し煉瓦を積上げた建築物で大寺院の遺跡もある。 寺院壁には仏像も多数彫りこまれていたと思われるが破壊されたか現在は皆無である。 城内は観光用ロバ車に乗って移動するが、ここも草木は皆無で馬車は砂塵を巻上げ埃っぽい。 唐の時代には前述の交河故城を軍事拠点、この高昌故城は西域の政治拠点にしたとのこと。 どちらも元になって廃止された。  
高昌城内寺院のホール跡

元々は漢の武帝の時代の郡が独立し、5世紀末麹(きく)氏が高昌国を興し、640年唐に滅ぼされるまで麹王朝が140年余続いた。 玄奘三蔵は仏典を求めてインドへ行く途中628年に立ち寄り、王の麹文泰の庇護を受け一ヶ月ほど此処に滞在している。 其のとき三蔵法師が講義をしたのが右の寺院ホールとの事。 麹文泰の強い希望でインドからの帰りに必ずこの高昌国に立寄る約束をしたが、三蔵法師は帰ってくる途中で高昌国が唐に滅ぼされたこと知る。 三蔵法師がインドから長安に戻ったのは645年という。

ベズクリク千仏堂
火炎山の山中にあり、山肌に堂を彫り、其の中に仏教壁画が描かれている。 公開されていたのは31個の中数個である。 壁画の状態は19世紀の外国探検隊に持ち去られたもの、宗教的な理由で破壊または仏像図の目を塗りつぶされたものなどばかりで、保存状態も悪くこのままではいずれ壁画や天井画は剥離してしまうのではないだろうか。 成立は10-11世紀で一千年以上前のものだけに残念である。 ただ剥ぎ取ったものがどこか外国の博物館で保管しているのであれば現地で風化してしまうよりは良いかもしれない。 内部は撮影禁止
火炎山
トルファンの東40kmにあり, 平均標高500mの草木が全く無い岩肌剥き出しの山々で、周囲の温度が40度を越えると山肌の温度は60度を越え、赤く色が変わるという。 更に山肌の皺が赤くゆらゆら揺れて見え、まるで火炎のようであるという。 西遊記の鉄扇公主と孫悟空の駆け引きの場所のモデルで、実在の玄奘三蔵も此処を通過したという。 訪問時の季節(4月)ではまだ赤く見えるところは少なく皺のゆらゆらは見ることが出来なかった。 
トルファン付近に勤務した唐の岑参はこの火炎山について詩を残している。 1300年前もやはり不毛の砂漠の山だったに違いない。

経火山   岑参        火山を経(スギ)
火山今始見          火山 今始めて見る
突兀蒲昌東          突兀(トッコツ)たり蒲昌(ホショウ)の東
赤焔焼虜雲          赤焔(セキエン)虜雲(リョウン)を焼き
焔氛蒸塞空          焔氛(エンフン)塞空(サイクウ)を蒸す
不知陰陽炭          知らず陰陽(インヨウ)の炭
何独燃此中          何んぞ独(ヒト)り此の中に燃ゆるや
我来厳冬時          我(ワレ)(キタ)るは厳冬(ゲントウ)の時
山下多炎風          山下(サンカ)に炎風(エンプウ)多し
人馬尽汗流          人馬(ジンバ)(コトゴトク)汗流(アセナガ)
孰知造化功          孰(タレ)か知(シ)らん造化(ゾウカ)の功(コウ)

アスターナ古墳
高昌国時代の墓地で貴族から庶民まで埋葬してあるが王の墓は未だに見つかっていないとの事。 壱万坪位の場所をいたるところ掘り返している。 公開されているのは三箇所で、一箇所はミイラ、2箇所は壁画のみ。 極度の乾燥地帯であり意図せずともミイラは自然にできるようである。 中は撮影禁止、右の壁画の意味は解読されているようで説明あったが失念。
 


  現地観光ガイドブック掲載写真、戒めの図
  一枚120cm高 x 60cm幅位

アイディン湖
トルファン盆地全体が海抜0メートルかそれ以下の地域だが、ここアイディン湖は海抜マイナス154メートルで死海に次いで世界で二番目に低い湖の由。水が有るような無いような塩でドロドロした湖面である。 月光で湖面が輝くという。 アイディンとはウイグル語で月光の意味の由。 この湖への道は大型バスは通れないような荒涼とした砂漠というか、荒地というかの一本道をマイクロバス2台に分乗し2時間ほど走る。 この付近にトイレはなく全て砂丘かげで用を足し、地球環境改善に少しでも貢献する。 
その昔長安の都から安西都護府に赴任のためトルファン盆地を旅する岑参は斯く詠んでいる

磧中作          磧中(セキチュウ)の
走馬西来欲到天    馬を走らせて西来(セイライ)天に到らんと欲す
辞家見月両回円    家(イエ)を辞(ジ)してより月の両回(リョウカイ)(マド)かなるを見る
今夜不知何処宿    今夜は知らず何(イズ)れの処(トコロ)にか宿(シュク)せん
平沙万里絶人煙    平沙(ヘイサ)万里(バンリ)人煙(ジンエン)絶ゆ


磧   石ころの多い砂漠  
月両回円 満月を2回、ニケ月


カーレーズ博物館
天山の雪解け水の地下水をトルファン盆地まで引いてくるのに、地表を流したのでは蒸発してしまう為カーレーズと呼ばれる暗渠で引いてくる。 この方法が独特のもので竪穴を一定間隔で掘り、竪穴の底同士を勾配のある横穴で繋いでゆく。 天山の地下水の位置とトルファン盆地の高度差を利用したものでトルファン迄1000本の暗渠があり、其の総延長は5,000kmに達する由。 これが2,000年来のオアシスと農業、現在の葡萄産業を支えている。 所有権も、個人(金持ち)、村共同などあったが現在は国家管理とのこと。 右写真は博物館にある実際の横穴で流れている水は冷たかった。


ウイグルダンスの夕べ

トルファンのホテル敷地内にある葡萄棚の下で夕涼みをしながら見物。 動きが早くスラブ系の民族ダンスの系統か。 男性がくるくる回転するのが一瞬一瞬で圧巻だった。 バックの演奏は小太鼓、胡弓、笛など。 女性は中国人とは違う顔立ちで、かといって西洋人でもない、日本人好みの顔かも。 ダンスの後、同行メンバーのひとり、尺八の名人I先生とウイグル笛との協奏(四季の歌、北国の春)で盛り上がった。

あとがき
ユーラシア大陸の真中に立ってみた。 ウルムチは東西南北どの海にも世界で最も遠い都市で、海まで2300キロあるという。 色彩豊かな美しい景色というのは少なく、点のような人間の営みから一歩でるとそこは荒涼とした大地、砂漠、草木のない岩肌剥き出しの山々が延々と連なる。 それでも人々は営々と歴史を積み重ねている事に畏敬の念を覚える。 地平線まで続くような荒涼とした大地の所々に廃棄された大規模な集合住宅が点在する。 かって党主導で荒地開拓を目指した若者下放政策の跡とのこと。 是に限らず農村、市街地にもいたるところ廃屋が目立ち、一方ウルムチの中心には高層ビルが林立する。 都市集中と農村の過疎化が更なる砂漠化を引き起こさないよう願うものである。 今回の旅行で現地ガイドとしてカシュガル出身のウイグル人2名(35歳、25歳)のサポートを得たが、日本語はぺらぺらで中央アジアの歴史、地理は勿論、中国、日本の歴史まで良く勉強しており非常に心強かった。

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