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              銚子港 吉田松陰の漢詩
  最近下田の開国史跡を訪ね、吉田松陰の密航企ての古文書を当ホームページで紹介した。 これを読んだ銚子に住む友人から、松陰は銚子にも来て漢詩を残しており、その詩碑が残っている、と云う事で銚子案内書の吉田松陰詩碑のページを送ってくれた。 一般に江戸時代の日本人の漢詩は難しい漢籍をこれでもか、これでもかと引用して居るものが多い。 この詩も難解なところがあるが色々調べて訓点をつけ解釈してみた。
  松陰は兵学修行で江戸に滞在中に肥後の宮部鼎蔵、南部の安芸五蔵と意気投合し、嘉永四年十二月から翌五年にかけ四ヶ月余共に東北を旅行し途中銚子に立ち寄っている。 松陰はこの旅行記を「東北遊日記」という書にしており、銚子以外にも寄る所々で三人で長短五十首程の漢詩を作り、この書に載せている。 この銚子港もその中の一つであり、南部、陸奥、常陸と江戸を結ぶ中継港として繁盛している港の様子が見えるが、防備が手薄で外敵に対して全く対策が取られていない事を嘆いている。 
  ところでこの東北旅行は藩に無許可で実行したため、嘉永五年五月帰国の藩命が下り、同十二月長州藩の士籍を剥奪され実父杉百合之助の厄介(扶養者)となる。 そして此の翌々年三月下田での米国密航を企てる事になる。 

銚子港   吉田松陰     (読み下し文案)
巨江汨汨流入海     巨江汨々
(みゃくみゃく)と流れて海に入り  
商船幾隻銜尾泊    商船幾隻尾
(び)を銜(ふく)みて泊す  
春風吹送糸竹声    春風吹き送る糸竹
(しちく)の声(せい)     
粉壁紅楼自成郭    粉壁
(こへき)紅楼(こうろう)自ら郭(かく)を成す        
吾来添纜壬子年    吾れ来たりて纜
(ともづな)を添う壬子(じんし)の年 
倚檣一望天地廓    檣
(はしら)に倚(よ)りて一望すれば天地廓(ひろ)し 
遠帆如鳥近帆牛    遠帆は鳥の如く近帆は牛
潮去潮来煙漠漠    潮去り潮来り煙漠々
(ばくばく)たり
欧羅亜墨知何処    欧羅
(おうら)亜墨(あぼく)何処や知らん
決眦東南情懐悪    眦
(まなじり)を東南に決すれば情懐(じょうかい)悪し
眉山之老骨已朽    眉山
(びざん)の老 骨已(すで)に朽ち
何人復有審敵作    何人
(なんびと)か復た審敵(しんてき)の作有らん
仄聞身毒与満清    仄
(ほのか)に聞く身毒(しんどく)と満清(まんしん)
宴安或被他人掠    宴安
(えんあん)すれば或は他人の掠(りゃく)を被(こうむ)らん
杞人有憂豈得已    杞人
(きじん)憂あり豈(あ)に已むを得んや
閑却袖中綏邊略    閑却
(かんきゃく)袖中(しゅうちゅう)す綏邊(すいへん)の略
強開樽酒発浩歌    強いて樽酒を開いて浩歌
(こうか)を発すれば
滄溟如墨天日落    滄溟
(そうめい)墨の如く天日(てんじつ)落つ

(詩解)
利根の大河は滔々と流れて海に注ぎ
商船は幾艘も連なり停泊している
春風に乗って管弦の音が聞こえ
白壁の妓楼が城郭の様に並んでいる    
私は嘉永五年(1852年)ここに船を着けて
帆柱に寄りかかり一望すれば天地は広々している 
遠くの船の帆は鳥の様に見え、近くの帆は牛の様であり
潮は近づいたり遠ざかったりし、砕けて霧を発している
ヨーロッパやアメリカはどちらの方向だろうか
目を東南に移せばむかつく感じがする
北宋時代の眉山の老泉(蘇洵)は既に無く
これから誰が敵情を明らかにするのだろう
インドや満州族の清朝(中国)の事をそれとなく聞くが
安逸を貪っていると他国に侵略されるだろう
心配症の者が要らぬ心配するのは已むを得ないのか、否そんな事はない
辺境の敵を防ぐ対策が何もなされていないではないか
無理に樽酒を開けて大声で歌えば
大海原は日が落ちて墨を流した様である


注:
1.眉山の老: 蘇洵(1009-1066)は北宋時代の中国の文人で、唐栄八大家の一人、老泉と号す。 蘇軾、蘇轍の父で四川省眉山の出身、 審敵篇という文があり、敵情をつまびらかにする意味

2.杞憂: 中国春秋時代杞の国の人が空が落ちて来たらどうしよう、と心配した諺、いらぬ心配
3. 身毒、満清: 中国古代の漢籍ではインドの事を身毒としている、満清は満州族の清王朝の意味で江戸時代の文献には良く使われている。 何れも当時英国に侵略されている。
4.東北遊日記によれば松陰等が銚子を訪問したのは嘉永五年正月八日(1852年1月28日)
(原文)八日晴、経長塚本城、観海及刀根川注海処、此地状類銚子是所以名歟
戸口殷盛百貨粗備、市廛間甚有江戸様、但港口沙淤、不便通舟為憾、
聞係笠間侯信地、而守備単弱、蓋有所恃千地利歟、余乃作詩曰
 (詩)
帰松岸而宿焉、往復四里
(読み下し)
八日晴、長塚本城を経て海及び刀根川の海に注ぐ処を観る  
此の地の状銚子に類す、是が名の所以
(ゆえん)
戸口殷盛にして百貨粗
(ほ)ぼ備わる、市廛(してん)の間甚(はなはだ)江戸様あり、 *市廛:市店
但し港口は沙淤
(さお)にして、通舟に便ならざる憾(うら)みをなす、  *沙淤:砂や泥の堆積
笠間侯の信地に係ると聞く、而
(しか)して守備単弱なり、蓋(けだ)し地の利に恃(たの)む所あるか、
余すなわち詩を作りて曰く
  (詩)
松岸に帰り焉
(ここ)に宿す、往復四里なり
5.吉田松陰(1830年−1859年)思想家、兵学者、安政の大獄で刑死
6.袖中: 手をふところに入れて
7. 宮部鼎蔵(1820-1864)熊本藩士、尊王攘夷派、 池田屋事件で新撰組に襲われ自刃
8. 安芸五蔵(1827-1879)南部藩士、儒者、江幡五郎、那珂悟郎とも云う。 明治初期文部省勤務

銚子川口神社三の鳥居脇の碑 (写真は銚子在住友人提供)
碑表には松陰先生曽遊之地 蘇峰正敬八十一と徳富蘇峰の揮毫、裏には銚子港の漢詩刻印あり。 

参考:
日本思想体系54 岩波書店
東北遊日記(原文) 国会図書館、近代デジタルライブラリー


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