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1843年(天保14年)オランダ別段風説

 和蘭暦数一千八百四十二年天保十三年寅より一千
   八百四十三年
天保十四卯年に打続候於唐国阿片
   一件ニ付、差記候格別之事共記録いたし候事
1842年より1843年の中国における阿片の事件について
要点を記録する。
一此以前之風説ハ和蘭暦数一千八百四十二年四月
 
天保十三寅年五月初旬迄之儀ニ而、則エケレス人唐国
 北圏ニ押寄勝利を得候儀有之、且又其辺江有之候
 城市数多を押領し、大利を得唐方を甚取挫候儀ニ
 候
一此以前相演候通、唐国とエケレス人は互ニ相憎ミ不
 断戦争も続申候、エケレス人相用候兵器之弁用都
 合能、勇気不撓敵対セハ何れ一度ハ唐国帝手を
 下し候様可相成、然時ハエケレス人之大利と相成、
 和熟談合之導とも可相成、且先年より仕来候商売
 是迄より手広可相成見込ニ有之候
  (中国北部への侵攻により英軍有利)
○是以前の報告書は1842年4月初旬迄の事柄であり、
英軍が中国北部に侵攻して勝利した事、そしてその
地域にある城市多数を占領し、大利を得て中国側を
圧倒した事である。

○前に述べた様に中国と英国は互いに憎悪し、戦争も
続いている。 英軍が使う兵器は勝れており、彼らが
怯まず攻撃すれば最後には清国帝も手を下ろさざる
を得ないだろう。 そうなれば英国の利となり和睦交渉
も始まり、今までやって来た商売も従来より大きくなる
見込みである。。
一広東之儀ハ以前之風説之末ニ有之候通、其以来
 穏ニ有之候
一広東右之通、引続静謐候処、河之内外ニ伶俜ひ候
 海賊共夥敷、日ニ々々相増し是迄之ごとく小船等を
 奪取候儀ハ無之候得共悪業追々増長シ、既ニ上陸
 いたし町家ハ勿論、村邑ニ押寄セ諸品奪取候事抔
 有之騒敷有之候
一右様之儀ワンポー
地名から三四里隔候ボンコン村
 并セイヘン村辺所々ニおひて有之、尤其折ハ毎も
 盗賊者夥敷候而、村役人者防得不申、数多之家々
 就中ゲルーウィスセラールス
金銀両替渡世する人
 家々ニ押寄、家財或ハ金銀等沢山奪取申候
一ワンポー地名広東之間ニ防禦し要害を拵候ため
 唐人等出精いたし、新所之砦之礎を据へ、日々
 アミユニテイー焔焇鈆等のごとき火術の用之品の運方夥敷
 有之候
  (広東の戦争小康状態と海賊の跋扈)
○広東は前回報告の最後に述べた様に、その後平穏
である。

○しかし戦争は平穏だが、河の内外に跋扈する海賊
が多数居り、日一日とその数が増えている。 今までの
様に小船を奪い取るようなことはないが、益々凶悪に
なり、上陸して街の民家は勿論、近隣の村々に押寄せ
あらゆる物を奪い取る等で騒然としている。

○この様な略奪はワンポーから3-4里隔てたボンコン村
やセイヘン村辺でも起きている。 このような時は盗賊
も多数であり、村役人も防ぎようが無い。 多くの家々
中でも金融業の家に押寄せ家財や金銀を奪っている

○ワンポーと広東の間に防禦の要害を建造する為
中国人が汗を流して新砦の基礎を作り、毎日火薬等
の運び込みも多い

一ホンコン島は諸事都合宜敷、且エケレス并唐国商
 売之居住、日々相増候ニ付商売専らの場所と相成
 商業格別盛にて繁昌最も弥増相成申候
一以前ニ有之候通、和蘭二月一日
丑十二月廿一日ホン
 コン島到着いたし申候エケレス方之大将、プレニ
 ポーテンテイヤリス
官名ヘンレイポッティンケル人名
 よりエケレス人に達候ハ本国ニ而猶又評議ニ相成候
 何れホンコン島・チンハエ
舟山島之内はフレイエハー
 フェン
国々通船の湊と相定、決而運上等を取べからず
 何国之船ニ而も通船を相許可申趣、扨又此達之節
 ニ申付候は、アモイ
地名の湊にコロンクワーに押寄
 可申旨、并諸事平均いたし候迄ハ何れ本国江引取
 候儀ハ叶へからざる旨申聞候

一広東辺之義ハホッテインケル人名におひてハ手を
 付けず、尤船繋り場所之辺ニ台場を築候迄、其所
 之支配人之砦をもつて防方をなさしめ置申候
  (ホンコンの発展の兆しと自由港構想)
○ホンコン島は色々な面で便利であり、英国及び中国
商人が居住して日々商売が増加し繁昌の地となる。

○既に述べた様に1842年2月1日にホンコンに到着した
英国の全権使節ヘンリーポッティンジャーが在住英人
達へ通達した。 それは未だ本国で検討中であるが、
何れホンコンと舟山島の定海は自由港とし税金を免除
して、どの国の船でも出入り許可する方針である。 

又その時同時に通達した事は、アモイの港コロンス
島を占拠する事、及び全てが安定しない限り英軍が
撤退する事はないと。

○広東についてはポッティンジャーは手を付けず
只船の繋留場所付近に砲台を築き、そこに監視者を
おいた程度である。


チンハエ: Dinghai ティエンハイ 定海(舟山島内)
コロンクワー: 鼓浪島、コロンス島 厦門(アモイ)の島

一広東におひてハ安寧和熟の様子候得共、夫に反
 して北方におひてハ戦争甚敷有之候
一既に記録いたし候戦争之後もエケレス人等は再び
 手強く挑戦之用意いたし罷在申候、偖又舟山諸軍
 之大将ヒユグゴウグ
人名はハンシヲーフエイニン
 ホーより四百里程隔候セキアンの城郭
を押寄候儀を存付
 候得共、数隊之唐軍ユウヤワ
地名の近隣に屯し居
 候ニ付、先右唐軍を追散候末にてハハンシヲー
 フヲー
地名に出張すへき決心いたし候
一追々の戦にて此挑戦ハ追々の軍配の変化して
 後を継かず、此事次章に明ニ有之候

一和蘭一千八百四十二年三月十一日寅正月晦日 
 広東より爰に専ら風聞あるを達せしは、北京高官
 のものにおいては、烈敷計らいも可致筈之処、唐帝
 エケレス人を唐国より駈尽さんとの儀ニ付、柔弱
 なる命令を下せしにより不和発らんとせし由、
 唐帝其命令を発せざるゆえ帝位も傾く様ニ被相成
 候由
一第三月初旬
寅正月下旬ニンポー地名シンハイ地名
 おひて烈敷合戦に及びし時は、唐人共不意ニエケ
 レスの軍勢に攻寄、打亡さんとの心得に候処、エケ
 レス人等都而謀計を廻らし防禦いたし候ニ付、唐勢
 数多之軍兵を失ひ、是非なく敗走せん程に募り
 心願空敷相成申候
  (北方での戦争の継続と中国上層の不和)
○広東では落着き平和の兆しもあるが、それに反し
北方では戦争が烈しくなっている。

○既に北方の戦争の事は前回述べているが、其後
英軍は更に攻勢を強めている。 総司令官のヒュー
ゴーは寧波より4百里程はなれた浙江省の城郭がある
杭州府を攻める事を計画したが、多数の中国軍が
ユウヤワの近隣に展開しているので、先ずこの中国軍
を追散らしてから杭州府を攻める事にした。

○後の実際の戦いで計画は変り、継続しなかったが
この事は後に述べる

○1842年3月11日、広東からの噂では北京の高官達は
英軍に烈しく抵抗する事を主張しているが、皇帝は
はっきりしない為に内部で不和が生じているという。
皇帝の命令がないので、帝位も傾いているという。

○1842年3月初旬、寧波と鎮海での激戦の時は
中国軍が突然英軍を襲い殲滅しようとしたが、英軍の
作戦により中国軍は多数の兵を失い、余儀なく敗走
する事になり目論見は潰れた。


ハンシヲーフェイ:Hangzhou 杭州府(浙江省の省都)
セキアン:Zhejiang 浙江省
シンハイ: 鎮海 (現寧波市鎮海区)
ユウヤワ: Yuyao 余桃(現余桃市、寧波と杭州の間)
             以下阿片招禍録         以下阿片招禍録
一唐人等一統強勢のエケレス人との合戦いたし候を
 相恐れ候義者是迄数度の戦争にて相知申候、
 其故者戦死致候者は度々相改候者袂に三四トル
 ラルス
ドルラルス凡銀十匁七分五厘貯居候を以て考候
 処、全く軍兵等自分出陣致し候義を相恐れ、給料
 にて他人を雇ひ候義紛れ無之候
一亜瑪港に赴きたるヒュグコウ
人名より前条の趣、且
 左の歴文の趣左に記候
一唐方にて軍議一決不致、無益に日を送候所、
 英吉利人等は兼て出陣の用意致居候間大に
 待兼居申候
一終にハ第三月十日
寅一月廿九日の鶏明の頃、唐勢
 凡一万二千人程も寧波の南門・西門へ押寄、ワル

 城市の外構
を越し城市中に攻入、敵に出逢戦候処、
 一瞬に其場を敗走致候由ニ候

一唐勢南門を立退候節英吉利より大砲を打掛候処、
 屯し居る唐勢二百五十人程城塀内にて打伏られ候
 由ニ候
一ワル
外構にて右取合の最中に唐人とも数艘飾りたる
 火船を河に流候処、英吉利人ストームボート」
 セリスチリズ
船名の端船を遣し、右火船を中に引入
 申候
一エケレス人は毎々唐方を挫し候末、右ワルに大砲
 一挺備へ、東手のフォールスタット
外部市街の河に
 向け置申候、左候得者フォールスタットに打掛候に
 勝手宜敷故に有之候
     (中国が寧波奪回に失敗)
○中国人達は強力な英軍との戦闘する事を恐れて
いる事が是迄の数回の戦いから分った。 それは
戦死者が時々3-4ドルラルス(1ドルラス銀十匁七分
5厘)を袂に貯えている事を考えると、兵は自分が出陣
する事を恐れて他人に給料を払い代わりに出陣を
頼むに違いない。

○マカオに到着したヒューゴウは日誌に前項及び
次項を記している。

○中国側は作戦の決定が迷走し、無駄な日々を送り、
一方英軍は常に作戦の準備が出来ているので、命令を
待ち構えている。

○1842年3月10日明方、中国軍1万2千人が寧波の
南門と西門に押寄せ、城の外郭を乗越えて市内に
入ってきたが英軍と遭遇して戦闘の後直ぐに敗走した
という事である

○中国側が南門から立退く時に英軍が大砲を打掛け
250人が城の壕の中に打ち落されたとの事である

○外郭で戦闘の最中に中国側は数艘の焼討船を河に
流したが、 英軍蒸気船セリステリス号が艀を使って
これ等焼討船を誘導した。

○英軍は毎回中国側を退けたが、外郭に大砲を1挺
備え東側の外郭市街の河に向けた。 これは外郭市街
に打掛けるのに都合が良い。

一唐人ともシンハエ
地名に押入、甚手弱く此城市の
 北方にて戦争に及候所、唐方直様敗走し、死亡凡
 三十人に及候間マンダレイン
唐方の官名二人有之候
一此合戦の間に湊に繋居候英吉利船を焼打候為、
 唐人等火船をその繋し船近く押流し候所、右火船は
 エケレス船より遠く浜辺に滞り、寧波にての如く其計
 空敷相成申候
一右之通唐方敗軍に及び候以前、斥候として舟山
 よりタイサン
地名に蒸気船ネメシス船号差出候処、
 唐軍兵などティンハエに在るエケレス勢に押寄可申
 為集居候様子に相見申候
一右船其地着岸の上、コムマンダント
官名は軍兵を
 上陸せしめ、敵軍に押寄候所直に唐人等大砲を以
 相防候末、利なくして敗走致候、此節唐方の死亡凡
 三十人程有之候

一寧波・シンハエ地名にての如く、右合戦の節も
 エケレス方には死亡壱人も無之候
      (中国側鎮海奪回に失敗)
○中国側は鎮海に侵攻したが極めて弱く、城の北側で
戦闘があったが直ぐに敗走し死亡30人程で将校も
2人含まれる。

○この戦闘の間に繋留している英国艦を焼討しようと
火船を艦の近くに流したが、火船は英艦から遠く離れた
浜辺に漂い、寧波の時と同様失敗に終わった。

○中国側が敗れる前に、英側は偵察の為に舟山から
タイサンへ蒸気船ネメシス号を派遣したところ、中国勢
は定海に駐留する英軍に押寄せるため集結している
様子が見えた。

○そこでネメシス号は同地着岸の上、指揮官は兵を
上陸させ中国軍を攻めたところ、中国側も大砲を打ち
防いだが、不利と見て敗走した。 
この時中国側死者は30人程である

○寧波・鎮海では戦闘の際も英側の死亡は一人も
なかった。

一右取合の末申来候ハ唐人等寧波より西方に当り
 十里程相隔候ウェーケー街に凡八千より一万程の
 軍勢を相備居候由に候、右軍勢ハ此頃の敗軍にて
 其地より四十里程相隔候ピークワン
地名に立退可申
 様子に相見候故、 ヒュグコウグ
人名は直に進発し、
 右唐勢彼地を引払不申以前に押寄可申と決心致候
一彼首将は右ニ付、和蘭三月十五日
寅二月四日早朝に
 兵卒都合千百余人ストームボート、ネメシス
船号・プレ
 ゲトン
・クイーン同三艘に乗せ出帆致し、川を十六
 里航走り、エケレス人上陸の上六里程打進ミて昼後
 七時にツエーゲー
地名に致到着候
一唐人等は敵軍押寄来候を承知し、数挺の大砲を
 城市のワル
構の名に備置、エケレスに対し放火し一隊
 の唐軍出て立候所、エケレス方より小キ野戦砲を打放
 したれは速に引退き申候
一エケレス勢右ワルに押寄候処、此處にては唐勢
 格別防禦致し候様ニも相見不申候て、二ヶ所の山に
 陣を取居候ニ付、英吉利勢ハ右城市を通り其陣所に
 押寄申候
      (慈渓の戦闘)
○これらの戦闘の後、中国側は寧波の西10里程の
慈渓に凡そ8千から1万ほどの軍勢を揃えていたが
最近の敗戦で、其地からいたが40里程隔てた
ピークワンに撤退する様子である。 ヒュグゴウは直ぐ
進軍し、これら中国側が其地から去らない中に攻撃
する事を決めた。

○1842年3月15日早朝、司令官は兵1300余を蒸気船
ネメシス、プレゲトン、クイーンに乗せて出帆し、川を
16里遡り上陸して6里程進み、午後4時頃ツエーゲーに
到着した。

○中国側は英軍が押寄せて来たのを知り、数挺の大砲
を城市の郭に備えて英軍に発砲し、一隊の中国軍が
出てきた。 しかし英軍が小型の野戦砲を打ったところ
直ぐに引下った。

○英側は城郭に迫ったが、中国ここでは防ぐ様子は
なく、2ヶ所の山に陣を立てているので、英軍はこの城
市を通過して山に押寄せた。


ウェーケー: ツエーケー Tzeki 慈渓か
(現寧波市慈渓区) 

一エケレス方の軍令には早々進ミ敵軍にかゝり追散す
 べしとの趣に候故押寄候所、唐方も少しも屈せず
 度々戦を挑ミ、絶へず放火いたし候をもエケレス勢は
 恐れず、勇気凛々として山上に責登り、唐軍を四方
 に追散し候末、彼是致し終に晩気に及び申候
一右山上の合戦最中にエケレス方はエメシス
船号
 プレゲトン
ストームボート二艘を彼大河の枝流に
 出し、唐方にて数多の火船・カノンニールボート
石火矢
 を備へたる軍船
を以、備有之場所に遣し毀却為致候末、
 唐方の陣中より逃走候とも近辺に来候節者、右
 ストームボートより軍兵を下し追払はせ、敵対を致さる
 様致置候、
一所々より申来候ニ者唐人等右合戦の砌は平生より
 格別勇猛を現し候由にて、其節戦死の者千人、手負
 の者許多有之内、高官の者も有之候由
一エケレス方戦死の者只三人にして深手の者は数人
 有之候
一エケレス人等合戦挑の後、同月十五日
寅二月四日
 昼ハ唐人等立退き候陣所に居残り、翌日ハ唯用達
 へき「アミニュチン」玉薬を船積し、叉大砲・武器を
 毀ち、叉陣所砦に火を掛申候、其後英吉利の首将
 は「ツエーケー」より七里相離候「シャンゲパス」
地名
 の側に有之候唐方第二の陣所に軍兵を差向申候
一英吉利人等其地に到候所、唐人等自分其陣所の
 諸構等相毀ち、悉く皆焼払候末夜中に立退候と相
 見申候間、エケレス勢はツエーケーに立帰候後、
 和蘭三月十七日
寅三月六日に寧波に帰陣致し候
   (慈渓の作戦終了し寧波に英軍帰る)
○英軍の作戦は素早く進み、敵軍を追散らすと言う事
で攻め掛けたが、中国側も負けずに度々戦いを挑み、
砲火を浴びせる。 英軍は恐れず勇猛に山上に攻め
登り中国軍を四方に追散らした。 

○この山上の戦闘の最中英軍はネメシスとフィレゲトン
の蒸気船2艘を大河の支流に出して、中国側が火船や
砲艦を備えている場所を攻撃し破壊した。 中国側
陣中から逃げる者達が近くに来れば、蒸気船より兵を
上陸させ追払い、敵対できない様にした。

○情報によれば中国側はこの戦闘は特に勇猛だった
様で戦死千人、負傷者多数で高官の者もあったと言う

○英軍の戦死は3人だけで重傷の者数人あった

○英軍は戦闘後、同3月15日の昼には中国側が撤退
した陣に残り、其翌日は役に立つ火薬を船に積み、叉
大砲や武器を破却し、更に陣や砦に火を掛けた。 
其後英司令官は慈渓から7里程離れたシャンゲパスに
ある中国側第2の陣地へ兵を進めた。

○英軍がそこに到達すると中国側は自ら陣所の構えを
毀し、すべて焼き払い夜中に立退いた様子だった。
英軍は慈渓に戻り3月17日に寧波に帰った。
一広東にては諸事穏に有之候、扨叉和蘭一千八百
 四十二年四月十六日
寅三月六日彼地より申来候にハ
 唐帝の命令を受け、其地在住の唐官の者ホッカ
地名
 に堡砦を築くへき用意を致居候ニ由、、右実否相糺、
 若哉其用意致居候ハヽ打毀可申為、英吉利勢は軍
 船ホークレイ
船号・アリヤットね二艘をホンコン地名
 亜瑪湊より彼地へ仕出し申候
一ホッカー
地名の内海に右の船に乗入候処、唐方にて
 は大に騒ぎ、既に其湊辺ニ砦等を築へきとの事も取
 止め候と相見へ申候

一同月十九日寅三月九日広東より申来候ニ者、数多の
 荷物并金銀を積込有之候エケレスの商船デアン
船号
 台湾の湊辺に打揚候所、唐人等其乗組の者共を悉く
 生捕候趣ニ付、エゲレス人等は右擒の死生如何と存
 大に心痛いたし右救ひ且金銀とも取戻可申為、軍勢
 を彼地に差向可申候由ニ候、扨叉唐人等は右擒を
 若哉取扱悪くいたし候ハヽ台湾の内唐国の領地は
 悉く毀却すへしとの趣に候
    (英国商船台湾で難破情報)
○広東は全般的に静かである。 1842年4月16日に
広東からの情報では、国帝の命令によりボッカに砦を
築く用意しているとの事である。 この情報の真偽確認
を行い、もし事実なら破壊すべく英側はホークレイ・
アリヤットネ号軍艦2艘をホンコン及びマカオから出航
させた。

○ボッカの内海に上記船を乗り入れたところ、中国側は
大いに慌て、既にその辺に築こうとした砦も中止した
様子である。

○1842年4月19日の広東発情報によれば、大量の
荷物と金銀を積んだ英国商船デアン号が台湾の湊辺
で難破し、中国人が乗組員全員を逮捕したとの事で、
英国人達はこの捕虜の生死を心配して軍隊を台湾に
出動させたとの事である。 もし中国人が捕虜達
を虐待したら、英軍は台湾内の中国領地は全て破壊
する積りである。


ボッカ: 珠江(広東の川)が珠江河口の出る地域で
 ボッカチグリス叉は虎門とも云
デアン号:The Anne 、アン号として後述
一和蘭四月廿六日寅三月十六日の便に申来候者、広東
 の近辺にては海賊相増し、様々の悪業日々に募り、
 商人等身命財貨を厭ひてハ暫時も商売遂難き程
 盗賊其近海に満充居れりとそ
一右等の儀広東及びホンコンの近辺にては追々増長
 致し候而已にあらず、大凡其地の在方の渚はウヲー
 クツン
地名の渚までも其勢押移り申候
一一躰の模様右之通に候得者唐人等は其支配の海
 河にて唯其防ぎの儀を専ら致居候所、英吉利方にて
 は同様強盗有之候てハホンコンの繁昌にも相障候事
 ニ存し、其防禦のためホンコンのエスカードル一組の
 軍船の内小船数艘を仕出し、広東川の内カブセン
 モーン・テェンホーに備置申候、此両所はホンコン通
 商の船、是非通行可所ニ候得共、盗賊等も船々に
 襲ひかゝり候に屈強の場所と存、自然と相集候ゆへ
 の義と被存候  
一ホンコン
地名に居住致候唐人の内、海賊に組し候者
 も有之候由にて一統悪心を挟ミ居候と相見申候、
 依之其地の役所にて者右悪業を吟味し、糾明の上
 諸人に見せしめの為可処厳科との事にて穿鑿最中
 ニ候
     (広東ーホンコンの海賊対策)
○1842年4月26日付の情報では広東近辺で海賊が
増えて各種の悪業をなすため、商人達は財産や生命
の危険を思い、商売が難しくなる程盗賊が近海に充満
していると言う

○海賊は広東やホンコン近辺で増加するだけでなく
範囲も地方の海岸、ヲークソン辺まで広がっている。

○全般的にこの様な状況で中国人もその支配する
海や河で海賊対策を行っている。 
英国側でも強盗
が蔓延ればホンコンの繁栄にも悪影響がある為、対策
としてにホンコンの艦隊から小船数艘を宛て広東の
川辺カブセンモーンやテェンホーに待機させている。
この両所はホンコンと広東の通行の為通過必須だが、
海賊にとっては商船を襲う好都合の場所であるので
当然海賊も集まると考えられる。

○ホンコンに居住する中国人の中には海賊に強力
する者もあるようで、彼らも一緒に悪事を企んでいる様
である。 このためホンコンの役所でも内通を取り締まり
裁判の上、見せしめの為に厳科に処する事を検討中
である

一此頃広東に申来候儀にハ、唐帝ハ「エケレス人北京
 に押寄来候を恐れ韃靼に引退き候由に候、其以前
 唐帝家臣に命令を下し候ニ者、エケレス人を厳敷
 防禦すへしとの儀に候
一右風説弥事実と相定可申証拠は絶て無之候
一エケレス人等は一旦勝利を得て其領地に立帰候共
 追々様々の計策を廻らし是迄数度の勝利の勢に
 任せ勇敷拒敵し、速に此戦争の発端目当と致候
 事を仕遂可申との儀ニ候
一ハンシヲウフヲーに押寄候義、既に久敷取止に
 相成居候を今度再びヒュグロウグ
人名思ひ立其用意
 専らに候
一右一件ニ付其地に差越へき軍勢格別許多有之候ハ
 全其首将此外にも手を入るへき所存有ての事ならん
一コロンソー
地名の備兵の内より一手の軍勢を分ち
 為加勢ストームボート」セツスチリス
船号を以寧波に
 差越申候
一寧波・シンハエ・テインハエにはエケレス軍勢
 凡ハ引払ひ、僅の備兵を相残し置申候
一右出軍のため集り候其勢は都合三千人有之候て、
 一千八百四十二年五月十一日
寅四月二日船山に於て
 ストームホート」ブロンテ
船名・モテステ・コリュムヒね
 ・アルゲリねに備を立、フィーセアヂミラール
官名
 ハルテル
人名乗船罷在候コルンワルリス船号一同
 ハンシヲーフォー
地名より北方に当り数里相隔候
 ツイーンタンの川口に志し出帆致候
    (英軍、杭州府攻撃を準備)
○最近広東に伝わった情報では、国帝は英軍が北京
に攻込むのではないか、と恐れて満州へ動座に由。
その前には家臣に命令を下し、英軍を厳重に防ぐ様
との事だった由
○この情報の真偽を確かめる証拠は全くない

○英軍は一旦勝利を得てその領地に戻っても、次の
作戦を立て是迄数度の勝利を得た。 この勢いに任せ
勇敢に挑戦し、この戦争の目的を達成しようとしている。

○杭州府を攻める事はここ暫く中止になっていたが、
ヒューゴウは今度再び思い立ち準備を進めている。

○出撃する部隊は特に大編成である事から、司令官
の考えは外にも目的があるに違いない。

○コロンソーの守備隊の中より一部を抽出して、応援の
為蒸気船セツスリス号で寧波に行かせた。

○寧波、鎮海、定海では英軍は大方引払い、僅かの
守備兵を残している

○この杭州攻撃の為に集めた兵は3,000人であり
1842年5月11日、舟山で蒸気船、ブロンテ号、モデステ
号コリュムヒネ号アルゲリネ号を武装し、パーカー少将
の旗艦コリンウオールス号が率い、杭州府より北方数里
隔てた銭塘江の川口を目指して出帆した。


コロンソー: コロンス島(厦門の港前の島)
コルンワルレス Cornwalls 1809トン、砲60門、帆船
          Willam Parker 少将の旗艦
ブロンデ: Blonde 1103トン、砲46門、帆船
モデステ: Modeste 562トン 砲18門 スループ
コリュムヒネ:Columbine 669トン 砲18門 スループ
アルゲリネ:Algerine 297トン 砲10門 スループ
ツイーンタン: チェンタン川(銭塘江)

一前に記録致候通、エケレス人等所々引払候末唐人
 等は右場所を再び押領せんと相計り、終に舟山の内
 大凡きり従へ申候
一和蘭五月廿五日
寅四月十五日舟山島より申来候者
 彼地に相残居候エケレス軍勢ハ僅三百人に足らず、
 右の通ニて既に唐方の手に落居候場所の守として
 ヨスソウシル
山の名に右備罷在候
一唐方にても同様軍勢を集め有之候者全く右陣所に
 相備罷在候エケレスの小勢出張いたし候節、速に
 勢を出すへき用意と相見申候
一唐人等ハ「エケレスの備兵に仇をなし、且糧道を
 断へきを専ら相計り申候、 扨叉出張致居候者出立
 致候後は折々陣に残し置しエケレスの船々に向け
 火船を流しかけ候得共エケレス船は幸にして悉く
 其難を相遁れ申候
一コランソー
地名に相残居候英吉利軍勢共敵方より
 右同様苦挫を受申候 

一エケレス人等チンハエを引払ひ唐人等再び領し候
 得者、ヘンレイポテンチャリス千八百四十一年
天保
 十二丑年
英吉利軍勢に申達し置候事とハ大に相違
 仕候、右達の趣も唐国にてエケレス人の望を聞済
 不申間は決てチンハエ并其属地は唐方に返すへか
 らずとの儀にて候、尚叉一千八百四十二年二月

 寅二月
にプレンポテンチャリス官名申達候趣ハ
 「ホンコン并チンハエをフレイエハーヘン
国々通商の湊
 の義と定め、将又エケレス勢其島に相備罷在候間、
 コロンソー
地名通商の船々に扶助すへきとの義ニ候
 処、チンハエは今既に唐方の手に落居候ニ付、
 商売など其商業を唐国北方の地にて営ミ申度様子
 ニ候得共、強勢の扶助無之様相成候事故右□売
 の望も全空敷相成申候

一テインハエ唐方の手に落候儀ニ付、当時エケレス人
 等一統迷惑致居候、依之エケレス軍兵等立戻り再び
 其地を取返し可申、其上にてハ唐方との合戦平均に
 相成迄ハ容易に唐方に渡すへからずとの義に候
    (舟山島定海を中国側が奪回)
○前にも述べたが英軍が所々撤退した後を中国側が
再占領しようと計り、終に舟山の中は大方取り戻した。

○1842年5月25日舟山島からの情報によれば、彼の地
に残っていた英軍は僅か300人程で、中国側に占拠
されたので、ヨスソウシル山に立てこもった。

○中国側も軍勢を集めて、英守備隊が出撃すれば
直ぐに対応しようとしている

○中国側は英守備隊に報復し、糧道を断とうとしている
叉艦隊が去った後に残してある守備隊の船に火船を
流し焼討を図るが、英船は幸いその難から逃れた。

○コランソーに残っている英軍守備隊も、中国側から
同様の苦戦を強いられている。

○英軍は定海を撤退後、中国人が再び取り戻したので
ポッティンジャーが1841年に英軍に通達した事とは大に
違っている。 彼は中国が英国の希望を受入れる迄は
決して定海並びその属地は返還すべきではない、と
云っていた。 

また1842年2月にはこの全権使節が云った事は、
ホンコン及び定海(舟山内)を自由港とし、英軍がその
島を守り、コロンス島や通商の船を保護する事だった
しかし定海が今は既に中国側に手に落ちているので、
強力な軍隊の保護がない今、皆が中国北方で商売を
期待していた希望が断たれた。

○定海は中国側の手に落ちているので、英国商人達
は困っている。 従って英軍が再び舟山に戻り、その地
を取り戻した上、中国との戦争が決着する迄は簡単に
中国に引渡すべきではない、と云う意見である


コランソー; コロンス島(アモイ)

一ヒュグコウグ
人名エケレス人を右の通、所ニより引払
 ハせ候得は全く自分の軍兵を自由に廻し計策をなす
 に、尤肝要の義と相考へ右之通に致候事と相見申候
一ハンシヲウフヲーにエケレス軍勢を差越候節、途中
 に於て其模様を変し、其地の近辺ツイーンタンの
 川口に有之候シャホー
乍浦に最初に押寄可申決着
 に相成候
一エケレス軍勢を彼地へ差越へき為仕出し候ストーム
 ホート一千八百四十二年五月一七日
寅四月八日昼後
 無滞着船致候
 シャポーは唐国中の最繁昌の地にて山有之を□□し
 殊更堡砦等を以て要害をなし、叉海手は一文字形に
 台場を築き堅固にし、その郭堀中に凡八千余の軍勢
 備へ有之、其内千七百人は韃靼人の由に候
一エケレス勢は和蘭五月十八日
寅四月九日其城市より
 二里隔候シレヤと申候岬に陣を取候得者、唐人等は
 少しも拒敵いたし不申候
一エケレス勢は山々に登り軍列を整候中、軍船よりは
 浜手に有之候四十二挺備の台場に向ひ放火致候処
 唐人等も右台場より打掛申候、右矢先をエケレス勢
 七百人軍船にて相防ぎ上陸致し、速に挫き難なく
 責取申候末、同所に居合候敵兵は悉く城市の中に
 追込申候
一ヒウグコウグ
人名は二備の軍勢及び大筒備の勢の
 首将となつて山の頂上を越し相進ミ、叉他の一軍は
 其麓に進むハ全く他方に居候敵軍に攻掛候ために
 候
一エケレス勢は右の通り右廻りをなし候末、唐方の
 惣勢右街衝に退去いたし候を能々一見致さんが為
 其城市の小山に登り申候
       (英軍杭州を目指す)
○ヒューゴウは英軍を場所によっては撤退させ、完全
に自分の兵を自由に動かして作戦を遂行する事が最も
大切と考え、 前述の様な事も起きると思われる。

○杭州府に英軍を進める途中、作戦を変更して、
銭塘江の川口にある乍浦を初めに攻める事を決定
した。

○英軍を乍浦に輸送する蒸気船は1842年5月17日
昼下がり遅滞なく到着した
乍浦は中国でも繁昌した場所で、囲んでいる山に
更に砦を作り要害となし、海岸線は一文字に砲台を
築いて固めている。 城郭には8千余の軍勢を備えて
その内1,700人は満州兵との事である。

○英軍は1842年5月18日に乍浦城市より2里程隔てた
シレヤという三崎に上陸して陣を築いたが、中国側は
全く攻撃してこなかった。

○英軍は山に登り軍列を整える間、軍艦からは浜手に
ある42挺備えの砲台に向け砲門を開くと中国側も
砲台より応戦した。 この矢先に英軍700人が砲撃の
援護の下に上陸して砲台を占拠し、そこに居合わせた
中国兵を全て城市内に追い込んだ。

○ヒューゴウは2隊の歩兵及び砲兵隊を指揮して山
の頂上を越えて進み、叉外一隊は山の麓に沿って
進み、これは他方にいる敵兵を攻めるためである

○英軍は前述の様に右廻りに城市に侵攻し、役所内
に退去した中国軍の様子見るために城市の小高い
山に登った。


1.乍浦: 現平湖市乍浦鎮 日本並び東南アジアとの
  貿易港として栄えた
2.韃靼兵 清国を築いた満州族部隊、精鋭とされた
一エケレス人は川向より小銃・大砲を唐人等に雨霰
 の如く打掛候ニ付、唐勢大に敗走し、其ため大に
 破軍いたし候
一エケレス人等は引続右敗兵を城市中迄追行候処、
 エケレスの内にも死込の者有之
 殊に右之通勝利の半甚危く有之候ハ右城市の
 一家に三百の韃靼人相備有之候て、斯く厳敷防禦
 可致と相堅居申候
一エケレス勢は右待伏有之候は夢にも不知相進ミ候を
 其侭行過させ置、右唐勢は後軍を見掛烈敷放火
 いたし候
一エケレス人等は右ニ付其家に押寄候処、唐方にても
 手強く防戦致候ニ付、エケレス勢も大に攻あぐみ候末
 右家に大砲を打掛直様焼払候故、強勇の韃靼勢も
 無余儀立退申候
一唐軍悉く是迄死を遁れ罷在候処今既に打殺され
 或は突殺され候て三百人の内只二十人生捕と相成
 申候
一右合戦の節者エケレス方にても許多の兵卒并二人
 の将戦死致候ニ付、エケレス勢一統相歎き候
一韃靼勢の後家ニエケレス勢入込候処、其所に居合
 候許多の女とも大に恐れ、最初自分の子供を殺し
 後縊死候様子に相見へ申候
一唐人等何故エケレス人を賎しめ候か、エケレスの
 性質を不廉直と致候哉、エケレス人等に誠に不承知
 に有之候
一エケレス人シャホーを攻取候節に唐方の死込は
 千二百人より千五百人にも及候由に候
一エケレス人其城市を攻取候上所々の武具蔵、煙硝
 蔵は打毀ち、大砲八九十挺其外武器数多侵塩致し
 候
        (乍浦の市街戦)
○英軍は川向から小銃、大砲を中国兵に雨霰の様に
浴びせたので、中国側は敗走し軍全体が乱れた。

○英軍は引き続き敗兵を追跡したが、英軍にも死傷者
が出た。
特にこの勝利の半ばで極めて危険な事もあった。 
市内のある家に300人の満州兵が待機し、徹底抗戦
を覚悟して守っていた。 

○英軍はこの待伏せ全く予想せず、進撃してこの
場所を通過した。 上記満州兵は英軍の後ろから烈
しく攻撃した。

○英軍はこの家に押寄せたが中国側も烈しく防戦し
英軍も攻めあぐねたが、砲火を打掛け焼払ったので、
剛勇の満州兵も仕方なく立退いた。

○中国軍は是迄戦死から遁れる事が多かったが、ここ
では射殺され、突き殺され300人の内僅か20人が捕虜
となっただけである。

○この戦闘では英軍側も多くの兵卒及び二人の将校
が戦死し、英軍一統哀悼を示した。

○満州兵が立てこもっていた家に英軍が入って見ると
そこの居た大勢の女達は先ず自分の子供を殺して
自分も首を括り死んだ様子を発見した。

○中国人達は何故英国人を蔑むのか、英人の性質が
廉直ではないと思っているのか、英兵達は全く理解
出来なかった。

○英軍が乍浦を占領した時、中国側の死者は1200人
から1500人に及んだという

○英軍は占領後所々の武器蔵や火薬蔵を破壊し、
大砲80-90挺、その他武器多数を塩浸しにした。

一シャホー押寄候節エケレス人等相考付には其地を
 責候儀を相止候ハヽ寧波・舟山に虜と相成候
 エケレス人共差免候儀も可有之との儀ニ候
一エケレス人等は右之通心配致居候処、右虜と
 成候者殺害不致罷在候由申来り、殊に其頃
 右唐内よりも便有之、皆々ハンシヲウフォーに無事
 罷在て、唐人等の取扱も格別宜敷有之候様
 申来候ニ付、右エケレス人等は弥安心致し候
一舟山島の近辺にて難船に逢ひ虜に相成候者を不許
 候てハ、エケレス人等舟山島を不可戻と唐人共推察
 致し、虜の者共を免せしエケレスと和談可致存居候
 義明白に有之候、
 
 且叉右和談相整候上者爰彼所さまよひ、敵対致候
 エケレス人を悉く生捕、逸々一日スパーンスマット
 
一スパンスマットハ凡銀十匁七分五厘程宛を可取計策と
 相見申候

一シャホー押領後は軍勢をハンショーフォーに遣し、
 攻掛見可申積に有之候、同所はセーキアンの城市、
 殊に唐官の本陣として甚大切の場所柄に有之候

一南京へ猶予無く進発いたす儀肝要の儀とヒュグコウ
 グ
人名は決心致し候
一国第二の城市たる右の場所押領の義エケレス人に
 於てハ最肝要の事ニ有之、国中之産物北京へ運送
 の大河ハ南京より格別相隔らずヤンツセイキャンに
 流申候、依之一度南京エケレスの手に入候得者河の
 通行難相成、唐方□も無余義、和談取極不申候ては
 不相叶義出来候場と可相成、将又エケレス人の勢も
 弥増可申候
一右之義儀者英吉利人に於て尤望む処ニ有之候、
 国々より送□貨物は北京の国人数万を養ひ候穀物
 右の河より同所に運送致候事ニ候得者彼方右運送
 相止候時は、北京に於て甚しき差支必定の事に候
  (英軍杭州、南京を攻撃する様子に見える)
○乍浦を攻撃した英軍が考えた事は、もし此地の攻撃
をやめれば、寧波や舟山で捕虜となった英人を釈放
する事もあるのでは、と云う事だった。

○英側が捕虜の事を心配していたが、彼らは殺害され
ず杭州府に無事でおり、特に最近では待遇も良いとの
事で一安心した。

○舟山島近辺で難破して捕虜となったものを、釈放
しなければ、英軍は舟山島を返還しないだろう、と考え
捕虜の釈放で和談にした事を知っている筈である。
叉和談後、彼方此方で敵対した英人を全て逮捕し、
一日に1スパンスマット宛請求する予定と思われる

○乍浦占領後、英軍は杭州府を攻撃する積りの様で
ある。 同所は浙江省の省都であり、中国高官の本陣
として重要な場所である。

○しかし南京へ直ぐに進発することが重要とヒューゴウ
は考えた。

○中国第二の都市である南京を占領する事は英国
にとって重要な事である。 叉国中の産物を北京に
輸送する運河は南京の近くで揚子江に接続している
従って南京を英国が占領すれば運河の通行が困難
となり、中国は止む無く和談せざるを得なくなり、英側
は益々有利となる。

○この事は英国にとっては望むところであり、国々から
送る物資や北京の人口数万を養う穀物もこの運河で
運送するのであるから、運送が止れば北京では大変な
事になる事は間違いない。


大河: 杭州と北京を結ぶ南北の大運河(京杭運河)は
揚子江(長江)と鎮江近辺で交差する。

一和蘭五月廿三日
寅四月十四日シャホーに於て軍勢
 再び乗船いたし、右湊よりクエグケトエイテンデン
島名
 方に向け出帆致し、揚子江を進ため同六月十三日迄
 同所へ滞留致し候
一唐人等は右様大切の河を奪ワれん事を甚相恐れ、
 且叉エケレス人の計策を推量し防禦の手当相成る
 へく丈ケ厳重にし、ウヲーシェン河と揚子江の境を
 大木を以せきとめ、夥しく砦を築き是を以て両河口の
 防となし是にてハ迚もエケレス人押領難成と存居申
 候様子に相見申候
一唐人共の存寄にてはエケレス人を工合よく防き可申
 と相心得居様相見へ、 エケレス方より小きストーム
 ボート二艘和蘭六月十四日
寅五月六日斥候の為砦辺
 に遣し候を頓着致さず、夜中船を繋ぎとめエケレス人
 の攻掛候を防ぐ心得ニ候

一右大切の河及び厳重の備も容易くエケレス人の手に
 落ち、唐人等始て思当り、此剽敵に対候てハ格別
 力弱、砦も保ち難き旨唐方気欝甚しき事ニ有之候
一キュエーンと申ストームボートを以ホンコン島に書翰
 運来候ニ付、ヘンレイポッチンゲル
人名者右船に乗組
 同所に有之諸軍船一同北京へ向け出帆、揚子江の
 軍勢と一手に相成申候、且叉此節勝利を得候ニ付、
 左之一条相触申候
    (英艦隊揚子江を上る)
○西暦1842年5月23日英軍は乍浦から再び乗船し、
同港からクエグケトエイテンデン島を目指し揚子江を
進み、同年6月13日まで同所に滞留した。

○中国側はこの重要な交通の河を奪われる事を恐れ、
英軍の作戦を色々推量し、出来るだけ厳重に守る
様にした。 そのためウーソン河と揚子江の合流地点
を大木で塞き止め、多くの砦を築いて両河口を防ぎ、
これで英軍も占領出来れないだろうと思っている様子
だった。

○中国側は英軍を上手く防げるを思った様子で、英側
が小さな蒸気船2艘で同6月14日偵察に砦近辺の送り
込んだが、気にせず夜中船を繋いで英軍攻撃を防ぐ
体制を敷いていた。

○重要な河も厳重な砦も簡単に英軍の手に落ち、中国
側は始めて思い当たり、このすばしこい敵に対しては砦
も全く役に立たない事に気落ちしていた。

○クイーンと云う蒸気船により書翰をホンコンに運んで
きたので、ポッティンジャーはこの船に乗り、ホンコンに
待機している艦隊を率いて北京へ向け出帆し、揚子江
の艦隊と一緒になり、 そこで叉勝利を得た事を次に
示す。


ウヲーシュン河: 呉淞河 Woosung 上海市内を流れ
揚子江につながる。

一和蘭六月十六日
寅五月八日一隊の軍船碇入、唐人
 の動静を伺居可申趣に有之候、 但唐方台場より
 火砲打出し候時は幸ひ備相整居申候
一双方よりカロナデ筒  を以一時計の間絶間なく
 互に烈敷打合戦候処、 唐方の筒先弱り候と見る哉
 否や、エケレス方船中より防居ながら船子及び軍卒
 を無猶予上陸致させ、惣軍勢を以攻掛り候以前に
 唐方者台場より逃散申候
一大砲二百五十三挺エケレス人の手に入申候、
 尤右筒の内銅筒四十二挺有之候
一エケレス方船方の死凶弐人手負二十五人有之候、
 陸手備エケレス死亡壱人も無之候、併唐方死亡
 凡八十人有之候
一和蘭六月十七日
寅五月九日エケレス軍艦一組の内
 数艘ウヲーシュン河のほとりに大砲五十五挺備の
 台場、唐方遁退候跡を押領致し候、尤右五十五挺
 の内銅筒七挺有之候
一二日を経、城市サンハイ辺に有之二ヶ所の台場より
 一組の英吉利軍船に砲火を打掛挑候得共、唐方
 終に敗走致候ニ付、エケレス方一手の軍兵大砲四十
 八挺備の台場を押領致し候、依之右の城市サンハイ
 も手に入、役所等は破却し、倉廩は其土人へ付与
 せし由に候

一同月廿日寅五月十三日ストームボート二艘を以
 アドミラル
官名はウヲーシェン河を登り右上城市より
 凡五十里許進ミ申候、尤途中に於て大砲数挺を備
 候二ヶ所の陣場破却致し候
一右様種々の働にて奪取候大砲夥敷、都合三百六
 拾四挺、右の内七拾六挺ハ銅筒尤此内には立派の
 大石火矢多くハ近頃新に鋳立たと相見へ、右筒
 の上に漢字を以ベテユーゲテールハルハーレン

 夷狄征罰といふ義
と申銘有之、且叉別て大形の筒には
 只ハルハール
と申銘も有之候
一城市サンハイの高官の者共城市ソーコウ或は
 杭州府或は南京の方遁退申候由ニ候
一事を引延候為、虜のエケレス人十六人を免し、
 和熟致度所願の趣告んが為、唐方高官の者色々
 心配致候様相見へ申候
一其後和熟取組見候へ共何分承引なり難き底意に付
 プレニポテンチアリスも無余儀和睦を拒可申と決心
 致し候

   (呉淞河の戦闘と上海の占領)
○西暦1842年6月16日一組の艦隊が碇を入れ、中国
側の動静を見ていると、中国側砲台より打掛けてきたが
幸いに英側は戦闘準備が整っていた。

○英中双方で2時間程絶間なく烈しく打ち合い、中国
側の砲火が弱まるや否や、英側は艦砲で援護しながら
水兵や陸兵を直ぐに上陸させた。 総攻撃に掛る前に
中国側は砲台から逃げ去った

○大砲253挺が英軍の手に入ったが、銅製が42挺ある

○英側水兵の死亡2人、負傷25人あったが陸兵の死亡
は1人も無かった。 中国側死亡は80人あった。

○同年6月17日英軍艦隊の内数艘がウーソン河の辺に
ある大砲55挺備えた砲台を、中国軍が撤退した跡占領
したところ、55挺の内銅製は7挺だった。

○2日後上海辺にある2ヶ所の砲台から英艦隊に砲火
を浴びせたが中国側は終に敗走し、英軍の一隊が
大砲48挺備えた砲台を占領した。 是により上海も
手に入り、役所は破壊し倉庫は開いて住民に与えた
との事である。

○1842年6月20日蒸気船2艘で英軍提督はウースン河
を遡り、上海から50里程進んだ。 途中の大砲数挺を
備えた砲台2ヶ所を破壊した。

○斯くして幾つかの戦闘で奪った大砲は大量であり
合計364挺、内76挺は銅製である。 中には立派な
大型大砲もあり、多くは最近製造されたと見える。
これらの大砲の上には漢字で夷狄征罰と言う意味の
銘があり、別の大型砲には只「夷」という銘がある。

○上海の高官の者達は蘇州或は杭州或は南京へ
逃げて行ったという事である。

○中国側は引延ばし策として英捕虜16人を開放する
代わりに和談を行いたい意向で腐心している様である。

○その後和談の取り組みもあったが、英側としては承服
出来ないので英全権も拒否せざるを得ないと決心した。


全権:ヘンリー・ポッティンジャー

一エケレス勢は先頃の戦争後揚子江の通行出来候迄
 雨天彼是にて和蘭七月六日寅五月廿八日迄
 ヲーシュン
地名に滞居申候
一山々に引添建連候陣所にエケレス人等同月十四日

  寅六月七日
到着いたし候
一同處に於て大砲十三挺備の小台場二ヶ所よりエケ
 レス船に大筒打掛申候
一エケレス人斯申時に唐勢を挫き上陸し、直様台場
 并一並の陣所も破却いたし候
一其砌一隊の軍船逆風にて多くハ出帆難成、七日
 計り同所に止り、其間に外数艘はキンサン地方
一名
 ゴウルデンエイランドと唱申候
に走り、此處に於て惣船数
 七十艘集り、七月廿日
寅六月十三日城市シンキアンフ
 ヲー辺にて一手に相成、右の城市に押寄可申積りに
 候、但右城市ハ美麗にて格別の砦を構へ有之候
一同日晩唐軍勢夥敷山際より河辺迄凡三里許に陣取
 候趣、斥候の者を以エケレス人致承知候

一エケレス勢の内一手は目差す唐勢に押寄、叉一手
 は唐勢城市の方へ引退候道を遮り、其後城市の
 南手の構に攻掛り候様手配致し候
一其次の一手ハ城市の脇手フロート
一種の軍艦の向に
 上陸し北方の外構に申候
一陣所に控候唐兵、敵兵押寄候をも不待、散々に
 相成山林を経逃去申候
一城市に控へ候韃靼勢十分勇気を含、何時とも防へく
 覚悟と相見へ、城市の外構より大小の筒を以支へ、
 北手に向ひ外構に打掛候エケレス勢を烈敷防禦致し
 僅の隙間もなく防候ニ付、エケレス勢も混□に争ひ、
 韃靼勢の筒先利く候得者如何とも致得不申候
一城市の南手より速に押領致しかたく、既に右の手当
 として遣候エケレス勢暫く控居、シンキキャンフォー

 地名
の南方に流候大川に橋を架同所に攻掛申候、
 併数時の間韃靼勢より手強く支へられ候得共、
 終には城市に討入申候
一同所に於ては唐方の働,当前の事とハ見え不申候、
 尤軍勢凡三千人右の内手負死人、マンタレイン
官名
 
四十人の外凡一千人、併エケレス方は少々死亡致し
 候
       (鎮江府の激戦)
○英軍は最近の戦闘後、揚子江が通行出来るまで
雨天などもあり1842年7月6日迄ウースンに滞在した。

○中国軍が山々に沿って布陣している所に英軍は
1842年7月14日に到着した。

○同所にて大砲13挺備えた小さな砲台二ヶ所から英
艦に大砲を打掛けてきた。

○英軍は瞬時に中国側を押さえて上陸し、直ぐに砲台
及び陣を破却した。 

○その時艦隊は逆風で多くが出帆出来ないので7日程
同所に留まった。 其間数艘は金山地方に走り、ここで
総船数は70艘集り、1842年7月20日鎮江府辺で一手に
なって、この城市を攻撃する予定である。 この城市は
美しい街だが特別に砦を構えている。

○同日夕方中国側大軍が山裾より河辺迄3里程に陣を
構えているのを、偵察隊により英軍は掴んでいた。

○英軍の一隊はこの中国軍を攻撃し、一隊は中国軍
が城市内に引下る道を塞ぎ、其後城市の南手の構を
攻撃するように配置した。

○更に次の一隊は城市の脇手で軍艦の向かいに上陸
して北側の外構に配置した。

○陣所にいる中国兵は敵兵が押寄せる前に、散々に
なり山へ入り逃げ去った。

○城市を守る満州族部隊は、勇気凛々であり、長時間
に成ろうとも防ぐ覚悟と見え、城市の外囲いから大小の
砲で反撃し、北手から外囲いを攻撃する英軍に烈しく
反撃し、全くの隙もないため英軍も混乱し、満州兵に
銃火の前で如何ともし難い状況である。

○城市の南手からも速やかは占領できず、英軍の予備
部隊が鎮江府の南方に流れている川に橋を架けて
攻撃した。 しかし数時間満州兵に厳しく反撃されたが
終に城市に突入した。

○鎮江では中国側の働きは、今迄は考えられない位
だった。 しかし中国側3,000人の内死傷者は将校40人
兵卒1,000人である。 英側も少々死亡した。


ヲーシュン地名: 呉淞(ウースン) 現上海市宝山区

一城市シンキャンフォーは大河の入口に有之候ニ付、
 同所押領の後は軍勢不断備置申候、扨叉カルンワ
 ルリス
大将乗ル軍船の名と申船一同和蘭八月三日寅六月
 廿七日
同所致出帆南京辺迄参り、同月八日寅七月三日
 南京に船繋り致し候、但右南京ハ揚子江より凡三里
 隔申候
一是迄唐方毎度打負、エケレス勢に敵し難き趣高官の
 者より数度上聞に達し候得共、唐国帝取用ひず、
 只管我意に募り一度思込候所存を不変、如何成事
 有之候とも唐国中エケレス人の根を絶永くエケレス国
 との通信を可絶所存ニ候
一エケレス人の働格別にて既に揚子江を登り途中にて
 数度勝利を得、且右城市辺夥敷エケレス軍船有之候
 を以、唐方甚恐怖の様子にて候得者、事落着の為
 実意の和談可致宜き時節と国帝も所存を不変候て
 ハ不相成事に候
一エケレス軍勢南京前に着船致候処、始て唐人共
 直様可打掛と勇ミ立たる様子にて、降参致さんより
 城市の外構に身体を葬に不如と可申勢に見へ申候
一漸城市の向宜敷場所に船繋し、戦の用意を致し
 砲術方其外軍勢一同上陸し、備の手配致候処、直
 に唐方の様子変りエケレス方に申遣候は、プレニポ
 テンチャリス
官名に談致度国帝より差遣候マンダレ
 イン
官名未だ到着致さゝる趣に候
一翌日唐方高官の者共態々出来り、則広東奉行ケイ
 ヒン
人名耆英なるべし并伊里布キャンセ地名江西か
 キャンロー
地名奉行ガウ人名但し一名ネヲー及び韃靼の
 ゲネラール
官名大将なり、且南京奉行テイキ、但同人
 は甚英雄の者に候、扨同人等国帝の為上使和談に
 取掛り、久敷相談致候上、和蘭八月廿七日コルン
 ワルリスと申軍船に於てプレニポテンチャリス、右唐方
 高官之者共談合取極申候、右ヶ条左之通
    (英軍の南京進出と和睦への手続)
○鎮江府は大運河の入口であり、同所を占領後英軍
は軍を駐留させていた。 叉英軍旗艦コルンウオール
号は1842年8月3日鎮江を出帆し南京に向かい、8月
8日南京に繋留した。 但し南京は揚子江より凡そ3里
離れている。

○是迄中国側は毎戦闘で敗れ、英軍に敵わない旨を
高官より国帝に数度上奏したが、国帝は聞く耳を持た
ず只管自分の意見を曲げず、如何なる事があっても
英国人を根絶やしにし英国との関係も断ち切る考え
であった。

○しかし英軍の動きは活発で既に揚子江を登り、途中
数度勝利し、且付近の城市に多数の英国艦隊が居る。
中国側もこれを非常に恐れた様子で、この決着には
和談を行わざるを得ないと国帝も考えを変えなくては
成らなくなった。

○英軍は南京の前に着船したところ、始めて中国側は
直ぐにも攻撃するかに勇みたった様子で、降伏するより
城市の壕に玉砕するかの様に見えた。

○漸く城市の向かいよき場所に船を繋留し、戦闘の
準備をして砲兵他軍勢が上陸し体制を立てたところ、
中国側の様子が変り英軍に伝えた事は、全権に会談
したが国帝より派遣された将校が未だ到着しないとの
事である

○翌日中国側高官の者が態々出掛けてきた。 広東
総督耆英、伊里布、江西並び江蘇総督ガウ及び満州
将軍で南京総督のテイキ、但しこの人は英雄である
これらの人々は国帝の上使として和談の相談を長く
行った後、1842年8月29日コルンウオールス船上で
英国全権と上記高官達が会談して取極めた条件は
次の通りである。


耆英 Qiying (1790-1858) 両広総督 満州族官僚
伊里布 Elepoo(1772-1843)、 満州族官僚

 第一双方互に永く和熟し信義を通すへき事
 第二当時の振合にて当年より三ヵ年の間に二千一百
   万ドルラルス
前ニ詳也 唐国より払入可被申事
 第三広東・アモイ・福州府・寧波并上海の湊はエケレ
  ス商売の地者定置コンシュル
官名を立置、船賃其
  外出入の銀高極置依非の沙汰無之様捌方可致事
 第四ホンコン島は永々エケレス領地に極置度事
 第五唐国属地に於て虜に相成候者共、仮令欧羅巴
  叉ハ印度の者たりともエケレスに属候者ハ無異議
  可被免事
 第六唐国帝の印判を押候慥成赦免の書付を以
  エケレス人に拘り諸役人叉ハエケレス奉行に相勤
  候役人其外筋々に達有之度事
 第七双方書面を取替し信義を結び候儀者、唐・
  エケレスの両役所の諸役とも不同無之儀可致事
 第八右取極ニ付、唐帝の所存の通ニ致し、初の
  切に六百万ドルラルスを相納候上、エケレス勢南京
  之外彼大河より引払可申、尚シンハエ相備罷在候
  番兵も一同引払可申、併舟山・
古浪島(コランソー)
  両島は右取極置候金子渡方に相成、所々の湊
  通商の儀相開け候迄はエケレス方に領し置候事
   
        (南京条約骨子)
1.双方お互いに末永く、親しく信義を通す事
2.現在の金額で当年より3年間に2千百万ドルラルス
  を中国より支払われる事
3.広東・厦門・福州・寧波及び上海の港を英国が通商
 の地として決め、 領事を置き船賃や港湾使用料
 の金額を決め公正に運用する事
4.ホンコン島は永久に英国領地と決めて置きたい
5.中国及びその属地で捕虜となったものは、欧州人、
 インド人に拘らず英国に属する者は無条件に釈放
 する事
6.中国帝の印を押した正式の許可証を英国人に関
 する役人や、英国政庁に勤務する役人等に発する
 事
7.双方で書面を取交わし確認した事は、中国・英国の
 両役所の吏員は違反が無いようにする事
8.以上の取決めについては、国帝の意向に従い、初め
 の6百万ドルの納入があれば、英国は南京及び運河
 から撤退する。 尚鎮海に駐留する英軍も撤退する。
 しかし舟山及びコロンスの両島は全額の納入及び
 各港の通商が開ける迄英国が占領して置く事


 古浪島: 鼓浪島 コロンス島 アモイ市内
一エケレス方には誠に大利と相成候取極と存し、和睦
 相整候事故、唐方に罷在候エケレス勢は一統満足
 致し候、其故は右取極の通相成候ハヽエケレス商売
 此迄の □□弘り可申と前見致し候故の儀に候
一右取極候上ハ唐国と外国との交易今迄とは事変り
 弥盛に相成可申候、広東は是迄商売最盛なる場
 有之候処、是よりハ少し相衰へ交易利潤も薄く相成、
 都而北方の港は外国人自由に商売可致場所と定り、
 最繁昌の地に相成可申し皆推察致候
一戦争治り今速に揚子江を引払申す事、エケレス方
 にては大幸に有之、其故は和蘭七月廿一日
寅六月
 十四日
以来此辺コレラ病名或は其地熱病烈敷流行
 致し、一組の軍勢の内病死百六人有之候、其上
 合戦終りの頃に至りてハ軍兵二百人程も大病にて
 打臥罷在候儀ニ候
一英吉利方プレニポテンチャリス
官名と唐方ホーゲ
 コミサリス
官名欽差大臣と和睦談合相済候上、右取極
 書付唐帝に差出候処、右ヶ条の内には不承知の儀
 有之趣に候得共、調印致候儀者プレポテンチヤリス」
 エケレス女王の調印申請差出候迄ハ不可致との義
 にてエケレス方調印相済候後、此方にては調印可致
 との趣ニ候
一和蘭八月廿八日
寅七月廿三日の便に申来候趣者
 翌日コルニワルリス
船号より賀祝のため大砲二十一発
 打放し、唐・エケレス双方の旗を右船に建、和睦の
 書付エケレス本国差遣可申と決定致候
   (英国の幸運と条約書面を英国に送付)
○英側にとっては極めて有利な条件で和睦できたので
中国に滞在する英国勢は全体的に満足した。 
この取決めの通りとなれば英国の通商は是迄より一層
に広がる事が予想された。

○この取決め後は中国と外国との通商が従来と一変し
益々盛んになるだろう。 広東が是迄最も商売の盛ん
な場所だったが、今後は少し衰え利益も薄くなる。
一方全ての北方の港は外国人が自由に商売が出来る
事となったので極めて繁昌の地になる事が予想される

○戦争が終わり揚子江から速やかに撤退する事は
英軍にとって幸運だった。 と云うのは1842年7月6日
以来、この地でコレラや熱病が流行し、一隊の部隊の
内病死106人あり、その上戦争が終る頃には200人程が
大病で病床にいた。

○英側全権と中国側欽差大臣との和睦が済んだので
書面を国帝に奏上したところ、 条件の中には知らない
事もあったが、英全権が英国女王の調印を請けた後、
中国側は調印する事になった。

○1842年8月28日の便で伝わった事は、翌日
コルンウオールス艦で祝賀の為祝砲21発を打ち、
中国・英国の両国旗を艦に掲げ、和睦の書面を
英本国に送る事になった。
一千八百四十二年九月廿四日より十月十一日
 天保十三寅年八月廿日より同月廿六日まで
迄の儀、広東より
 申来候者、和蘭九月十四日
寅八月十日南京を出帆致
 候エケレス船ホンコンに参着致候趣、并唐帝ヘンレイ
 ポッテイケル
人名に書翰を以、右取極候儀ニ付、自分
 同意たるへき事を掛合候趣に候
一此後唐帝は右取極の第三のヶ条に有之候福州府の
 義ニ付てハ大ニ迷惑致し熟考いたし候迚も、ポッテ
 インケル
人名義其地を唐方に渡間敷と推察致し和蘭
 九月六日
寅八月二日に命令下して、其地の港にて
 エケレス商売を開き申候
一揚子江に相備罷在候船隊に軍令を下し候ハ、軍船
 二三艘運送船数艘北方に滞在致し、其余の軍船は
 ホンコンの方に帰帆可致、且陸手の軍勢も同様、北
 方に罷在候て舟山を本陣と相定め可申との義に候
一アユクチント
船名の出帆の後、程なく最初にエケレス
 方に相納可申六百万ドルラルス之内四百万ドルラ
 ルス請取、残金之儀ウヲーシュン
地名にて相納可申
 且叉同時に右の船一同エケレスの惣軍船碇を揚げ、
 ウヲーシュン并舟山の方に出帆致候由ニ候
一和睦のヶ条の内、取極候儀者唐帝の意に任せ、
 広東にて取計可申との旨を以て、兼て諸事平均
 取計掛り被申付置候、伊里布も唐帝の命令を請
 其地に赴き申候

一一千八百四十二年十月十七日寅九月十四日舟山
 より申来候ハ「ヘンレイポッチンゲル人名右の儀ニ付
 直様広東へ出帆し、今新にエケレス商売のため相
 開ける其辺所々の港に立寄可申との儀に候
一エケレス人等とミニストル
官名伊里布と相談の最六ケ
 敷ヶ条の内、第一は所々の港に船々出入規定并
 運上の義と決候事に候
一プレポテンチャリス
官名唐文を以エケレス商船に申達
 候ハ、右運上の儀相定り且所々の城市にコンシュル
 
官名を申付候迄ハ、決て處々の港に参着致へからず
 との義は右コンシュルの者は取極事等相決候上
 早速可申付との趣に候
 (条約細目交渉に伊里布が欽差大臣に任命)
○1842年9月24日から10月11日迄の事に付広東からの
情報は、 9月14日南京を出帆した英国船がホンコン
に到着した事、及び国帝よりポッティンジャー全権に
自分が条約に同意する趣旨の書翰があった。

○此後国帝は取決めの第3条の福州開港の件は難色
をしめしたが、ポッティンジャーは其地を中国側に渡す
ベキでないと云う事で9月6日に命令を発して、福州の
港で英国商売を開いた。

○揚子江に展開していた艦隊に命令を下し、艦船2-3
艘及び輸送船数艘を北方に滞在させ、その他は全て
ホンコンに帰着すべし、叉陸軍も同様北方に一部残り
舟山を基地とする事とした。

○アユクチント号出帆後程なく初めに英国側に納める
6百万ドルの内4百万ドルを受取り、残りはウースンで
支払うとの事。 同時に英艦隊は碇を揚げてウースン
及び舟山に向け出帆したという。

○和睦のヶ条に付いて国帝の指示で、広東で処理
すべしとの事で、全て平等に取扱うべく伊里布が命を
受け広東に赴いた。

○1842年10月17日に舟山からの連絡では、ポッティン
ジャーは上記打ち合せの為直ぐ広東に出帆し、叉新た
に開く各港を訪問する事になる。

○英国側と欽差大臣伊里布との打ち合せで最も難問
は各所の港に出入りする船に関する規定と料金を
決める事である。

○英国全権は漢文により英国商船に伝えたことは、
港の料金が決まり、各港の街に領事が赴任する迄は
決して各港に入港しない事、 叉領事は中国側との
調整終わり次第直ぐに任命するとの事である。

一和睦の後エケレス人等は一千八百四十一年九月
 
天保十一子年八月中台湾の浜辺に打揚候ネルビダーと
 申船の乗組并、此以前註録致し候同所難船アン
船名
 乗組の者共唐方に虜と相成候を乞受候儀を存付、
 既に其迎として船一艘を其地に仕出し可申決心致候
 此節アモイに申来候使の趣にてハ、右乗組の者之内
 九人ハ和蘭八月廿九日
寅七月廿四日に差免されて、
 余は悉く唐人等に殺害被致候との風聞有之候得共
 初の程は皆人実事とも不存罷在候処、後その治定
 の儀を致承知候
一右難船の者共迎としてエケレス船数艘台湾島に
 至り、是迄の疑心を晴し間もなく空敷致帰帆候
一ネルビターの乗組百三十七人、アンの乗組四十六
 人を台湾奉行殺害致、其申訳は唐帝の命令を請け
 右の始末に及び候との儀、プレニポンチャリス
官名
 申遣候通に候
一台湾奉行ハ右打揚候エケレス船は全く此方に拒敵
 致すへき為、当島に来候抔と偽り、北京のカヒネット
 
評定所に其趣申達候程侫奸邪智の者に候得共、
 是叉唐帝の命令と申偽り候明白の証拠とプレニホ
 テンチャリスは決し申候
 右エケレス人等は元何心なく不意なる事にて台湾
 に漂流いたし候旨、ヘンレイポッチンゲル唐帝に
 申達候、尚君命の趣を以て相頼み遣し候にハ台湾
 奉行等虚言を吐、右の始末に及び候事故、役儀
 召放し相当の罪科に被處度、若左様無之候てハ
 右等の義より再び双方遺恨を含み不和の基とも相成
 可申義難計との趣に候

一ヘンレイポッチンゲル人名唐人等に申達候者、台湾
 土人の邪智深き取計ニて右の始末に成行候事ハ
 エケレス方にて虜と相成居候唐人を皆差免し遣ハし
 候事とハ齟齬致候
一ホンコンより申来候ニ者ポッチンゲル
人名
 和蘭十二月二日
寅十一月一日北方より其地に到着
 いたし程なく右虜殺害の儀ニ付、唐帝に□讐の事を
 可申談ため再び北方へ出立致候由ニ候
 (台湾にて難破英船乗組員の虐殺発覚)
○講和後、英国は戦時中の1841年9月に台湾辺
で難破したネルビダー号という商船及び、前に述べた
アン号の乗組員が中国側の捕虜となったが引取りを
試みるため、迎えの船を一艘台湾向けに出す事を
決めた。

此頃アモイに届いた情報では、これら乗組員の内9人
は1842年8月29日に釈放され、残りは全て殺されたと
いう噂があった。 初めは事実かどうか不明だったが
其後明確となった。

○この難破した船の乗組員を迎える為英軍は数艘の
船を台湾に向ったが、是迄の疑問が明確となり、空しく
帰帆した。

○ネルビダー乗組137人、アン46人を台湾の責任者が
殺害した。 その理由は国帝の命令で処刑したと
英全権に伝えた通りである。

○台湾責任者はこの難破した船は中国に敵する為に
この島に来た、と偽って北京政府に報告した。 こんな
報告をする程邪な者であるか、其上国帝の命令と
偽った事は明確である、と全権は決めつけた。

これら英国人は元々何の企みもなく不意の事故で台湾
に漂着した者達である旨をポッティンジャーは国帝
に伝えた。 尚国帝の名を持出す事は明らかに台湾
責任者が虚言を吐いて処刑したものである。 従って
こんな人物は直ぐに罷免して相当な刑に処して頂き
たい。 もし実行されなければ双方で遺恨を残し不和
の基となると云う趣旨である。

○ポッティンジャーは中国側に申し入れた事は、台湾
の島民の邪な行為により、此の様な事が起った事は
英側は捕虜となっていた中国人を全て釈放した事と
齟齬する事であると。

○ホンコンからの情報ではポッティンジャーは1842年
12月2日に北方からホンコンに到着したが、間もなく
この捕虜虐殺の件で国帝に抗議する為、再び北方に
出発すると言う事である
一今既に戦争ハ相止候得共、唐人等は敵対之意味
 常に有之候て、エケレス人を忌嫌ひ候得ハ心中に
 少しも絶間無之候
一唐国本商等右ニ付大に奇怪を懐き、尚右の外唐方
 にてハ一統心中不平を懐居候様子と相見申候、
 然るにプレポテンチャリス北国に至候節、土人等能
 取扱ひ、エケレス人に対して誅迄無之様子に候得
 共南方の国々、就中広東の土人は常にエケレス人を
 忌嫌ひ候ハ、全くエケレス人の無法の為に斯く難渋
 致し居候と恨ミ居候
一広東に於てハ敵対の意味甚敷有之候て、終に
 一千八百四十二年十二月七日
天保十三寅年二月六日
 唐人等陰謀を発し申候
一食物船積の義ニ付同月同日フォルトウイルリアムと
 申船の乗組七拾人と唐人数人と争論を起し、唐方
 小刀にて手疵を請候處、集りたる唐人等一所に
 エケレス人に厳敷打かかり申候
一唐人等は其後異国商館の前に集り、エケレス商館
 の真向に有之候塀打崩し候末、一度に責掛り夕
 六半時頃に至り右家に火を掛候處直様燃上り、
 夜明前にエケレス・和蘭の商館・其外ケレーキ
川水を
 引入し掘の如きをいう
の側に有之候ニ付、ケレーキと唱
 候一軒焼失致候
一右出火之事、広東のフォールスタット
前に詳也は右
 唐人等の手に落候て侵椋殺害烈敷流行いたし候
一右火難にて唐方のホングス
宝蔵の義か既に危く相成、
 其持主等者右を取鎮め候為大に心配致し候
一焼失致或ハ侵椋被致候荷物の値は格別にて大の
 銀高に候

一外方より申来候ニ者唐方高官の者とも右悪党唐人
 に組せず全く右騒動を取鎮可申為、軍勢を差出、
 手□く進ミ来り候、悪党を防ぎ候処却て悪党の為に
 右軍勢追散され、兵士等石礫を打掛られ申候
 北京よりホンコンに到着致候ヒュゴウク
人名は右騒動
 の節者未詳中に有之候て、其翌日にフロセルペネ

 船号
より広東に来り、直様水夫軍兵を唐国高官の者
 に加勢として差送る候處、終に右援兵の為に其騒乱
 相治り申候
一右之発起人十二人ハ直様マンダレイン
官名の下知
 に依て死罪に行れ申候

一右騒乱ハ暫時に相治り候得共商売ハ全く相止申候
一叉々右悪党唐人等六百人、諸館の明地に相備罷在
 候處広東高官の者共ハ右騒動を取鎮候に小勢にて
 不行届を以、エケレス方に相頼候ニ付則フセルピネ
 船号より大砲を打放ち加勢致義ニ候
一フォトウィルリヤム
船号の乗組七十一人の者共と唐人
 との争乱の節、唐人等許多馳付候ハ全く右の争乱を
 取鎮可申と偽り集り来候、と外国人も唐人も思慮ある
 者は推察いたし候、左様無之候てハ一万余の唐人
 些の間に武具を着し馳付候事難出来との趣に候、
 右の徒一躰の模様と能々合ひ候故、皆人追々信用
 致候

一其後の便に申来候ハ右の風説一統に流布し、世間
 の騒と相成、国々の役人其外本商等も其用意既に
 取掛り相整候趣ニ候
    (広東にて中国人暴動起る)
○戦争は終ったが中国民衆の敵対感情は治まらず、
英国人を忌嫌う気持ちは常にあり続けた。

○中国の交易商人達は、此件について不安を覚え、
これは中国民全体が不満を持っていると見た。
ところが英全権が北方を訪れた際には、住民達は好意
的で、英国人に対して余り悪感情を持っていない様子
である。 一方南方地方、中でも艦と雲の住民は英人
を忌嫌い、子の様な困難も全て英人が無法をする為
と恨んでいる。

○広東では敵対感情が甚だしく、終に1842年12月7日
の中国人が暴動を起した。

○同月同日、食物の積込みに関し、フォート・ウィリアム
号と云う船の乗組員70人と中国人は諍いを起し、中国
人一人が短刀で疵付けられたのを契機に、集った中国
人達が一気に英人に襲い掛った。

○中国人達は其後外国商館の前に集り、英国商館の
向かい側の塀を打壊して一気に襲い掛かり、夕方7時
頃には商館に火を掛けたところ直ぐ燃え上がった。
夜明け迄に英国と和蘭商館及び堀端にあるケレーキ
という一軒の家も焼失した。

○この出火の際広東のフォールスタットは暴徒の手に
落ち、略奪・殺傷を欲しい侭にした。

○この火事で中国側の倉庫も危険になり、其持主は
その防火に必死のなっていた。

○焼失及び略奪された荷物の損害は莫大な金額
になる。

○情報によれば、中国高官達はこの暴徒の中国人
には同意せず、騒動をを鎮めるため警備隊を出動して
手際よく進んできた。 しかし暴徒を防ぐ筈が逆に暴徒
に追散らされ、兵士達は石礫を投げられた。

北京からホンコンに到着したヒューゴウはこの騒動が
起きたときは知らなかったが、翌日にはフロセルペネ号
で広東に来て、直ぐに中国高官に英水兵及び陸兵を
応援として提供した。 その結果この援兵のお蔭で騒乱
も治まった。

○この暴動の発起人12人は直ぐに官憲の命令で死刑
となった。

○この騒乱は間もなく治まったが商売は全く中断して
しまった

○叉暴徒600人が諸商館の空き地に集っていたが、
暴徒鎮圧に警備兵が不足するので、広東高官より
英軍に応援依頼があり、フルセルピネ号より大砲を
打って加勢した。

○フォートウィリアム号乗組員71名と中国人との争いの
時、中国人が多数駆けつけたのは争いを鎮めると
偽って集ってきたものと、外国人も中国人も思慮ある
人々は推察した。 そうでなければ1万人以上の中国人
が一時の間に武装して集る事などできない事である。
これら暴徒の様子と辻褄がよく合うので、人々は皆
その説を信用した。

○その後の情報ではこの噂が一般に広がり、世間の
も騒がしくなってきたので、外国の役人や、中国の貿易
商等も再暴動の可能性についての対策とその準備を
始めた。

一右騒乱の後数日を経て、便有之候にハコミサーリス
 
官名伊里布、広東の近辺より数里相隔候所迄直様
 立帰り候由
一右伊里布義立戻候次第は聢と相分不申候得共、
 或説にはエケレスとの和睦の儀ニ付、大胆不敵の挑
 発流之文言の書面数百通を書綴り、諸方より唐帝に
 差出候抔と申義にて右の始末に及び候との趣ニ候
一本商等の取沙汰にてはヘンレイポッチンゲル
人名
 
ネルヒエター船名アン同乗組の者殺害被致候儀ニ付
 申付候趣、唐帝迚も聞済申間敷と右伊里布義心得
 候て立帰り候抔とも申触し候
一右騒動の後エケレス商売は其始末の義を書面を以
 ヘンレイポッチンゲル
人名に申出相願候ハ、当時の
 模様にてハ広東に居付不申候ては迚も諸用弁し候
 儀難出来候、若哉我等も其地を引払候て亜墨利加
 人并其地兼て意趣遺恨なき外国人と交易致儀に
 成行可申候間、是非此節者広東に罷在度候間、
 何卒エケレス商売警固として軍勢を広東に差出被
 呉候様との儀に候
一ポッチンケル右願の趣聞済不申候は右願通聞
 届遣し候ハヽ再び不和の基と相成へくとの儀に候

一右の模様ニ候得者、エケレス商売など広東を引払
 可申存候へ共、左様致候ハヽ諸事に便利悪く商売
 向には損失相立ち、其外是迄存立居候事も出来
 不申、無余儀滞在致居候てハ身命財貨の患有之
 大に困り罷在候

一和蘭十二月廿日寅十一月十九日広東より申来候ハ
 諸事此地にては穏に有之候得者、土人等は今にも
 不絶遺恨を含み居候間外国人等ハ容易に商館より
 少し相隔候場所に参り候得者甚危く有之候由ニ候
一唐人等所々の塀に書付を認置申候、其文意はエケ
 レス商館焼失いたし候ニ付一統満足致候趣ニ候
一広東の奉行ハ其地滞在の外国人に警固すへしと、
 契約致居候得者、外国人には大に仁心を施候様
 相見へ申候
一右奉行仁心を施候義ハ疑ひ無之候得共、人皆
 当時は其意薄く相成候抔と取沙汰致候
一此一揆の出費金高相定め、英吉利奉行所にては
 熟考致し相極候上ハ唐方奉行所にても何とか取計
 補方可有之様子ニ有之候
一千八百四十三年正月七日
天保十三寅年十二月七日
 
広東より申来候ハ、其地諸事穏に候処、無宿者とも
 徘徊致し候故、若哉不取締の事とも差起候義無之
 哉と、唐商等只夫のミ相思居候由ニ候
一諸商館の明地に相備居候唐人等、引払候者全く
 広東高官の者共右唐人同所に久しく不居様取計
 候故に候
(暴動後も燻る住民の対英不信と英商人の苦難)
○広東の暴動から数日後の情報では欽差大臣の
伊里布が広東の近辺から数里離れたところに、直ぐに
戻った由である。

○この伊里布が戻った理由がはっきりしないが、一説
では、英国との和睦について反対する大胆不敵な
挑発文数百通が彼方此方から国帝に差出された為
に立ち戻ったとの事である。

○中国人貿易商等の説は、ポッティンジャーが
ネルビター及びアン号の乗組員殺害された事で申入
した事は国帝は認めないだろう、と伊里布も考えて
立ち戻ったと言う事である

○広東の暴動後、英国商人は書面でポッティンジャー
に願出た事は、現在の状況では広東に居住しなければ
全て不便であ。 もし我々が広東を引払う事になれば
アメリカやその他の悪関係の無い外国と中国は商売
をする事になるだろうから、我々は広東に残りたいので
英国の商売を保護するために、軍隊を広東に派遣して
欲しい、との事であった。

○しかしポッティンジャーはこの要望を受付けなかった。
それは若し軍隊が駐留すれば再び不和の基となる
という理由である。

○この様な状況で英国商人は広東を引払いたいが
それでは全てが商売不便になり損失を出るし、是迄
築いた事も出来なくなる。 仕方なく滞在すれば命や
財産を失う心配もある、と云う事で非常に困っている。

○1842年12月20日広東日付の情報によれば、全般に
広東は平穏ではあるが、中国人は今でも遺恨は消え
ないので、外国人が商館から少し離れた所には気安く
行く事は危険である。

○中国人達は所々の壁に落書をして、英国商館が
焼失したので皆満足している、と云う趣旨である

○広東の中国当局は、ここに滞在する外国人は警固
する義務を持っているので、外国人に対しては極めて
親切にしている様に見える。

○この当局の親切は疑う訳ではないが、最近ではこの
行為が薄れてきている様だと、人々は云っている。

○1843年1月7日付広東からの情報では、全般的に
平穏だが無宿者達が徘徊しているので、もしかして
不祥事が起るのでないか、と中国商人達は非常に警戒
している。 

○諸商館の空き地に屯している中国人が立去ったのは
広東高官が、これら中国人達が立ち入らない様指導
したからである。

一コミサーリス
官名伊里布、和蘭正月十日寅十二月十日
 広東に到着致し、其趣エケレスプレニポテンチャリス
 
官名に相知らせ申候、右プレニポテンチャリス義は
 此頃亜瑪港に滞留罷在候処、右知らせに付早速
 其地より広東に参り候得共二日滞留致候、兼而申付
 置候エケレス商人調役と商売の義談合為可致、再び
 亜瑪港に立帰申候
一千八百四十三年正月廿五日
天保十三寅年十二月廿五日
 右伊里布義申達候趣は、広東の土人抔右騒動を差
 起し候程不法を相働くニ付、右取治め且英吉利人等
 と和熟致候様申諭候義に候
一右達書の趣は是迄の書面の文意とハ違ひ甚和らか
 に有之候、相考候にハ近頃の□動に右唐人等奉行
 所取計振、是迄よりハ格別助力致候故と相見申候、
 是叉奉行所にては自兵手弱く有之、是迄の敗北を
 顧み候義と相見申候
一千八百四十二年十□月廿四日
天保十三寅年□月廿三
 日
唐帝命令を下し候趣、唐国ゴローテラード官名より
 申来候由ニて正月下旬
寅十二月下旬唐国コミサーリス
 
官名プレポテンチャリス官名に申聞候趣は台湾に於て
 差越義隠密に吟味致候為、使節二人を同所に差遣
 候義、且叉其地の奉行の罪弥相定候ハヽ召捕、北京
 差登可申、左候得者其地にて可處厳科との義に候
 (欽差大臣伊里布の広東住民説得)
○欽差大臣の伊里布は1843年1月10日広東に到着
し、その旨を英国全権に知らせた。 全権はこの時
マカオに滞在していたが、知らせを受け早速広東を
訪れた。 しかし2日程滞留した後、予定していた英国
商人幹部との打ち合せの為、再びマカオに戻った

○1843年1月25日に伊里布が通達した事は、広東の
住民達が騒動を起した事について、此の様な事を
止めて英国人等と親しくする様にとの事だった。

○この通達の趣旨は是迄の文面とは打って変り柔か
な表現である。 考えるところ、最近の住民の動静から
見て、住民も当局に強力せしめる様にする見える。
これは当局も警備も兵は少なく、是迄も押さえる事が
出来なかった為と思われる。

○1842年12月24日国帝は命令を下し、中国役人
よりの報告により、1943年1月下旬、欽差大臣が
英国全権に通知した事は、台湾で内密に調査する
為 使節2人を派遣した事、 叉台湾の責任者の罪が
明確になれば、逮捕して北京に送るのでそこで厳科に
書せられる筈との事である

一千八百四十三年三月五日天保十四卯年二月五日迄の
 義を広東より申来候ニ者、是迄延々に相成居候諸事
 平均の儀、未だ成就不致候内ニ難渋の儀差起り候、
 と申ハ和蘭同月四日伊里布義死去致候事ニ候
一此節右コミサーリス
官名致死去候ニ付一統相歎き
 申、其故は全く新規ニ組立候商法取扱候事ニ付、
 エケレスのプレニポテンチャリス
官名は右死去致候
 コミサーリス
官名の如く高官の者、唐帝より取計掛り
 不被申付候得者、右取計候事等延引に相成侭にハ
 其模様変し一大事と相成候義も可有之哉と一統推察
 致罷在候
一北方の湊土人等者エケレス商売と懇意を結へき様
 可相成と相考罷在候処、伊里布義死去いたし商法
 取極之儀取留に相成歎息相増申候
一和蘭三月十一日
寅正月晦日広東より申来候は、土人
 等今に不平を抱き居候得共、諸事無恙相進ミ申候由
 猶叉近頃騒動にて相止ミ居候商業も再び相開け、
 茶商法と相成、千八百四十二年七月一日
寅五月廿三
 日
より翌年二月晦日天保十四卯年五月晦日迄八ヶ月の
 間に右の産物千三百六万九千四百七十九ポント
 唐国よりエケレス国へ積渡し候由に候
一和睦調整之段千八百四十二年十月初旬
天保十三
 寅年十一月初旬
に急便を以てエケレス本国へ申来候、
 右ニ付エケレス国女王より差出申取極書は和蘭
 三月十六日
卯二月十六日ホンコンに廻着し候、
 然るに伊里布死後右取極相談致候者無之候間、
 同人跡役出来候を相待居申候
  (欽差大臣伊里布の死去と後継者待ち)
○1843年3月5日迄の事に付広東からの情報によれば
是迄延び延びになっていた、条約細目について未だ
詰めていない内に困った問題が起った。 これは
伊里布が同月4日に死去した事である

○この時期、欽差大臣の死去を皆歎いた。 この理由は
新しい交易の仕組みを決める時にあたり、英全権は
この死去した欽差大臣の様な高官は、国帝からの任命
でなければならず、任命が遅れれば交渉も長引き
其間に叉様相が変ると大事になるのでは、と皆推察
していた。

○北方の港の住民達は英国と商売を親しく結べると
思っていたが、伊里布の死去で商売取り決めが停止
してしまう事で歎きも増した。

○1843年3月11日付広東からの情報では、住民は今も
不満を抱いているが、全般的に恙無く推移している。
騒動も今は止み商売も始まり茶取引が中心である。
1842年7月1日から翌年2月1日迄8ヶ月の間に茶は
1,306万9千479ポンド中国から英国へ売り渡した。

○和睦交渉の事は1842年10月初旬に急便で英遠国に
到達し、女王がサインした条約書は1843年3月16日に
ホンコンに到着した。 従って伊里布死去でこの条約を
相談する者が無く、同欽差大臣の後継者がきまるのを
待っている。
一和蘭四月上旬卯三月初旬に広東より申来候ハ其地
 諸事穏に候て商売の儀ハ是迄の通に有之候由ニ候

一北国方の儀者何れ指たる事これなく候て、舟山
 アモイ
地名にても諸事穏やかにこれあり候
一外便にて広東に申来候は、ヘンレイポッテインゲル
 
人名儀、唐国へ出張罷在候海隊陸隊のゴウフルニュ
 -ルカヒテインゲネラール
官名に申付られ候由に候
一是迄唐国より申来候儀の内には、其地に罷在候
 エケレス人の儀ニ付、格別著しき事共これあり候
一右之通のもよふに候得者、是迄久しく取合ニ相成
 唐国との合戦終にエケレス人の勝利と相成申候、
 尤近頃差起り候事の振合にてはエケレス方見込通
 弥成行候哉と計り難くと存候、唐方にては欧羅巴人
 就中エケレス人の智勇の程を知り、如何様防ぎ候
 共勝利しかたき事を承知し、以来はエケレス人等
 の和睦を長く保ち申べくと存候て、右和睦いたし
 候上は自然と唐国の大幸と相成可申候
     (英軍の勝利と講和への道)
○1843年4月初旬に広東からの情報によれば、当地は
全て静かで商売も従来通りであると言う

○北方では大した事件もなく、舟山やアモイでも全体
は穏やかである。

○広東での情報によれば、ポッティンジャーは中国派遣
英国陸海軍の総司令官に任命されたとの事である。

○今迄中国からの情報では在住英人にとって特別
の事があった。

○今まで述べて来た様に長い間争ってきた中国との
戦争は終に英国側の勝利となった。 但し最近起った
事の解決は英人の予想通りに事が運ぶか分らないが、
中国側はヨーロッパ勢、中でも英人の智勇の勝れている
事をしり、どの様に防禦しても勝利が困難な事を理解
した。 其上で今後は英国と和平を長く保つべきと
考えた。 これは当然中国にとっても幸いと成るだろう

 右之趣咬留巴頭役共より申上候様申付越候ニ付奉
 申上候
           かひたんひいてるあるへるとびつき
 右之通申出候ニ付、和解仕原書相副奉差上候
                 掛り
                 大小通詞 印

 以上バタビアの幹部より報告申上げるよう指示された
 ので申上げる
      商館長 ピーター・アルベルト・ヒッキ
 
 以上提出あったので翻訳して原書を添えて差上げる
              掛り  大小通詞  印
出典:籌辺新編 蘭人風説四 (佐賀県立図書館鍋島文庫写本より) 
    
 阿片招禍録(国立公文書館、内閣文庫写本より)

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