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○ 安政乙卯賀蘭風説
         別段風説書
オランダ別段風説書 安政2年
       1855年8月1日長崎到着
           和蘭国
一当年者和蘭国中穏にて隣国其外欧羅巴の国々親しく
 交申候
一交易及ヒ航海の儀盛に有之候
一千八百五十四年
安政元寅年の末尚千八百五十五年当卯年
 の初頃暴風有之、船々数多破損人民数多溺死いたし、
 諸所損害有之候
一当年第三月
二月頃に当るケルトルラント地名イルドブラハント
 
地名其外ユテレグト地名過半洪水の水に破損し、諸人
 財物を流し申候、尤少々死亡も有之候
一国王を初め親族不相変無事に罷在候、前条洪水の災
 有之節、国王憐憫を垂不幸の土民を扶助いたし候
      オランダ国
今年はオランダも平和で隣国初めヨーロッパ諸国
と親しく交わり、交易・航海共に活発である

1854年末から1855年初にかけ暴風雨に見舞われ
多数の船が破損し、人民が溺死する損害あった

今年3月にケルトラント、イルドブラバント、ユトレヒト
など過半で洪水があり、皆家財等失ない死亡も
少々あった。

国王初め親族は無事で、この洪水被害に遭った
人民を見舞い支援した。
         和蘭領印度
一和蘭領印度の惣督并其妻ドイマールフアントウゐスト
人名
 千八百五十四年
去寅年の秋バンタム地名を越、シュマタラ
 地名
の西方に旅行致候
一スターツラードインホイテゲヨーネイーンスト
官名及ヒ和蘭
 領印度評議役イベセリユロフス
人名は評議役のフィーセ
 プレシデント
官名に被任候
一評議役のペメイエル
官名エガファンデルプラート人名交代
 の為スコウトベイナクト
官名イツデボイソレシュス人名
 
東印度に於て和蘭海軍の指揮役并インスベくラユール
 マリーネ
官名被命候、右先勤のフローイフォーグト官名既に
 交代の為印度に到着致候
一千八百五十五年第五月一日
当卯年三月十五日和蘭領印度
 政法改革致候
一呱哇其外領地当年季候不宜、コレラ
病名痲疹熱病一円流
 行致候
一呱哇其外領地屡地震有之、千八百五十四年第五月六月
 
去寅年四月五月頃に当るバンダレ島に於てハ右地震甚だ
 烈しく有之候、ウエストモウリン
時立吹西風当年呱哇其外
 領地に於て殊更烈しく有之候
一バレムハンク
地名ハ静謐に有之、悪心之者少々有之候得
 共、召捕られ、一揆の志有之候者追々散乱致候
一サムハス
地名に於て唐人全く和蘭の兵に被圧伏候、又
 一揆の首長其外召捕、蘭法の通罪に被行候、尤逃去者
 有之候、 其余は都て和蘭の威勢に屈服いたし候
一今彼地ハ平穏にて交易甚盛に有之候
    オランダ領東インド(ジャワ島他)
オランダ領印度の総督ツイストはその妻と1854年
の秋、バンタム、スマトラの西方に旅行をした

オランダ領印度の評議役のイベセリユロフスが
評議会副議長に任ぜられた
評議役のデルプラートは交代の為 ソレシュス
少将が東インドオランダ海軍の司令官に任命
された。
1855年5月1日オランダ領印度の政治改革あり

ジャワ及び近辺領地は今年は気候不順で
コレラや熱病が流行した

ジャワ他近辺領地でしばしば地震があり、1854年
5月6日、バンダレ島で烈しい地震があった。
今年はこの地域での季節風が特に強い

パレンバンは静かである。 謀反を企てる者達は
逮捕され、反乱分子は四散した。

サムハスで反抗した中国人はオランダ軍に鎮圧
され、反乱の首長他逮捕さ、オランダの法に随い
刑が行われた。 逃亡した者もあるが残りは
オランダの力に屈服した
今はこの辺は平穏で交易は大変盛んである


オランダ東インド領:現在のインドネシアの大部分
を占めていた。 ジャワ島を中心にスマトラ島、
ボルネオ島の一部、スラウェイン島、他周辺バリ島
など。 ジャワのバタビア(現ジャカルタ)に初め
東インド会社の本拠があり、1799年に会社解散後
はオランダ政庁が置かれ、総督が植民地支配を
した。 一時19世紀初頭全て英国領となったが
1814年以降オランダに権利を返還され、オランダ
支配は第二次世界大戦迄続いた。
    貌利太尼亜領印度
    シンガブール
地名
一先度の別段風説に唐人一揆の儀有之候処、右者当時
 相治穏ニ候

   ビルマー
地名
一ビルマー地名平穏ニ有之候
一メングドーン
に大造の石炭山見出し、猶イラワテイ
 浜手に於ても見出し候ニ付、印度并唐国渡海の蒸気船
 賃金格別減可申候

   アワスタラー
地名
一黄金掘出方今に不相替勉強致候
一南アウタラリー
に於て銀山見出申候
一メルボウルね
の金坑は不断沢山の黄金堀し此後尽る事
 有之間敷被存候、又メルポウルね
よりゲーロング
 エレキテイリ−セテレカラーフ
 エレキトルの気にて合図する仕掛
 の設既に取掛居候処、無程成就可致候
一フィクトクリ
にハ三ヶ所に車路を設申候

     喜望峰
一喜望峰の風聞是迄者一円宜く有之候
一千八百五十四年第五月
安政元年寅四月頃の末、領界居住
 のカフフルスタムメン
民の名争論起り申候、其他は諸事
 穏に有之、
 貌利太尼亜兵ハ二組の外皆英吉利国に帰り申候、
 領国自立合衆の仕法相整、国民相撰新にプレシデント
 ファンホランホフレイスタート合衆国の領主と唱申候
     英領印度
     シンガポール
前年の別段風説書で中国人の反乱の事を報告
したが、現在は治まり平穏である

     ビルマ
ビルマは平穏である
ラングーンに大量の石炭山が発見され、又
イラワテイの浜手でも発見された。 これでインド
地方や中国に航行する蒸気船の経費が大きく
減る可能性がある。

      オーストラリア
金の採掘に関してを相変わらす研究している
南オーストラリアで銀山が発見された
メルボルンの金鉱は大量であり、いくら掘っても
尽きる事がないかも知れない。 
又メルボルンからジェロング(Geelong )に電信の
設備をすべく工事の取り掛かっており、間もなく
開通する筈
ビクトリア州(メルボルンがある)には三ヶ所に
鉄道を敷設した。

     喜望峰(ケープタウン)
喜望峰の情勢は今の所全体的に良い
1854年5月の末、領界に居住する現地人と争い
があるが、其他は概ね平穏である
英国軍は2隊を残し、他は英国に帰った。
自立の共和国としての法を整備し、国民選挙に
より、新に共和国の大統領と唱える。

     唐国
一先度別段風説の続左之通ニ有之候
一千八百五十四年第六月
安政元年寅五月頃の風説には
 リンテンク
サンテングの分地ハ一揆の手に落、ヒチリ地名
 中所々是又同様の事に有之候
一右国過半は減し、北京は南方との通路を絶切申候、
 右の事勢ハ興廃の場に有之満州韃靼の柄権無覚束勢に
 有之候
一其後の風聞にて上海の官兵甚しく失策有之、又先度の
 別段風説に有之候運上役所者元に復しトーグユング

 一揆の手に入申候、香港チファン迄ハ海賊相増候、
 広東ハ少し静り候得共交易等之儀相止居候
一千八百五十四年第八月廿二日
安政元年寅七月廿九日
 風説にて広東の模様次第ニ悪く有之処、右広東の西方
 九十六村ハタライワの地の一揆に向ひ武備いたし候
 一揆の内にて既に一致せさる者有之、マンダレイエン
 
唐国の官名に種々相勧め候事有之候得共取用無之候
一市中の高家既に打寄相談、外国人の助を受んと相計り
 其旨北京ニ申越事有之候
一海賊不断弥増、広東の海口に賊船群集いたし候、香港
 辺ハ其儀無之候
一ワンポー
に於て一揆の勢強大ニ候得共、北方所々に
 於て敗を取申、上海ハ一揆の所有に相成り候
一シルヤメスヲイルリンキ
人名の一組広東河に到着いたし、
 一揆の者無之様相成勢を得申候

一千八百五十五年一月六日
安政元年寅十一月十八日上海ニ
 於てハ要害の壁窓を射んと官軍勉強致し候、弥船手惣督
 ラキュルレ
人名上海にボム丸を打掛申候
一千八百五十五年二月十四日
安政二年卯正月廿二日の風説
 にて、官軍上海に一揆を北方に追退け、広東の者ハ南方
 に追放申候、テユクサン
と広東との通路今全く元に復し
 候得共、千八百五十五年第四月
当卯三月の頃に当るの風説
 にて交易ハ相止候、唐人共新和蘭陀或カリフヲルテ

 不相変追々移住致候
             中国
前回の別段風説の続きは次の通り
1854年6月頃のニュースではリンテングは反乱側
が得て、ヒチリの中所々も反乱側の手にある

この様に国の過半を失い、北京政府は南方との
交通を遮断した。 この様な情勢は満州族の清
王朝の権力が頼りないものになってきたといえる

其後のニュースでは上海で清国軍側におおきな
失策があり、又前述税関事務所は元に戻し
トーグユングは反乱側の手に落ちた。 香港・
チファンは海賊が増えているが、広東は少し
治まった。しかし交易は停止している

1854年8月22日のニュースでは広東の様子は
次第に悪くなっており、広東西方の96村は
タライワの地の反乱に向け防備している。 
反乱側でも同調しない者もあり、役人に種々
献策しているが採用していない

市中の金持ち達が集って相談し、外国人の助力
を受けたい旨、北京政府に申請している。

海賊は益々増え広東の海には賊船が群集して
いるが、香港ではそれは無いという

黄哺では反乱側の勢力が大きいが、北の方では
所々官軍に敗れている。 上海は反乱側の所有
する所となtっている

ジェームス スターリング卿の一隊が広東河に
到着し、反乱側の脅威を無くす体制を得た。

1855年1月6日上海では要害の窓を射撃すべく
官軍は研究し、水軍の総督ラキュルレは爆裂
弾を打ち掛けた。

1855年2月14日のニュースでは官軍が上海の反乱 
軍を北方に追いやり、広東の者は南方に
追放した。 テユクサンと広東の通路は全く元に
戻ったが、1855年4月のニュースでは交易は未だ
止まった侭である。
中国人達はオーストラリア、或はカリフォルニアに
相変わらず移住している
  大貌利太尼亜并イールラント国
一アウスタラリー州より黄金の運送夥敷有之候

一イヽルランドに於てハ陸手の惣軍東方に差遣候斗国中
 安全のためヒユルゲルシリチ
町人の軍卒六万を備置候、
 貌利太尼亜のインケニウル
武備製作家リテル人名ハテレ
 ガラーフ
合図仕掛をバラクラファよりハルナに海中を
 通して設候義貌利太尼亜奉行の命を受、東方に開呈致し
 候、 此仕掛有之候ハヽキリム地よりロンドン
政府の名への
 便一時間余に可得通候
一英吉利のカビねツト
官名千八百五十五年第一月の末安政
 元年寅十二月初旬
頃退勤いたし、ロルトカルメルストン人名
 明跡相勤候
   大英帝国及びアイルランド
オーストラリアからの金の輸送が大量にある

アイルランドでは陸軍の殆どがクリミア戦線に派遣
されたので、国内の保安の為民兵6万を備える

英国の企業家リターは電信装置をバラクラバから
ヴァルナ迄海底を通して設置する様に英国政府
から命ぜられた。 この装置があればクリミア半島
からロンドン迄へ連絡が一時間余で可能となる

英国の内閣は1855年1月末に替わり、首相には
パルマーストン(Palmerstone)子爵が後を継いだ


1.バラクラバ:クリミア半島南端の港、英軍陣地あり
2.ヴァルナ: 黒海西岸、ドナウ河口の町
  仏朗西国
一先度の別段風説に有之候ハレイス
都府見せ物の義
 千八百五十年第五月一日
当卯三月十五日相始候
一サイントラウレントテユフロワト
村落の名一名イセレハ烈敷
 火事有之、民屋百四十軒焼亡いたし候、
 パレイスの職人釘打不相叶為の鉄砲製造の事を発明致候
 此製甚手易く工合宜く有之、右砲術方の吟味ニ相成候
一於仏朗西国ハ軍兵の働、勢有之候
        フランス
前回別段風説書に掲載したパリの見世物は
1850年5月1日から始まった。

サイントラウレントテユフロワト村、一名イセレで
大火事があり、民家140軒が焼失した。

パリの職人が釘打が出来ない様な大砲製造を
発明した。 簡単で具合が良いので軍で採用を
検討している
フランス軍の士気は非常に高い

1.この頃の大砲は釘を打つ事で使用出来なくなる
 と思われる。 英軍が清国の砲台を占拠した時に
 釘を打ち使用不可にした記述が別段風説にある
  イスパニヤ国
一千八百五十四年第六月廿八日
安政元寅六月四日一揆相起
 り都督職オトンねル
人名コンカー同上メスシナ同上デユルセ
 同上
一揆の連中有之、右一揆と官軍と種々罷戦有之候
一徒党の者ハ王の母及びニストル
人名の者共を追散せん為
 の趣意ニ有之候
一女王イサベルラ
人名ハエスハルテロ人名の助を乞ひ、
 然して新に政府を相立、即都督職エスワハルテロ
人名
 ミニストルプレシデンド
官名に申付候
一王の母マリヤシリステイナ
人名は仏朗西国に逃去申候
一当時ハ平穏に相成居申候、乍併イスハニヤ国カルリス
 ヲン
国民之名より破られたる様、且又同国衰微なる故国益
 の事とも心配罷在候
         スペイン
1854年6月28日将軍職のオドンネル等の反乱
が起り、官軍と衝突した。 反乱の趣旨は
女王の母及び首相を追放するためである。

イサベラ二世はエスパルテロ将軍に収拾を頼み
新政府を樹立させ、同将軍を首相とした。
女王の母マリア・クリスティナはフランスに亡命した

現在は平穏であるが、スペインではカルリスタの
問題を抱え、国も衰微しているので今後どうなるか
心配である。


オドンネル(O’donnell)将軍等のクーデターは
宮廷腐敗と反動政治を正す為と云われる。 
エスパルテロ(Espartero)も同様な考えで、
スペインの近代化に努力する
    ポルトガル国
一ポルトガルに於ては国の軍兵にマトリツト
地名に於ての如
 く勢を出さしめんと頻りに励し候得共国民其意を守不申候
        ポルトガル
ポルトガルでは自国軍隊に対し、隣国スペインの
マドリッドの軍隊の様に士気を揚げようとしているが
国民は全くその意欲がない。
    ドイツ国
一ドイツ国よりアメリカ江引越候儀次第に相募申候
一千八百五十四年第十月廿六日
安政元年寅九月五日シエン
 セン
地名に於て女王フエレシャ六十二歳にて相果申候、
 右はサクセンアルテンヒルク
地名の皇女及びベイエレン
 
地名当時の女王の母に有之候
一サラヤン
国名の王不慮の難にて亡命仕、右政弟ヨハン
 人名
執政仕候
一千八百五十五年第三月五日
安政二年卯正月十六日
 
オーステンレイキ国女帝一女を産申候
          ドイツ
ドイツではアメリカへ移民が次第に増加している
1854年10月26日ミュンヘンで王妃テレーゼが62歳
で死去した。 同王妃はザクセンアルテンブルグ
の王女の出身で現在のバイエルン国王の母である

ザクセン国の王は不慮の難で死去したので、弟の
ヨハンが執政する
1855年3月5日オーストリアの王妃が女子を産んだ

1.テレーゼ:バイエルン国王ルートヴィッヒ一世后
2.ザクセン王国:フリードリッヒ王ハ馬車事故で
 死去、 弟ヨハンが王となる 1854年8月9日
3.オーストリア:皇帝フランツヨーゼフ一世の時代で
 あり女帝ではない。 女王も王妃もオランダ語は
 Queenである為原文の誤訳と思われる

     キリシヤ国
一千八百五十四年第五月三十日
安政元年寅五月四日の合図
 を以て承知仕候得共、仏朗西軍勢アテーね
地名に打入、
 此都府を押領いたし候
 王及び其一族は始の程に逃去候得共、速に帰国致し
 新に政府を相立、都児格其外同志の国々を敵と致さず候
 千八百五十四年第六月
安政元年六月始末の告知にては
 エビリエス
地名も再び全く平穏に有之候
一テスサリ
地名に装ひ有之ギリシャ方より二十村を押領せ
 られ申候、然る処又都児格の軍勢テスサリに打入申候
一都児格人ハ再びキリシャ商船の為に港を開申候

          ギリシャ
1854年5月30日の電信で知った事だが、フランス
軍はアテネに侵攻し、同都府を占拠した
王やその一族はいち早く逃げたが、間もなく帰国し
新に政府を樹立した。 新政府はトルコ及びその
同盟国に敵対しない事とした。
1854年6月末の報道によればエピルス(Epirus)
は全く平穏になった。
テッサリア(Thessaly)では一時義勇軍に20村
占領されていたが、トルコ軍が再びテッサリアに
侵攻した。
トルコは封鎖した港をギリシャ商船の為に開いた


ギリシャは当時トルコの属国だったが、クリミア戦争
が勃発すると、トルコに対する反乱がギリシャ各地
で起り、又義勇軍を組織してロシアに荷担した。
ロシアが強大化するのを嫌う英仏は、ロシアに宣戦
布告する前からギリシャに軍事介入してトルコを
支援した

 

    魯西亜国・都児格国・エゲイブテ国
一千八百五十五年第三月二日安政二年卯正月十四日魯西亜
 国帝第一世ニコラース
人名儀、纔の間病気にて死去いたし
 右太子アレキサンドルニコラフイフトレサンフェト
人名即位
 仕、第二世アレキサンドルと称申候
一魯西亜国都児格国の戦争今に不絶盛に有之候、尤都児
 格国ハ英吉利・仏朗西の勢に助られ候儀に有之候
一千八百五十四年第四月廿二日
安政元年寅三月廿五日ロシア
 の港町放火いたし候後数多の英吉利・仏朗西海軍堅固の
 市街セバストポル
街名に発向いたし候、昨年の別段風説書
 を見給ふべし、此街はテキリム峡の前場に在之候、黒海の
 魯西亜諸海軍ハ右手広の軍港に在之即チリニー船三四
 艘小船四五十艘に有之候
 然るに其後英吉利・仏朗西の海軍分配し一分ハ黒海の
 諸渚を探索し、其余ハ近辺にありてセバストボル
前に出ツ
 より軍船の出るを妨げ、此年中斯の如く無業にて罷在候
一オデスサ地名は第六月
〔五六月〕に至て又々放火せられ、
 補理せし要害の諸具失滅いたし候
一此辺の戦争ハ冬中打続左に記候通今に絶不申候
  ロシア、トルコ及びエジプト
    (クリミア戦争全般)

1855年3月2日ロシア皇帝のニコラス一世は急に
病気で死去したので太子アレクサンドルが即位し
アレクサンドル二世と称した

ロシアとトルコの戦争は益々烈しくなったが、
トルコは英仏勢に助けられている。

1854年4月22日ロシアの港町に放火した後、多数
の英仏海軍は堅固な街セバストポルに向った。
昨年の別段風説書参照の事。 此街はクリミア
半島の南部にあり、黒海のロシア艦隊はこの広い
軍港に即ち戦列艦3-4艘、小船40-50艘ある

英仏海軍は二手に分かれ一隊は黒海沿岸を
探索し、一隊はセバストポルから軍艦が出るのを
防ぎ、此年の間はこのような状態だった。

オデッサは1854年6月に再度放火に遭い、修理
した要害の諸道具を焼失した。
此戦場〔黒海)での戦は後述の様に冬の間も続く


1.英仏のロシアへの宣戦布告は1854年3月28日
2.テキリム: オランダ語de Krim、 クリミア半島
 (Crimea)の事
一魯西亜北方に於ての敵対ハ右様永くは無之候
一英吉利・仏朗西の軍勢ハ千八百五十四年第七月
安政元年
 寅六月
船将オムノねイ人名の指揮にて白海エ赴き申候、
 将タ此勢は英吉利蒸気フレガツト船一艘同蒸気コレフェ
 ット船九艘、仏朗西蒸気コルフェット船九艘に有之候

一白海港々を此手を以て取囲ミ申候、将又魯西亜領ラツプ
 ラント
国名の都府コラ地名及ひ其地此海渚の場所々に同盟
 方より放火致弐ヶ所ハ焼打致候
    (白海戦線)
ロシア北方での戦いは上記の様に長くはなかった
英仏海軍は1854年7月オムノネイ提督の指揮で
白海へ向った。 規模は英国は蒸気フリゲート
一艘、蒸気コルベット九艘、仏は蒸気コルベット
9艘である。
白海の港々を此艦隊で取り囲み、ロシア領ラップ
ランドのコラ及び近辺の渚を放火し、2箇所は
焼討ちした。

1.ラップランド:スカンディナビア北部フィンランド
2.コラ:同半島、 白海に突き出る、現ロシア
一千八百五十四年安政元年の春に至りて仏朗西・英吉利の
 海軍東海に罷越申候、此諸勢リーニー船三十艘小船四十
 艘にして砲三千五百門水夫三百人銃兵一万五千人にて、
 此内一万五千人ハ仏朗西兵に有之候
一是等ハ元来コロンスタツト
地名の甚堅固なる魯西亜港を
 襲ひ候為に有之候、然れとも纔なる戦を為し、魯西亜渚
 の一所に襲ひ申候、此時の重なる事ハ千八百五十四年第
 八月十四日
安政元年寅七月廿一日廿二日にポマルシユント城
 及び砦を攻取候事に有之候、二千人の兵擒となし砲百門
 を押領いたし、同盟方ハ彼方の告知にてハ唯百廿人と
 殺戮いたし候、 将又城郭及び砦は破壊せしめ、此押領を
 なせし後に残りしものは火薬を以て飛散せしめ申候
一右兵勢の前後とも船にハコロンススタット
地名の前に罷
 在候、是ハ右砦の模様を知り、且は手負の療治を致し
 候為に有之候、右砦は恐べく堅固に有之、殊ニコレラ
病名
 流行せしを以て惣督ナビール
人名攻撃を止め候儀ニ可
 有之候
一此海軍莫大の魯西亜商船を奪取、魯西亜領東海の
 諸港を発して閧関いたし候
一東海出張の軍勢数多病の為に亡命いたし候
一此発向はポマルシュント
前に出を攻取候得共無程相終候
 儀と相見江候、同盟の一手ハ東海の南方に於て第十月

 八月
頃に至て休業いたし候
一当第四月
二月中より三月中迄 新に同様の軍艘一組
 東海に差越し候
   〔バルト海戦線)
1854年春に英仏海軍はバルト海に向う。 規模
は戦列艦30艘、小船40艘、砲3,500門、水夫
300人、銃兵15,000で内15,000人は仏兵である。

目的はコロンシュタットの非常に堅固な港を
攻撃する為である。 この時の主たる戦果は
1854年8月14日ポマルシュント城及び砦を占領、
2,000人の捕虜と100門の砲を押収した事である。
同盟側の損害は発表では120人死亡との事で
ある。 猶同城郭は押収後爆薬で破壊した。

戦闘の前後艦船はコロンシュタットの前に碇泊
した。 これは砦の様子を知る為と負傷者の治療
の為である。 砦は堅固であり、特にコレラが流行
したので、提督ナピアーは攻撃を中止した。
同盟海軍は大量のロシア商船を奪い、バルト海
のロシア領諸港を破壊した。

バルト海派遣の軍勢は多数が病気の為死亡した
この攻撃でポマルシュントを占領したが、その後
直ぐに中止し同盟軍の一部はバルト海南部で
10月に休戦した
今年〔1855年)4月より新に艦隊がバルト海に向う
注:
1.東海: バルト海
2.ナピア提督: Charles Napier
3.ボマルシュント(Bmarshund) フィンランド南端の
 島にある要塞
4.コロンシュタット: サンクトトペテルブルグ
  (ロシア都)の前方の島にある要塞の町

一諸侯領シルタライ
地名ワルラヘイユ同上及び是に境界する
 国々に於て昨年中凡絶間なく戦申候
一フェルドノシカル
官名フリンスパケウイソツ人名配下の
 魯西亜軍勢ハ当年始め頃ハ多勢テトナウ河にそふて
 据へし陣中に相集り、且オメルバカー
人名配下の都児格
 の重兵ハ出張を止め申候
一カラファット
地名キュスナーセ及び其他区々の場所に於て
 厳敷戦争有之候、然れとも此勝敗不分明に有之候
一オーステンレイキ国は取計書の外、昨年同盟方及び
 プロイス国ト調印致候、 昨年の別段風説書を見給ふべし
 且又魯西亜人バルカン山を越候以前、フロイス国責防の
 約を極め申候
一オーステンレイキ国は平和を結ハしめんために甚勉強致
 し候、 然れとも就中諸侯領モルダフイエ
地名及びワルテ
 セイエ
地名をオーステンレイキ軍勢取囲ミて魯西亜方
 立退候様の趣向をいたし、且又此儀叶ハさる時のため、
 別段九万五千人勢を加へ気色を顕し対陣いたし候、
 諸侯領ハ爰に於て魯西亜及び都児格の軍勢立退、オース
 テンレイキの諸勢四万人を以て取囲ミ申候、
 砦に於てハ一段オメルバカー
人名方魯西亜方より多の利
 を得申候
一右の半テドナウ河名の河口近辺に於て著き固衛有之、則
 ドナウ河東右手に有之候ユルガリー
地名のシリステイリエ
 と申砦に有之候
一右肝要の砦は一方に於てハワルセイエ
地名に製合に
 勝手宜、且又連山バルカンの北東に於て都児格一分の
 要害に有之ドナウ河の大分を領し候
  (ドナウ河口戦線)
諸侯領であるモルダヴィアとワラキア及びこの
境界付近で昨年中戦闘が絶えなかった。

パスケヴィッチ元帥配下のロシア軍は当年初め
頃ドナウ河に添って布陣し、且オマールパシャ
配下のトルコの重兵は攻撃を阻止した。

カラファット、キュスナーセ其他でも烈しい戦闘
があったが勝敗は不明である

オーストリア国は戦争方針について昨年同盟側
及びプロイセンと同意(昨年の別段風説書参照)
且ロシアがバルカン山を越えた場合には
プロイセン国も防衛する約束をしていた。

オーストリアは和平を結ばせるべく研究したが
諸侯領であるモルダヴィアやワラキュアを
オーストリア軍が取囲み、ロシア軍は立ち退く様
求めた。 同意無い場合にと別途95,000の軍勢
を備えたので、ロシア及びトルコの両軍は此地
から立ち退き、 オーストリア軍4万で取囲んだ。
砦はオマールバシャがロシア側より有利だった。

この砦はドナウ河河口近辺にある堅固な砦で
ドナウ河東右手のユルガリーにあるシリストラ
と言う砦である
この重要な砦はワラキアを押さえるに都合よく
又バルカン連山の北東ではトルコにとり重要。

1.パスケヴィッチ(Paskevich)ロシア軍元帥
2.オマール・パシャ(Omar Pasha)トルコ軍大将
3.オーストリアは一応中立だが、ワラキア・モル
 ダヴィアがロシア領になる事を危惧して、撤退
 勧告しロシアは引き下がった。オーストリアは
 最終的には中立を破棄して同盟側に加わる。
一第四月卯正月中旬より二月中旬まで より右砦魯西亜方より
 少勢を取囲ミ狭く閉込屡襲ひ至極難義に及び候、
 然れ共魯西亜方競掛りし勢ハ悉く討れ候、且又魯西亜方
 此場所を取囲ミ数千の兵を失ひ候得者二万五千の同盟
 押寄、且又魯西亜人を諸方より煩せ、オメルハカー
人名
 軍兵寄せ掛て、魯西亜人退陣の期に至らしめ申候、是ハ
 即凡第六月
卯四月中旬より五月中旬まで 末の事に有之候
一依之此所の戦争ハトナウ河口の辺及び此河口辺の沼地
 住民少きドフリエツトスカーと申所迄引取、境間の戦争と
 相成、其後ハ右場所に魯西亜人襲入しオメルハガー
人名
 の方よりハ時々是を追払申候


一同盟方軍勢一手の出張ニ付、英吉利仏朗西勢の大群
 右場所之近辺ニ赴、ファルナー
地名の港を集合の場所
 といたし候、一致仏朗西・英吉利・都児格の軍勢魯西亜
 国の一方に襲候や否、暫の間ハ相知不申候、然れとも
 同盟方ハ攻取事難くとも彼等の肝要なる外場所江押寄
 せし事、間もなく相知申候
1855年4月以後砦をロシア側が屡襲い、苦戦した
がロシア側が競って攻撃をするのを撃退した。

ロシア側は此場所を取囲み数千の兵を失った上
更に25,000の同盟側が押寄せロシア軍を悩ます
処にオマルパシャの軍が攻撃した。 ロシアが
退却を余儀なくされたのは同年6月末の事である

これによりドナウ河口は境界の争いとなり、この
場所にロシア人が襲撃すればオマルパシャ側が
追払った。

同盟軍が一手に出撃する為、英仏の大軍が
上記ドナウ河口近辺のヴァルナ港を集合場所に
した。 英仏及びトルコ軍がロシアの何所を襲う
か今の所分からない。 併し同盟側が占領する
事が難しくとも重要な場所へ押寄せる事が間も
なく明らかになる


一此新の戦争の事を記し候以前、猶ケレインアジー
 小亜細亜といふ
に於いて魯西亜軍勢とシューセルマン地名
 の民と黒海及びハルシャ国の境に沿ふて為せし戦争に
 就て著すへく候、
 此戦争の発りハ数年来魯西亜人とカウカシエ・ミレケレ
 リエ・イムケレツテイエ及びゲオルキエ
何れも地名の住民
 シルカスシールス
住民の名の間に敵対の心生せし故に
 有之候、爰に於て魯西亜ハ許多軍勢の備を要用とせし
 事有之候
一魯西亜方三十年来打続出精押領し当時其地全く支配致
 居候此地より彼勢追払申候
一都児格方ハ此時其地に軍勢を送り、且武器其他軍用の
 品々差送り敵兵を相支申候、魯西亜方にはハルシャ国
 味方と為る事を計り、右ハ全く一には都児格勢を恐れ、
 二ニハ貌利太尼亜領亜細亜の英吉利軍を恐れ、
 ベルシャ人争戦に加勢をなすを厭ひ相拒候儀に被存候
  (カフカス=コーカサス、小アジア戦線)
この新な戦争の事を記す前に、小アジア地方で
ロシア軍チエルケスク人が黒海とペルシャの
国境で戦った事を著す。 
此戦争の発端はロシア人とカフカス、ミレケレ
リエ、イムケレツレイエ、グルジアに住むシルカス
シールス人との間で敵対しており、ロシアは多く
の軍を備えねば成らなかった。
ロシアは三十年来此地を占領しており、この
住民を追払っていた。

トルコは此の地に軍を送り、更に武器や軍需品を
送りロシアに対抗させていた。 ロシアはペルシャ
を味方に付けようとしていた。 しかしペルシャは
トルコ軍を恐れ、又英国領アジアの英軍を恐れ
ロシアに加勢して戦争に巻き込まれる事を嫌い
ロシアの提案を拒否しているようだ。


1.Klein-Azie 蘭語 黒海南岸地域〔トルコ)
2.チェルケス人 コーカサス山脈北側に住んだ
 イスラム民族、Circassiers(蘭)、Circassians(英)
3.ハルシャ: ペルシャ国
一最初魯西亜界に差出候セリムハカー人名配下の都児格
 勢三万四千人ハ魯西亜国ゼねラール
官名アントロニュフ
 人名
の為に千八百五十四年第六月五日安政元年寅五月十日
 同第七月三十日七月六日被打破申候
一カルス
地名に於てロイテナンセねラール官名ビュトフ人名
 第八月五日寅七月十二日都児格勢六万人を打破申候
一右両度の軍勢ハ大凡未練の兵且ハエケイフテ
国名及び
 小亜細亜の援兵にして軍陣未熟の者共なれハ魯西亜人
 の為に不意に襲れ申候
一第八月三十一日
閏五月八日同九月七日同十五日エルセウ
 エム
地名及びカルス地名に於て戦争有之候、カルス地名
 の方ハ凡五千の魯西亜人及び都児格人の戦ひに候得共
 勝敗相決不申候

一其末諸所々合戦有之候得共兎角勝敗不決、一度ハ
 都児格方の勝利なり、又一度ハ魯西亜方の勝利と相成
 申候、 尤一躰ハ魯西亜方敗亡多有之候、都児格方ハ
 シルカスシー
地名猛勇の野人の助力によつて遠く前方に
 進む事を得申候、其軍陣の大将セリムバカー
官名の跡職
 を和蘭九月
寅閏七月より同九月まで中オフエンバカー人名
 及びゲねラールユイオン
人名引請申候
最初にロシア国境に出撃したセリムパシャ配下の
トルコ軍34,000人はロシアのアントロニュフ将軍の
ために1854年6月5日と7月30日に敗北した

カルスでは同年8月5日ロシアのビュトフ中将が
トルコ軍6万を破った。
これら2度の戦闘のトルコ側軍勢は未経験の兵で
エジプトや小アジアの援兵で戦に未熟で、ロシア
軍に急に襲われたものである

同年8月31日と9月7日エルセウエムとカルスで
戦闘があり、凡5,000人のロシア人とトルコ人が
戦っているが勝敗は決まっていない。

その他所々戦闘があるが勝敗は決していない。
一度はトルコ軍が勝ち、一度はロシア軍が勝つと
いう事だが、全体ではロシア側の負けが多い。
トルコ側はチェルスクの勇猛な野人の助力で
進撃している。 又トルコ軍の大将はセリムパシャ
の後任として9月中にオヘンパシャ及びユイオン
将軍が引き継いだ。


1.勇猛な野人: チェルスクのイスラム指導者
  イマーム・シャミールと思われる
2.カルス: トルコ東端アルメニア隣接都市Kars
一第八月寅七月八日より閏七月八日まで中エケイフテ地名バカー
 
人名儀死去致申候、 右ハ全く毒殺に可有之諸人推察
 いたし候処、モメリユツク人両人にて縊殺致候事明二有之
 此者共者同人の取扱悪敷、其仇を報せん為にせし事に候
 此殺害の内壱人ハ虜と成候由申候
一故イブラヒムバカー
人名の同胞モハメットハカー人名の孫
 アブバスバカー
人名エゲイブテ海軍のアドミラール官名
 跡職に相成申候
   (エジプトの異変)
1854年8月エジプトの指揮官が死去した。 毒殺
されたと見られていたが、モメリュック人2名が絞殺
した事が明らかとなった。 同人がこの二人を悪く
取扱った為に復讐した由で既に一人は逮捕。

故イブラヒムパシャの同胞モハメットパシャの孫
アッバスパシャがエジプト海軍の提督を引き継ぐ

一然りといへとも数多の仏朗西・英吉利海軍、少数の陸軍
 ファリカの地に罷在、此軍勢都児格勢と一手に成ポーレン
 魯西亜の領地に発向する哉否の期ハいまだ相知不申候、
 其為に魯西亜国にてハ大軍を催申候、其勢二十万より
 三十万に及びホウレンの辺に備候由申候
一ファリカノ辺に今仏朗西英吉利勢五万四千罷在候
一第八月廿日
去七月廿日右船々に荷物を積入、同三十一日
 
去七月七日に相仕舞伺候、第九月四日閏七月十二日右船に
 凡五百艘ファリカ・ヒエルカス并コンスタンテイノポルの地
 より一同出帆、海路に赴申候、此軍勢凡八万人有之候、
 コスロルの地に上陸場有之、第九月十三日
七月廿日より
 十六日
 七月廿三日迄四日程滞在いたし候、
 此地ハセハストボル
地名より英吉利里法三十里北方に当り
 エウファトソヤ
地名より二十里南手に当り申候、魯西亜の
 防禦を相待候へとも初日にハ魯西亜勢一人も出会不申候
  〔黒海、クリミア上陸)
大部隊の英・仏海軍及び少数の陸軍がヴァルナ
に集合し、ここにトルコ軍も参加し同時にロシアの
領地に何時出撃するかどうか未だ分からない。 
一方ロシアでは大軍を構成し其数は20万人から
30万人を備えている由である。
ヴァルナの英仏軍は5万4千である

1854年8月20日艦船に荷物を積みいれ同31日に
は完了した。 9月4日これら凡500艘の艦船が
ヴァルナ、ヘルカス、コンスタンチノープルから
同時に黒海に出撃した。 総勢凡8万人である。 
上陸地点のコスロルで9月13日から16日まで滞在
している。 此地はセバストポルより30マイル北方
でエウパトリアより20マイル南である。 ロシア軍
の防衛を予定したが初日はロシア兵には一人も
遭わなかった。
注:
1.ヴァルナ(Varna) ドナウ河口、黒海沿岸の港 
2.エウパトリア Eupatoria :クリミアの港
3.上陸地点:セバストポル北53kmKaramita湾
一フェルドマールシカルク官名フォルストメンシコワ人名
 魯西亜海軍并キリム陸軍の軍将に有之、其下に者アト
 ミラール
官名ナシムリ人名并オロイヒリ人名、セバストボル
 
地名港の軍令を司り、ゼねラール官名チエオデエエリ人名
 ハ同所陸軍の将として其砦の防禦を被命申候
一キリム
地名の魯西亜勢ハ其頃六万人にて打固申候、
 乍去十万より及不足候儀者相叶申間敷、其内二万ハ
 ゼねラール
官名リフランテイ人名に随ひ、キリム地名
 北手并東手に可罷在候
一一致の軍勢ハ英吉利勢凡二万五千、仏朗西勢四万、
 都児格勢壱万五千可有之、英吉利勢者ゲねラル
官名ロル
 トラグラーね
人名指揮致し候、海軍ハ英吉利のアドミラル
 
官名デユンタス人名并仏朗西のアドミラル官名ハメレン人名
 帆前フレガツト船五艘、蒸気船運送船七十艘、帆前運送
 船大凡四十艘有之、重大砲三千挺有之候、此大軍仏朗
 西の援兵一万より一万五千に続申候
一仏朗西帝の甥プリンスナポレオン
人名仏朗西軍の将に
 命ぜられ、英吉利女王の甥へルトグフェンカムブリツトケ

 人名
 英吉利勢の将に命ぜられ申候
   (両軍体制ークリミア戦線)
メンシコフ元帥がロシア海軍並びにクリミア陸軍
を統括し、其下でナヒーモフ提督とコミロフ提督
がセバストポル港の守備、トッテルベン中将は
同所に陸軍の将として砦の守備を指揮する事が
命じられた
クリミヤ半島にロシア軍6万人を備えており、
10万人には満たないが内2万人はリフランテイ
将軍の指揮でクリミアの北部及び東部に展開した

同盟軍側は英軍25,000、仏軍40,000、トルコ
15,000を擁していた。 英軍はロード・ラグラン
将軍が総指揮、英海軍はデユンタス提督、仏
海軍はハメレン提督で帆船フリゲート五艘、
蒸気船運送船70艘、帆船運送船凡40艘、大砲
三千挺である。 此大軍にフランスの援兵
1万ー1.5万が加わる。

フランス皇帝の甥ナポレオン公が仏軍の将に、
英国女王の甥ヘルトグフェンカムブリットケ公が
英軍の将に夫々命ぜられた


1.メンシコフ (Prince Menshikov) ロシア軍元帥
2.ナヒーモフ(Pavel Nakhimov)ロシア海軍提督
3.リフランテイ(Pavel Liprandi) ロシア陸軍将官
一セバストボル地名砦の形容三方に突出たる構営を北手に
 取囲候儀と存付、セバストポルより和蘭二時半行有之候
 南手要害陣のハラツクロファ港を陥れ申候、此所に大砲を
 卸しプリンスメンシコフ
人名ハ上陸を存付、コスロル地名
 立退候義を示し申候
一此告示の後同盟に出会し南方発向を止め、海岸并
 アルマ河に添ふて陣を岸に列申候、英吉利勢ハ岸の
 魯西亜寄陣に押寄せ、仏朗西勢ハアルマ河を渉り平場の
 陣に取掛ケ、和蘭三四時血戦の後、魯西亜勢を岸より
 追落申候、同盟の説に随て騎馬兵の不足に依て充分の
 勝利と相成不申候、軍勢の損亡仏朗西英吉利の告示に
 ハ魯西亜方凡五千、同盟軍の方凡三千と有之候、
 海軍ハ合戦中放発を以て同盟勢を助け申候
一軍将マールシカルク
官名デアルナウト人名既にコンス
 タンチイノボル
地名発足の頃より煩居候処、軍勢指揮
 且此戦争の心労にて死去致候
 ロルト
官名ラガらーね人名惣隊の令を司り、仏朗西の
 軍将にハゼねラール
官名ラウロヘルト人名被命申候
一此合戦ハアルマ戦と申第九月廿五日
去閏七月二日
 事に有之候
  (アルマの戦いークリミヤ)
セバストポル砦の形は三方に突き出た形をして
おり是を北に見て包囲するべく、セバストポル
2時間半行程(10km)南の要害バラクラバを陥れ
ここに大砲を卸すため、同盟軍はコスロルを離れ
南下する動きをメンシコフ将軍は気づいた。

この情報を得た後、同盟軍の南下を阻止する為
ロシア軍は海岸からアルマ川に添って布陣した。
英軍は岸のロシア陣地に押寄せ、仏軍はアルマ
河を渡り3-4時間戦い、ロシア軍を岸から落とした
同盟側の発表では騎馬兵が不足で充分の勝利
は得られなかったがロシア軍5千、英仏軍3千の
損害との事。 海軍は戦闘中に発砲して同盟側
を助けた。

総司令のアルナウト元帥はコンスタンチノーブル
出発の頃より病気だったが、心労の為死去し、
ロードラグラン将軍が総司令となり、仏軍の将に
はラウロヘルト大将が任命された。 
この戦闘はアルマの戦いと云い1854年9月25日
に起った。(9月20日と記録されている)

1.アルマ河:クリミア半島の西、セバストポルより
 30km程北にある。 
2.バラクラバ(Balaclava) 
3.ラウロヘルト(F.Canrobert) 仏軍将官
一廿六日去閏七月四日セハストボル地名廻り陸地ハラワクラ
 ファに引去ん事を試候処、魯西亜陣被打破、散乱致候、
 乍去ベルベツキ
地名北手向辺の備にて喰留申候、
 翌日暫時挑戦の後此軍勢蒸気船にてハラワタラファ
地名
 に渡海いたし、大砲の船卸廿八日に相始申候、
 
 セバストボル
地名今海手より取囲候へ共、囲軍の間に
 東北二条の通路を明、爰より対陣中軍器并兵糧新手の
 軍勢を召寄せ候儀出来申候
一同盟軍急に押寄るに随ひ魯西亜援兵も亦速に到り
 勢四万歟五万と被考候、港内ハ同盟海軍の襲来を防
 がん為大砲二千挺相備申候、其十字放九ヶ所の要害
 より出来、入港の敵船毎を打砕んと設候、又魯西亜
 人既に夏中リ―ニー船六艘を港口難所に沈め、是に
 依て港口を塞ける事疑無之候
1854年9月26日同盟軍はセバストポルを迂回して
陸路バラクラバに進軍を試みた。ロシア陣は
破られたがベルベッキ川の北手でなんとか阻止
した。 翌日この同盟軍勢は蒸気船でバラクバラ
に行き、同28日より大砲の陸揚げを始めた。

セバストポルは海手より取囲むが東北2本の道路
は明いており、ここから武器・兵糧及び新手の兵
を入れる事ができた。
同盟軍の急襲に対応して、ロシア援兵も又直ぐに
到着し、軍勢は4-5万と思われる。 港は同盟
海軍の攻撃を防ぐ為大砲2千挺を備え、九箇所の
要害から十字射撃ができた。 又敵軍艦の侵入を
防ぐ為ロシア軍では既に夏の間に戦列艦6艘を
港口に沈め入口を塞いでいる。
一第十月十一日去閏七月廿五日同盟軍市中を放火致し候、
 魯西亜勢ハゼねラール
官名リフランデイ人名を将として
 北手より来り、其月并翌月中同盟勢の脇手、後手より責
 懸り候模様有之候
一第十月廿五日
去八月四日廿六日同五日同盟勢に押寄せ
 及合戦、此両日血戦の後、魯西亜勢引入候、
 又第十月三十日
去八月九日第十一月一日二日 去八月
 十一日十二日
の戦も同様烈敷有之候、此合戦に海軍加勢
 してアトミラール
官名ユミロフ人名命を落し、アドミラール
 官名
ナシモフ人名深手を負申候 

一砦は此年より取囲、北手東手ハ申述候通囲無之、此手
 より封内に通路を明申候
 
   (バラクーバの戦いークリミア戦線)
1854年10月11日同盟軍はセバストポル市中に
放火した。 ロシア軍はリフランデイ将軍の指揮で
北手から来て、同月か翌月中には同盟軍の
脇手や後手から攻撃する模様である

10月25日及び26日同盟軍にロシア軍が押寄せ、
この両日戦闘があり、ロシア軍が引いた。
又10月30日、11月1、2日も同様に激戦があり、
此時加勢のロシア海軍コロニロフ提督は戦死し、
ナヒモフ提督も重傷を負った。
砦はこの年より包囲したが北と東は明いており、
ここから外部へ通路があった


1.ウラジミール・コロニーロフ ロシア提督

一仏朗西勢ハ砦の北手南手并南西の方、英吉利勢は過
 半南東の方に備申候、英吉利勢ハ手近の砦大体取囲
 バラワクラファ
地名の通路を塞き申候、此備の北東
 インケレマウン道と申破壊の家屋に到道有之候 
一甚深きラフエイねン及び急流の川デテルナリ
ヤ川名に侍
 て進む処の道ハ区々の高きの小連山に因て眼前を蔽ふ
 程に有之候、第十一月五日
九月十五日の早朝に英吉利
 人共一万二千人種々の隊伍を立て、砦の前後及び
 英吉利の田野及びバラウクラ―迄の通路を塞申候、
 
 魯西亜人共ハ強勢を引請け、其上国帝の両末子
 ゴロードフォルステン
官名ミガエル人名并エコラール人名
 其場に居合候ニ付、歩兵共大に憤激致し第十一月五日
 
九月十四日早天に砦の門を開き、凡一万二千人四隊となり
 南方に引退き候処、カデイホイ村に在る仏朗西の最弱の
 兵ハパラワクララー
地名迄其通路を塞がんといたし申候
一右同時に同志組合の外方右側を循(めぐ)り十隊か
 十二隊かハ北方に向ひ、四五万人ハ南方に向ひ烈敷
 進発いたし候
一英吉利人の先陣ハ不意に襲れ石火矢十二門奪取れ
 申候、初度の襲口に備へたる八千人ハ英吉利の告知に
 於てハ、四万人の襲ひ来るを四時の間防禦いたし候、
 其余の英吉利人千人ハ砦を出て不意の攻戦を恐れ、
 己の砦及び田野を守り候儀に御座候
一インケルマン
地名の峡谷に於て及びテルナイヤ川名
 堤にそふて恐怖すへき合戦あり、魯西亜人共ハ自然の
 勢ひに乗じ頻に付込、暫時の間に強く弱りたる敵勢を
 打砕んと欲し此戦初りて第二時より第四時まての間
 相互に防戦致し候、 ゲねラル官名ポスケウェット
人名
 配下仏朗西の一手強勢六千人は終に敵を擒んが為に
 デラルナイヤ
川名にそふて来り申候、英吉利人共ハ
 第一の砦を失ふたる後ハ一寸も逃避不致、仏朗西人の
 激戦に因て事治り、魯西亜人はセバストボルに帰陣致候
 
 英吉利及び仏朗西の告知にハ魯西亜方の死人重き手負
 一万二千余にて同志の方ハ凡四五千人の重き手負死人
 有之候由に候、英吉利のゲねラール四人ハ手を負、三人
 ハ討死致候、此時魯西亜方にも亦ゲねラール六人亡命
 致し候由に御座候


 (インカーマンの戦い−クリミア戦線)
仏軍は砦の北手、南手、南西、英軍は大半南東
に備えた。 英軍は手近の砦は大体取囲み、
バラクラバへの道路は塞いだ。 この布陣の
北東にインカーマンがある。

深い崖と急流のテェルナヤ川と平行する道路は
まちまちの高さの丘陵で視界が良くない。 
11月5日早朝、英軍は1万2千人隊伍を組み、砦
の前後と英軍の田野とバラクラバ迄の道路を塞ぐ

ロシア軍は追加軍勢を受容れ、その上皇帝の
末子二人が督戦するので、兵の士気が上がり
凡そ1万2千人が4隊となり南方に繰出したので
ガデホイ村のフランス軍がバラクラバへの道を
塞ごうとした
上と共に同盟軍の外側右を迂回して10隊-12隊
は北方に向かい、4万ー5万人は南へ向った

英軍の先陣は突然襲われ、大砲12門奪われ、
英国の報告では8千人でロシア軍4万人を4時間
防いだ。 残り千人程の英軍は砦を守った。

インカーマンの峡谷及びテルナイヤ川の岸に
添って激戦があった。 ロシア軍は地勢を利用し
頻りに攻撃を仕掛け、2時間程双方が戦う。 
ボスケウェット将軍の仏軍6000人はテルナイヤ川
添いに布陣し、英軍は最初の陣を失った後一歩
も引かず、仏軍による激戦で持ち堪え、ロシア軍
はセバストポルに帰陣した。 

英仏の発表ではロシア方死傷者1万2千、同盟側
死傷4-5千人の由、 英軍の将官4人負傷、3人は
戦死した。 ロシア方も将官6人が戦死した

注:
1.デテルナリヤ de Chernaya テェルナヤ川
2.インカーマン(Inkerman) :セバストポル砦の東
 1km程のテェルナヤ川口

3.田野:セバストポル東10km程のMackenzie’s
 Farmの事か?

一同志方の為に相応なる上陸場ユパトリア街は同志方に押
 領せられ、要害堅固にいたし候処、第十一月十三日
九月
 廿二日
に魯西亜人とも襲来候得共、海軍の援兵に因て
 到強に防禦仕候、此後ハ日々同所に於て戦争有之候
一右ニ付同志方者デキリム
地名にて頻に防禦仕候得共、
 其形勢ハ殊の外難渋の体に成行申候、合戦の発暴仕候
 所々何れに於ても亦コレラ
病名流行いたし、両陣の衆群
 ヲ怖しく悩申候、通例デキリム
地名に於ては冬日の寒気
 格別強く其時候に相成候と、暴風及び際限無き暴雨有之
 其徴を示し申候、兵卒向ハ唯肌薄き衣装と帆木綿の天幕
 を所持致し、其外者右気候拒きの具纔たりとも所持罷在
 候ものは至而稀に有之候
一軍勢は打続昼夜とも暴風或は湿りたる地上に於て雨水の
 流れの中に浸り、亦数千のものハ尚大なる天災の為に発
 出し候節コレラ
病名或ハ他病の為に亡命致し候、

 蒸気其外大小凡そ四拾艘の運送船々第十月
八九月
 英吉利国よりデキリム
地名に送越申候処第十月十四日
 十五日
九月廿四日廿五日黒海烈風波涛にて三十四艘の
 船々両日の間に難船に及び候、其内三艘ハ軍勢、其余
 有食料・冬衣・天幕・大砲・玉薬・武器其外積入罷有候、
 此処に於て亡命の人数千二百人より千五百人に至り、
 凡四百人は渚に漂着し魯西亜人の手に陥り申候
一此災第十二月第一月第二月
十月半頃より正月半頃迄中の
 英吉利の難渋最大のものに有之候

一冬中多分唯分明ならざる攻防而己にて双方とも新手を
 入れ、病人を退け候得共、荷物の運送ハ難くして諸般の
 ものに事欠、毎々玉薬も亦同様の訳にて時に因てハ
 大砲も打続き相止申候、第一月
十月一日ころより十二月半頃迄
 
中に同志方ハ一万八千余の病有之、其壱分ハ田野一分
 ハコンスタンテイノポル
地名およびファルングス地名に罷在
 候、右者何れも病院造営有之一場所に御座候
 (セバストポル戦線膠着ークリミア戦線))
同盟軍に適切な上陸場所のエウパトリアは同盟
軍が占領し要害を堅固にしていた。 11月13日
にロシア軍が奪回を試みたが、海軍の援護に
より防衛した。 以後この所で日々戦闘があった

同盟軍はクリミアでは応戦しているが予想以上に
苦戦となっている。 戦闘のある場所毎にコレラが
流行し、両軍共悩んでいる。 又クリミアの冬は
寒気が厳しく、暴風と豪雨に見舞われるが、既に
その季節になってきた。 兵卒は薄手の衣装と
帆木綿の天幕だけであり、僅かでもこの気候を乗
切るものを持つものは稀である。
軍勢は昼夜続く暴風と雨水の流れに浸り、又数千
人がコレラや他の病気で死亡した。

蒸気船他大小40艘の輸送船が10月に英国より
クリミヤに出発したが、10月14日15日二日間黒海
での烈風波濤で34艘が難破した。其内3艘は兵員
その他は食料・冬着・天幕・大砲・弾薬・武器等
積んでいた。 ここで1200-1500の人命が失われ、
400人は海岸に漂着してロシア軍に捕らえられた。
この災難で12月から翌1855年2月中は英軍には
最大の苦難だった。

冬の間中は大きな戦闘もなく、両軍とも新規に兵
を入れ病人を後方に後退させたが、輸送は困難
を究め、全ての物が不足した。 弾薬不足も例外
ではなく、大砲も打ち続ける事も止めた。
1855年1月には同盟軍側の病人は1万8千余人
となり、その一部はクリミヤの拠点、一部はコンス
タンチノープル、ファルングスにある病院に収容
した。


1. クリミア半島: 黒海北端に突き出た半島で
  紀伊半島位の大きさ、緯度は 北海道宗谷
  付近とほぼ同じ、現在はウクライナ共和国
2. コンスタンチノープル: 黒海の南端で地中海
  への出口ボスボラス海峡の大都市、現在は
  トルコのイスタンブール
一第二月三月十一月中旬より正月中旬まて中に初て軍勢
 の陣営在所装束・食糧の用意整候、第二月中旬
十二月
 下旬より正月初旬まて
に当て組合同志の砦は再び備を立て、
 放発致し数多の陣営を破壊仕候、然れとも一陣落た時ハ
 魯西亜人とも兼而其後方に新砦、或ハ石岡を築立罷在候
 事相知申候、魯西亜人ともハ又第三月
正月中旬より二月
 中旬まて
中砦を外手に築出し方相成申候
一右の中にオメルバカー
人名ハ備をトブリユーツセ地名及び
 テドナウ
地名に極置事出来軍勢を増申候、オーステンレ
 イキ国ハ平和の取扱を為んが為出精致候得共、事成ら
 ざるが故に程々魯西亜国に対し警敵の思を抱き申候
一右ニ付都児格国ハオーメルバカー
人名に凡四万人を
 添えデキリム
地名の方に差越候様相成申候、其後程なく
 風聞有て候にオーステンレイキ国ハ魯西亜に対し英吉利
 国・仏朗西国・都児格国と一致し、王国サルデイニー亦
 其後戦書も出さずして魯西亜国に対し整列致し一万五千
 の援兵并両三箇の軍艦を同国に発向せしめんが為に一致
 仕候由に御座候
   (オーストリアとサルディニアの参戦)
1855年2月-3月になり初めて軍勢の陣営に衣類
や食料が到着した。 2月中旬には同盟軍の砦は
体制を建て直し砲撃を開始し、多くの敵陣を破壊
した。 しかし一陣が落ちればロシア軍は後方に
新規砦や石垣を築き、3月中には又砦が出来て
いた。

このような状況の中でオマールパシャはドナウ河
戦線に専念し軍勢を増やした。 一方オーストリア
は和平調停が不発に終わり、ロシアに対し恨みを
抱く事になった。

トルコはオマールパシャに4万人をつけてクリミア
戦線に送る事にした。 其後直ぐオーストリアは
中立を破棄して英仏・トルコに協調し、更に
サルディニア王国が宣戦布告もせずに、ロシアに
敵対し、1万5千の援兵及び軍艦を出撃させ同盟
側に加わった。


1.ドナウ河戦線ではロシア軍はワラキアから撤退
 しており、トルコ軍は余裕が出来た
2.サルディニア王国: 後にイタリア統一の母体
 となるイタリア半島の王国でフランスと親しい
一第三月より第四月初旬正月中旬より二月下旬まてに掛陣営を
 別強も致し候、 第二月十七日
十二月廿八九日の夜に当りて
 出張の魯西亜大将の随へフェルドマールシカルク
官名
 プリンスメンエフ
人名ハホーウィッスルの破裂に因て股を
 壊ひ候処、終に死去仕、プリンスゴルトシカーコフ
人名 
 ハ当時南方魯西亜勢の惣大将に有之候 
一推考いたし候にテキリム地名に当時魯西亜勢凡二十万
 英吉利・仏朗西・都児格勢凡十六万人が罷在、其対戦
 及び軍勢・兵船・軍用其外金銀夥しく損亡の後、同盟方ハ
 セバストポル
地名を手に入候儀相叶候哉、いまた不分明
 に有之候、 右ニ付防禦分の別強なる事ハ大凡記述中
 にも類例無之候程の儀に御座候
    (ロシア司令官交代)
1855年3月から4月初旬にかけ陣営強化している
2月17日夜の事、ロシア軍総大将メンシコフ元帥
は砲弾の破裂で負傷し後死去した。現在は
ゴルテャコフ元帥が南方ロシア軍総大将である。

推考するにクリミア半島に現在ロシア軍は20万、
英仏・トルコ軍総勢16万が布陣している。 この
戦争の為の軍勢、兵船、その他軍用品の費用
は莫大なものである。 同盟軍はセバストポルを
落せるのか今まだ不明である。 更に軍を増強
する事は今まで例を見ない程である。


1.メンシコフ元帥の負傷・死亡は誤報で2月15日
 に更迭されている。 アルマ戦及びインカーマン
 戦で勝利できなかった為と云われている
2.ゴルチャコフ元帥 Domitrievich Gorchakov
一千八百五十四年安政元年寅年の末、軍を全く外場所に
 移し英吉利仏朗西一手の船に六艘より八艘迄アドミラル

 官名
ブリセ人名の下知にして、ペトロハウロースキ地名の港
 より襲んが為カムシカツトカ
地名に向罷越候処、ベトロハウ
 ロースキ
地名ハ堅固にかまへ有之、十三艘より十七艘迄
 の魯西亜海軍ハ英吉利船二艘、仏朗西船一艘奪取、
 其外ハ無余儀退陣いたし候様仕成申候、此時不図ヒスト
 ール
船号の飛発に因てアドミラル官名ブリセ人名落命仕候 
   (北太平洋カムチャッカ戦線)
1854年の末是迄とは全く異なる戦場では、英仏
艦隊の一部6艘から8艘が、プライス提督の指揮で
ペトロハウロスクを攻撃する為にカムチャッカに
向った。 しかしこの地は堅固の守られており
13艘ー17艘のロシア艦隊に英艦2艘、仏艦1艘を
奪い取られ、止む無く英仏艦隊は撤退した。 
この時、事故でピストルが暴発しプライス提督は
死亡した。


1.英海軍提督プライス(Price)少将:自殺説あり

一先頃の告知にハスピットヘアト地名の英吉利海軍ハ
 再び東海に向出帆いたし候、東海よりコロウンスタット
地名
 の海口に陣を列ね凡一時半
七合五夕程防禦いたし、砦
 其外陣営ハ兵卒四万人、水夫四万人にて警衛いたし候
一和合取結の談判ウェーねン
地名に於て有之候、併し右
 談判にて和合相整候儀、甚難計有之候、若相整不申様
 ニ成行候得ハ欧羅巴諸州の乱と成恐懼すへき義に有之

   (同盟海軍バルト海再度出撃)
最近の発表ではスピットヘアトの英国海軍は
再びバルト海に向け出帆した。 バルト海より
コロンシュタットの前に船陣を並べ凡そ一時間半
攻撃した。 砦周辺は兵4万、水夫4万人で守って
いる。

和平調停の交渉がウィーンであった。 もし調整
が不発となれば、ヨーロッパ各国の戦乱は更に
たいへんとなる。

 スウエーデン国名ノールウェーゲ同上デねマルケン同上
一此国々ハ是迄和蘭国の如く不傍中立の国々御座候
一スウエーデン
国名の商売ハ同盟一致の海軍、東海出張  
 後ハ甚盛に有之候
  スエーデン・ノルウェー・デンマーク
これらの国々は是迄オランダと同様中立である
スエーデンは英仏同盟軍の海軍がバルト海に
出撃したので商売が盛んになった。

同盟海軍:クリミア戦争で英仏の対ロシア攻撃
東海: バルト海
   亜墨利加国
    メキシコ
地名
 此地に騒動差起り、政府の勢と流浪の歩卒と数度の
 合戦有之、印度人ハ境を騒し申候
一両三箇の国々ハ刈取を過去飢饉有之候
   合衆国
一北亜墨利加合衆国ハ其司職の政治を国中の柄家誹
 傍し、就中他国の見へを厭ひ、此事ありといへ共、平穏
 洪扱と有之候 
一北亜墨利加に於て町家の規定を厳重に成し、又数多
 の転住新参のもの、得る処の利潤を減少せんと顕し申候
    カリフォルニー
一カリフォルニー
地名の川テケルン川名に於て富饒の黄金
 山を発明し、唐国より此地に転住の者次第ニ増し、
 欧羅巴州諸国より亜墨利加に転住年々増量致し候
    フェねシユーラ
一告知にてハ此合衆国に於て政治を発申候千八百五十
 四年第九月八日
安政元年寅七月十六日に当て既に申述候
 如く闘争差起り第十一月
安政元年寅九月中旬より十月中旬
 まで
に到て再び平穏に相成申候
    テキサス
一千八百五十四年第九月十八日
安政元年寅八月八日
 テキサス
地名の渚に於て驚怖すべき津波有之、四日打
 続き渚の人命を亡し、数艘の船を失ひ、憐なる泌々有之
 就中マダユルダイ街は家三軒無事にて其外都て損害
 有之
一告知にてハテキサス
地名に於て印度人とブランク人ニて
 甚敷争有之候
アメリカ州
     メキシコ
ここでは暴動が起り政府軍と流浪の衆と数度の
戦闘がある。 原住民が国境を犯している。
この地域では刈取りの時期を過てしまい飢饉が
あった

     合衆国
アメリカ合衆国では政府の対し、国中の有力者が 
批判しているが、今のところ平穏である
又住居の規定を厳格にして、押し寄せる新規
移住者を規制している。

     カリフォルニア
カリフォルニアのケルン河で大量の金が発見
された。 中国よりこの地に移住するもの年々
増加しており、ヨーロッパ諸国からの移住も毎年
増加している。
    
     ベネズエラ
発表によればこの共和国では1854年9月8日に
争乱がおきたが、同11月には再度平穏になった。

     テキサス
1854年9月18日テキサスの沿岸で恐るべき津波
があった。 津波は4日間続き、沿岸では人命や
船を失い悲しい事である。 特にマダコルダ地区
では残ったものは家三軒だけで他全てを失った。

   
  海軍
一先頃の告知にハ唐国并東印度海備の欧羅巴海軍は
 左に記す船ニ有之候
  記族   船号      大砲   指揮役
 蒸気船   バルンコウタ  六門  ステイルリング
 ブリッキ  ビッテレン  十二門エヅーウアンシツタルト
 リーニー船 コーシェス   十四門 
 捻仕掛蒸気船エンコウントル十四門ウトヲカルラクハー
 ブリッキ  ゲレシアン   十二門 ゲアーね
 リーニー船 ねルキエーレス 

 蒸気船    ホルねット   十七門 セセトルセイツ
 ブリッキ   リーレイ    十二門 ヨーンサンデルツン
 病人養生船  シンデン        エルリス
 コルフェット ラセホルセ   十二門 ビエルナルド
 ブリッキ   ラービド    八門  ブラーね
 捻仕掛蒸気船 ラットレル   九門  フェルロウエス
 コルフェット スラセン    九門  イブリカルズ
 リーニー船  スパルタン   廿六門 ホスセハルト
 リーニー船  セーヒルン   四十門 エルリオット
 蒸気船    ステイキス   六門  ブリユセ
 リーニー船 ウィンチェストル五十門船大将スライヘリング
                    船将 ウィルリン
       海軍の事
最近の発表によると中国及び東インド海域の
ヨーロッパ海軍は以下の通り
英国
船のタイプ   船名   大砲数  艦長
蒸気船外輪 Barracouta*  6  Henry Stierling
ブリック    Bittern    12  Edward Vansittart
スループ   Comus    18  Robert Jenkins
蒸気スクリウ Encounter* 14  Dog O'Callaghar

ブリック     Grecian   16 George Keane
戦列艦     
蒸気船スクリウ Hornet   17 Charles Forsyth
ブリック     Lily      16  Jhon Sanderson
病院船    Minden       Henry Ellis
コルヴェット  Racehorse 18  Edward Barnard
ブリック     Rapid   8  George Blane 
蒸気船スクリウRattler 11 WilliamFellowers
コルヴェット Saracen 10  John Richards
戦列艦    Spartan 26  George Hoste
戦列艦     Sybille 36  Brydone Elliot
蒸気船外輪 Styx*    6  James Bruce
戦列艦 Winchester* 52 艦隊司令James Stirling
                艦長 Thomas Willson
*印の4艘は長崎に渡来(1854年9月8日)

 
   仏朗西
 蒸気船    ユルヘルト   六門  ベアウトイン
 フレカット  コンスタンテケーね   モンタラフェル
 フレカット  シベイルン   五十門 マイツンニエーフェ
        フランス艦船

  此所和蘭海軍ハ左に記す船々に有之候
   船     船号         指揮役
 フレカツト  パレムバング     
 フレカツト  ぷりんすヘンディリッキ デルネードルランデ
 コルフェツト ボレアス
 コルフェット ねハレンニヤー
 スクーネルブリッキ ファンスイキ
 フリッキ   テハーイ
 スクーネルブリッキ セイルフ
 同      デランシール
 同      エグモンド
 同      ハンター
 同      アムボン
 同      サハルーア
 同      シムバング
 アドフィスブリツキ ベイラーデス
 スクーネル  アリユバー
 蒸気船    ケデー
 同      エトナー
 同      スームビング
 同      フェンフィユス
 鉄製蒸気船  シュリナーメ
 捻仕掛蒸気船 サマラング
 鉄製蒸気船  オンリユスト
 蒸気船    アドミラール ファン キンスヘルゲン
 同      セレベス
 同      ボルネオ
 蒸気船    バターフィヤー
  第十四番フーイカノねールボート船名
   東インド海域オランダ海軍艦船
Palembang
Boreas
 
 唐国并東印度備へ北亜墨利加海軍左に記候船々に
 有之候
  記族    船号      大砲  指揮
        ランコープル  四門  ウセギアリン
 蒸気船   ヨーンハンコック四門  ハカステーフェンス
 コルフェット イベケねネデイ 四門  オスギリスーン
 同      マセグニアン  二十門 ユールアボット
 ブリッキ   ボルボイセ   十門  カブリーゲ
 蒸気船    ポウハタン   九門  イムキリコング
 コルフェット ファンダリア  二十門 ヨーンボーペ
 同      フィンセンねス 廿二門 イボトゲルス
中国及び東インド海域派遣のアメリカ合衆国海軍
艦船以下の通り
船種        船号    砲数  艦長

蒸気船スクリウJohn Hancock 16 Henly Stevens
コルベット   Jhon P Kennedy 12
同       * Macedonian   36  Joel Abbott
ブリック      Porpoise     8
蒸気船外輪  *Powhatan    10
コルベット   *Vandalia     16 Jhon pope
同         Vincennes    18 John Rodgers

*印はペリー艦隊として来日〔1853、 1854)


         和蘭かびたん
              どんくるきゅるしゅす

  オランダ商館長
      ドンケル・キュルシス

 安政二年七月〔1855年8月)

出典: 国立公文書館内閣文庫 視聴草続初集之二〔写本)

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