戻る

安政丙辰別段風説書   *安政三年 1856年     文鳳堂雑纂


       和蘭国
一和蘭国王当年も連々国中静謐、諸国江和親シ商法
 航海之儀者弥繁昌致し候
一千八百五十五年
去卯年之初、和蘭国と阿墨利加合衆国
 と条約取極、和蘭諸属堅要之港津に彼国のコンシュル
 
官名を置候儀取極申候
一右同様の条約仏朗西国およひヘルギイ国も取極申候
一千八百五十五年第六月
去卯年四五月頃の末、和蘭国王
 の嗣子オランエーのプリンス
爵名地中海に向け出船
 カレイキス
ポルトカル国の地名マルタ地名に来り、其末
 第十月廿三日
去卯年九月十三日和蘭国に帰着致シ候
一同人義此行程中に姓名を厳敷隠し罷在候
一千八百五十五年の末ホルトカル国王、和蘭国に参り
 結構の府衛を巡見いたし候
オランダ本国
オランダ国王は今年も相変わらず国は平和で、諸国
と交易は行い繁昌している

1855年の初、オランダとアメリカ合衆国は条約を交し
オランダの主要な港にアメリカの領事を置く事にした。
同様の条約をフランス及びベルギーとも結んだ。

1855年6月オランダ国王の太子が地中海に航海し
ポルトガルのカレイキスを訪れ10月23日帰国した
同人は旅行中は身分を隠していた

1855年末ポルトガル国王はオランダを訪問し各地を
見学した

     和蘭領印度の属地
一第五月廿日
卯年四月二日咬留巴に和蘭領印度の惣督
 グフハヒツト到着致し候
一前の惣督ドイマルファンテイソイスト儀同月廿二日
 
去卯年四月七日和蘭領印度の諸用新惣督ニ引継罷上
 同廿六日
去卯年四月十一日前惣督并其妻室一同、和蘭船
 船頭フィス
人名のロツトルダム船名に乗船、本国に向け
 出帆致し候
一前惣督并其妻室第九月一日
去卯年一月廿日より第十月
 廿六日
去卯年九月十六日迄モリツク島を遍歴致し候
 奉行所のセケレターリス
官名アフリンス人名儀、国王の
 命ニ因り和蘭領印度のラート
官名ト申付候

一千八百五十五年第六月四日
去卯年四月廿日呱哇の主
 ハマンクープーウヲ
人名第五世死去いたし、其兄弟
 ハンケランアドヒバテイクーブーシー
人名義第七月五日
 
去卯年五月廿二日諸職ニ登り、其段吹聴有之候

一当年呱哇其外属地中の人民壮健の様躰所希候、
 尤コレラ病名麻疹并疫病専ら流行いたし候外、
 アムホイナ
地名并其辺の諸島々ニおいて痘瘡流布し
 死亡多有之候
一昨年別段風説ニ而申上候末就中烈しく天変は
 千八百五十五年第七月
去卯年五六月テルナーテ地名
 地震有之、右ニ付五万ギュルデン銭名の損耗有之候、
 且又第三月
去卯年正月二日頃の初旬、コロートサンギール
 湾の火山破裂し数多の国々、殊にクブーカン
地名破壊
 いたし、死亡四千人有之由ニ候
一和蘭海軍印度海辺海賊探索として、航海いたし候
 和蘭国海軍、海賊を召捕、且又奴僕に落入居候ものを
 其群より免じ其儀出来申候
 右之外和蘭印度中物静ニ有之候
一昨年中パレンハング
地名を不絶騒し候一揆ラデイヤ
 テイランアラム
一揆ノ自称終に和蘭政府に従伏いたし、
 其地寧謐ニ相成申候


オランダ領東インド各地
1855年5月20日オランダ領インドの総督パハドが到着
前総督ツイストは同月22日諸業務を新総督に引継ぎ
同26日妻子一同オランダ船長フィスのロッテルダム号
に乗船し本国に向った。
同前総督一家は9月1日から10月26日迄モリック島を
旅行した
東インド政庁の書記官アフリンスは国王によりオランダ
領インドのラートを命ぜられた

1855年6月4日ジャワの主であるハマンクープーウオ
五世が死去し、その兄弟が7月5日にその地位を
引き継ぐ事が発表された

今年ジャワ及び近隣で健康な人民は少ない、これは
コレラ、麻疹、疫病が流行し、アムホイナ付近では
天然痘も流行し多数が死亡した。

昨年の別段風説書でも述べたが天変地異が烈しく
1855年7月にはテルナーテで地震があり、5万
ギュランの損害があった。 又3月初旬にはコロート
サンギール湾の火山が噴火し、多くの国、特に
クブーカンが壊滅し四千人の死亡者が出たようだ。

オランダ海軍が付近の海賊退治に出動しているが、
海軍では海賊を逮捕し多くの人質を解放した

昨年中パレンバンで絶えず騒動を起していた反乱
グループは終にオランダ政府に屈服した。

其外全て静謐である


オランダ領東インド総督
Charles Ferdinand Pahud 在任 1856-1861
Duymer van Twist      在任 1851-1856
  
     貌利太尼亜領印度
一昨年別段風説を以テ申上候通り、イラワツデイ
山名歟
 
の傍ニ見出候石炭脈は長サエゲレス里数ニ而十余里
 ニ有之、 其表面辺迄石炭沢山土産有之候
一千八百五十五年の初
去寅年の末より卯年初頃 唐国ニ
 おいて貌利太尼亜国の奉行ヤンボウリンク
人名シャム
 国王ト商法筋取極申候
一カルキュツタ
地名より英吉利里数ニ而弐百里相隔有之
 候ベルハンボリ
地名ニおいて、千八百五十二年の末
 一揆起り、其土人に貌利太尼亜人数多殺害被致候、
 右土人者アルソーエボリ并ケイラソン
各地名歟に三千人
 程相集申候
一カルキュツタ
地名より産出ス欧羅巴の軍兵、一揆の
 張本を降伏するの術計有之候、然に其後者一揆の
 発擾相止申候、千八百五十六年第三月
当辰年正月
 二日頃
貌利太尼亜領印度の北東に於ては静謐ニ復
 申候
 貌利太尼亜領印度辺郡
  シンカホーレ
  カーブテハーデホーブ
  アウスタライリー
 此辺物静に有之候
一アウスタラリー
地名においては金坑の利潤沢山ニ
 有之候
英国領インド
昨年の別段風説で述べた通りイラワッテイ付近で
発見された石炭層は長さ10km余あり、地表まで
石炭が大量に産出する。

1855年の初めホンコンの英国総督ジョン・ボーリング
はタイ国王と交易の取極を行った。

カルカッタより200km程離れたベルハンボリで
1852年の末反乱が起り、現地人に英国人多数が
殺害された。 これらの反徒はアルソーエボリ及び
ケイラソンに三千人程集った。
カルカッタに駐留する欧羅巴の軍は反乱の元締め
を降伏させる計略を練ったか、その後反乱は治まる
1856年3月には英国領インド北東においては静謐
に戻った。

英国領インド外
シンガポール
喜望峰(ケープタウン)
オーストラリア
これらの地域は静謐である

オーストラリアでは金鉱による利益がたいへん大きい


イラワッテイ:ミャンマーのイラワディ川下流、ヤンゴン
付近か?

   支那
一千八百五十五年第七月
去卯年五六月頃町家の模様
 先安縵之体ニ有之、広東ニおいて外国人の安寧全く
 先々之通り相成申候
一此国南方の騒乱治り候様相見申候、右ハ全く徒党之
 面々を逸々召捕厳敷刑戒いたし候故候
一国中ニ相通し或ハ河川は不要害に有之候
 〔広〕東諸辺并ホンコン近傍ニは英吉利并亜墨利加
 軍船しきりに海賊征討いたすといへとも未夥しく
 巣居いたし候

 近頃の風説に而者上海安寧に有之、商売再繁昌
 いたし一揆擾乱之折節、瑕却いたし候府街の一分も
 家居建揃、トキーン
地名并コインセン地名の商売
 数多其地に帰住いたし候
        中国
1855年7月町の様子は落着きを取り戻し、広東でも
外国人の安全は元の通りになった

中国南部の騒乱は治まったかに見える、これは徒党
を組む者達を小まめに逮捕し、厳罰に処したが為
と思われる

国中を通じて河川は要害とはならない。
広東やホンコン近辺では英国やアメリカの海軍が
頻りに海賊を退治しているが、未だに夥しく海賊が
跋扈している。

最近の情報では上海は静かで商売が再び繁昌して
いる。 騒乱で破壊された街々も一分は家並みが
揃い、トキーンやコインセンに移った商売も多数
上海に戻ってきた。


一揆騒乱: 太平天国の乱の収束
    大貌利太尼亜并イールラント
一千八百五十五年第四月十六日
去卯年二月三十日より
 同廿一日同三月五日
迄仏朗西国帝并其妻室一同
 英吉利国女王を訪、滞在いたし候
一同年第八月
去卯年六七月頃ホルトカル国王并オホルト
 のヘルトグ
爵名英吉利国に来り申候、尚同年第十一月
 去卯年九月十月頃
の末サルテイニー国王同国ニ来り申候
 昨年別段風説申上候ハラクラーレ
地名とフエルナ地名
 との海中ニテレガラーフ相設候儀、既ニ第四月廿四日

 去卯年三月八日
首尾能成就いたし候
一亜墨利加合衆国并アウスタラリー
地名に移住の人数
 千八百五十五年
去卯年中は千八百五十四年去々寅年
 よりは少く相成申候
一ベルキー国王千八百五十六年の初頃
去卯年より当辰年
 ニ掛
 英吉利国に来り申候
    大英帝国及びアイルランド
1855年4月16日フランス皇帝夫妻が英国女王を
訪れ滞在した。

同年8月ポルトガル国王及びオホルトの支配人が
イギリス訪問、又同年11月末サルディニア国王が
イギリスを訪問した。 

昨年別段風説で述べたクリミアのバラクラバから
黒海西岸のヴァルナ間に海底電線を敷設する件は
4月24日電信が成功裡に開通した。

アメリカ合衆国及びオーストラリアへの移住する
人数は1855年は1854年より少なかった

1856年初めベルギー国王はイギリス訪問した
  
   スウェーテン・ノールウェイケン・デーネマルケン

 此国々は東国之争論ニ不拘全く中立致し罷在候
一スェーテンノールウェーゲンの国王千八百五十三年
 第十一月廿二日
嘉永六年丑年十月二十二日西方之国々
 と条約取極有之
 右条約中ニ領国の分地、魯西亜ニ譲渡不相成、又
 領地互ニ交替不相成旨、其外数条取極申候、且又若
 魯西亜国より其事之所望有之候節者是を拒むため、
 仏朗西帝と英吉利女王との誓約有之候
  スウェーデン・ノルウェー・デンマーク国
これらの国々は東方の戦争(クリミア戦争)には全く
拘わらず中立を保っている

1853年11月22日スウェーデン・ノルウェーの国王は
西洋諸国と条約を取極めた。
この条約の中で領国の分地を魯西亜に譲渡、又は
領地の交換もしない事及び他数条を定めた。 
又若しロシアよりそれを望んだ節にはそれを拒む
ために、フランス皇帝及びイギリス女王とも誓約した。

  仏朗西国
一千八百五十二年
去卯年国帝を討んと両度企事有之
 候得共、両度とも其儀不相叶其党被召捕刑ニ被
 所申候
 先度の風説ニ有之候通り、千八百五十五年第五月
 十五日 
去卯年二月廿九日産物店開有之候
一同月
三月四月の頃ホルトカル王并オボルト地名
 ヘルトグ
爵名仏朗西国見舞ニ参候
一千八百五十五年第八月
去卯年六七月頃英吉利女王并
 其一族のもの、仏朗西帝并其妻室見舞ニ参り申候
 同年第五月去
卯年七八月頃サルテイニー国王フィクトル
 ホマニロエル
王名も同じく仏朗西帝江見舞、其後
 英吉利国江向け出船いたし候
一仏朗西帝の妻室千八百五十六年第三月十六日

 当辰年二月十日
 男子出産有之候
一千八百五十五年
去卯年仏朗西帝とベルシト国と和親
 の約定有之、交易相立申候
      フランス
1852年フランス皇帝〔ナポレオン三世)の暗殺が
2度企てられたが、二度とも失敗し犯人は逮捕され刑
に処せられた

1855年5月15日、以前のニュースの通り万国博覧会
がパリで開催された

同月ポルトガル王及びオボルトの支配者がフランス
を訪問した

1855年8月イギリス女王及び一族がフランス皇帝
夫妻を訪問した。
同年五月にはサルディニア国王フィクトル
ホマニロエル王もフランス皇帝を訪問し、その後
イギリスへ向け出港した。

1855年3月16日フランス皇帝の后が男子出産した

1855年フランス皇帝はペルシャ国と和親の約定を
結び交易を開始した。

      独乙国
一独乙国南西ニおいて千八百五十五年
去卯年の半頃
 地震有之候
一独乙国より亜墨利加国江移住いたし候儀、当時格別
 減少いたし候
        ドイツ
ドイツ国南西で1855年の中頃地震があった

ドイツよりアメリカ合衆国への移住は現在大きく減少
した。

    伊斯巴泥亜国
一伊斯巴泥亜国収納限之儀、今猶歎ケ敷評判ニ有之候
一当第二月
当辰年正月頃其模様宜可相成哉不存候
一カルリスチン
人名党の一揆不相替有之候得共、官軍
 諸所ニおいて打勝申候
一千八百五十五年第十一月
去卯年九月十月頃カルリスチン
 等の一揆一度ニ圧伏いたし、其頭人とも官軍之手ニ
 落入砲殺せられ候
一千八百五十五年
去卯年ヒリツヘイン諸島マニルラ地名
 
所属のホイリー港并シエアル港サントーンカ港は交易の
 ため相開、土人運上の役所を取立申候
        スペイン国
スペインの財政状態は今猶嘆かわしい状況であり
今年2月現在では良くなるかどうか判らない。

カルリスチン党の反乱が相変わらず起っているが
官軍が各地で押さえている
1855年11月カルリスチン党の反乱を一気に押え、
その指導者は射殺された。

1855年フィリッピン諸島のマニラにあるホイリー、
シエアル、サントーンカの各港は交易の為現地人
の税関所を設けた。

    ホルトカル国
一千八百五十五年第九月
去卯年七月八月頃リスサボン地名
 において第五世若年のホルトカル王トンベトロー
人名
 即位の儀式有之候
一此国不相替平和ニ有之候
一右国王即位の後、外国江旅行有之候
ポルトガル
1855年9月リスボンにおいてポルトガル王に若年の
第五世ドンペドロの即位式があった。
此国は相変わらず平和である
国王はは即位後外国旅行に出かけた


第五世ドンペドロ 1837-1861 18歳で即位

    伊太利亜国
一千八百五十五年第五月中
去卯年三四月頃火山
 フェシフィユスの地中震動すへき徴有之、新ニ坑口
 八ヶ所出来、ラーフアー
火坑より流出する所一種由 
 是より流出て八日の間長短ニ数条之火川出来申候
         イタリア
1855年五月中ベスビオ火山の地中が震動する兆候
があり、新たな火口が8カ所できた。 溶岩が流れ
出て8日間に長短数条の火川ができた。


フェシフィユス火山:Vesuvius ベスビアス、ベスビオ

    キリケンラント国名
一此国不相替賊盗有之候由の風説御座候
一千八百五十五年第十月去
卯年八九月頃 政事向改革
 有之候
        ギリシャ
この国は相変わらず盗賊が多いという情報がある
1855年10月政治改革があった

キリケンラント:
Griekenland 〔オランダ語)、ギリシャ

    都児格国
一千八百五十五年の初頃
去寅年末より卯年迄亜細亜都児格
 内のブリユスサ
府名地震のため破壊いたし石造の家屋
 は一軒も無恙事不能、山々の岩石馳出、破壊の府中ニ
 落掛申候
 亜細亜中破損の地は勿論、欧羅巴の東方おいて
 地震に難渋いたし候
 千八百五十五年第七月
去卯年五六月頃又々地震有之候
一レゲントスカツフ
都児格内レケント官の預り地テイリホリトに
 おいて千八百五十五年第七月
去卯年五六月頃一揆起り
 申候
 ハカー
官名都児格兵を将ひ一揆ニ行合、接戦二日に
 およひ、都児格兵敗北いたし、あるひハ打死或は囚に
 相成申候
一都児格国先度之風説にてはテイリホリー
地名の一揆
 敗し候由ニ有之候

一ユゲブテ
地名においてはオンドルコーニング官名の心配
 にてインゲニュール
山川を開き或ハ石窟坑等の業を用いられ候もの
 の業必用の国々より其所のものを呼集め、紅海と地中海
 との間、シュユス峡を切通し両海の通路を得候ため、
 その業の用意為致申候
 和蘭政府より彼地ニ差越候インケニユール
訳前に有之
 是国々より来り候インゲエエールの最上席に被撰、
 エケイフテ地のオントルコーニング
官名より別段之望を請
 印度海と欧羅巴海との通路を行通き此大事の業を重立
 取扱申候
        トルコ
1855年の初め頃トルコのブルサが地震で壊滅し
石造りの家屋は残らず倒壊した。 山々の岩石は
破壊された市中に転がり込んだ。 アジア側の地の
破損は勿論だが、ヨーロッパ側でも東方は地震に
苦しんだ。 同年7月にも又地震があった

1855年7月トルコ領内のテイリホリトで反乱が起り
パシャがトルコ兵を率いて鎮圧に向ったが、二日間
に渡る戦闘で反乱側に敗れ、討死や虜になった。
トルコの前の情報ではテイリホリーで反乱側が敗れた
ということだった。

エジプトでは支配者の肝いりで土木技術者を各国
から呼び集め、紅海を地中海の間のスエズ峡を切り
開き、両海の通路を得るべく計画している。
オランダ政府でもこの地に技術者送ったが、彼等が
集った技術者の中で最上級に選ばれ、エジプトの
支配者からのたっての希望であるインド洋と
ヨーロッパの海を結ぶ大事業に重要な役割を荷う
事になった。


Bursa: ボスボラス海峡の東側小アジア内

   魯西亜国并都児格国
一此両国并西方の国々と和談有之候儀先肝要の申上
 事ニ御座候
一当第三月三十日
当辰年二月廿四日パレイス仏朗西都府
 において諸国人之眼前ニ而、和談之書面調印有之
 を以国中ニ其儀相達申候、右取極之重立候旨趣は
 いまた表向不相達候ニ付、此事聊も相知不申候
一先度の別段風説ニ申上候以後之儀、左ニ申上候
 儀ニ而相知可申候、セバストボル
魯西亜の地の南手者
 千八百五十五年第九月八日
去卯年七月廿七日同盟方
 より押領せられ候由ニ御座候
       ロシア国とトルコ国
この両国と西洋諸国との講和の事を先ず報告する

今年〔1856年)3月30日関係諸国の前で講和の調印
が行われ、この事が諸国に通知された。 併し取極め
の主な趣意は未だに公表されないので、それに関し
全く不明である

前回の別段風説で報告した後の事を以下の報告で
お分かり戴けるはずである。 
セバストボルの砦の南側は1855年9月8日に同盟軍
に占領されたとの事である。
 先度の別段風説ニ申上候通、千八百五十五年第四月
 
去卯年二三月頃同盟方之海軍、新ニ東海並ニ白海江向
 け出船いたし、右両海之港を絶切申候、尤同所ニ
 おいては格別事変候儀無御座候
 東海のホターニー江ニ有之候フレイスタット
府名は実丸
 を以打崩し、且又スワーホルグ砦は千八百五十五年
 第十二月
去卯年十月十一日頃同盟方江軍船十六艘を以
 実丸打掛ケ申候
 千八百五十五年第十月
去卯年八九月頃彼両海の備を再
 ひ引揚、同盟方海軍者追々英吉利国并仏朗西国江
 帰帆いたし候
前回別段風説で述べた様に、1855年4月に同盟側
海軍はバルト海及白海に出動し、両海の港を封鎖
した。 しかしここでは特別な戦闘はなかった。

バルト海のホターニーにあるフレイスタット市街は
砲撃で破壊し、又スワーボルグ砦は1855年12月
同盟軍艦船16艘で砲撃した。

1855年10月には両海から引揚げ艦隊は夫々イギリス
及びフランスに帰帆した。


スワーボルグ: Sveaborg フィンランド、ヘルシンキ
 市内の6つの島に構築されたロシアの要塞
 魯西亜国の南方者接戦不絶有之候
 キリム
地名の仏朗西軍将ゲねラール官名カンロヘルト
 人名
千八百五十五年去卯年半頃病有之、ゲネラール
 官名
 ヘリシール人名と其侭交代いたし候
一千八百五十五年第五月
去卯年三四月頃サルテイニー
 
国名の兵一万五千人ハラツクラアファ地名に到着いたし
 数度の接戦に利を得申候
ロシアの南方では戦闘が絶えず行われた
クリミアのフランス軍指令のカンロヘルト将軍は
1855年の中頃病気となり、ヘリシール将軍と交代
した。

1855年5月サルディニアの兵1万5千人はバラクラバ
に到着し、数度の戦闘で実績を挙げた。


Certain Canrobert フランス軍元帥
Aimable Pelissier フランス軍大将
 
 千八百五十五年第五月下旬去卯年四月中旬同盟方差越
 之一手ケルツ
地名并イーニカール地名に到り候、此地は
 同盟方近寄候節魯西亜方立退ける、右差越之蒸気船
 焼打いたし候、其折諸穀物庫焼失致し、凡大砲百門
 奪取候、此時魯西亜人破壊いたし候通り、同盟方も
 魯西亜蒸気船軍船四艘・運送船弐百四十艘討取、
 其後同盟方海軍アソフ海備へ申候
 右ニ付此海辺において魯西亜の商売損害せられ、
 魯西亜軍勢兼而其辺より取寄来り候
 食糧運送に妨を請け、自今フレンコツフ
地名の地峡
 を経て漸く食物を調へ候位ニ而、甚以難渋之儀ニ有之
 候
 テキリム
地名北東に当るゲニリツヒ街も其刻引続同盟方
 より弾丸放発被致候
一其以来戦争無絶間有之候
1855年5月下旬、同盟軍の一手がケルツ及び
イエニカレに到った。 同盟軍が近寄るとロシア
は立退いたが、侵攻してきた蒸気船を焼き討ちにし
その時穀物庫を焼き、凡そ大砲百門を奪った。 
同盟軍側もロシア軍が破壊したと同じようにロシア
蒸気船・軍艦四艘、運送船240艘討取った。

その後同盟海軍はアゾフ海に侵攻した。
この海域ではロシアの商船が被害を受け、ロシア軍
が周辺から集めていた食糧の運送に支障が出た。
以後はクリミア半島のベリコープ地峡経由で漸く
食物を供給する以外なく、非常にロシア軍は苦労
する事になった。
クリミア半島北東部のゲニッツエ市街も同盟軍に
より砲撃された。
以後戦争絶え間がない
注:
ケルチ:クリミア半島の東端に位置し、黒海から
  アゾフ海への入口となる
 
一千八百五十五年第六月六日
去卯年四月廿二日仏朗西人
 セバステホル
地名の弾丸放発を再ひ復し、第六月七日
 
去卯年四月廿三日烈敷戦ひ候上ニ而、所謂青峡マメロン
 エルト
峡名并カルファートハーフェン港名の両砦を
 押領いたし、英吉利人ハ此時他所ニ而敵営を討取、
 同盟方の滅亡此闘争中三千人有之候、右岏は
 マフコフーレン塔名の東方に当り、此塔ハセハストホル
 
地名の咽口に有之、同月十八日去卯年五月五日同盟方
 より劫襲いたし候得者魯西亜打散シ申候

 千八百五十五年第六月廿八日
去卯年五月十五日テキリム
 地名
の英吉利惣督ロルトガークラン人名病ニ而無程病死
 いたし、右代としてケねラール
官名シムブソン人名
 千八百五十五年
去卯年の末シルウコドリングトン人名
 交代いたし、諸職相勤候、此時コレラ
病名烈敷テキリム
 
地名に流行いたし、サルテイニー勢に死亡多有之、
 英吉利および仏朗西勢の死亡者夫程迄ニ無之候

一第六月十八日
去卯年五月五日マラマフトーレン塔名
 同盟方無量の劫襲後、第七月十五日
去卯年八月三十三日
 の夜、魯西亜人烈敷逆寄いたし候得共、同盟方より
 討散し申候
1855年6月6日フランス軍はセバストポルへの砲撃
を再開し、6月7日にはマメロンエルトとカルファート
ハーフェンの両砦を占領した。 英軍は別の敵陣営
を占拠し、この時の戦闘で同盟側は3千人を失った。
これ等の砦はマラコフ塔の東方にあたり、マラコフは
セバストポルの咽元のようなものである、 6月18日
同盟側よりこの塔を強襲したがロシア軍に撃退
された。

1855年6月28日英軍総指揮官のロードラグラン将軍
は病気で死亡した。 この代わりにシムプソン大将が
指揮したが、1855年末ウエドリングトン卿が引継いだ。

当時クリミア半島ではコレラが流行して多くの
サルディニア兵が死亡した。 イギリス及びフランス
軍の死者はそれ程でもなかった。

6月18日マラコフ塔に同盟側が大軍で攻撃した。
ロシア軍も7月15日に逆襲したが同盟側に撃退
された


一第八月十六日
去卯年七月四日魯西亜人、チエリチヤ地名
 同盟方の要害を剛強の軍勢を以て攻討候へとも、烈敷
 討散され、其節サルテイニー勢は威勢を顕し申候、
 第八月十七日
去卯年七月六日より同盟方者引続セバス
 ボル
地名の要害を攻、第九月五日より八日迄去卯年七月
 廿四日より廿七日迄
 数度格別勉強攻寄、終ニ者要害
 第一の場所所謂マラマラトーレン
塔名者勇猛防戦の
 後、仏朗西人より押領被致候
 英吉利人ハ外屈竟の営に無功の攻をなし、残のもの
 僅砦を防に加勢いたし候

一魯西亜人マフコラ地の要害滅亡したるを直ニ火薬の
 方便に因て第一砦倉庫を可成丈ケ破裂せしめ
 街に放火してセバストホル
地名南方の地を全く引払候
 港内のリーニー船も悉く焼払ひ候、初発黒海に備し
 リーニー船十九艘・フレガット船十二艘、スクネル船并
 フリッキ 船十艘、蒸気船三十艘、此乗組惣勢二万人を
 以て組立しも、少も残りなき船ニ有之候、斯て魯西亜
 人ハ次第を立、無恙砦の北方江引退候、依之僅の損亡
 有之候
一同盟方の死亡壱万人、魯西亜人の死亡一万二千人と
 有之候
1855年8月16日ロシア軍はチェルミナの同盟側
要害を大軍勢で攻撃したが、同盟側に撃退された
この時サルディニア軍が特に健闘した。

8月17日同盟側は引き続きセバストポル要塞を
攻撃した。 数回特攻して終に要塞の第一の場所
であるマラコフ塔を激戦の末フランス軍が占拠した。
此時イギリス軍は別の強固な敵陣を攻めて効果が
なかったが残り僅かがマラコフ攻撃に加勢した。

ロシア軍はマラコフの要害を失ったので、直ちに
火薬を使い砦の倉庫を可能な限り破壊し、街には
放火してセバストポル南部を全て引払い、港内の
戦列艦も全て焼払った。

当初戦列艦19艘、フリゲート12艘、スクーナー及び
ブリック十艘、蒸気船三十艘、乗組員総勢2万人
で構成したロシア黒海海軍は壊滅した。 ロシア軍
は要塞南方を処理して要塞北方へ撤退した。

セバストポル攻防で同盟側の死亡1万人、ロシア軍
死亡1万2千と云われている。


一都児格国のシュルタン官名其節デキリム地名に在仏朗
 西の惣督にフェルトマールシカルク
官名の官名を授け
 二十万フラレケン
銭名の役料相極申候
 魯西亜人より取囲たる小亜細亜のカルス砦において
 千八百五十五年第九月廿九日
去卯年八月十九日都児格
 人之烈敷逆寄にて、魯西亜四千人都児格方千人死亡
 有之候、此後魯西亜人は砦を以前より厳敷取囲ミ申候
一都児格人はエルセリユム
地名より来る援兵を憑と
 いたし居候処、魯西亜人右援兵を襲候模様有之候ニ
 付、其儀相叶不申候
一無程カルス砦において食糧尽き、軍勢の内死亡
 夥敷、千八百五十五年第十一月廿八日
卯年十月
 十九日
衛兵魯西亜人に降り候
トルコのサルタンはクリミア戦線のフランス司令官に
元帥の資格を授けて20万フラレケンの手当を決めた

ロシア軍に包囲された小アジアのカルス砦では
1855年9月29日トルコ軍が反撃し、ロシア側4千人、
トルコ側1千人死亡した。 この後ロシア軍は以前より
厳重に砦を包囲している。

トルコ軍はエリセリユムから来る援兵に期待を繫いだ
が、この援兵をロシア軍が襲った模様で望みが
絶たれた。
程なくカルス砦では食糧が尽き、軍勢の死亡が多数
となり、1855年11月28日砦守備隊はロシア軍に降伏
した。

一セバストボル
地名南方を討取候以来、魯西亜人不絶
 北方砦に於て防禦いたし、屡同盟方に強勢の放火を
 仕掛申候
 同盟方にハ新規陣営を築き此放火を手強く防申候
一セハストボル
地名の内討取候所々は全く同盟方ニ而
 平け船囲場は破却いたし候
 右の時間にデドニーフル
川名において同盟方海岸より
 キムビュルシ街江向け弾丸放発いたし、此街速に同盟
 方陥り申候
セバストポルの南方砦の陥落以来、ロシア軍は北方
砦に籠もり、頻繁に同盟軍側に放火を行ったが、
同盟軍側は新規の陣営を築き放火を防いだ。

同盟軍側はセバストポル要塞の占拠した所は平坦
にして艦船の防護壁など破壊した。

この間同盟軍はドニエプル川沿の街キムブルンを
海岸より砲撃し、この街を直ぐに陥落させた。


Kimbrun半島:ドニエプル河口南岸

一千八百五十六年第一月
去卯年十一月十五日よりオース
 テンレイキ国は仏朗西国・英吉利国と談じ、東方争論
 平和取結候事ニ成行様頻りに勉強致し、此儀魯西亜
 国之談判ニおよひ申候
一右ニ付オーステンレイキ国より魯西亜国に差越書面
 風説ニ而者左之通ニ有之候

   第一
 魯西亜国は諸侯領デドナウ
川名通り守護差弛引
 渡し其所の政事改正可致事
    第二
 ベスアラビー
地名の一分引渡し候事
    第三
 黒海は不偏中立にして此海諸々魯西亜の砦およひ
 武器囲所有間敷、何国の軍艦たりとも此海辺侵
 間敷事、尤テドナウ
川名の口に限り水上守りの
 防として小軍艦の居所可有之事
    第四
 デボルテ
地名天主教の者一統守護の事
 西方勢右箇条黒海の港にコンシュル官名をさし置候
 廉并以後ともアルランツ諸島に要害構申間敷旨
 之魯西亜国約諾付属いたし候哉に被存候
1856年1月よりオーストリアはフランス及びイギリスと
相談してクリミア戦争の講和について検討し、この件
をロシアに打診した。
この時オーストリアがロシアに提案した書面は情報
では以下の通りである
  第一
ロシアは諸侯領であるドナウ河沿い(ワラキア、
モルダビア)に対する影響を緩め、引渡し元通りに
する。
  第二
ベッサラビアの一部引き渡す事
  第三
黒海は中立不偏としてロシアの砦造営や武器貯蔵
をしてはならない。 又何国の軍艦もこの海に浸入
しない事。 但しドナウ河口の水上守備の為の小型
軍艦は駐留してよい。
  第四
オスマン帝国内のキリスト教信者は保護される事

更に西側諸国は黒海の港に領事を置く事及び
オーランド諸島に要塞を設けない事でロシアの約束
取り付ける様付け加えられた。

注: アルランツ諸島 Aland Island オーランド諸島
 フィンランド南のバルト海にある島々でロシアの
 ボマルシュンド要塞があったが英仏艦隊が破壊。
  
 右ニ付魯西亜国者一統の希望ニ応ずる儀に辞退
 の返答差越候
 右者ベスアラビー
地名にて魯西亜領地分別之規定ニ
 拘りし取極、并西方勢の格別なる約条の廉を相背き、
 其地の規定黒海不倚中立等之廉者承諾いたし、同盟
 方備を致し居候土地引払ひ候様希望有之、魯西亜は
 砦カルス
砦名其外魯西亜勢相備居候土地差返可申と
 の儀ニ有之候

一乍併オーステンレイキ政府は此儀承諾不致、オース
 テンレイキ国より差越候通り之存意、第一月十八日

 去卯年十二月十一日
 魯西亜国に於て取用不申候ハヽ、
 ガラーフ
官名エストルハセイ人名シントベイトルス ヒュル
 グ
魯西亜国の都府を退出致すべき旨申立る
一第一月十七日去卯年十二月十日魯西亜国、右之廉々
 定誓して納得せし旨告知いたし候
ロシアは上記申し入れに対し全ての希望には応ずる
事は出来ない旨回答あった。
これはベッサラビア一部引渡し及び西方勢の要求
など。
但し黒海中立不偏の件は承諾するので現在同盟側
は占拠している所から撤退する事、猶ロシアが占拠
しているカルス砦を返還するなど

併しながらオーストリア政府はロシア提案を受けず
オーストリア案通り1856年1月18日迄に受け入れ
なければセントペテルブルグからエストルハセイ特使
を引揚る旨主張する

1856年1月17日ロシアはオーストリアの提案を受け
入れる事表明した。


一第二月一日
去卯年十二月廿五日談判書ウェーねン地名
 
において名判いたし、パレイス仏朗西都府において
 平和談判取極いたし候ため集会致べく相極候
一第二月廿五日
当辰年正月廿日パレイス仏朗西都府
 集会を開き候、此集会者魯西亜国・都児格国・
 仏朗西国・英吉利国・サルデイニー国・オーステン
 レイキ国并プロイス国も追而出会いたし候
 
 右ニ付三月末頃迄接戦事止ミ相成可申候、第二月
 廿八日
当辰年正月廿三日、右取極相成候儀デキリム地名
 に告知いたし、此地において翌日同盟方惣督、魯西亜
 ゲねラール
官名集会致し、敵対猶予に成行候
一不取敢パレイス
仏朗西都府において尋常ならざる儀式
 を以て集会有之、既に初発申述候通り、引続第三月
 三十日
当辰年二月廿四日和親之条約名判いたし候

一爰に尚一事を書載いたし、筆を止と者同盟方海軍一手
 去年ペトロバウロフスキ
地名江無功之攻をいたし候事
 先度の別段風説ニ相見候処、千八百五十五年第五月
 
去卯年二三月頃又々右砦に到り候節打捨有之と見請
 砦の諸営を破却いたし候
1856年2月1日契約書がウィーンで調印され、パリで
講和条約を行う為に会議を持つことを決める。

同年2月25日パリで講和会議が開催され、トルコ、
ロシア、フランス、イギリス、サルディニア、オーストリア
が参加し、プロイセンも追って出席した。

その結果、同年3月末頃迄に戦闘中止する事になり
同2月28日この取決めをクリミアに通達した。 
翌日現地で同盟側の総司令官、ロシア側将軍が
集会し、敵対猶予〔休戦)を決めた

取敢えずパリで大掛かりな会議があり、既に冒頭に
述べた様に1856年3月30日講和条約の調印が
行われた。

ここで尚一事記述して筆を置く。 それは昨年同盟
側海軍の一手がペトロバウロフスキを攻撃して効果
がなかった事を前回の別段風説で述べたが、
1855年5月再度同盟海軍はこの砦に向かい放置
してある施設を全て破壊した。


ペトロハウロフスキ:カムチャッカ半島の街

    亜墨利加州
一カリフォルニー
地名よりの告知、就中金坑に拘り候事
 至極冥加有之趣ニ候、千八百五十五年
去卯年
 カリフォルニー
金属発明以来一箇の豊饒年ニ有之候
一メキシコ
地名の告知は右様事ニ無之、惣国大察一揆
 騒動有之候
一コスターリカー
地名において許多の石炭坑・銅坑・金坑
 発明いたし、右金坑之内一ヶ所は出有之候、尤銅坑ハ
 至極肝要ニ有之向を以相開申候
        アメリカ州
カリフォルニアからのニュースで特に金に関しては
非常に喜ばしい事であり、1855年は金発見で豊かな
年だった。

メキシコは是と反対に国全体に反乱が頻発した

コスタリカでは石炭、銅、金などの鉱脈が発見され
金脈の一つからは実際に産出した。 特に銅鉱脈が
有望であり現在開発中である。
   海軍
 先度の告知を以ては唐国并東印度海備欧羅巴
 海軍左之船有之候
  船号    記旗    筒数    船長の名
 ハルラコウタ 英吉利 六挺     フォルテキュー
 ビットルス  同     拾弐挺   バーテ
 コウリュス  同     拾四挺   ルヨシキンス
 コロマンドル 同            オカルラガン
 ホルねツト  同     拾七挺   フウセイト
 シントル   同             エルレスロストル
 ナンキン   同             ホンステワルト
 ヒキュー   同     三拾六挺  シルニコルリン
 ラレホルセ  同     拾四挺   ビュルナルト
 セイヒレル  同     四拾挺  小惣督エルハオット
 ウィンセストル同     五拾挺  惣督格セクモール
                       船将 ウイルソン
         海軍
最近の発表によると中国及び東インド海域に展開
するヨーロッパの海軍艦船は次の通り
    イギリス海軍
船のタイプ   船名   大砲数  艦長
蒸気船外輪 Barracouta  6  Acland Fortesucue
ブリック    Bittern    12  Edward Vansittart
スループ   Comus    18  Robert Jenkins
蒸気外輪   Coromandel     Sholto Douglas
     
蒸気船スクリウ Hornet   17 Charles Forsyth
食糧船     Minden      Henry Ellis
戦列艦    Nankin   50  Keith Stewart
戦列艦    Picue     36  William Nicolson
コルヴェット  Racehorse  18  Edward Barnard
戦列艦     Sybille  36  Brydone Elliot
戦列艦 Winchester* 52 艦隊司令James Stirling
                艦長 Thomas Willson
 シベイルン 仏朗西   五拾挺  船将マイソンエユト
 フィルキテ  同     五拾挺  惣督格キューリン
                       船将ブラス
 トムヤースエールスト ホルトガル弐拾挺 小惣督ロベス
 ヨルゲエオル イスパニア 四挺   同官アクウイルン
フランス、ポルトガル、スペイン艦船

 唐国并東印度海備和蘭海軍者左之船々有之候
  船号         種類      船長の名
 プリンスフレデリッキ    フレカツト    スバンヤールト人名船将
  デルネードルランデン
 ハレムバンク          同       ウヲラトルス
人名同官
 ホレアス          コルヘツト  ケルセン
人名第一等船方士官
 プリンスウィルレム    タランスボルト  デロイトデウイルト
人名同官
     フレデリッキ
 デハーイ           ブリツキ     デゲルトル
人名 同官
 ヘイラテスアドアイース   ブリッキ     ケレイネ
人名 同官 
 レムバレク     スクーネルブリッキ     ファンオムメ
人名同官
 セイルフ            同         ヒラール
人名 同官
 サバルーア          同         ムート
人名  同官
 ハンタ             同        モットルマン
人名 同官
 ランシール          同         ストルト
人名 同官
 ハタン             同        ブウレン第二等海方士官
 アムバン            同     トハーメコウルト
人名第一等同
 エクモント           同        ファンウエイケ
人名同官
 カノねイルボート  ルーイ          ヨルレグ
人名第二等同
 メデュサ       ストームコルベット   ベルクオイス
人名船将次官
 アムストルダム   ストームシキツブ    デフリース
人名 同官
 バターフィア       同     ワーセントルフファンレイ
人名同官 
 モシタラート   ストームスクーネル アンダラー
人名第一等海方士官
 フェシフィユス  ストームシキツフ     ユーレンベーキ
人名 同官
 エトナー         同          カラルキソン
人名 同官
 サマラング        同          ヒンケス
人名  同官
 セレベス         同          テマン
人名   同官
 ボルネオ         同          ストル
人名   同官
 オンリユスト       同          アフラス
人名  同官
 シュリナーメ       同           デフリーヒ
人名 同官
 アトミラールファンキンスベルゲン 同    フヘンネカム
人名 同官
   

中国、東インド海域に展開するオランダ海軍の艦船
は左の船々である

一唐国并東印度海備北亜墨利加海軍は左之船々
 有之候
  船号     記旗    筒数     船長の名
 レホント   亜墨利加  拾八挺    スミツト
人名
中国及び東インド海域に展開するアメリカ合衆国
海軍は左の通り

  右之通和解差上申候、以上
    辰七月       品川藤兵衛 印
               荒木 熊八 印
               西 慶太郎 印
               西 吉十郎 印

以上の通り和訳して差上げる
 安政3年7月 〔1856年8月)
             通詞 左記
出典: 国立公文書館内閣文庫 文鳳堂雑纂巻67〔写本)

                        戻る