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嘉永三年庚戌別段風説書和解
  御内密申上候風説書
力石雑記  1850年
一当和蘭国王ウイルレムデデルデ、先ウイルレムデデウ 
 エーテの跡職ニ相成候儀ニ付、嘉永二酉年四月廿日
 和蘭国の都府亜謨斯的爾達模に於て大礼を取行ひ
 申候
一先国王の余風をしたひ国人等其像二箇を造立し、
 其一ハ都府亜謨斯的爾達模に安置し、今一ハ都府
 スカラーフェンハーケに安置可致所存に候
一和蘭国王リュクセンビュルク
国名の国王を相兼居候処
 弟ヘンデイリキデルねーデルラント
人名ニリュクセン
 ビュルクの国政を譲り申候
一右ヘンディリキデルねードルラント
人名ハ幼弱の時より
 国王のフロート一個の軍船に乗、諸方へ渡海し、近年
 前和蘭領印度ニも罷越候
一先国王の女ロウイサデルねードルラント
人名ハスウェー
 デン国王兼ノールウェーケン国王の嗣子に婚姻可致候
一欧羅巴州中今に不穏候得共、和蘭国ハ前文申上
 候通、物静に有之候
   〔オランダ本国の事)
オランダ現国王ウイルレムデデルデは前国王の
跡を継ぎ、嘉永2年4月20日アムステルダムで
即位の大礼を行った
前国王を偲びオランダ国民はその像を2体作り
一つはアムステルダムに、今一つはハーグに
安置する考えである。

国王はルクセンブルグ公国の国王を兼務するが
この職を弟のヘンデレッキ・ネーデルランドに
譲った。
ヘンデリッキ公は幼少の頃から国王の軍艦で
各地を訪問、近年はオランダ領東インドも訪れた

前国王の娘ローザネーデルランドはスエーデン
国王兼ノルウェー国王の嗣子と結婚する。
ヨーロッパ全体が不穏であるが、オランダは斯く
安定している。

一ミニストルファンスタート
官名兼和蘭国領印度惣都督官
 イーロキュスセン
人名ハ、昨秋頃マカッスル地名セレベス
 
地名及其属地ハンセルマーレシン地名並にボルネオ島
 に巡見に参り、夫より再びハンセルマーシン
地名マカス
 スル
同上及シュハヤ同上へ罷越候
一イーロキュスセン
人名旅行の間ハ、フィーセフレシデント
 フアンデンラート
官名イセシインスト人名諸事引受取扱
 申候
一右和蘭領印度惣都督ハ昨年バーリー島のフヲルスト

 官名
この乱妨を制し候為の軍勢を差出候処、同年第六月
 去酉四月十一日より五月十日迄に当る に右フォルスとも自
 和蘭方へ集参取極をいたし候、其趣意ハ和蘭の支配を
 請已来ハ其島の海渚に打上候異国船を乱妨無之、
 且スラーフェン
人を売買いたし被売たる人をいふの流弊を
 相止可申との儀ニ御座候
一バーリー島中権柄のフォルスト
官名デテワーユンクファン
 コロンコング
人名当年致死去候
一呱哇の近国凶年にて食物払底ニ候て国人共大ニ難渋
 罷在候
一右ニ付官府より規定を相立、国人等餓死せざる様
 専手当有之候
一東印度海軍の支配をいたし居候フィーセアトミラ―ル

 官名
マシトルセン人名死去いたし候ニ付、右跡スーニャル
 ポス
人名に和蘭国王の命に依て惣都督官より申付候
一ファンデンポス義は先年其地海軍の支配相勤罷在、
 近頃ラートファンミニストル
官名に相成居候
一昨年パレムバング
地名中に争乱差起候ニ付、軍勢
 を其地に差向候様相成候
一右争乱ハ程なく相治申候
一呱哇の都府バンタム中へも騒動差起候、尤格別之儀
 ニ者無之候
    〔オランダ領東インドの事)
国務大臣兼オランダ領東インド総督ロキュスセン
は昨秋マカッスル、セレベス及び其属地ハンセル
マーシン、ボルネオ島を視察し、それから再度
ハンセルマーシン、マカッサル及びシュラハヤを
訪れた。
ロキュッセン総督の旅行中は副総統のインスト
が諸事処理した。

オランダ領印度惣督は昨年バリ島の酋長の暴挙を
制する為に軍隊を送った所、1849年6月首長達は
オランダ側に集り協定を行った。 趣旨は今後
オランダの支配を受け、漂着する異国船を襲う事
せず、奴隷の制度を止める事を約した。
バリ島の実力者首長であるコロンコングは今年
死去した。

ジャワ近辺は凶作で食物払底し国民は苦境に
陥っている。
これにつき政庁では規則をつくり国民が餓死
しないよう手当てした

オランダ東インド海軍を統括している副提督の
マシトルセンが死去したので、後継には国王の
命により総督がファンデンポスを任命した。
デンポスは以前に此地の海軍を指揮しており
最近は国務参事を勤めていた。

昨年パレンバンで騒乱が起き、軍隊が出動したが
騒動は程なく治まった

ジャワのバンタムでも騒動が起ったが、たいした事
は無かった。

一唐国広東の地を異国人の為借んと専出精致し候、
 右ニ付唐国のケイズルレイキコミサリス
官名オンドル
 コーニング
官名セウ人名ハ国人の望に任せ、右願聞
 済せ相談いたし候様相成候
一右ニ付而者同人義官府よりの趣意ハ差置差はまり
 取計候
一右取計ニ付同人義、唐帝より孔雀羽并美石の指輪を
 賜り候

一エゲレス方奉行ハ唐方官府に混ずる申極の趣意相立
 候様懸合候故ニ候
一当年四月十七日迄の説にハ英吉利方ホンコン島の
 奉行ホンハム
人名サンハイ地名へ相越候
一右之節同人義許多の軍兵を召連候
一ストームスクルーフスクーねル
一種の蒸気船レイナルト船号
 を前広ヒシリー港に差出置候、右ハ其地にて右同勢を
 待請候為に候
一右様出勢いたし候ハ北京出張の者一集会を致為と
 相見候
     (中国の事)
清国は広東に外国人を住居させる事に努力して
おり、欽差総督のセウは国民との調整を図って
いる。
セウは清朝政府からの趣意に基き努力している
この努力に対し清国皇帝より孔雀羽と玉の指輪
を贈られた

イギリスの総督は清国政府に混乱する約束事を
実行する様交渉している。
今年4月17日迄の新聞によれば、英国の香港
総督のボンハムが上海を訪問するが、その時同氏
は多数の兵士を伴う
スクリュー式の蒸気船レイナルド号をビシリー港に
事前用意しており、兵士達を乗せる為である。
この度の上海訪問はそのまま北京へ向い交渉
する為と見える


セウ:Xu 徐 両広総督1848-1852
ボンハム: George Bonham 3代目香港総督
         1848-1854在任

一右同説ニ而者東印度海並に唐国海に英吉利海軍
 左之通り相備有之由に候
 一筒十二挺備 ブリッキ船  一艘
   船号アルバートロス  船司の名ファルキニハル
 一同廿六挺備 病人養生船  同
   同 アリガートル     同 デハンキール
 一同     同       同
   同 アマリン       同 トロウリフドゲ
 一同 拾二挺備え ブリッキ 同
   同 アラッパ
 一同 三拾六挺 フレガット 同
   同 コンフリアン
 一同 廿六挺備 フレガット 同
   同 クレウパタラー      マルシー
 一同 六挺備  ストームフレガット 同
   同 フユレイ       ウイルコックス
 一同 七拾五挺 リーニー  同
     ホスティンクス    アステン
 一同 拾六挺備 ブリッキ  同
     マリネル      マテリン
 一同 六挺備  蒸気船   同
     メデア       ロックヘル
 一同 廿挺備  同     同
     シンデン      ミトセル
 一同 拾六挺備 ブリッキ  同
     ピロット      インセ
 一同 十一挺備 ストームスルーフスクーネル 同
     レイナルト     カラウエフォル
 一同 拾一挺備 コルヘエット 同
     ロヤリスト      ハーテ
 一同 十二挺備 ブリッキ   同
     セルベント     バルケル

 亜墨利加海軍
 一同 廿二挺備 フレガット  同
   プリモート        ケレトナイ
 一同拾挺備 ブリッキ     同
    トルピン       ハーデ
 和蘭海軍
 一同 五十四挺備 フレガット  同
    レイン
同記事による東インド及び中国海域に展開する
英国海軍艦船以下の通り
船号     種類     砲   艦長
Albatross   ブリック   16   Arthur Farquhar
Alligator  病人養生船  28 
Amazon   戦列艦    26   Edward Troubridge
Arab     ブリック    12   William Morris
Cambrian   フリゲート  36  Hanway Plumridge
Cleopatra   ブリック   12  Thomas Massie
Fury      蒸気外輪  6  James Willcox
Hastings   戦列艦   74  J. Austen
Mariner    ブリック   16  Mitchell Mathison
Medea  蒸気外輪     4   Henry Mason
Minden   兵糧船         Mitchell      
Pilot     ブリック   16  Jhon Ince
Reynard  蒸気スクリユー 8  Peter Cracroft
Royalist    ブリック     6   William Bate
Serpent    ブリック    16 Charles Barker


アメリカ海軍
Plymouth  フリゲート  大砲22門   J. Kelly
Dolphin   ブリック     12     ハーデ

オランダ海軍
左記


一当第二月
去酉十二月廿日より当正月七日に当 唐国
 タンチワン帝治世三十年にして死去いたし、太子跡職
 に相成申候 *道光帝
一新唐帝ハ専朝臣に仁政を施候
1850年2月に清国皇帝として30年君臨した
道光帝が死去し、太子が後継した。
新皇帝は仁政を施している。


道光帝在位1820-1850 第8代皇帝
咸豊帝在位1850-1861 弟9代皇帝

一去年第六月
去酉年四月十一日より同五月十四日迄ニ当 
 
南蛮国方マカオ地名の奉行ヨアマリアフェルレイラート
 アマレル
人名ハ是迄其地ニ有之候唐方運上役所を
 為引取、亜馬港を全く南蛮領にいたし候  
一右様相定候而者却て其国の不繁昌の基ニ可有之候
一唐国の商人東方の諸島にて商売いたし候者とも、
 其地を立退候 
一右ニ付其奉行計略を以て相達候ニハ阿馬港
地名
 人民、地持の分ハ、免許を不請住所を立退他所へ
 引越候様の儀有之候ハヽ、早速家財を取上候様ニ之候
一右規定相立候得共迚も立退候儀難差留有之候
 唐人ニも右阿馬港奉行に逆ひ候趣意ハ左之ヶ条ニ候
  一第一にハ唐人墓所を取払ひ阿馬港の新道を
   開き候儀ニ候
  一第二にハ唐人運上役所江建有之候旗竿を
   破却いたし候儀ニ候
一唐国コミサークス
官名セウ人名に唐国商人等書面を
 以申出候ニハ、南蛮方奉行に手向ひ可申所存有之
 候との義ニ有之候
一昨酉年七月五日阿馬港近所ニ於て唐人とも右奉行を
 襲ひ殺害いたし候
一唐人とも其首并手を切離し持去申候
一右ニ付阿馬港
地名の奉行所より手当致し、疑敷もの
 三人召捕申候
一双方彼是懸合之上ニ而南蛮方奉行所より右虜三人唐
 官府へ引渡、唐方よりハ南蛮方へ右首并手を相渡申候
一南蛮、ブラシリー国并コーア
地名より海陸両軍を阿馬港
 へ差遣申候
一新奉行ベトローアレキサンデーリダキエレハ
人名
 阿馬港に趣発旅中ニ候
    中国ーマカオの事 
1849年6月ボルトガル国のマカオ総督アマレルは
同地の税関役所を接収しポルトガル領とした。
このような措置は却って交易を阻害するものであり
中国の商人達も此地を去り始めた

これに対し総督は対抗策として、マカオに土地を
持つ者が許可なく此地を去るならば、土地財産は
没収する事にした。
この規則にも拘わらず、中国商人が去るのを留める
事は難しかった。 特に中国人にとり、認めがたい
事は以下の二点である。
 1.中国人墓地を取り払い、マカオの新道を作る
 2.清国税関役所に掲げる清国旗竿を破却した。

清国総督のセウに対して中国商人達が提出した
書面によれば、ポルトガル側総督に対して反抗
する考えを述べている。

昨年7月5日マカオ近辺で中国人がポルトガル
総督を殺害し、その首と手を切離し持ち去った。
マカオの役所に疑わしい者三名が逮捕された

中国側ポルトガル側双方交渉の末、ポルトガル
側より3人の虜を中国側に引渡し、一方総督の首
と手はポルトガル側に引渡された。

ポルトガル、ブラジル、ゴアから海陸両軍をマカオ
に送り込む。 

新総督のペドロ・アレキサンディはマカオに向け
赴任途中である

注:
南米のブラジル、インドのゴアはポルトガルの旧来の
植民地


一唐国海に於ても不断海賊の患有之候ニ付右警固之
 為、英吉利人司り諸国の軍勢相備候様相成申候
一昨年八月海賊サツプンクチェイ
人名並ニ賊船四十艘
 コルキュス
街市の名の近海にて見懸候間、蒸気船
 プレゲトン
船号フュリト同上ブリッキ軍船の一種コリニムビナ
 船号
を以て取支へ候
一其後無程右サツプンクチェイ唐国官府へ屈伏いた
 し候段申出候処、憐憫を加へ取計候
一右海賊の手下ともにおいても其罪免され候

一昨酉年正月暹羅国のデビエターチー
官名ハ英吉利
 国領マウルナイン
地名の首長スパルクス人名方へ
 相越し候、右之趣意ハデピュターチー并国民其地へ
 在住いたし度願望ニ有之との噂に候
一右之者共自国立去候義ハ其国の支配頭理不尽の
 取扱有之候故と被察候

一昨酉年閏四月八日英吉利奉行所ハスールー
地名
 のミュルタ
官名モハメットナデールアルヤヒール人名
 談合、海賊防禦の手当いたし候
一右ニ付英吉利国女王の命にてラブーアン島の奉行
 ヤーメスブローケ
人名取極相決候
一右之島にハ石炭山も有之候得共、土地不宜候ニ
 付、土人性命失ひ候事少からず候
       (英領東インドの事)
中国近海では絶えず海賊の被害があるので取締
の為、イギリスが音頭を取り諸国の海軍が出動した

昨年8月に海賊サップンクチュイ及び賊船40艘を
コルキュスの近海で発見したので蒸気船プレゲトン
号、フュレイ号及びブリックのコロンビネ号で
対応した

間もなくサップンクチュイは清国政府に降伏した
ので寛容な処置を施し、その手下達もその罪を
赦された。

昨年正月シャム(タイ)国の使節が英国領マルナイン
の首長であるスパルクスを訪問した。 この理由は
此使節及び国民がマルナインに移り住みたい
希望であるという噂である。
彼等が自国を去る理由はシャム国の支配者による
理不尽の取扱があった為と察せられる。

昨年閏4月8日イギリス政庁はソーローの首長
モハメット・アルヤヒールと海賊対策について打ち
合せた
これは英国女王の命令でラブアン島の総督である
ジェームス・ブルックが取極めた。

この島には石炭も産出するが、土地の気候は悪く
現地人でも生命を失う者が少なくない。

一英吉利奉行其領地喜望峰を罪人の追放場所ニ
 相加へ度所存ニ候処、其人民とも其意に相背き候
一右ニ付昨年末烈敷騒動差発候処、其地の奉行
 ヘンリースミット
人名は右騒動取静の為、英吉利国より
 ねプテイユ
船号にて連来候罪人其船より卸候儀
 不相成趣相達候
一右之達にて騒動相静り、且英吉利官府へ土民申立候
 義も有之候ニ付、奉行所存を相止候
       (喜望峰の事)
英国ではその領地である喜望峰を罪人の流刑地
すべく考えたが、同地の人民が反対していた。
昨年末烈しい反対運動が起ったので、同地総督の
ヘンリー・スミスは騒動を鎮静化する為、英国
より罪人を運んできたネプテイユ号から罪人を
下ろす事を許可しなかった。
この処置で騒動も静まり、一方人民からも英国
政府へ請願したので同政府もこれを中止した。

一欧羅巴諸州ニおいてハ人民の騒動打続き候
一仏朗察国ニ於てハ土人の意不同ニ候
一右土人の内一致いたし候土民所持の品物平等に配分
 の企致候へとも、嘉永元申年五月右存意乏敷相成候
 上当時又々意明有之候
一就中パレイス
フランス国都府の住民とも右一致ニ荷担致
 候もの有之候得共、多分ハ下賎の者ニ有之候
一昨酉年閏四月パレイス
前ニ出つレイオン地名に於て
 一揆差起り候処、官府の下知にて取支へ、其者共
 殺害いたし候、

 当時廃官のパウス僧官帰官の願仏朗察国プレシデント
 
共和政治の司プリンスロードウェイキ・ナポレオン人名より
 オーステンレイキ帝、ナープルス国王並イスパニア国
 女王に談合いたし候
一右ニ付昨年初頃仏朗察軍勢惣都督オンデイノウト
人名
 
を軍将に立てジヒターフェクシャロウマ近傍の港に赴き候、
 然とも其地の人民ハ怒を含ひたすら右軍勢を相拒申候
一ローマの土民政司の意に逆ひ、不得意の義有之候に
 荷担いたし候為他国の浪人とも其国に罷越申候
一昨年五月十一日仏朗西勢ローマ国の街市に大ニ攻入
 候
一此以前右パウスは相立有之候得共、唯有のみにて、
 漸々右攻伐の後其勢ひ元に復し候

一昨年閏四月五日仏朗察国是迄の執事ハ退身いたし、
 国民惣て相撰居候者を其職ニ相立申候
     (フランス及びローマ法王領の事)
ヨーロッパ各国において人民の騒動が続いている

フランスでは以前人民の同盟が財産を平等に分配
する企てをした。 嘉永元年5月にはその意見も
沈静化していたが、 最近又復活してきた。
特にパリの住民達にその同盟に荷担するものが
いるが、大部分は貧しい者達である。
昨年閏4月パリとリヨンで暴動がおこったが、政府の
命令で鎮圧し、関係者は殺害された。

現在亡命中のローマ法王の復活願いに付いて
フランス大統領のルイ・ナポレオンはオーストリア帝
、ナポリ国王及びスペイン女王と会議を持った。
此件で昨年初め頃フランス軍はオンデイノウトを
司令官としてローマ近傍の港、ジヒターフェクシャ
に侵攻した。 しか其地の人民は怒ってこの軍勢
を拒否した。

ローマの人民は政府の方針に逆らい、法王の受
入れに反対しており、此意見に荷担するために
他国からの浪人も入り込んでいる。

昨年5月11日フランス軍がローマ市内に侵攻した
この以前は法王は名ばかりだったが、この侵攻で
漸く法王の権威が復活した。

昨年閏4月5日フランスの是迄の宰相は退職し、
国民の総意で撰ばれた者がその職に付く


バチカンのローマ法王に対抗するローマ共和国
が1849年2月に成立したが、フランスの侵攻で
同年7月には消滅、 ナポリに亡命していた法王
ピオ9世が復権する。

一当年英吉利国においてハ航海方の義ニ付規定相改候
 儀有之候
一右ニ付諸出入之運上を大に減少いたし、且差企候
 ヶ条有之候
一英吉利国ニおいてハ外国と自国との差別無之、何れも
 平等の取計ニ候
一右規定ハ欧羅巴諸州商売の利徳と相成義に候
一欧羅巴諸州ハ交易の義多分何レも同様之振合ニ候

一英吉利国領印度許多の商人ビルミングハム
地名
 の商人と一致いたし、唐国日本其他の国へ通商の義ニ
 付、英吉利奉行所江書面差出候
 然処英吉利官府より左之通返答有之候
  其許并ビルミングハームの商人より被差出候印書、
  日本国・交址国・コルヤー
地名並暹羅国の街市に
  英吉利商売相開き候為、規定之趣承知いたし候方
  通達いたし候様ロルー
官名ハルムルストン人名、拙者
  へ申聞候
  右書面ニ付けパルムルストン
人名拙者へ返答申聞候
  ニ者其許より差出候書面之趣、無余義次第ニ相聞
  候間、篤と勘弁可致候、右ニ付而者奉行所ニおいて
  も未決着致兼候儀も有之趣ニ候
             ハーウツディンクトン拝
    (英国の海運自由化)
今年英国では航海運賃に関して規定を改めた
これは輸出入の運賃を大幅に引き下げ、且条件
を付け加えた

これは英国船は外国と自国の運賃差別を無くして
何れも平等に取扱う事である
これによりヨーロッパ諸国の商売が繁昌する事
になる。
恐らくヨーロッパ諸国は何れも英国の法式に倣う。

英国領インドの多くの商人達がバーミンガムの
商人と協調して、中国・日本・その他の国との通商
について英国政庁に書面を提出した。
是に対して英国政府より以下の回答があった
 貴殿及びバーミンガムの商人より差出された
 書面で、日本、ベトナム、朝鮮及びシャムの都市
 と英国との交易を開く為の規定は承知した旨
 通達する様にパルマーストン卿から小役に指示
 があった。
 パルマーストン卿から小役への回答は貴殿提出の
 書面の趣旨は尤の事であり、しっかり検討した。
 しかし政府においても未だ決定できない事情も
 あるという事である。 
           ハーウィディングトン拝
  
注:
Lord Palmerston :1855年以後英国首相2回勤める。
 この風説書の時期は外相を勤めている。 
バーミンガム: Birmingham 当時ロンドンに次ぐ
 英国の工業都市
 

一独乙国ハ数多郡ニも有之候ニ付、共和政治の国に
 いたし度存意ニ候処、其義遂に相遂不申候
一フランクフラルト
地名の評定所ハ騒動相静り諸国使
 節も集参不致様相成候ニ付、昨酉年閏四月右評定所
 をヒュルハル
地名に移シ候
一右之人々等アールツヘルトク
官名の部下センクラー
 ベステニール
官名の相廃候ニ付、フォルクスレトルの内
 六人を相立、レゲントスカツプ
官名にいたし候
一独乙国の政度をフロイス国において新に取極、独乙国
 中に施し候処、其中一二ヶ国ハ右政度を無異義相守り
 候
一右之仕合ニ付プロイス国王ハ独乙国王の任に相当
 其政度を司り候
一右ニ付フォルステンラートファンセスレーデン
官名
 右独乙国王の次席に相成申候

一独乙国に於てハ国政に評定を二ヶ所ニ而致し候
一第一ヶ所ハ官人の役所にして執事並に国政ニ携り
 候評議役の者出会いたし候
一第二ヶ所ハ国民の参所にして其土民之相撰候者
 出会評定いたし候
一プロイス国に於て取極候独乙国の政度ハオーステン
 レイキ国に於て不取用との事ニ候、其趣意ハ
 オーステンレイキ国もプロイス同様、独乙国王の任ニ
 相当り度故ニ候
一プロイス国王ハ自国ニも新ニ政度を相立て昨年十二月
 廿五日誓約いたし、右政度を差届候
一独乙国民と一致させ候為、右様取計候処諸所騒動
 差起り候
一テレスデン
ザクセン国ノ都府カンスリユエーデン国の都府
 に於て土民共フォルステン
官名に手向ひ一揆を発し、
 右フォルステン
前に出つを一ト先追払候
一其後フォルステン
爵名の威勢盛に相成、且土民も
 己が背候様相成候
  〔ドイツ各国及びオーストリアの事)
ドイツには多くの国郡があり、共和制の国にしたいと
云う願望があるが中々実行できない。

フランクフルトの国民議会は統一の熱気がなくなり、
諸国の代表も参集しなくなったので、残った人々が
嘉永2年閏4月に此議会をシュツッツガルドに移した
ここでは人々は是迄の国民会議議長の職を廃し、
諸侯の内六名を撰んで摂政とした

ドイツの制度をプロシャで新に決定し、ドイツ国内で
実施した所、1-2カ国は異議なくこれを受入れた。
この方式ではプロシャの国王がドイツ国王の任に
当り政治を司る
そして前記6名の摂政はドイツ国王に次ぐ席となる

ドイツは国政を行う議会を2ヶ所とする
 1.官吏の議会で大臣及び国政に携る参議で構成
 2.国民から撰ばれた者達の議会

プロシャで決めた制度はオーストリアは採用しない。
その理由はオーストリアもプロシャと同様にドイツ
国王の任に当りたい為である。
プロシャ国王は自国でもこの新制度を実施し、昨年
12月5日発足させた。

ドイツ国民に此制度を施行しようとしたが、各地で
騒動が起る。
ドレスデン(ザクセン都府)及びカールスルーエ
(バーデン都府)では国民が諸侯に反抗して騒動を
起し、諸侯をひとまず追放した。
其後諸侯が復権し、国民も元にもどった

一スレースウェキ
地名并ホステン同上の儀ニ付、独乙国と
 デネマルカ国との争論当年迄打続候
一右争論相治、昨年魯西亜国并英吉利国の取扱を以
 和睦相整候、然処昨酉年三月右和睦之義破談ニ相成
 又候不和ニ相成候
一右ニ付デネマルカ国海軍勢スレースウェイキ
地名並ニ
 ホルステン
同上の港並川口を又々取囲候
一昨酉年三月廿二日デネマルカ国勢ハ「ニケリニユイク
 ルチ
地名の近隣に出張いたし、其街市に大砲を打掛候
一デネマルカ国軍勢ハ其船を敵陣へ攻寄候所、其内
 二三艘海底に当り進退自由難相成候ニ付、美麗の小船
 二艘敵方へ被打取候而、其街市を唯少し損害いたし候
 のミニ候
一デネマルカ国ニおいてハ所々独乙国との戦争又々
 差起り候処、何れもデネマルカ勢敗軍いたし候
一右之戦争和議の為、スレースウェイキの地ハ双方の
 配分にいたし度、且独乙国港の口ハ引払候ニ付
 独乙国よりデネマルカ国へ出張軍勢退候様相談
 いたし候
一フレデリシヤ
地名を囲候独乙国軍勢前々の敗軍にて
 デネマルカより追退けられし後、六月八日に到て六ヶ月
 の間和議申談相整申候、右様和睦取結候上
 デネマルカ国に於て新の規定を相立候
   〔ドイツとデンマークの事)
シュレースヴィヒ及びホルシュタイン公国の帰属に
付き、ドイツとデンマークの間で今年も争いが続いて
いる
ロシアとイギリスの仲介で和睦が成立したが、昨年3月
破談となり再び不和となった

デンマーク海軍はシュレースヴィッヒ及びホルシュ
タインの川口を又取囲んだ
昨年3月22日デンマーク軍はニケリニュイクルチの
近くに出撃し、街に大砲を打ち込んだ.
デンマーク海軍は敵陣に押寄せたが、其中2-3艘が
海底に当り進退できなくなり、立派な船が敵方に
奪われてしまった。 一方街には少々の損害を
与えた程度であった。

デンマークとドイツは所々で戦ったが、何れも
デンマーク側が敗れた。
この戦争で和議の為にシュレースヴィッヒの地は
両国で配分し、ドイツの港口からデンマークは引上げ
デンマークに出撃しているドイツ軍は引上げるべく
相談した。

フレデシヤを取囲んでいたドイツ軍が敗れて
デンマークから撤退した後、6月8日に6ケ月の休戦
が成立した。 この休戦協定に伴いデンマークでは
新しい憲法を制定した。

一オーステンレイキ国とサディニー国との戦争和談之義
 嘉永元申年七月十二日オーステンレイキ国より差免候
 段、 昨年二月十八日サルディニー国王申叛候、然処
 右両国和談之義ハ兼而仏朗察国并英吉利国の取扱等
 有之候処、右様自侭の取計ニ相成候ニ付、仏朗察国并
 英吉利国其侭捨置候所、又々不平を懐き候やうなり
 ゆき候
一右ニ付サルディニー国カルヘスアルヘルト
人名ハ其位
 を退き、嗣子フィクトルエンマニュル
人名に譲り候、然処
 右嗣子オーステンレイキ国と和睦の相談ニ及候
一右カルレスアルベルト
人名ハポルトガル国へ罷越、終に
 オホルト
地名ニおいて相果候
一戦争の為相掛候オーステンレイキ国の失費償の義ニ付
 久敷和睦相整兼候得共、昨酉年六月十八日に相整候
一右戦争失費の償として、七千五百万リフェルス
銭名
 サルディニー国よりオーステンレイキ国に持出候様
 相成候
一ロムハルデ国人騒乱いたし候得共、オーステンレイキ
 国より其罪を差免候
一其後ヘネチア国ハオーステンレイキ国に随ひ候様
 取極候
    (オーストリアとサルディニア)
オーストリアとサルディニアの係争は和議が成り
嘉永元年7月12日〔1848年)オーストリアが許した。
しかし昨年2月8日〔1849年)サルディニア国王が
叛いた。 元々この両国の和議はフランス及び英国
が仲介したもので、サルディニアの勝手な振舞いに
英仏両国共放置して不満をもった。

結局サルディニア国王のカロルス・アルベルトは位を
太子のヴィクトル・エンマニエルに譲るが、同太子
はオーストリアと和睦を試みる。
カロルスアルベルトはポルトガルへ亡命し、オホルト
で死去した。

オーストリアの戦費賠償で和睦に時間がかかったが
嘉永2年6月18日和睦成立となった。
戦費賠償としてサルディニアは7千5百万リフェルス
をオーストリアに支払う事になった

ロンバルディア国民は騒動を起したがオーストリア
はその罪を赦した。
ベネチア国はオーストリアに従属することを取極めた


サルディニアのカルロ・アルベルト王はオーストリア
に属するロンバルディア及びベネチア地方を
イタリアに併合しようとして、オーストリアと戦い、2度
共敗れた〔イタリア統一の前哨戦)

一オーステンレイキ国とホンガレイニ国との戦争を相企候
 義ハ昨酉年三月決談いたし候義ニ候
一オーステンレイキ国帝ハホンガレイニ国に軍勢五万人
 を差越先軍に相加へ、且降参いたし候者には其罪科を
 差許候
一ホンガレイニ国に出張いたし候オーステンレイキ国軍勢
 の惣人数ハ拾万人程有之候、尤其内五万人ハ街市
 ベルトを取囲候
一ホンガレイニ国勢ハコツシュット
人名を軍将に相立て
 オーステンレイキ国の大軍に敵対いたし候、右ニ付
 オーステンレイキ国帝ハ魯西亜国帝に援兵を乞候
一昨酉年四月魯西亜国のフヲルスト
爵名パスケウイツ人名
 
軍兵十二万程を率てオーステンレイキ国中に赴候
一爰に於てオーステンレイキ勢弥相増、ホンガレイニ国を
 攻伐いたし候処、昨酉年六月右争戦全く治り、軍将
 コツシュット
人名ハ逃遁いたし候
   (オートリアとハンガリーの事)
オーストリアとハンガリーの戦争の危機は昨年3月
決定的となった。

オーストリア帝はハンガリーに5万人の軍勢追加を
行い、降伏する者はその罪を赦した。
ハンガリーに出撃したオーストリア軍の総人数は
10万人程となり、其内5万人はペルトの街を包囲した

ハンガリー軍はコツシュットを総司令官としてオース
トリアの大軍を迎え撃った。 猶オーストリア帝は
ロシア帝に援兵を頼んだ。
昨年4月ロシアの将軍パスケヴィッツは12万の軍勢
を率いてオーストリアに赴いた。

結果としてオーストリア軍は更に強化されハンガリー
を攻めたので、昨年6月に戦いは終わりハンガリー
の将軍コツシュットは逃走した。

一欧羅巴州の東方においてハ兎角騒乱相治兼魯西亜
 国と都児格との折合不宜、互に不平を相懐き居候
一英吉利国とギリシアとの騒乱差起り、英吉利国海軍
 ギリシア国の商船を奪取候
一右騒動ハ魯西亜国並に仏朗察国の取捌にて穏に
 相成べくと推察罷在候

一イタリア国に於ても騒動打続候
一トスカーナ国のヘルトク
爵位ハ才智の者ニ有之候処
 叛逆者の為追放致され候得共、オーステンレイキ国の
 助力にて元の爵位に復し候様相成候
一ナープルス国王ハシシリア国民の騒動を相治候
一当時イタリア国に於てハ物静に有之、国民共静謐を
 専ら要として取計候義ニ候

一欧羅巴中コレラと申疾病流行、人命大ニ損し候
一亜細亜州就中英吉利領印度に於て右疾病流行
 いたし候
      (トルコ、イタリア他)
ヨーロッパの東方では騒乱の危機をはらみ、ロシア
とトルコの関係が険悪で互いに不満を抱いている。

イギリスとギリシャの係争があり、英国海軍がギリシャ
の商船を拿捕した。
この問題はロシアとフランスが調停して解決するもの
と思われる。

イタリアでも騒動が続いている
トスカーナの支配者は優秀な人物だが叛逆者の為
に追放された。 併しオーストリア国の支援で元の
地位に戻った。
ナポリ国王はシシリア国民の騒動を鎮静化した
現在はイタリアは静かであり、国民も平和を重要と
して行動している。

ヨーロッパ全体にコレラと云う病気が流行しており
多くの人命が失われた。
アジアでも特に英国領インドでこのコレラが流行して
いる。コ

一祖父メメットアリー
人名の跡職一応相続いたし
 エゲイプト国を支配罷在候アブバスバカー
人名コンスタ
 ンテイノトール
地名より罷帰候
一右アブバスバカーは祖父跡職相続の念を遂候義者
 全く自侭より発候儀と相見候
一エゲイプテ国右アブバスバカーの支配所ニ有之
 候へ共、都児格国の侵地と相成候義と相見へ候
      〔エジプトの事)
祖父ムハメット・アリの跡を継いでエジプトを支配して
いるアッバス・パシャはコンスタンティノープルより
帰国した。
このアッバス・パシャは祖父の後継として規則を
遂げる事には放埓である様に見える
エジプトはこのアッバス・パシャの支配する所では
あるが、まるでトルコの属地となったかに見える。

一普く諸州の人民就中欧羅巴州より数千の輩、ニュー
 カリホルニヤ国に罷越、黄金穿鑿いたし候
一右黄金を相調持帰候ものゝ有之候得とも、其地に在住
 いたし一円の土地を開き度所存の者専ら有之候
一右国中ニ法制相立、許多の人民会集いたし候土地柄
 故、速ニ繁花ニ相成、其余風追々亜墨利加州北西の
 方にも及候、尚パナマアの地ニ轍路漕路を設、貨財
 運送の便利をいたし、其風義弥増ニ相成、漸々打開け
 候様可相成候
一北亜墨利加合衆国ハ諸国と通商いたし来り、其土民の
 噂ニ而者、日本国にも交易ニ参所存有之趣ニ候
一右ハスターツセケターリス官名カライトン
人名の所存と
 相見候得共速ニ相静り候
 
    (南北アメリカの事)
殆どの諸国の人々、中でも特にヨーロッパ各国から
数千人がカリフォルニアにやって来て金の採掘を
行っている。
採掘した金を故郷に持ち帰る者が居る一方、此地
に定住し、周囲の土地を開きたいと考える者も多い。

全国で法律を施行し多くの人民が政治に参加する
土地柄なので、急速に発展しその影響は次第に
北西部にも広がっている。
尚パナマの地峡に鉄道を敷設して貨物運送を便利
にしようと言う要求が高まり、徐々に実現に向っている

北アメリカ合衆国では諸国と交易を行っているが、
彼等の噂では日本とも交易を行う考えであるという。
これは国務長官のカライトンの考えと思われるが
噂は直ぐに消えた。

 右之通御座候以上
   戌六月     古加比丹ヨフセフヘンリレフィソン
            新加比丹フレデレッキコーネルローセ

    右一本嘉永三戌年十二月集成
               藤原重遠
以上の通りである
 嘉永3年6月(1850年7月)
      旧商館長 ヨーセフ・ヘンリー・レフィソン
      新商館長 フレデリッキ・コーネル・ローゼ

此写本は嘉永3年12月に作成する
             藤原重遠
出典:北海道大学北方資料 力石雑記より(写本)

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