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嘉永五年壬子別段風説書(抄) 司天台訳 1852年8月頃到着
一近頃風評仕候には、北亜墨利加合衆国より船を仕出
 し日本と交易を取結ハんため、御当国江参り申す
 べき由に御座候
 此一条に付、左の通承り候
 合衆国より
 日本帝へ使節差出し、伯理爾天徳
(合衆国の国政総官)
 よりの書簡を奉り、且ツ日本の漂客を連参り候由ニ
 御座候
 此使節ハ又北亜墨利加の民人交易のため、日本の一
 二の港へ出入するを許されん事を願ひ、且又相応
 なる港を以て、石炭の置場と為すの許を得て
 カリホルニアと支那との間に往来する蒸気船の用に
 備へんと欲し候由ニ御座候
一北亜墨利加の軍船、当時支那海に繋り居候者左の
 通ニ御座候
 一シュスケハンナ
名号 軍用蒸気フレガット船 一艘
 一サラトガ 
名号     コルヘット船      一艘
 一プリモウト
名号     コルヘット船      一艘
 一シント、マリス 
名号  コルヘット船      一艘
 一ハンダリア 
名号   コルヘツット船     一艘

 右の船は使節を江戸へ差送り申すへき旨命セられ候
 由ニ御座候
 近頃の風評にては、指揮官アルリック
人名は右諸軍船
 の総督に御座候処、指揮官ペルリ
人名と申者これと
 交代仕べく哉ニ承り申候、且又前文五艘の軍船の外
 猶次の軍艦を増加致すべき由承り申候
 一ミスシシッピ
名号 蒸気船           一艘
   掌旗甲比津比丹
官名 ム・せ・クリュねい人名支配
   但し指揮官ペルリは此船上ニ罷在候由
 一プリンセトウン
名号 蒸気船          一艘
   支揮官シドねイ・スミット・セー
人名支配
 一ペルリ
名号ブリッキ船              一艘
   海軍ロイテナント
官名 ハイルハキス人名支配
 一シュプリ
名号 輜重船             一艘
   海軍ロイテナント
官名アルチュル・シントカライル
   人名
支配
 風評に拠り候得は、陸軍及攻城の諸具をも積込居候
 由ニ御座候
 但し、四月下旬
我か当三月上旬の頃を云かより前には開帆
 仕まじく、多分は猶又延引仕へき哉ニ承り申候
最近の情報では、アメリカ合衆国より艦隊を派遣し、
交易を行うために、日本に渡来すると云う事である。
此件に付き以下の事を聞いているが、それは合衆国
から日本の皇帝へ使節を送って米国大統領の親書を
提出し、又日本の漂流民を連れて来ると云う事である。

此使節は合衆国との民間貿易の為、日本国内の1-2
の港の利用許可と、 又適当な石炭貯蔵の港を用意
してカリホルニアと中国の間を往来する蒸気船の用に
立つ事を願いたい由である

合衆国の軍艦で現在中国周辺に展開しているものは
以下の通りである

シュスケハンナ(Susquehannna)号 蒸気外輪船*
サラトガ(Saratoga)号  コルベット*
プリモス(Plymouth)号 コルベット*
セントメリー(St. Mary's)号 コルベット
バンダリア(Vandalia)号  コルベット

上記の船に使節を江戸に送る事を命ぜられた由である
又最近に情報で艦隊指令はオーリックであったが
ペリーと云者と交代した由である。 更に前記五艘の
軍艦に加え、次に軍艦を追加するそうである

ミシシッピー(Mississippi)号 蒸気外輪船*
  旗艦艦長 
  艦隊指令ペリー同乗
プリンストン(Princeton)号  蒸気スクリュー船
  艦長
ペルリ号 (Perry)      ブリック 280トン 砲8
  艦長海軍中尉 
サプライ(Supply)号     輸送船
  船長海軍中尉  Arther. Sinclair

或る情報では陸軍及び攻城武器も積込んでいるとの
事である
但し1852年4月(嘉永5年3月上旬頃)以前には出帆
せず、多分もっと先になるだろう、と聞いている。


この時点の予定より約1年後*印の艦4艘で浦賀に
来航
出典:
神奈川県立博物館研究報告人文科学21号より抜粋
嘉永5年の別段風説書は上記ペリー艦隊の渡来を事前
に伝えたものとして特に有名であるが、 写本はあまり
出回らなかったようで、 まだ写本に直接接していない
ので、左記の論文より一部関連部分を抜粋させて貰う。


司天台訳: 一般には風説書写本は長崎奉行配下の
通訳がオランダ語から訳出した物の写本が多いが、
掲載文は幕府の役所である天文方で翻訳した物の
写本である。

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嘉永六癸丑別段風説書         1853年   力石雑記
一スウェーデン国兼ノールウェーゲン国王の太子に嫁候
 和蘭国王の女、嘉永五年子十月四日ストックホルム

 地名
 に於て一男を産申候、是をカーレルオスカル
 ウェルヘルムフレデッキと号申候
一和蘭国中只今に能相治り近国ハ勿論、其他欧羅巴
 諸州とも至極睦敷相交り、商業渡世専繁昌仕候儀ニ候
一去子年八九十月頃暴風雨専多く、諸道路破壊ニ
 および、諸島に有之候数艘の船損破いたし、是が為
 に許多の人命を凶し申候
一此時の夥しき雨ニ而田畑収納の妨と相成申候

一嘉永元申年和蘭国政定候頃、ローマ国僧侶官首長方
 より僧徒四人、右の外今一人頭分の僧を和蘭国ニ
 差向申候
一先年国宗改正の末、当時迄治り居候和蘭国民共
 右一件相起候末不得心相成、右ローマ国宗嫌忌
 いたし、許多の市街村落より、右ローマ国の趣意を
 拒ミ防方の願書数多和蘭国王に差出申候
一執政官其職を免され、新ニ政法改り申候

一当年ニ至而和蘭国とエゲレス国との間の海底を穿ち
 エレキトロマグねティーセ テレガラーフ
手元之事柄を
 
告知せしむる仕掛の義 営造の趣向を相始申候、
 此一件の工合は先前意別段風説ニ相記候、
 フランス国とエゲレスとの間に有之趣向と同様ニ有之候
      〔オランダ本国の事)
スウェーデン国兼ノルウェー国王の太子に嫁いだ
オランダの王女は嘉永5年10月4日ストックホルムで
男子を出産した。 名前はカーレル・オスカル
ウェルヘルム・フレデリッキとした。

オランダは現在静謐で隣国は勿論、ヨーロッパ諸国
と良好な関係にあり、商業が非常に発達している。

昨年の8-10月は暴風雨の為各地で道路が破壊
され、島では数艘の船が破損したため多くの人命を
失った。

嘉永元年〔5年前)オランダ国の政治を変更した頃
ローマ法王庁から僧4人とその頭分1人オランダに
派遣してきた。 
以前に宗教問題を改正して、現在治まっているので
この件は国民の反発を招き、各地でローマカトリック
の趣旨を拒み国民が国王に直訴した。
その結果執政官は罷免され、新に規則ができた

今年になりオランダとイギリスの間に海底を通して
電信設備の計画がはじまった。 この件は既に前の
別段風説で述べたが、フランスとイギリスの間に開通
したものと同様である

一和蘭領印度都督評議の上、ホーゲレドルブ
地名
 ガラ―ス
官名の交代をシュラバヤ地名のレシデント官名
 に命じ候、 右前官の者ハ数年来土地の治方宜敷、
 此度同人の願に依而首尾能役儀被免申候
一当年ニ至て咬留巴において、和蘭領印度産物の
 見せ物有之、其為大なる小屋補理申候、且産物
 咬留巴への運送は運上差出不及様仕法相立申候、
 依之産物の員数夥敷く究て荘観の事成らんと人々誇
 居申候
一シュマタラ島名の内バレムバング
地名の官府において
 悪心の者数人追々治平を妨んと相計申候、悪党の
 一人は和蘭方の手に捕へ、其他ハ事果て後、山中に
 遁申候、国中一統和蘭国の権に服し申候

一アメリカ旗下の船頭アメリカ人ギブソン
人名并其船
 の按針役エゲレス人ガラハム
人名の両人デイヤムベレ
 ニマタラ
地名の首長に書翰を送り、此書翰の意味ニ而
 ハ和蘭国方に敵対いたし候様企申候、併和蘭役人
 油断不致候故、右企て無恙ニ相成、両人とも召捕裁番
 役ニ被引渡、重科の者と決談有之候

一嘉永五子年九月より十一月頃迄モリユックスの島々
 大地震ニ而、損壊有之、其近島のバンダー
地名殊更
 之荒廃有之、許多の人命を凶し申候、将又其地
 の島々ニも右様の損害甚多く有之、是又(数多)
 の人々性命を亡ひ、実以嘆ケ鋪有様ニ有之候
一和蘭領印度の住民ともハ莫大の金銭を設け、是ニ而
 右患難の者共を扶助いたし遣し候

一ボルネオ島西諸ニ住居致し候唐人、嘉永四亥年
 和蘭奉行所ニ平和の取極をいたし、其扶助を受候処、
 却而右約定を背き、和蘭の支配を拒ミ候
一当年の初和蘭奉行所より彼地江コミサーリ
役名の者
 を差遣し、先前の取極を守候様取計ひ、セバング
地名
 において、右コミサーリス
役名の者を能々饗応いたし候
 然処同人サンバス
地名江帰路の節、唐人共撃し候へ
 共、和蘭の軍勢厳しく取防、唐人ともセバング辺ニ備
 居候兵卒、武器等夥敷損凶、大ニ敗北いたし候
一東印度備の和蘭海軍再海賊征罰の為、諸方へ赴き
 候へとも、一切出兵不申候、尤海賊共呱哇の東方へ
 居合候節彼方江出張いたし候へとも意義乏敷相成候
     (オランダ領東インド)
オランダ領東インド総督は評議の上ホーゲンドルプ
の支配者をスラバヤの支配者に任命した。 この役人
は有能でこの度は同人願い通りの人事となった。

今年バタビアではオランダ領インドの産物の展示会
が行われる。 その為の会場を建設し、且バタビアへ
の運賃は無料としたので多くの産物が集り、定めし
壮観となる事予想される。

スマトラのパレンバンで政庁に対して謀反を企てる者
があり平和を妨げる計画を練っていた。 悪党の一人
はオランダ政庁に逮捕され、その他は事が発覚して
山中に逃げた。 今は全てオランダに服従している。

アメリカ船船長ギブソンとその船のイギリス人航海士
がデイヤムベレニマタラの首長に書翰を送り、
オランダに敵対するよう勧めた。 これをオランダ役人
がいち早く探知したので事なきで終わり、両人は逮捕
され裁判の結果重罪となった。

嘉永5年9月より11月頃迄、モルッカ諸島で大地震が
あり被害がでた。 特に近くのバンダ島では被害甚大
で多くの人命が失われた。 又その他の島々でも被害
があり人々の生命を失い、実に嘆かわしい事である。
オランダ領インドの住民達は莫大な金銭を集めこれを
基金として被災地の人々を扶助した。

ボルネオ島西側に住む中国人が嘉永4年にオランダ
政庁と平和協定を結び扶助を受けたが、この約束に
背きオランダの支配を拒んだ。
今年初め政庁より此地に使節をおくり、前の約束を
守る様交渉させた。 セバングで中国人達はこの使節
を饗応したが同人がサンバスへの帰路これを襲った
護衛のオランダ軍が厳しく防いだので、中国人側は
用意した兵卒・武器を失い敗北した。

東インドに展開するオランダ海軍は再び海賊退治に
出撃したが交戦は全くなかった。 海賊達がジャワ
の東方に居る時その方へ出撃したが成果はなかった


モルッカ、バンダ諸島: ボルネオ島とニューギニア
 島の間の島々


一唐国ニ相発候一揆、当年ニ至弥増ニ相成候ニ付、
 エゲレス奉行并アメリカのコミサーリスの者事柄を悟り、
 サンハイ
地名の方に立去候、右徒党の者南京を一且
 領し候へ共、無是非次第有之、再其地を引払ひ候、
 当二月二十八日タンガング
地名においてエゲレス里数
 凡三十里南京の北方江ゲねラール
官名ヘアングニング
 
人名追伐いたし候、乍去徒党の者共不意ニ発り候恐
 有之候、又風説ニハ徒党の者再南京を領し候由ニ候
(中国の事)
中国で起った反乱は今年に入り益々烈しくなったので
イギリス役人及びアメリカの使節は事態を憂慮し、
上海に移動した。 反乱側は南京を一旦手に入れた
が、官軍の反撃で再び其地を引払った。

今年の2月28日南京から北方30マイルのタンガンで
官軍の将ヘアングニングに反乱側は押え込まれたが
反乱は又突然再発する恐れも残っている。 
又最新情報では反乱側が再び南京を手に入れた由
である。


太平天国の乱の継続

一昨年エゲレス国において起り候事有之候、右は多分
 商売筋ニ拘り候儀ニ可有之候、既ニ近年彼国ニ
 おいて左尋問ニ付評論差発り候
   国中商法の規定只自国の利益を専ニ致哉
   外国一同利権の差別無之候哉
 右評論外国一同利権の差別無之候様相決候
一自国の利益を専ニいたし候規定相改り候
一昨年八月朔日名だたるヘルトク
官名ファンウェルリング
 トン
人名八十三歳ニ而死去いたし、其葬式美麗を尽し
 取行候
一エゲレス国并イール国より他邦江引越候義弥増し、
 終ニはエゲレス人共数艘の外国船を借入れ右引越の
 者共をアウスタラリー州并カリホルニー
地名に差送り候、
 但エゲレス国中の船数ニ而者右引越の者共を差送る
 に間合不申候儀ニ有之候
(英国の事)
昨年イギリスでは商業上の事で転機があった。 是は
近年議論されてきた事であり、以下の事である
 1.国家の商売は自国の利益だけを考えるべきか
 2.外国にも差別なく利益を与えるべきか
これらの議論の結論として、外国にも差別なく利益を
与える事ときまった。
是に基き自国の利益だげを追求する規則は改め
られた。

昨年8月、かの有名なウェリントン公爵が83歳で死去し
その葬儀が盛大に執り行われた。

イギリス及びアイルランドから他国へ移住する者が
益々増加し、イギリス人達は数艘の外国船を借りて
移民をオーストラリアやカリフォルニアに送っている。
これはイギリス国内の船だけではこの輸送が間に
合わぬ為である。


Arthur Wellington(1769-1852)軍人、政治家
ワーテルローの戦いでナポレオンを破る。 首相も
勤める

一フランス国政再改革いたし、昨年の末ローデウェイキ
 ナポレオンボナバルテ
人名の趣意ニ而、其国帝号を復
 し候衆評相決し、同人国帝に罷成、ナポレオンデルデ
 と名乗国政を司り、右即位の義欧羅巴諸州の政館江
 通達いたし、昨年固し候国政改革の儀全廃終、国中
 の平和連綿いたし候やう罷成候、右ハ畢竟衆力の助
 ニ有之候
一去子年十二月廿日フランス国都府ニ而、フランス帝、
 イスパニヤの侯女と婚姻を持申候、此侯女ハ古き
 貴族の家からに有之、尤王家の続ニハ無之候、
 右婚姻儀式の祝華ニ取行申候
一風聞有之候ニはローマの僧侶官首長当七月に至
 フランス国都府ニ招待有之、ナポレオンデデルデ
名 
 帝号を称するの儀式有之哉の由ニ候
     (フランスの事)
フランスでは政治形態を再び変へた。 昨年末ルイ・
ナポレオン・ボナパルトの考えで、帝政とする事に決し
同人が選挙で皇帝となりナポレオン三世と称して国政
を掌握した。 この即位の事をヨーロッパ各国の政府
に通達し、昨年定めた国政改革は廃止した。 国内
は平和に維持されたが、これは畢竟国民大衆の力
に助けられている。

昨年12月20日フランスの都で、フランス帝がスペイン
の貴族の娘と結婚した。 この娘は貴族ではあるが
王家に繋がる者ではない。
この結婚式の祝儀は華やかに行われた

噂ではローマ法王が今年7月にパリに招待され、
ナポレオン三世の皇帝即位の儀式を行う由である

一ドイツ国儀ハ至極静謐ニ有之候、扨此国より北アメリカ
 州に家移いたし候事年々ニ相増申候、右様の義専
 有之候者人民次第ニ相増、ドイツ国中ニ住居候者
 手狭ニ相見候様成行可申ニ付、誠ニ幸の事ニ候
一当年正月オーステンレイキ国帝の身上に誠に以危き
 事有之候、右は先年ホンガリヤ国一揆の節荷担の
 隊士右国帝ニ理不尽に仕掛り小刀を以て頭後に疵付
 申候、然といへ共疵深手ニ無之最早全く平癒いたし候
    (ドイツ及びオーストリア)
ドイツは大変平穏である。 ところで此国から
北アメリカ州に移住する者が年々増加している。 
これは国民が次第に増加し、ドイツ国内では手狭に
なった為の様であり、大変幸せな事である。

今年正月オーストリア皇帝が危ない目にあった。 
これは前にハンガリーで反乱があった時、それに荷担
した者が帝に突然襲いかかり、小刀で後頭部に疵を
負わせた。 しかし疵は浅く今では完全に治癒した。

一トルコ国境ニ有之候モンテねゴロー
地名といへる同国
 付領の小地とトルコ国との異論ニ付、オーステンレイキ
 国其仲ニ入取扱候事よりして、当時一般に相治り居候
 欧羅巴諸州の静謐を折き候兆有之候
一首長に自立するの所以を糺さんが為モンテねゴロー
 に軍勢をトルコ国より差向申候、将又宗旨拒の趣意を
 以てトルコ軍勢ニ対しオーステンレイキ国より軍勢を
 差向申候、此事よりしてロシヤ国よりも勇猛の軍勢を
 トルコの境界に差出し、尚又黒海の島ニも恐怖すへき
 の夥敷船勢を備置申候
一フランス国政府より一手の船勢をダルダねルレン
地名
 に差向申候、是は是迄の静謐を折を恐々敷事斯の
 如くニ候
一此争乱ハ仕者の往来ニ而和平ニ相成申候
     〔バルカンの事)
トルコ国境にあるモンテネグロという小さな地域で
トルコと係争があり、そこにオーストリアが介入して
きたので、全般的に治まっていたヨーロッパ諸国の
平穏が破れようとしている。

モンテネグロの独立を阻止する為、トルコは軍を出動
させたところ、オーストリアも又トルコを牽制する為に
軍を出動させた。 ところがロシアも強力な軍隊を
トルコ国境付近に展開し、又黒海にも恐ろしい程の
艦隊を展開した

ロシアを牽制する為にフランスも艦隊をダーダネルス
海峡に出動させた。 これは今までの平穏を破る事
斯くのごとくである

しかしこの緊張は使者の往来で和平を取り戻した。

一イタリヤ国の内オーステンレイキ国領のミラーン
地名
 於いて当年正月オーステンレイキ国の支配を免れ候様
 企有之候、其徒党の者オーステンレイキ国ニ敵対致し
 ミラーンの街市ニおいて暫時の戦争にて利を失し候、
 依之オーステンレイキ国支配の規定格別厳重相成、
 其党以後の企出来ざる様相成、当時穏ニ治り申候、
 其余イタリヤ国領ハ穏ニ而打続隣国と平和ニ有之候
     〔イタリアーミラノの事)
イタリア内のオーストリア領であるミラノで今年正月
オーストリアの支配から脱出しようという動きがあった。
しかし彼等はオーストリアに敵対してミラノで市街戦
を行ったが直ぐ鎮圧された。 これ以後オーストリアも
警戒を強め規則を厳重にして反抗の企てができない
状態になり、今は平穏である
その他のイタリア各地では平穏で隣国とも平和である

一トルコ国ニおいて専貢税甚相増申候、是ハ以前エゲイ
 プテ国ニ借財有之年々納銀いたし候故の事ニ有之候
一トルコ国の首長帝号を号申候
 既ニトルコ国とモンテねゴロ
地名を争論の事は以前
 に申上候、此争論ハ両国の軍勢互ニ血戦いたし候
 程ニ相成、畢竟トルコ国の趣意ハ此小地を押領して
 トルコ国ニ属せしめんが為ニ有之候
一当時ニてハ此争論相止以前ニ相復し元々の通り
 相成申候
一当時の風説ニ而者トルコ国とロシヤ国との取合起申
 候、ロシヤ国ハモンテねゴロを借地ニいたし度相望候
一其他欧羅巴の支配向も此落着ニ不容易義有之候 
     (トルコの事)
トルコでは税金が非常に重くなっている。 これは
以前のエジプトからの借金を毎年返済している為
である。

トルコでは首長が帝号を称するようになった
既にトルコとモンテネグロの事は前段で述べたが
両国の軍は戦闘する程になっていた。 つまりトルコ
の考えはこの小国をトルコに併合しようとした。
現在は此係争は治まり、元の通りである。

現在の情報ではトルコとロシアの取り合いであり、
ロシアはモンテネグロを借地したい考えである

他のヨーロッパ諸国の支配層はこの決着は容易で
ないと見ている。

一ねウヨルク
地名において当年三月二十五日土地の
 産物并アメリカ其他諸州奇行器物の見せ物相開申候
一嘉永四亥年エゲレス国都府ニ而相済候通、諸国より
 品物此地ニ運送いたし候

一アメリカ州北方と南方続居候パナマ峡を切通しの義、
 ロンドン
エゲレス国の都府 ニおいて一統評決いたし候
 此切通しハ大船の通行弁利の為、幅広く底深く致べく
 候、是ニ而北アメリカ州東西の債互ニ往返自由を得、
 又欧羅巴州并アメリカの東方より唐国印度渡海の通路
 格別近く相成候故、通商の為極而肝要の事ニ相見
 申候
一北アメリカ共和政治の住人エリクソン
人名先頃蒸気
 具ニ甚肝要の事を発明いたし、蒸気具入用に水を
 用ゆニ空気を以て是ニ換へ、是を熱め運動力を得候
 様の工夫いたし、此発明の所以ハ通圭蒸気具入用の
 薪炭用のもの五分一 を以て是ニ充て申候
    (アメリカ諸国の事)
ニューヨークでは今年3月25日土地の産物及び
各地の物産の博覧会が開催された。
嘉永4年〔2年前)イギリスの首都で開催された時の
様に諸国から物産がニューヨークに送られた。

南北アメリカ州を繋いでいるパナマの地峡を切り通す
件で、ロンドンで会議が開かれ決定した。
この切り通しは大船も通行できる様に幅広く、底深い
ものになる。 これで北アメリカの東西の貨物の往来が
自由になり、又ヨーロッパ及びアメリカ東海岸から中国
やインドへの航路が特に近くなる。 これは通商に
とって極めて有意義な事に思われる。

アメリカ合衆国の住民であるエリクソンが最近蒸気機関
に関する重要な発明をした。 蒸気機関では水を用る
が、水の代わりに空気を用い、これを熱して運動力を
得る工夫をした。 この発明により通常の蒸気機関に
必要な薪炭の5分の1で事足りるという。
一北アメリカ共和政治の住人六十年来、殊の他相増分
 左之通有之候
アメリカ合衆国の住人はこの60年来、大幅に増加
したが、それは以下通りである
年表 ブランキン フレークリユーリンゲン スラウェイン 惣人数 *西暦年
白種の者 有色自由人 奴隷
寛政二戌年 3,172,000 59,000 697,000 3,928,000 1,790
寛政十二申年 4,304,200 108,000 893,000 5,305,200 1,800
文化七午年 5,862,000 186,000 1,191,000 7,239,000 1,810
文政三辰年 7,866,000 233,000 1,538,000 9,637,000 1,820
天保元寅年 10,532,000 319,000 2,009,000 12,860,000 1,830
天保十一子年 14,189,000 386,000 2,487,000 17,062,000 1,840
嘉永三戌年 19,630,000 428,000 3,204,000 23,262,000 1,850
一近来の風説にカリフォルニー地名の北方の地に甚敷
 患災あり、是迄誠ニ繁華ニ有之候イレカトといへる市街
 四十日程の間、食物断れニ相成、其所以ハ其地の
 近方雪の為ニ深く埋没いたし候
一去年来金坑至極都合能有之候、殊更又々新坑を見
 出申候、アウスタラリヤ州にて金坑ニ携たる者共、此
 良説ニ而カリフォルニーの方ニ赴候もの矢張有之候
一此已然別段風説に相記候メキシコ
地名静謐ニ相成候
 義、誠ニ唯纔の間の義ニ而、再一揆相起一般に騒動
 いたし、国政も不届頻ニ混雑有之事ニ候
最近のニュースではカリホルニアの北部で大きな災害
があった。 大変栄えていたイレカトという街で40日間
程食糧が途絶えた。 理由は付近が大雪の為に埋没
した為である。

昨年来金産出が多くなった。これは新しい金鉱が発見
された為で、オーストラリアで金採掘に携る者もこの
良い知らせでカリフォルニアに移ってきた。

前の別段風説で報告したが、メキシコが平穏になった
のは束の間で、再び騒動が起こり政治も行届かず
混乱が続いている。

一喜望峰辺の当時の風説にハ「カツフル人等エゲレス国
 と和順の義を約し候趣に候、然共此義永くハ続間敷と
 恐候由ニ候、先大凡の人の考ニカッフル人等今軍用
 の諸品不自由ニ相成、彼是取集をなすに不便なるを
 以て自然ニ元の通和順の事及申候
      (喜望峰の事)
喜望峰辺りの現在のニュースによると、カッフル人達
がイギリスに和順する事を約束したと言う。 これは
長くは続かないだろう、というのが大方の見方である。
カッフル人は今軍用の諸物資が不足しており、これを
用意するのが面倒なので従っていると見られている


喜望峰:ケープタウン 英国領、 アフリカ最南端

一カリフォルニーの地において新金坑見出し方の事、
 近年前専人の思慮を尽せし如く、アウステラリヤ州ニ
 於ても今頻ニ此事に心を尽し、終にハ夥敷金産する
 地を見出せし事、既ニカリフォルニーに勝れり、諸方
 より許多の人物日々に此所ニ来り、 爰ニ而得る所の
 宝ハ誠ニ以て夥と申事ニ有之候
一当時の風説ニ而此金産の地弥以華々ニ有之由ニ候
 然ニ日々ニ賊徒出来、理不尽の事共いたす者多く
 連中の人数少き故、其悪行を防ぐの方便無之由ニ候、
 此尊き宝金を得る事始り候以来、彼の大切の産業
 たる牧羊の事全く廃り、右ニ付而ハエゲレス国毛織
 反物製造所、羊毛事欠ニ患慮有之間敷哉、
 其職立方の元と成候品払底にてハ職業不出来様ニ
 可成行哉、と大ニ掛意仕候事ニ候
    〔オールトラリアの事)
近年カリフォルニアで金鉱が発見されて以来、人々
が金採掘に心を奪われたのと同じ様に、オーストリア
でも今大量の金を産出する場所が発見されカリフォ
ルニアに勝る程である。 各地から多くの人と物資が
流れ込み、ここで得る宝は実に夥しいものがある。

現在のニュースではこの金の産地は次第に華々しく
成り、それに伴い無法者も蔓延ってくる。 取締りの
人数が少ないために、悪行を防ぐ事に事欠く状態で
ある。

又この金の産出が始まって以来、是迄大切にして
きた産業である牧羊が廃り、その為に英国の毛織物
製造工場が羊毛原料に事欠くのではないか、 織物
産業の元となる原料が不足しては産業そのものが
成り立たなくなるのではないか、という事で心配して
いる。

一唐国并東印度海ニ相備候欧羅巴州海軍左之
 通有之候
中国及び東インド海域に展開する欧米海軍は
以下の通り
            エゲレス海軍
一アリガトル船号 大サ五百トン 但一トンハ千六百斤        船司 スミツク 人名      *Alligator 
一ビットルム同上  同四百八十トン 大砲十二挺            同ファンニフト同上 1    *Bitern  E.Vanstat
一コンテイト同上  同四百五十九トン 同十二挺 乗組百二十人  同スペンセル同上      *Contest J.Spencer
一ダーリング同上  同四百二十六トン 同十二挺  同百三十人  同ナヒール 同上    *Daring, G.Napier
一エレクタラー同上 同四百六十二トン 同十四挺  同百三十人  同モリルス  同上   *Electra ,E.Morris
一フヲクス 同上  同千八百トン    同四十二挺 同三百人   同ランベルト 同上  *Fox , Robert Lumbert
一ハーディングス  同千七百六十トン 同七十二挺 同六百十五人同アウストル同上      *Hasting, J. Austen
一ヘルメス 同上  同八百三十一トン 同六挺    同百二十人  同フィスギルン同上 *Hermes.SteamPad,E.Fishborne
一リリイ   同上   同四百三十二トン 同十二挺  同百二十五人同サンデルマン同上    *Lily,  John Sanderson
一ミンデン 同上  同千七百二十トン                   同バンビール同上     *Minden
一バビット 同上  同三百十九トン   同八挺    同八十人   同ブライン同上       *Rapid, G.Blalne
一ハットレル同上  同八百八十八トン 同九挺  同百二十人  同メルレルス同上 *Rattler, 1112t SteamScrew A.Mellersh
一ボヤリスト同上  同二百九十九トン  同六挺    同六十六人  同ハーチス同上  *Royalist, W. Bate
一サラマンドル同上 同八百十六トン  同六挺    同百六十人  同エルマン同上  *Salamander, SteamPad, J.Ellman
一セルベント同上  同四百三十トン  同十二挺   同百三十人 同ルワルト同上      *Serpent, W. Luard
一スパルタン同上  同九百十八トン  同二十六挺 同二百三十人同ホステ 同上      *Spartan ,G.Hoste
一スティーナ同上  同千三百六トン  同六挺    同百六十人                 *Sphinx,SteamPad,A.Shadwell
一ウィンセストル   同千四百八十七トン同五十挺 同四百三十六人 同ナットウェル      *Winchester, Granvill Loch
      フランス海軍
一サボシシューセ    四十四挺     ボクマウレス 
一ウスシナ                    ブラス
フランス海軍
   左記
       ロシア国海軍
一バルラス
船号 大砲五十四挺 船司ニンズコスウイ人名
   但右ロシヤ船は当正月朔日シンガポール
地名に廻
   着、唐国并カムシカツーカ地名に差越候、猶左の
   軍船引続差越候由ニ候
一ディアナ船号  大砲十挺  船司ヘスサラベセイ
人名
   但唐四月晦日アンエル
地名ニ乗寄、ホンコン地名
   差越候
一ファストック
船号 大砲四挺  船司 コルサコフ人名
      ロシア海軍
パルラダ号 大砲54門 艦長ニンズコスウィ
 但このロシア船は当年正月朔日シンガポール経由
 中国及びカムチャッカに航行した。 尚以下の艦船
 が続いて到着した。
ディアナ号  大砲10門 艦長ヘスサラベセイ
 但4月1日アンエル着岸後ホンコンに到着
ボストーク号  大砲4門 艦長コルサコフ
        北アメリカ海軍
一カブリセ船号    大サ二百六十四トン                船司マウフレイ人名   *Caprice
一ミスシスシッペ同上  同千七百トン 大砲六挺 乗組三百七十四人同レース同上     *Mississippi By S.Lee
一プリモウス同上     同千トン    同二十挺 同二百人     同ケルレイ同上     *Plymouth By J.Kelly
一サラトガ同上     同九百トン    同二十挺 同二百人     同ワルケル同上    *Saratoga By W. Walker
一シュップレイ同上  同六百五十トン 同六挺   同五十人     同シンクライル同上  *Supply By A.Sinclair
一シュスケハンナ同上 同二千五百トン 同九挺  同三百五十人  同ベルレイ同上    *Susquehanna By M.C. Perry
一ポウハッタン  同上                             同クウニイ同上     *Powhattan By W. McCluney
  但し此船当三月九日シンガポール地名に廻着いたし候      *但ポーハタン号は今年3月9日シンガポールに着岸

一当四月十七日唐国通路便の風説ニ而ハ唐国南方江
 相渉候アメリカ海軍の内、当四月四日日本江差向候由
 ニ有之候、但マガゼインシキップ
府庫船サップレイ船号
 ハ当時マカオに有之候、アドフィースファールトイグ
 
駈引通行の船カブリセ船号は当四月朔日ホンコンより退帆
 いたし、サラトガ
船号はマカオより出船いたし候
 風聞ニ而者右海軍日本江着船いたし候以前琉球江相
 集り候由ニ有之候

一当時の評判記ニエゲレス某の軍船、唐国海ニ備有之
 候義を相記し候、右は多分趣意可有之事ニ候得共、
 巨細ニ記載無之候
一当三月十五年唐国通路便の風説ニハ「アリガトル
船号
 ヘルメス
同上リリ同上ミンデン同上バビット同上バッテルン
 
同上サラマントル同上スパルタン同上只是等の船有之、
 其他ハ東印度海諸処ニ在て、ヒユルマ
地名との戦争に
 備有之、フォクス
船号ハスシンゲ同上スフェンド同上
 
ウインセクトル同上は当時ビユルマ江滞船いたし、
 ビッテルン
船号ハ先頃咬留巴港江着船いたし候由ニ候
今年4月17日〔1853年5月24日〕付チャイナメール
の記事によれば中国南方へ展開するアメリカ海軍の
の一部を4月4日に日本へ向け出発させたという事で
ある。 但し補給船のサプライ号は現在マカオに居り
通信船カプリセ号はこの4月1日にホンコンを出て、
サラトガ号はマカオから出発した。 情報では艦隊が
日本に到着する前に琉球に集合すると云う事である

最近の記事でイギリスの艦隊が中国海域に展開して
しているのを記しており、何か意図があるものと考え
られるが詳細は記載していない。

この3月15日チャイナメイル紙のニュースでは
アリゲータ号、ヘルメス号、ミンデン号、バビット号、
ラトラー号、サラマンダー号、スパルタン号が近海
にあり、其他は東インド海域方々にありビルマとの
戦争に備えている。 フォクス号、ハスティング号、
スフィンクス号、ウィンチェスタ号は現在ビルマに到着
し、ビッテルン号は先頃バタビアに到着した由である


唐国通路便: ホンコンの英字日刊新聞、
          チャイナ・メイル

一和蘭海軍の内左の通咬留巴江備有之候
 
−プリンスヘンデレッキデッキ       船司
    デルネーデルランデン  船号     デブラーク人名
 −ファンスペイキ  同上          同 サウファケ同上
 −ボレアス      同上         同 ハロンカルロット同上
 −ねハシンイア   同上         同 チハーン同上
 ーハーイ       同上         同 フォンローメル同上
 −ランシール    同上         同 ストルー同上
 −シルツ       同上         同 スタラーチン同上
 −ドルフェイン    同上         同 デゲーブ同上
 −エグモント     同上         同 ベールラルフ同上
 −バンカー     同上          同 フォセルマン同上
 −バンダー     同上          同 ケレセン 同上
 −アムボン     同上          同 ファンワススルト同上
 −サバリア     同上          同 デゲルドル 同上
 −パタング     同上          同 メイユル 同上
 −ベイラテス    同上          同 エンゲルヘルツ同上
 −アルエー     同上         同 モススル 同上 
 −アラバ      同上         同ファンカッテンデイキ同上
 −アルチユノ   同上          同 フート 同上
 −メウピー     船号         船司ファンマルデグヘム人名
 −エットナ     同上          同 カランブ 同上
 −フェシュフィース同上          同 マテイセン 同上
 −フェキラー   同上         同ファンウールデーレン同上
 −フーニキス   同上          同 ファンエス 同上
 −シュリナメ    同上          同 スコックル 同上
 −サマラング   同上          同 ステイデレイキコム同上
 −ボルねオ    同上          同シュキュリニートル同上
 −セレベス    同上          同 ゲールリング同上
 −バタフィア   同上          同 モーレ 同上
 −カノねールボート軍船の一種    同 ロイングス 同上
オランダ海軍の内でバタビアに備えてある艦船
 左の通り

 

一昨年風説書ニ北アメリカ共和政治政館、日本通商
 いたし度存念有之候処、昨年八月十六日ねウヨルク
 
地名デヘラルド日記の名中ニ右一件左の通記載有之候

一日本江差向候一件の発起弥相募候趣ワスシンクトン
 
地名より通達有之候、右使節に蒸気船ミスシスシッピ
  船号 
船司ロング人名ニ有之 
 但昨年九月廿日より廿九日迄ニねウヨルクより出船可
 致候プリンセトン
船号船司ペルレイ人名ハ「ミスシスシピ
 
船号ニ差添当時バルチモーレ地名ニ滞船いたし、
 ケートル
蒸気船の具を取替、アルレグハンねイ船号
 カスホルト
地名にて修理を加、昨年十一月頃其地を
 出帆の積ニ候、右船々出帆以前諸事成丈急速ニ用意
 いたし候、但使節の司ハペルレイ
人名に有之、昨年
 九月下旬日本海ニ赴き候、尤其已然日本海辺ニ有之
 候彼地海軍と出会の含ニ有之候、右差向候者多分
 平和の趣意可有之、測量の為差向候者共ハ当時
 唐国海ニ赴き候、 但是ハ船司ビンゴルト
人名の指揮
 ニ有之、右の外マサル
人名当時ねウヨルク地名ニ有て
 唐国へ赴候用意有之候、昨年十月中旬の風説にて
 左の船々日本江向け出帆致候由ニ有之候
一フェルモンド船号    大サ三千トン 大砲九十五挺 乗組八百人
一蒸気船ミスシスシッピ同上同千七百トン 同十挺 同三百七十五人
一同シュスケハンナ同上同二千五百トン 同九挺  同三百五十人
一同ポウハタン同上   同二千五百トン 同二挺  同二百七十人
一同サラトガ同上               同廿三挺 同百九十人
一同アロガウねイ同上   同千トン    同二挺  
一フィンセニュース同上          同二十二挺  同百九十人
一ラーセ 同上               同二十二挺 同四百五十人
一ポルポイセ同上              同十挺   同百二十人
一サウダシフト同上             同四挺   
一ファロール同上              同四挺
一シントマレイス同上            同二十二挺 同百九十人

 右の内大軍船八艘、其外小軍船惣大砲通計
 二百三十六挺、乗組人数通計三千百二十五人
 有之候
昨年の風説書(嘉永5年版)でアメリカ合衆国政府は
日本と通商を行いたい意向である事報告したが、
昨年8月16日のニューヨーク・ヘラルド紙に此件に
関して以下之記載があった。

日本へ使節を派遣する件は愈々具体的となり
ワシントンから通達があり、 使節に蒸気船ミシシッピ
号のロング艦長が加わる

但し昨年9月20日から29日までにニューヨークから
出港したプリンストン号(艦長ペリー)はミシシッピ号に
指添える為、現在バルティモアで蒸気機関のボイラー
交換を行っている。 
又アルゲニー号はカスホルトで修理しており、昨年
11月頃同地を出帆の予定である。 

以上艦隊出発準備を大至急で準備を進めている。 
尚使節のトップははペリーである
艦隊は昨年9月下旬には日本近海に赴き、又日本
近海に居る艦船と合流する事になっている。 

此艦隊は平和的な目的で派遣するものであり、 
測量の為に派遣する艦船は現在中国近海に向けて
リンゴルト艦長の指揮下にある。 又マーシャル氏は
現在ニューヨークにあり、中国に向け準備中である。

昨年11月の情報では
以下の艦船が日本へ向け出帆する由である。
Vermont号   戦列艦 2,633トン 砲84 乗組820
Mississippi号 蒸気外輪 3,220トン 10   
Susquehannna号 同上  2,450トン  9 
Powhattan号 蒸気外輪 2,415トン  5   289人
Saratoga号  フリゲート  882トン  22   210人
Allegheny号 蒸気外輪  989トン  2   190人
Vincenns号*  スループ  700トンt 18   80人
ラーセ      不明
Porpoise号*  ブリッグ    224トン 10  80人
Southampton号         567トン  2 
ファロール   不明
St. Mary's号  フリゲート  958トン  22 195人
 右の内大艦8艘、他小型軍艦の総大砲数は236門、
 総乗組員数は3,125人
 (Princeton号  蒸気screw  1,370トン 10)

1. 上記艦船英文名は米国海軍艦船リストより
2.*艦船 はRinggold大佐の中国近海向け測量船
3. 実際に第一次ペリー艦隊が浦賀に到着したのは
嘉永6年6月3日(1853年7月3日)であり、艦隊は
シュスケハンナ、ミシシッピの蒸気外輪船及びサラトガ
プリモスのフリゲート帆船の四艘だった。 此嘉永6年
別段風説が長崎に到着したのは嘉永6年7月である
為この情報が幕府に到達した時には、ペリー艦隊は
既にその一ヶ月前に浦賀に到着していた事になる 

一ロシア国海軍日本海江赴候用意有之、其船ハ
 フレガット
軍船の一種バルラタ船号一艘、タランスボルト
 シキツプ
運送船一艘、蒸気船一艘ニ而フィーセ
 アドミラール
官名プララーテン人名の指揮ニ有之候、
 右趣意ハアメリカ海軍の様子を見候心得の様子
 有之候
ロシア海軍は日本海域に赴く予定である。 その艦隊
はフリゲート艦のパルラダ号、輸送船一艘、それに
蒸気船一艘で海軍中将のプチャーチンが率いる。 
この艦隊派遣の目的は米国海軍の様子を覗う為で
ある


此年1853年8月21日ロシア艦隊は日本との交易と国境
策定の為長崎に来航している。 
パルラダ号、オリバーツ号(コルベット)、ボストーク号
(蒸気船スクリュー方式)、メンシコフ号〔輸送船)の
四艘で編成
一願ニ而是迄シリボンと申所ニ罷在候和蘭町医、
 イナファンデンブルック
人名儀、今度治療の為出島
 在館ニ相決、差遣し候
 
シリボンの民間医師のイナ・ファン・デンブルックと
いうものを本人希望により、今度医療業務の為出島に
赴任させる。
 右之通御座候
             かひたん
               どんくるきゅるしす

 右之通和解差上申候、以上
   丑七月
                西  吉兵衛印
                森山栄之助印
                西  栄太郎印
                本木 昌造印
                楢林栄七郎印
                名村五八郎印

以上の通り
          領事官 ドンケル・キュルシス

以上邦訳して提出する
    嘉永6年7月〔1853年8月)
                     通訳 左記
出典 北海道大学北方資料 力石雑記より〔写本)

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