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嘉永四亥風説書  1851年8月    出典オランダ風説書集成

一当年来朝之阿蘭陀船六月八日咬留巴出船仕、海上
 無別条、今日御当地着岸仕候、右壱艘之外類船無
 御座候
一台湾辺其外唐国及び日本近海において、唐船見掛不
 申候
一去年十月七日御当地より帰帆仕候船日数二十七日経
 海上無滞十一月四日咬留巴着船仕候
当年来日のオランダ船は6月8日バタビアを出帆し
洋上異常なく本日長崎へ到着した。 此一艘以外
に仲間船はない

台湾付近外で中国船は見掛けなかった。

昨年長崎より10月7日帰帆した船は日数27日を
経て、順調に11月4日バタビアに到着した。
一去年帰帆之船より御送相成候漂流異国人、洋中無恙
 何れも無事ニ而咬留巴着船、其国々江差返申候
一呱哇中物静に御座候
   右之外相替候風説無御座候
昨年帰帆の船で送られた漂流の異国人は、海上
異常なくバタビアに到着し、夫々の国に渡した。

ジャワ全体は静謐である
   以上の外特に情報はない
             かぴたん
              ふれでりつきこるねへりす ろうせ
 右之通船頭并ヘトル阿蘭陀人申口カピタン承申上候ニ
 付、和解差上申候、以上
    亥七月十二日           本木 昌左衛門
                        其外
    商館長 
       フレデリッキ・コルネス・ロウセ
 以上船長及び事務長が語った事を商館長が聞き
 報告あったので和訳
    嘉永4年7月12日   本木昌左衛門
    〔1851年8月8日)   其外

永三年 アメリカ鯨漁船トライデント号の乗組員三名が嘉永2年6月カラフト島に取り残され、同所駐在松前の役人に
保護され松前経由、長崎に送られる。 イギリス鯨漁船イーモント号が北海道東部で岩にぶつかり破損沈没、乗組員
32名は艀でアツケシ海岸に嘉永三年4月漂着(内壱名は溺死)、松前経由長崎に送られトライデントの3名と合わせ34名
が同年秋のオランダ船に託される(通航一覧による ) 





 ka04b                        解説に戻る                     

  辛亥別段風説書    嘉永四年    1851年8月       出典 蠧余一得(内閣文庫)

一嘉永三年五月廿四日当国王次男ウイルレム・ブレデ
 リッキ・ヤウリッツ・アレキサンドル・ヘンデリッキ・カーレル
 
人名 死去仕候
一右次男纔ニ六歳にての死亡を国王一族殊の他悲嘆
 仕候儀ニ御座候
一右同月スェーデン并ノールウェーゲン国王の太子
 和蘭元国王の弟の娘と縁組仕候
一去戌十月二十一日当国王ウィルレム・テデールの弟
 都督職相勤居候プリンス
爵名ヘンデリッキ・デル・ねーデ
 ルランゲン
人名リュクセンビュルグ和蘭属国の名の支配を
 取申候

一欧羅巴州中兎角に騒々敷有之候へとも阿蘭陀国に限り
 至而静謐安全御座候
     (オランダ本国の事)
嘉永3年5月24日オランダ国王ウィレム三世の次男
ヘンドリッキ・カーレルが僅か6歳で死去し、国王
一家は大変悲嘆にくれている。

同月スエーデン及びノルウェー国王の太子と前
オランダ国王の弟の娘と縁組が整った。

昨年10月21日当国王ウィレム三世の弟である
ヘンデリッキ公はルクセンブルグ大公国の総督
に任命された

ヨーロッパは何かと騒々しいがオランダに限れば
至って静かである
一エゲレス国船乗掟の儀に付、以前の通に相改候儀、
 昨年の説明に有之候
一阿蘭陀国及其他欧羅巴の国々船乗掟の儀、
 是又エゲレス国の振合に准じ、猶商売に乗居候先水にて
 も是又エゲレス其他国々の自国同様の心得の趣申候
一右の振合に相成以来商売方追々繁昌いたし、諸荷物の
 直段一編に引下げ、国中持合宜敷、欧羅巴州中以前に
 比べ候得者安寧に相成申候
一阿蘭陀国にて海水を蒸法し飲水にいたし候様の義試作
 仕、此儀夫国の学術に功者の人物立合にて良法と相決
 申候
   (航海条例廃止と海運協定)
イギリスは17世紀から航海条例を公布し、自国
植民地とイギリス及びヨーロッパの貨物輸送は
英国船に限るとして、オランダなどを締め出した。
しかしヨーロッパ各国の海外植民地が広がるに
伴い、海運の自由競争を行うため1849年に
イギリスは航海条例を廃止し、自由貿易に移行
した。 
これに伴いイギリスは自由競争を勝ち抜く為に
1850年には海運法を制定し、乗組員の待遇を
改善して海運の質向上に努めた。 
オランダもイギリスの方針に従ったと思われる

オランダでは海水を蒸留して飲料水を得る方法
を研究していたが、此度専門家が検討して評価
した。
一当年四月十二日政事を預り候都督職イイロキュスセン
 人名
王命にて其職をアイドイマールファントイスト人名
 譲申候
一然に去ル嘉永二酉年政事を預り候イイロキュスセン
人名
 
都督職を退勤致し本国に罷帰候儀相願候
一右代り新都督アイトイマールファントウイスト
人名者以前
 和蘭国人民守護のためオーブルエイスル
地名に在勤致
 罷在候
一右役を壱両年相勤候後、国王より其地在勤の頭役被
 任候
一右新都督者当亥年二月初旬本国発足いたし同四月十日
 咬留巴着いたし候
一右新都督者即ちエールステラントフォーグト
官名に有之
 同人咬留巴江相越候節者陸路にて所々巡見いたし、
 右之節ドイツ国の都府へも立寄為中日数五十四日を経て
 呱哇に着いたし候

一和蘭領東印度のフィセプレシデントファンデンラト
官名
 被任候イエフハフアンねス
人名者右新都督と同道にて
 瓜畦着いたし候

一フィセプレシデント官名イエルレイシスト人名退勤相願
 候付其跡明有之候
一右イエフハファンねス
人名ハ以前久敷呱哇地役柄之者
 ニ而和蘭所領東インドのリットインデンラート
官名に有之候
一先都督イイロキュスセン
人名当時ホイテンリルグ地名
 罷在候処、近日和蘭国江向け発足の積に候
一フィセアトミラール
官名エベファンデンボグ人名ハ都督之
 旗下にて東印度海軍の指揮役に有之候処、当亥年正月
 八日咬留巴に於て死去いたし候
一同人願に因て其死骸者ボイテンリルグ
地名に有之候寺の
 墓所ニ葬有之候
  (オランダ東インド領の幹部人事)
今年4月12日東インド総督のロキュスセンは王命
でその職をトイストに譲る事になり、嘉永2年以来
務めた職を離れ本国への帰国願いを出した

代わりの新総督トイストは以前オランダ人保護の
ためオーブルエイスルで勤務しており、此地で
2年前に国王より頭役を任命されていた。 今年
2月初旬に本国を出発し、4月10日バタビアに
到着した。
新総督はバタビアへの赴任途中所々訪問し、
ドイツの都府にも立寄り日数54日をかけて到着
した。

オランダ領東インドの評議会議長に任ぜられた
ネスは上記新総督と同行でジャワに到着した。
前議長のレイシストが退職するのでその後任で
ある。
ネスは以前は長くジャワに勤務した事がある。

前総督ロキュスセンは現在ホイテンリルグに居り
近日中オランダに向け出発の予定である

提督のデンボグは総督の下で東インド海軍を
指揮していたが、今年正月8日バタビアで死去
した。 同人の希望で死骸はホイテンリルグに
ある寺の墓所に葬られた。


オランダ東インド総督 
 Jan Jacob Rochussen(在任1845-1851)
 Albertus J Duymaer van Twist(1851-1856)

一昨年別段風説に申上候通、呱哇のパルタムと申出張所
 にて騒動差起候へ共、些細の儀にて有之候
一一揆の党首土地の首長并其配下の者共捕ハれ、土地
 静謐に相成元ニ復申候、将又住居之者共を遠方に退け、
 容易に立帰申難くいたし候
一バンカー島においてアシル
官名か不詳住民を引入来徒党
 を企て騒動に及び候へ共、政家の権威によりて徒党の者
 離散いたし、去年十二月六日右アシル降参いたし遠方に
 退られ候
一ボルねオの西渚サンバス住居いたし候唐人共、土地
 の掟に背き候、右発端ハ唐人共密売致し度所存に有之
 候、然レ共其地江軍勢を差向、厳敷戒め密売を禁じ申候
一右騒動につけ、唐人共要害を奪ハれ勇壮の者共討死
 夥敷有之大に敗北いたし、海上の通路を絶止ニ付使者を
 整し土地の総督に罪を謝し、頻に赦免を願ひ候処、此後
 政家の命に伏し其約定を守り度事に候、尤軍勢者兼て
 備置き唐人共の所行を心付候
  (オランダ領東インドの反乱鎮定) 
昨年の別段風説で報告の通りジャワのパルタム
という出張所で騒動が起ったがたいした事は
なかった
騒動の首謀者及びその配下は捕られて元通り
静かになった。 又騒動の住民は遠くに移し、
容易に戻れない様にした。

バンカ島でも村長が住民を巻き込み騒動を起し
たが、政庁の権威により謀反者は離散し、昨年
12月6日村長も降参し、遠くに追いやられた

ボルネオ島の西海岸サンバスでは住民の中国
人が密輸を企てていたので、軍隊を送り懲らしめ
密輸を禁止した
この騒動で中国人達は要害を奪われ、勇壮の
者が討死するなどの敗北を喫し、海上の通路も
封鎖されているので使者を土地の総督に送り
謝罪して許しを乞うた。 以後は政庁の命令に
従い約束を守りたいとの事である。 但し軍勢は
そのまま駐留させ中国人の行動を注意する

バンカBangka 
スマトラ島の北バンカ海峡もある
サンバスSambas ボルネオ島西端、 ボルネオ
 島は当時南がオランダ領、北の現マレーシア
 がイギリス領になっていた。
一印度海の海賊追討のため阿蘭陀国海軍其場所ニ赴き候
一去年の末海賊船数艘ボウエアン島に戦争を発し候、右島
 者呱哇の北に有之候       
一右海賊共上陸いたし乱暴に及び焼伐いたし土地の男女
 を連去候
一援兵船到着の節ハ最早海賊共走去候後に有之候得共、
 其後シュヤナッフ海に於て出逢候、数艘の海賊船破壊
 いたし候、此時海賊に奪ハれ数多の者も災害を免れ候、
 尤右の内にハボウエアン島居住の者も有之候
一唐国海にてエゲレス国の海軍、海賊の儀に付色々計策
 いたし、評決の上右名たたる海賊シヤボト
人名を召捕申候
   (東インド海域の海賊退治)
東インド海域の海賊を討伐するためオランダ海軍
が出動した
昨年末海賊船が数艘、ジャワ島の北に位置する
バウエアン島を襲い、上陸して家を焼払い土地
の男女を連れ去った。
援兵の船が到着した時は既に海賊は去った後
だったがシュヤナッフ海で発見し、数艘の海賊船
を破壊し、奪われた多くの者を開放した。 勿論
此中にはバウエアン島の住民も居た。

中国沿岸の海域でもイギリス海軍も海賊対策に
色々工夫し、シャボトという有名な海賊を逮捕した


バウェアン島 Bawean
一サマルシス地名ブヲチュアン同上ベウウン同上トンキュー
 
同上の海賊共、当年の始にイスパニヤ国の海軍より召捕れ
 申候、風聞にてハ海賊共の住家七百軒、其余数多の船々
 焼払申候
一其後イスパニヤ国の海軍フィリペイン島奉行の下知にて
 ソーロー
地名のシュルタン官名討伐として発向の催し
 有之候
一此事の起りはソーロー
地名に罷在候イスパニア国の兵士
 取扱方悪敷有之候処より相起り、右ニ付シュルタン
官名
 不承知を述候
一風説にてハソーロー人共全く取挫れ、砦七ヶ所、鉄砲
 百三十挺失ひ、シュルタン
官名者漸く逃去申候
一此事に依て彼ソーロー人共第一海賊に出候事も相成
 間敷候、元来八年前エゲレス国と海賊の儀ニ付取極も
 有之候得共、夫に反し此儀頻に後悔いたし居申候
   〔スペインの海賊対策)
サマルシス、ブヲチュアン、ベウウン、トンキュー
の海賊は今年の始め、スペイン海軍に捕えられ
風聞では海賊の住居七百軒余と多数の船を
焼払った由である。

その後スペインの海軍はフィリピン総督の指令で
ソーローの酋長を討伐するために出動した
事の起こりはソーローに駐留するスペイン兵士の
取扱いが悪かったが、是を酋長は知らぬ振りを
していた。 
情報ではソーロー人は挫かれ、砦七ヶ所、鉄砲
百三十挺失い、酋長は逃げ去った由。

この結果ソーロー人達は海賊に出ることも出来な
くなり、八年前イギリスとの約束で海賊の決め事も
あったのに全てを失い後悔している。


ソーロー:フィリピンのミンダナオ島とボルネオ島の
間にあるSuru諸島と思われる

一先頃の風説にてハエゲレス国の海軍東印度并
 唐国海者左の船々相備申候
一アルリガトル
船号  首長 テエルアバンキール人名
 但病人養生船
一アマロン
同上    船将 セバルクル同上
 但病人養生船 石火矢廿六丁備
一ムンオパタラー
同上 同 エフエルマスント同上
 但ブリッキ船 石火矢十二丁備
一ハステイングス
同上スコウトベイナグト官名ヒャウステン人名
 但リーニー船 石火矢七十二丁備
一リーニー
同上     船将ヘデベドフォルト同上
 但ブリッキ船 石火矢十二丁備
一シンデン
同上    マストル イミスセル同上
 但兵糧船
一ヒロット 
同上    船将 ヒッケレイ
 但スクルーストムボート 石火矢十六丁備
一プレイナルト
同上  同 ベガラセロフト同上
 但スクルーストムボート 石火矢十六丁備
一ロヨリアト 
同上    同 ウバーテ同上
 但コルフェット船 石火矢十一丁備
一セルペント同上   同 ヒリアルト同上
一スペイン同上   同 セエフア シアツトウエル同上
 但ストームシキップ 石火矢六丁備

一イスパニア海軍此地備立の儀巨細に書載いたしがたく候
最近の情報によるイギリス海軍の東インド及び
中国近海艦船は以下備えている。
船号     種類   砲数  艦長
Alligator   病院船        
Amazon   戦列艦  26   C. Baker
Cleopatra  ブリック  12   Thomas Massie
Hastings  戦列艦  74 旗艦提督J. Austen
Lily     ブリック  16    Robert Bedford
Minden    食料船      
Pilot     蒸気船sc 16    Jhon Ince
Reynard    蒸気船sc 8    Peter Cracroft
Royalist  コルベット  11    William Bate
Serpent   ブリッグ  16    William Luard
Sphinx   蒸気船pad  6   Charles Shadwell

*以上解読はビクトリア時代のロイヤルネービー
 艦船リスト(英国HP)と照合

スペイン海軍のこの地域の展開の詳細は不明
当時此地に相備候和蘭海軍左之通有之候
一プリンスヘンデレッキテルねードルランテン
船号
  但フレガット
軍船の一種 船将 カロテインテルゼイ官名
     ヨンクヘールハアファンカルネヘーキ
人名
一ボレアス同上   船将 ロエイテナントデルゼイ
官名
  但コルフェット
同上   イファンデルスタラーテン人名
一ねハレニア
同上 同 カピテインロイテナントテルゼイ官名
  但コルフェット
同上   ケフォゲルポート同上
一スワーリウ
同上   同    同
  但ブリッキ
同上     セノールトイン同上
一ヒエサール
同上  同  第一等ロイテナントデルゼイ官名
  但スクーネルブリッキ
同上  イセバーク同上
一ドルフェイン
同上  同  同 
  但 同             アアエムデケープ
同上
一エグモント
同上   同  同
  但 同             エフテフェリーテン
同上
一ハンカ 
同上    同  同
  但 同        ハガッベッキファンデルズース
同上
一パンタ 同上    同  同
  但 同            ペハスー同上
一アムホン
同上    同  同
  但 同            エムカサール
同上
一サハルア
同上    同  同
  但 同            アホウトルス
同上
一パタング
同上    同  同
  但 同            ハアメイエル
同上
一ベイラデス
同上   同  同
  但アドフィスバルク
同上  エルニコリヲン同上
一アルガー
同上    同  同
  但スクーネル
同上      イファンマウリッキ同上
一カメレオン
同上    同 同
  但 同           エユフシーテンビュルグ
同上
一アリバー
同上     同 第二等ロイテナントテルゼイ官名
  但 同           ハアモツドルマン同上
一テイパナス
同上   同 第一等 同
  但 同           セエフューケンベーキ
同上
一バターフィア
同上  同   同
  但 同           イイファンデルモーレン同上
一テルイイ
同上     同 第二等 同
  但十四番カンニールボート
同上 アエルハルム同上
この地域(東インド及び中国近海)に展開する
オランダ海軍は左の通り
一ホフリユリューサントウィレス島の内より申越候にハ嘉永三年
 戌三月十一日ヘンレイケねーラント号船主ケレルキ北緯
 四十五度統計百五十五度の所にて十三人乗日本船見請
 候、右船者江戸よりキュイ
何方の事を指候哉不分明諸有之候
 向け出船いたし候処、吹流され六十六日之間帆柱并梶
 とも風波にて吹取られ、洋中ニ漂ひ四十日以来水涸ニ
 相成、雨水を水代りにいたし、勿論給食等いたし候儀
 無之候
一右船主ケレルキは日本船乗組の者共を己が船に乗せ、
 右之内船頭外ニ弐人者自分の船でホノルルに送り、外
 弐人者ハルリンゴと申船に移し、又六人はペテロウオラ
 ウスキー
地名に連行、ロシヤ領内に相渡置候、
 又二人はニムロットと申船を以て、旅客の取扱にて
 ホノリユリュー
地名に着いたし候
   〔日本船救助の事)
ハワイ諸島のホノルルよりの情報によれば、嘉永
3年3月11日ヘンレイケネーラント号のケレルキ
船長は北緯45度東経155度の地点で、13人乗り
の日本船を発見した。 此船は江戸より紀伊に
向ったが吹き流され、66日間漂流し帆柱も楫も
失った。 漂流40日以来水もなく雨水で凌ぎ食物
もなかった。
ケレルキ船長はこの日本船乗組員を自分の船に
乗せ、其内船頭外2名は自分の船でホノルルに
送り、外2名はハルリンゴという船に移し、又6人は
ペトロハウロフスク〔カムチャッカ半島の町)に
連れて行き、そこで引き渡す。 又2人はニムロット
という船で旅客扱いでホノルルに到着した。


1.ペテロハウロフスク (カムチャッキー)
2.サンドウィス島 ハワイ
3.この漂流民は紀州天寿丸の13人でで7人は
嘉永5年7月にロシア船で下田に帰国、残り5人
は中国交易船で長崎に帰国、1名はカムチャッカ
で死亡。 (安政雑記)
一クワンタシー唐国郡の名に於てハ騒動相起り居候
一オップルコミサーリス
官名シンチューシ人名右取鎮めの
 為其場所へ越候道中にて死去いたし候
一右跡職にリシングキリーン
人名相成申候
一同人頻に相慎め候ため出精ハいたし候得共其功無之、
 ケイズルレイキコミサーリス
官名は甚奇怪ニ存申候
一一揆共広東街市より六十里程近く参り、広東の勢を
 数度追放致し候
一先頃の風説にてハ此騒動未だ相止不申候
一此騒動と一時ニ昨年の末盗賊一万人ハイナン島
 に集り申候
一此賊共を追討のため出勢いたし候へ共、其儀?相成候、
 乍併其内少はコレラ
疾病の名にて死亡致し候
(中国の事、 太平天国の乱勃発)
広西省で騒動が置き、欽差大臣のシンチューシ
が鎮定に赴いたが途中で死去した。 後任を拝命
したリシングキリーンは鎮定に努力したが、全く
治まらず、北京政府は奇異に感じている。
暴動は広東市街に60里程に迫り、広東の官軍を
追払った。
最新の情報でも暴動は未だに収まっていない

この暴動と同じ頃、昨年末には盗賊一万人が
海南島に集った。 
此賊を追討するため官軍が出動したが全く効果
がない。 併し其内多少はコレラで死亡した。
一外国人のため広東の港を開き候儀、いまだ出来不申候、
 右者去年別段風説に書載有之候、エゲレス国の執政并
 ホンコン島の奉行ボンハム
人名の存立候事も右同様に有之
 候噂ニ候
一スターツミニストル
官名ケイイング人名并エールステンカビ
 ねッツミニストル
官名ミューカングシアー人名の不幸にハ
 如此手段不整前衰も相見へ申候
一同人抔の廉直なる取計を諸人殊の外頼といたし居候
一ミューカングシアー
人名ハ国帝に対して姦計を企候儀
 露顕いたし候
一此已前三ケの支配取扱中ニ勤功有之候事に免し、唯今
 官位を取放し、其国に仕候儀不信なりとの始末と相成申候
一ケイイング
人名儀も已前ケイズルレイキコミサーリス官名相勤
 申候節、取扱候事の内六ケ敷箇条等有之、右ニ付唐国掟
 にて手軽く戒られ申候
一同人儀席五等を引下けられ六コシーケー
会館の名の一ヶ所
 エイねンワイロング
地名にアンステントセキレターリス官名
 相勤罷在候

一スウェーデン国の使者テテユシャンキュタイストと申者
 非道に殺され申候
一其地在住のエゲレス国コンシュル
官名シナライルと申者
 執成にて右殺害人罪するに不及様相成申候
一唐国摂政殺害いたし候者共之内五人召捕、直様死罪に
 行ひ、右に携り候者共の住家を焼払申候
一近頃の噂にてハ右一条ニ付廿八人死罪に行ハれ候由
 に有之候
  〔中国の事ー広東開港遅延と政治家失脚)
条約で定めた広東開港は未だに出来ていない事
昨年の別段風説にも書いた。 英国の執政及び
ホンコン総督のボンハムも此事を危惧している

国務大臣のケイイング(耆英)や軍機大臣の
ムチャンア(穆彰阿)の不幸は、この様に準備
が整わない前に衰えが見えている事である。 
同人達の善処を皆が期待している。

ムチャンアは清国帝に対して姦計を進言した
事が明らかとなったが、是迄の功績に免じて
唯官位を取上げ、国政からはずされた。

ケイイングも以前欽差大臣を勤めたが、処理に
問題ありとの事で国法に触れたと処罰された
同人は席5等を下げられ、地方官となった。

スエーデンの使者が殺されたが、其地の英国
領事の執成しで、殺害者は罪を逃れた。

清朝の摂政を殺害したもののうち5人が逮捕され
直ちに死刑となり、家は焼払われた
最新の情報では此件で28人が死刑になったと
聞く



8年前のアヘン戦争で軍機処大臣のムチャンア
は強硬派の林則徐を罷免し、イギリスと安易に
講和し、ケイイングは南京条約を結んだ事で
新帝(咸豊帝在位1851-1861)より国を誤らせた
と責められた。
ムチャンア:Mujangga 穆彰阿 満州族清朝官僚
一去年五月頃ポルトガル国の奉行ベトロー・アレキサンデイ
 ワイダキユンハー
人名マカオ地名テイモル同上并ソーロル
 
同上鎮めの為マカヲに到着いたし候
一右奉行直様土地の政事をセナート
官名より引請候処、
 間もなくコレラ
疾病の名を煩ひ、去年五月廿七日死凶
 いたし候
一殺害いたし候一条ニ付、唐国国政家との駈引嘉永二
 酉年の奉行ヨアマリヤートロリユラードアラル
人名の取扱に
 有之候処、右奉行に交代の者病死いたし候付、跡役
 センノルフランねイススコーアントニオコンラルルス
 フルトサー
人名到着まで其侭に相成候
一右跡役者先頃陸地にて唐国ホンコン島に着し、其地に
 フレガット船ドンヨオス
船号に乗マカオに赴き候
一噂ニハ唐国政家との争論穏ニ不相成由有之候
  (中国の事ーマカオ)
昨年5月頃ポルトガルの総督ベトロー・アレキ
サンディは、マカオ、ティモール、及びソーロルの
鎮定の為マカオに到着した。
総督は直ちに領地の政治を統治機関より引
受けたが、 コレラのため昨年5月27日死去した。

嘉永2年に起きたマカオ総督フェレイアドアマラル
暗殺の件に付き、清国政府と交渉中の処であるが
交代の総督が前条の様に病死したので、後継の
総督フルトサー到着まで凍結となった。

この後継総督はホンコンに到着し、そこから
フリゲート艦ドンヨオス号でマカオに向う。
噂では清国政府との交渉は穏やかでは済まない
だろうとの事

ポルトガルはマカオを借用していたが1849年に
独立させ、清国官憲を追い出した。 その時
総督アマアラルが中国人により暗殺された。
総督: Ferreia do Amaral
一シルヤーメスブローケ人名暹羅国を訪ひ候、右者
 エゲレス国政家の意に依て暹羅国と通商の約を結び候
 ためニ有之候得共、其儀相整不申候
一アメリカ州使節ハーレステイール
人名も右同様の所存
 にて暹羅国に到候得共、事不通引取申候
一右バーレスティール
人名者当時オーストルセアルシップル
 島に赴き候、是も同様北アメリカ合衆国政家の意に依て
 通商の望ミ有之候
一右合衆国の司死去ニ付ハーレステイール
人名其取扱
 を暫く延し候

一ヒルマンセレイキ地名の都府バゴトン厳敷火災にて
 全く焼失いたし候、右損亡莫大に有之候
一右一条ハ全く等閑故の儀ニ有之候
     (タイ国の事)
ジェームス・ブルック卿がタイ国を訪れた。是は
英国政府の意向を受け、タイと通商条約を結び
たい為であるが不成功に終わった。

アメリカ合衆国使節のタウンゼント・ハリスも同様
の目的でタイに到着したが、未完成で引き取り、
現在はオーストルセアルシップル島の赴く。 是
も同様政府の意向で通商を結ぶ事である。
ところが合衆国大統領の死去により、ハリスは交渉
を暫く延期している。

ヒルマンセイキの都府で大火があったが、原因は
全くの不手際による。

1.Sir James Brook: 英国探検家、ブルネイ王国
 の属国サラワク国の国王を勤める。 
2.ハリスが最終的にタイー米国の通商条約を
 締結したのは1856年、即ち日本に赴任直前。
3.12代大統領テイラー1850年7月死去
一エゲレス国所領印度地都て静謐ニ有之候、尤プラ-ン
 ヤップ
地名は一端エゲレス国に背き候得共、エゲレス国
 軍勢の為にエゲレス国所領と相成候、且噂ニハ其地静謐
 之由ニ有之候
一エゲレス国所領東印度の軍司シルカルレスナピ―ル
人名
 其職を廃し、当年の始エゲレス国に罷帰候
一右跡職にシルウィルヤムマイナルドゴーメン
人名被任候
一セイロン島の奉行としてシルゲオルヘアンデルソン
人名
 其地に到着いたし候、同人は以前マウリチイユス島の
 奉行ニ有之候
一マウリテイユス島の住民シルゲオルゲアンデルソン
人名
 大ニ恭いたし、同人の別れを惜ミ候
一フランス国所領東印度奉行ラランデデカランス
人名跡職
 としてフィリレツベアスミルレベテイール
人名ポンテイ
 セレイ
地名に到着いたし候

一アフリカ州の南方ニ有之エゲレス所領の喜望峰に於て
 カワフル
居民の名一揆を起し候付、エゲレス国軍勢毎度
 追退け候得共、兎角に敵対候存意を生じ候、
 就てハ右カワフル
前に出つを全く取鎮候ためエゲレス国
 軍勢到着いたし候を相待居候
   (東インド領総督職人事異動)
英国領印度の各地は全て静謐である。 但し
パンジャブ地方は一端イギリスに背いたが、英軍
の侵攻により英国領となった。 噂ではここも今は
静謐の由。

英国領印度の軍司令官のナピール卿は退官し
イギリスに帰る。 後継としてゴム卿が任ぜられた

セイロン島総督としてジョージ・アンダーソン卿が
其地に着任した。 同総督の前職はモウリシャス
島の総督だった。 同島の住人に慕われており
総督が島を去るにあたり別れを惜しまれたと云う

フランスの東インド総督ランスの後継レベティール
がポンテイセレイに到着した

アフリカ南端の英国領喜望峰で原住民が反乱を
起し、英国軍は都度追い返していたが抵抗が
続いている。 随って完全鎮圧を行うために英国
よりの軍の到着を待っている。


Sir Charles James Napier 英国東インド軍司令官
Sir Willian Gomm 同上
Sir George Anderson  Mauritius 総督
一フランス国先王ローイスフェイリッペファンオレアンス
 去年七月十五日エケレス国中クラレモント
地名に於て
 死去いたし候
一嘉永元申年フランス国騒動の後、右先王并其一族
 クラレモント
前に出つに罷在候
一フランス国の司プリンス
官名ローデウェイキナポレオン
 
人名、右先王を敬し、パレイスフランス国都府并国中所々に
 於て弔の礼を取行ひ候、当時フランス国も先静謐に
 有之候、且国民所持の品物分配の事ニ付国中不持合
 ニ有之候得共、近々治り候様相成候、 国民多分ハ
 右配分の事を不信ニ思居申候
フランスの先王オルレアン家のルイ・フィルップは
昨年7月15日英国のクレアモントで死去した。
嘉永元年の騒動(1848年2月革命)の後、国王
一家は英国に移り英女王の庇護の下で
クレアモントに住んでいた。

フランスの大統領ルイ・ナポレオン公は上記先王
を偲びパリ及び国中所々で追悼の礼を行なった。
今フランスも静謐である。 国民財産の分配に
付いては実行されていないが、多分国民は此事
をこれ以上追求しない。


ルイ・ナポレオンはこの年の12月にナポレオン
三世として帝制を敷くが、この風説書の時点
1852年半ばでは第二共和制の大統領である
一当時エゲレス国都ニ而世界諸邦出産の諸物を見物
 いたし候為の場所を設け居候
一此場所ニ建有之候家ハ全く硝子并鉄拵にて、長サ
 千八百四十八フート
一フートは曲尺一尺弐分程 
 幅四百八フート、高サ六十六フート有之、其家の中央に
 高サ百八十フートのドワルスシキップ
船の一種を据へ、
 其ドワルスシキップは家の一方に九百四十八フート、
 又一方にハ九百フ―ト出張候
一床并貨物出し入れ用の道具ハ木拵に候へとも屋根并
 カレケイエン
店先の事をいふが未詳の乗木ハ弓形の鋳鉄
 にて其数二千二百四十四有之候
一硝子の総外面を算当いたし候得者九十万フート四角
 ニて、其重サ四百トン
一トンは千六百斤程有之候、樋の長サ
 はエゲレス三十四里
エゲレスの一里ハ八百三十間半程有之候
一家の総外面ハ凡十八アーレス
不詳有之候
一カレレイエン幅二十四フート、長サエゲレスの一里
 表入口幅七十二フート有之候
一此大仕懸の家内に世界国々の場所、逸々に設け有之、
 又其場所々々に国産の諸物を送り、諸人見物の為飾付
 有之候、且唐国商人両三輩右国々の産物を見分の為、
 且自国の産物を見せ物にいたし候為にエゲレス国ニ参り
 其船をも二三艘見せ物に致し候

一去年別段風説にて申上候通、エゲレス領印度并
 ビルシングハム
地名の商人共よりエゲレス役所へ差出候
 書面之儀に付てハ、其後何たる儀も無之候
  (ロンドン博覧会の事)
今英国の首都で世界各地の産物を見物する
ための場所を建設中である。
この場所の建物は全て硝子と鉄で造られ、長さ
1848フィート(550m余)、幅480フィート(145m)
高さは66フィート(20m)である。 その建物の
中央の高さ180フィート〔54m)に船を据えている

床及び貨物搬出入の道具は木製であるが、屋根
及びひさしは弓形の鋳鉄でその数2244ある。

硝子の総面積を計算すると90万平方フィートで
其重さは400トンで、樋の長さは54キロメートル。

建物の総外面積は1800平方メートルアール

この大規模な建物内に世界各国の場所を夫々
設けて、其場所に国毎に産物を置き飾り付けが
ある。 中国の商人達は世界の産物を見る為と
自国の産物を展示するため為イギリスに来たが
その船も2-3艘展示している。

昨年別段風説で報告したが、英領印度及び
バーミンガムの商人達から英国政庁に差出た
書面については其後の情報はない


バーミンガム: Birmingham 当時ロンドンに次ぐ
 英国の工業都市

一ドイツ国に於てハ兎角不穏儀ニ候
一右ドイツ国の諸方を唯一手の支配に致し度趣ニ候得共
 難敷事ニ成行候
一此国の支配の事ハ不軽事にて度々騒動に可相成様
 有之候
一プロイス国とオーステンレイキ国と接戦の催し有之候
一両国とも次第に相募り一大事の場に相成、昨年之末
 両国互ニ大軍を発し接戦に及べき趣ニ候
一聊の事ハ有之候得共合戦と申儀ニハ無之、昨戌年十月
 廿六日に至、オーステンレイキ国とフロイス国和熟に
 相成申候、 右取計都合能相整候ハ全くドイツ国政令に
 依ての儀ニ有之候、ドイツ国の領地支配の事に付、
 デレスデン
地名に使者を遣し、オーステンレイキ国
 プロイス国の目代の者と相談為致候、依之ドイツ国領一段
 に相詰候様相談最中に有之候
一其模様ハいまだ相分不申候
一プロイス国の都府ベルレイン
地名に於て一箇の狂人
 有之、短筒を以て国王に打懸候処、唯腕に中り申候、
 依之国中諸方より上居いたし、国王の治命を杭し申候
一デねマルカ国とプロイス国との一件ハ平和に相成申候
一昨年別段風説に申上候通、右両国諸侯領の
 スレースウェイキ
国名オルステイン同上の儀ニ付、血戦
 相成申候、右争の儀ハデレステン
地名に於て和睦可致
 趣候
    (ドイツ及びオーストリアの事)
ドイツは兎角穏やかでない様子である。 これは
分立する諸国を一つに統合したい動きがあるが
中々意見が一致せず、騒動になりそうである。

プロシャとオーストリアの仲は険悪になり昨年末
には一触即発の状態であった。 しかし何とか
戦争は回避し、昨年10月26日にオートリアと
プロシャは和解した。 この和解はドイツ国内の
領土に関して、オーストリアとプロシャが代理人
をドレスデンに派遣して相談させた事による。 
これでドイツの領土を煮詰める相談をしているが
結果は未だ判らない。

プロシャの都ベルリンで一人の狂人がピストルを
国王に発した。 唯腕に中っただけであるが国中
より医者が集り国王の治療に当たった。

デンマークとプロシャの一件は平和になった
昨年の別段風説の通り、この両国は諸侯領の
シュレースヴィッヒ及びホルスタイン公国を巡り
戦争となったが、ドレスデンで和睦する方向で
ある
一サルテイニー地名とオーステンレイキ国との戦争、嘉永二
 酉年正月十四日和談の後ハ弥穏相成申候
一右ニ付オーステンレイキ国の権勢イタリア国の北方に
 於ても不相衰、前ニ復し申候
一サルティニー
地名とローマ国のパウス官名との取合有之
 候処、今に相治り不申候
一トスカーね
地名のヘルトプ官名一応居民に政令を下し候
 事有之候得共、昨戌年右政令を差止候
一イタリア国の居民打続キ騒動を発し候付、右へルトフ
官名
 
其地の政事を全く司り候様相成申候
       (イタリアの事)
サルディニアとオーストリアの戦争は1849年2月
6日講和の後は穏やかになった。 これで
オーストリアの権勢はイタリア北部でも衰えず
ロンバルディア、ベネト地方は元に戻った。

サルディニアとローマ法王との喧嘩が未だに
治まらない。

トスカーナの臨時政府首長は住民に政令を
出したが、これを昨年差し止めた


1848年のフランス二月革命の余波でオーストリア
の支配地域でも混乱した。
イタリア統一を目指すサルディニア王国は
オーストリアに支配するロンバルディア、ベネトを
併合しようと、オーストリアに宣戦布告したが此時
は敗れた。 
一去年別段風説に記載有之候エゲレス国とギリシャ国との
 引合穏ニ相成申候
一ロシヤ国帝国中東境に有之候カフカシース山の住民に
 対し軍を発し、所々を攻取所領に致し候、且噂ニハ、
 ロシア国帝右住民に政令を守らセ度所存に有之候由ニ候
一トルコ国シュルタン
官名の所領アジヤ洲大地の所々
 并其近隣の島に騒動起り候得共静り申候
一エゲイプテ国の噂ハオンドルコーニング
官名アッバスパカ
 人名
 自己の意を立、漸々トルコ国の権威を背候様相成候
一右アッバスバカー
人名数多の軍勢をフランス国の兵士ニ
 付ケ、欧羅巴の流儀を教へ申候
一右ニ付アッバスパカー
人名とシュルタン官名との不和相
 起申候
一右シュルタン
官名よりアッバスパカー人名に其軍勢を
 二万人を減し、海軍をトルコ国の為に備置候様命じ候処、
 アブハスパカー
人名返答にハ陸軍四万人、海軍一万五千
 人備置き、トルコ国より軍を発し候節、防禦の手当行届候
 様、国中兼て命令を下し置候との儀有之候
一右一条より急度争乱等起るへきとの由ニ有之候
一右国中騒動にて住民大ニ困窮いたし候
    (バルカン、エジプトの事)
昨年の別段風説に記載したイギリスとギリシャの
係争は穏やかになった

ロシアはカフカス(コーカサス)山の住民に対し
軍を投入し、所々占領した。 噂ではロシア帝は
これら住民にロシアの政令を守らせる事にある。

トルコのサルタン〔帝王)所領のアジア各地や
近隣の島々で騒動が起ったが沈静化した。

エジプトでは支配者であるアッバスパシャが
自己の方針を打ちたて、段々トルコの権威から
背いて行く。 彼は多数の軍勢をフランス軍に
付け、西洋流の軍隊の訓練している。

トルコ帝はアッバスパシャに軍を2万に減らし、
海軍をトルコの為に用意して置く様に命じたが
アッバスパシャの答えは陸軍4万、海軍1万5千を
準備して、トルコが攻撃した時に防禦できる様
にと国中に命令した。 
この事により必ず争乱が起るだろうと云われている
が、この騒動で住民は大いに困窮している
一カリフヲルニー地名の黄金を求め候ため、諸方住民数千
 人打続き其地に赴申候
一当時此地にハ追々諸方より人集り、人民夥敷相成、
 右諸方より来候者とも何方よりか渡世と相成候事を相
 求めず候てハ不相叶様相成候
一此節カリフォルニー
地名に於て広大の田畑を開き国民
 渡世不相叶者の弁用といたし候
一唐国帝臣下に禁制いたされ候ニはカリフォルニーに住居
 不相成事ニ候
一此已前の風説ニ者パナマ
地名の峡に轍路漕路を設け度
 所存之由候
一其以来北アメリカ合衆国とメキシコー地名と取極致し候
 ニハアトランフセ海と南太平海との通路便利の為
 テヒユアインバイ
パナマの名かの峡に轍路を設け候由に候、
 又右同様の趣にて合衆国とエゲレス国と判談いたし候
一右之序無住の土地へ人民植付候ヶ条も申極候
一此已前の風説ニハ北アメリカ人、日本通商の儀有之候
 処、 其後右の儀ニ付而ハ何たる沙汰も無之候
一北アメリカ合衆国のプレシデント合衆国の司タイロル
人名
 は死去いたし候、其跡職はフィセプレシデント
爵名
 メルラトセルモレ
人名に有之候
一右跡職の者ハ合衆国開祖ワスヒングトン
人名より
 第三十一世のプレシデント合衆国の司に有之候
一右ワスヒングトン
人名の像を国中の入用を以て建立有之候
    (アメリカ州の事)
カリフォルニアの金を採るために各地から数千の
人々が引き続き流入している。 この増加する
人々の生活を考えない訳には行かない。 
その為に広大な田畑を開拓して、住民が生活の糧
を得られるようにしている
清国皇帝は臣下がカリホルニアに移住する事を
禁止している。

以前の風説書に記載したパナマの地峡に鉄道を
敷設する件で、計画以来アメリカ合衆国とメキシコ
の間で協議している。 大西洋と太平洋の交通の
短縮の為パナマに鉄道を設ける事を合衆国と
イギリスとも相談している。 これにより無人の地に
殖民をする事も協議している

前にアメリカ合衆国は日本に通商を求める情報
があったが、其後この件は聞いていない

合衆国大統領のテイラーが死去し、後任大統領
にはミラード・フィルモアである。 この大統領は
初代ワシントンから数えて十三代目である。 この
ワシントンの像は国費で建立されている。


合衆国大統領
12代 Zachary Taylor 1849-1850
13代 Millard Fillmore 1850-1853 

右之通御座候
              かひたん
               ふれてれいき・こるねす・ろふせ
    亥七月
 右之通横文字書付を以申懸候付、和解差上申候已上
                        通詞連名

以上の通り
        商館長
     フレデリッキ コーネルス ローセ
嘉永四年七月〔1851年8月)
以上オランダ語書面による報告を和訳提出
               通詞連名

                          解説に戻る









ka07                                            解説に戻る
嘉永七寅年風説書     1854年          オランダ風説書集成下

一当年来朝之阿蘭陀船、六月朔日咬留吧出帆仕、 
 海上無別条今日御当地江着岸仕候、右壱艘之外
 類船 無御座候
一台湾辺におゐて唐船弐艘見掛申候、右は多分台湾
 江赴候義と推察仕候
一去年十月十五日御当地より帰帆仕候船、
日数三拾
 日経、海上無滞十一月十五日交留巴着船仕候
当年来日のオランダ船は6月1日バタビアを出帆し
洋上異常なく本日長崎へ到着した。 此一艘以外
に仲間船はない

台湾付近で中国船は2艘見かけたが、これは多分
台湾へ行くものと推察する。

昨年長崎より10月150日帰帆した船は日数18日を
経て、順調に11月15日バタビアに到着した。
一瓜哇中物静ニ御座候      
 右之外相替風説無御座候
ジャワ全体は静謐である
   以上の外特に情報はない

             カビタン
             とんくる・きゅるしゆす
  右之通、船頭并ヘトル阿蘭陀人申口カピタン
    承申上候に付、和解差上申候、以上
         寅七月五日   御立人
                      通詞中

                    〔大木昌左衛門)
          商館長
         ドンケル・クルチュス

  以上オランダ船長及び事務長より商館長が
  聞いて報告したので和解申上げる
      嘉永7年7月5日〔1848年7月29日)
                 通詞中

                     解説に戻る












ka07b                             解説に戻る              

            嘉永七年別段風説書 1854              嘉永雑記第2冊

    阿蘭国之事
一嘉永六年丑四月十二日和蘭国ノ公子
プリンスヘンテレツキ
 人名事
サクセニウエイマルエイセナダ地名の諸侯の女アマリヤ
 人名と婚姻相整候、右
プリンスヘンテレキハ当時の和蘭国王
 の弟ニ相当申候、猶又右女ノ父
サクセンウエイマルイセナグ
 
同上の諸侯ヘルハント人名事ハ惣督職高位ノ輩ニテ既ニ
 和蘭領印度軍将をも相勤候者ニ有之候
一和蘭国王の妹
サクセンウエイマイマルエイセナク同上の諸侯家
 嫁罷在候者当寅正月一女子を産申候
一昨年も申上候通、阿蘭陀一般静謐に有之、近隣之国ハ
 勿論、其他欧羅巴諸州ハ睦敷相交、貿易航海専ら盛に
 有之候、去丑年阿蘭陀国と北阿墨利加合衆国と貿易航海
 の固を結び申候
一海底と通しエレキテイリーセテレガラーフと申合図の趣向、
 阿蘭陀国とエケレス国と双方の弁利の義去年別段風説
 申上候、未当時ニテハ漸々成熟仕候、猶又カーブル網ト
 訳ス右仕掛ニ相用候物ノ義カ長サエケレス里数ニテ七十
 里有之、其弁利至極良善に有之候

一又々当年も暴風雨雷烈敷、其ため数多の船之破壊ニ
 及び、許多人命失亡仕候、右ニ付阿蘭陀所々誠ニ以難義
 仕候
一嘉永五年子五月二十五日コスターリーカ
地名の共和政治と
 和蘭国王と双方交易信儀航海約諾書面、両国双方の全権
 ワスシングーン
地名に於て取替し申ト
 

  オランダ本国の事
嘉永6年4月12日(1853年5月9日)オランダ国王
の弟、ヘンドリック公はザクセンワイマール公国
の諸侯の娘アマリアと結婚した。 アマリアの父
ベルンハントは総督職の地位にあり、オランダ
領東インド軍の司令官も勤めた者である

オランダ国王の妹でザクセンワイマールの諸侯
家に嫁いだ者今年女の子出産

昨年もオランダは静謐で近隣諸国や北
アメリカと貿易を行った

昨年の風説で述べた電信器に付き、オランダ
と英国の間が海底ケーブルで結ばれた。
距離は70里、280kmである。非常に便利な
ものである。(注1)

今年も暴風雨の為多くの船と人命が失われた

嘉永5年5月25日コスタリカ共和国との交易
航海協定がオランダと両国全権により
ワシントンで結ばれた

注1:
1.SachsenWieimarEisenach:北ドイツの国
2.嘉永7年正月米国ペリー二度目来日時、
 将軍への手土産として電信装置を献上
3.コスタリカ共和国: 中米、1838年に独立の
 共和国となる

      和蘭支配印度領の事
一去丑年和蘭領印度
フィーセ、プレシテント、ファーニ、テン、ラート
 
官名イフウ、ファンメス人名儀願に依て首尾能暇申渡
 有之候
一サクセン、ウイマルエイセナグ
地名の諸侯惣督官、印度
 軍勢の将たるヘルンハルト
人名願に因て首尾能暇を給ひ
 右跡惣督次官フフアリトルテステエエルス申付り候
 
一瓜哇及び其街外の諸領の気候当年ハ殊更不順に有之コレ
 ラ
疾病ノ名及び麻疹??腹痛等専ら流行、殊更モリユック島
 辺ハ右ハ大害に罹り候者多く今に此煩不免候
 
一和蘭領印度海の軍勢此節又々海賊征伐の為出張致し、幸
 にして頗る其賊長の族及び許多の賊手に入申候、終にハ
 其名だたる賊長及び手下の者ニ至る迄屈服随従致候
一瓜哇及び其街外の諸領夥敷地震有之候、然と雖去年の
 モリエック島に有之候程の義ニハ無之候
一当年交留巴にて人作精工の見せ物頗に繁昌致し、右の内
 には頗る適要の物も有之候、交留巴及ビ其他瓜哇諸方より
 数多の人群集致し候
一パレムバンク地名に於て亦々昨年の如く悪党共起り立ち、
 荷担の者有之其以穏ならず、依之態々軍勢を差向け其
 悪党の目論見空敷相成、終ニハ頗る其悪党屈服致し、所々
 随従之所多く相成申候、猶又其後許多悪党の要害、隠れ
 家破壊の末諸方其残党散乱致候


サンバス(ボルネオ内)に罷在候唐人共当年の始伏従不致候ニ
 付同所港を絶切食糧の通路を断ち伏従セシメンと要し候
 義ニ御座候
一当年若干の軍勢同所の方に発向致し候、然る所当五月
 七日使ニて参り候得バ、其唐領の都府モンタラトー地名に
 右軍勢到着致し候末、其所の者共忽ち直に憐憫の沙汰を
 乞、頗に歎願致し必伏従の旨も申立、終ニハ願意通、

 モンタラドー地名
を手ニ入れ候事相叶申候
一悪党一揆を起し候罪相糺、戦争失費の購を致さセ、且一揆
 の長たる者相渡候抔の義先専要と致し候事ニ候

  オランダ領東印度の事
オランダ領東印度(ジャワ地方)の評議会議長
職のファンメスが退職した。

ザクセンワイマール公国の諸侯総督で東インド
軍の司令官であるヘルンハルトは退任し、
後継はテスチェエルスが拝命した。


ジャワ地方に気候は今年は特に不順で
コレラ、湿疹、腹痛等の病気が流行しており、
罹病から快復しない者が多い

オランダ東印度の軍隊は又海賊退治の為
出動し、多くの海賊の頭及び其配下を従属
させる事に成功した

ジャワ地方に地震があったが、去年のもの
程激しくは無かった。

今年ジャカルタで精密な人体模型の見世物
が人気で、ジャカルタ及びジャワ各地からの
見物人が多い

スマトラのパレンバンで昨年同様反乱の計画
があったが、軍隊を出動させ関係者を粉砕
した

ボルネオの中国人が服従しないので、湊
を封鎖して食料と絶ち、さらに若干の軍隊を
送り攻めた結果、降伏したので都府を占領
し、戦費賠償及び責任者の引渡しを要求した

注: 
1.オランダ領東印度とは現代のインドネシア
 で現ジャカルタを当時バタビアと云い総督が
 駐在した。 日本との貿易船はバタビアと
 長崎を往復し、航海に2週間程要した。
2.SachsenーWeimar-Eisenach : 北
 ドイツ地方の公国
  エケレス支配印度領
     シンガポールの事
一当年四月上旬シンガポールに於て唐人一揆相起り申候、
 初発フィ
ウーフィーウー、マカオ、ヘイラン何れも地名等の唐人
 所持の品物を
ホキーン(福建)の者奪取候ニ付、唐人数人
 ホキーンに押寄、家屋店其外狼藉乱妨ニ及び 申候、
 又
フィウーフィウー(囲々)地名の唐人共許多家を焼亡致させ
 フィウーフィウー
村全く相潰され申候
一同月十一日若干の死亡有之即下条の通ニ御座候
      死亡四百八拾五人 焼亡家数弐百八拾軒
      手負弐百廿三人  暴発之植付場百六十ヶ所
      生捕五百十弐人  狼藉ニ及ばれ候店五十三ヶ所
一其後の風説にてはシンガポール
地名中諸事穏ニ御座候、
 併再度変を可生哉も相恐居申候
一右騒動の基はホキーン
地名の者と唐人との所為ニ御座候
      
 
     ヒルマーの事      
一ヒルマー(緬満)地名に於て嘉永五年十二月上旬エケレス
 政府と久敷戦争有之候、未同所大飢饉有之死亡夥敷事ニ
 御座候、
 其後の風聞ハヘウカーレン
地名より夥敷米を差送り候ニ付
 右食物の難渋相凌申候
一爰に許多盗賊共取捕申候、同人共の趣意ハ土地を乱妨し
 土人を煩しむる事ニ御座候、其後盗賊をも捕尽候様ニ諸手
 当ニ相成申候

      アウスタラリーの事   
一アウスタラリー地名に於て黄金の出産弥増に御座候、同所
 より欧羅巴の諸国へ黄金運送仕候此地に来り居住のもの
 年々相増申候、右様富福を欲候者共同所ニ於て食物の
 高価に殊更困窮仕候
一メルホウルね地名に又大造の黄金山を見出し申候

 
       喜望峰の事
一喜望峰の風聞一般ニ宜御座候、同所
タラウスファール地名
 領の外、都而打続平和ニ御座候、尤百姓共北方并北東
 の者共は今ニ戦争仕候事ニ御座候、且又ホツテントツト
 地名の山賊共強盗或ハ人を殺候ニ付、諸方安堵無之候、
 其後の風聞にファール河を相隔掛離居候和蘭の百姓
 合衆の政事相定申候、諸人所願の政治先項相定候處、
 土民大ニ和睦仕候、別而カープ地名の市中并西方の地に
 於ては弥和熟仕候
一其後の風聞には同所交易次第ニ繁昌仕、又相続、諸方
 共ニ弥平和ニ相成申候
一近頃彼地でも黄金見出申候


   英国領各地の事
 
シンガポールの事
シンガポールで在住中国人の暴動が起きた
初めは中国人財産が奪われたので、中国人
が仕返しを行った
是による被害は
 死者485人  家屋炎上280軒
 負傷223人  暴動箇所160ヶ所
 逮捕512人  店舗破壊53ヶ所
その後の風説では暴動は収束したが再発の
恐れもある。
この暴動はホキーンの者と中国人が起した
ものである


  ビルマの事(ミャンマー)
ビルマでは二年前、英国と戦争の後、飢饉の
の為多数死亡したが、その後の情報では
ベンガルより大量の米を送り、凌いでいる由。
又多くの盗賊を捕らえた、彼等の目的は現地
人を苦しめる事である。 其後盗賊も捕らえ
尽す様な手立てを立てている

  オーストラリアの事
オーストラリアでは大量の金が出産した。
ヨーロッパ各地から金を運ぶ為に此地に来て
居住するものが年々増加している。 一攫千金
を狙って移住したが食料の値上がりで苦労
している。
メルボルン近郊で大量の金鉱が発見された

  喜望峰の事(南ア、ケープタウン)
喜望峰の街の様子は全般的に良く、平和が
続いている。 しかし周辺の農民達は未だ治ま
ってはいない。 又一部地方で山賊や強盗が
あり、必ずしも安心できない。
しかし最近の情報では農民達を集合し、取決め
を行ったので政情が安定してきた。 特に
ケープの街やその西方では平和が熟してきた
更にその後の情報では同所の交易は益々盛ん
となり、最近では金鉱も発見された


1.1851年(嘉永四年)シドニー近郊260kの
 ルイス・ポンズ・クリークで金鉱が発見され
 ゴールドラッシュとなったが、その後メルボルン
 近辺でも発見された
     唐国之事              
一唐国の一件弥甚く相成、南京及び
センキャン(鎮江)等は
 既に一揆方ニ手ニ入申候、南京又候破壊ニ逢申候、厦門
 ハ三千人の一揆方の者より既に取 られ申候、昨丑年六月
 頃唐国帝の船勢と一揆方と甚敷合戦有之、此時一揆方ハ
 散々に敗北に及び申候
 右様の事ニ及候程なれ共、其都府唐国帝の方に戻し候迄
 ニハ至り兼候
カハンチンク(関中)地名都て静謐に有之候、一揆の人数ハ
 六万より八万人程に及候、広東住居唐人共之内ニハ兎角
 不安気の趣にて、商売向抔ハ都而相止、唯盛なるハ海賊
 増長するのみにて、数多の唐船破壊セしめ許多の海賊
 捕ハれ候事ニ候
一一揆徒党ハ漸々
ホーナン(河南)地名のナンヨン南陽府及び
 
ケイシュホの諸府を既に手に入れ申候

一追板のエケレス評判記の説に随ヘバ、当時迄の唐国帝
 親族ニ至迄位を離れ候の説ハ先ヅ実説の様ニ有之候、
 北京ハ一揆徒党より囲軍せられ候、扨上海ニも一揆有之、
 既ニ運上会所抔ハ一揆の者共より打潰され候程の義に
 有之候
一近来唐国説に厦門の地ハ国帝方にて則一揆の者七千人
 打取られ、亦間ニハ其一揆の内伏従致し候者ハ国帝方に
 付候趣ニ候
一広東を南京の土地マカオ島黄金を見出し候、右ニ付甚
 繁昌の事ニ候、既に其金は甚純粋にしてハクワン山といふ
 山ある、
ヤンピンヒン地名に在り、亦キンカイセウイといふ
 山手の流川ニ在りと申事ニ候

一唐人抔の内には印度之西方或ハカリホルニヤの北、或ハ
 アウスタラリー或ハ東印度の地に向出奔の者多く益増長
 ニ及び候、将亦婦女の類唐国を離れ外国ニ参り候者頗に
 多く有之候
 世上流布のモンテエールといへるフランス書記の説ニては
 嘉永五子年唐国と魯西阿との両国、陸地商店を開き候道
 魯西亜政府趣意通相遂候哉之様に有之候
一香港の新奉行ハ即商業取扱の司にしてヨンボウリング
 人名其職ニ任じ、スタライツテイメスといふ書記の説に随ヘ
 バ、中々頗る大任を請、既に全権を得て日本・遷羅・交址
 等ニ至り貿易結信の趣意を貫ンと欲する旨ニ候、猶又当時
 のエケレス書記の説にては右ヨンボウリンク人名義海陸の
 力を合せ、香港辺魯西亜国人の入込を拒防するの手当を
 なせし事と申候義ニ候
   
    中国の事            
中国では太平天国の乱が益々広がり、南京
及び錦江は反乱側に落ち、南京では破壊が
進み、厦門も3000人の反乱側に取られた
昨年6月頃清国軍と反乱側と衝突で反乱側は
散々敗北した。 しかし清国が掌握するには
至っていない。

関中は静謐である
反乱側の人数は6万から8万人程で、広東居住
の中国人達は不安にかられ商売は全て止めて
いる。 海賊が増えて多くの中国船が破壊され
たが、海賊も多数捕らえられた。

反乱は江南地方に及び南陽府及び徴州の各
都府を手に入れている。

最新のイギリス評判紀によれば、清国帝は親族
に至る迄、帝位を去る事は実説の様である
北京は既に反乱軍により包囲され、上海でも
税関事務所が反乱軍に破壊された由

最近清国の発表によれば、厦門は反乱側
7000人が打取られたが、反乱側は清国側
に帰依したという

広東省のマカオで金鉱が発見された由。 その
金は純粋でハクワンという山、キンカイセイウと
いう川にあるという

中国人の中では印度の西方、カリホルニア
の北部、オーストラリア、或は東印度各地に
家族共々出国する者が多い。 

香港の新総督はジョン・ボーリングが任ぜられ
非常に大きな権力を英国政府から与えられて
おり、既に全権を以て日本・タイ国・ベトナム等
と貿易協定を結ぼうとしている。 又英国筋に
よれば、総督は海陸の軍事力を使い香港
周辺にロシア勢力が及ぶのを防ぐ手立てを
しているという
       大ブリタニヤ及びイールランド国名の事
一昨丑年秋及び当春ニ掛ケ大ブリタニヤ及びイールランドの
 海渚暴風雨頻リニシテ許多船々破壊ニ及び候
一国を離れ家屋を移し候者益増出し就中アウスタラリー
 に行者多ク御座候
一デユブリン地名に於て昨丑年人作精工の見せ物有之候
一エケエス国女王とフランス国帝と相議してトルコ
国名の救
 の為魯西亜国に決戦の発意を述申候

 大英帝国及びアイルランドの事
昨年秋から今年春にかけ、英国及びアイル
ランド周辺は暴風雨に見舞われ、多くの船が
破損した。
国を離れオーストラリアに出国する者多い
ダブリンで人体精密見本の見世物があった
英国女王とフランス国帝は協議してトルコ
救援のためロシアと戦争する事発表する

注 
1.英ビクトリア女王及び仏ナポレオン三世
2.英仏両国のロシアへの宣戦布告は
1854年3月28日
      フランス国の事
一昨丑年フランス国帝を殺害せん迚一両度も打掛候事  
 有之候得共、幸にして其難を免れ候事ニ御座候
一都府パレイスに於て当年人作精工の見せ物大造ニ繁昌
 仕、其ため既に大家を取立申候
一魯西亜国と合戦の義ニ付ては漸々究意の事録誌可仕候

   フランス国の事
1853年ナポレオン三世の暗殺未遂事件が2度
あったが無事だった
パリで人体見本の見世物が人気を博し、その
為の展示館を造った
ロシアとの戦争については追々最新情報を
報告する


1.フランスはクリミア戦争にイギリスと共に今年
 〔1854年)参戦しロシアと戦う

      ポルトガル国の事
一昨丑年十月十五日ポルトガル国女王アンナマリヤグロリヤ
 
人名難産にて亡滅いたし候
   ポルトガル国の事
昨年十月十五日ポルトガル国女王は難産
の為死去
     イタリヤ国の事
バルマー地名の諸侯フェルデナンドカーレルデルテヨーセフマリ
 フィットリヤホルタサルファンホウルボン人名
素イスパニヤ国の公子
 ニ有之、此人当二月廿八日殺害に及ハれ、相応其起因を
 尋るに兎角不分免有之候

 
     
   イタリヤ国の事
バルマーの諸侯
フェルデナント・ホールボン
はスペインの公子だったが、今年2月暗殺され
その原因理由については不明
      ドイツ国のこと
一ドイツ国及び其他の欧羅巴の国より出国に及び作所に屋を
 致し候義、昨年当年に至ては弥増長致し候、ハムヒュルグ
 
地名のみにて昨年中出国の船百二十三艘、其旗印様ニ
 して人丁一万八千七百五十七人を乗せ出国ニ及候  
                      

   ドイツ国のこと
ドイツ国及びその他ヨーロッパ各国からの出国
が増加し、ハンブルグから昨年中に出国した船
は123艘、人員は18757人である
      ギリシヤ国の事
一トルコ領キリシヤ国に於てハ魯西亜国とトルコ国との合戦に
 因り候事哉、と相見へ其盛の一揆発起いたし、既にビンテユ
 ス山を越也候程の事ニ及び候由ニ候、キリシャ国惣督及び
 次官五百人の勢を引連、一揆の方に発向ニ及び候由ニ候
一コンスタンテノホル
地名にては都而の政道商業向キリシヤ国
 との間に当りて都而荒廃に及び候、トルコ奉行所より命令
 出、諸キリシヤ随従の者日数十五日の内トルコ国ヨリ出国に
 及び候旨に候、右同様の振合にエケイフテ
国名に在る
 キリシャ人も相成申候、此一揆益増長仕候得共、多分
 フランス国エケレス国の取扱ニて相治り可申哉ニ候
一当寅年正月十三日トルコ人モンテねケケーン
村名に攻掛候
 此村ハ即キリシヤ国名一揆の勢に依頼致し甚敷戦争の後
 右一揆方の助に依て、敵三百人を追討致候
一当時の説にては其一揆の勢益盛に及び既に許多の府邑
 を押領に及び其国民も亦却而其一揆方に荷担致し候、随
 て国王の軍勢も亦間々ハ是と打合し候事も有之由ニ候
一当時の風聞にてハギリシャ国惣督十九人其職を放たれ候
 趣ニ候、其末此者とも一揆方に付候由ニ候

一当寅二月十六日コルフユー
地名の風聞には一揆の動作
 エピリユス
地名に於て穏に鎮り候様相成申べく哉ニ候
一既に五十村はトルコ国に随属いたし候様子ニ候、此時は
 即チコルヒュー
地名水上にフランスの軍艦備罷在候
一テッサーリ
地名及びエピリユス同上の賊村邑百七十八ヶ所
 破滅せしめ候

     ギリシヤ国の事
トルコ領キリシヤではロシアとトルコの戦争に
よると思われるが、各地でギリシャ人の反乱が
勃発しヒンドス山を越える程になった。 
ギリシャ総督等は500人の軍勢を引きつれ反乱
鎮圧に向った

コンスタンチノープルではギリシャ国との商業
取引は全て停止し、トルコ総督の命令で
ギリシャに荷担するものは15日以内に出国
する事になった。 同様な事はエジプト国に
居住するギリシャ人にも及んだ。 トルコに対
するギリシャ義勇軍の反乱は更に激化すると
予想されるが、フランスとイギリスが介入して
治まるはずである。

今年正月トルコ人がモンテネケレイン村に
攻撃し仕掛けたが、此村はギリシャの反乱軍に
依頼、激戦の末敵のトルコ勢300人を追払った

現在の情報では反乱の勢いは益々盛んに
なり、既に幾つかの郡村を占拠し、国民もまた
反乱に荷担しており、ギリシャ国王軍も又時々
反乱側と打合せしている。 又風聞ではギリシャ
国総督19人を解雇したが、彼等も反乱側に
付いた由

今年2月16日情報では反乱は鎮まりつつあり
既に50村はトルコに所属した模様、この時
チコルヒューにフランス軍艦があり、テッサロ
ニキ及びエピリウスの賊村178ヶ所を破壊した


1. トルコに対しギリシャの義勇軍=反乱軍
 が後を絶たず、トルコを支援する立場の英仏
 が反乱軍の鎮圧に廻る。 
      魯西亜国トルコ国の事
一魯西亜国とトルコ国との一件に付てハ昨丑年別段風説
 で申上候以来、弥以事相募り申候、此合戦ニて許多流血
 に及候程の義ニ至り、人命数多相損申候
一昨丑年十月晦日トルコの船勢などハハシイペ
地名に在る
 魯西亜の海軍に因て風破壊せしめられ、アカルシグ
地名
 近辺ゼオルシー
地名にてトルコ勢魯西亜の為に散々に
 敗北に及び候
一アルトニットナ
地名及びエセターチー同上に於て流血に
 及ぶの合戦有之候
一エケレス国フランス国の両国トルコと相合し、魯西亜に敵対
 致す趣向ニ候、既にエケレス国フランス国の両国より夥敷軍
 勢備の為、トルコ国に船ニて差越、先過半ハ同所に最早到
 着の事と存られ候
 
一トルコに在るエケレスの軍勢にはカムフリツドゲ
地名の諸侯
 ロルトラタラン
人名を大将として一体の指揮有之候
一トルコに在るフランス軍勢には当時のフランス帝の甥
 に当り候公子ナポレオン
人名及びマールシカルク官名
 アルナウト
人名大将として一体の指揮有之候
一黒海にはエケレスの船勢アドミュール
官名テマレタス人名
 の指揮ニて備有之候
一フランス方にも亦アドミラール
官名ハメリン人名の指揮にて
 船二十六艘大砲千百廿門備有之候
一アトミラール
官名フリエアツト人名の一手も黒海にて船
 十艘大砲千六百廿門の備有之候


一エケレスフランスの両国政府より東海にも亦大造の船勢
 備を立有之候、既にエケレス方にては四十四五艘の船
 にて人丁二万弐千人乗、大砲ハ二千二百門指揮の大将ハ
 アドミラール官名カルレスナピール人名并
スコウトベイナクト官名
 コルリー人名
に有之候、フランス方船勢はアドミラール官名ベルセ
 ファルテスゼねス
人名の指揮にて船二十三艘、大砲千二百
 五十九門有之候
一魯西亜東海船勢即チリーニー船二十七艘、此内三艘程ハ
 毎艘三段備の物ニ有之并フレカット船十八艘、コルベット船
 ブリック船にて十五艘加之、許多の蒸気船備有之候、黒海
 に有之魯西亜船勢ハリーニー船十八艘内三艘程ハ三段
 備の物ニ有之候、将亦フレガット船十二艘、コルベット船
 十艘并許多の蒸気船相備罷在候、蒸気船及び大砲打
 小舟の類、此両国海に有之、魯西亜手の者、魯西亜の
 記説にてハ四五百艘も有之趣ニ候、右船勢の長たるもの
 ハ公子メンシコフ
人名及びコンスタンテイ地名の大王即チ
 惣大将に有之候
 其以下のアドミラール職は
ファンコルサコル人名及びファンシ
 リコルト
同上に有之候

一此度の合戦ニ付てハ行末、幸不孝の程も、いまだ計難
 く其際限も聊以来ニ見へず、唯患ふる所ハ商業貿易
 の道に差障り、欧羅巴の州々と交るにも是必関係
 致し候事ニ候
一当時のエケレス書記にて魯西亜及びトルコの政府
 よりの致し方等の儀、分明に相成候、将又エケイプテ国よ
 リも亦救いの勢七千五百人トルコに差出申候
  ロシアとトルコ(オスマン)の事
ロシア国とトルコ国との件は昨年の別段風説
報告後も愈々戦争は激しくなり、多くの人命
が失われた(クリミア戦争)

昨年十月トルコ艦隊がシノップで突然ロシア
黒海艦隊に襲われ壊滅した

英仏の両国はトルコ救援の為ロシアと戦う為
大量の軍隊をトルコに送る。 大半は既に
到着と思われる

トルコに派遣したイギリス軍はロードラグラン、
フランス軍は現皇帝の甥のナポレオン公及び
アルナウト元帥を大将として指揮させる。 

黒海ではイギリス艦隊をテマレタス提督に、
フランスもハメリン提督の指揮で艦船26艘、
大砲1,120門備える
フリエアット提督の艦隊も黒海に艦船10艘
大砲1,620門備える

英仏両国政府からバルト海にも大艦隊を備え
イギリスは44-45艘、人員22,000人乗り、大砲
2,200門、カルレスナピール提督及びコルリー
提督、 フランスからはゼネス提督の下に艦船
23艘、大砲1,259門備える。

ロシアバルト海艦隊は戦列艦27艘、内3艘は
大砲三段備え、フリゲート艦18艘、コルベット
及びブリック艦15艘加え多くの蒸気船がある。
黒海のロシア艦隊は戦列艦18艘内3艘は三段
構、フリゲート艦12艘、コルベット間10艘で多
くの蒸気船を備える。 蒸気船及び小型砲艦
はバルト海、黒海合せロシア側の記述
によれば400-500艘という。 これらの海軍の
総指揮は公子メンシコフ即ちコンスタンティの
大王である。 その下の提督はコルサコル
及びシリコルトである

此度の戦争の見通しは今の処分からず、どこ
迄続くかも全く見えない。 只困るのは通商
貿易に支障が出て、ヨーロッパ各国との関係
が必ずある。

現在のイギリスの記事によればロシア、トルコ
両政府の様子が明らかになり、又エジプトから
も7500人の義勇軍をトルコに提供した。〔注)



1.エジプトの宗主国はオスマントルコ帝国
2.ワラキア、現在のルーマニアの一部で
 ロシア及びオスマン双方が影響力を持つ
3.東海 バルト海の事
4. クリミア戦争 ロシア帝国とオスマン帝国
 のバルカン諸国をめぐる争いから、英仏が
 オスマン(トルコ)支援に廻り1854年3月ー
 1856年3月迄大戦争となる。 オーストリア
 及びプロイセンの仲介でパリ条約により終結
一ワルラセイエ地名にハ魯西亜勢相集り、トルコより責来るを
 頻りに相待罷在候

一アラファツト
地名に於てトルコ人魯西亜人に対し名誉
 の勝利を得候説有之候
一公子パスケニス
人名魯西亜軍勢の指揮致し、トルコ軍勢
 の指揮アウーメルバカー
人名の計ニ有之候
一当三月上旬魯西亜人四五万の勢を引連れ、ドナウ川を
 渡りトルコに対し勝利を得し事有之候
一当寅三月十三日ティリーステ
地名より合図仕掛の
 趣向にて承知致すにはエケレス国フランス国オー
 テンレーキ国プロイス国抔より頻りに魯西亜とトル
 コとの合戦を相鎮めんと専ら心を尽候由ニ候

一エケレス国備の縦横自在進退の船、魯西亜船に毎度
 責掛ケ既に三日の内に魯西亜船十四艘召捕申候
一広大繁花の魯西亜商邑オデスサ
地名黒海の辺ニ
 有之、此所フランス国エケレス国の船勢のため当寅
 三月二十五日ボムベン砲を以て皆無焼打に逢申候
一シリステイリヤ
地名に於て魯西亜より取られ焼打に逢ひ
 カラファウトに於て魯西亜人再びトルコより相捕られ候、
 ドブリユツサ
地名に罷在候魯西亜軍の内に
 赤痢の病にて数多難苦致し候者有之候
一毎度ドナウ川ニ罷在候軍勢の方及びシルカルト
国名
 は魯西亜に対し一揆を起し、亜細亜海より魯西亜人を
 追出候程の事に及び候由、エケレス国の説有之候
       
   (クリミア戦争ードナウ戦線)
ワラキアにはロシア軍が集結しトルコの攻撃を
待ち構えている。

カラファットにてトルコがロシアに勝利したと
いう情報がある

公子パスケニスがロシア軍を指揮しトルコ軍の
指揮はオマール・パシャである

今年三月上旬ロシアは4万ー5万の規模で
ドナウ河を渡り、トルコに勝利したと云う

今年三月、情報によれば英仏、オーストリア、
プロイセン国等がロシアとトルコの戦争を鎮める
努力をしていると聞く

イギリスの蒸気船がロシア船を攻撃し、三日間
でロシア船14艘拿捕したという

黒海に面する大商業都市であるオデッサは
今年三月英仏の艦隊の為に爆裂弾で焼き
払われた

システリアはロシア人に取られ焼討ちに逢い
カラファットではロシアが再びがトルコに捕られ
ドブリユッサではロシア軍に赤痢が流行し多数
が苦しむ

英国の新聞によればドナウ河に展開する軍隊
及びシリカルト人がロシアに対し反乱を起し、
アジアの海からロシア人を追い出す程である
     スウエーデン国ノールウェーケン国の事 
一此両国ハ一致の国にて東国に事ありても是に関係有之
 事無御座候
一右様の訳ニハ候得共自然事ある時の用意に此両国拒防
 の為船勢の備有之候

 スウエーデン、ノルウェー国の事 
此の両国は東方の国ロシア、オスマン等に事
が有っても関係しない立場であるが、緊急に
備え敵の襲来を防ぐ為に艦隊は持っている
       亜墨利加州
       ペーリユー地名の事
一フランス国書記の説にてハペーリユー地名の奉行所にて
 至極心配有て外国より引移来る所の数多の人民に其土地
 に居住の趣向整候様の世話専ら有之候
 此趣意ハペーリユー領に有之アマソーねン川より水を灌候
 豊饒の土地を空敷不差置様のために有之候
一右等の事の為此共和政治の司より既に夫が為の人数を
 可定申候
一ねウヨルク
地名ハ外国より引移来る者、其人丁三十三万
 四千八百七十人有之候
一亜墨利加にて新工夫の植字判発明いたし、紙も広き侭にて
 円器の趣向にて和蘭一瞬の内に三万枚の紙に判行をなし、
 直に裁切折目を付候趣に候
 

 
     メキシコーの事
一メキシコーに於て合衆国ヨリ同所に居合候者明境之義を
 取極申候、右取極の内究而印度人のためメキシコ領境
 守衛の儀并ミスシブピー河より太平海江の通路を可得儀
 もヶ条相立て有之義ニ御座候
一右取極の節合衆国にて相納若干の銀高有之候処
 右代りに両国久敷争論のメシルラダルと申地を相渡申候
一メキシコー
地名と合衆国との境の儀右之通規定相立両国
 の争論全く治り申候


 
    エクアドル地名の事
一エクアドル地名の地ハアマゾーねン河の枝流有之、右所領
 を跨り候流れ候ニ付諸国より渡来自由を得申候
一ねウヨルク地名のハルタンと申人即益の事義発明仕候、右
 は黄金洗候ため殊之外大造の道具に御座候
一右道具ハ黄金洗のため是迄相用候諸般の道具ニ最勝申候


      カリフォルニー地名の事
一カリフォルニー黄金掘の儀常に出精仕、富福を顕し候、諸人
 彼地に至り居住仕候者多く御座候、誠に黄金の運送夥敷事
 ニ御座候
一カリフォルニーの都府サンフランシスコー数多の住人、黄金
 見出し候以来、格別に相増申候、既に弘化二巳年住人の数
 僅二百五拾人有之、嘉永六丑年ニ至り三万人程に及び申候
一初て黄金見出し候節ハサンフランシスコ地名に於て黄金の
 代料二ヶ月の間に凡二十五万ドルラルズ銭名を得申候
 当時ハ月に五十万ドルラルズ銭名程に及び、殊に繁昌の
 儀ニ御座候


     テキサス地名の事
一テキサスに於ても黄金多分に見出し申候
一諸般の蒸気具用の水の代りに空気相用候儀エリ―リン
 人名発明仕候趣、去年申上候処其後右ニ付一向承候儀
 無御座候
 アメリカ州(南北)の事
   
ペルーの事
フランスの記事によればペルーの行政府は
外国からの移住者が土地に定着出来る様に
気を配っている。 それはペルー領に
アマゾン河の水を灌ぎ、豊饒の土地を駄目に
しないようにしている
此のために共和国の指導者は既に人員
を確保している。

ニューヨークでは外国から移住する者
334,878人と言う

アメリカで新方式の活版印刷を発明し、紙も
広い侭で円器により一時間に30,000頁を
印刷し、裁断して折目を付ける〔輪転機か)

    メキシコの事
メキシコと合衆国は国境の取り決めを行い
国境警備とミシシッピー河から太平洋迄の
通路を確保する事である。
この協議のために合衆国では銀で土地を購入
し、両国の間で論争の原因となっていた
メシルラダルをメキシコに渡した。
以後協定により、両国の国境に関する争論は
治まった〔注1)

   エクアドルの事
エクアドルはアマゾン河の支流にあるので
此地は諸国より渡来が自由である

ニューヨークのハルタンと云う人が金抽出の
新しい道具を発明した。 これは非常に高性能
で従来の物に比べて勝れている

   カリフォルニアの事
カリフォルニアでは金を掘出せば豊かに
なるので多くの人が移住して、金の産出は
大量であるいる

カリフォルニアの都府であるサンフランシスコ
の人口は金発見以来大きく増加している
弘化2年〔1845)には住民250人だったが嘉永6
(1853)には3万人程になったという

初めて金を発見した時はサンフランシスコでは
金の産出は2ヶ月に25万ドルだったが、現在は
月50万ドルとなり繁昌している。

    テキサスの事
テキサスでも金が発見された由

蒸気機関で水の代わりに空気を利用する事
をエリーンという人が発明した事を昨年報告
したが、其後一向この話を聞かない


1.米墨戦争〔1846-1848)の終戦講和時の
 グアダルーぺ・イダルゴ条約によりアメリカは
 カリホルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ等を
 メキシコより1500万ドルで割譲を受けた。
 更に1853年カズデン条約により、アリゾナ
 南部とニューメキシコを1000万ドルでアメリカ
 はメキシコから購入している。 この目的は
 大陸横断鉄道の為という

     海軍の事
 近頃承り候には欧羅巴の海軍、唐海并ニ東印度海に罷越
 居候、船々左の通御座候
     エゲレス国より
一ヒッテルン号  ブリック船 大砲十二門 船将
フカンシハルト
一コミコス号     リーニー船 同     同
フェルユウエス
一エンコウヒトル号  船   同十四門  同
オアルウグハン
一ケレシアウ号    船     同十二門  同ケアネ
一ヘルキコレス号  病人養生船      
一ミニテン号     船             同エルリス
一スライクス号   蒸気船    同六門   同
ウラールコムベ
一ウインセストル号  船  同五十門 同
 イエフベツインウリグト
     
     海軍の事
中国近辺及び東インドに展開する海軍の艦船
イギリス
Bittern  ブリック 大砲12門 Edward Vansittalt
Comus スループ   18門  William Fellowes
Encounter 蒸気スクリウ 14門 Dog O'Callaghar
Grecian   ブリック   12門 George Keane
ヘルキコレス    
Minden    病院船      Henry Elliot
Styx   蒸気船外輪  6門  Woollcombe
Winchester 戦列艦   52門 Granville Loch

     フランスより
一コルベット    蒸気船    同六門 同ベアツトイル
一コンスタンネソナ号フレガット船     同
エッテモウタラフィル
     
    
 ポルトガルより
一トンヨアオ号            同廿二門  同ロヘス

     和蘭より罷越居候船左の通ニ御座候
一フレガット船 プリンスフレデリック号  同
アセフラームホウクス
一同                       同セテスターテス
一コルベット船 ファニスペイキ号     同ペサウファケ
一同      ホルカス号          同アヘコルコット
一同      シユコタラ号         同ハウイフプ
一同      ネハレイシア号        同イデバーン
一ブリック船  デハーイ号          同デコへカルト
一アトフィースブリック船 ベイラデフ号   同ウエアケレーネ
一スクーネルブリック船 テムボン号 同イアカラアンハセルド
一同           ハクニク号      同ハメイエル
一同           サバルア号      同ウエスエルトル
一同           ハンター号   同ウエアヘルケホイス
  
一同           サウシール号同ウエペイエルスドルト
一同           セイルプ号 同フエンデススタラーテン
一同           ユクミント号   同イハペーラールウ 
一スクーネル船      アルニ号   同ペファニウェイウ
一同           アリニハ号    同ウェエフムート
一蒸気船    ゲラフ号        同ヘテイフペウツ
一同      メラピー号       同イファンテルモーレン
一同      エドナ号        同フォンブエンライネ
 
一同      フェスフィコス号    同ベアコッテイセン
一同      シュリナーメ号     同ハベアルケン
一同      サコラニク号      同ゲチゴセエス
一同      セレベス号       同エフェルケールリンク
一同      ボルネオ号       同ケテイモスルス
一同      オンリュスー号     同ウエセキリス
一同      バターフチア号     同ファンセスセリッキ
一石火矢打小船 第四十一番    同ファンボンクファルファ


注:
イギリス・フランスの艦船が少ないのは、クリミア
戦争勃発で大量の艦船がバルト海、黒海方面
に移動したものと思われる

オランダの艦船が多いのは軍艦以外の商船
も列記している為と思われる


  北亜墨利加州海軍唐海并東印度海に乗居候船
   左の通ニ御座候
一レキシングトン
船号 食物船    船将カラスリン人名
一セレフトニアウ
同上  大砲二十二門  同アブボット同上
一ミスシスッピ同上  蒸気船 同十門  同レー同上  
一ポウハッタン同上  同   同九門  同キリユーネイ同上
一アレイモウト同上 コルベット 同廿二門 同ケルレイ同上
一ポルポイセ同上 ブリック船 同十二門 同ロランドー同上
一キュイーン同上 蒸気船  同二門   同タイロル同上
一サルオトカ同上  コルベット 同廿門 同フルナル同上
一ソウタムプトン同上 食物船  同四門 同ボイレ同上
一シマツフレイ
同上       同六門  同シンクライル同上
一シュスキエハンナ
同上 蒸気船 同八門 同ピエカナン同上
一ファンタリナ
同上 コルベット 同廿門   同ポーペ同上
一フィンキュウネス
同上 同  同廿門   同リングゴルド同上
アメリカ合衆国の中国東インド艦隊以下の通り
Lexington号 食物船     艦長J Glasson
Macedonian号   大砲二十二門 Joel Abbott
Mississippi号 蒸気船 同十門  S Lee  
Powhatan号  同 同九門   W MaCluney
Plymouth号 コルベット 同廿二門 J Kelly
Porpoise号 ブリック船 同十二門  ?
Queen号  蒸気船 同二門   A Taylor
Saratoga号 コルベット 同廿門 S Walker
Southampton 食物船  同四門 J Boyle
Supply号  同     同六門  A Sinclair
Susquehanna号 蒸気船 同八門 F Buchanan
Vandalia号 コルベット  同廿門  J Pope 
Vincennes号 同    同廿門   C Ringgold



     右之通りニ御座候   かひたん
                  ドン クロキュルシュス
     右之通和解差上申候以上
        寅七月         西 吉兵衛
                     志筑 新太
                     西 慶太郎
                     楢林栄太郎
  


以上の通り
    オランダ商館長(出島)
          ドンケル・クルチウス
以上和訳
 嘉永7年7月(1854年8月)左記名前

 注:嘉永7年11月27日安政に改元

参考:WIKIPEDIA (電子百科事典) 英語及びオランダ語版

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