嘉永四亥風説書 1851年8月 出典オランダ風説書集成
一当年来朝之阿蘭陀船六月八日咬留巴出船仕、海上 無別条、今日御当地着岸仕候、右壱艘之外類船無 御座候 一台湾辺其外唐国及び日本近海において、唐船見掛不 申候 一去年十月七日御当地より帰帆仕候船日数二十七日経 海上無滞十一月四日咬留巴着船仕候 |
当年来日のオランダ船は6月8日バタビアを出帆し 洋上異常なく本日長崎へ到着した。 此一艘以外 に仲間船はない 台湾付近外で中国船は見掛けなかった。 昨年長崎より10月7日帰帆した船は日数27日を 経て、順調に11月4日バタビアに到着した。 |
一去年帰帆之船より御送相成候漂流異国人、洋中無恙 何れも無事ニ而咬留巴着船、其国々江差返申候 一呱哇中物静に御座候 右之外相替候風説無御座候 |
昨年帰帆の船で送られた漂流の異国人は、海上 異常なくバタビアに到着し、夫々の国に渡した。 ジャワ全体は静謐である 以上の外特に情報はない |
かぴたん ふれでりつきこるねへりす ろうせ 右之通船頭并ヘトル阿蘭陀人申口カピタン承申上候ニ 付、和解差上申候、以上 亥七月十二日 本木 昌左衛門 其外 |
商館長 フレデリッキ・コルネス・ロウセ 以上船長及び事務長が語った事を商館長が聞き 報告あったので和訳 嘉永4年7月12日 本木昌左衛門 〔1851年8月8日) 其外 |
注 嘉永三年 アメリカ鯨漁船トライデント号の乗組員三名が嘉永2年6月カラフト島に取り残され、同所駐在松前の役人に 保護され松前経由、長崎に送られる。 イギリス鯨漁船イーモント号が北海道東部で岩にぶつかり破損沈没、乗組員 32名は艀でアツケシ海岸に嘉永三年4月漂着(内壱名は溺死)、松前経由長崎に送られトライデントの3名と合わせ34名 が同年秋のオランダ船に託される(通航一覧による ) |
辛亥別段風説書 嘉永四年 1851年8月 出典 蠧余一得(内閣文庫)
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嘉永七寅年風説書 1854年 オランダ風説書集成下
一当年来朝之阿蘭陀船、六月朔日咬留吧出帆仕、 海上無別条今日御当地江着岸仕候、右壱艘之外 類船 無御座候 一台湾辺におゐて唐船弐艘見掛申候、右は多分台湾 江赴候義と推察仕候 一去年十月十五日御当地より帰帆仕候船、日数三拾 日経、海上無滞十一月十五日交留巴着船仕候 |
当年来日のオランダ船は6月1日バタビアを出帆し 洋上異常なく本日長崎へ到着した。 此一艘以外 に仲間船はない 台湾付近で中国船は2艘見かけたが、これは多分 台湾へ行くものと推察する。 昨年長崎より10月150日帰帆した船は日数18日を 経て、順調に11月15日バタビアに到着した。 |
一瓜哇中物静ニ御座候 右之外相替風説無御座候 |
ジャワ全体は静謐である 以上の外特に情報はない |
カビタン とんくる・きゅるしゆす 右之通、船頭并ヘトル阿蘭陀人申口カピタン 承申上候に付、和解差上申候、以上 寅七月五日 御立人 通詞中 〔大木昌左衛門) |
商館長 ドンケル・クルチュス 以上オランダ船長及び事務長より商館長が 聞いて報告したので和解申上げる 嘉永7年7月5日〔1848年7月29日) 通詞中 |
嘉永七年別段風説書 1854 嘉永雑記第2冊
阿蘭国之事 一嘉永六年丑四月十二日和蘭国ノ公子プリンスヘンテレツキ 人名事サクセニウエイマルエイセナダ地名の諸侯の女アマリヤ 人名と婚姻相整候、右プリンスヘンテレキハ当時の和蘭国王 の弟ニ相当申候、猶又右女ノ父サクセンウエイマルイセナグ 同上の諸侯ヘルハント人名事ハ惣督職高位ノ輩ニテ既ニ 和蘭領印度軍将をも相勤候者ニ有之候 一和蘭国王の妹サクセンウエイマイマルエイセナク同上の諸侯家 嫁罷在候者当寅正月一女子を産申候 一昨年も申上候通、阿蘭陀一般静謐に有之、近隣之国ハ 勿論、其他欧羅巴諸州ハ睦敷相交、貿易航海専ら盛に 有之候、去丑年阿蘭陀国と北阿墨利加合衆国と貿易航海 の固を結び申候 一海底と通しエレキテイリーセテレガラーフと申合図の趣向、 阿蘭陀国とエケレス国と双方の弁利の義去年別段風説 申上候、未当時ニテハ漸々成熟仕候、猶又カーブル網ト 訳ス右仕掛ニ相用候物ノ義カ長サエケレス里数ニテ七十 里有之、其弁利至極良善に有之候 一又々当年も暴風雨雷烈敷、其ため数多の船之破壊ニ 及び、許多人命失亡仕候、右ニ付阿蘭陀所々誠ニ以難義 仕候 一嘉永五年子五月二十五日コスターリーカ地名の共和政治と 和蘭国王と双方交易信儀航海約諾書面、両国双方の全権 ワスシングーン地名に於て取替し申ト |
オランダ本国の事 嘉永6年4月12日(1853年5月9日)オランダ国王 の弟、ヘンドリック公はザクセンワイマール公国 の諸侯の娘アマリアと結婚した。 アマリアの父 ベルンハントは総督職の地位にあり、オランダ 領東インド軍の司令官も勤めた者である オランダ国王の妹でザクセンワイマールの諸侯 家に嫁いだ者今年女の子出産 昨年もオランダは静謐で近隣諸国や北 アメリカと貿易を行った 昨年の風説で述べた電信器に付き、オランダ と英国の間が海底ケーブルで結ばれた。 距離は70里、280kmである。非常に便利な ものである。(注1) 今年も暴風雨の為多くの船と人命が失われた 嘉永5年5月25日コスタリカ共和国との交易 航海協定がオランダと両国全権により ワシントンで結ばれた 注1: 1.SachsenWieimarEisenach:北ドイツの国 2.嘉永7年正月米国ペリー二度目来日時、 将軍への手土産として電信装置を献上 3.コスタリカ共和国: 中米、1838年に独立の 共和国となる |
和蘭支配印度領の事 一去丑年和蘭領印度フィーセ、プレシテント、ファーニ、テン、ラート 官名イフウ、ファンメス人名儀願に依て首尾能暇申渡 有之候 一サクセン、ウイマルエイセナグ地名の諸侯惣督官、印度 軍勢の将たるヘルンハルト人名願に因て首尾能暇を給ひ 右跡惣督次官フフアリトルテステエエルス申付り候 一瓜哇及び其街外の諸領の気候当年ハ殊更不順に有之コレ ラ疾病ノ名及び麻疹??腹痛等専ら流行、殊更モリユック島 辺ハ右ハ大害に罹り候者多く今に此煩不免候 一和蘭領印度海の軍勢此節又々海賊征伐の為出張致し、幸 にして頗る其賊長の族及び許多の賊手に入申候、終にハ 其名だたる賊長及び手下の者ニ至る迄屈服随従致候 一瓜哇及び其街外の諸領夥敷地震有之候、然と雖去年の モリエック島に有之候程の義ニハ無之候 一当年交留巴にて人作精工の見せ物頗に繁昌致し、右の内 には頗る適要の物も有之候、交留巴及ビ其他瓜哇諸方より 数多の人群集致し候 一パレムバンク地名に於て亦々昨年の如く悪党共起り立ち、 荷担の者有之其以穏ならず、依之態々軍勢を差向け其 悪党の目論見空敷相成、終ニハ頗る其悪党屈服致し、所々 随従之所多く相成申候、猶又其後許多悪党の要害、隠れ 家破壊の末諸方其残党散乱致候 一サンバス(ボルネオ内)に罷在候唐人共当年の始伏従不致候ニ 付同所港を絶切食糧の通路を断ち伏従セシメンと要し候 義ニ御座候 一当年若干の軍勢同所の方に発向致し候、然る所当五月 七日使ニて参り候得バ、其唐領の都府モンタラトー地名に 右軍勢到着致し候末、其所の者共忽ち直に憐憫の沙汰を 乞、頗に歎願致し必伏従の旨も申立、終ニハ願意通、 モンタラドー地名を手ニ入れ候事相叶申候 一悪党一揆を起し候罪相糺、戦争失費の購を致さセ、且一揆 の長たる者相渡候抔の義先専要と致し候事ニ候 |
オランダ領東印度の事 オランダ領東印度(ジャワ地方)の評議会議長 職のファンメスが退職した。 ザクセンワイマール公国の諸侯総督で東インド 軍の司令官であるヘルンハルトは退任し、 後継はテスチェエルスが拝命した。 ジャワ地方に気候は今年は特に不順で コレラ、湿疹、腹痛等の病気が流行しており、 罹病から快復しない者が多い オランダ東印度の軍隊は又海賊退治の為 出動し、多くの海賊の頭及び其配下を従属 させる事に成功した ジャワ地方に地震があったが、去年のもの 程激しくは無かった。 今年ジャカルタで精密な人体模型の見世物 が人気で、ジャカルタ及びジャワ各地からの 見物人が多い スマトラのパレンバンで昨年同様反乱の計画 があったが、軍隊を出動させ関係者を粉砕 した ボルネオの中国人が服従しないので、湊 を封鎖して食料と絶ち、さらに若干の軍隊を 送り攻めた結果、降伏したので都府を占領 し、戦費賠償及び責任者の引渡しを要求した 注: 1.オランダ領東印度とは現代のインドネシア で現ジャカルタを当時バタビアと云い総督が 駐在した。 日本との貿易船はバタビアと 長崎を往復し、航海に2週間程要した。 2.SachsenーWeimar-Eisenach : 北 ドイツ地方の公国 |
エケレス支配印度領 シンガポールの事 一当年四月上旬シンガポールに於て唐人一揆相起り申候、 初発フィウーフィーウー、マカオ、ヘイラン何れも地名等の唐人 所持の品物をホキーン(福建)の者奪取候ニ付、唐人数人 ホキーンに押寄、家屋店其外狼藉乱妨ニ及び 申候、 又フィウーフィウー(囲々)地名の唐人共許多家を焼亡致させ フィウーフィウー村全く相潰され申候 一同月十一日若干の死亡有之即下条の通ニ御座候 死亡四百八拾五人 焼亡家数弐百八拾軒 手負弐百廿三人 暴発之植付場百六十ヶ所 生捕五百十弐人 狼藉ニ及ばれ候店五十三ヶ所 一其後の風説にてはシンガポール地名中諸事穏ニ御座候、 併再度変を可生哉も相恐居申候 一右騒動の基はホキーン地名の者と唐人との所為ニ御座候 ヒルマーの事 一ヒルマー(緬満)地名に於て嘉永五年十二月上旬エケレス 政府と久敷戦争有之候、未同所大飢饉有之死亡夥敷事ニ 御座候、 其後の風聞ハヘウカーレン地名より夥敷米を差送り候ニ付 右食物の難渋相凌申候 一爰に許多盗賊共取捕申候、同人共の趣意ハ土地を乱妨し 土人を煩しむる事ニ御座候、其後盗賊をも捕尽候様ニ諸手 当ニ相成申候 アウスタラリーの事 一アウスタラリー地名に於て黄金の出産弥増に御座候、同所 より欧羅巴の諸国へ黄金運送仕候此地に来り居住のもの 年々相増申候、右様富福を欲候者共同所ニ於て食物の 高価に殊更困窮仕候 一メルホウルね地名に又大造の黄金山を見出し申候 喜望峰の事 一喜望峰の風聞一般ニ宜御座候、同所タラウスファール地名 領の外、都而打続平和ニ御座候、尤百姓共北方并北東 の者共は今ニ戦争仕候事ニ御座候、且又ホツテントツト 地名の山賊共強盗或ハ人を殺候ニ付、諸方安堵無之候、 其後の風聞にファール河を相隔掛離居候和蘭の百姓 合衆の政事相定申候、諸人所願の政治先項相定候處、 土民大ニ和睦仕候、別而カープ地名の市中并西方の地に 於ては弥和熟仕候 一其後の風聞には同所交易次第ニ繁昌仕、又相続、諸方 共ニ弥平和ニ相成申候 一近頃彼地でも黄金見出申候 |
英国領各地の事 シンガポールの事 シンガポールで在住中国人の暴動が起きた 初めは中国人財産が奪われたので、中国人 が仕返しを行った 是による被害は 死者485人 家屋炎上280軒 負傷223人 暴動箇所160ヶ所 逮捕512人 店舗破壊53ヶ所 その後の風説では暴動は収束したが再発の 恐れもある。 この暴動はホキーンの者と中国人が起した ものである ビルマの事(ミャンマー) ビルマでは二年前、英国と戦争の後、飢饉の の為多数死亡したが、その後の情報では ベンガルより大量の米を送り、凌いでいる由。 又多くの盗賊を捕らえた、彼等の目的は現地 人を苦しめる事である。 其後盗賊も捕らえ 尽す様な手立てを立てている オーストラリアの事 オーストラリアでは大量の金が出産した。 ヨーロッパ各地から金を運ぶ為に此地に来て 居住するものが年々増加している。 一攫千金 を狙って移住したが食料の値上がりで苦労 している。 メルボルン近郊で大量の金鉱が発見された 喜望峰の事(南ア、ケープタウン) 喜望峰の街の様子は全般的に良く、平和が 続いている。 しかし周辺の農民達は未だ治ま ってはいない。 又一部地方で山賊や強盗が あり、必ずしも安心できない。 しかし最近の情報では農民達を集合し、取決め を行ったので政情が安定してきた。 特に ケープの街やその西方では平和が熟してきた 更にその後の情報では同所の交易は益々盛ん となり、最近では金鉱も発見された 注 1.1851年(嘉永四年)シドニー近郊260kの ルイス・ポンズ・クリークで金鉱が発見され ゴールドラッシュとなったが、その後メルボルン 近辺でも発見された |
唐国之事 一唐国の一件弥甚く相成、南京及びセンキャン(鎮江)等は 既に一揆方ニ手ニ入申候、南京又候破壊ニ逢申候、厦門 ハ三千人の一揆方の者より既に取 られ申候、昨丑年六月 頃唐国帝の船勢と一揆方と甚敷合戦有之、此時一揆方ハ 散々に敗北に及び申候 右様の事ニ及候程なれ共、其都府唐国帝の方に戻し候迄 ニハ至り兼候 一カハンチンク(関中)地名都て静謐に有之候、一揆の人数ハ 六万より八万人程に及候、広東住居唐人共之内ニハ兎角 不安気の趣にて、商売向抔ハ都而相止、唯盛なるハ海賊 増長するのみにて、数多の唐船破壊セしめ許多の海賊 捕ハれ候事ニ候 一一揆徒党ハ漸々ホーナン(河南)地名のナンヨン南陽府及び ケイシュホの諸府を既に手に入れ申候 一追板のエケレス評判記の説に随ヘバ、当時迄の唐国帝 親族ニ至迄位を離れ候の説ハ先ヅ実説の様ニ有之候、 北京ハ一揆徒党より囲軍せられ候、扨上海ニも一揆有之、 既ニ運上会所抔ハ一揆の者共より打潰され候程の義に 有之候 一近来唐国説に厦門の地ハ国帝方にて則一揆の者七千人 打取られ、亦間ニハ其一揆の内伏従致し候者ハ国帝方に 付候趣ニ候 一広東を南京の土地マカオ島黄金を見出し候、右ニ付甚 繁昌の事ニ候、既に其金は甚純粋にしてハクワン山といふ 山ある、ヤンピンヒン地名に在り、亦キンカイセウイといふ 山手の流川ニ在りと申事ニ候 一唐人抔の内には印度之西方或ハカリホルニヤの北、或ハ アウスタラリー或ハ東印度の地に向出奔の者多く益増長 ニ及び候、将亦婦女の類唐国を離れ外国ニ参り候者頗に 多く有之候 世上流布のモンテエールといへるフランス書記の説ニては 嘉永五子年唐国と魯西阿との両国、陸地商店を開き候道 魯西亜政府趣意通相遂候哉之様に有之候 一香港の新奉行ハ即商業取扱の司にしてヨンボウリング 人名其職ニ任じ、スタライツテイメスといふ書記の説に随ヘ バ、中々頗る大任を請、既に全権を得て日本・遷羅・交址 等ニ至り貿易結信の趣意を貫ンと欲する旨ニ候、猶又当時 のエケレス書記の説にては右ヨンボウリンク人名義海陸の 力を合せ、香港辺魯西亜国人の入込を拒防するの手当を なせし事と申候義ニ候 |
中国の事 中国では太平天国の乱が益々広がり、南京 及び錦江は反乱側に落ち、南京では破壊が 進み、厦門も3000人の反乱側に取られた 昨年6月頃清国軍と反乱側と衝突で反乱側は 散々敗北した。 しかし清国が掌握するには 至っていない。 関中は静謐である 反乱側の人数は6万から8万人程で、広東居住 の中国人達は不安にかられ商売は全て止めて いる。 海賊が増えて多くの中国船が破壊され たが、海賊も多数捕らえられた。 反乱は江南地方に及び南陽府及び徴州の各 都府を手に入れている。 最新のイギリス評判紀によれば、清国帝は親族 に至る迄、帝位を去る事は実説の様である 北京は既に反乱軍により包囲され、上海でも 税関事務所が反乱軍に破壊された由 最近清国の発表によれば、厦門は反乱側 7000人が打取られたが、反乱側は清国側 に帰依したという 広東省のマカオで金鉱が発見された由。 その 金は純粋でハクワンという山、キンカイセイウと いう川にあるという 中国人の中では印度の西方、カリホルニア の北部、オーストラリア、或は東印度各地に 家族共々出国する者が多い。 香港の新総督はジョン・ボーリングが任ぜられ 非常に大きな権力を英国政府から与えられて おり、既に全権を以て日本・タイ国・ベトナム等 と貿易協定を結ぼうとしている。 又英国筋に よれば、総督は海陸の軍事力を使い香港 周辺にロシア勢力が及ぶのを防ぐ手立てを しているという |
大ブリタニヤ及びイールランド国名の事 一昨丑年秋及び当春ニ掛ケ大ブリタニヤ及びイールランドの 海渚暴風雨頻リニシテ許多船々破壊ニ及び候 一国を離れ家屋を移し候者益増出し就中アウスタラリー に行者多ク御座候 一デユブリン地名に於て昨丑年人作精工の見せ物有之候 一エケエス国女王とフランス国帝と相議してトルコ国名の救 の為魯西亜国に決戦の発意を述申候 |
大英帝国及びアイルランドの事 昨年秋から今年春にかけ、英国及びアイル ランド周辺は暴風雨に見舞われ、多くの船が 破損した。 国を離れオーストラリアに出国する者多い ダブリンで人体精密見本の見世物があった 英国女王とフランス国帝は協議してトルコ 救援のためロシアと戦争する事発表する 注 1.英ビクトリア女王及び仏ナポレオン三世 2.英仏両国のロシアへの宣戦布告は 1854年3月28日 |
フランス国の事 一昨丑年フランス国帝を殺害せん迚一両度も打掛候事 有之候得共、幸にして其難を免れ候事ニ御座候 一都府パレイスに於て当年人作精工の見せ物大造ニ繁昌 仕、其ため既に大家を取立申候 一魯西亜国と合戦の義ニ付ては漸々究意の事録誌可仕候 |
フランス国の事 1853年ナポレオン三世の暗殺未遂事件が2度 あったが無事だった パリで人体見本の見世物が人気を博し、その 為の展示館を造った ロシアとの戦争については追々最新情報を 報告する 注 1.フランスはクリミア戦争にイギリスと共に今年 〔1854年)参戦しロシアと戦う |
ポルトガル国の事 一昨丑年十月十五日ポルトガル国女王アンナマリヤグロリヤ 人名難産にて亡滅いたし候 |
ポルトガル国の事 昨年十月十五日ポルトガル国女王は難産 の為死去 |
イタリヤ国の事 一バルマー地名の諸侯フェルデナンドカーレルデルテヨーセフマリ フィットリヤホルタサルファンホウルボン人名素イスパニヤ国の公子 ニ有之、此人当二月廿八日殺害に及ハれ、相応其起因を 尋るに兎角不分免有之候 |
イタリヤ国の事 バルマーの諸侯フェルデナント・ホールボン はスペインの公子だったが、今年2月暗殺され その原因理由については不明 |
ドイツ国のこと 一ドイツ国及び其他の欧羅巴の国より出国に及び作所に屋を 致し候義、昨年当年に至ては弥増長致し候、ハムヒュルグ 地名のみにて昨年中出国の船百二十三艘、其旗印様ニ して人丁一万八千七百五十七人を乗せ出国ニ及候 |
ドイツ国のこと ドイツ国及びその他ヨーロッパ各国からの出国 が増加し、ハンブルグから昨年中に出国した船 は123艘、人員は18757人である |
ギリシヤ国の事 一トルコ領キリシヤ国に於てハ魯西亜国とトルコ国との合戦に 因り候事哉、と相見へ其盛の一揆発起いたし、既にビンテユ ス山を越也候程の事ニ及び候由ニ候、キリシャ国惣督及び 次官五百人の勢を引連、一揆の方に発向ニ及び候由ニ候 一コンスタンテノホル地名にては都而の政道商業向キリシヤ国 との間に当りて都而荒廃に及び候、トルコ奉行所より命令 出、諸キリシヤ随従の者日数十五日の内トルコ国ヨリ出国に 及び候旨に候、右同様の振合にエケイフテ国名に在る キリシャ人も相成申候、此一揆益増長仕候得共、多分 フランス国エケレス国の取扱ニて相治り可申哉ニ候 一当寅年正月十三日トルコ人モンテねケケーン村名に攻掛候 此村ハ即キリシヤ国名一揆の勢に依頼致し甚敷戦争の後 右一揆方の助に依て、敵三百人を追討致候 一当時の説にては其一揆の勢益盛に及び既に許多の府邑 を押領に及び其国民も亦却而其一揆方に荷担致し候、随 て国王の軍勢も亦間々ハ是と打合し候事も有之由ニ候 一当時の風聞にてハギリシャ国惣督十九人其職を放たれ候 趣ニ候、其末此者とも一揆方に付候由ニ候 一当寅二月十六日コルフユー地名の風聞には一揆の動作 エピリユス地名に於て穏に鎮り候様相成申べく哉ニ候 一既に五十村はトルコ国に随属いたし候様子ニ候、此時は 即チコルヒュー地名水上にフランスの軍艦備罷在候 一テッサーリ地名及びエピリユス同上の賊村邑百七十八ヶ所 破滅せしめ候 |
ギリシヤ国の事 トルコ領キリシヤではロシアとトルコの戦争に よると思われるが、各地でギリシャ人の反乱が 勃発しヒンドス山を越える程になった。 ギリシャ総督等は500人の軍勢を引きつれ反乱 鎮圧に向った コンスタンチノープルではギリシャ国との商業 取引は全て停止し、トルコ総督の命令で ギリシャに荷担するものは15日以内に出国 する事になった。 同様な事はエジプト国に 居住するギリシャ人にも及んだ。 トルコに対 するギリシャ義勇軍の反乱は更に激化すると 予想されるが、フランスとイギリスが介入して 治まるはずである。 今年正月トルコ人がモンテネケレイン村に 攻撃し仕掛けたが、此村はギリシャの反乱軍に 依頼、激戦の末敵のトルコ勢300人を追払った 現在の情報では反乱の勢いは益々盛んに なり、既に幾つかの郡村を占拠し、国民もまた 反乱に荷担しており、ギリシャ国王軍も又時々 反乱側と打合せしている。 又風聞ではギリシャ 国総督19人を解雇したが、彼等も反乱側に 付いた由 今年2月16日情報では反乱は鎮まりつつあり 既に50村はトルコに所属した模様、この時 チコルヒューにフランス軍艦があり、テッサロ ニキ及びエピリウスの賊村178ヶ所を破壊した 注 1. トルコに対しギリシャの義勇軍=反乱軍 が後を絶たず、トルコを支援する立場の英仏 が反乱軍の鎮圧に廻る。 |
魯西亜国トルコ国の事 一魯西亜国とトルコ国との一件に付てハ昨丑年別段風説 で申上候以来、弥以事相募り申候、此合戦ニて許多流血 に及候程の義ニ至り、人命数多相損申候 一昨丑年十月晦日トルコの船勢などハハシイペ地名に在る 魯西亜の海軍に因て風破壊せしめられ、アカルシグ地名の 近辺ゼオルシー地名にてトルコ勢魯西亜の為に散々に 敗北に及び候 一アルトニットナ地名及びエセターチー同上に於て流血に 及ぶの合戦有之候 一エケレス国フランス国の両国トルコと相合し、魯西亜に敵対 致す趣向ニ候、既にエケレス国フランス国の両国より夥敷軍 勢備の為、トルコ国に船ニて差越、先過半ハ同所に最早到 着の事と存られ候 一トルコに在るエケレスの軍勢にはカムフリツドゲ地名の諸侯 ロルトラタラン人名を大将として一体の指揮有之候 一トルコに在るフランス軍勢には当時のフランス帝の甥 に当り候公子ナポレオン人名及びマールシカルク官名 アルナウト人名大将として一体の指揮有之候 一黒海にはエケレスの船勢アドミュール官名テマレタス人名 の指揮ニて備有之候 一フランス方にも亦アドミラール官名ハメリン人名の指揮にて 船二十六艘大砲千百廿門備有之候 一アトミラール官名フリエアツト人名の一手も黒海にて船 十艘大砲千六百廿門の備有之候 一エケレスフランスの両国政府より東海にも亦大造の船勢 備を立有之候、既にエケレス方にては四十四五艘の船 にて人丁二万弐千人乗、大砲ハ二千二百門指揮の大将ハ アドミラール官名カルレスナピール人名并スコウトベイナクト官名 コルリー人名に有之候、フランス方船勢はアドミラール官名ベルセ ファルテスゼねス人名の指揮にて船二十三艘、大砲千二百 五十九門有之候 一魯西亜東海船勢即チリーニー船二十七艘、此内三艘程ハ 毎艘三段備の物ニ有之并フレカット船十八艘、コルベット船 ブリック船にて十五艘加之、許多の蒸気船備有之候、黒海 に有之魯西亜船勢ハリーニー船十八艘内三艘程ハ三段 備の物ニ有之候、将亦フレガット船十二艘、コルベット船 十艘并許多の蒸気船相備罷在候、蒸気船及び大砲打 小舟の類、此両国海に有之、魯西亜手の者、魯西亜の 記説にてハ四五百艘も有之趣ニ候、右船勢の長たるもの ハ公子メンシコフ人名及びコンスタンテイ地名の大王即チ 惣大将に有之候 其以下のアドミラール職はファンコルサコル人名及びファンシ リコルト同上に有之候 一此度の合戦ニ付てハ行末、幸不孝の程も、いまだ計難 く其際限も聊以来ニ見へず、唯患ふる所ハ商業貿易 の道に差障り、欧羅巴の州々と交るにも是必関係 致し候事ニ候 一当時のエケレス書記にて魯西亜及びトルコの政府 よりの致し方等の儀、分明に相成候、将又エケイプテ国よ リも亦救いの勢七千五百人トルコに差出申候 |
ロシアとトルコ(オスマン)の事 ロシア国とトルコ国との件は昨年の別段風説 報告後も愈々戦争は激しくなり、多くの人命 が失われた(クリミア戦争) 昨年十月トルコ艦隊がシノップで突然ロシア 黒海艦隊に襲われ壊滅した 英仏の両国はトルコ救援の為ロシアと戦う為 大量の軍隊をトルコに送る。 大半は既に 到着と思われる トルコに派遣したイギリス軍はロードラグラン、 フランス軍は現皇帝の甥のナポレオン公及び アルナウト元帥を大将として指揮させる。 黒海ではイギリス艦隊をテマレタス提督に、 フランスもハメリン提督の指揮で艦船26艘、 大砲1,120門備える フリエアット提督の艦隊も黒海に艦船10艘 大砲1,620門備える 英仏両国政府からバルト海にも大艦隊を備え イギリスは44-45艘、人員22,000人乗り、大砲 2,200門、カルレスナピール提督及びコルリー 提督、 フランスからはゼネス提督の下に艦船 23艘、大砲1,259門備える。 ロシアバルト海艦隊は戦列艦27艘、内3艘は 大砲三段備え、フリゲート艦18艘、コルベット 及びブリック艦15艘加え多くの蒸気船がある。 黒海のロシア艦隊は戦列艦18艘内3艘は三段 構、フリゲート艦12艘、コルベット間10艘で多 くの蒸気船を備える。 蒸気船及び小型砲艦 はバルト海、黒海合せロシア側の記述 によれば400-500艘という。 これらの海軍の 総指揮は公子メンシコフ即ちコンスタンティの 大王である。 その下の提督はコルサコル 及びシリコルトである 此度の戦争の見通しは今の処分からず、どこ 迄続くかも全く見えない。 只困るのは通商 貿易に支障が出て、ヨーロッパ各国との関係 が必ずある。 現在のイギリスの記事によればロシア、トルコ 両政府の様子が明らかになり、又エジプトから も7500人の義勇軍をトルコに提供した。〔注) 注 1.エジプトの宗主国はオスマントルコ帝国 2.ワラキア、現在のルーマニアの一部で ロシア及びオスマン双方が影響力を持つ 3.東海 バルト海の事 4. クリミア戦争 ロシア帝国とオスマン帝国 のバルカン諸国をめぐる争いから、英仏が オスマン(トルコ)支援に廻り1854年3月ー 1856年3月迄大戦争となる。 オーストリア 及びプロイセンの仲介でパリ条約により終結 |
一ワルラセイエ地名にハ魯西亜勢相集り、トルコより責来るを 頻りに相待罷在候 一アラファツト地名に於てトルコ人魯西亜人に対し名誉 の勝利を得候説有之候 一公子パスケニス人名魯西亜軍勢の指揮致し、トルコ軍勢 の指揮アウーメルバカー人名の計ニ有之候 一当三月上旬魯西亜人四五万の勢を引連れ、ドナウ川を 渡りトルコに対し勝利を得し事有之候 一当寅三月十三日ティリーステ地名より合図仕掛の 趣向にて承知致すにはエケレス国フランス国オー テンレーキ国プロイス国抔より頻りに魯西亜とトル コとの合戦を相鎮めんと専ら心を尽候由ニ候 一エケレス国備の縦横自在進退の船、魯西亜船に毎度 責掛ケ既に三日の内に魯西亜船十四艘召捕申候 一広大繁花の魯西亜商邑オデスサ地名黒海の辺ニ 有之、此所フランス国エケレス国の船勢のため当寅 三月二十五日ボムベン砲を以て皆無焼打に逢申候 一シリステイリヤ地名に於て魯西亜より取られ焼打に逢ひ カラファウトに於て魯西亜人再びトルコより相捕られ候、 ドブリユツサ地名に罷在候魯西亜軍の内に 赤痢の病にて数多難苦致し候者有之候 一毎度ドナウ川ニ罷在候軍勢の方及びシルカルト国名人 は魯西亜に対し一揆を起し、亜細亜海より魯西亜人を 追出候程の事に及び候由、エケレス国の説有之候 |
(クリミア戦争ードナウ戦線) ワラキアにはロシア軍が集結しトルコの攻撃を 待ち構えている。 カラファットにてトルコがロシアに勝利したと いう情報がある 公子パスケニスがロシア軍を指揮しトルコ軍の 指揮はオマール・パシャである 今年三月上旬ロシアは4万ー5万の規模で ドナウ河を渡り、トルコに勝利したと云う 今年三月、情報によれば英仏、オーストリア、 プロイセン国等がロシアとトルコの戦争を鎮める 努力をしていると聞く イギリスの蒸気船がロシア船を攻撃し、三日間 でロシア船14艘拿捕したという 黒海に面する大商業都市であるオデッサは 今年三月英仏の艦隊の為に爆裂弾で焼き 払われた システリアはロシア人に取られ焼討ちに逢い カラファットではロシアが再びがトルコに捕られ ドブリユッサではロシア軍に赤痢が流行し多数 が苦しむ 英国の新聞によればドナウ河に展開する軍隊 及びシリカルト人がロシアに対し反乱を起し、 アジアの海からロシア人を追い出す程である |
スウエーデン国ノールウェーケン国の事 一此両国ハ一致の国にて東国に事ありても是に関係有之 事無御座候 一右様の訳ニハ候得共自然事ある時の用意に此両国拒防 の為船勢の備有之候 |
スウエーデン、ノルウェー国の事 此の両国は東方の国ロシア、オスマン等に事 が有っても関係しない立場であるが、緊急に 備え敵の襲来を防ぐ為に艦隊は持っている |
亜墨利加州 ペーリユー地名の事 一フランス国書記の説にてハペーリユー地名の奉行所にて 至極心配有て外国より引移来る所の数多の人民に其土地 に居住の趣向整候様の世話専ら有之候 此趣意ハペーリユー領に有之アマソーねン川より水を灌候 豊饒の土地を空敷不差置様のために有之候 一右等の事の為此共和政治の司より既に夫が為の人数を 可定申候 一ねウヨルク地名ハ外国より引移来る者、其人丁三十三万 四千八百七十人有之候 一亜墨利加にて新工夫の植字判発明いたし、紙も広き侭にて 円器の趣向にて和蘭一瞬の内に三万枚の紙に判行をなし、 直に裁切折目を付候趣に候 メキシコーの事 一メキシコーに於て合衆国ヨリ同所に居合候者明境之義を 取極申候、右取極の内究而印度人のためメキシコ領境 守衛の儀并ミスシブピー河より太平海江の通路を可得儀 もヶ条相立て有之義ニ御座候 一右取極の節合衆国にて相納若干の銀高有之候処 右代りに両国久敷争論のメシルラダルと申地を相渡申候 一メキシコー地名と合衆国との境の儀右之通規定相立両国 の争論全く治り申候 エクアドル地名の事 一エクアドル地名の地ハアマゾーねン河の枝流有之、右所領 を跨り候流れ候ニ付諸国より渡来自由を得申候 一ねウヨルク地名のハルタンと申人即益の事義発明仕候、右 は黄金洗候ため殊之外大造の道具に御座候 一右道具ハ黄金洗のため是迄相用候諸般の道具ニ最勝申候 カリフォルニー地名の事 一カリフォルニー黄金掘の儀常に出精仕、富福を顕し候、諸人 彼地に至り居住仕候者多く御座候、誠に黄金の運送夥敷事 ニ御座候 一カリフォルニーの都府サンフランシスコー数多の住人、黄金 見出し候以来、格別に相増申候、既に弘化二巳年住人の数 僅二百五拾人有之、嘉永六丑年ニ至り三万人程に及び申候 一初て黄金見出し候節ハサンフランシスコ地名に於て黄金の 代料二ヶ月の間に凡二十五万ドルラルズ銭名を得申候 当時ハ月に五十万ドルラルズ銭名程に及び、殊に繁昌の 儀ニ御座候 テキサス地名の事 一テキサスに於ても黄金多分に見出し申候 一諸般の蒸気具用の水の代りに空気相用候儀エリ―リン 人名発明仕候趣、去年申上候処其後右ニ付一向承候儀 無御座候 |
アメリカ州(南北)の事 ペルーの事 フランスの記事によればペルーの行政府は 外国からの移住者が土地に定着出来る様に 気を配っている。 それはペルー領に アマゾン河の水を灌ぎ、豊饒の土地を駄目に しないようにしている 此のために共和国の指導者は既に人員 を確保している。 ニューヨークでは外国から移住する者 334,878人と言う アメリカで新方式の活版印刷を発明し、紙も 広い侭で円器により一時間に30,000頁を 印刷し、裁断して折目を付ける〔輪転機か) メキシコの事 メキシコと合衆国は国境の取り決めを行い 国境警備とミシシッピー河から太平洋迄の 通路を確保する事である。 この協議のために合衆国では銀で土地を購入 し、両国の間で論争の原因となっていた メシルラダルをメキシコに渡した。 以後協定により、両国の国境に関する争論は 治まった〔注1) エクアドルの事 エクアドルはアマゾン河の支流にあるので 此地は諸国より渡来が自由である ニューヨークのハルタンと云う人が金抽出の 新しい道具を発明した。 これは非常に高性能 で従来の物に比べて勝れている カリフォルニアの事 カリフォルニアでは金を掘出せば豊かに なるので多くの人が移住して、金の産出は 大量であるいる カリフォルニアの都府であるサンフランシスコ の人口は金発見以来大きく増加している 弘化2年〔1845)には住民250人だったが嘉永6 (1853)には3万人程になったという 初めて金を発見した時はサンフランシスコでは 金の産出は2ヶ月に25万ドルだったが、現在は 月50万ドルとなり繁昌している。 テキサスの事 テキサスでも金が発見された由 蒸気機関で水の代わりに空気を利用する事 をエリーンという人が発明した事を昨年報告 したが、其後一向この話を聞かない 注 1.米墨戦争〔1846-1848)の終戦講和時の グアダルーぺ・イダルゴ条約によりアメリカは カリホルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ等を メキシコより1500万ドルで割譲を受けた。 更に1853年カズデン条約により、アリゾナ 南部とニューメキシコを1000万ドルでアメリカ はメキシコから購入している。 この目的は 大陸横断鉄道の為という |
海軍の事 近頃承り候には欧羅巴の海軍、唐海并ニ東印度海に罷越 居候、船々左の通御座候 エゲレス国より 一ヒッテルン号 ブリック船 大砲十二門 船将フカンシハルト 一コミコス号 リーニー船 同 同フェルユウエス 一エンコウヒトル号 船 同十四門 同オアルウグハン 一ケレシアウ号 船 同十二門 同ケアネ 一ヘルキコレス号 病人養生船 一ミニテン号 船 同エルリス 一スライクス号 蒸気船 同六門 同ウラールコムベ 一ウインセストル号 船 同五十門 同 イエフベツインウリグト |
海軍の事 中国近辺及び東インドに展開する海軍の艦船 イギリス Bittern ブリック 大砲12門 Edward Vansittalt Comus スループ 18門 William Fellowes Encounter 蒸気スクリウ 14門 Dog O'Callaghar Grecian ブリック 12門 George Keane ヘルキコレス Minden 病院船 Henry Elliot Styx 蒸気船外輪 6門 Woollcombe Winchester 戦列艦 52門 Granville Loch |
フランスより 一コルベット 蒸気船 同六門 同ベアツトイル 一コンスタンネソナ号フレガット船 同エッテモウタラフィル ポルトガルより 一トンヨアオ号 同廿二門 同ロヘス 和蘭より罷越居候船左の通ニ御座候 一フレガット船 プリンスフレデリック号 同アセフラームホウクス 一同 同セテスターテス 一コルベット船 ファニスペイキ号 同ペサウファケ 一同 ホルカス号 同アヘコルコット 一同 シユコタラ号 同ハウイフプ 一同 ネハレイシア号 同イデバーン 一ブリック船 デハーイ号 同デコへカルト 一アトフィースブリック船 ベイラデフ号 同ウエアケレーネ 一スクーネルブリック船 テムボン号 同イアカラアンハセルド 一同 ハクニク号 同ハメイエル 一同 サバルア号 同ウエスエルトル 一同 ハンター号 同ウエアヘルケホイス 一同 サウシール号同ウエペイエルスドルト 一同 セイルプ号 同フエンデススタラーテン 一同 ユクミント号 同イハペーラールウ 一スクーネル船 アルニ号 同ペファニウェイウ 一同 アリニハ号 同ウェエフムート 一蒸気船 ゲラフ号 同ヘテイフペウツ 一同 メラピー号 同イファンテルモーレン 一同 エドナ号 同フォンブエンライネ 一同 フェスフィコス号 同ベアコッテイセン 一同 シュリナーメ号 同ハベアルケン 一同 サコラニク号 同ゲチゴセエス 一同 セレベス号 同エフェルケールリンク 一同 ボルネオ号 同ケテイモスルス 一同 オンリュスー号 同ウエセキリス 一同 バターフチア号 同ファンセスセリッキ 一石火矢打小船 第四十一番 同ファンボンクファルファ |
注: イギリス・フランスの艦船が少ないのは、クリミア 戦争勃発で大量の艦船がバルト海、黒海方面 に移動したものと思われる オランダの艦船が多いのは軍艦以外の商船 も列記している為と思われる |
北亜墨利加州海軍唐海并東印度海に乗居候船 左の通ニ御座候 一レキシングトン船号 食物船 船将カラスリン人名 一セレフトニアウ同上 大砲二十二門 同アブボット同上 一ミスシスッピ同上 蒸気船 同十門 同レー同上 一ポウハッタン同上 同 同九門 同キリユーネイ同上 一アレイモウト同上 コルベット 同廿二門 同ケルレイ同上 一ポルポイセ同上 ブリック船 同十二門 同ロランドー同上 一キュイーン同上 蒸気船 同二門 同タイロル同上 一サルオトカ同上 コルベット 同廿門 同フルナル同上 一ソウタムプトン同上 食物船 同四門 同ボイレ同上 一シマツフレイ同上 同六門 同シンクライル同上 一シュスキエハンナ同上 蒸気船 同八門 同ピエカナン同上 一ファンタリナ同上 コルベット 同廿門 同ポーペ同上 一フィンキュウネス同上 同 同廿門 同リングゴルド同上 |
アメリカ合衆国の中国東インド艦隊以下の通り Lexington号 食物船 艦長J Glasson Macedonian号 大砲二十二門 Joel Abbott Mississippi号 蒸気船 同十門 S Lee Powhatan号 同 同九門 W MaCluney Plymouth号 コルベット 同廿二門 J Kelly Porpoise号 ブリック船 同十二門 ? Queen号 蒸気船 同二門 A Taylor Saratoga号 コルベット 同廿門 S Walker Southampton 食物船 同四門 J Boyle Supply号 同 同六門 A Sinclair Susquehanna号 蒸気船 同八門 F Buchanan Vandalia号 コルベット 同廿門 J Pope Vincennes号 同 同廿門 C Ringgold |
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以上の通り オランダ商館長(出島) ドンケル・クルチウス 以上和訳 嘉永7年7月(1854年8月)左記名前 注:嘉永7年11月27日安政に改元 |
参考:WIKIPEDIA (電子百科事典) 英語及びオランダ語版