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原作  大道寺友山(1728年)  
現代文訳、註 大船住人(2006年11月)  
      

巻1
        江戸城の始まりについて
質問、ご当地のお城はいつ頃、誰が縄張りを行い、築いたのですか。
、私は若い頃ある老人の話を聞いております。 以前相模の国、鎌倉に両管領と
云われ、元々は上杉姓ですが一方を山野内殿、もう一方には扇ケ谷殿が居りました。 
この扇ケ谷殿の家老に太田備中守資清と言う人が居り、其の子息の左衛門大夫資長と
云う人が出家して道灌斎と名を改めました。 この人は文武両道に秀で、とりわけ築城術
に長けていました。 当時、武州川越の城主でしたが鎌倉との連絡の為に江戸付近に
城を一つ設けようと、あちらこちら場所を物色して、初めに元吉祥寺の高台に築こうと地面
取りなど始めました。 

そんな或夜夢のお告げがあり、今お城にしようとしているところへ行き、葉付の竹を二三本
を城の形に差廻し、それから土地の者を呼び出し、その竹より内の村名を尋ねなさい。
土地の百姓達が云うには千代田、宝田、祝言村と云う三ケ村と答えます。
道灌斎はそれを聞いて国の名は武蔵、郡の名は豊島、今城を築こうとしている村は三ケ村
ともめでたい名である、此地に城を築けば末々まで栄える事間違いないと考え、この場所に
決めたということです。 従って関東入国以前迄はこのお城は千代田が城と云ったと承って
います

註 
御当地 江戸をさす
元吉祥寺 現在の水道橋付近
縄張 建物の位置決め、地面とり
城取 築城
太田道灌 (1432-1486) 室町時代の武将、江戸城を長禄元年(1457年)に築く(鎌倉大日記)
関東入国 徳川家康が天正18年8月(1590年)に国替で、駿河から江戸に移った時を言う


2
     城内八方正面の矢倉について
質問、ご城内に何処からみても正面に見える八方正面の矢倉が有ると云う事ですが
どの矢倉の事ですか
、現在の富士見の矢倉と云うのが八方正面に相当するとのことです。 私が若い頃
北条安房守殿が小川町の屋敷で氏長雑談の折りに、八方正面の矢倉など太田道灌
がいかに優れた築城名人と云っても技術だけで造れるものではない。 第一に其の地形
により、次に地面取りのやり方によるものである。 諸国に多くの城があるけれども八方
正面の矢倉というものははめったにないものである。 従って当ご城内にある事自体が
不思議なことである。 是によって御当家がご繁栄する印でしょう、と皆が云われるのを
福島傳兵衛、相良加兵衛、奈良十郎右衛門および私四人一座の場で承りました。
福島が其後遠山傳兵衛と改名する前の頃の話です。

註 
北条安房守氏長 (1609-1670) 後北条の一族、甲州流軍学の流れを汲む兵学者、旗本でオランダ築城法、攻城法を伝聞し、将軍家光に奏上した


3
      ご当地が繁昌勝地である事
質問、ご当地は四神相応の縁起の良い土地と世間では言われて居りますが間違い
なくその通りですか。
答、北が高く南は低く、東西に河がある場所を四神相応の地と昔から言い伝えられ
て居りますが、ご当地はその趣旨に合っており四神相応の地と申します。
然しながら天下を治められる方の御座される場所である以上は、繁昌の勝地と
いう場所でなければなりません。 理由は公方将軍であるお方のお膝元として
天下万民が集まって来るわけですから、地元の者だけの生活環境では用が足らず
海や川の運送が自由に行われ、 諸国の荷物等も潤沢に集まる様でなければ
なりません。 そんな訳で慶長年中に東照権現様が天下を統一された後も変わらず
ご当地を御座城とされたとの事です。 ご当地は四神相応の地形に加え繁昌の勝地を
兼ね備えた場所柄と云うべきと聞き伝えております。

註 
四神相応
(しじんそうおう) 風水では北(玄武)には高い丘、又は山、 南(朱雀)は低い湖、または海、 西(白虎)に大道、 東(青龍)には流れ(河川)がある地がよいとされている。 京都、大宰府などもこの形になっているという 
東照大権現 徳川家康の神号


4
         ご城内の鎮守について
質問、ご城内の鎮守と云うのは紅葉山に立っておられる東照権現様を指しているとの
ことですが、天正年中のご入国の時以後城内に鎮守の社と云うものが無くても事が
済んだのでしょうか。
、 其の件について私が承っておりますのは、天正十八年八月のご入国の時榊原
式部大輔殿がご入国準備を承り、其の他青山藤蔵殿、伊奈熊蔵殿、板倉四郎右衛門殿、
更にそれまでのご領地である駿河、遠江、三河、甲州、信濃へ配置されていた役人衆は
早々に江戸表へ出て来るようにと仰出されました。 

其の当時御城内は前の城主である遠山左衛門の居宅が其のまま残って居るとは申し
ましても、長いろう城のため城内は手入れもせずそのままにしてあり、至るところ破損して
おり其上板で葺いた屋根の上を土で塗り固めて居りましたので、雨漏りがして畳、敷物も
腐っていました。 これを全て修覆のご指示をされたので、諸役人は昼夜分かたず骨を折り、
漸くご入国に間に合わせる事できたとの事を、長崎彦兵衛という甲州御代官の手代を
勤める老人が常々物語しているのを承っておりました。

権現様が小田原から当お城へお移りになるとき、榊原式部殿を召され「城内に鎮守の
社はあるか」と問われたので、「是より北の方に当たる曲輪内に少なくとも二つございます」
と申上げると、早速ご覧になりたいとの上意があり、式部殿ご案内申上げ彼所に行かれ
ご覧になりました。 
其処は小坂の上に梅の木が沢山植えてあり、其の中に二つの社が安置され、道灌は
歌人なので天神の社が建立してありました。 残る一社の額をご覧になり拝礼された
上で「なんとも不思議な事も有るものだ、当城に鎮守の社が無ければ坂本の山王を勧請
しようと思っていたが是は山王の社である」、と上意があり式部殿は承り、「如何にも奇妙な
ことでございます、これはひとえに当お城が末長く続き、御家繁昌のしるしでございましょう」
と答えられたところ、「いかにもお前の云う通りである」との上意で、大変ご機嫌の様子に
見えたと聞いております。

又質問、この二つの社は其の後どうなりましたか、今ご城内には見かけませんが。
、全体的に見て江戸の普請の始めは御本丸から始められたそうです。
理由は城を開いた道灌にしても、其の後の遠山丹波守左衛門にしてもいずれも上杉家
や北条家において小身の侍大将の居城であり、関八州の守護職を勤められる権現様の
御座城になる事は本来ならあり得ないものでした。
そのため、ご入国以後万事を差置いて本丸の普請にお取掛かりになり、それまでは本丸
と二の丸の間に幅十間余もある殻掘などあったものもを埋させられたとの事です。 
この普請の際、北の丸内に有った山王の社は紅葉山へ引移すようにご指示があり、宮など
も軽く新たに造営されました。

天神の社は特にご指示が無かったので普請の邪魔になる、との事で平川口の門外の堀端
へ持出し、其のままにして置いたとの事です。 これら二つの社の跡地は梅の木が多い事
から梅林坂と云われるようになりました。
 
其後、秀忠公に若君様方がご誕生になりましたので紅葉山の山王へご参詣になり、
ご機嫌よく成長されました。 以後諸大名方やお旗本衆、町人達迄も紅葉山へ氏神詣で
を致しましたので段々と繁昌し、更に秀忠公から社頭も結構にご建立いただき、今は其の
社は上野に残っております。

又質問、その平川口お堀端に持出された天神の社は其の後どうなったか聞いて居られ
ますか。
、ご入国の当時迄は下町と云って一町にも満たない平川門外に平川町と云う所があり、
夫より現在の麹町の方へ続く甲州海道が有ったそうです。
この平川町にあった薬師堂の別当が天神の社を預りたい、と願い出て薬師堂の片脇に
移して置きましたが、その場所も御城用地になったので当時麹町辺で氏神にするような
社も無かったので、平川町からこの天神の社を麹町に移し氏神として詣で、次第に繁昌し
今では平川町の天神と云って大変な社になりました。 上野のご門主の支配となり昔
からの能薬師堂も社内にあります。

又質問、紅葉山に秀忠公が建立された山王の社は今東叡山寺内にありますが、いつ頃
からどのような理由でここにあるのでしょうか。
、私が聞いて居りますのは、家光公のご幼名を竹千代様と云い、駿河大納言忠長卿の
ご幼名を国松君と云いました。 ご兄弟はご同腹でしたがご次男国松君のことを御台様は
特に可愛がられ、ご次男ながら御嫡子にお取立になるのでは、と下々では取りざたし、
上の方々も国松君をとりわけ尊敬されていたとの事です。 お部屋もご本丸内に向かい
合っており、ご近習衆が宿直の際に両君様へお世話に伺う事になっておりますが、国松君
様のお部屋ばかりへ参られる人が多く、御台様よりのご指示でこちらには種々の夜食など
もあるのに、竹千代様の方へはそのようなものもたまにある程度で、徒然にお暮らしに
なっていました。

永井日向守殿だけは当番の時には必ず竹千代様のお部屋に伺われますので、春日の
局も大変お喜びでした。 ある宿直のとき日向守殿がお部屋に伺った節、春日の局が
お側に居られる日向守殿へ云われるには「未だに若君様のおひろめ等無いのはどうした
事であろうか」と云われ、竹千代様が云われるには、「其方が兄信濃守等はきっと知って
いるだろうから尋ねて見よ」との御意があり、日向守は畏まって明朝行って尋ねて見ますと
申上げられました。

翌朝お城より直接舎兄の信濃守殿方へ行かれ、少しお目に掛かりたい旨申し入れられ
ました。信濃守殿は舎弟がお城の泊明から直接参られたので不審に思われ、早速出て
何事かと尋ねられたので日向守殿は、「別の事は有りませんが竹千代様から御意
の趣が有るので参りました」、と申されるや否や信濃守殿は坐を立たれました。
日向守殿は「なぜ御意を述べない内に坐を立たれる」、と咎められれば信濃守殿は
顔色を変え、「竹千代様の御意をこの格好で承るのは恐れ多い、そなたもお城から直接
来たのでまず仕度をしなさい」、と云って部屋に入り衣服を改めて出て来られました。

日向守殿を上座の方へ通し謹んで仰の旨を承って後、「今日登城し、同役達と相談の上
追ってご返事申上げる」旨答えられ、「そなたも今晩でも明朝でも来なさい」と云われたので
其の日の夕方、日向守殿は再び立寄られました。 
朝のように日向守を上座へ通し、信濃守殿が謹んで申上げられるには「今日御用のついで
があり、万民の安堵の為若君様のお披露目をお願いします、と同役達一同で申上げた所、
公方様はお考えになられ、追って指示するとの上意にございます」、とお話あったので、
日向守殿は竹千代様のお部屋へ伺いその旨を申上げられました。

其の後間もなく春日の局が見えない、とご老中方より御留守居、年寄衆へ尋られたところ、
最近春日の局からの依頼で女中三人分の箱根関所の通り手形を発行したとの事なので、
さては伊勢参宮か、きっと竹千代様へ間違いなくお披露目が出されるように、とのお願いか、
と皆が推量しましたが、当時世間では春日殿の抜け参りと言われていたとの事です。 

春日殿は日を経て帰られたが、駿府より飛脚がきて、近々大御所様がお下りになるという
知らせであり、 従っていつもの様に小田原迄お迎をご老中方へ仰付られ、ご到着の日に
なると将軍様も品川御殿迄お迎のためお出かけになりご対顔されました。 

さて今晩は大奥へお入りになりお膳等を召し上がる、との仰なので早速お城へも知らせ
があり、御台様も滅多にない事と大変お喜びになりお待ちしました。
夕御膳になり大奥へお通りになり御台様へご対面も済み、将軍様御相伴でお膳を召し
上がる所、両若君様方も御相伴とのことで御膳を用意しました。 
その時、大御所様は国松君の御側付の女中へ向かわれ、「竹千代が相伴するのは当然
だが、国が相伴とあるのは無用である、連れてゆけ」、と云われ席を追い立てられました。 
そして御台様へ向かわれ、「一般に天下の主となるべき者は兄弟とて同様にするのは甚だ
悪い事である。 国松が無事に成人すれば国郡の主となって竹千代の家来となり奉公
しなければならない。 従って幼少よりの育て方が大事であり、結局それは国松の為でも
ある」と言われ、 将軍様の方をご覧になられ、「あの人稚立に竹千代は少しも変わらない、
従ってひとしお我等の秘蔵であるぞ」、と云われるので将軍様も忝いお言葉と、ご挨拶
申上げられましたが、御台様は特にお言葉もなく、赤面なされご当惑の様子に見えられ
ました。 其の後大御所様は上総の東金辺へお泊掛御放鷹に出かけられました。

この後竹千代様のご様子は以前とは格別にかわられ、国松君のお部屋へだれもが伺う
という事も無くなりました。 このことは春日の局が伊勢参宮に向かう途中、駿府のお城へ
も上り申し上げたのは事実のようだ、とある人の話を聞きましたが時代も隔て、其上公辺
むきの細かなことをは知ることが出来ないので、虚実については推し計り難いが、唯この様
な説もあるということを知って置くのもよいでしょう。

これらの経緯のように、家光公は偏に権現様のお蔭で天下のお譲りをもお請けに
なられたで、特別に東照宮様をご信仰なされ、天海僧正へ相談され御本丸の庭内に、
前将軍様が西の丸より入りなされるのに目障りにならない所に権現様のお宮を小さく
ご建立になり、常に拝礼されていたとの事です。 其のお社は今紅葉山お宮の後の方に
残っていると承っておりますが、どうなのか存じません。 

そんな訳で台徳院様(秀忠)がご他界以後は十三ケ月の服喪が過ぎると天海僧正へ
ご相談され、今後は東照宮様を当お城の鎮守とされる旨仰出され、前から紅葉山に有った
山王の社は上野の山内へお移しになり、其の跡に現在のお宮をご建立され、ご神体は
元和四年浅草寺内にご建立されたお宮の神体をご遷宮になり、其の時浅草寺観音の
別当、観音院にお供させたので今も紅葉山のお宮は諸事を浅草寺からお勤めして
いるそうです。

又質問、元和年中に下野国日光山にお宮を建立された事は天下の誰もが知っている事
ですが、浅草寺内に東照宮様のお社を建立された事は承って居りません、浅草寺の
今どの場所を指してお宮の跡と云うのでしょうか。
、権現様が駿府のお城にでご他界なさる時、前より後事を板倉内膳正殿へ託されて
居た中に、日光山お宮は江戸より遠いので、江戸でも諸人が参詣できるようにお宮
を建て置くように、しかしその為に新規に開山する必要は無く、 幸いに浅草寺観音堂が
あるのでその傍らに手軽く建立する事、と申し置かれていました。 

ご他界以後日光山お宮建立を進めているときに、江戸のお宮の件が内膳正殿より伝え
られたので、日光山のお宮普請が始まると共に浅草寺山内のお宮普請も始りました。
日光のお宮が出来たのは元和四年四月十七日、ご遷坐の節に浅草寺内のお宮でも
御遷坐のご規式があり、諸大名方、お旗本衆各々参詣されたそうです。
其のお宮跡と云うのは今の観音堂ヘ行く時に左の方に淡嶋大明神の社が有りますが、
その辺の全て竹薮と木々は以前のお宮の跡と伝えられています。 お宮場所は廻り全体に
堀があり、本社へ行く門前にかかる石の橋は今でも残って居ります。 其の内お宮付の
護摩堂はお宮類焼の節も焼残り、今は不動堂に使用して居ります。気をつけてよく見ると
所々ご紋が付いて居るのが見えます。

又質問、あなたが聞かれている通りとすれば権現様ご在世の節に差図なし置かれた
お宮であれば、其のままずっと浅草寺内に有るべきところ今そのお宮と云うのは上野の
地の内に建立されていますが何か理由があるのですか。
、元和年中迄の観音堂は北条家による建立であり、武州河越の城主大道寺駿河守が
これを奉行したと棟札にも書付てあるとの事です。 しかし数年経ち多くが破損し諸堂とも
傾き苔むしていたのに、東照宮様のお社は近年のご普請であり光輝いて居りました。 
従って昔からの観音堂の大破は特に目立ち見苦しいと云う事が幕府にも聞こえ、或時
千住辺の御鷹野に行かれる時観音堂の近所をお通になり、 諸堂の大破の様子をご覧
になり、その後観音堂ご建立を指示されました。 

諸堂共ご普請出来上り、其の節別当、観音院と内藤右近は親しかった為、山門の近所、
東面の方で今の火除け空地のあたりを借地し、この右近殿から家作等を頼まれていたところ、
その家内より出火し折からの南風が烈しく直接山門より吹き付け、夫より段々焼け広がり
本堂を始め諸堂残らず焼失し、その上権現様お宮辺迄も類焼したそうです。

このような次第だったので別当より重ねてご建立をお願いする訳にも行かず、内々に諸堂
は差置いても観音を安置する本堂だけは何とか軽くご建立下さい、と願出てもお取上げも
無いところ、或時別当をお城へ召し出され、阿部豊後守殿を通して仰せ渡された事は、
元来浅草寺は幕府より建立地としたわけでは無いけれど、思召しによりご建立されたもの
なのに自火も等しい門前より出火し、諸堂総べて焼失してしまい、その上お宮迄も類焼
するとは不調法の至りである、従って再興は在り得ない事で有るが、又観音堂を建立
なされるという事で、別当は勿論一山の僧侶達に至る迄有り難き仕合せと存じておりました。
東照宮のご神体は先だって紅葉山へ移されており、今はご拝殿迄なさっているので当分は
建立を引き延されるべきである旨も仰せ渡しとの事です。 その時ご建立の諸宮が今の
観音堂です。私が十一二歳の時の事と承りましたので、今年より七十六七年以前の事にも
なります。

又質問、現在紅葉山お宮のお供所の前にある石の御手水鉢に浅野但馬守長晟、と名前
が彫ってあり皆が不審に思っておりますが、一般に紅葉山お宮へ献上されるのは御三家様
方の外には無いはずなのに、外様大名衆の中で但馬守殿壱人に限って御手水鉢を献上
されたのは何故でしょうか。
、この但馬守殿のご内室は権現様の姫君で、始めは蒲生秀行方へ御縁付されましたが
蒲生飛騨守が死去のため、浅野但馬守殿へ御再縁になられ紀州の御前様と称しました。 
東照宮お社を浅草寺内へご建立されるので御手水鉢を献上なされたいという事で但馬守
長晟と銘には彫り付けてありますが、実は姫君様のご寄進であるので浅草寺のお宮跡
焼残ったものを紅葉山へ移されたそうです。 従って元和四年
と彫り付けて有るのだと
承っております。



曲輪(くるわ)城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画。
御入国 家康江戸入国、天正十八年八月 1590年
江戸城の山王 太田道灌が文明10年(1478年)江戸城築城時川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である日吉社を勧請に始まる、始め現在の着の丸に有った物を秀忠が紅葉山に移し、其の後城外にも造り、城内のものは家光のときに上野寛永寺へ移設
坂本の山王  滋賀県大津市坂本にある日吉大社は、俗に山王権現といい全国の日枝神社の総本宮。
  平川町の天神  現在麹町にある平河天満宮
榊原式部大輔 康政1548-1606 酒井忠次、本多忠勝、井伊直政と共に徳川四天王といわれ、徳川体制の基礎造りに貢献
青山藤蔵 播磨守忠成 1551-1613 家康側役人、江戸奉行、関東総奉行
伊奈熊蔵 忠次 1550-1610 家康旗本初代関東郡代、利根川改修に貢献
板倉四郎左衛門 伊賀守勝重  1545-1624 家康旗本 文官、江戸町奉行、京都所司代を勤める
遠山丹波守綱景(?--1564)後北条家臣、江戸城代 国府台合戦(上杉と後北条の戦い)で戦死
天海僧正 1536-1643 天台宗、1609年家康に見出され家康、秀忠、家光の三代に仕える
家康 1543-1616 将軍職1604-1605、大御所大坂夏の陣で名実共天下統一1614
秀忠 1579-1632 将軍職1605-1623、台徳院
家光 1604-1651 秀忠次男(世子)将軍職 1623-1651、大猷院。
忠長 1606-1833  秀忠三男、 駿河大納言、後改易、自殺
永井信濃守 尚政 1580-1660、秀忠近習、古河藩72000石、後淀藩100,000石、 老中1622-1633 
永井日向守 直清 1590-1670、小姓、後 摂津高槻城主36,000石
板倉内膳正 重昌 1588-1638 勝重三男、家康近習、後15,000石、天草の乱で討死(勝重の嫡男重宗1586-1656、周防守、京都所司代)
大道寺駿河守 政繁 1533-1590 北条家臣、鎌倉代官、川越城主、秀吉の小田原攻めで降伏、後切腹。 大道寺友山はこの政繁の曽孫になる。
阿部豊後守 忠秋 1602-1675 忍藩主、老中、寛永六人衆の一人
蒲生飛騨守秀行 1583-1612 会津藩主60万石 家康の娘振姫と結婚、若くして病死
浅野但馬守長晟 1586-1632  和歌山藩主38万石 後広島42万石に移封 
下線部分 底本で欠落と思われ他写本から追記

5
        西御丸について
質問、現在の西丸は何時頃の築城ですか。
、私が承っておりますのは関東ご入国の節、今の西丸の所は野山で所々に田畑など
もありました。 春は桃、桜、つつじの花も咲き、江戸中貴賎の遊山所になっており、
天地庵と云う常念仏堂なども有ったそうです。
その後に権現様の御隠居所としようとのことで外構のお堀、石垣等も出来てその中に
お屋敷も立ち揃い、その後はご新城と云われていたようです。従って御本丸とは別に
なっており、紅葉山下通りを半蔵御門の方へ行き抜けで往復でき、御新城の築城以後は
紅葉山を諸人の慰み所にしたとの事です。

それまでは御新城を御隠居所にもとお考えの所、関ケ原ご勝利以後天下一統になり、
駿府を御隠居所となされることになったので、御新城も曲輪の内となり、紅葉山下と坂下
の両所に締りの門ができ、御本丸と一構になりました。 そのため山王の社へ参詣も
出来なくなり、貴賎とも氏守詣に困っているのが上聞に達し、半蔵門の外のお堀端へ
山王権現の社を新たにご建立され、別当に西教院、神主には日吉大膳を仰付られ、大変
繁昌していました。 しかし酉の年の大火の節類焼し、以後現在の山王の宮地へ
引移されたとのことです。

又質問、そなたが聞いて居られる通りとするなら西御丸の普請がされる以前は定めて
現在の西御丸下の曲輪なども無かった筈ですが、ご入国の頃西御丸下あたりの様子は
どの様だったと聞いておられますか。 
、関東御入国は随分昔の事なので私達の年代の者でも分りませんが、私が若い頃に
小木曽太兵衛と云う者が居りました。 彼は権現様が浜松に居られる時、親に次いで
鉄砲同心で、天正十八年の小田原陣の頃は拾八歳で駿州よりお供をし、其のままご
入国のお供を致し、関ケ原、大坂冬夏両度の陣にもお供した者です。 年老いて倅を
ご奉公に出し、自分は隠居しておりましたが、私達の養父が理由があり、彼を身近に
置いて面倒見ておりましたので、私達も幼年の頃よりこの太兵衛が物語するのを朝夕
聞きました。 
末端のご奉公を勤めた者なので重用な事は分りませんが、時代柄の軽い事などを
知りたい時は浅野因幡守殿なども私達の養父へ(太兵衛への質問を)申し付けられ、
又は近習の者に直接太兵衛に尋ねさせるなど度々有りました。

この太兵衛の話ではご入国の節には現在の桜田門の場所には大扉は無く、木戸門があり
名前を小田原門と云いました。 現在の八代洲河原岸の辺には漁師達の家があり、魚等
買求める時はこの漁師の所で用が足りました。 ご入国の翌年あたりと記憶しますが長雨が
あり、それに続き南の大風が吹き高汐が上り、例の漁師町は水につかり、漁師達は船に
妻子を乗せ家財も積み込み、現在の馬場先門内あたりの畑中にある大木に船を繋いで、
食事等の準備しているところをお城へ上る途中見掛けたとのことです。

その後ご新城が出来、次に西御丸下の曲輪など出来、外桜田門が建った時、この門は
今後外桜田門と呼び小田原門の呼び方は停止される、との事を頭から厳しく云われた
との事です。
一般に西御丸下は地面が高く、そこにお堀も掘られたので大量の余土が出て、これで
漁師町近辺の葭原を大方築き立て、程なく漁師町も一続の町となり、魚屋、そのほか種々
の売買物もあり、所の名を日比や町と云い大変繁昌致しました。 その後此処は又曲輪
の内となったので現在の日比谷町へ引移ったと小木曽は語っています。

又質問、ご御入国の節には、それ迄の遠山の居城と云うのはどの様な状態であったと
小木曽は云っておりますか。 
、その件も太兵衛が常々話して居りますのは、遠山の時代の城とは石垣など築いている
ところは廻一ケ所も無く、皆芝土居で土手には竹や木が茂っていたとの事です。 
ご入国の節は本丸、二の丸、三の丸があり、其の間にはかなり深い空堀があったものを
早速埋めさせなされたので、本丸の内が大変広がり中仕切りの石垣等が出来、以前の
お城の面影も無くなり大いに様子が替りました。 

若い頃の御番に上った当時はどうであったか思い出し、現在と比べてもお堀跡など合点
が行きません。 当時外構の大手門だったところは現在の百人番所の門です。 又以前は
今の内桜田、大手門辺より三の丸平河口迄の間には掻き揚げ土居の様な惣構えがあり、
土手には竹木が生茂り、四五ケ所ほど海端へ出入する軽い木戸門があり、其内には遠山
の家中の侍達の屋敷と言う大変大きな家も有りました。 もっとも小さな家も多く、寺も
二三ケ所有りました。 ろう城の時周辺を焼かなかったので其のまま残って居り、ご入国の
節には非常に役立ったとの事です。当時の寺は間もなく外へ引かせ、其の節お金を
下されたとの事です。 

その後これらの場所は全て内曲輪になり、外大手の内桜田等の門に連なったものの、
其の内にご老中方や諸役人衆などの屋敷が有ったのも大猷院様(家光)時代迄のようです。

この外大手の橋が初めて掛かった年の八月二十五日、月の明るい夜ご老中方が申し
合わせ、橋の上に毛氈を敷き、薄縁などを広げ夜更けまで酒宴をされていたところ、御本丸
より御側衆も参加し橋の上で月見を致されていたことが上聞に達し、お重の中を下さる旨
上意があったとのこと、今では考えられない事ですが、実際にあった事の様です。


山王の社 現在の日枝神社 始め江戸城外の現在の隼町国立劇場付近に作ったが明暦三年の火災で焼失、時の将軍家綱は直ちに赤坂の現在の地に再建
酉の年大火  明暦三年(1657年)、 振袖火事
浅野因幡守長治(1614-1675)浅野長晟の長子、広島支藩、三次藩主5万石

落穂集巻一終
6
巻2
        ご城内旧来から建物について
質問、ご入国の節城内にあった遠山時代の建物は早速取り壊され、御殿など新たに
お造りになったのですか。 
、この件は土居大炊頭殿の家老達から聞かされたと、大野知石が話しているものを
聞いて居ります。 ご入国なされた節、先の城主遠山の城内建物は勿論二の丸、三の丸、
外曲輪にある家々まで其のままに残って居りましたので、当分城内では屋敷に不自由は
無かったようです。 然しながら城内の家々はこけら葺でさえ一ケ所も無く、全て日光杉や
甲州杉などで屋根を葺いており、台所はかやぶきで、家は広くとも大変古い作りでした。
玄関の上段には船板の幅の広い物を二段に重ね、板敷きは無く土間であったので
本多佐渡守殿は是を「大変見苦しく他国よりご使者等あっても応対できませんので
お玄関廻りをまず普請なさるべきです」と申上げられたところ、「お前は普段余り言わ
ないような立派な伊達を云うなあ」 とお笑いになり建物の方はお構いにならず、御本丸と
二の丸との間にある堀を埋立る工事をお急ぎになったとのことです。

又質問、そのように建物が狭くては通常の場合は良いとしても、ご家中惣出の場合等
どうなるのでしょうか。
、其後について私達が伝え聞いている事があります。 お国替の節、万事を差置いて、
ご家中の大身小身に限らず知行割を急ぐ様にと、惣奉行には老中の榊原式部大輔殿
を任命なされ、その下には青山藤蔵殿、伊奈熊蔵殿、その他御目付衆を加えられ、
夫迄のご領分四ケ国に配置して居られた代官衆、勘定の諸役人を全員ご当地へお呼びに
なり、昼夜共々知行割の業務に投入されました。 

旗本の小身の面々には江戸に近い所の知行を割渡し、少しでも知行高を取る者ほど道のり
の遠い所に知行を割渡べきであり、但し道中一泊より遠い所には知行所を割渡さない様に
と指示なされたとの事です。 
さてご御家中大身衆へ北条家の旧城地を下される知行所に付いては、いずれも御自心
のお考えで拝領を仰付られたとの事です。 

この知行割が終了後ご家中衆へ、今度下し置いた知行所にいずれも軽く陣屋を構へ、
其のところへ直ちに妻子等を引越、江戸城御番は知行所より通い勤めするようにと言わ
れたので、ご家中の大身小身ともに拝領の知行所へ直ちに妻子等を引越ましたので
手廻し早く片付きました。 小身の者は地行所の名主又は寺院等を借りて当座の居宅に
した者達も多数ありました。 又近習の奉公をされる方々、諸番頭、諸物頭、その他諸役人
衆達は妻子を直ちに知行所へ移し、自分自身と人馬だけを引連れ、江戸城近辺に場所
を受け取り、小屋掛けして奉公されていました。

又質問、そなたが言われる通りなら旗本、諸番方衆達は遠方の知行所より通い勤めは
大変だったろうと思いますが、この点どの様だったと聞かれておりますか。
答、当時はお城近所の町家にこれら御番衆の下宿をさせる所は幾らでもあり、知行所が
遠いためその町家に幾日も逗留し、自分の番だ、他人の番だと言う事も無く毎日出勤され、
御番帳に名前を書いて置けば一ヶ月分、二月分も勤めを済ますことが出来たそうです。 
その内に段々とご当地に屋敷を拝領し、小屋掛けなどして夫々家を建てられたそうです。 

例のご本丸玄関の箱段の船板も長い間お取り上げなさらず、その他御殿の普請でさえ
質素な様子だったので、御家中衆も拝領した屋敷の家々も身分に関わらず質素にして
も咎めるものも無かったということです。 これは長崎が物語るのを聞いたものです。

そんな訳でお国替えのあった年の九月十月頃には御家中大小の侍達の引越も大方終わり、
駿府を始め四ケ国の旧領はどちらへお引渡しになっても良い旨、ご使者を通し大坂から
申上げた時、関白秀吉公は浅野長政へ申されるには「三河、遠江、甲斐等は考えられるが
駿府の城迄も同様に引払うとは中々合点が行かない、どんな手回しをしたのだろう。 
一般に家康公のやる事は凡人には理解できない事が多い」、と大いに感じ入られたという事
です。 徳永如雲斎の覚書に記録されています。

註 
本多佐渡守正信(1538-1616)、家康の実務官僚、甲州経営で頭角を著す、秀忠にも信任される。相模玉縄一万石
浅野長政(1547-1611)、豊臣政権の五奉行の一人、関が原では秀忠に属す、長晟の父



       増上寺と浅草寺について
質問、江戸表においては三縁山増上寺を菩提所とし、金龍山浅草寺を祈祷所にする
と発表されたのはご入国以後と聞きますがその通りでしょうか。
、この件については色々の説があったと聞いております。私が聞いているのは、
権現様がご入国なされた頃は天正十八年八月上旬というのは間違いございません。
ところで北条家を滅ぼしたその跡をご拝領なさる事は前から決まっていた事でしょうか、
権現様は小田原へ着陣なされた後、江戸表において祈願所にもなるような天台宗の寺
一つ、菩提所になるような浄土宗の寺一つを推薦するよう指示されました。 

浄土宗にて相応の寺と言えば伝通院、増上寺の二つだけです、 其の内伝通院は古跡
ではありますが少し田舎になります。 増上寺は前に海、後に山を抱へ大変眺めの良い
場所で、其の上江戸城の近くにあります。  さて他に相応の祈祷所として浅草寺観音堂
以外に天台宗の寺は見当たらないようです。 これら報告されると直ちに増上寺の住職と
浅草寺観音堂の住持である観音院を小田原陣所へお呼びになり面会され、両寺共に
境内乱妨禁制の書付を下されました。 

其の時ご祐筆の衆よりこの書付を認め差上たものをご覧になり、浅草寺へ遣す書付は
卯月日と認める様に言われるので、ご祐筆方が答えられるに、一般にこの様な書付には
月の異名は書かないのが書法である旨申上げたところ、重ねて上意で増上寺は菩提所
なので四月日と認め浅草寺ハ祈祷所なので異名で良い卯月日と認めよ、と言われた
との事です。 かなり昔の事ですから本当か否かわかりません。

当時の観音は古跡とは言うもののあまり繁昌しておらず、寺中の坊数なども昔から三十六
坊と伝えられておりますが、其のうち十坊ほどが清僧で残りの坊中は皆山伏同様の妻帯
肉食の坊主達でしたから、幕府のご祈祷には不都合ではないかと皆が噂をしていましたが、
何のお構もありませんでした。
当時は正月、五月、九月に定例で城中で大般若転読の祈祷が義務付られ、その他
公儀のご祈祷なので、観音堂で修行する際は清僧達が出て勤める様にと言われて
おりました。 妻帯の坊主は自ら寺中の徘徊もやりにくくなったので、ある者は我子を
清僧に仕立て、又ある者は弟子を清僧に仕立てて寺を譲り、自分は寺内に隠居所を
構へて引篭り、間もなく浅草寺の山内は自然に清僧になったそうです。


8
         神田明神について
質問、ご入国の節は神田大明神の社も城内にあったと言いますが、どのように
聞かれておりますか。
、この神社が城内にあった事は無く、今の酒井讃岐守殿上屋敷の場所が昔からの
明神の社地であり、ご入国当時は地内に大木が生茂り、その中に小宮居があり、毎年
九月祭礼の節には、この木立の中に幟を立ならべ、田舎、町方から栗柿を始め種々の
売買物を持出し人出も多く賑やかだった、と小木曽などの物語りで聞いております。 

その後数年過ぎ、その辺も曲構内になる時、明神の社も移動しました。
この社地跡は土井大炊頭殿の居屋敷に下され、神田御門の矢倉等も大炊頭殿へ仰付
けられたそうです。 大炊頭殿の代より御子息の遠江守殿代になっても、水車の紋が
付いた幕が張り廻られせていたのを私も覚えています。

当時は門外の橋も大炊殿橋と言っていたようです。 この移動に伴ない今でも神田祭礼
の節は屋敷表門の前に神輿をおろし、屋敷主から馳走の鉢等出されます。

又質問、この明神祭礼の節、神事の能興行というのは昔からある様に聞いて
おりますが、近年始まった事でしょうか。
答、神田祭礼というのは申上げたような理由で昔から神事能などがあった訳ではありません。
京都において関白秀吉公の時代に暮松大夫と言う者が居り、大変秀吉公のお気に入り
でしたが、何か理由があって上方の徘徊を止めてご当地へ下って来たとの事です。 当時
は有名な猿楽役者達が江戸へ下るのは稀であり、折から暮松大夫が思いがけず下って
きましたので、武家、町方問わず乱舞の好きな者は誰でも暮松大夫に馳走をし、中でも
大伝馬町に住む五霊香という町人は乱舞が大好きで、特別に暮松を取り持ち、年寄の
佐久間などの子供迄も暮松に弟子入させ、自宅内に舞台を設備し稽古能の興行を
始めました。 その後年寄達と相談して、暮松の助力の為に神田の社地で神事能を始めた
節、町年寄達の協力で江戸中よりカンパを行い、夫を集めて暮松方へ渡したので彼は
安心して生活が出来たと言う事です。 

その後この暮松は他界し、子供も幼少なので興行も取り止めになる所、関ケ原の戦以後は
四座の者達を始めご当地へ下って来たので、神田神事能は再興しました。 観世大夫方へ
頼込む計画もありましたが、北条家が繁昌していた当時北条氏直は能が好きで、保生
四郎左衛門という者を能の師匠として招かれたので、保生大夫は上方から病気で隠居する
旨申し立て小田原へ下り、氏直へ扇の指南をしたとの事です。 それで小田原中は全て
保生派となったところ、天正十八年に北条家断絶となったので、氏直が抱えていた役者達を
始め町人でも乱舞を好きな者迄全てご当地へ下ってきて渡世している内に、前に述べた
ように暮松大夫が下って来て神田能が始り、小田原崩れの役者達もこの能舞台に出て
勤めているのを、保生大夫を贔屓する暮松が自分の跡代りとして取持ったとの事です。 
虚実は分りませんが、私達が若いときある老人が物語るのを聞きました。
この暮松の子孫は現在この神楽打の頭と成ったそうです。


下線部分: 対応底本にないため別写本より追加
猿楽: 室町時代は観世、金春の二派あったが観世から保生(宝生)が、金春から金剛が派生し江戸時代は四派となる 
北条氏直: (1562-1591)小田原北条家五代目1580家督相続、1590の秀吉の 小田原攻めで降伏、家康の娘婿のため赦免、病死、 幼名 新九郎、官職 左京大夫

9
       江戸の町つくり
質問、関東ご入国以後町つくりは何処から始められたと聞いておられますか
答、長崎や小木曽等が常々話して居りました。 まず今の日本橋筋から三河岸通りの
竪堀の掘割りから始め、夫より段々と竪堀、横堀共に出来ました。 その揚土は堀端に
山のように積上げてありましたが、諸国より集まって来た町人達の願いにより町家を割渡し
されたので、好きなようにその揚土を引取って地形を築き屋敷とし、表通りには葭垣など
残し、追々家並が整い住み付く者も出て来ました。 始めのうちは町屋を願い出るものも
少なかった所、伊勢国の者達が多数来て屋敷を希望したので其の通り町家が出来、表に
掛ける暖簾を見ると壱町の内半分は伊勢や書いてあったとのことです。 

但し東の方ほど地形も低く、城内からも隔たり繁昌出来ない様子が上聞に達したので、
遊女町をお許しになり、いばらの場所を拝領させたので四方に堀を掘って地形を築き立、
建物を整え遊女達を多数集めて置きました。 昼の間は諸人が訪問したものの、道筋左右
とも暮になると人通も無く営業にならないので、葭原町から女歌舞伎をお許し下さいとの
願いがあり許可されました。
町中に舞台を掛け、桟敷をかまえ踊芝居を始めましたので、当時は京都や大坂にも無い
見物事であるとして貴賎共に人気を呼び大変繁昌し、細道の左右にあった葭も切払い、
江戸中から出店がでて茶屋等も多数並びました。 以後葭原町からの願い上げは、
今は泊り客も多く営業状態も良くなりましたので女歌舞伎を止めて、その芝居跡を町家に
したいということで、願の通り許可されました。 

その後猿若彦作と言う狂言師が願い上げしたのは、京都や大坂等も昔からあるように葭原を
切開き、町家を作り若衆歌舞伎を始めたいと言う事で、是も又願いの通り許可されたので、
現在の堺町を作り、踊子を集め狂言芝居を始めたということです。 私達が幼少の頃迄も
この彦作はかなりの年寄りで狂言などやっておりました。 その弟子に猿若勘三郎と言う者
が居り、その子孫が今も其処で芝居興行をしております。

以前踊子達は皆前髪立にしていたところ、石谷将監殿が町奉行の時何処かへ振舞に行かれ、
其処で浪人児性だと言う者が出てきて、酒の相手をして大変利発な態度に見えたので、
将監殿が相客衆へ、あの浪人児性は何者の倅だろうか、我々が安心できる児小性を集めて
いるので雇主を呼べという事なので、相客衆がそっと、あの者は堺町にある歌舞伎の踊子で
あり、そなた等がおせっかいすべきでは無いとの事でした。 

将監殿はこれを聞かれて帰宅すると其のまま与力同心を堺町へ送り込み、名主へ申し付け、
今夜中に踊子達の前髪を残らず剃落させる事、但若衆歌舞伎は許可されているので、踊子
の中で大夫一人ハ前髪を立て置く様にと申し渡し、その夜中に悉く今の通りの野郎あたまと
なったそうです。 同役の神尾備前守殿へも翌日お城で将鑑はこの件を伝えられたそうです。


石谷左近将監貞勝 北町奉行在任 慶安3年(1650)~万治2年(1659)
神尾備前守元勝  南町奉行在任 寛永15年(1638)~万治4年(1661)
女歌舞伎 遊女歌舞伎とも言われ風紀の上で1629年(寛永6年)禁止され若衆歌舞伎となる
若衆歌舞伎 風紀上の理由で1652年(慶安五年)禁止となり、以後野郎歌舞伎となる

10
       小僧三ケ條とは
質問、権現様の時代に小僧三ケ条の話を諸役人方へ雑談の折り、お聞かせになったと
世間で言われて居りますが、そなたはどう聞いておられますか。 
、この小僧三ケ条については世間で色々な説があるようです。私が若い頃聞いて居り
ますのは、ある時権現様の前へご用で諸役人達が出仕の節、お前達は小僧三ケ条と言う
事を聞いた事があるか、とお尋ねになったので、誰もそのような事を聞いた事はございません
と申上げたところ、それでは話して聞かせようとの上意で雑談なされました。 

ある田舎の寺へ其処の旦那百姓がやってきて、私達は子供が沢山居りますので壱人は
お寺の弟子に出したい、との願いなので頭を剃り受戒などさせて置いたところ、ある時その
小僧が親元へ逃げ帰った。 師の坊主から呼びにやったが帰らず、その後両親が来て
言うには、私達の倅はもうお寺へは返しませんし、あなた様をご出家とも見なしません、
まだ年も行かぬ小僧にご無躰な事をなさると、腹を立てている。 師の坊主は、両親の願いに
任せ私の弟子にはしたが、是非取戻されるというのもあなた達の心次第です、然しながら
どんな理由なのかと尋ねれば、親達が言うには、小僧がお寺より帰って私達に聞かせた
ことが三ケ条あります。 

第一は朝夕味噌の擦り方が悪いと言って叱られ、第二はお坊様の頭の剃り方が悪いと
言って叱られ、次は用事をたす時に雪隠へ行くと言ってお叱りとの事、これは全てお坊様
のご無理というものです。 年も行かぬ小僧の小腕で味噌を擦ってもよく擦れない筈です。
ましてやお坊様の頭を小僧のお剃せになるのは、是も年の割にはよく剃れた筈です。 
又用をたすのに雪隠へ行かず何処へ行けと言うのですか、と居丈高に罵るので、住持の
僧が言うには、小僧の口を誠と思う親の身になればそのように言われるのも当然だが実は
全くそうではありません。 

一般に味噌は摺子木で擦るものの筈なのに、小僧は杓子の甲で擦るので当寺にある杓子
は全て割れてしまいました。 其の上私達が来客用にとしまって置いた杓子の甲迄もこの
ように割れてしまいました、と言って全て取り出して見せました。

さて雪隠の事は近くにある通常の雪隠へは行かずに、近頃代官が在回の節当寺を宿として
泊られる時の為にと、村中の世話で客殿の脇に作った雪隠ばかり通うので無用と言ったものです。

さてまた私の頭を小僧に剃らせたことについてそなた達に知って貰いたい。 小僧は剃刀を
上手に遣い覚え自分の頭も自分で剃る事が出来ます。 又人々に頼まれれば誰の頭でも
上手に剃っているので、私の頭を剃らせたところ、わざとあちこち切りつけ、このようであると
頭巾を取って見せたので、親達は大変恐縮しました。

一般に夫々の役に掛かる者はこのような軽い事で一方から聞くだけでは真実でない事がある
と心得るがよいと上意を話し聞かされました。

11.
         鳶澤町について
質問、ご入国当初は町中に盗賊どもが沢山入り込み大変だったと思いますが、お仕置
を厳しくしてこの盗賊どもが退散したというのは本当ですか。
答、そなたの言われる通り、盗賊どもが各地から集まってきて非常に物騒になりましたが
このことが権現様のお耳に届き、ぜひとも盗賊の親玉なる者一人を召捕るようにと
奉行中へ指示されました。 間もなく関東で有名な賊の大将である鳶沢という者を捕まえ、
牢に繋いでおりますと申上げた所、其の盗人を召し出され、お前は本来お仕置きにする
ところであるが、命を助けるので働いて他の盗賊どもが当地に入り込まないように工夫
せよ、と言いつけられました。 

鳶沢は命をお助け戴いた事は有り難く存じますが、他所より入り込む多くの盗賊どもを私
一人の力では防ぎ様もありません。 ついては何処でも結構ですから屋敷の地を下されば
そこに私の手下どもを呼び集め住まわせ、其の者どもへ申し付け監視させたく存じます。 
しかしながら私の手下の者どもも盗みを止めては生活の手段がございません。 そこで当地
にて武家屋敷、町家に限らず他のものが古着を買い付けるのをお止めになられ、私を古着
買いの元締めにご指名下さい。 遊女町の近辺に一町四方の葭原を屋敷にくだされるならば
夫を切開き、其処に住み手下を各方面へ配し、ご命令のように盗賊の監視を行いますと
申上げたました。

其の通りにするようにと、屋敷地も下されたのでこの葭原を切開き、鳶澤町と名付け町家を
作り、手下の盗人どもを古着買に仕立て方々へ派遣したので、見知らぬ盗賊どもがご当地
へ入り込むことも出来なくなったとのことです。 

そんな訳で私達が若い頃迄は古着買いと言うものは必ず二人で布製の長い袋を持ち、
壱人が「古着」と呼べば、もう壱人は「買」と呼んで町家の軒下を左右に分かれて歩き、
其かたげ袋の口を二ツに裂き、はずれを麻縄で巻き、其下に鳶澤の印が付いていました。
また盗人以外の素人も古着商売をしようと思えば、鳶澤の手下にして貰い、例の袋を支給
されたとのこと。 次第に世の中も落ち着き、盗賊の問題も無くなってきたので古着買の件
は無くなり、鳶澤町も富澤町と文字を書き改め、葭原町もいつの頃からか吉原町と
改められたと承りました

12
          博打厳禁のこと
質問、ご入国の際ご当地において博打が流行っており、これはお仕置を厳しくした
ので早々に無くなった、と言う説がありますがどのように聞いておられますか。
、権現様は浜松、駿府に居られる時も博打は諸悪の根元であると、の上意によって
御城下は勿論、四ケ国の御領内でも厳しく御法度にされていましたが、関東へ御入国
された頃はご当地(江戸)だけでなく全体的に関八州とも、北条家の取締りが緩んで
いた後だけに僧俗、男女の区別なく大体において博打を打つ事がお耳に入り、
板倉四郎左衛門殿、その他物頭衆に申し付け、厳しく御法度になさいました。

当時は盗賊共も多く盗賊共は牢に繋ぎおかれましたが、博打を打つ者は少しの猶予も
無く召捕り次第片っ端に処刑するよう命じられました。 其の当時浅草辺で博打を打った
者を召し捕らえ、五人一緒に獄門に掛けてある所を御鷹野に行かれる時ご覧になり、
お帰りになると博打取締りの関係者をお城へ召され直接言われた事は、一般に罪人を
処刑し、其首を獄門に掛け晒しておくのは人々に対する見せしめのためであるのだから、
五人一座の博打であれは何月幾日、何処で、どうして、こうなったと札に書き一箇所に
限らず何処でも人出の多い場所に晒させるようにと指示なさいました。 以後拾人一坐の
捕り物があれば拾ケ所に分散してお仕置きを行い、首を夫々の所に掛けて置いたので
僅か二三年の間に博打問題はピタと無くなったそうです。 この博打仕置きの件は
浅野因幡守殿が私の養父に、小木曽に尋ねてみてくれと頼まれ、太兵衛は其の通りを
口書に認め差出したので良く覚えております。 

其後、嶋田弾正殿が町奉行の節も博打は厳しく取り締り、或時博打の通報があったので
同心たちを送り込み六十人程召捕り連行しました。
中に年の頃五拾歳くらいと見える坊主が一人居るので、弾正殿は其坊主に向われて、
其方頭を丸めているのに博打を打つとはもってのほかである、元々は医者か出家か何者
だと尋ねられたところ、その坊主が言うには、私は医者でも出家でもございません。 親は
忍の城主である成田殿方で連歌の執筆役を勤めておりましたが、成田殿の身上が続か
なくなり其後親も浪人となったまま死んだので、私も流浪人となってしまいました、浪々の
身で生活もできずばくち打ちの仲間に入り、火をかき立て湯茶を持運ぶことを仕事にして、
食事を貰い世を送って参りました。 従って博打と言うものはどのようにして勝負するのか
全く存じません、と言うので他の博打仲間に確認したところ、坊主の言う事に間違い無い
とのことだったので、弾正殿は坊主に、お前が連歌師の子というのが事実なら、連歌を一句
読んで見よ、と言われたので坊主は承り、季節も霜月の頃だったので

     朝霜やまだ解やらぬ縄手道。

弾正殿はこれを聞かれ、此発句として縄は許そう、今後は博打の坐に交わらず、どうしても
食べ物が無いときには町年寄達の所へ行き何か貰って食べよ、と申し付けられ其後は頭の
毛もはやし、あちらこちらと徘徊して気楽に生活するようになったとの事


島田弾正守利 江戸町奉行 慶長18(1613)-寛永8(1631)
成田氏長(1542-1596)北条家臣、忍(埼玉県行田市)城主、秀吉の小田原攻めで降伏、 以後蒲生氏郷に仕える、病死

13
          石町の時の鐘について
質問、御入国の当時はご御城内に鐘楼堂があって時間を知らせる鐘をついていたと
言い伝られておりますが、その通り聞いておられますか。
、 私が聞いているのも其の通りです。 この鐘楼堂は元々将軍のお部屋に近くにあり、
昼夜ともにお耳障りに思われ、今後は鐘でなく太鼓を使用せよ、 しかし今まで城中で
撞いていた時の鐘は続けるようと仰付けられたので、 今の石町の辺でしょうか、町奉行衆
の指示で鐘撞堂をつくりました。 其処へ城中の鐘を移すお伺いを立てたところ、城中で
撞く鐘も必要なので、従来の鐘は其のままとし、新たに鋳させて釣るようにとのご指示が
あったので、昔からの鐘はそのまま御城内に残したとの事です。 

私達が若い頃の時の鐘と言えば石町だけだった様に記憶しますが、酉の年大火の後は
ご当地の家並みが広大になりましたので、所々で時の鐘を撞くようになったと承っております。


時の鐘 当時は二時間ごとに撞いていた
石町  日本橋石町

14
          弁慶掘について
質問、 今の西御丸外のお堀を弁慶堀というのはどんな理由があるのでしょうか。
、 其の件に付いては私が若い頃ある老人の物語で承っております。 
慶長五年に関ケ原の戦いの勝利の後、上方大名衆の中では藤堂高虎、関東大名では
伊達政宗の両人を代表として、江戸のご城下にも皆の屋敷を拝領させて戴きたい、と
要望がありました。 権現様のご意見は、皆大坂表に屋敷があるのに江戸表に新しく
屋敷を用意することは無用であるとされましたが、是非との願いであったので、外桜田の
辺りと現在の大名小路の辺りに、東西の外様大名衆へ希望どおり屋敷を下されました。 

但加賀中納言利長には其の前に母である芳春院が江戸へ下向の際に、秀忠公より御城
大手先に大屋敷を下され、更に結構な建物も出来ているので直ちに此処を居屋敷に
されたとの事。 次に浅野左京太夫幸長の場合は、父親の弾正長政が外桜田の霞ヶ関と
いう名所の地を既に居屋敷に戴いているので、直ちにそれを上屋敷になされ、老父弾正
の隠居所にと他に添御屋敷として戴いたとの事。
 
当時大名小路辺りは葭原でしたが、御城の揚げ土を引取って地形もどんどん出来た
そうです。 外桜田辺りは非常に地形に高下があり、平らにするための土の入手に苦労
していましたが、御新城の外構のお堀端が十間余りもあったので屋敷拝領の諸大名が
願い出て、(これを掘り広げたので)、今の通りお堀も広がり底も深くなり、其揚土を方々
へ引取て地形に用いたそうです。 当時外桜田に屋敷拝領の大名衆は加藤清正を
始め、黒田、鍋島、毛利、嶋津、伊達、上杉、浅野、南部、伊東、亀井、金森、仙石、
相馬、水谷、秋田、土方、その他の人々の当番、代替り、奉公始で東西諸大名が参加
したお城工事なので、西とうの武蔵坊の心を取って弁慶堀と言うようになったのは下々
の者達や工事関係者が始めたことで、はっきりした理由は無いようです。 

前述の浅野左京太夫殿がお願いして拝領した添屋敷は浅野因幡守殿が住んで居られ、
ある時屋敷内で井戸工事をしたところ、地面から二間ばかりの底より葭の根が沢山出て
来ました。 不審におもっていたところ、徳永玄兵衛という家老が、これは左京殿がこの
屋敷を拝領した当時、この辺はかなり深い谷間だったので掃部殿の屋敷前の御堀より
土を取り埋めたものです、と物語ったとの事。


加賀中納言利長(1562-1612)、前田利家の長子
芳春院 前田利長の母、まつ。 関が原後、人質として利長が差し出した。
浅野左京太夫幸長(1576-1613)浅野長政の長子、弟に長晟
浅野因幡守長治、 長晟の長子(庶子)、幸長の甥
弁慶堀 弁慶が修行した所が西塔という寺であり、西塔=西東とかけ弁慶堀という説

15
           吹上門外の石垣について
質問、台徳院(秀忠)様の代に西の丸吹上門外の土手を全て石垣にするよう、との事で 
伊豆浦よりお堀端に大石を大量に運びこみ積上げていたのに、この工事が急に中止に
なったようですがどのように聞いておられますか。
、其の頃大御所様が駿府より下向なさった時、今の掃部殿の屋敷前のお堀端に石が
大量に集められているのをご覧になり、お駕籠を下ろすよう指示されました。
松平右衛門殿を召され、あの石は何の目的で此処に集めてあるのか尋ねて見よ、と
云われたので早速問い合わせてみたところ、此処のお堀端両方とも石垣にするための
ものです、と申上げたところ、このような工事があることを御存知無く、早々駿府へ還御の
旨をお供中に申し渡すよう云われました。 右衛門殿はご逗留はともかく、先ず今日の
ところは西の丸へお入りに成るよう申上げられたがお聞き入れにならず、品川御殿まで
還御なされお茶を召し上がるという事です。 右衛門太夫殿より其趣旨を急いで
(将軍側幹部へ)注進申上げらました。 

大御所様は慶長五年以前三四年の間は、駿府より当御城へ入り成される節、外桜田門
を通り西の丸へお入りになっていたので御老中方は桜田門迄お迎えに出られました。 
御隠居後は吹上門へ廻ってお入りになるので、御老中方は半蔵門にお揃いになって
いました。  そこへかかる注進があったので、本多佐渡守が早駕でおいでになり、お駕籠
近く参上され、権現様よりお許しがあったので御側近く伺われ、「只今承りますには今から
直ぐ還御なさる旨仰出されたこと驚いております。  どのようなお考えでこのような事に
なるので御座いましょうか」、とお伺いを立てたところ、「此辺でこのような工事があるとは
思わず下向してきたが、我々が西の丸に逗留すれば工事の邪魔になると思うので、
今から直ちに帰るのである」、と云われました。 

佐渡守殿が謹んで、「公方様(将軍秀忠)も先程品川より還御なさり西の丸にお入りになり、
お待ちになって居られるのに、権現様が駿府へ還御されたことがお耳に入れば、私は
どのように云われるが図りがたいので、私をお救いなさると思われ西の丸へお入りくださ
ればありがたき仕合せで御座います」、と申上げられたところ、「お前は変な事を云う、我々
が今から駿府へ帰ったとてお前が迷惑する理由は無いはず」、と言われる。
佐渡守殿は重ねて申上げられ、「そうでは御座いません、元々此の辺の石垣工事は公方様
のお好みでなされたものではありません。 私に此度工事を申し付けられたので達ての
お勧めをし、それではお前の言うとおりにやれ、と仰付けられたのです、此工事が原因で
今から還御なされたという事になれば私はどんな御咎めを受けるか分りません。 そのような
わけで私をお救い下さると思われ西の丸へお入りくださるよう」、とお願い申上げられ
松平右衛門太夫殿からも種々お口添え申上げられたので、お笑ひになり「此の辺を
石垣にしようというのはまさか将軍の物好きでは無いだろうな、と思ったがそれではお前
の物好きか、これはとんでもない不物好と言うものである、理由はそもそも将軍が当城に
居られるのは東夷への押さえで、此処より奥の方へ向かって要害を構えるのであれば
自然であるが、帝都の方は味方の地であるからそちらに向かっての要害は無益である。
我々が今から帰ればお前に迷惑がかかるると云うのであれば立寄ろう」、と云われ
西の丸に入り成されたとのことです。

其の日の夜になり佐渡守殿はお側に出られ、「今日昼にも申上げました通り、此の御丸
外の石垣は返す返すも私の不調法で恐れ入りました。 この石垣だけでは無く、当御城
には御馬出というものが見当たりません, どこか一ケ所仰せ付け下さるようお勧め致した
ところ、そのようにと仰せ付けられ、然るべく指図しているところですがいずれお耳に
入ることと存じます。 私の重ねての不調法恐れ入ります」、と申上げたところ、それほど
御機嫌悪くもなく云われるには、「お前は当城に馬出しがあるのを知らないのか」、と
お尋ねになるので佐渡守殿は暫く思案されて、当御城のどの門前にも御馬出と云う物は
心当たり無い旨申上げられたところ、お笑いになり、当城の馬出と云うのは大坂城である。
差当たり必要無いので秀頼に預けて置くのだ。 一般に将軍の居城には堅固な防禦、 
掛矢の習ひ等と云うのは不必要な事である、と云われたとの事、

しかし慶長年中といえばかなり昔のことなので、公辺のご沙汰ではあるけれど虚実に
ついては分りません


松平右衛門太夫(正綱1576-1648)1596年より家康に近仕、駿府近習頭、1609勘定頭、相州玉縄2.2万石、家光時代の名老中、松平信綱の養父
馬出し 城の出入り口(虎口、こぐち)を出やすく、入り難くする施設
落穂集巻二終

16
巻3

           御鷹野先へ女中方御供について
質問、権現様が御在世当時は御鷹野先へ女中方を御供に召連れた、という話しですが
本当でしょうか。
、此件も小木曽太兵衛などが常々物語りしておりました。 浜松、駿府等に居られた時は
女中衆六七人程は決まってお供していました。 その中で乗物で行かれるの壱名か二名で、
其の外は乗掛馬にあかね染の木綿蒲団を敷き、市女笠の下に服面をしてのお供でした。 
この女中方のお供があるので今回は御逗留なさるのだと下々迄推量したと言う事です。

関東御入国以後は更に忍、川越、東金辺へ行かれ、幾日も御逗留なさるので、急に決済が
必要な場合には老中方を始め、諸役人衆はその先々へ伺われたことも毎度のことでした。 
このように長い御逗留の御鷹野の場合に多数の女中方を御供に召し連れる事は、台徳院様
も権現様が御在世の時は時々お泊りがけで御鹿狩、御鷹野等もなさいましたが、其の後
お止めになり、大猷院(家光)様の代にも御鹿狩、御鷹野は度々行かれましたが、お泊りは
無く女中の御供も御座いませんでした。

其の頃は御三家様方を始め、仙台黄門殿、薩摩薫門殿などでは年寄女中が表向にも立ち
廻るようでした。 私たちが若い頃、松平安芸守殿が御鷹野で鶴を拝領され、この振舞の席
で小松中納言殿が(衣服を替えるため)勝手に入られ、書院へ出られる時年寄女中が
二人付き添い、其のうち一人は刀を持って中納言の御そばに出るのを目撃しました。 
このようなこと時代柄七十年以上前には何処でも聞いたことです。


小松中納言 前田利常(1593-1658)、加賀金沢藩主の別称、前田利家の四男
松平安芸守 浅野長晟(1586-1632)、但馬守、家康娘婿、松平姓及び安芸守は嫡子光晟(1617-1693)、安芸廣島第2代藩主の代からとなる
仙台黄門  伊達正宗(1567-1636)、仙台藩主、中納言
薩摩薫(勲)門 島津家久(1576-1638)、薩摩藩主、中納言

17
           天下一統後の将軍宣下お引延しについて
質問、織田信長公などは完全に手に入った国としては五ケ国もあるか無いかの時に早くも
天下を取ったかのように大臣となりました。 其後 豊臣秀吉公などは公家に列して関白職
と成り、禁裏のご威光を利用して天下を取る勢いを見せられたが権現様と織田信雄卿の
御両所は豊臣家の下に付いている訳でもなく、御家人の立場でもありませんでした。 
其の外でも小田原の北条家、水戸の佐竹を始め奥州筋諸大名は天正十八年迄は上洛
などもせず我侭に在国していた様子に見えました。 

権現様については慶長五年関ケ原の戦いで謀反の首謀者である浮田、石田、小西、
大谷等を始め、世を乱す輩を残らず退治なされ、大身の毛利輝元、上杉景勝、其外佐竹、
立花、丹羽を始、彼らの領地を削り、又は所替、或は領地を取上げられ、秀頼なども国持
の平大名に落とされましたが、日本国中で異議を申し立てる者一人も有りませんでした。
然るに将軍宣下の発表が無く、官位なども以前の内府などに三四年もそのままなので、
天下の人々は不審に思っておるようですが、どんな理由があるのでしょうか。
、一般に自然の摂理、道理を用いず名聞だけを急ぐのは小人のやる事で良くないことで
あると云われています。 権現様の噂を私達のような者の口より申上げる事は恐れ多い事
ですが、このような事は他の人は及ばないところで、権現様だけは特別と考えれば特に
不審なことでもございません。 天下を統一されたので将軍宣下なさるべきと外様大名
からも云われ、又禁裏筋よりも督促がましく内勅もあったようで、金地院と藤堂髙虎の両人が
御前に出た際に直ぐに将軍宣下の発表があるものと下々では取沙汰しておりますと申上げ
られました。 
権現様はそれを聞かれ、私の将軍になるのは後にしても天下の万民が安堵できることが
先決である。 今は諸大名もあちらこちらと国替えで大変な時に私の将軍宣下を急ぐのは
心無いやり方である、との上意で天下ご一統以後中二年の間は何事も御発表もなく、
慶長八年になり 将軍宣下のお祝いごとが有ったとのことです。 

又質問、権現様の将軍宣下以後に諸大名を始め、日本国中の寺社等にも御朱印を
下されたのですか。 
、天下御一統以後の譜代、外様の諸大名方に国替、所替を発表されたのは慶長五年の
暮れより二三年の間ですがこれは全て権現様の時代で御自身のお考えで発表されたものでした.
台徳院様(秀忠)時代になり其の始めに御朱印を発行されましたので、今時はその事実を
知らない人々は御朱印の年号だけを見て国替、所替、御加増等は全て台徳院様より
発表されたのだと思う向きも有りますが全くそうでは無いと承っております。


金地院 (祟伝1569-1633)臨済宗の僧、家康に招かれ幕政に参加、キリスト教の禁止、寺社行政の参画し、天海僧正と共に黒衣の宰相と言われた
藤堂高虎 (1556-1630)戦国武将で織田、豊臣、徳川と仕える、築城術に長け江戸城改築に功をなす、伊賀、伊勢22万石(1608)、大阪夏の陣以後32万石

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     伏見城で討死した者の息男達への相続について
質問、関ケ原の戦いの前に伏見の城で討死された鳥居彦右衛門殿、内藤弥次右衛門
殿、松平主殿、松平五右衛門殿等四人の嫡子方へは全員に亡父達の知行高と同量の
加増を行い跡継ぎを認められました。 所替等も行われ、鳥居左京殿は常州矢作木の
城主四万石の代りに奥州岩城の城地拾万石を下され、直ぐに二万石が加増され拾弐万石
があたえられました。 其の上岩城へ入って亡父彦右衛門の為に一寺を建立せよとの
上意があったので、左京殿は入所され直ぐに寺を建立し親父の法名を取って長源寺と
号しました。 その旨報告申上げたところ、直ちに知行百石の永代の御寄附をなされた
との世評が有りますが其の通りでしょうか。
答、其の件は慶長七年水戸の佐竹を出羽国秋田郡久保田へ所替の命令されたとき、
岩城殿の領地も空いたので其跡を鳥居左京殿へ下されたのは権現様の時代とのことです。
後に台徳院様より御朱印を下された時の文言は権現様からの御差図によるようで其の文
は以下述べています。

   奥州岩城郡岩ケ崎内堺村に於て鳥居右京亡父彦右衛門慰の後
   世の為壱寺を造立セしめ長源寺と号す、寺領百石寄附を行う。
   永代相違ないように
         慶長十四年正月十五日

又質問、昔もその時代の将軍家が家臣の為に寺院など建立された先例など有ったので
しょうか。
、私が聞いておりますのは明徳二年の京都内野合戦の時、山名陸奥守氏清が戦死を
遂げたのを足利将軍家の鹿苑院殿は大変嘆かれ、諸大将に指示して山名の首を納める
様に云われ、其上氏清の追善の為にと北野の経蓮堂を建立されたそうです。
次には織田信長公がまだ若い頃ですが、父の弾上殿が後見役に付けて置かれた侍で
平手中務清秀と云う者があり、信長公の行跡が宜しくないと苦労して種々異見を云い
ましたが、全く聞き入れられず益々不行跡の振舞をされるので、平手は見かねて諌めの
文書を数ケ条認めて差出し自身は自殺しました。 
信長公も其当時は目の上のこぶが取れたように思われましたが、段々成長され物事の善悪
の判断も出来るようになると、これを悔やまれ、平手の忠節が良く分り不憫に思われ、美濃
の国内 に寺を建立され、平手山清来寺と名付け、仏供養などの寄付をされたそうです。
其の外には権現様による鳥居元忠の為に長源寺建立だけのようです。このような次第で
岩城の長源寺にある御朱印は特別で他に類の無いの御朱印であると伝えられています。


伏見城四武将: 鳥居彦右衛門(元忠1539-1600、下総矢作藩四万石)、松平主殿頭家忠(1555-1600、下総小見川壱万石)、松平五左衛門近正(1547-1600、上野三蔵五千石)、内藤家長(1546-1600、上総佐貫二万石)
鹿苑院殿: 足利義満
山名氏清: (1344-1392)南北朝時代の守護大名、 山名一族の力を警戒した義満は一族の抹殺を図り、最後に氏清も謀反荷担に追い込まれ幕府軍に破れる。 
平手清秀: 信長の守役で色々信長に諌めたが行いが改まらないため切腹、後に信長が改心して清秀のために一寺を建立したと言う。 



19
            秋の徴税(年貢)について
質問、毎年秋先になると郷村から収穫物を納めさせるのに権現様流と俗にいうものが
有るとのこと聞いておられますか。
、そのような事は聞いたことはありませんが、ご質問について少々心当たりがあります。 
大猷院様(家光)時代と思いますが御老中方へ将軍より、「其方の領地に桃の木を多く植え
させたと聞くが其の通りか」、お尋ねがあり、それに対し土井大炊頭守が、「其の通りです、
古河の城地を私が拝領致した当時田舎、城下ともに大変薪が少なく領民が苦労している
と聞きました。 それで御当地(江戸)の町役人へ申し付け、子供の内職として桃の木の
実を拾わせましたところ、一夏の間に大分拾い集め持寄りましたので、俵に詰め古河へ
送りました。 そこで田畑の廻りは当然ながら百姓達の屋敷廻りにまで植えさせたところ
二三年で成木になり、今では大変役に立つようになったと聞いておりますが私はまだ見て
おりません」、と申上げられました。 「それでは其方達も四五十日程づつ交代で知行所へ
逗留し領内の様子を見て置かなければいけないな」と将軍より意見がありました。 

其の後土井大炊頭殿は三十日ばかりお暇を頂き、古河へ帰城し逗留の間領内を見分され
ました。 以後に家来達を呼び出して以下指示されました。 「権現様の時代に毎年秋口に
なると 諸代官衆の支配地へお暇を下される時 は彼らを御前に召され、直接に毎年指示
されたことは郷村の百姓達は生かさず殺さずと理解して納税(年貢)を申し付けるようにと
いわれた。 以前我等が古河の地を拝領した時には其方達も知っての通り百姓の家々に
敷居がある家は一軒も無かった。 このたび突然お暇を下されたのでこの間領内所々を
見て廻ったがどの村でも新しく家作りをする百姓が多いのを見て驚いている、もしや百姓
を生かし過ぎたのではないか、郡奉行代官達にもよく言って徴税は念入りに行うようにせよ」
との事。  若しやこのような事が間違って権現様の収納の方法と言い伝えたのではないか
と推量します。

一般的に七十年以上前には諸国共に秋口になると村々の名主たる者の家には水牢木馬
などというものを設置し、百姓の中に私欲をはり納税しない者はその水牢に入れ、木馬に
乗せ責めて納税させたものですが近年は何処でも百姓も正直になり、律儀に納税する
ためか彼の水牢木馬等のことは聞いて居りません
                                     

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        皆川老甫斎の事
質問、以前は公儀の御役人の中でも御用の件を覚書にして脇差の下緒に結び付けて
置くことを老甫掛りと云っていたとのことですが、此件どのように聞いて居られますか。
、この老甫と言う人は関東御入国の頃、北条方の皆川山城守と云う人で、後には
松平上総介忠輝卿の御付人に指名され、信州飯山の城主となりました。 家老職
であったので常に上総介殿に意見しておりましたが、ある時何事かわかりませんが
烈しく意見し、さんざん機嫌を損ねました。 既に死罪を申し付けられましたが御付人
であるため、念のためお伺いをたてたところ台徳院様(秀忠)の上意があり、山城の事は
上総介の家人であるので処置は上総介の心次第ではあるけれど、上総介が幼少の頃
山城の努力によって大御所様を動かし、源七郎康忠へ養子となり今日の上総介がある。
そのような昔の功を忘れ死罪を申し付けることは感心しない、どうしても罪にしようと
いうなら暇など出してはどうか、との御意見があり改易が申し付けられました。 山城は
僧の形になり老甫と名のり、侍分の者を二名召連れ京都へ上り知積院の内ニ閑居して、
息男の志摩守は武州八王子辺に引込んでおりました。 

其の頃大坂の陣があり、上総介殿が大和口の惣大将を仰付けられ上洛されたので、
老甫は陣所へやって来て取次ぎの者に、私は殿に重いご勘気を受けた者でございます
が、このたび大坂へ御出陣と伺ったのでご勘気をお許しに預かりたく御願いするもので
恐れを顧みず参りましたのでお目に掛かりたい旨申上げたところ、 早々出て参れとの
ことでした。 

老甫は忝く参上したところ、墨染の衣も大変疲れ衰えた様子に忠輝卿も頻に落涙され、
老甫を側近くに招き寄せ昨今の物語をされました。 其の時 老甫が云うには此度大坂表
に於てどのようにお務めなさろう とお考えですか。 憚りながら私が思うに他者以上の
お働きをなさらないといけません、と申上げれば、忠輝公も我も兼ねてそう思っていたが、
此度の先発は井伊掃部頭と藤堂和泉守両人に命令されているのでどうしたものかと、
云われるので老甫は、兼てよりこの両人へ最前線勤務を命令されている事は大坂でも
言われております。  御着陣に際しては大坂になされ此処で全軍の先頭に立ち、御城近く
に詰め城中より突出してくれば一戦をとげられ、敵が出てこなければ虎口際へ向かって良い
場所を取り固め、何時でも一番に合戦をなさるべくと思っておられれば事は済みます。 
一般の大名とは違うので井伊や藤堂も殿と前後を争うようなことはしないはずです、両家の
者達だけにお任せあるのは近頃過分のことです。 

それではお前は何処か身を隠しておれと云われ、 忠輝公は玉虫對馬守、 林半之丞、
その他花井以下の家老達を呼出され、この一件を御自身が考えられたように切り出され
相談したところ、玉虫、林が口を揃え、夫はとんでもないお考えでございます。
此度井伊、藤堂の両家が最前線にたつ事は上からの軍令です、 それを破りなされては
たとえどんな軍功が有ったしても御奉公した事になりません、 そのようなお働は不要で
ございます、今回大坂でお役に立つ事が難しくとも、他に機会もあるでしょうと云い、 他の
家老達も両人に同意し不要ということで評議は終わりました。

其後老甫を呼出され上総介殿が云われるには、自分はお前の考えを 良いと思い皆に
相談したが、玉虫、林等が不要と云い他の家老達もそれに同意し、お前の思うようには
ならなかったので大坂へ同道するときは其の事を心得ておくように、とのことでした。 
老甫は是を聞き、玉虫、林の考えはともかく、家老達までそのように言うのであれば仕方
御座いません。 私は申上げましたようにお供するつもりでこのように支度して参りました、
と墨染衣のえりを押し開け黒糸威の具足を着込んでいるのをお目に掛けた後、私は先程
知積院を出て歩いて此処まで参りましたが大変疲れましたのでしばらく休息致します、と
其の場を去りました。 

その後直ちに志摩守の旅宿へ立ちより息子を門外へ呼出し、我は願いの通りご勘気を
解かれお目見えまで戴いた事は老後の喜びである、さらに思っている事も申上げたところ
殿はお分りになり関係者に相談されたが、不届者達が心を合わせ反対し事は成らなかった、
従って我は大坂へお供はせずに今から帰る。 お前は今すぐ今夜中に井伊の陣所へ
行き、直孝の力を借り、ご奉公し手柄を立てるように、命が有ったら又合おうと言って
知積院へ帰宅しました。  従って今日世間で流布されている記録の中で皆川老甫が
大坂へ家老達と一緒にお供したと書き記したのは間違いです。 

さて上総介殿は五月六日七日両日の合戦で手柄もなく、その他元々大御所様の覚えが
良くないこともあり、大御所様が駿府で御病気の節ご機嫌伺いに訪問されたがお目見えも
許されず、御他界の節の御遺言とのことで御身上が召し上げられ、方々お預けの身に
なられました。 

又皆川志摩守は大坂の陣での働きを井伊掃部殿が上奏されたので、召出され名も山城守
となられ大御番頭を仰つけられました。 又老甫も召出され御扶持を拝領することになり
ましたが其の時老甫が申上られたことは、此度倅山城守は思いがけなく召出され其の上
結構な御役を戴いたこと重々ありがたく存じます、 このような私まで御扶持を拝領するのは
大変冥加な事ですが、御覧の通り年をとっており何のお役にも立つ事ができませんので
お受けする訳には参らずお断りお願い致します。 これを聞きご老中方は、一般に隠居扶持
などの拝領は大変な事であり、その方に下さると言うのは思召しあっての事である、お断り
する必要はない、との事だったので重々ありがたく戴いて退出しました。

其の後御用が有るという事で召出されたところ、年取って大義とは思われるが夕方頃から
西の丸へ上り、竹千代様の御前で何でもお聞かせして置いたほうが良いと思われる事を
退屈にならないように雑談を申上げ、お聞かせするようにと林道春、大橋龍慶両人が立会
人を命ぜられ、この両人に対し物語するようにと上意がありました。 夫より毎日夕方頃より
老甫は西の丸へ登城し、始めの内は難しく思われた様でしたが次第にお聞きになるように
なったとの事です。 

老甫は年を取って物覚へが衰えたので、今晩物語をする内容を忘れない様に書き付けに
して、是を脇差の下緒に結び付け、御前へ出る前に一覧してから出られたのを人々が
見習い、西の丸付の面々は勿論、後には御本丸の御役人達も夫々の御用を覚書にして
下緒に結び付けるようになりました。 其の頃これを老甫掛りと一般に云うようになったそうです。


皆川老甫(1548-1627)広照、北条家臣、栃木市皆川城主、秀吉の小田原攻めで降伏後、家康に仕え家康六男忠輝家老、忠輝の教育方針廻り改易され出家、老甫と号す
松平上総介忠輝 (1592-1683)家康六男、家康に疎まれ松平家へ養子、後越後高田城主75万石、其の後改易、信州諏訪に配流
玉虫対馬守定茂 武田家臣、武田滅亡後家康に仕え、忠輝の家老、 忠輝改易後追放
花井遠江守吉成 忠輝付家老、松代城代、息子主水正義雄も忠輝の側近
林道春 (羅山1583-1657)江戸初期の儒学者、林家の祖、幕府の制度、儀礼を整える、3代目から大学頭の称号を得る
大橋龍慶 (1581-1645)秀忠・家光に仕えた右筆

21
           伝奏屋敷の事
質問、伝奏屋敷及び御評定所はいつ頃より始まったのでしょうか。
、私が聞いているいるのは慶長五年関が原の戦い前には伝奏の公家衆が 江戸に来る
事はありませんでしたが、天下御一統の後は伝奏が毎年行われるようになったので、
公家衆の接待所として新たに普請を行いこれを伝奏屋敷としました。 
 
それまで老中方の自宅で時々寄合がありましたが、幸いこの伝奏屋敷が普段は使用
しておらず空いているので調度良い寄合場所となり、 これ迠のように自宅での寄合は
なくなりました。 ここでの給仕、まかない等は下奉行に務めさせて居りましたが、老中方
やその他お歴々に対しては給仕を誰にやらせるか評議していましたが、板倉四郎左衛門
殿が、給仕は吉原町に担当させ遊女達を何人でも差し出させよう、と云われ 衆議一致
しました。 伝奏屋敷まで遊女を船に乗せ連れてくる時船の上を蓆で覆い、幕、簾など
掛けるのを手始めとし、そのうち屋形船というものも始まりました。 

暫くは評定所としても使用していましたが、評定所には手傷を負った罪人等も連行する
こともあり場所も穢れ、其の上毎年春になり伝奏の公家衆が逗留する間、御評定も中止
しなければならないのは如何なものかということで、別に御評定所の普請がなされ町方
の賄も止め、 お城から給仕役として坊主衆が勤務されるようになったということです。

又質問、ご老人、その時代は何でも手軽に済まそうということは聞いておりますが、老中
方迄も立合われる評定所に吉原の遊女風情がうろうろする事は到底考えられません、
それは虚説ではありませんか。
、私なども寛永年間の生れですから、それ以前のことであり確信はありません。しかし
そのような事実も有ったと思います。 理由は文禄年間に畿内において大地震の年が
有りました。 京都の大仏の像なども崩れ、聚楽の御館も大破に遭い、御家人衆の中で
長押に押しつぶされ亡くなった人もあったと言う事です。 また伏見、木幡、山城辺の築地
に建っている奥向の館も被害を受け、仲居以下五百人程も亡くなりました。
 
年寄女中が御前に於いて、今度の地震に多数の女中が亡くなりしましたので代りの女中を
召し抱え下さい、と云うのを秀吉公は聞かれ、いくら下女風情の者と言っても多くの人を
急に採用することは難しいと言われ、前田法印に指示され、六条嶋原町の遊女達を
呼寄せて使い、そのうちに代りの下女を召し抱えるようにと云われたのを、近頃粋な御意見
とのことで世間で賞賛されました。
 
従って評定所の給仕人に吉原町の遊女達を召し使う事を板倉四郎左衛門殿が発言された
のも、文禄年間の秀吉公の件をかねて聞いて居られたのではないでしょうか。 従ってこの
様な意見がでたものと思います。



前田玄以(1539-1602)豊臣政権の五奉行の一人、丹波亀山五万石、京都奉行、関が原後も所領安堵、号は民部卿法印
文禄の地震、文禄5年閏7月13日(1596、9、5)畿内大地震1万五千人以上死亡、伏見城天守閣、方広寺大仏殿崩壊
板倉四郎左衛門 (勝重1590-1624)、江戸町奉行1590-1601、京都所司代1601-1620

22
         江戸武家方、町屋敷、寺社等の普請について
質問、江戸における侍屋敷、町屋、寺社等などの普請建造は以前から現在の様子だった
のでしょうか。 
、七十年前の酉年に起きた大火の時までは、譜代の大名衆の屋敷は偶に関東
 ご入国当時の家がそのまま残っているものもあり、慶長五年以後当地に屋敷を拝領し
家作りをした外様大名方の屋敷の大部分は建造当時のままでした。

井伊掃部頭殿の上屋敷は以前は加藤肥後守清正の建造と言う事でしたが、私達が幼年
の頃に機会があり、屋敷の表向は隈なく見物しましたのではっきりと覚えております。 
玄関から始り表向きは全て金張付の絵間があり、表門は桁行十間程も有ろうかと思われる
矢倉門に、凡そ馬程の大きさの犀(さい)を五疋彫ってありました。 全て金を塗りこみ、
外向の長屋全体に乗せた丸瓦には金色の桔梗の紋所を付け、夜中でも光り輝いて
見えました。 
 
其の外でも 国持大名衆の屋敷は大体二階門作りにして種々の彫物をしておりました。 
一般に当時は五万石程の領地を持つ大名の玄関周りから書院は金張付の絵間でなけれ
ば成らないような風潮でした。  とりわけ御三家の方々は御成門と云われるものを唐破風
に造作し、全て金で種々の彫物を施し大変りっぱなものでした。 但し半蔵門内の尾張殿
御屋敷は自火によって全て焼失し、竹橋門の紀伊殿、水戸殿御屋敷にある御成門は私も
よく覚えております。  

松平伊予守殿も将軍が訪問されることがあるので御三家方と同様に御成門を造作される
べきと内意があり、出来たものには仙人揃の彫物が施され、 新しいので更に光り輝き場所
も大手門前だけに人通りも多く見物人が絶えることなく、当時世間では日暮しの門と云って
いたそうです。 これらの門のある御屋敷も酉年の大火で残らず焼失してしまいました。 
以後も当地では度々大火があり諸大名方の普請はいずれも手軽に成っていったようです。

この酉年の大火迠は町屋の普請も丁寧に行われ大伝馬町、佐久間町等などの町人は
表家を三階に造り、二階三階には黒塗りで櫛形窓を明けて大変目立って居りました。
この様な家も酉年に焼失し、町屋ではいっそう度々火事があり町人の家作も段々と軽く
なりました。 

又神社仏閣等については以前に比べ立派になるものも有ったようです。 今の深川八幡、
牛の御前、金龍山、聖天穴八幡、赤坂小六宮などの社は小さな宮建でしたが、現在は
立派な宮になっており、 七十年前に私達が見覚えある柴庵(しばいお)同前の小寺小院
だったものが今は一廉(ひとかど)の寺院となっているのも多くあります。
 
又質問、現在の番町辺りは以前と替っていないのでしょうか。
、私達が若い頃に見覚えある番町辺りは表向に土垣をした長屋作りでした。白土壁の
ある家などは殆ど無く、屋敷通りは大部分竹薮に覆われ萱葺の長屋住宅で小さな門が
ある屋敷が多かったものです。 夫が現在は竹籔などで外囲いをした屋敷などは一軒も
見当たりません。
そんな風に既に述べたように大名方の造営は手軽になり、小身の人々の家は立派に
なっているように見受けられます                      


落穂集巻三終