落穂集巻4          戻る              Home
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           制外の家のこと
質問、当時の御三家方の事でしょうか、世間で制外の家と云われたようですがこれは
権現様の時代に決められた事でしょうか、それとも以後のどなたの時代に定められた
事でしょうか。
、どなたの時代であろうが公に幕府より制外の家と公表された事は私達は決して
聞いた事はありません。 只世間一般に言われていた事と思います。 これについて
台徳院様の時代の越後少将忠輝卿、大猷院様時代の駿河大納言忠長卿、この御両人
はまさしく将軍の御親族でしたが幕府の法に触れたという事で改易になったり、自裁を
申付けられたりしております。 一方当時の御三家方は御親戚の家柄ですが幕府の
法を きちんと守られ、少しも制外の事らしきものはありませんでした。

然し慶長十五年台徳院様御代越前少将忠直卿の家中で、久世但馬という壱万石領
する武士と岡部自休という町奉行役の者との間で争いごとがあり、其のとき三河守
忠直殿は若かったため理非を誤り、片手落ちに但馬を成敗されました。 其の跡で
家老中間の争いとなり、地元では治まらず幕府に聞こえ、家老達を始め公事掛りの者達
全て江戸へ呼びつけられました。
数日の調査の結果大方調査も終ったところで、評定役人の意見として此れは去年
堀越後守の家老達の争い事が有った節、家老の堀丹後守殿が駿府へ行き直訴したので
問題になり、調査の上ご裁許があり、越後守は若輩といっても家中の処理が出来ない
ようでは大国の守護職を任せることは出来ないので越後の国をを取上げ、その身も
お預けになりました。 

このたびの三河守家の家中の問題は越後の場合と同様の決定がなされる旨申上げた
ところ、権現様が聞かれ、いやいや越前の場合は制外である、との御一言で評議も終わり
ました。 その後間もなく御裁許が出され、訴訟の本人岡部自休は勿論、今村掃部、
志水丹後、林伊賀三人の家老はお預けになり、本多伊豆、牧野主殿、竹島周防は
申し分が成り立ち越前へ返され、三河殿には何の御咎もありませんでした。 

其の上に今回の件で越前では家老職の者が少くなり、何かと困るであろうとの上意で
本多作左衛門の嫡子が取り立てられ、丸岡城の五万石を下され飛騨守として越前家の
付き人に任命されました。 
実は天下でさえお譲りになる可能性もありましたが、それが叶わず越前一国の守護職に
なされた秀康公の跡取ですから、このような破格の処置もありうる事と世間では言って
いたそうです。 とは云っても三河守家は制外であるのでこのように処置した、という事は
公表されなかったと聞いております。
 
又質問、秀康卿が御在世の時は列国の諸大名方とは違い、少しは制外らしき事なども
有ったように聞かれていましたか、如何ですか
、私共が聞き伝えている中で他の大名衆方の家々にて云われていることが四五ケ条
あります。 

その一つは慶長五年天下御一統の後、江戸に於いて諸大名衆の面々どなたも居屋敷を
拝領致され家作等も行う中で、秀康卿については屋敷拝領の願も特にありませんでした。
慶長五年越前の国へ入部された後、始ての参府の節に到着の日は台徳院様が品川迠
出向かれ、御同道にて御城へ入られました。 其の節秀康卿の御乗物を式台に横付に
するように御差図されました。 御逗留中は二の丸にて御馳走するように云われ、家来達の
居所として大手元にある大久保相模守屋敷を明渡されました。

二つ目は秀康卿が御逗留中の夕御膳は大体御本丸で御相伴を付けられましたが、或日
秀康卿が少し御不快の様で急に御帰りになるのに、御供中は毎日の心得として二の丸へ
戻っていたところを急に呼寄せられました。 其の間御玄関にて将軍も立たれ、老中方も
追々出られ、当番の旗本衆に御供するようにと指図され、両御番衆を始め小十人衆、御徒
衆迠も付き、公方様お出かけの際と同様にして二の丸へ秀康卿の御供をしました。

三つ目は秀康卿がある年木曽路を通過して江戸へ下向される時、鉄砲を百挺持たせられ
ましたが、当時鉄砲の持込は御禁制でした。 横川の御関所で差し押さえて通さず、其の
うち中納言殿も到着されましたので物頭役の面々が事情を報告したところ、秀康卿はそれを
聞かれ、それは多分他の大名達に対する事である、 我々は通行する旨を番人達へ伝え
なさい、と云われるのでそのまま番所へ伝えたところ、中納言殿は兎も角、大納言殿でも
御制禁の鉄砲を通す事はできません、と言い切るのでこの返答を 申上げたところ秀康卿
はもってのほかと怒られ、幕府より発布された御法度を守り、鉄砲を押さえるというのであれ
ばそれはもっともである。 しかし中納言はさておき大納言等という雑言をはくとは公儀を
重んずる番人とも思えない、我等を何物と心得て雑言を云うのか、とんでもない不届至極
の奴ばらと申されるので、供の者達も我も我もと鎗、長刀の鞘をはずしひしめいたので
番人達は逃げ散ったので鉄砲は全て越前へ持ち帰らせました。御関所の番人達は夜通し
江戸へ到着し、事の次第を報告したところ、大御所様も其時江戸に御滞在されており、この
件をお聞きになり、関所の番人達が早速逃げ散ったとは良い判断である。 例え残らず打
殺されたとしても中納言殿を罪人にはできないであろう、との上意で御笑ひに成った
そうです。

四つ目は芦田右衛門、天方山城、永井善右衛門、御宿勘兵衛等いういずれも権現様の
旗本として御奉公したものの、或者は仲間を打って立去り、或いは出世ができず不満を抱き
立去ったもの、又は怨恨をもって去った者などを越前へ呼寄せ、以前の姓名そのままで
家人とされました。 芦田、天方の子孫は今でも越前で奉公しているそうです。 永井は
三河守殿の代に旗本へ帰参するよう命令され、御宿は大坂へ入城して秀頼公の家人と
成り、そのままの姓名を名乗り夏の陣で討死をとげたそうです。

五つ目として列国の諸大名方は高位高座に進む場合段々と昇進を許されるものですが
越前家は元祖の中納言殿(秀康)より三河守殿(忠直)、伊予守殿(忠昌)と三代続いて
三位に任ぜられ、少将より直ちに宰相に任ぜなされるので越前には中将という位はない
ようです。
このような事を考えて見ますと越前家は制外の様に思われます


松平忠直(1595-1650)秀康の長男、越前75万石(1607慶長十二—1623)最後乱行の理由で大分に配流となる、1611従四位三河守、1615従三位越前守
松平秀康(1574-1607)家康二男(庶子)、秀吉の養子に出され、後結城家、最後松平姓になり越前75万石拝領、二代将軍秀忠の兄
久世但馬 越前藩初代秀康以来の家老、内部抗争で成敗される。久世の領民が岡部の領民を暗殺し、岡部が久世に犯人引渡 しを求めたが久世が犯人を匿い応じなかった。 慶長十七年の越前騒動と言われる家老達の争いに発展し、家康、秀忠の裁断が下る
堀越後守(忠俊1596-1622)堀秀治の嫡子越後藩45万石の遺領を11歳で引き継ぐも家臣団統率できず改易となり、岩城平藩主鳥居家預かりとなる
堀丹後守(直寄1577-1639)本家の堀秀治、忠俊に仕える、長岡藩主、後村上藩預かる
岡部伊予 1300石 役人衆、自休は出家名
今村掃部 25,000石 騒動後岩城鳥居家お預け
清水丹後 11000石、騒動後伊達家お預け
林伊賀 家康近習、秀康に附属9800石 騒動後真田家お預け、後赦免
本多伊豆守富正 叔父本多作左衛門に養育される、秀康近習、越前藩筆頭家臣、府中城主
牧野主殿 家康近習、秀康に附属、2400石
本多作左衛門(重次1529-1596)家康の祖父から三代に仕える譜代の臣 「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」の筆者
本多飛騨守(成重1572-1647)作左衛門嫡子、幼名仙千代、越前丸岡藩主四万石
芦田右衛門 武田家に仕え後徳川に仕えた芦田右衛門は天正十一年に討死、その二男が加藤四郎兵衛と言う名で蟄居中の所、秀康に抱えられたという説もある(福井市史)
天方山城守 家康の長男信康の近習、信康切腹時介錯したと云われている。 後高野山に蟄居中秀康に召出される、1500石
長井善右衛門 鉄砲頭1050石
御宿勘兵衛(みしゅく) 今川家に仕え、後徳川に仕えた武士、秀康が500石で抱えたが、禄高不満で豊臣方へ移り、大坂夏の陣で討死
松平伊予守(忠昌1595-1645)秀康二男、忠直改易後、越前北庄藩50万石を継承し越前福井藩と名を改める
                       


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        土井大炊頭、伊丹順斎に合う
質問、 権現様については吝嗇な方と言う説と、否そうではないと言う説が有るようです
がどのように聞いておられますか。  
、権現様の事を私などの口から申上げる事は恐れ多い事ですが、人々の疑問を
解消する為に私の考えを申し述べます。

概ね世の中の宝物と言えば金、銀、米、銭の四ツに集約されます。但しこの用法は
善悪三段に分類されます。
一として金銀米銭が宝物である事を良く考えて居り、これを無益な事に消費する事を
嫌い、常に貯え、これを使う事が必要な時には、惜しまず使い不手際がない様に
します。貴賎ともにこれを倹約といい称賛します。

二として金銀米銭は世の中の宝である事知り尽くし、がむしゃらにこれを貯えてしっかり
握り締めて使うべき所にも惜しんで使わない人々です。 是を吝嗇と言って貴賎上下とも
に良くない事です。

三として金銀米銭を湯水の様に考え、無用無益の事にも惜む気無く遣果すことを器量の
有る人だなどと煽てられるのを良い事と勘違いし、財産が有る限り考えもなくばら撒くのを
やくたい無しとか、とほう無しとか名付け、吝嗇の人よりも劣ります。
理由は吝嗇というのは良い事ではないと言うものの、自分の手許に物を貯え必要な時に、
よく考え用立てする事が無いとも言えません。 一方有るだけのものをばら撒き失い、
貯えも無く貧乏に陥るのも貴賎上下に良くある事です。

また倹約と吝嗇とは内容がよく似ているため、吝嗇者を倹約人と見違え、又よく倹約を
する人を吝嗇人と評する事がよくあります。 しかしながらこの二つは財産を用いる事が
必要な時に、用いるか、用いないかで二者の違いは明白です。
此事から権現様を考えると倹約をなされたに違いありません。 理由は次の通りです

台徳院(秀忠)様の時代に勘定方に対して、上より幕府の財政状態についてお尋ねが
あり、関係者が集まり評議しその結果を一紙に認め、これを伊丹順斎が或日土井大炊
頭殿へ対面の上、この書類を持ち出されました。
土井大炊頭殿より「此書類を見るべきでしょうが、概要について聞かせられたい」との事
で順斎が説明されるには「現在では旗本衆の大身小身に限らず蔵米から給与として下
され、外の大扶持の方々、物頭の面々も同様です。 そのため諸国の代官所より江戸へ
の廻米の多くが運送の際に目減りし、更に蔵内に積んで置く間に鼠が喰い、ここでも多く
目減り致します。

今後は三四百俵取りの面々はこれ迄通り蔵米から支給し、五百俵以上の面々は知行所
へ家来を送ることもできるでしょうから、地方の知行所から直接取らせ、又大扶持を戴く者
達は俵数を知行高に換算し、地方でのみ支給する様にすると、大変徳になると言う事を
勘定方皆で考えました。
其上蔵米は多く三四年分は年を越すので米は虫喰いとなり、こんな俵に当った者達は
大変当惑致します。廻米の持ち高を減少させれば蔵内の持ち数も減り、効果は早々
表れます。これらの事を書類に致し、お城で関係重職の皆様に差上げるつもりですが、
同役達に意見として事前に御内意を伺いたく参上致しました」と述べるのを大炊頭殿は
聞かれ、「そのことであればこの書類を見る迄も無いでしょう。只今あなたが言われた趣旨
は、権現様が関東御入国をなされるの先立ち御指示がありました。

其の節の上意に「我等は当城を居城として定める以上東西南北の諸大名を始め、天下
万民が当所へ寄り集まる事になるので平常でも廿日、三十日も入船が無ければ、あらゆる
物品の値段が上り、諸人が困る事になり、まして異変が起こり廻船の運送が不自由にも
なった時、江戸中の人々を誰が食べさせるのか、従って我等自身の損失がある事分って
いるが蔵米を潤沢に貯えて置くことは、天下を預かる者の役目と思うためである。

従って当面の損得ばかりに気をとられ、天下大変時の心掛けが無いのは下の勘定方など
の考えそうな事である。 それを勘定頭達に言わせ、そんな事を我等に申し聞かせるなど
了見違いである」と大変ご機嫌悪くその時、老中方へ言われた事は
「一般に大名が出かける時雨具等を持つ中間達が悦ぶような事はせぬものである」と上意が
あったので以後皆が集まり、雨具を持つ事はどんなお考えがあっての上意なのか、と不審
を抱き種々考えると、

この廻米徳用の考えの書類の中に、末々の御奉公人達が虫喰の米に当れば皆困ると言う
事を強調しているので、上覧されてどんな上意があるだろうと推量する事に似ていると聞こ
える。 と言う事で此度の目論見も同様なので無用である」と

書類を返され、順斎は是を受取り、「唯今お聞かせ戴き、よく考えず不調法な書類を差上げ
御迷惑を掛けました。このような不調法な事を申上げたにも拘らず結構なお話を承り、今後
の私共の心得となります。」といって帰宅の由。  此件大野知石の話しで聞きました。

結論として権現様は倹約の考えは持って居られたが、吝嗇というものではなかった
と考えます。

 
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         御使役の事
質問、以前には旗本の中に御使番、御使役衆として二段の役が有ったと
聞いて居りますが其の通りだったのでしょうか。
答、其の件で私達が聞いている事は、台徳院様の時代に大坂へご出陣の時より始まった
ようです。 詳細は譜代旗本衆の中で数度の出陣で走廻り、奉公された人々を撰んで
仰付られました。 

小栗又一市殿などは物頭でしたが、武功の人だったので御使番役までも兼ね勤める様に
仰付られたそうです。 従って先ずは老人ばかりのようになり仲間嫌をするため、人数が
少ないのに増やすのも難しかったようです。 そのうち寒気の時など老人にとり特に大変
だろうという事で、諸番より撰び仲間入りを仰付られました。 其の際に御使番と言う名前
ではなく御使役とされ、伍の字差物は許されず、母衣差物を仰付られたそうです。 

大猷院様時代の始めの頃までは、この古い御使番衆が残っていましたが、この人々も
引退となり、其の後は何れも御使番と号して伍の字差物も全部に許されました。
という事ですから御使番、御使役と二段が有ったのはそれ程昔ではないといえます。

又質問、この伍の字差物は御使番の人々に限られているように聞こえますが御道開
奉行でも差物に伍の字を使っています。 何か理由があるのでしょうか。
、私達が聞いているのは御道開奉行という役職は、小田原陣の頃までは当家には
無かったもので、慶長五年関が原の陣の前に、戦に備えて道路や橋を検討する役人が
必要ではないかとの評議があり、御使番衆の中から庄田

是以降底本を公文書館所蔵写本に変更)
小左衛門殿に御道奉行役を仰付られました。 ところが小左衛門殿が云われるには
「御奉公の道は何事でも勤めることはこれまで通りですから御請けします。只老人には
病煩いも有り、私壱人の役というのは困りますので同役を仰付下さい」 という事でしたが
出陣が近く、 その際必要な御使番衆から撰ぶのは難しいので、大御番衆の内より武功
の仁を撰び、小左衛門殿の相役に仰付られました。 この仁も伍の字の差物にて勤められ
ました。 関が原の陣が終わり、庄田殿は元の御使番へ戻られましたが、御道奉行は今後
も必要であるという事で、又大御番衆の中より仰付られ、此仁も先役に順じて伍の字の
指物です。大坂冬夏両度の陣における勤務以来、道奉行衆も伍の字の差物になりました。

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         小十人衆の事
質問、当時旗本のなかで小十人衆と言う人々は皆、由緒正しい方々であり知行を
戴く上、更にお扶持までも下され、具足なども一領づつは皆自分の嗜みのものを
所持されているのに、若しも将軍が出陣などの節は、幕府より配られる貸具足の外に
は自分の具足を着用されてはいけないと有り、 是には何か理由があるのでしょうか。 
、この様な事は公辺の事ですから、私達などが詳細を知り得る事では有りませんが
あなたの質問について私の知ること一通りを申上げます。 小十人衆というのは何れも
騎馬役とは違い、将軍動座の時に馬の廻りに徒歩でお供する役であり、できるだけ
身軽くかけ回ることができるような出立が必要です。 従って自分の嗜む具足などを
着用していてはこの役目は勤まりません。 

小十人方の御借具足というのは世間一般に海老がら具足と言われ、非常に軽く簡単
につくられています。 それゆえ元気のない者、又は老人、病人が有っても行進の
邪魔にならない事が肝要で、具足も全員一色の作りが大切となります。
将軍の馬廻りの事ですから極めて機能的になっています。

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          八王子千本鎗の事
質問、今でも八王子に千本鎗の頭衆、その組の者が駐屯していますが、これは
何頃からの事と聞いておられますか。 
、私達が聞き伝えられているのは、当家が三河に有った頃以来の長柄鎗衆と云われた
人々が、関東入国の際に全員が御小人衆の仲間へ加えられ、御陣、御上洛など有る時
長柄鎗でお供しました。 

この仲間に、武州八王子にて新に召抱える様にと仰付けられました。 其の頃は日光の
火の御番等の役も無い頃で、何れも役職のない時だったので、野田を切開が作業が主で
幕府より下される知行は少ないものでしたが、暮し向きのため我も我もと奉公願いをしました。
其の中には八王子滝山で先の城主である、北条陸奥守氏輝方に下働きで仕えた者達、
又当時甲州からも大勢移ってきた者達がこの御小人に採用されました。 その頭達の大方は
信玄の下で勤めた者達へ仰付られましたが、思召しあっての事でしょう。 
その時には長柄数も五百本だったものが、関が原の陣の頃から鎗数も多くするよう仰付られ、
台徳院様が木曾通を関が原へ御出馬されるときにお供を勤めました。

権現様時代は勿論、大猷院様の時代、更にそれ以後も千本鎗については御老中方が
支配することになっています。 従って御動座の時、長柄の配置、使い方などについては
他家の長柄鎗の使い方等と変わっているかも知れませんが、公辺の事ですから私達など
には確実なところは分りません。


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       三池伝太御腰の物の事
質問、権現様が駿府の城内で御他界になられた時のご病気はどのような症状だったか、
あなたは聞いておられますか。
、私達が若い頃までは直参や陪臣のなかで権現様御時代の事を良く覚えている人々も
多く居り、その人たちの書物や話に度々接しました。

御鷹野に行かれた先でご病気になられましたが、薬を飲まれ、直ぐに気分が直り、お帰り
になりました。 それ以後少しも食事を召し上がらないけれど、それ程ご容体に変りも無い
ので、追々快復されると事と周囲では見ていました。 ところがご自身では「今回の病気は
快癒しないであろう」と云われていました。 従って江戸からはお見舞いとして将軍も早々
に駿府へお出かけ、ご到着されましたが、ご面会には御側付きの人々もお払いになり、
ご両所だけでお話される事が度々ありました。

その際将軍は、日頃御隠居様付きでお側に仕え、話相手ともなっている人々を呼寄せられ、
「例え御前様が死後の事を云われても、なにやかや申上げ、他にお気持ちが移られるよう
お相手し、少しでもお心を慰める様申し合わせてお相手をするように」 と云われ皆これを
承りました。 この件は上意までもなく、前から関係者で申し合わせ、御鷹野や御乱舞の事
など雑談で申上げたものの一向ご関心を示されない様子だったので、又々申上げたところ
お側にいた天海僧正が是を聞かれ、「外国、日本であろうと又僧侶、俗人に限らず大悟明哲
の人というものは、予め自分の死を知り、他の事は放置し、自身の後の事だけを言う事に
決まっているものです。 大御所様は今度の事はご病気の初期に、多分快癒しないで
有ろうとの趣旨を私などへも度々言って居られましたので、ご自身の後の事だけを伝え
聞いて下さい」と申上げたので、将軍も思い当る事も御ありと見え、其の後はもう上意も
無くひたすら落涙なされており、天海を初め御前に召し合わされた人々は皆涕を流され
ました。この事は他では聞いて居りませんが、八木但馬守殿が浅野因幡守殿への物語
された内容です。

さて御他界の前日十六日の晩方、其の頃御納戸衆を勤めて居た者と思いますが、
都築久太夫という人を召し呼ばれ、以前に差して居られた三池の銘刀がありましたが、
これを取り出し持ってくるように仰付られました。 直ちに持参したところ、「この刀を其方
は牢屋に持参し、罪人の試し切りをして持って参る様に」 と上意が有り「畏まりました」
と言って御前を立って次の間まで出たところ、召し返されたので御前に戻ったところ
「罪人の中で是は必ず死罪という者がひとりもなければ、ためしは不要」と仰せられました。
しかし幸いに極悪人が居たので、試し切りを済ませ御前に戻りその旨報告したところ、
枕元に置かれている刀をためしの銘刀に取り替えて置様に仰付られました。
其の時はご容体も大変重い状態でしたが、このようなときに極悪人が無ければおためし
無用にせよ、との上意は、孔子の高弟、曽子が末期に床を担いだと言う事に匹敵する、と
人々は言い合いました。

又質問、この三池の銘刀によるおためしを仰付られた事は如何なるお考えでなされたか、
理由などご存知ですか
、前述の通りの次第で、 おためしの事実に関しては誰も知り様が有りません。 但し私
たちが若い頃、神道の奥義を究めた老人が居りました。 御他界の前、三池典汰の銘刀の
おためしを仰付られ、枕元に置かれた件に付き、この老人は「仏教の教えには無いが、
神道の奥義では道理もあること」 と言って居りました。

それでは大御所様は御他界なされ、此世を去られたのか、否 御当家の守護神として
東照大権現となられ、崇め奉る事になりました。
詳しくは、我国上代の諸神達と言うのは在世の時に、特に善行有る人々が即ち神と
あらわれ一般の人はその徳を尊敬し、神として崇め敬うことです。 その神達の在世時の
善行に付いては伝記に書き記してあるで、知識のある人々は一読すれば納得できる
はずです。

東照宮様の御在世中は智、仁、勇の三徳を兼ね備えられ、その善行の内容は、上代の
神々と言われている人達に勝りこそすれ、少ないとか劣ることは有りません。 従って
上古にも類稀な御霊神と言うべきでしょう。古人(孔子)の言葉に「その鬼に非ずして
是を祭るは諂
(へつら)えるなり」とあります。 
去る慶長五年の関ケ原の戦い以後、ご当家の譜代衆は勿論のこと、外様大名衆でも
権現様のご恩沢を蒙らない方々は壱人も無いはずです。 そのような人々に取り、
東照宮様は「其鬼に非らず」とは言えないことです。

平日武運長久息災延命の祈祷については言うまでもなく、若しも自分自身始め一家の
中で重い病人があり立願等する時は、東照宮様へ先ず御願いすることです。 世俗の
諺にも「神もひき方」と言いますが、信実の御願さへすれば権現様も後回しには考え
られず、即ち御神力をもって叶えて下るでしょう。 一方その霊験ある近くの東照宮様を
差置いて、鬼に非ざる佛神達への立願をするのであれば、一国その意を得ることが
難しくもなります。 或譜代大名が病気となり、東照宮へ立願したところ早速効果の
(しるし)が有った事を私たちはよく覚えて居る事です。
    

八木但馬守(守直1603-1666)但馬の豪族の流れで江戸前期の旗本、秀忠近侍4000石、家光にも仕える
三池傳(典)太光世 平安時代後期、九州筑後の刀工。 秀吉が所持していたものを前田利家に与え、以後前田家 で今日まで伝えられているものもある(大伝太、国宝)
其鬼に非ずして・・・ 論語、為政第二 「子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不為無勇也」 自分の祖先でもない神を 祭るのは諂いであり、 人間としての義務を放置して行わないのは勇気が無いからである。 此処で云う鬼は鬼籍 に入った祖先を指す。


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           洪水の噂の事
質問、近年には諸国ともに毎年の様に洪水があり、堤を押切り田畑を損耗させますが、昔
からこの通りでしょうか
、昔も年によって洪水もありましたが、近年と同じでは無い様に思われます。
但し堤防や川際に土石積みも念入りに行い、丈夫にして置けば洪水は無くなります。

さて水害や洪水は物の怪であると考えるのはよくありません。
詳しくは、天下乱世の時代には洪水は頻繁では無く、たとえ水害となっても皆余り苦労に
は考えないものです。 洪水が頻繁に有るのは治世が長く続いているからではと、不審に
思うのは間違いといえます。

又質問、乱世には洪水は稀であり、治世になると洪水が頻繁に起こるというのは納得が
行きません。
、乱世が続けば彼方此方で大小の合戦が度々あります。 その合戦の都度、多少は
有っても双方に討死の者が必ず有ります。 例えば一度の戦に討死の者が千人有ったと
すれば、その内侍分の者は百か百五十で、残る八九百人の死亡は大抵足軽、長柄、
旗持等を初め、其の他雑人達ばかりです。 
その訳は侍分の者は皆相応に具足や甲を着て身を囲っているので、たとへ弓、鉄砲に当
り、鎗、刀にて突かれても実は手疵も浅いものです。 その上古来より、勝ツ手前は人を
討ち、負たる手前は人に討たれると言う通り、 戦い負けて敗軍なる方に討死は多いもの
です。 その敗軍であっても侍は馬に乗って引上げるので討死の者も少いのは
当然の事です。

さてその大量に討死した足軽、長柄、旗持等を初め、鎗持、馬の口付等者達までその補充
を抱えなければ、武士の重ねての軍役は勤らないので早速補充に努めます 。しかし治世
の時に比べ牢人の下々と言っても稀にしか居らず、いきおい自分の知行所の百姓達の中
から器量の者を撰んで兵士とし、死亡した者達の代りとします。 そのため段々知行所の
百姓は少なくなり、作り手の無い田畑が多くなります。 残る百姓達は本来自分田畑で
あっても、地面の良くない場所は捨荒らし、良い田地だけを作るようになります。 従って
遠くの野田、山畑などは捨置くため、山畑は木立となり、野田は一面の草野となります。 
そのため、たとへ大雨が降っても暫くは草木の枝葉に雨を受け止めてから河に流れるのは
明確な道理です。

治国下では郷村の人も多くなり、皆自分の田畑を作り田畑が不足するので、山を切開いて
は山畑とし、裾野の芝を開いては野田とします。 そのため少しの雨にも山里の土砂が流れ
出て河水へ流れ込み、段々と川底が埋るので水は浅く、川幅は広く流れ、堤坊や川際の
破損も繁々と起きる事になります。

是に付いて今から七十七八年も以前の事ですが、私はある事情で橋場楤泉寺に暫く居た時、
門前の百姓の隠居で九十才になるという老人が昼夜とも楤泉寺の茶の間へ来ておりましが
其老人が話すには 「手前など子供の節は浅草川の幅は今の通りではなく、干汐の節には
大変浅く、狭く流れるので川向の子供、此方の児共と川端に立向って石つぶてを投げ合った
ものですが、いつとなく唯今の川幅になりました」 と雑談していたのを聞いております。

但しこれは関東だけの問題ではなく、私達が若い頃摂州高槻の近所、伴田という所で百姓
の家で休んで居たところ、淀川を登ってゆく船が間近に見えました。 中に乗って居る男女の
人数までも見えるので、その家の隠居らしき老人が居たのに向かって、「以前よりあの通りに
見えましたか」 と尋ねたところ、その老人が話すには 「私は当年八十六才になります、
私達の若い頃はあのような高瀬舟の帆だけが見え、船が見えることなど無かったものですが、
何時とはなくあの様に船が間近に見える様になりました。当時は此所の堤防が切れて水が
出る事は滅多に無かったことですが、只今では頻繁に水が出て困って居ります」 と老人の
話を聞きました。

又質問、洪水の件についてはよく分りました。ところで乱世には武家は彼我ともに使用人に
事欠き、知行所より百姓を呼寄せて家人とすれば、郷村には人が少くなるのは明らかです。
このように百姓が減っては収納米も減少する他なく、恐らくそこの地頭である武士の身上も
続かなくなる筈であり、この点納得できません。
答、あなたは治世下の武士と乱世下の武士の様子を一所と考えているのでその様な不審も
出て来るのです。
 
治世下で武士というものは大身、小身ともに身のかざりや外聞に重きを置き、住居等も美麗に
作り、それに似合いの家財道具等を取り揃え、自分を始め妻子等に至るまで身なりを良く
したいという栄雅の気持により物入も多くなり、知行所より取納めた物だけでは足りず、借金、
買掛などをすることになります。

一方乱世の武士は治世の武士とは大きく違ひ、住居などは小屋懸同前に作り、屋根なども
当分雨さへ漏らなければよしとし、下敷にはねこも等を用いるような状態で、客を招いての
接待も無いため諸道具を揃える必要も無く、自分の衣類を初め、妻子まで布子や襦袢の外
には何も着ないといった有様です。
自分が軍陣に在る時は塩を混ぜた汁をすすり、黒米をそのまま炊いたものだけを食べ、世間が
比較的安穏な朝夕でも、料理に好き好みも無く、具足下で死ぬかも知れないと思い、乗馬の
一疋も持ち元気な若党鎗かつぎの壱人も欲しい、と考える他には何の望も無く、無益な出費
には一切関わらないため、たとへ知行所より収納物が減少しても、大して難儀には思わない
ものです

私達が若い頃武家の下々では杵のあたっただけの様な下白のもつそう飯にぬかのみそ汁を
添えて食べさせていたのは、戦場で悪飯米を塩汁で食べさせていた事によります。
今時は武家の下人達とても米は白くつき、糀の入った味噌汁で食べさせなければならない
様になり、ややともすると米が悪くては汁の味が無いなど、ねだりごとを言うようになりました。


30
          以前町方風呂屋の事
質問、大猷院様の代までは権現様、台徳院様の代の様に奉行衆や諸役人方を御前に召
し出され、ご用があれば直接にご指示を仰付られる事もあったと伝えられて居ますが、
あなたは如何様に聞いて居られますか
、私達もそのように聞いております。

それにつき大猷院様の代、或時当時の町奉行米津勘兵衛殿を御前へ召され、
「昨夜麹町通りで牛込組の徒の者達と近くに住む浪人者との喧嘩が有った様だが、
其の通りか」と上意があり、勘兵衛殿が申上げるには「私は未だその様な事は聞いて
おりません。多分町方の問題では有りますまい」とお答え申上げれば、重ねて上意が
あり、「たしか麹町での事件であるから、其方の管轄のはずだが聞いていないのか」と
不審がられるので、勘兵衛殿が申上げるには「上意にある事ですから、多分喧嘩が有った
事に相違はありませんが、双方共に直ぐ其の場を引き分けるとか、又ハ町内の者達が
仲裁して、無事であれば手打ちをし、その町の役人も被害がなければ取上げる必要
なしと、兼ねてから決めておりますので、役所へは訴え出なかったものと思われます」と
申上げれば、喧嘩の次第を詳しく調べて届ける様にと上意があり、勘兵衛殿は御城より
退出するとそのまま調査されました。

翌日登城されると、又御前へ召され、尋ねられたので「昨晩にその所の役の者を呼んで
調査致しましたところ、確かに喧嘩はございました。 場所も昨日の上意の通り、麹町にある
風呂屋前でございます。一方は拾人ほどの集団と見え、一方は唯壱人で双方共に刀を抜
きあったようですが、喧嘩の場所があまり良くないと思ったか大勢連れの方の者達が立ち
退いたところに、町内の者達が間に入り、壱人の方を取押へ、無事に収まったので取上げ
無かった旨、町役達が言っておりました。 壱人の方は上意の通り浪人ですが宿元も
分って居りますので、当分宿預を申付けて置きました。 又大勢連の方は牛込組の御徒
の者でも無く推量の域を出ない様です」との申上げに対し、上意は「大勢連の方が徒士
仲間の者達に決まれば勿論、 もし又他の者達が徒の者達の様に取繕う事も無いとは
云えない、何れにしても調査すべきであり、其方の管轄の浪人者についても見落としなど
無い様にせよ」と。

勘兵衛殿は「調査を仰付られば直ぐに知れる事ですが、大勢連の方がもしも御徒の者達で
あれば、ご調査の上双方共に相当の御仕置を仰付られるべき事で御座います。 その場合
御当地中の評判となり十人程の御徒の者が、たった壱人の浪人者に切りまくられ、遁れ
退いたとあっては、御旗本の名折というもので御座います。 従って、これ以上の調査を
仰付られるべきでないと存じます」 と申上げたところ、たいへん御機嫌を損ねられた様子
なので、勘兵衛殿は恐入て退出され、その翌日より病気との事で引き込まれました。

その様なとき或日の朝、御側医師が病気見廻ということで来訪あり、過分の事と対面された
ところ、その医師は「手前は此度泊り御番で詰めて居りまし所、上意があり、米津勘兵衛は
病気で引篭もっているそうだが、普段は非常に元気な者だが如何しているか見廻って様子
を見てくる様に、と仰付られました。 唯今御城よりの帰り掛けに立寄りました」 との事ゆえ
で、勘兵衛殿は涙を流され、「それは思いがけずありがたい事です。 このところ少し気分が
悪く引き込んでいましたが、大分良くなって来ましたので近々出勤いたします」 と申される
ので脈など見た上「上意で出よ、とあれば今日からでも出勤されて良いでしょう」 と言われ
その翌日に登城されたところ、又御前へ召され、早速病気快復の段の思し召しがあり、
ありがとう御座いますと、御前を立ったところ「先日、宿預にしておいた浪人者は赦して
やったか」と上意があったと言う事です。

この様な事から考えて見ると、勘兵衛殿に限らず他の御役人方も折々に御前へ召し出され、
直接ご指示を仰付られているように思われます

又質問、当時町にあった風呂屋とはどんなものだったのでしょうか
、私達が若い頃まではこの風呂屋は江戸の所々にあったと確かに覚えています。これら
風呂は朝より湧かし、夕方七つ(四時)になると終了すると決めており、風呂へ入る者達の
垢かきをしてくれる湯女も七つで仕舞、それからは身支度を調へます。 暮時分になれば
風呂の上り場に用いた据子の間を座敷に仕立て、金屏風など引廻し燈火も点し、例の
湯女達は衣服を改め三味線をならし、小歌などを唄い客集めを行います。

この様な風呂屋は木挽町辺にも一二軒あり、石野八郎兵衛殿組下の御徒士衆で小栗田
又兵衛とかいう人がこの風呂屋前で喧嘩を仕出し手疵など負われ、お調べとなり場所柄も
宜しくないと御仕置になった事もありました。
それ以後間もなくこの手の風呂屋の御停止が仰出され、江戸の町の風呂屋は悉く潰れ、
増上寺門前に只壱軒だけ許されていましたが湯女は御制禁となりました


米津勘兵衛田政 江戸初代南町奉行(在任1604-1624)、徳川譜代の臣、家康の小姓、秀忠近習、御使蕃、板倉勝重の下で奉行職研鑚をへて南町奉行


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          飢饉の噂の事
質問、当代(徳川家)になり、何時頃でしたか江戸町中の米の値段が急に騰がり、その
結果乞食も多く出来、飢死した者も有ったと伝えられる飢饉の状況は、どのように聞いて
居られますか
答、私達が聞いているのは大猷院様の代に、江戸の米問屋仲間の者と仲買の町人が
結託して、大量の米を買い占め、其の上諸国からの入船を押えたので、町中の米の値段
が急に上がりました。 原因調査を厳しく指示されたので、全てが明らかとなり、問屋や
仲買い人が多数御仕置きに遭った節、浅草御蔵の手代の中にも、この町人達と共謀した
者もあり、是も又御仕置になりました。 それからは米穀の値段も下り世間も静かに
なりました。 この様な飢饉というものは全て悪党の仕業であり、天災の飢饉というもの
ではありません。

又質問、天災の飢饉というものは、どのような場合を指して言うのでしょうか。
、天災の飢饉というものは古来より伝えていますが、私達が聞いていますのは、日本
国内の六拾六ケ国には大中小の国々があり、押並べて何拾万石づつの国、六拾六ケ国
とし、その十分一の国数の生産高程を皆損したと仮定すれば、その年の翌年の春中から
の麦作ができるまでの間の四ケ月程は必ず飢饉になるとの事です。然しながら、その様な
凶年は古今に稀なことです。
特に当代のように天下一統の時代では、たとへ天災の飢饉年が有っても幕府の威光に
より、お救いがある状況では、上の思召次第というものです。

それにつき天正年間の事だったでしょうか、五畿内が大きな不作となり、米穀の値段が
高値なったので、貧しい者達は飢に苦しみ、其の上乞食も多く出来ましたが、米穀が払底
し他人の救いや施しなども無く、道に倒れ伏し死亡する者限りなし、という状況でした。
豊臣秀吉公がこれを聞かれて非常に気にされ、急に加茂川、桂川等の堤防普請を
指示され、土砂を持運ぶ者達には金銭を与へられ、飢饉の難儀を遁れました。
秀吉公は大変才知のある人でしたが、天下一統にはなっておらず、諸国の米穀運送を
命令する迄には力及ばなかったので、やむを得ず私財を投じて飢饉を救われたといえます。

御当代の場合は北国筋を始め、出羽奥州の米穀であっても、海路を滞りなく諸国へ運送が
自由にできることは、偏に東照大権現様が天下一統の大功を立置かれたことによります。
従って慶長五年庚子の年以来、百三拾年に及びますが、この間大飢饉が無かったのは
廻米運送が自由であったためです。このことから考えると、どんな天災であっても人々の和
には対向できない、という道理もあるかと思われます。

又質問、諸国において今年の作の出来不出来により来年の飢饉を予測するとあり、それも
あり得ることですが、日本国といっても広大であり、その詳細を知ることは難しいと思われます
、其の事は慶長年間に権現様の代になり仰出された事は、今後は領地、拝領に限らず、
旱魃や大風による被害、洪水により田畑の損耗による米穀等の減少の次第を細かく上申
する事、と決められました。 唯今に至っては国主殿の方、又はお代官達による書付に
よって幕府の勘定所へ訴える方法で、状況を明確に知ることができ、幕府より手当が
与えられるので、万一古来から言われているような天災の飢饉年に廻り合わせても、国民が
その災難に遭い死亡するようなことは決して無いと考えられます


32
        武士勝手噂の事
質問、近頃は諸大名方を始め、諸旗本衆のどちらの家中でも十人中九人まで家計が逼迫
しており、余裕のある武士は稀ですが以前よりこの様だったのでしょうか
、一般に乱世の時代には大身小身に限らず武家で家計の成立たない者は無く、町人、
百姓、出家等の人々が皆一様に貧しかったものです。 

その訳は、乱世には例え小身といっても武士であれば、その身分相応に人を使い、勢いも
あります。 ましてや国郡の主にある人々は特に権威盛んであり国民の尊敬も、治国の
時代と比べたら格別なものです。拝領している土地の町人や百姓も、乱世の時は他国との
売買などは決してできません。 夫々の武家家中の奉公人達も戦の準備のみに専念し、
彼我ともに栄雅がましい事は好まないので、自然そこでは売買も成り立ちません。 金銀を
多く持ちたいと思う者も置所を気遣のが面倒となり、道理を考え御用があればと皆が差し
出すので、国郡の守護たる人々の処に領内の金銀は皆集まってく来るものの様です。

この様なときは家中の侍達は、先ず今日の命は恙無く保ったが、明日は戦場で討死する
かも知れず、と世をはかなく思い来年の暮には間違いなく返済するという証文を用意し、
印など押して人の物を借りる事など、油断の至り、大きな恥辱と思うので自分の身上相応
に暮し、無駄な出費を押さえるものです。

一方治世の武士は貴賎ともに太平の時代に甘んじて心も緩み、栄雅の望みも出、身上に
不相応な暮しをするので主人より戴く給料だけでは間に合わず、人の物を借りて其の場を
間に合わせます。 その金銀には利足を添えて返済することになるため跡引となり、段々と
借金を重ね、最後には跡へも先へも回らず大きな負債となります。 この様な家計になると
借りたものも返せず、借金の保証してくれた人にも苦労させた上、損までもさせ、それを
なんとも思わない武士にあるまじき者となり、これを世俗の諺では、貧すれは鈍(貪)する、
といいます。

この状況をよくよく考え、いかに平和で静かな時代とても、武士として生れた以上上下を
限らず、戦場常在の四文字を常に頭に置いて、身の栄雅を好まず、貨疎貨朴を宗とし、
多くても少なくても主人より戴く給料で暮らそう、とさえ覚悟を決めれば、それ程自分の家計
を傷めるものでは無く、武士の本意を失うような事にはなり様もありません。

就中、近年になって大身小身の武士の家計が悪化した事に理由があります。 なぜかと
いうと.元禄年間に米の値段が高値になり、それまでは百石の知行米を売ると金子
百両を得た者は、金子の弐百両かそれ以上も得る状態が二三年も続きました。 誰もが
是が当たり前と勘違いをしたことから、以前より有った家を拡張し、家人も増やし、その他
今までやらなかった事を始める等、身のほどを弁えない暮らしをした所、予想に反して米の
値段等も下り、受け取る金子高も減少し、家計が大きく狂って来ました。 しかし又この様に
米が安くなる事も無いだろうと暮らしている内に、益々米の値段は下がり、以後は跡引と
なり借金なども嵩み、大きな負債が残りました。 

一般に私達が若い頃までは、大名方の中で家計が思わしくないところは無く、もし有ったと
しても世間に知られない様に家来が働いたものです。 それというのも家中の侍達までが、
家計が成り立たないのは恥辱の様に心得ており、無くても有るような振りをしたものです。


33
         留守居役の事
質問、今時は諸大名の家々には留守居役というものがありますが何時頃から始ったと
聞いておられますか。 
、私達が聞いておりますのは台徳院様の代に、薩摩中納言殿が申上げられ「私の
領地である大隈、薩摩は遠国ですから御当地の事を聞くのにも多くの日数が懸り、急ぎ
のご奉公には間に合いません。それについて私が在国している間は、家老を壱人づつ
留守居として御当地に駐在させますので何事でも急用が御座いましたら、この留守居の
者が私の名代として御用等を仰付られ次第に勤めるように致します」と願いがあり、直ぐに
了承されました。更に留守居役の者は城内の様子も知るようにしたいとあり、御目見えも
ゆるされることになりました。

その様な訳で今の留守居家老で御目見が許されているのは薩州の家に限られています。
しかし平常の国元土産の献上や御目書、奉書等をお渡しするのは留守居家老である
必要はなく、誰でも家中の侍達で良いと言う事になりました。 初の内は家中の侍が順番
に勤めていましたが大勢の中には全く社交下手の者もいるので、後の方では人を決めて
差し出す様になりました。 それを名付けて御城役とか、又は聞番役などと云いました。
初め小身の大名方ではその様な者を留守居役とも云って居りました。

又質問、その頃の御城役、聞役などの人々の勤めぶり、又は仲間同士の寄合などは、
当時も唯今の通りだったのでしょうか。
、留守居役人の組合や寄合などは確かに当時からありますが、少しは変った様でも
あります。

詳しく言うと当時の留守居役の組合とは、各々の屋敷毎に主人同志の間柄が親しく、
しばしば会合するような家同志の家来達が話合って組合を作ったものです。 大方の
組合の仲間は七八十人以内でした。 理由は夫々の家中でその聞役を勤めている
ような者達は上屋敷の長屋住いのため、座敷といっても手狭で多くの人数は収容でき
ませんでした。 又寄り合いの時の接待などもお互いに申合わせ一汁三菜として、汁は
精進、三菜の内一菜は必ず精進物にしました。 お互いに主人の用事で寄り合うので、
たとへ自分の都合悪くとも寄合を欠席しない様に申し合わせていました。 
さて、主人達からはこの寄合日になると料理として魚鳥の類一種、その他に茶、酒など
も差し入れがあり、料理人や茶坊主等も必要なら使う様な事も留守居仲間の申合に
ありました。

この様な関係である為、廻状等も組合仲間の外には決して廻さず、主人の耳に入れて
置くべきものは良いとしても、虚実のはっきりしない世間の情報や無益な事は廻状に
載せない、ということも申し合わせていました。
この様な事は比較的細かいことですが、時代もかなり以前の事なのでいい加減な事を言う、
と疑われるかもしれませんが、私の若い頃の事で確実に知っていることです。 関係の
家々にお尋ねになれば真実と言う事が分ります。

当時桜田辺では八人の留守居の組合があり、丹羽左京太夫殿の留守居、植木
次郎右衛門、内藤豊前守殿、同鈴木与左衛門、小出大和守殿、同篠山又右衛門、
金森長門守殿、同水野喜右衛門、松平周防守殿、同南弥五兵衛、仙石越前守殿
同井上市郎兵衛、浅野内匠頭殿、同井口与三兵衛、浅野因幡守殿、同徳山
四郎左衛門 以上八人の組合です。

さて、当時の留守居の勤め方で私が覚えているのは、或夜、非常に強い風が吹き
ましたが、その翌朝になって金森殿の留守居、水野嘉右衛門より組合仲間へ廻状が
出されました。
それには昨夜中の風で当家の屋敷で虎の門の方へ向いている表門の扉三四拾間が
全て吹倒れました。主人長門守は留守中であり、表通りの事ですから、今日中に
掛直したく、御手の大工弐人でも三人でも、又人足は何人でも貸して戴きたい、との
事だったので七ケ所の夫々の屋敷から大工、人足が向かい、その日の夕方には
全ての塀を直し、色までも塗り終わりました。

次には、その頃留守居仲間の兼ねての申合せで、十二月はお互いに用事も多いの
例会の寄合は中止としていましたが、下旬の廿三四日の頃、松平周防守殿留守居、
南弥五兵衛より廻状が有り、急いで面談しないと解決できない問題があるので、来る
廿五日寄合を御願いすると言う事でした。

何事だろうと何れも急いで集まった所で弥五兵衛が云うのは「皆さんにお出で願った
のは他でもありません。 主人の在所である石州浜田から、この暮にこちらで必要な
銀子を大坂に依頼したところ、為替の金子請負の町人との間に何か手違いがあり、
少しも渡して呉れません。当家中の者達に年をとらせる事ができない(年末の諸決済
が出来ない)と関係役人は困っています。 主人の用事にも差支え困っていますので、
何とか金子五六百両ほど手当てを御願したい」との事でした。

仲間一同は、その様なこととは知らず何事が起こったかと驚いて参りましたが、其の事
なら何とか成るでしょう、と云って料理を戴いた後、金森殿御留守居、水野嘉右衛門方
へ集まって、出金の割合を決め、翌朝になって金子六百両を用意して、弥五兵方へ
持たせました。

大晦日の暮前になって、只今の為替金を渡す頃になり、返済するとのことで弥五兵衛
方より役人をつけて持ってきた事を私も良く覚えています。 この様な事から考え見ると、
その当時の留守居仲間と今時の留守居仲間の勤方はやや違いがあると思われます。
巻5終り


薩摩中納言 薩摩守島津忠恒(1576-1638)、家久と改名
丹羽左京太夫光重(1622-1701) 二本松、十万石
金森長門守頼直(1621-1665) 飛騨高山 三万七千石
松平周防守康重(1568-1640) 嫡子康映の時代か? 石見 五万石
仙石越前守政俊 父忠政(1578-1628)信州上田 六万石
小出大和守吉英(1587-1666) 但馬出石 五万石
浅野因幡守長治(1614-1675) 備後三次 五万石
浅野内匠守長直(1610-1672) 播州赤穂 五万三千五百石
内藤豊前守信照 1627年陸奥棚倉 五万石