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下田では画家もかなり自由に動けたためか、公衆浴場の様子まで描いています。 この絵はいわくつきで骨董屋のオヤジによれば、この絵は外の絵より高いのだ。 なぜかといえばこの遠征記の初版はまず議会に報告するために印刷したが、この絵を見て議員から「不謹慎である」と大目玉を食い、第二版以降すべての遠征記からこの絵は削除された。 だから希少価値があるのだと.。
どうもそれは事実のようです。
神奈川条約は1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に締結され、下田の開港は即日となっており、ペリー艦隊は4月中旬から約一ヶ月弱下田に留まり、上陸も行い条約で定められたことが実行されるか検証しています。 当初はかなり、上陸歩行の自由を日本側役人が牽制するということでギクシャクしたようですが、結局条約第5条に定められとおりに日本側も対応したようです。右のお寺はぺりー艦隊滞在中の臨時宿泊所として提供された了仙寺と思われます。
挿絵のタイトル 下田の大寺院における礼拝
第二次遠征で日米和親条約(神奈川条約)の締結を行った横浜の応接所で、添田日誌にも幕を張り巡らしたという記述があります。 応接所警護の武士が描かれています。 添田日誌によればこの横浜応接所は第一次で設営した上の浦賀応接所を急遽解体して運んだことが書かれています。
第一次遠征で大統領の国書を持ってきましたが、1853年7月(嘉永6年6月)、浦賀における国書受渡の儀式の様子を描いたものと思われます。

Devotions in the Greate Temple Simoda

Japanese Soldiers at Yokohama
Delivery of the President's letter

Pabulic Bath at Simoda

                   アメリカ艦隊日本遠征記挿絵

ぺりー艦隊の日本遠征についての公式記録 "Narrative of The Expediton of An American Squadron to
The China Seas and Japan"は1856年に出版され、挿絵が多数収録されています。 通常の白黒の
挿絵とは別に一ページに淡いカラー印刷してあるものがあり裏はブランクになっています。 下の挿絵は
本自体は散逸したためか、一ページものの挿絵だけボストンの骨董屋でバラで売っていたものを入手しました。