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                  小林高校三六会 人吉紀行
                    
−吉都線100周年 列車の旅−
   小林駅集合 2013年10月28日
 
五十余年前高校通学のため乗降りした駅で駅舎は
立て替えられているが、ホームはまだ当時の面影を
残している。 ホームから見る近景は田畑だった所が
住宅となり大きく変ったが、遠景の霧島連山は今も
昔と変わらず町を見下ろしている。
 この小林駅に吉都線(吉松ー都城間のローカル線)
を利用して西は吉松、東は高崎辺から小林高校に
多数通学していた。  叉この小林駅を始め、吉都線
の各駅は卒業後の旅立ちの駅でもあった。 
  
   青雲の 志秘め 旅たちぬ 
          母に送られ 後にした駅
 
    吉都線車内
 
11時頃の列車は吉松行二両編成だが五つ程ある
途中駅でも殆んど乗る人はなく、一車両は全員我々
のメンバーで貸切り状態である。 恐らく通学時間帯
であれば今も高校生で溢れるのではないかと思うが
未確認である。
 往時はSLで通学し、すし詰めと迄はいかなくとも
結構混んでおり席に座った記憶はない。 遠くに
誰それが居るなと分る程度だった。

  吉都線 昔マドンナ 今もなお
           残す面影 五十余年か
     矢岳駅 
 
 吉松駅から肥薩線(八代ー隼人間)に乗り換え
人吉に向う。 いさぶろうーしんぺい号という観光
列車で九州山脈の一角である矢岳を越える。 
  えびの盆地から人吉盆地へ向う山越えの真幸
駅ー矢岳駅ー大畑駅はスイッチバックやループを
取り入れた山岳鉄道で、夫々の駅で5分、10分と
停車しながらのんびりと山を越える。 肥薩線も開通
100年に当るという。 今は無人の矢岳駅には40年程
前迄山越えに活躍したD51型SLが展示してある。

    SLは 帰らぬ日々へ 引き戻す
              友と語った 通学の頃

    (左写真はクリックで拡大)
    人吉到着
 人吉はかって球磨と呼ばれていたが、江戸時代に
人吉藩となった。 藩主は鎌倉時代に関東から地頭と
して下向して球磨を支配してきた相良氏の系列で
ある。 小さいながらもたいへん古い家柄の大名家が
明治維新迄続いた。
 現在は温泉と球磨川下りや球磨焼酎が有名。
駅前にはお城の形をしたからくり時計があり、城下町
らしい雰囲気を出している。 時間になると色々な
窓が開いて殿様や家臣が現れる。

 さがらんぞ 六百余年を 治めぬく 
 
    球磨川下り
  15名宛三艘に分乗して1時間半の球磨川下りに
出発する。 急流として有名であるが、至ってのどか
な川下りだった。 聞くところによると、我々のコース
より下流は急流で、元々二種類の川下りがある由。
歳を考え緩やかな方に幹事が選んだものか。 当日
も水は多い方との事だが、川岸に生える雑木の枝
2−3メートル上迄ゴミが散見されるので、最近水面が
そこ迄達したものと思われる。 

 古稀を越え 同窓球磨に 舟ならべ
             川面に響く 青春の歌
   ホテル宴会
  川下りの後ホテルに到着、早速温泉に浸りながら
旧交を温める。 露天風呂から見下ろす球磨川の
流れと、その対岸の人吉城の石垣が夕暮れに包まれ
中々結構な眺めである。 

  夕暮に 湯煙けぶる 球磨の秋

  宴会は湯上りスタイルのリラックスした雰囲気で
食事と会話を楽しんだが、やはり女性は幾つに
なっても浴衣でという訳にも行かないらしい。
余興は恒例になった一千万円争奪のジャンケン
大会で盛り上がった。
   二次会 熱唱
 二次会はホテルからそのまま歩いて行ける場所で、
同窓のマドンナN子さんのスナックで行われた。
 参加者が40人を超えるため、隣のスナックも貸切で
歌に会話にと、N子さんの細やかなもてなしに一同楽し
く時を過ごす事が出来た。 皆古稀を越えた人たちと
思えぬ程元気に歌っていた。 五十余年の歳月が
人を大きく変えるのか、それとも元々歌が好き
だったのか、昔の姿からは想像できない程積極的に
マイクをもつ友も多かった。 

 青春の 忘れ物今 思い出し 
           手遅れなれど デュエットに酔う
    国宝青井神社
 青井阿蘇神社が正式名で起源は古く9世紀初頭
に遡り、12世紀末此地に地頭として下向した相良氏
の手厚い庇護の下で続いてきた。 現在の建物は
1610年(慶長15年)初代人吉藩主相良長毎の時代
に建てられた由で400年を経ている。 2008年に
国宝に指定され、熊本県で最初に国宝に指定された
建造物との事である。 茅葺の屋根がなかなか
趣がある。
    人吉城
 平安時代人吉荘という荘園を平家の一門が
管理し、この所に屋敷があった。 鎌倉時代に
相良長頼が地頭として下向し平家にとって代わる。
以後670年明治維新迄相良家が城主として球磨
地方を治めてきた。 鎌倉時代の守護や地頭で
江戸時代に近世大名として生残った家は全国的
にも決して多くないが、偶々南九州は鹿児島藩の
島津家、日向飫肥藩の伊東家及び人吉藩の
相良家と以外に多い。 これは中央政権から遠く
離れていた事も一因かも知れない。
 
  石垣を 廻りて門に 佇めば
           古の声 松風に聞く
   肥薩線 いさぶろう・しんぺい号
 往路・帰路とも人吉ー吉松間はこの観光列車を
利用する。 座席指定だが平日のためか一両我々
だけだった。 2日間で三六会は大分吉都線と肥薩
線に貢献したに違いない。

 
いさぶろうーしんぺい号の由緒は肥薩線開通当時
の逓信大臣山県伊三郎と鉄道院総裁後藤新平の
名をとった由
 帰路吉松で吉都線待ち合わせに一時間以上あり、
合計三時間半程のゆっくりした旅であった。 
 因みに小林から人吉に車では一時間位の由。 
山越えだけでなく最近では長いトンネルもある。
    車窓
 真幸駅ー矢岳駅の間の景色は日本三大車窓の
一つで、他の二つは長野姥捨駅、根室狩勝峠の由
 当日は少し遠景がかすんだが絶景である。 正面に
霧島連山を臨み、手前が川内川を擁するえびの盆地
である。 かって西諸地方と言われたえびの、小林、
高原はその昔明治以前迄は真幸院と呼ばれていた。
 戦国時代に真幸院領主北原氏の衰退により薩摩の
島津、日向の伊東、球磨の相良各氏の争奪の場と
なったが、最終的に薩摩に組込まれた。 江戸時代
に薩摩藩主の食膳に上るのは真幸院の米と決まって
いたほど米どころだったようである。 現在真幸と云う
名は駅名に残すのみである。

  (今回も写真は全て奥君提供による)

 あとがき
  昨年の古稀同窓会以来、今後は毎年企画すると幹事が頑張っているので楽しみにしている。 
何時迄続くか分らないが、体の動く中は参加して行きたいものである。 今回45名(女性18、男性27)
参加の由だが卒業以来初めてという懐かしい友の顔もあった。 同窓生の中で川柳や短歌を良く
する友人も多いので今回幾つか真似事をして見た。(大船庵) 


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