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鎌倉事件 探索状

  1864年11月20日、下関戦争(長州藩と英国)の直後、鎌倉八幡宮の前の四つ角にて
イギリス軍人である、ボールドウィン少佐とバード中尉の二人が、暗殺されました。 犯人は
清水清次という浪人で一ヶ月と経たぬ間に逮捕され、12月28日に処刑されています。 
別件逮捕された共犯者2名が12月16日には既に処刑されています。 其の時の犯人探索の
通達が当局より近隣の町村に出されましたがその記録を教室で解読しました。 探索状日付は
旧暦で表示されているので新暦からは約一ヶ月の遅れがあります。
  この事件は鎌倉事件と呼ばれているもので、当時英国公使オールコック卿の帰国直前の
出来事で、卿の帰国前日に犯人逮捕が公使館に知らされ、なんとなくタイミングが良すぎ、
犯人替え玉説もあるようです。 公使館に勤務していたアーネスト・サトウが「一外交官の見た
明治維新(岩波文庫)」に殺害後の状況を詳しく書いています。 それによると、清水は
間違いないようだが、他の2名は暗殺には関係ないのではと疑問を述べています。
 解読に使用した資料の出典は六角橋の名主の家で所蔵していた通達写の横浜開港資料館コピーです。


解読文

去十月廿二日相州鎌
倉鶴ケ岡八幡大門
前(ニ)おいて士躰
(さむらいてい)のもの
両人ニて外国人弐人を
及切害
(せつがいにおよび)逃去リ候ニ付厳
(きびしく)探索中ニ有之(これあり)。 近頃
浮浪の徒
(やから)在々徘徊
致シ候儀ニ付ては召捕方
(めしとらえかた)
等厳重ニ被仰出
(おうせいだされ)候趣(おもむき)
有之
(これあり)。町村(ニ)於いても兼て
手筈申合置
(てはずおもうしあわせおき)、右様異変
の節は所のもの打寄絡
(うちよりからめ)
取、 若
(もし)手餘候ハバ打殺候ても
不苦
(くるしからず)候。 是迄も同様の儀ニ付
度々有之
(これあり)、 其時々御国の
御不都合ニも相成、且は外国
え被為対
(たいしなされ)御威光ニも拘リ
候義ニ付、以後万一外国人共
遊行さきニ於いて殺傷
其外異変の義有之
(これあり)
候節は、前書の趣ニ相心得
(あいこころえ)
(もし)取逃し候ハバ、地元町村
より時刻を不移
(うつさず)神奈川表
御役所、又は運上所の内え
口上を以成共
(もってなるとも)速ニ可相届(あいとどくべく
候、其夜詮議手掛ニ可成
(なるべき)
儀等及見聞
(けんぶんにおよび)候ハバ聊(いささか)の義
ニても不隠置(かくしおかず)是又(これまた)早々
可申出
(もうしいでべく)候。其品ニ寄(より)夫々(それぞれ)
御褒美をも可被下
(くださるべし)
(もし)後日ニ引合を逃れ
候ため、及見聞
(けんぶんにおよび)候をも
押隠し、後日相顕るるニ
(おいて)は当人は勿論、其所の
役人共迄も夫々厳重
の咎可申付
(とがもうしつくべく)候。
右の趣
(おもむき)小前(こまえ)末々迄不漏(もらさぬ
様申聞
(もうしきかせ)、別紙帳面え令請    令 ・・セシム
(うけいんせしめ)早々順達留り村より
宿村継を以
(もって)可相返(あいかえすべき)もの也
   神奈川
     御役所
十一月廿三日



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