解説へ戻る                                                          Home  
                

                (写本前書)
P0

薩摩州宝島の駐在員である税所
(さいしょ)長左衛門は文化十二年乙亥(1815年)八月廿六日に
島から帰帆する際に漂流し広東省恵州府の漁村に漂着する。 同府下の役所へ出頭し、同府より
護送され浙江省乍浦鎮へ到着した。同浦に滞留中丙子(1816年)に長崎へ渡海する清国夏船
経由で鹿児島の親元へ送付した書簡を写す。 本書唐紙の巻紙である。

                   (税所長左衛門書簡本文)
P1
 一 尚追伸しますが全員元気ですから、夫々の留守宅に急ぎお知らせ下さい。
一筆啓上致します。 御両親様は益々お元気の事とお慶び申上げます。それから両家共家内
お変わりない事と思います。 ところで私事ですが昨年亥年の八月廿六日に島を出帆致しました
ところ、翌廿七日昼過より北東風となったので、宝島近辺より戻ったところ今度は東風の大しけ
になり帆柱が吹折れました。 島を見かけて前の小帆だけで走行しましたが西の方へ吹流され
大島を取逃がしました。 その夜更に風が強く、そのままにしていたところ今度は楫が折れ如何
ともし難くなりました。 従って前日より積
P2
荷等は全て捨て、たいへんな状態で洋上を風任せで漂流しました。 九月三日の朝拾七八里東南
の方へ小島を見掛ましたが、中々近付く事も出来ません、これは恐らく琉球の鳥島だろうと思います。 
それからは船の頭に碇を下げて尻走りで風任せで走行しましたが、その時は北、または北東の
小風だけでした。 九月五日六日頃までは何とか崎島諸島の島にでも流れ着けば良いがと言って
居りましたが、その時は既に先島諸島も取逃がしていました。 乗組員全員で話し合い、ここに
及んでは唐土(中国大陸)を目指して
P3
どこでも海岸に取り付こう、と全員で神仏を祈り唐土の地を目指し帆を竿等でつくり走行しました。 
しかし日々波が高く風も強くなり、大変な苦労の時も度々あり、その時には水夫達や家来達は髷を
切り落として祈り、私たち三人は両刀を竜神に献じて一命を助けたまえと祈りました。  
九月中はこのような次第で島影を全く見る事もなく、水も無いので汐を蒸留して本当に少しずつ
のみ、その後で皆食べていました。   八月廿六日より洋上四拾一日目、十月四日唐土近くに
来たのでしょうか、
P4
漁船が段々来る様になりました。 陸地も遠くはないと思っていると、翌五日午前十時頃三里程に
山を見掛たので全員ひと心地つきましたが、ここが何処なのかも分らず大清国と思われるが地名など
わかりません。 漁船は木の葉の様に沢山ありますが船を引き入れる事もできず____________の様
で大変苦労しました。 しかも其日は波が高く、四拾余人がはしけで上陸するには自信がなく、碇を
下ろし陸地から二里程の所に船を繋ぎました。 遠浅と見え二里程の沖でも拾四五尋ありました。 
その夜は用心
P5
して過ごし、翌六日暁より食事を取り、朝六時には全員はしけに乗るに際し、私たち三人は柳こり
一ツ宛て、其外全員が小風呂敷包一ツ宛で飛乗り上陸する時、波が高く浸水のため水夫達は大変
苦労しました。 何とか防ぎ二里程の島のような所へようやくはしけを着けたところ、唐人達が
数十人居りました。 ここは漁村と思われ網なども有りました。 言葉が通じず、筆談も通じず
途方に暮れていたところ、老人を一人連れてきましたがこの者はおもいの外文字が通じました。
国、地名等など質問したところ、大清
P6
国の内で広東省恵州府陸豊県の中碭石鎮と云う所と教えてくれたので、全員先ずは安心しました。
 この時昼二時過ぎであり持って来た弁当を全員食べ何事も運次第と覚悟を決めていましたが、 
ここの人々は此所には家が無いので今晩は木の下で寝て明日鎮主へ送りましょうと云いますが、
気遣いも多いので鎮城迄行こうと申し合わせました。 田舎道を行くので差し支えもあると見えたか、
唐人達も仕方なく多数案内に出て送って行きました。 そのような状況で半里程行ったところ村役人
が一人走って来ましたが、此者は
P7
文がよく通じました。 手に少しづつ荷物を持たせ、家来の助右衛門は大病なので小助が途中を
背負います。 全く嘆かわしい事に僅か二里半程の道のりですが、長い間船中にあったため足腰の
立たない者も多くいました。 漸くの事で暮頃碣石鎮に着き禅寺へ旅宿しました。 ここは全て
土間で私たち(三人)だけはござを敷きましたが、その外四十弐人は家の中の土間でした。 唐土には
全く畳はなく、福間寺の山門下の様なものです。 座るという事は椅子ですがここには椅子も
ありません。 この夜は焼米を全員で食べました。 全くの半島の様で
P8
大変不便な場所で米等も多くない所と見えました。 病気だった船頭の宅右衛門はその晩死去
しました。 それから役人達が頻繁に来る様になり一晩中寝ていません。 翌七日には船頭の一件を
処理し、先々へ送って呉れる様頼んだところ明八日に陸豊県に送って呉れると承りました。 七日に
役人が来て経緯を細々聞く事を書類でそれぞれ回答し、薩摩州領内の海島である宝島の駐在に出て
この様な次第と細々書付けました。 翌日私たち三人と島人子供には駕籠を出し其外は歩いて七里程ある
P9
陸豊県と云うところへ夕方着きました。 知事に面会し、町宿二三軒を用意してくれ、大小刀など
武器は県主が預かると云うので法令通りに預け、私たち三人だけは小刀を旅宿へ置かされました。 
ここでも同様に役人達が毎日来て丁寧でした。 この場所に廿日余滞在し十一月二日ここを出立、
水陸行程七日目に広東省城下へ着きました。ここは江戸の様に繁花の地方です。 ここでも直ぐに
役人が多数来て夫々の事の質問があり、船上に有る事四十余日で実に難儀な事でした。   
ここには外国船も多く来ており、特別に賑やかで
P10
西洋の船も廿余艘来ております。 その中にはオランダやロシア等も来ており、日本では比較する
ものがありません。 我々をまるで開帳の様に見物する人もいます。  この所から護送の役人二人
及び非官が二人付いて川船で文化十二年十二月廿日出船、途中の県毎で米の供給があり、文化十三
子正月十日に広東より百廿里の同省の南雄州へ着きその間全部が川船。 正月十一日は九里の陸路で
名高い梅嶺山を越えて暮過に江西省の南安府と云う所へ着、この所でシャム人などに面会しました。
P11
正月十一日又川を下り、正月廿九日江西省本城(南昌)に着く。 ここは海の無い地方ですが名高い
滕王閣楼があり登って見ると眼下に万洋湖という湖があります。 そこから又川を上り同省内の
玉山県という所で上陸して一日平らな陸地を八里程ありますが浙江省と江西省との境です。 
暮頃には常山県に着きますがここは浙江省の内です。 そこからは滞りなく川を下り、文化十三年
二月廿八日に浙江省嘉興府の内乍浦鎮と云う所に着きました。 ここは毎年日本に渡海する唐船が
出港する所です。
P12
出港船の船主手伝いの様な人の家の二階に四十六人旅宿しましたが全てに渡ってたいへん丁寧でした。
我々を送ってきた護送人は二日滞在して広東へ帰られました。 広東よりこの乍浦迄の行程は凡そ
五百里、日数は六拾九日で着きました。 其内陸地唯二日だけでその外全ては川船ですが、実に大河が
多く海の様な所も多くありました。 とりわけ万洋湖と西洋湖は大きさで五湖の内と云う事です。 
この西洋湖は銭塔湖とも云うらしく浙江本城下(現在の杭州)です。
一当乍浦と云う所は浙下町の様な田舎であるけれど我々は旅宿を
P13
 二度替りました。 昨年冬に長崎へ渡海した船が長崎を今年の四月廿七日に四艘出帆し、五月七日
 より追々当所へ着きます。 今年正月十二日出帆船の一艘が風が烈しく日本の相模(神奈川)の海岸に
 漂着したとの事です、唐人達より詳しく相模等の状況を聞きました。 去十二月十七日出帆の一艘は
 北風に煽られ琉球へ漂流、船破損し彼国より送られ福建省へー この福建より乍浦二百七十里ありますー。
  最近聞いた情報です。
一安南国人が薩摩の辺へ漂着して五人とか    
P14
 長崎へ送られてきたそうです。 薩摩と云う者もあり、又五島と云う者もありまちまちで通訳もよく
 分らず込み入っています。
一今度の長崎への渡海船は六艘で、一艘に七八人づつ乗せるそうです,つとめて三四艘に乗せて呉れる
 様に頼みましたが、多人数乗り組ので座敷がなく、その為に分けて乗せると云う事なので押しても
 無理であり致し方無い事です。 そこで一二三番の籤を引いたところ、古渡は一番船でも二番船でも、
 三番は染川、 水夫二十三人は四番、五番、六番と
P15
 夫々割り振りました。 当月十日より廿日迄にすべて出帆すると聞いて居ります。 追々長崎へ到着
 しますが、先ず一封を差上げます。 必ず島より飛船でも走り、又当春早船等も追々到着しますので
 何れ様も御安心下さい。 誠に運強く近々帰国してお目にかかれる様に精々神仏にお祈り下さい。
一代官と目付役の船は八月廿七日出帆、臥蛇島より向風になり、屋久島が近く東へ行くのに風が変わら
 ないので
P16
 大島を見掛けて乗り戻り、同廿一日暮前笠利崎をを見かけた時代官を遠くに見ました。 我々の船
 つとめて津佐へ入る様に申付けましたが、水夫達があそこへ入ったら全て厄介な事になると云い
 東瀬戸へ入りました。 これがまず運が悪い初まりです。 二艘ハ津佐へ入った事が古仁へ連絡
 ありました。 我々の船の船頭が悪く、帆柱が悪かったのです。 つとめて別船に乗船しようと思って
 いましたが、乗船は籤で割り当てる事になり自分がそれを引いたものです。  このような船に
 乗り合わせた事は不運でしたが   
P17
 命あってこそ全ての基です。 去年十月以来の心痛を恐れながらお察し下さい。 この先先船が
 長崎に着けば、聞役よりお届けすべきものと思われますのでここにお知らせ申上げます。 帰国
 しましたら 追々申上げます。 恐惶謹言
                  税所長左衛門
                        篤中(花押)
 文化十三年六月十日
 父上様
 母上様
P18
 永江伊三左衛門様
 南郷覚右衛門様
 税所新左衛門殿へ
 同 青右衛門殿へ
 追伸ですが郷中、次右衛門、助右衛門、小助、直右衛門等全員元気です。 夫々の留守宅へできるだけ
 早くご連絡下さい
一代官および目付役の乗った船の安否の情報を長崎へお知らせ下さい。 長崎には二三十日は滞在すると
 思われます。
P19
一今日古渡が船に乗りましたが出帆の筈です。 染川は明日出帆の筈です。 私は十三日に乗る予定です。
 南風も一昨日方より吹出しましたので丁度良い時期に渡海するかと思われます。
                                  (書簡終)

               (写本後書)
P20
 従来中国の南方へ漂流した者達は、都度広東本府(現在の広州)へ送り届けられ、そこから乍浦港へ
護送、同港より便船を使って長崎へ帰朝する。 これ迄も色々な人々の口述が多数見られるが、文字の
書けない水夫達でありその行程は詳しく分らなかった。 しかし今この文通を見ると漂流が稀にしかない
武士であるため、その内容は略正確の様である。 故に書き写して漂流諸雑記の中に収める。 急いで
書き調えたものと思われ今となっては読み難いところも有る。 
 文化十三年丙子九月、急いで写したのは見させてくれた人が急いだ為である。 芝蘭堂翁       
       


                      Home