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                 一薩摩藩士の中国からの手紙  
                    税所長左衛門の家族への書簡
   当ホームページ古文書コーナーに文化十二年の「薩人唐漂流」を掲載しておりますが、その漂流当事者
の薩摩藩士の一人が帰国前に、家族宛に無事を知らせる書簡を中国から送っている事が判りました。 
これは国立公文書館内閣文庫で上記解読のため資料調査中に偶然見つけたものです。 内容は遭難の経緯、
漂流中の様子、広東省へ漂着して後の中国役人護送による乍浦までの旅程、途中見分など大筋は前に解読した
長崎奉行での聞書きと同じですが、自分の部下が全員元気にしている事を夫々の留守宅に知らせるようにと
先ず念を押しています。 それと籤運が悪く、悪い船と船頭に当ってしまったと愚痴めいた事も言っています。 

   しかしこの書簡ではひとつ重要な事が伏せられています。 元々琉球は独立国で中国の明朝とは臣従
関係にありましたが宗主国である明が衰亡する中、薩摩藩が1609年に侵攻し琉球国を事実上薩摩の属国と
しています。 その時の琉球と薩摩との話し合いで琉球は薩摩に従うが、従来通り中国を宗主国とする朝貢
貿易を続け、薩摩との関係は明及びそれに続く清朝には内密とする事にしていました。 これは薩摩にとっても
中国との間で余計な波風を立てる必要もなく、琉球を経由した貿易もできるし当然密貿易のうまみもあった
はずです。 従って琉球は中国に対しては独立の臣従国、薩摩に対しては属国という二股外交を明治初期迄
続けていました。 
   このような関係で薩摩は琉球国の各地に代官など置き、琉球経営を行っていましたが、これは清国に
対しては公には出来ない事でした。 従ってこの書簡の主、税所長左衛門は大島駐在の薩摩藩士でしたが宝島
駐在と偽っています。 当時琉球国と薩摩(日本)の公の境界は臥蛇島、宝島以北が薩摩、大島以南は琉球の
領土となっていたようです。 従って出帆日付も書簡ではあたかも宝島から出帆したように八月廿六日として
いますが、実際には聞書きでは八月十七日に大島大熊湊を出帆して、八月廿一日からは単独で大島古仁港を
離れている事を報告しています。
   
   鎖国政策下の最中に海外からの書簡が家族の元にどの様にして到着したのか興味ある事です。 
写本がある以上書簡を預かった清国船の船長が長崎奉行に届け、奉行はそれを急ぎ書写させてから薩摩藩の
聞役(長崎駐在員)に渡したか、あるいは江戸に回送され、この写本の後書を書いた芝蘭堂の大槻玄沢の
関係者が書写して後薩摩藩邸に渡したのか、本当に家族の手元には届いたのだろうか、と疑問は尽きません。
 かなり急いで書写した様子が後書きにあり、又書簡でも聞役から届くだろうと云っている事から本紙は
直ぐに家族に届けさせ、この写本は長崎での書写を見て九月に書いたとも考えられます。
   江戸時代に国外から家族に宛てた書簡など究めて稀な事と思い、消化不良のところもありますが
取上げて見ました。 解読にあたり読めないところも多々ありますが識者のご意見を賜れば幸甚です。 
(070408)

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原文コピー(一部、内閣文庫185-0199文化薩人漂流記より)クリックで拡大します。

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