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             オランダ領事クルティウス書翰
於出島千八百五十七年第二月廿四日
安政四年巳二月朔日和蘭領事官申上候
当節渡来之和蘭商船ウイルレシ
ナユンカウ
船号を以、別段風説書送越不申候
拙者江送越候評判記ニ広東ニおいて英人
唐人之間ニ闘争差起候義書翰御座候
数ヶ所之砦等英人奪取、アドミラール
官名
ムセイムル人名一手之軍艦ヲ以広東を焼払申候
右兵端者英人の条約を唐国高官之者ニ而、
相守不申候事より差起候儀ニ可有之候
             和蘭領事官
                ドンクルマキュルシュス
       巳二月          岩瀬弥七郎
                      西 宗太郎
                      本木 昌造
   長崎御奉行
     荒尾石見守様
出島にて千八百五十七年二月廿四日(安政四年
二月一日)オランダ領事官が申上げます。
今般渡来したオランダ商船ウイルレシナユンカウ号
は別段風説書を持参しておりません。
しかし私に送付してきた情報によれば広東にて
英人と中国人の間に争いが起ったとの書翰があり、
数ヶ所の砦等を英人が奪い取り、セーモア提督
指揮下の軍艦により広東を焼払いました。
この争いは英国との条約を清国高官が守らな
かった事により起ったものです。
             オランダ領事官
                ドンケル・クルティウス
       巳二月          岩瀬弥七郎
                      西 宗太郎
                      本木 昌造
   長崎御奉行
     荒尾石見守様

於出島千八百五十七年第二月廿六日
安政四年巳二月三日
和蘭領事官義、通詞昌造を以御口達御談ニ付
申上候者、広東ニおいてアトミラール
官名
ムシムール人名と唐国高官之者之間ニ差起候
、拙者思慮ニ而者日本政府ニ至極御大切之義
ニ有之、右争端差起候
次第其事情、日本之為至極肝要之義ニ可有之候
 右之始末ニ至候事情、拙者見込之次第書面
ニ而者難申上、乍去口達ヲ以委細無腹蔵申上候
 差支無御座候、右恭敬申上候
               和蘭領事官
                トンクルキユルシユス
    右之通和解仕候      小出宗右衛門
                     西  宗次郎
                     本木  昌造
出島にて千八百五十七年二月廿六日(安政四年
二月三日
オランダ領事官が通訳の本木昌造を通して口頭で
申上げます。
広東においてセーモア提督と清国高官の者との間
に起った事について、私の考えでは日本政府に
とっても極めて重大な事です。 この争いが起った
原因と進展は大変重要な事です。
 ここに至った経緯を書面にする事は困難ですが
口頭であれば詳細を問題なくお話できます。
   以上申上げます
              オランダ領事官
                ドンケル・クルティウス
    これを邦訳します      小出宗右衛門
                     西  宗次郎
                     本木  昌造


別段風説書: 幕府では毎年入港するオランダ貿易船がもたらす世界のニュースをオランダ商館長に提出
     義務付け、これをオランダ風説書と云った。 アヘン戦争後幕府でも危機感を強め、1842年以降更に
     詳しい情報を含む別段風説書を提出させていた。

唐国戦争:アロー号事件に端を発する第二次アヘン戦争(1856-1860)英仏連合軍と清国の戦争。 
      アロー号に対する清国官憲の処置は正当だったが、英国が事件を利用して戦争に持ち込んだと
      現在では評価されている
オランダ領事官: 江戸時代初期から出島の商館長はかぴたんと呼ばれ、オランダ政府を代表するものとは
      見なされず民間人の貿易責任者として扱われていた。 1856年米国ハリスが領事として赴任した
      頃からオランダ政府の領事として扱われる様になった。
ドンケル・クルチウス(Donker Curutius jan Hendrik 1813-1879) オランダの外交官、
      1852年に出島のオランダ商館長として来日、1855年駐日オランダ理事官兼務、
      1856年 日蘭和親条約、1858年日蘭修好通商条約締結、1860年帰国、最後のカピタン。
荒尾石見守: (成充) 安政二(1855)-安政六(1859)長崎奉行職
出典:内閣文庫安政雑記第十六冊

  

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                  クルティウス詳細口述翻訳
二月五日永持亭次郎并御徒目付、御手付
かひたん方江御遣、唐国戦争一件御尋、昌造
通詞かひたん申口左之通
二月五日永持亮次郎及び御徒目付、御手付を
商館長室に派遣し、清国の戦争について尋ね、
本木昌造通訳による商館長の口述は以下の通り
十ヶ年斗前英国唐国戦争差起、唐国より和を乞
条約取結之上、和睦相調唐国之内五港則広東・
厦門、寧波・福州・上海
英人其外外国人之為
相開居住并住家地所勝手ニ借貸・売買出来、
万事唐人外国人之無差別、右五港滞在之外国
官吏、唐国奉行職と書翰往復面会等無差支、
其応接書翰之文言等都
尊卑を別候事なく、
右五港之内厦門
一円英国ニ譲り全英領と
相成、同所居住之唐人其外土地之仕置者英国
ニ而支配致し、広東者初条約取結之砌、外四港
相開候後二ヶ年を経て可開約定之所、年限
相立候
も兎角相開不申、諸事定約ニ塍候事
共有之今ニ開不申由、
十年程前に英国と清国の戦争が起ったが、清国より
講和を求め、条約が成立して和睦しました。 
その結果清国の五港、即ち広東・厦門、寧波・
福州・上海は英人及び其他外国人に開港し、居住
並びに住居地所を自由に賃貸・売買が出来る点
では、全く中国人と外国人の差別が無くなりました。
この五港に滞在する外国官吏と清国奉行職との
書翰往復及び面会等も出来る様になり、 応接
書翰の文言等は全て尊卑を別けません。 
右五港の内厦門は全体を英国に譲り全て英領と
なり、同所居住の中国人とその地の政治は英国が
支配し、広東は初めに条約を結ぶ時、外四港を
開いてから二ヶ年後に開く約束となっていました。
しかし年限が来ても開かず現在も開いていない由
然ニ厦門英領ニ相成候以来、唐人仕置抔も
以前唐国仕置と
事変、万事緩ニ有之候ニ付、
諸方之唐人厦門ニ移住之者相増、土地之繁栄
古ニ倍し、外国人も兎角同所ニ而已集候様相成
唐国之交易日を追而繁昌し、別而茶・綿布
之商法盛ニ成行、居民を富し国力大ニ相増候由、

初条約取結之砌
唐国ニ而余程危踏候得共、
漸々交易之事順、当時
ニ而ハ唐国政府ニ而も
交易之肝要たる事を悟り、専ら手広相成候様
心懸ケ候由、且厦門
ニ而者唐船之貸買売も自在
ニ而
、英国其他之記旗ニ而唐人外国人一同
乗組、唐国諸州交易之為通航致候由、

然ル所此節唐船ニ英国之旗を建、船頭英人外ニ
唐人十二人乗組、広東江交易之為渡来候所、
広東之唐国奉行職
ニ而右船乗組唐人十二人を
召捕、英国記旗を引下捨候由、右召捕候次第

十二人之唐人共、前方一揆荷担之者之由風聞
有之候ニ付、右之始末ニ至候由
一方厦門は英領に成って以来、中国人に対しても
夫まで清国政府の支配と異なり、全てが緩やかに
なりました。 故に諸方の中国人で厦門に移住
する者が増え土地の繁栄は以前に倍しています。
外国人も段々同所に集まり、清国との交易は日を
追って繁昌、特に茶・綿布の商売が盛んになり、
住民は富み、国力は大きく増したとの事です。

初め条約を取結んだ時は、清国は非常に危ぶみ
ましたが、次第に交易は順調に進み、現在では
清国政府でも交易の重要性を理解し、更に広げる
様に心がけているそうです。 更に厦門では中国
船の賃貸売買も自由で、英国及びその他の国の
旗を立て、中国人・外国人一緒に乗組み、中国
各地との交易に通航している由です。

そんな中、此度中国船に英国旗を建、英人船長と
外に中国人十二人が乗組み、広東へ交易に行った
所、 広東の清国奉行職が上記乗組み中国人の
十二人を逮捕し、英国旗を引下げ捨てました。
上記逮捕の理由は、中国人十二人は以前に一揆
参加した者達という情報あった為との事です。
当奉行広東港碇泊之英国軍艦之惣督セイムール
も同様懸合候得共、是以返答不致候ニ付、
セイムール
官吏より再度稠敷懸合候者、条約
面之通り全心得違ニ付、右唐人差返、記旗を建
候義差支無之旨、尚面談之有無四十八時之内
ニ返答無之候ハヽ厳重之沙汰ニ可及旨、再応
懸合候得共有無之返答無之候ニ付、無拠
セイムール組下之軍兵を上陸せしめ、砦等
数ヶ所乗取、大砲
釘打、右砦江罷籠候唐国
軍兵者逃去候由、

其上
ニ而又々面談之有無并返答承知致度、若
返答無之候ハヽ尚厳重之手当可致旨懸合候得共
、返答無之
ニ付セイムール一手軍艦之内、蒸気船
ハルコウタより奉行所江一丸を発し、其上
ニ而
又々同様懸合、此上ニも返答無之候ハヽ広東
一円焼払可申旨掛合候得共、更ニ取合不申候ニ
付、軍艦弐艘より数丸を発し広東外曲輪を打崩し
候上、セイムール并官吏其外士官五六輩を引連
奉行所江押
参候所、奉行職役人残らず召連
立去居候
ニ付面会不相叶、

引取候上乗取候砦数ヶ所より放発致し、奉行所并
役人之居宅を焼払、其上
ニ而又々同様懸合、若し
返答無之候ハヽ、事実広東を焼払可申、就
而者
老幼男女之死亡も有之、実ニ不仁之義
ニ付、是非
返答有之度懸合候所、其節漸返答有之候得共
至極不相当之事ニ而、殊々面会評議不致候ニ付
無是非軍艦・砦より十四日之間発放いたし、広東
所々焼払候所、其砌亜米利加、仏蘭西軍艦も
広東港停泊致し居、其軍兵を上陸せしめ候由、
広東乱妨之為ニ無之、広東ニ有之候其国
之商館并人民警衛之為ニ候由、
評判記ニ書載有之
其末ニ此度之一件
唐国奉行職之不明より事
起り、英人理不尽之致方ニ無之、多分此度も唐方
より和を乞、英人之存意相立可申旨、広東之
居民風聞致候由、書載有之候、
当奉行に対し広東港碇泊の英国軍提督セーモアも
同様に申入れをしたが、これにも返答がありません。
セーモアと官吏が再度申入れ、条約違反している
ので中国人を返還し、旗を建てて良い旨を面談を
申入れ、四十八時間以内に返答無い場合、重大な
事態になると申入れたが返答がありません。
止む無くセーモアは配下の軍兵を上陸させ、砦等
数ヶ所占拠し、大砲には釘を打ち使用不能とした。
砦に籠る清国軍兵は逃げたとの事です。

其上で再度面談の有無の返答を聞きたい、もし
返答が無いなら厳しい処置の旨通知したが、返答
が無くセーモアの艦隊中の蒸気船バラクーダから
奉行所へ一弾発した。 
其上同様申入れをし、返答無ければ広東一円を
焼払う旨通告したが返事が無く、軍艦弐艘より
数弾を発して広東の城郭を破壊した上、セーモア
及び官吏外士官五六名で奉行所へ押しかけたが
奉行職は役人残らず連れて立去っており、面会
できなかった。

奉行所から引上げ占拠の砦数ヶ所から砲撃して
奉行所や役人の居宅を焼き払った。
そこで又申入れ、返答無ければ本当に広東を焼払
う事になる。 そうなると老若男女の犠牲も出て好
ましく無いので是非返答されたい、と申入れた所
漸く返答があったが極めて不適切であり、面会には
至らなかった。 止むを得ず軍艦・砦より十四日に
渡り砲撃し広東の所々焼払った所、アメリカ及び
フランス軍艦も広東港に停泊していたので、その
軍兵を上陸させた由です。 これは広東を攻撃する
ためではなく自国の商館や人民の警固の為である
と情報誌に記されています。 最後に此度の事件
は広東の奉行職の不手際より起ったもので、英人の
行動は理不尽でなく、恐らく今回も清国側より講和
を願って英国の立場を立てるだろう、と広東の住民
は噂している、と書いてあります。

扨日本も亜墨利加と
条約相済、下田・函舘御開
相成公ニ交易者未御免相成不申候得共、金銀銭
を以品物相調、或者品替又者官吏之滞在も御免
有之候得
、先交易之道相開候と申もの有之、
又英国共御条約相済、是
下田・箱舘・長崎
三ヶ所御免相成、下田・箱舘
亜米利加と相替
候事無之、然ルニ長崎
ニ而者御所置内港ニ入帆
不相成、高鉾辺島々碇泊可致、端船を以乗廻并
上陸不相成、其外廉々無徊之御規定有之、

右様有之候
而者英人ニ条約取結候詮も無之候、
又魯西亜共御条約相済、三ヶ所御免相成、長崎
外国異人御免許之通御所置、魯人至極不満
之由承知仕候、尤沈没之テイヤナ船下田
ニ而者
御所置并難民御救助之次第者至極感伏いたし
候由、承り申候、右三ヶ国ハ世界之強国
ニ而
魯西亜世界中最大国、殊ニ御隣国ニ而
味方ニ有之ハ無上御後楯可相成、敵ニ取候
而者
至極之大切ニ可有之、尚別御懇情被施候得
御安全之御良策ニ可有之、

右三ヶ国之外仏蘭西と御条約可相済事も近々
可有之、然
世界中之強国と唱候四ヶ国不残
御条約相済候間、此上者此迄之御国法御改革
相成、世界普通之御法ニ御改相成度、左も無之、
是迄之御法ニ
而者諸国ニ而承伏不仕、正法之国
相唱不申候、尤未条約不相済国ニ箱舘ニ
おゐて病院御手当相成候義者、西洋人情ニ相協
至極御良善之御所置と可申候、

さて日本もアメリカとは条約も締結し下田・函舘が
開港され、一般の貿易は未許可ですが貨幣に
より品物を入手でき、或いは品物の交換や官吏の
滞在も許可されたので、先ず貿易への道が開けた
事になります。 又英国とも条約を締結されました。
これは下田・箱舘・長崎の三ヶ所を開かれ、下田・
箱舘はアメリカと変りませんが、長崎に関する条件
は内港に入れず、高鉾辺島々に碇泊が決められ
艀での乗り回しや上陸は許可無く、その他徘徊
不可の規定になっています。

この様な条件ではイギリスにとって条約を結んでも
役に立たないものです。 又ロシアとも条約を結ば
れて三ヶ所が開かれています。 長崎はやはり
イギリスと同様の条件で、非常に不満と聞いて
居ります。一方沈没したディアナ号に関して下田
での処理や難民救助を戴いた事は大変感謝して
います。 これら三ヶ国は世界の強国であり、 特に
ロシアは世界の最大国であり貴国の隣国です。 
味方にすれば心強い後盾となりますが、敵に回すと
極めて面倒となります。 更に親しくされる事が安全
保障として良策です。

上記三ヶ国の外フランスとの条約締結も近々予定
されています。 そうなると世界中の強国と云われる
四ヶ国とは全て条約締結となるので、此上は国法
をご変更になり、世界共通の法に改められたく存じ
ます。 左も無ければ是までの貴国の法では諸国
が納得せず、正しい法の国とは認めません。 但し
条約未締結の国に対して箱舘で病院を世話された
事は西洋の人情に適ったものでたいへん良い事と
云えます。

元来日本者世界東方諸国之内一箇之富撓強国
ニ而、其居民英才有て、唐国抔之及所ニあらず、
但シ東方之国民ハ自分尊み他を卑むる癖ありと、
西洋人評判仕候、拙者久敷日本ニ罷在、見聞仕
候ニ其説ニ不違、日本も其癖有之候様相見申候、
折々外国船渡来之砌右船
被遣候御書翰之内
御文言等心付候儀者可申上旨
ニ而為御見相成
候所、兎角御命令相成候様之御文言有之、御願と
申御文言
見請不申候

御国内限之義者兎角可申上様も無之候得共、
外国と之御文言者御改相成候様有之度、和蘭人
年久敷渡来、御国風も粗相弁候間、左程ニ者
不申候得共、外異人ハ至極不快義ニ御座候、
斯申上候迚他を賤められ候と申上候
ニ者無之
候得共、外国人之思ふ所我人、彼も人と申事
其本意ニ候得者、書翰御文言を始、御応接其外
一体、自他尊卑なき様之御仕置御肝要奉存候、

元来日本は東方諸国の内一番の富める強国であり
国民は優秀で清国が及ぶ所ではありません。 但し
東方の国民は自分を尊び、他を卑しむ癖があると
西洋人は評価しております。 私は日本に長く滞在
して見聞した所、その説に違わず日本もその癖が
ある様に見受けられます。 折々外国船渡来の際
その船に送られる書翰の文言等を気をつけて見
させて戴くと、兎角命令調の文言であり、願うという
文言は過去見た事がありません。

国内限りの事であれば兎角申上げる事では有り
ませんが、外国との文言は改められたく存じます。
オランダ人は長年に渡り渡来しており、日本の国風
も大方理解しているので、夫程は申上げませんが
他国人にとって極めて不快な事です。 斯く申上げ
ますが他国を賤められていると云う意味では
ありません。 外国人の考えは、「我も人、彼も人」
と云う事ですから書翰の文言を始め、交渉その他
全て自他尊卑無い態度が肝要と存じます。
一旦御取結ニ相成候而者御大切儀ニ候間、粗略
不相成、能々御勘弁相成度奉存候、元来条約之
趣意者只親睦を旨と致候義ニ而、紙上細事書載
不能候間、万事些細之義者可相成丈御沙汰不
相成候方可然、向々御糺上可相成程ハ狭く相成
候様之御所置
不可然、只親睦之処を以御心懸
相成、万事広く相成候様緩々御沙汰御為可然
奉存候、

既ニ和蘭船将フビユス下田箱舘一見として罷越、
下田滞津之亜墨利加官吏江面会仕候所、日本

兎角小事ニ拘り、些細之事申立候而も返答埒明
不申、無益之小事而已申聞、実ニ煩敷候間、亜
墨利加政府江申立、前後可及談判抔噂致候由、
右様之事より漸々可及混雑候間、得と御思推
相成度、
条約は一旦結ぶと重いものですから、粗略にならぬ
様に十分御配慮されたく存じます。 元来条約の
趣意は只親睦を目的とするものであり、紙上に細事
を書き載せる事は出来ませんので、 細かい事は
書かない方が良いでしょう。 担当の方々が細かく
ならない様に、只親睦を心がけ全て広くなる様に」
注意されるべきと存じます。

既にオランダの艦長ファビウスが下田及び箱舘を
一見して来ましたが、下田滞在のアメリカ官吏に
面会したところ、日本は兎角小事に拘り些細な事
でも結論を出さず、つまらぬ小事のみ言って実に
煩わしいので、アメリカ政府に報告して善後策を
考えなければと云っていた由です。 そうなると
段々問題がこじれてきますので、十分考慮され
たく存じます。
尚渡来之外国船申立廉有之節者、可相成丈速ニ
御返答相成度、及遅々候義者外国之風義ニ者
相協不申候間、是亦御含相成度、且御免許可相
成程之事者速ニ御免相成候方可然、初御免許
難成旨御申聞相成候義も強
申ニ任セ差免候様
ニ而者、さへ申立候得者被差免候様心得、事
実御免許難成義も強
申立候様相成申候、
御免許可相成程之義者速ニ被差許候得
御国威
も相立可申、強
乞ニ任せ被差許候而者、威も
少く御免許之名も薄、御国威も相減じ、夫丈ケ
申立者之方ニ国勢相増可申候、

兎角兵端は小事より起り候ものニ而、此度唐国之
譬も右等之事より起り、自分弱を知らさるハ知と
難申、御国
ニ而者能々御勘弁有之度、
尤御国唐国程弱く候と申ニ
無之候得共、久敷
太平打続、欧羅巴程軍事ニ不被為馴、唐国

其地連続仕居候得共、御国
四方海岸ニ而
一度兵端を開き候
而者至極御大切ニ可及候間、
能々御勘弁相成度、此度唐国之一件
只何国之事と御聞捨、事情得と御賢察御所置
御座候様仕度旨、かびたん申出候
尚渡来する外国船から要求があった時は出来る
だけ早く返答して戴きたく、 遅れる事は外国の
風儀には馴染まぬ事をお含み置き下さい。
且つ許可される程の事は速やかに許可成される
方が良いと思います。 初め許可されない事でも
強硬に云えば許される様では、強硬にさえ云えば
許可されるものと心得、実際に許可できない事
でも強硬に申入れる様になります。
許可出来る様なものは速やかに許可なされば、
国威も保つ事ができますが、強硬に云えば許可
する様では威厳も少なく許可の価値も薄れ、
更に国威も下りそれだけ要求側の勢いが増します。

兎角紛争は小事から起るものですが、此度清国
の件も前記の様な事から起り、自分の弱さを
知らない事は知るとは云えません。 日本は十分
お考え願いたく、但し日本は清国に比べ弱いとは
云いませんが、長年太平の世が続きヨーロッパ
諸国に比べると軍事には馴れて居られません。
清国は大陸で繋がっていますが、日本は四方が
海岸ですから、一度兵端を開けば重大事になり
ますから十分御考慮下さい。
此度清国の一件は対岸の火事とせず、事情を
十分御賢察され今後対応なさる様にと、商館長が
申上げます。
注:
永持亮次郎: 長崎奉行所支配吟味役、 同行の御徒目付は平山謙次郎か。
十年程前の英国と清国の戦争: アヘン戦争(1840-1842) 清国は敗れ、南京条約で上記五港の開港及び
              香港島の英国への割譲等が決まる
厦門英領に相成り: 香港の間違いと思われる。
広東英国官吏: 当時はハリー・パークス、 幕末日本に公使として駐在
オランダ艦長ファビウス:Gerhardes Fabius  オランダ領事クルティウスと共に長崎海軍伝習所の設立、指導に
         貢献する。 1854、55、56と毎年来日し秋口3-4ヶ月滞在する。 オランダ海軍中佐
アメリカ官吏:米国領事タウンゼント・ハリス
日本の条約締結: この口述書の1857年2月当時は日米和親条約(1854.3月)、日英和親条約(1854.8月)、
     日露和親条約(1854.12月)は締結済みであり、米国八リスが通商条約(1858.6月締結)の交渉に
     入った段階。 1858.7月にはイギリス、ロシア、オランダ、9月にはフランスと通商条約締結
     (安政の五ヶ国条約)
日本の国法: 鎖国政策は和親条約により一旦区切りが付いたが、世界の大勢である自由貿易は未だ認めて
         いない。 真の開国は通商条約締結以降である。
           

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