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              江戸の外交指南役 オランダ領事

 日本が海外への自由な航行を禁じて以来、西洋への窓口として唯一オランダとの出島交易は
200年程続いた。 しかし18世紀末から19世紀になると外国船が日本近海に頻繁に出没する様に
なり、オランダ商館は漂流民の授受の仲介や外国船との通信の翻訳(英語、フランス語などから
オランダ語)も幕府に請われて行う様になる。 江戸初期から交易を認める代償として、幕府は
オランダ商館長に風説書と呼ばれる海外ニュース報告書を毎年提出する事を義務づけていたが、
アヘン戦争(1840−1842)で清国の敗北を知ると幕府も危機感を募らせ、より詳しい別段風説書も
提出させて列強諸国の動静を探った。 又1825年以来17年間採ってきた異国船打払令を止め、
それ以前の薪水給与令に戻し同時に海防強化に努める。

 一方オランダ政府では日本への忠告として1844年に国王特使を派遣し、欧米列強(英仏米露)
との紛争を避ける為に開国を勧めているが、幕府では開国は祖法に触れるという理由で断っている。
 又1852年に日本に赴任した出島商館長のクルティウスは翌年米国艦隊が開国を求めて日本に渡来
する旨、別段風説書で報告している。 しかし幕府は特に対策を取った様子もなく、予告通り渡来
したペリー艦隊の砲艦外交に屈して翌年日米和親条約を結ぶ事になる。 以後次々と列国と和親条約
を結ぶ事になるが、米国は次のステップである通商条約締結に向け早くもハリスを下田に送込み
交渉を始めている。

 本が開国すればオランダの貿易独占の利権は失われるものの、健全な開国が成されれば日本の
貿易全体が拡大し、その中でオランダも一定の立場を得られると考えたか、開国に向け適切な
アドバイスをしている。 幕府も米国、ロシア、英仏などの未知の外国と交渉するに当たり、
200年来の付合いのあるオランダ商館は身内の様なものであり頼りになった事と想像される。 
特に1852年から1860年迄出島に滞在したドンケル・クルティウスは是までのかぴたんとは異なり、
オランダ政府の出先領事として幕府も認識を変えたので、より率直にアドバイス出来たと考えられる。

 古文書はクルティウスが清国におけるアロー号事件勃発と、それに続く英国の軍事介入過程を
詳細に語り、条約の重みと外交や外国に対する態度・手法に付いて、日本も清国に通じる所がある
ので、清国の戦争を傍観せず熟考する様にと日本へのアドバイスである。 特に以下は観察が正確で
今でも一面通じるものがある。 その一つは、東洋の国は自分が尊く他国は卑しいとする傾向が
あるが、日本にもそれがあり面談の態度や書翰の文言に顕れているが直した方が良い。 西洋では
我も人なら彼も人と考えている。 二つ目は、受入れできる簡単な事でも勿体を付けて結論を
長引かせるが、これは西洋流ではない。 三つ目は、それも相手が強力に出ると受入れる。 是では
何でも強く出れば良いと相手になめられ、受入れ困難なもの迄も強く出られ国威失墜する等々である。
 クルティウスは此後、幕府の蒸気船入手の世話をしたり、海軍伝習所の創設や造船所建設など、
開国黎明期に近代国家建設の為に協力している。 

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左写真
出島カピタン部屋ダイニングルーム
テーブルには10名分程席がある