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                 ラゴダ号乗組員松前に漂着
         

申五月廿三日阿部伊勢守様江差出、六月二日御付札済
去ル七日未之上刻頃私領分西在小砂子村前浜
江端船三艘ニ而異国人拾五人上陸いたし候趣、尤元船
者相見得不申候段、同村江差置候番人共
より私居所江
注進申越候ニ付、即刻為取調家来共并一番手
人数出張申付、爰元差立候所
到着以前未中刻頃右異国人共端船へ乗組、同所
出張致候段、同村番人共
より注進申越候、然ル所右異
国人共小砂子村西ノ方隣村石崎村前浜江暮六
ツ時頃、又候上陸致し候段同村番人
より江戸表江注進
有之候ニ付、即刻同所よりも取調之もの并同所詰人数
出張致し、翌八日石崎村江者爰元差置候家来共
も一同到着之所、同村前浜下江異国船捨船三艘
陸江引上ケ置、異国人共上陸致し居候間、何等之義ニ
而上陸致候哉、始末相尋候得共、言語一切不相分
手真似を以相尋候所、鯨取候道具ニも可有之哉、戟

様之物取出し、鯨取候仕形致し為見候ニ付、早速帰
帆致し候様、手真似を以相諭候所、薪水食料等乏
乞候様仕形致し候ニ付、端船壱艘乗組五人江玄
米一斗薪五尺縄ニ而壱把ツツ差遣、翌九日辰上
刻頃異国人共出帆之様子ニ付、何方へ出船候哉手真似
ニ而相尋候所、小砂村山中之方江向、夫
ヨリ走出候手真
似致し無程三艘共石崎村川尻崎
より午之方へ向漕
行候所、午刻頃江良町村前浜江又々異国人共拾五
人致上陸候ニ付、何等之義ニ而上陸致し候哉手真似を
以、相尋候所、所持之絵図面・磁石等取出、子丑之方へ
指さし致し、元船破船ニ及び候手真似致し、猶亦
乗組人数三拾五人之内弐拾人者海死、残り拾五人

者自分共之様ニ指をおり仕形致し、端船五艘之
内弐艘もの破船致し候様仕形ニ而、相答候ニ付、早速
帰帆之義手真似を以相諭候所相黙頭、風順ニ相成
候得者同所出帆致し候様之仕形致し、東之方灘
通漕参り北国海岸通、カウライとか申所江参
候得者大船数多参り居、右江乗移り走行候様之
仕形致し候得共、猶亦頭立候者と覚敷異国人
ヨリ
外一同へ相談之様子之上ニ而、乗来候端船ニ而者迚
もカウライ迄之大洋乗船難相成、当惑之体、何れ
之海岸江上陸も難斗、無余義同村江小屋取立昼夜無
油断、番人付置食物手当等致し置候
一右異国人拾五人何れもザンギリ髪ニ而身丈五尺四五
 寸
より六尺位迄、人物ハ何れも一様ニ而眼之瞳黒キも
 有之 薄赤キ有之候、鼻者常躰髪短く耳之際ニ而挟
 之中ニ者髪髭共薄赤くチヂレ候ものも有之、髭者何
 れも薄き方ニ有之候、頭立候と覚敷もの三人有之
 様ニ見受候、衣類者白木綿又者更紗紋羽様之
 もの木綿絣羅背板様のものも有之、何れも網代
 様之笠并頭巾様のものを冠り、革沓を履居申
 候段、取調相越候家来共申越候
一異国人共乗参り候端船三艘共長サ凡四間位幅凡
 五尺位御座候由、右船并船具等者役場江引上ケ置申
 候、其外所持品も御座候得共、巨細取調之上申越候
 段家来共A申越候ニ付、御届申上候、右異国人共
 此上如何相心得可申哉、此段奉伺候、以上
       五月十一日
  御付札
   書面上陸いたし候異国人共之義者、於長崎表御
   尋筋有之候者ニ付、其心得を以手当致し、彼地江
   早々送遣候様可被取斗候



嘉永元(1848)5月23日に老中阿部伊勢守
に差出した松前志摩守の5月11日付報告書
6月2日付けで伊勢守の付札あり
      (報告書要点)
嘉永元5月7日に松前西小砂子村の海岸へ艀
三艘で異国人15人が上陸する。 元船は見え
ないが同村駐在の番人から注進あり、早速
壱番手の警衛人員が松前を出立。 ところが
到着前午後2時頃彼等は艀に乗り立去る旨
番人から注進あり。

ところが異国人達は西隣の石崎村海岸へ夕方
6時頃上陸した事村番人より江差に注進あり、
直ぐにそこから調査の者や詰めていた人員を
派遣する。

翌8日石崎村には松前出発の家来達も到着
異国人に上陸理由を尋ねたが言語通じず、
手真似で捕鯨道具を見せるので帰帆する様
手真似で説得したが薪水食料が乏しく欲しい
様子なので壱艘五人宛に玄米一斗、薪五尺
縄のもの壱把づつ与えた。

翌9日朝7時頃出帆の様子故何処へ行くか
尋ねたら小砂村山中の方を向、それから走る
手真似して間もなく三艘とも南の方へ漕ぎ出す
昼12時頃江良町村海岸へ又々上陸したので
何故か尋ねた所、所持の地図と磁石で北北西
を指さし、元船が破船して35人の内20人が死亡し
残り15人が自分達である様子示し、艀5艘の
内2艘破船した旨答える。

再度帰帆する様説得したところ頷くので、風が
良くなれば爰を出て東の灘を越え北の方に
行きカウライとか云う所に行けば、大船も多数
来ており、これに乗移る様手真似した
リーダ格らしき者が皆に相談していたが、この
艀ではカウライ迄の大洋を乗るのは無理であり
となり困った様子なので止むを得ず江良町村に
小屋を作り昼夜番人をつけて食物を支給している

ー異国人15人は皆ザンギリ髪で身長5尺45寸
  から6尺位、眼の瞳は黒いか薄赤い者もいる
  鼻は普通で髪は短く耳の脇で挟み、中には
  髭髪共に薄赤く縮れている者もいる。 髭は
  皆薄い方です。 リーダー格らしき者が三名
  いる様だ。衣類は白木綿か羅紗の羽織の様
  なものか木綿絣か薄手毛織物の様なものある
  何れも笠か頭巾をかぶっており、革沓を履く
ー異国人が乗ってきた艀三艘は長さ7m余、幅
 1.5mくらいです。 艀及び船具等は役所で
 預かっております。その他所持品について
 詳細 調査の上報告予定

 この異国人達此後如何したら良いか伺いたい
       5月11日

 付札(老中より)
 書面にある上陸異国人は長崎で取り調べする
 ので、その積りで保護して長崎へ早々送ること
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                    ラゴダ号乗組員長崎での聞取り
              

嘉永元申年五月七日松前小砂子村
より同石崎村、江良町
村江同九日漂流異国人拾五人、御糺書并再糺書之写
             北アメリカ州之内
              ねウヨルク
         按針役    チャンブール 歳二十五
              メスチュセッツ
                 チョン       同二十二
                 エスレ      同二十
              ねウヨルク
                 ホイ       同二十一
                 ヒハル      同二十三
              チャンマルマルテン 同十九
              ヘンスリフェニヤ 
                 ラーベマコイ  同二十二
              オアホ
                 ホール      同二十五
                 ハーレ      同四十
                 マンナ      同二十五
                 モックル     同二十八
                 ステーモ     同二十六
                 チーク      同二十二
                 ハイレム    同二十七
                 マウイ      同二十五
私共之内チャンブール儀者父一同相暮し、チョン者独身
ニ而当人共船ニ按針役致し、エスレ者両親一同相暮し
親者左管職いたし、ボイ・ヒハル儀者独身、チャンマル
マルテン者両親一同相暮し親者木綿商ひいたしラーベ
マコイは独身、ホール者妻子共三人相暮し、ハーレ者
両親妻子共七人相暮し親者漁師ニ而有之、マンナ者
母子共四人相暮し、モックル者両親一同相暮し親漁師
ニ有之、ステーモ者独身、チーク者母一同相暮し、
ハイレン者妻子と両人相暮し、マウイ者独身
ニ而、エスレ其外之もの共一同銘々漁稼いたし罷在候、

然ル処鯨漁念して、ねウヨルク住居船頭ブロン、按針役
チョン并住居不存ウエイルワンヨリ漁夫ニ被雇、エスレ并
外廿六人都合三十人、ラゴダと唱ひ船ニ乗組、暦数
千八百四拾六年第八月廿五日
(弘化三年七月四日ニ当ル)
メスチュウセッツ之湊ニウヘットホルトと申処
ヨリ出帆いたし
北海ヨリ大西海を通り、新セイラント・新カレドニヤ之間を
乗通りカムシカット江罷越、鯨漁致し居候處、薪水乏敷
相成候ニ付、カリホルニヤ江乗寄右買入、当年月日不覚
同所出帆オアホ江乗寄、漁夫之内十七人同所に上陸
チャンフール并住居不存ウイツル両人同所
より按針役
ニ而乗組、ホイ外十一人之もの共者漁夫ニ被雇、外ニ
同処にて漁夫三人相雇、都合三十人乗組第三月廿七
(当月廿二日相当ル)

同所出帆北太平海江乗、サンタン蝦夷之沖合ニおいて
漁いたし追々取溜候鯨油千三百樽程猶漁いたし罷在
候中、当年五月三十日
(当四月廿八日昼八つ時相当ル)
風雨強大荒に相成、前後も難見分風雨強、高波打込、
種々相凌罷在候処、同六月二日暁
(当五月二日ニ相当ル)
風者和らぎ候得共高波逆波難止、殊ニ雨中ニ而
方角も相分兼、蝦夷地近海と覚、瀬ニ押上ケ候ニ付、楫
を取凌候内、又候瀬ニ打当て危く候間、衣類食物等取集
端〔船〕江投入、私共十五人者端船江飛乗、残り十五人
も端船二艘に乗移候処、元船者無間も致す破船、外の
もの共も乗組候無程転覆、私共端船三艘者種々相凌
漸々一緒ニ繋キ合、西北之風ニ而流れ次第に漂ひ居、
嶋山等は更ニ不相見候処、同七日
(五月七日ニ当ル)
朝地方を見出し候ニ付一同力を得、順風ニ付帆を懸候

処追々近寄同日八つ時頃、其節地名不存松前小砂子
村江致漂着候処、帰帆之儀受候ニ付、本国之船見出し
便船いたし度、同所出帆致し候得共、食物薪水無之
候間、乞度其節地名不存石崎村江同日暮頃漕付致し
上陸候処、御役人体之人被相越種々尋受候得共、
何分言語不通ニ候間、漁道具取出鯨取候仕形いたし
候處、白米薪被呉、帰帆候様手真似被致候間、同
九日朝同所出帆いたし、午之方江向漕参り沖合及
見候へ共、更ニ何国之船も不相見得、殊ニ小船ニ而
者迚も洋中無覚束存、

又々乗戻し其節地名不存江良町村浜江漕付
致上陸候処、御役人体之人尋有之候間、本船及破船
難儀之旨仕形いたし、私共之内ニ者北海鯨漁之船も可
有之ニ付、便乞度存候もの共者其段仕形いたし候得共、
按針役之内其外乗組之内区々ニ而、小船にて大洋難
乗行、本国之漁船有無も難斗候間、一同承合其趣仕形
致し候所、同所江小屋補理ニ相成、私共を被差置候ニ
付、此上如何様之厳重之御取扱を請可申哉とチャン
フール、チャンマルテン、ラーヘマコイ三人之もの共
頻り成帰国いたし度存候より日不覚チャンフール、
マコイ両人儀便処の屋根を押破り、逃出候得共、山中
ニ而被差押、其後日不覚チャンマルテン・マコイ儀
又々囲之屋根を逃出候処、無程被捕押

今般一同長崎表江送り越ニ相成、御糺を受種々之御利
解ニ而安心致し中ニも三人之者共、種々存迷ひ恐憚
いたし候より差迫り、前書之通り逃去候儀ニ而、聢外ニ
子細無之今更後悔恐入候事御座候

一私共宗旨之儀者何れも同様ニ而尊敬仕候神仏無之、
  唯心を修し天を拝し候者真心明悟いたし幸福を可授
  ためニ而外ニ唱へ事無御座候
一日本地江是迄船を寄候儀一切無之、私とも漂流致し
  候処者松前小砂子村、其後漕寄候村々石崎村、
  江良町村と申儀、今般初而承候儀ニ御座候
    右者漂流異国人申候書面之通御座候
       申八月九日         かひたん


嘉永元(1848)5月7日松前小砂子村から石崎村へ
江良町村へ同9日漂流の異国人15人の口述書

名前、   年齢、 職業  住所、家族状況
チャンブール25 按針役 ニューヨーク 父と同居
チョン     22  同  マサチューセッツ 独身
エスレ    20 漁夫   同      両親同居
ボイ      21  同  ニューヨーク  独身
ビハル    23  同   同       同
チャンマルテン19 同   同      両親同居
ラーベマコイ 22  同  ペンシルバニヤ 独身
ホール    25  同  オアフ     妻子3人
ハーレ    40  同   同    両親妻子7人
マンナ    25  同   同    母子四人
モックル   28  同   同    両親同居
ステーモ   26  同   同     独身
チーク    22  同   同     母子同居
ハイレム   27  同   同     妻子
マウイ     25  同    同     独身

私共は鯨漁に憧れニューヨーク在住ブロン船長
航海役チョン及ウェイルワンより漁夫に雇われ、
エスレ他26人合計30人、ラゴダ号に乗組み、
1846年8月25日(弘化3年7月4日)
マサチュウセッツ州のベッドフォードと言う湊から
出帆しました。 北海より大西洋を通り
ニュージーランドとニューカレドニアの間を通り
カムチャッカへ来て鯨漁をしていた所、薪水が
乏しくなりました。

カリフォルニアへ行きこれらを買入れ、同所出帆
後オアフへ行き、漁夫17人が同所で下船し
チャンフール、ウイツルの2名が航海役として乗組
ホイ他11人の漁夫が雇われ、更に同所で漁夫3人
雇われ合計30人乗組みました。

当1848年3月27日(嘉永元3月22日)にオアフ
出帆し、北太平洋を走り樺太・蝦夷沖合で漁を
行い、鯨油も千三百樽程取れました。

当年5月30日(4月28日)風雨が強り海は大荒
で前後も見えない程になり、高浪は打ち込み
懸命に凌ぎました。 
同6月2日明方(当5月2日)風は和らぎましたが
高浪逆波は止まず、雨中で方角も分らず、蝦夷
地の近くと思いますが浅瀬に乗り上げ、楫で凌ぐ
内に又浅瀬にぶつかり、危険となったので衣類
食物集めて艀に投げ込み、私共15人は艀に
飛乗り、残りの15名も艀2艘に乗移り、間もなく
元船は破線致しました。 外の者達が乗組む艀
も程なく転覆し、私共艀三艘も懸命に凌ぎ漸く
一緒に繋ぎ西北の風に流れ次第に漂いました。
島山も中々見えませんが、同7日(当5月7日)朝
陸地を発見し、一同元気を出し順風に帆を上げ
近付き、同日10時頃、その時は知りませんで
したが松前小砂子村に漂着しました。

そこで帰帆する様に云われたので本国の船を
見付乗せて貰いたく出帆しましたが、食物薪水
が無いので貰い受けたく石崎村へ同日暮時
漕付け上陸しました
役人風の人来られ種々尋ねられましたが何しろ
言語が通じませんので、漁の道具取出し鯨を取る
格好をした處、白米と薪を与えられ帰帆するよう
手真似されました。 
翌9日朝同所出帆し南の方へ漕ぎ沖合を見ても
何国の船も見えず、この小船では大洋では
不安なので又戻り江良町村の浜へ漕ぎ付け上陸
しました。

そこで役人風の人に尋ねられたので本船が破船
して困っている旨伝えました。 私共の内には
北の海には鯨漁船もいる筈で乗せてもらおう
と云う者達もあり、航海役の者やその他の者と
意見がばらばらでしたが、結局小船では大洋を
行くのは無理であり、又本国の漁船がいるか
どうかも予測できないと云う事を手真似で
伝えました。

同所に小屋が作られ、私共はそこに置かれた
ので今後どんな厳しい処理がされるのだろうかと
チャンフール、チャンマルテン、ラーヘマコイの
3名は帰国したいがためチャンフール、マコイは
便所の屋根を破って逃げ出しましたが山中で
取押さえられました。
又チャンマルテンとマコイは又囲いの屋根から
逃出し程無く取り押さえられました。 
此度一同長崎へ
送られ取調べを受け色々御理解して戴き安心
致しました
中でも3名の者達は色々思い悩み恐怖にかられ
前述の様に逃げ出しましたが、外に子細はなく
今更後悔しております。

私共宗旨は皆同様で尊敬する神仏は在りません
  唯心を修め、天を拝して真心を込めて幸福を
  授かる為で外に唱える事はありません
日本の地へ是迄船を寄せた事は一切ありません
  私共が漂着致しました松前の小砂子村
  その後  漕ぎ寄せました石崎村、江良町村
  と云う事も此度初めて承りました。

以上漂流異国人の口述は書面の通りで
御座います
      嘉永元年八月九日  オランダ商館長


John Bull、Kempville、NY
Jhon Waters, half-caste, Sand.Island
Ezra Goldwait
Jacob Boyd, Sprinffield, Essex Co.,NJ
Melchar Biffar, NY city
Jhon Martin, Rochester ,NY
Robert McCoy, Philadelphia,PA
and 8 natives of Sandwaich Island
-from The Friend, Honolulu,October1,849
The Lagoda fifiteen of her crew escaped in
the Japan Sea
  
  此度松前江漂流いたし候北アメリカ州ねウヨルク住居
  チャンフ―ル、其外之ものとも都合拾五人申候横文
  字書付を以申上候処、猶又住居家業其外広々再応
  御糺ニ付、左ニ御答奉申上候

一按針役チャンフール儀者北アメリカ州共和政治之内
  ネウヨルク住居アンズルフール倅ニ而母并妻者相果
  子供両人有之、船乗渡世いたし弐十二才之時
より
  船ニ按針役いたし罷在候
一チャン者同州同断メスチュセッツ住居ニ而両親共相果
  父者チョウーオットルスと申大工職致し、此者者船乗
  渡世いたし二十才之時より船々按針役いたし当時
  独身ニ而稼罷在候
一エスレ者同所左官いたし候アロン倅ニ而両親存命、
  此者ハ三年以前
より漁稼いたし罷在候
一ホイ者ネウヨルク住居両親相果、父者ホイルト申沓を
  拵渡世致し、此者ハ独身ニ而三年以前
より漁稼
  いたし罷在候
一ビハル者同所住居両親共相果、父者フランシス
  ヒハルと申大工職いたし居候処、此者ハ十六歳
  之時
より漁稼いたし独身ニ罷在候

一チャンマルマルテン者同所住居、木綿致商ひ候
  チャンマルマルテン倅ニ而両親共存命、此者ハ
  三年以前より漁稼いたし罷在候
一ラーヘマコイ者同所共和政治之内ヘンスリフェニヤ
  住居にて両親共相果父者ロフルトマコイと申書籍
  商人に有之、 此者ハ三年以前
より漁業いたし独身
  罷在候
一ホール者同州サントウイスル嶋之内オアホ住居両親共
 相果、父者セームスホールと申農業致し、此者ハ八年
 以前
より漁稼いたし妻子一同相暮罷在候
一ハーレ者同所漁師ハルキュル倅ニ而両親共存命、
 此者も漁稼いたし親妻子一同相暮罷在候
一マンナ者同所住居父者相果母者存命、父もマンナ
  と申農業いたし候、此者拾年以前漁稼いたし、子供
  壱人有之妻者相果、母子供一同相暮罷在候

一モツクル者同所漁師モツク倅にて両親とも存命、此者
  も漁稼いたし親一同相暮シ罷在候
一スチーモ者同所住居両親共相果父者スラーイムと申
  鍛冶職いたし此もの者三年以前
より漁稼いたし独身
  罷在候
一ケーク者同所住居父者相果母者存命、父者カルウフ
  と申者漁師致し此者も漁稼致し母一同相暮罷在候

一暦数千八百四拾六年第八月廿五日前ニ同シ
 メスチウセッツ之湊ニウベウトホルト出帆いたし候
一ニウベットホルトより船号ラゴダと唱候船江ネウヨルク
 住居船頭ブロン、按針役住居不存ウイルソン同チョン
 漁夫エスレ外二拾六人都合三十人乗組罷在、
 カムシカツト鯨業いたし、カルホルニヤ江乗寄薪水
 買入オアホ江罷越、乗組漁夫之内十七人者同所江
 上陸いたし、右代り漁夫十五人按針役チャンアル同
 ウイスル共十七人乗組、都合三拾人之内、船頭ブロン
 按針役ウイルン同ウイスル外漁夫拾弐人死失いたし、
 ニウベットホルトより乗組居候者ニ而チョン、エスレ并
 オアホより乗組候者之内ニ十三人書面之通存命
 罷在候

一松前表ニおいて乗組人数尋請候節、銘々手真似を
  以申 立候処、全間違候儀ニ可有之乗組三拾人ニ
  相違  無御座候
一本船瀬ニ打当候ニ付、種々相凌候儀者追々申立候
  通り 危く相成候ニ付、一同生死之場合前後忘却
  いたし、唯手近之品々端船に投入、直ニ飛乗候後、
  無程本船者及破船ニ候儀にて、食物取集メ、漸
  両日程者相凌候得  共、其後者難儀仕候
一袋之儀者漁船之端船江者壱つ宛有之、右者端船、
  本船よりはなれ格別遠海を乗候儀者無之候得共、
  鯨を見付可申と相廻り遠く乗離レ候節、磁石相用
  候間、壱包つつ者端船ニ有之、漁具荒道具等者、
  兼而端船江置付候侭ニ而、難船之節、持乗候儀ニ
  者無御座候
一アメリカ船廿艘、阿蘭陀船弐艘、フランス船三艘追々
  行逢何れも鯨船ニ而、私共サンタン沖合ニ而漁
  いたし候節、右船々之内、船数不覚一同漁船いたし
  端船ニ而致往返候へ共乗組居船も有之候
一鯨油之儀者第一諸国燈シ油、又者頭髪梳候節并
 蒸気之船車等江専用ニ有之、且鯨髄者蝋燭等製し
 広く相用候ニ付諸国とも多分之船差出し専ら鯨漁仕候
一北アメリカ州
   サントライスル嶋之内 
     マウス    ハウアイ *マウイ、ハワイ
     オアホ    タホフエー*オアフ、カホオラウエ
     ラネイ    カウアイ   *ラナイ、カウアイ
     モロケイ   ニヒユー   *モロカイ、ニイハウ
   右八嶋ニ而オアホ住居之人数者不存、八嶋ニ而凡
   百八拾万人程も有之、エケレスの人数多住居いたし
   候得共、属嶋ニ者無之、八嶋之国王オアホニ罷在
   名者カメハメハと申歳三十一之由、全自立之嶋ニ而
   外国江貢土送候儀無御座候
   右者漂流異国人江再応御糺ニ付、御請申口書面
   之通御座候
            申八月十三日    かひたん

此度松前に上陸したアメリカのニューヨーク住民
チャンフール達15人についてオランダ語で書面
差上げましたが、更に住所、家業他詳細を再度
御問合せありましたので,以下回答いたします

ー航海役チャンフールはアメリカ合衆国の中の
 ニューヨーク州に居住するアンスルフールの倅
 で母、妻は他界し、子供2人あります。 船乗
 稼業をしており22歳の時から航海役です。
ーチャンはマサチュウセッツ州に住み、両親共
  他界しています。 父はチョウーオットルスと
  云い大工でした。 本人は船乗稼業をして
  20歳の時より航海役をしており、現在独身です
ーエスレは同州で左官をやっているアロンの倅で
 両親とも存命です。 本人は3年前から漁夫を
 しています
ーホイはニューヨーク在住、両親は他界し、父は
  ホイルトと云う靴職人でした。 本人は独身で
  3年前から漁夫をしています
ビハルは同州在住、両親共他界し父は
 フランシスビハルと云い大工でした。本人は16歳
 より漁夫をしており独身です
ーチャンマルテンは同州在住で木綿商のチャン
 マルテンの倅で両親共存命です。 本人は3年
 前から漁夫をしています
ーラーヘマコイは合衆国の中ペンシルバニア
 在住で両親共他界、父はロヘルトマコイと云い
 書籍商人。 本人は3年前からの漁夫で独身

ホールはハワイ諸島のオアフ島在住、両親共
 他界し父はセームスホールと云い農業に従事
 本人は8年前から漁夫で妻子同居
ーハーレは、同所漁夫ハルキュルの倅で両親共
 存命、本人は漁夫で妻子共に同居
ーマンナは同所在住、父は他界母は存命、父も
 マンナと言い農業に従事、本人は10年前から
 漁夫で子供一人あり妻は他界し母・子同居
ーモツクルは同所漁夫モックの倅で両親共存命、
 本人も漁夫で親と同居
ースチーモは同所在住、父は他界父はスラーイム
 と云鍛冶屋。 本人は3年前から漁夫で独身
ーケークは同所在住、父は他界母は存命、父は
 カルウフと云い漁師。本人も漁夫で母と同居

ー西暦1846年8月25日にアメリカマサチュウセッツ
 のニューベッドフォードと言う港から出帆しました
ーニューベッドフォードよりラゴダ号と云う船に
 ニューヨーク在住ブロン船長航海役のウイルソン
 及び同チョン、漁夫エスレ他26人合計30人
 乗組み、カムチャッカ沖で鯨漁を行い、
 カリフォルニアに行き薪水を購入
 オアホで漁夫17人が下船、代わりに漁夫15人
 と航海役チャンフール、ウイスル計17名乗組む。
 合計30人の内船長ブロン、航海役ウィルソン、
 ウィスル、漁夫12人死亡しました。
 ニューベッドフォードより乗船のチョン、エスレ
 及びオアホからの13人計15人は書面の通り
 存命です

ー松前で乗組人数確認の際、銘々が手真似で
 申告した為間違いあり乗組み30人に相違ない
ー本船が浅瀬に衝突して対応に追われ、慌てて
 手近の物を艀に投込め、本船が破船してみると
 食物は2日分程しか無くその後は苦労しました

ー非常袋は各艀に壱つ宛備えてあるが本船から
 離れて遠距離航海をするものではなく、鯨を
 見つける為乗廻り本船より離れた時に磁石等
 用います。 壱袋づつありこれは難破の時に
 持込むものではありません。 又漁具や簡単な
 道具は 普段から艀に備え付けてあります

ー途中海域ではアメリカ船20艘、オランダ船2艘、
 フランス船3艘に逢いましたが何れも鯨漁船です
 私共がカラフト沖で漁をする時これらの船も一緒
 でしたが数は覚えて降りません。 艀で本船間を
 往復して乗った船もあります。
ー鯨油はどの国でも燈油として用い、頭髪油や
 蒸気船の車軸潤滑油に多く用いられます。 又
 鯨の脳髄は蝋燭に作られ広く使われるので諸国
 が多くの船を使って鯨漁をします。

北アメリカ
   ハワイ諸島 8島名
  マウイ、 ハワイ、オアフ、カホオラウエ
  ラナイ、カウアイ、モロカイ、ニイハウ
上記8島の内,オアホの居住人口は存ませんが、
八島全体では1,800千人程で、イギリス人が多く
居住していますが属島ではなく八島の国王が
オアホに居ります。 名はカメハメハと云い31歳
の由で完全に独立の島で外国に占領されている
土地はありません

上記は漂流異国人へ再度お尋ねのため、御答
書面の通りで御座います
     嘉永元年8月13日  オランダ商館長
    
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                      プレブル号艦長の口述            
            

嘉永二酉年
  於北アメリカ船御検使御糺之節口書
 一北アメリカ州軍艦ニ御座候
 一乗組人数百四拾壱人ニ御座候
 一三ヶ年以前同州ネウヨルクより出帆、南アメリカ州
  乗廻唐国ホンコン江罷在候
 一船号プレプルと申、長サ廿二間八合弐勺幅五間
  五合深サ弐間六合六勺ニ御座候
 一主役の名セームスキリンと申年四十八歳ニ御座候
 一主役官名 コンコントルと申候 *コロネル 
 一今般来朝之次第ハ御当国江御投置候漂流アメリ
  カ人連帰候ためにて外ニ子細無御座候
 一漂流之者ども御当国江罷在候義、唐国ニ罷在候
  上役之者承り私江連帰之義申付候
 一先月廿八日唐国ホンコンより出帆今日御当国江
   渡来仕候
 一右上役之官名コモドール名はデフィットガイシンゲ
  ルと申候
 一御諭書之趣逐一奉畏候、乗組来候之者迄堅
  相守候様相示可申候
 一右之通異国船主役申口和解差上申候以上
    三月廿六日
  
  長崎湊口着船之北アメリカ合衆国之船プレブル
  船より、暦数千八百四拾九年第四月十九日
   
   嘉永二酉年三月廿七日ニ当ル、差出候書面趣意
 一私義北アメリカ合衆国海方ニ携重立たる士分
  之者ニ而当軍船之司ニ御座候
 一私重役コモドールガイジンゲル人名義候唐国辺海
  之自国之船難破之患も有之、時ニ救助可致と国
  命を受候者ニ有之候ニ付、自国者共拾五人追而
  壱人都合十六人、御当国海辺ニ而致難船候趣承り
  此節連帰候ため、私義御当国ニ差越候義ニ御座候
  依之何卒右之者とも私江御渡被成下候様、奉願候
  将又当節迎船御差越候義を右拾六人之者江早く御
  達被成下、右願之通御許容被成下度奉願候
   右翻訳仕候セームスギリン人名
           ようせふへんりい
                れいそん
 右之趣カヒタン横文字ヲ以申上候ニ付和解差上申候


嘉永2年(1849)長崎入港アメリカ船取調口述書
ーアメリカ合衆国軍艦です
ー乗組員数は141人です
ー3年前に合衆国ニューヨークを出帆し、南米を
 廻り中国へ行き、香港に駐留しています
ー船名はプレブル号で船長さ40m余、幅10m余、
 深さ5m若です
ー艦長名はJames Glynn と言、年齢48歳です
ー艦長役職は大佐です
ー今般訪日目的は貴国に在留する漂流アメリカ
  人引取りで、それ以外は何もありません
ー漂流者達が貴国に居る事は中国に駐留する
 上司が聞き、本官に連れ帰る様に申付けました
ー先月28日香港を出帆し,本日貴国に渡来
 しました
ー前述上官官名は提督、名はDavid Geisinger
 です
ー御注意書の趣旨は了解しました。乗組員に
 徹底して守らせます

ー上記の通り異国船艦長の口述を翻訳します
  三月廿六日
  
長崎港口に停泊するアメリカ合衆国プレブル号
より1849年4月19日(嘉永2年3月27日に当る)
差出の書面趣旨
ー私はアメリカ合衆国海軍に属す上級士官で
  この軍艦の艦長です

ー私の上司Commodore Geisingerは中国近海
 で自国の船が難破した時に救助すべきと国命
 を奉じており、自国の者15名追加1名合計16名
 が貴国の海域で難船したと」聞き、彼等を連帰
 る為に私を帰国に派遣しました。 
 
 夫故彼等を私に御渡し下される様御願します
 尚今迎え船が派遣された事を彼等16名の者達
 へお伝え下さい
 以上御了解願いたく御願いたします
             James Glynn
   上記翻訳しました(英語からオランダ語へ)
          ようせふ へんりい れいそん 
          (出島オランダ商館長)    

 上記横文字(オランダ語)を日本語に翻訳して
 提出致します
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                    長崎町役人の記録
           

一右漂流アメリカ人之義者、全体阿蘭陀商売船
 より御差帰可被成積ニ而、去夏帰帆之蘭船江御
 達有之候ニ付、アメリカ其外迎船として自然罷
 越候様之義決而無之様、精々阿蘭陀国より掛合
 候様御申越相成居候之所、不図此度迎船として
 罷越候アメリカ船主役之者より、右書面差出
 候末、カヒタンより願出候ヲ以申立ニハ去夏御達之
 趣義有之候得共、折角遠海迎船として罷越候
 儀ニ付、御引渡被仰付度、乍去一応御達之御趣意

 も有之事故、一先かひたん江御引渡被仰付被下度
 其上にてアメリカ船主江相渡可申旨、願出候所其
 段於御奉行所御聞済ニ相成、四月四日御役所へ被
 召出、 其後於蘭館かひたん江御検使を以、御引渡
 有之、夫よりかひたんハ病気ニ付、代ニ役掛り之
 蘭人右拾四人 之者召連、湊口江繋居候アメリカ本
 船江相渡、翌五日出帆致候、漂流人松前表より送越
 ニ相成候節拾六人ニ候所、内二人ハ牢内において
 病死致候ニ付、此度御渡シ人数拾四人ニ而御座候、
 右アメリカ人入牢ニ相成候義元迄興福寺境内ニ囲ひ
 先座敷牢之様ニ致、其所江役々昼夜番人交代致詰
 方相成、尤賄ひ等者コンプラより仕出し候義ニ御座候
 所、拾五人之者

 乱妨相働キ、右居所
より逃出、近村江駈廻り、夫より
 捕方役人所々江罷出召捕候義有之、尤逃出候者
 ハ三四人ニ候得共、右様之義度々有之候而者御面
 倒ニ付、右拾五人不残入牢と相成申候、拾五人之外
 跡
より壱人送越ニ相成分ハ、大悲庵と申所江別段ニ
 役人付添壱人被召置候義ニ御座候所、此壱人者元
 按針役之内ニ而、於船中ニ船頭之者と口論致候内
 ニ而不及是非ニ、壱人端船より日本地方江乗付候趣
 ニ御座候、此者ハ至而礼義正しく、諸役々江も丁寧ニ
 有之候得共、右拾五人之者ハ誠ニ下賎と相見江
 無礼のみ相働候て、役人も相困候義ニ御座候、内二
 人病死致し中壱人ハ拾五人之頭分之者之内ニ

 御座候所、於牢内口論有之返答ニ差迫候儀有之候
 趣ニて、遂ニ者首〆死去仕候由ニ御座候得共、矢張
 病 死と申触候義ニ御座候、是ハ全く内分之義ニ
 御座候
 右之者共滞在中ハ日本料理食申候、右牢内ニ而口
 論之次第ハ、逃出候者ハ三四人之所、不残無事之
 者迄一同入牢相成、不自由之身と罷成候も頭分ニ而
 取締悪く候故、右様之次第相成候様抔と難題申
 懸候ニ付、彼是口論と相成申し?無之首〆候趣ニ
 風聞伝承り仕候



此度の漂流アメリカ人は、全くオランダ貿易船で
帰国させる予定で、昨年夏帰帆したオランダ船に
伝えた際に、アメリカや外の迎船を派遣させない
様にオランダから関係国に説得するように云われ
ていたが、図らずも迎え船がやって来てアメリカ
船の責任者より前記書面が差出された。 

オランダ商館長としては昨夏の御達しはあるが
折角遠方から迎え船として渡来して来たので
引渡しをご許可願いたく、そうは云っても御達し
の趣旨もあるので、ひと先ずオランダ商館に
御引渡し御願したい。 その上アメリカ船へ引渡
旨を願出て奉行所から許可された。 

漂流民は4月4日に役所へ呼び出され、オランダ
商館へ引渡しとなった。 商館長は病気故代り
に掛りのオランダ人が14人を連れ、港口に係留
しているアメリカ船に引渡し翌4月5日出帆した。

漂流人達が松前から送られて来た時は拾六人
だが内2人は牢内で病死したので、此度の引渡
は14人である。

このアメリカ人が入牢となる原因は、初め興福寺
境内に囲いを作り、座敷牢の様にして昼夜交替で
番人がつき、賄い食は長崎の仲買人達から提供
されていたが、15人の者が乱妨を働き、この場所
から逃出し近村を駈廻り、役人があちこち出かけ
捕まえた。逃出した者は三四人だが15人全員が
入牢となった。

この15人以外に1人送られて来た者は大悲院と
いう所に別に役人が付添で置かれていたが、彼は
元航海役だったが船内で船長と口論となり、止む
を得ず船ヲ下り、艀で日本の地に乗付た様子で
ある。彼は非常に礼儀正しく関係役人にも丁寧に
接していたが、前の15人は実に下賎の者と思われ
無礼な事ばかり働き役人も困っていた。

此中で2名病死しているが内1人は15人の頭分の
者の一人で、牢内で口論があり返答に迫られ遂
には首を〆て死んだ由であるが、これは矢張り
病死として処理したものである。 是は全く内聞
の事である。 彼等は滞在中は日本料理を食べて
いた。 牢内口論の原因は逃出した者は三四人
なのに全員が入牢し不自由な身となったのも、
頭分の管理が悪いからと難題を吹き掛けられ
口論となり余儀なく首を〆た由の風聞である。
 

コンプラ: Compradorポルトガル語  仲買人
大悲院の1名 :利尻島上陸のラナルド マクドナルド
          森山栄之助等に長崎で英語を教える
嘉永元(1948)5月7日 松前へ漂着
嘉永2(1949)4月5日 プレブル号引渡
  日本滞在 11ヶ月