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日本に漂着したアメリカ人達


    1853年米国のペリーが4隻の艦隊(内2隻は当時の世界最大級の蒸気船)を率いて浦賀に
大統領国書を持参して日本の開国を迫った。 米国として日本に開国させたいのは通商の事もさる
事ながら、緊急課題として日本付近で操業する自国の捕鯨船や中国へ向かう商船への薪水や食料の
供給、及びこれらの船が難破した時の乗組員保護があった。 大統領国書と共にペリー自身が
日本政府に出した書翰があり、その中で「是迄米国の人民が日本の海域に漂着すると、まるで仇敵
の様にとり扱い、その例としてモリソン号、ラゴダ号、ローレンス号の事件がある」と述べている。
モリソン号と外二船の背景は全く違うが、実態はどうだったのか当時の古記録を解読する。

. ラゴダ号
   嘉永元年(1848年)5月7日、三艘の艀(長さ7m余)で15人が松前の北西30km程の小砂子村に
上陸する。 海岸番人が立去る様手真似したら去ったが直ぐに南隣の石崎村海岸に上陸する。 
此処で食料、薪水を貰い一旦立去るが、再度5月9日隣の江良町村へ上陸する。 役人が度重なる上陸
理由を糺したところ、手真似で近海で鯨漁をしていたが親船が破船し30人の内15人は死亡、15人が
生存の自分達である。 母国の船を探して乗せて貰おうと思ったが、どこの船も見懸けず艀では大洋を
帰れない事訴える。 藩勤番役人も止むを得ず小屋を作り収容し、番人を付け食事を供給する一方、
松前藩では藩主が5月10日に江戸の幕府に報告し指示を待つ。 この間一部の者が二度も脱走を繰り
返している。  

   幕府から松前藩江戸藩邸へ6月2日付札で長崎へ移送する様指示が出されたので上記15名を長崎に
送る。 長崎では同年8月9日に英語が分るオランダ商館長が聞取り、オランダ語で口述書を提出する。 
その日本語訳が記録に残っており、かなり細かい所まで明確になっている。 又長崎町役人の記録と
思われる記述によれば、この15名は非常に無礼で態度が悪く、一部は長崎でも脱走を試み、関係役人も
苦労し止むを得ず最後は全員牢に繋がれたと云う。 更に牢内で仲間割れを起こしリーダー格の一人が
首を〆られ死亡したが、役所では一応病死とした由である。 
  
   幕府は1年前のローレンス号と同様にオランダ交易船にバタビヤ(現ジャカルタ)に送還させる
予定だった。 しかし事前にオランダ交易船が香港付近の米国東印度艦隊に連絡したのか、翌年3月に
米国軍艦プレブル号が長崎へ引取りに来航した。 しかし日本とアメリカは当時国交がないのでオランダ
商館経由で彼等漂流民を引渡し、プレブル号は4月5日出帆している。 

   漂流民の年齢構成は20歳台前半の漁夫達が多く度重なる暴走の為に入牢となったが、牢に
繋がれた事実だけが一人歩きをして、日本は漂流民を虐待していると評判になったものと思われる。 
松前での漂流民保護から長崎で米艦プレブル号に引渡す迄約11カ月、脱走を繰返すために次第に
拘束が厳しくなったが、松前藩初め幕府関係者は彼等を安全に帰国させるべく食事の提供を含め相応に
取扱っている。 
  
  関係古文書    松前での漂着の状況(松前藩報告)
              長崎での聞取(オランダ商館長書面和訳)
              プレブル号艦長の渡来口述和訳
              長崎町役人記録
                 (以上弘化雑記第四冊から)

2. ラナルド・マクドナルド
   ラゴダ号乗組員漂着の直後嘉永元年6月2日利尻島に艀で一名が漂着した。 母船と別れて
遭難し小船ではとても帰れない旨手真似で訴えるので、利尻番所から宗谷の藩士勤番所へ引渡され
松前藩から幕府に指示を仰いでいる。 この時同藩江戸藩邸から秋口になると宗谷勤番所を閉鎖
するので、石狩ないし江差に直ぐに移送したい旨の追伸も提出している。 

   幕府からは長崎へ送るべきだが一先ず江差まで送る様にとの指示が出、7月26日宗谷を
出帆している。 しかし風筋が悪く江差に入れず松前近くの江良町村に8月10日到着する。 
そこで便船を待ち9月6日には長崎に向け出帆しているが、 この一名もアメリカ人であり、
プレブル号渡来時にラゴダ号漁夫達と共に引渡されている。 このアメリカ人は別な捕鯨船の
航海士で、船長と口論の末船を下りて艀に乗り遭難した事を述べている。 長崎でも前述ラゴダ号の
漁夫達とは別の寺院に収容されたが、長崎町役人記録ではラゴダ号組とは全く違い礼儀正しい
人物となっている。 

   彼は利尻漂着から長崎でアメリカ船に引渡される迄約十ヶ月程日本に滞在している。 
尚このアメリカ人はラナルド マクドナルドと云、長崎で六ヶ月程の滞在期間に森山栄之助初め
オランダ通事達に英語を教えた。 又日本に強い興味を持ち最初から上陸予定だったが密入国に
ならない様に漂着を装った模様等が手記で述べられ、日本回想記として出版されている。
      
      関連古文書   利尻島漂着の状況及び指示伺い(松前藩報告)
                 所持品等報告 (松前藩)
                 江戸藩邸からの早期移送指示伺い
                 経路変更報告(松前藩) 
                  (以上弘化雑記第四冊から) 

. ローレンス号
   弘化三年(1846年)4月11日エトロフに異国人7名が艀で上陸しているのを番人が発見、松前藩
勤番所へ届出る。 翌12日勤番役人が取調べた所、言葉は通じないが手真似で捕鯨船が破船して14名の
内7名は死亡、7名が漂着した事分る。 漂流が長かったと見え飢渇の状態故、粥等与え元気になったら
出帆する様に手真似したが、小船ではとても大洋を乗渡り出来ない旨手真似あった。 止むを得ない
のでエトロフの勤番所で預かって食事を与えているが今後の処理を如何すべきか、松前藩主から閏5月
3日に幕府に問合せている。 幕府の返事が遅かったか更に翌6月12日に江戸詰の松前藩家来からエトロフ
は秋以降は船便も絶えるので今の内に同じ遠方でも陸続きの根室か、長崎への移送を考慮し函館に
移したい旨伺いを立てている。
  
   途中経過は不明だが最終的には長崎へ護送され、オランダ定期交易船でジャワのバタビヤ
(オランダのアジア拠点)へ弘化四年(1847)秋に送られ、アメリカ商船か米東印度艦隊かは不明だが
引渡されている様である。 
   電話も電信もない時代であり、エトロフ島という辺境から松前、江戸との通信は書状の往復
しかなく、又漂流民を船で長崎まで送るのも関係者はたいへんだったと想像するが、長崎でオランダ船
に引渡す迄18ヶ月掛っている。
    
      関係古文書   エトロフ漂着次第 〔松前藩報告〕
                エトロフからの移送伺い(松前藩)
                   (以上弘化雑記第四冊から)
                アメリカへの引渡報告(嘉永元年オランダ風説書)
                   (以上嘉永雑記第弐冊から)

.其の他の漂着
   以上は米国漂流民の状況であるが、19世紀中頃以降アメリカ以外の外国漂流民記録は殆ど
見懸けない。 日本近海で漂流するのは捕鯨漁船であり、船の数からアメリカが圧倒的に多かったと
思われる。 ラゴダ漁夫の口述の中に当時カラフト沖付近へ向かう途中で出逢った鯨漁船はアメリカ廿艘、
オランダ二艘、フランス三艘と述べている。 尚「通航一覧」によればイギリス鯨漁船員の漂着一件、
32名(内一名は溺死)が記録されている。
   
   1854年日米和親条約締結後の条約細目を下田で協議中、ペリーが日本側主席委員の林大学頭へ
日本にアメリカ漂流民がいないか問合せており、林大学頭が弘化三年(1846)、嘉永元(1848)の漂着及び
嘉永三年(1850)の漂着があるが全て送還して、今は国内にアメリカ人は一人も居ない旨答えている。 
      関係古文書  ペリー下田にて質問
                林大学頭解答
                 (以上嘉永雑記第9冊から)
         
5.モリソン号事件
   モリソン号は米国の民間商船であり日本との交易の窓を開く目的で、手土産として澳門にいた
日本人漂流民7名を日本に送届けようとした。 しかしモリソン号が1837年に日本に近付いた当時、
異国船打払令施行の時期(1825−1842)であり海岸に近付く異国船はみな砲撃されていた。  
結局モリソン号も浦賀で砲撃され、鹿児島でも砲撃され取り付く島なく帰国せざるを得なかった。 
気の毒なのは漂流民達で、当時中国に滞在した日本漂流民はオランダか中国交易船で長崎へ送還される
ルートが既に確立していたのに、モリソン号に交易の手土産に利用され母国から砲撃される悲劇に
巻き込まれた。 尚モリソン号の船主のキングは米国に帰国し1839年に出版した手記の中で日本から
砲撃された事を述べて、日本との交渉は今後政府に委ね強力且つ賢明な方法を取る方が良いと言っている。
 結果的にその後の米国の対日姿勢は政府・軍艦レベルで1846年のビッドル(浦賀)、1849年のグリン
(長崎)、1853年のペリー(浦賀)の渡来となっている。

   この事件の翌年オランダ風説書により、モリソン号が日本に漂流民を届けて交易を願いに来る
という情報があったが、内容から見ると1年後れの情報で且つ不正確である。 しかし幕府では昨年
浦賀、鹿児島で打払った船がそれとは結び付かなかった様で渡来した場合の対応を協議している。 
特に誤報でモリソン号は英国船になっているので、本々英国船とロシア船が種々問題を起こした為に
文政8年(1825)に異国船打払令を出したものであり、漂流民が乗っていたとしても打払い止むを
得ないという結論を出している。
   又この時の情報として中国で尊敬され学識あるイギリス人のモリソンが漂流民を連れて来る、
という情報もあったようである。当時の開明的な蘭学研究グループ(渡辺崋山や高野長英等所属)
ではモリソン人名説を信じた様であり、人道を無視した打払政策批判を展開し後の蛮社の獄へと
発展して行く。 

   当時の海外ニュースはジャワのバタビヤ(現在のジャカルタ、当時オランダの東洋拠点)から
毎年夏交易の為、長崎に渡来し秋に帰国するオランダ船船長から定期的にもたらされるオランダ
風説書と、中国の貿易船による清国の状況、及び偶に漂流民によるものしか無かった。 
1年後れのしかも不正確な情報(だから風説と言ったか)に皆が振り回された例と言える。 
しかし清国がアヘン戦争で英国に敗北した情報が入ると、幕府も無条件砲撃は危険という事で異国船に
対する打払令は天保13年(1842)に中止となり、穏便な薪水供与令に代わる。
       
       関係古文書     天保9年オランダ風説
                   評定一座見解
                   高野長英判決文
                       (以上天保雑記第28冊)
                   モリソン号渡来と浦賀奉行対応(蠧余一得)
                    

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