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                       ローレンス号エトロフ漂着次第

弘化三丙午年五月
 私領分東蝦夷地アヘトロツ島之内ルヘツ持場
 東浦見張番所
より一里半程相隔、字モシユと申
 所海岸去月十一日夕七時頃火煙相見へ手招致
 候者有之候ニ付、村方之者と相心得村方異人紋
 次郎弁吉両人罷越候所、異国人壱人上陸致
 居、磯際ニ而小舟を風除ニ致し薬灌様之物
 釣下ケ火を焚居、紋次郎を捕押懐中
より何か
 取出し懸候ニ付、振放両人共逃戻相隔見候所、異
 国人四五人相見へ候段、ルヘツ番所江訴出候間番
 人之者同夜勤番所江致注進候ニ付、即刻為
 見届、勤番家来共蝦夷江通辞召連、翌十二日

 字トシモリ川端迄相越候處、異国人七人上陸
 致居同頭立候者壱人病人ニ相見候何等之訳ニ而
 相越候哉手真似ニ而相糺候所、及破船候手真似
 致し人数十四人拮打七人海死之手真似ニも候哉
 愁傷之体ニ相見候間、見届之者
より破船海死
 之手真似致為見候所、相懸日数及破船長く
 食量差支渇命ニも及候様子ニ而、草根等を
 噛ミ色々手真似致候間、何国ニ而何頃致破船
 候哉手真似ニ而相尋候得共、言語一円相分不申
 食物薪水等も可遣候間、早々走去候様手真
 似を以相諭候得共、頭を振小船ニ而走去候儀
 相成兼候手真似、誠ニ餓渇体ニ持合之握飯

 飯粥ニなどし相与へ候所、一同歓候体ニ相見へ候
 猶食糧薪水等可遣候間、早々致帰帆候様再
 応手真似を以相諭候得共、一同頭を振、船ニ指差
 帰帆致候得は舟覆海死致候手真似を以、頭を振
 可致帰帆ニ相見へ不申候間、無拠フウレヘツ勤
 番所江召連、昼夜無油断番人付置、食物手当
 等致置候由、此上力付候ハヽ帰帆之義又々相諭
 可申候得共、当時之様子帰帆之体ニも相見へ不
 申、尤舟之義は長サ四間余小筒一挺其外所持
 之品々之内勤番所江取上預置、猶又追々取調
 之上委細可申越候段、アヘトロフ島勤番家来共
 
より昨夜私居所江申越候、爰許家来共之内出立

 申付、猶又厳重取扱候様申遣候、此段御届申
 上候、以上
   閏五月三日    松前志摩守

〔大意)
米捕鯨船ローレンス号の難破艀エトロフに
漂着、7名生存

弘化3年4月11日夕4時頃複数の異国人
上陸を蝦夷人2名が発見し番所へ届け、
番所より勤番所へ注進する

翌十二日勤番所役人が取調べた結果
異国人は7人居り、リーダー風が病気の
様である

言葉が通じないが手真似で以下分る
破船して乗組員14名の内7名死亡、生存
七名の漂流も長かった様で飢渇している
様である。 何時ごろ破船して何国か聞
いたが不明。

食料、薪水を与えるので立去る様云ったが
小船では大洋を渡られない旨手真似で
答える。 実に飢渇の様なので手持ちの
握飯を粥にして与えたら喜んだ

更に食料与えるので立去る様に云ったが
小船では転覆するので帰れない旨答える
ので止むを得ずフウレツ勤番所へ連れ行き
昼夜番人を付け、食物用意した。 元気
になったら帰帆する様にいったが今の
ところ帰る様子もない。 船は四間程(7m余)
の艀です。 鉄砲一挺その他所持品は勤番
所で預かっており、詳細分り次第報告する

以上がエトロフ勤番の家来からの報告ですが
松前から家来を出発させます
    閏五月三日   松前志摩守
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                        エトロフからの移送伺い

弘化三丙午年六月十二日御用番青山下野守様
御勝手ニ而差出方、御用方迄問合之上差出候所
御預置相成申候
 志摩守より御届申上候エトロフ島之内江上陸仕候
 異国人之義帰帆相諭候得共不承知之由、然ル所
 エトロフ島之義は松前表より弐百八十里程も相隔
 渡海場二ヵ所有之、例年二百十日後は海上
 荒く難儀ニ相成通船留り候時節ニ御座候
 八月頃より翌春三月末迄は書状往復も

 出来兼候海上御座候、前書異国人共夏海穏之内
 帰帆仕候内差支無御座候得共、小船之義ニ付弥帰
 帆不仕候節は、エトロフ島江差置候而は万端差
 支可申奉存候、弐百里余ニは御座候得共地続ね
 モロ場所江引取置候得共秋末冬ニ相成候共差
 支有御座間敷奉存候、差越ケ間敷奉恐入候得
 共、万一長崎表江差廻候様相成候節は箱館表
 江引取置候得ば明早春船路通路出来可申
 哉ニ奉存候、エトロフ表江差遣候家来取調之上
 取計方奉伺候而は時節相後レ万端差支
 可申奉存候、遠境渡海場之儀ニ御座候ニ付
 帰帆不仕候節之取計方奉伺、彼地江申遣
 度、此段各様迄奉伺御内意候
   六月十二日   松前志摩守家来
                   田島与兵衛

弘化三年(1846)6月12日、松前藩江戸詰
家来から老中青山下野守に提出し受領さる
         (大意)
志摩守より御届のエトロフ島中に上陸した
異国人は帰帆する様に説得したが応じない
様です。
エトロフは松前から280里(1000km余)離れて
おり、海路は弐ヶ所ありますが、例年秋口に
なると海が荒れ通船できず、8月頃から翌3月
頃迄は書状往復もままなりません。

異国人達は海が穏やかな夏の内に出帆すれ
ば問題ありませんが、小船の事で帰帆しない
場合、エトロフに彼等を置くのは不便です。
松前からは200里以上離れていても陸続きの
根室に引取れば秋冬にても問題ありません。

先走りで恐れ入りますが、もし長崎へ送る事
になるなら函館に引取って置けば、翌早春
には海路が開けると存じます。 
エトロフに派遣した家来の調査を待った上
では時期遅れになると思われます。 
辺境の地ですから、若し彼らが帰帆しない
場合の処理に付いて現地へ指示致したく、
皆様のお考えを伺いたく存じます。
六月十二日   松前志摩守家来
                   田島与兵衛
以上出典 弘化雑記第四冊
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                     アメリカへの引渡し報告


嘉永元申年四月
     オランダ風説書
一当年来朝之阿蘭陀船五月廿五日咬留巴表出帆仕
  海上無別条、今日御当地江着岸仕候、右壱艘之
  外類船無御座候
一「タイワン」其外日本近海に於て唐船見掛不申候
一去年御当地
より十月五日帰帆仕候
  「スヘルトーゲンホス船号 日数廿四日経、
  無滞同月廿九日交留巴着船仕候
一去年御当地より御送相成候「アメリカ」人三月朔日
  「アメリカ」江向ケ差送り申候
一瓜哇中物静ニ御座候      
 右之外相替風説無御座候
             カビタン
              よふぜふへんりいれいそん
  右之通、船頭・へとる阿蘭陀人トかひたん承り申
  候付、和解差上申候
         申六月廿九日   大小通詞

出典 嘉永雑記第弐冊
 
嘉永元年のオランダ風説書によれば
アメリカ漂流民は弘化4年(1847年)10月5日
長崎出帆、10月29日ジャカルタ着、嘉永元年   3月1日(1848年)アメリカに送る
 *交留巴=バタビア、現ジャカルタ
   オランダのアジアにおける拠点
 *瓜哇=ジャワ

 *カビタン、かひたん オランダ商館長
 *ヘトル: 商船事務長、荷物責任者





ローレンス号7名の経過
弘化3(1846)4月11日エトロフ漂着
(移送の経過不明)
弘化4(1847)10月5日オランダ船で長崎発
国内滞在約1年半