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    五月十七日差出候横文字和解
○ 林大学頭江
  近年南太平海唐国日本海江航海致候亜墨利加船舟
  之内、帰国相待候得共行方相分り不申、右乗組之者共
  存亡難斗候
  右ニ付国主命を下し、軍艦共をボルネヲ島名・台湾其他
  島々へ右存亡穿鑿之ため差遣申候、就而者私事も右
  同様之心得ニ而近々二艘之船、台湾江差遣候積り
  御座候
  右申上候趣意を者御許様并外御役ニ而御願申上、
  十ヵ年以来日本ニ於て難破致候船々之名号承知仕度、
  且即今貴国ニ漂民居合候哉、是又承知仕度奉存候
   合衆国蒸気フレガット船ボウハタン舟名日本下田ニ於て
     歴数千八百五十四年第六月十日
           合衆国水師提督東インド・唐国
           日本海出張日本人之使命
                            ペルリ
     右之通和解し差上申候、以上
           寅五月     森山栄之助 印
                    本木 昌造 印
                    堀 辰之助 印

嘉永7年五月十七日のペリー書翰翻訳
林大学頭へ(和親条約締結主席委員)
 近年南太平洋、中国.日本近海で
アメリカ船で帰国無く行方不明で乗組員の
存亡も分らないものがあります。
これに付き大統領の命令で軍艦をボルネオ
台湾、其の他に捜索のため派遣します。 
随って本官も同様に二艘の船を台湾に派遣
します。 此趣旨で貴殿ならび関係役人方に
御願い致しますが、過去十年の間に日本に
おいて難破した船名を知りたく、又現時点で
貴国に米国漂流民が存在しないか併せて
承りたく存じます
 合衆国蒸気フリゲート艦ポーハタン号、
 下田において
   1854年6月10日
    合衆国海軍提督、東印度・中国日本海
    出張日本への使節  ぺりー
 上記翻訳致し提出します
      嘉永七年五月  森山栄之助
                 本木 昌造
                 堀 辰之助
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   答書
○ 合衆国使節彼理江
 近年南太平海江航行せし亜墨利加船之内、其行方を失
 ひて船中の人存亡難斗ニ付、国命を以て軍艦をボルネヲ
 台湾及び其余の島々江遣して尋求め、使節も又是が
 為ニ二艘之艦を台湾に馳せて、其事を探索せんとす
 因て我国に於て、十年以来亜墨利加船の難破に過る
 船号を問るるの旨、具ニ知せり、今是を左方に記す
一弘化四未年松前地へ漂流せし亜墨利加人は同地より 
   長崎江護送し和蘭船に付して帰国せしむ
一嘉永元申年、同地江漂流せし亜墨利加人、其国の迎船
   に付したり                   
一嘉永三戌年同地へ漂流せし亜墨利加人并英吉利人
 は倶に和蘭船に付して帰国せしむ
一此三次其外に十年以来漂着の船無之、且我地に亜墨利
 加人壱人も在る事なし、尤前之三次の船号ハ其地の官吏
 等斗へる所なれハ我輩に於てハ今知るものなし、只其
 委細を記して使節の問に答ふるもの也         
    嘉永七寅年五月   林  大学頭 花押
                 井戸 対馬守 花押
                 伊沢 美作守 花押
                 都筑 駿河守 花押
                 鵜殿民部少輔 花押
                 竹内 清太郎 花押


出典:  嘉永雑記第9冊
    

返書
合衆国使節ペリーへ
 近年南太平洋へ航行したアメリカ船の中で
行方不明となり、乗組員の存亡に付、国命
で軍艦をボルネオ、台湾及び其の他の島々へ
派遣し、使節もこの方針に添って二艘の艦を
台湾に派遣して捜索を行うと了解します。
因みに我国で過去十年間にアメリカ船の難破
した船名を問われるいる事を知りました。 
是迄を次ぎに記します。

ー弘化四年松前地方で漂流したアメリカ人は
  同地より長崎へ護送し、オランダ船に託
  して帰国させました。

ー嘉永元年同じ松前地方へ漂着したアメリカ
  人はその国の迎船に託しました。

ー嘉永三年同じ松前地方へ漂着したアメリカ
 人及びイギリス人は共にオランダ船に託して
 帰国させました。

ーこの三件以外には過去十年間の漂着の船は
 無く、我国にアメリカ人は一人も居りません。
 尚この三件の船名は漂流地の役人等が管理
 しておりますが今私はわかりません。 
 以上使節の質問に対し返答します。
  嘉永七年五月  委員連名

 

弘化四年  ローレンス号7名 エトロフ漂着
嘉永元年  ラゴダ号15名 松前江良町村漂着 及びラナルド・マクドナルド 利尻島漂着
嘉永三年 アメリカ鯨漁船トライデント号の乗組員三名が嘉永2年6月カラフト島に取り残され
       同所駐在松前の役人に保護され松前経由、長崎に送られる
       イギリス鯨漁船イーモント号が北海道東部で岩にぶつかり破損沈没、乗組員32名は
       艀でアツケシ海岸に嘉永三年4月漂着(内壱名は溺死)、松前経由長崎に送られ
       トライデントの3名と合わせ34名が同年秋のオランダ船に託される(通航一覧による )