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写本翻刻 現代文訳
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安南国漂流記
 常陸国多賀郡磯原邑  船主 弥八郎
    
   禅宗   船頭 佐平太 三十五歳 亥ノ年
   同宗   水主 友 七 四十九歳 同年
   同宗   同  庄兵衛 四十壱歳 同年
   法華宗  同  吉四郎 三十八歳 同年
         同  善右衛門四十四歳死ス
         同  十三郎 三拾三歳死ズ
安南国漂流記
 常陸国多賀郡磯原村  船主 弥八郎
    註: 現茨城県北茨城市
 禅宗  船長 佐平太 三十五歳  (明和4年)
  同   水夫  友 七  四十九歳  (同)
  同    同  庄兵衛  四十壱歳  (同)
 法華宗  同  吉四郎  三十八歳  (同)
       同  善右衛門四十四歳で死亡
       同  十三郎  三拾三歳で死亡
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私共義難風ニ而安南国江漂着仕候処、南京当亥
四番船安南国へ商ニ渡申候便船ニ乗セて送られ
安南より直ニ長崎へ当七月十六日着船仕候、即日に
御役所様江被召出、宗門向御糺、せいた踏絵被仰付
漂流之次第一通り御穿鑿の上、揚屋江被遣候、猶
又段々御吟味ニ付委細申上候趣左之通御座候

一水戸様御領内磯原村弥八船、姫宮丸拾弐反帆
 乗組六人、明和弐年酉十月十五日奥州小名浜ゑ
 罷越、牧野越中守様御米六百弐拾俵請取、同廿五日ニ
 積立其夕方出帆仕、同廿八日五ツ時分下総国銚子浦へ着
 船、十一月朔日米不残河岸揚仕、御役人衆中より請取之
 証文を取、夫より同月五日辰刻順風ニ任せ帰帆に趣、いかさま
 六・七里も北の方江参り候比、西南ゟ難風俄ニ吹来り東の方
 ゑ吹飛され候故、帆を下シ碇を弐ツ迄つき候へ共、風次第ニ
 烈敷、碇綱引切レ船止り兼候、甚危候故帆柱伐倒申候
私共は難風により安南国へ漂着しましたが、今年(明和4年)の南京四番船が安南国へ商売に渡航した便船に乗せてもらい、安南より直接長崎へ当7月16日に着船しました。 即日長崎奉行所で宗門調査の踏絵を命じられ、漂流の次第を一通り調べられた後揚屋へ留め置かれました。 其後更に取り調べがあり、詳細を報告しました事次の通りです。

○水戸徳川家領内磯原村の弥八所有の姫宮丸、12反帆、乗組六人で明和2年10月15日奥州小名浜へ行き、牧野越中守様の廻米620俵〔約300石)受取り、同25日に積込夕方出帆しました。 同28日朝8時頃下総国銚子浦へ着船、11月1日米を全て河岸へ上げて役人方より受取証文を取り、同月5日朝8時、順風で帰帆に向けおよそ6-7里も北へ達した頃、急に西南より難風が吹き東の方へ吹き飛ばされました。 帆を下し碇を二つも下しましたが、風は次第に烈しくなり、碇綱が切れて船が止まらなくなりました。非常に危険な状態なので帆柱を伐倒しました。
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然共船中波高ク打込候、垢水汲出ニ強ク働候得共難防
候間、乗組之者共覚悟仕、各髪を切仏神ニ祈誓をこらし
大綱をたらしに引セ、六日之晩方迄東北之方へ流レ候、方
角不知候得共奥州相馬沖抔ニ可有之かと存候、然処六日の
晩方より風静ニ成、少し乾風変候、昔ゟ難風に逢候もの
北沖へ流レ命助る者なく、西南へ流レ候者ハ助り候事承り
及候間、此風宜キ方ニ存候故、たらしを引上帆桁を柱にし
拾弐反の帆を八反にして風に任せて巽沖へ吹返され申候
八日の夕方ゟ大北風大雨ニ而西南方ゑ十日の晩まて
走り候、然共嶋も山も一切見当り不申、夫ゟ乾風吹出シ十一日 
迄巽へ走り、方角何れとも不相知候、又ハ夜より十二日まて 

雹交り雨風大嵐ニ而西の方より東の沖へ吹かけ候故、綱
有たけたらしに引つれ候へ共、益風強ク成、船覆らんと
仕候故、又帆桁をも伐折、伝馬船をも旁流捨候、此時ハ
制而難通奉存候、此風十一日ゟ十三日迄続而三日三夜東へ吹
れて流レ候、何遠沖共少も存当り無御座候、十三日の五ツ時
風少シ和らき候間、たらしを取上ケ前日伐折候帆桁
幸イ船の中に倒居候間、亦々是へ水棹等まるき添柱ニ
拵イ、切残り帆を掛、巽の沖へ走り候、元来糧米五斗程
所持致シ、水も銚子ニて汲入候計故、当時ハ余程減り申候
此以後何日迄着岸不仕候も無量候間、米水大切仕、水
桶へも錠をおろし妄りニ為呑不申候、雨降り候時は器物
しかし波が高く海水が船中に流込み、必死に水を汲出しましたが追いつかず、乗組員一同覚悟を決め髷を切り神仏に祈願しました。 大綱をたらしに引かせて六日の晩方迄東北の方へ流されました。 方角も不明ですが奥州相馬沖あたりではと思います。 6日の晩方より風は静かになり少し北西の風に変りました。 昔から難風に遭遇して北に流されて助かる者はなく、西南へ流された者は助かると聞いていたので良い風であり、たらしを引上げて帆桁を柱にし、十二反の帆を八反に縮めて、風任せで東南の沖へ吹き返されました。 8日の夕方より強い北風と大雨で西南方へ10日の晩まて走りました。 しかし島も山も全く見えません。 夫より北西の風が吹き11日迄東南へ走り方角も分らなくなりました。 又その夜から12日迄

雹交じりの雨風の大嵐が西から東の沖へ吹くので綱を有るだけたらしに引かせましたが、風は益々強くなり船も転覆しそうになりました。 そこで帆桁も倒し伝馬船も捨てました。 この時はもう逃れられないと思いました。 この風は11日から13日迄続き三日三晩東へ流されました。 どれ程遠い沖か見当も付きません。 13日の朝8時頃風も少し和らぎましたので、たらしを上げて前日倒した帆桁
は幸い船の中にあったので、これに水棹等を添柱にして拵えて切残った帆を掛けて東南の沖へ走りました。 元来糧米は五斗程所持しており、水も銚子で汲入れましたが今では大分減っていました。 今後何日迄着岸できるが分らないので、米と水を大切にして水桶へも錠をおろし、やたらに飲ませず、雨が降る時は器物を
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を不残出シ雨水を請溜メ、当座ハ是を用イ候、米も一日ニ六人
にて壱升位宛炊候、薪も尽候故船道具を切割焚
申候、食事不足ニ候故力も抜て割兼難義仕候、十三日より
乾風毎日吹候間、巽の方江廿三日迄風に任せ走り申候
此時不見知大鳥船の前後を飛廻り如此見馴ざる
鳥の有之ハ甚遠き大灘江流れ候事やと心細ク存候
*小笠原近辺か
処、廿三日の四ツ時より東風に変り申酉へ走り候、此時は一日
に六人にて米五合程ツヽ炊候、其後ハ段々へらし米弐握
位六人一日之食ニ炊申候、此時まんひきと申魚、船の前後
遊踊候間、板の釘を抜て鉤ニ作、麻茡ニ而餌の如く
拵イ、三日に三疋釣上ケ食として四日の食米を延申候

実に神の御助と奉存候、廿三日ゟ十二月十日まて毎日
西へ西へと東風にて走り、十日の朝に始て山を見付、六人
の者共悉悦、定而人里有之哉と船を寄候処、人の不栖
焼山の嶋に候、其外六・七ツ嶋相見候得共、何れも人住不申候
定而西おきの方には国土可有と又風に任せ十日ゟ十七日
まて七日七夜不休走らせ候、此時ハ七日に糧米壱升五合
計ニ御座候、十七日の五ツ時ゟ西南方ニ陸山見へ候故、大キに
悦、地の方江近付候所、漁船壱艘見付、人懐敷存高
声に呼戻し候得共、飢疲候て声立不申候間、苔莚を持招
き申候力もなく、足も立兼度々倒申候躰ニ御座候、漁
船私共見付、驚様子にて忽見失申候、夫ゟ汀江
残らず出して雨水を溜めて当座は是を使いました。 米も一日に六人で一升とし、薪も尽きたので船道具を切割りして炊きましたが、食事不足の為力も抜けて切割もままならぬ状況でした。 13日から北西の風が毎日吹き、東南の方へ23日迄風任せに走りました。 この時見た事のない大鳥が船の前後を飛廻り、こんな見馴れぬ鳥がいるとはどんなに遠い大海かと心細く思いました。 23日の10時頃より東風に変り西南西へ走りました。 この時は一日に六人で米五合程ツヽ炊きました。 その後は段々減らして米二握を六人で一日の食として炊きました。 この時まんびきと云う魚が船の前後を遊泳しているので、板の釘を抜いて釣針をつくり、麻ひもで餌の様に造り、三日に三疋釣上げて食として四日食米を延しました。

実に神の助けと思いました。 11月23日より12月10日迄毎日西へ西へと東風に乗って走り、10日の朝初めて山を見付け、六人共大いに喜び人里があるのではと船を寄せましたが無人の焼山の島でした。 その外にも六・七つの島を見ましたが何れも無人島でした。 更に西の方には国土があるに違いないと、又風任せで10日より17日迄七日七夜休ます走りました。 この時は七日に糧米一升五合だけでした。 17日の8時頃西南の方に陸山が見えたので大喜びで陸地へ方へ近付くと漁船を一艘見付けました。人懐かしく大声で呼びかけましたが、飢えと疲れで声も出ず筵旗で合図する力もなく足も立たず倒れる様な状態でした。 漁船は私共を見付け驚いて様子で忽ち見失ってしまいました。
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 漕寄候へ共、遠浅にて船着かたく候間、碇を下ケ
 善右衛門・庄兵衛両人陸へ上り候、てんま無之候故裸に成り
 衣類を捧ケ渡り候、船中にてハ足立不申程之疲に候得共
 陸江上る嬉しさに波にゆられて不覚安々と越申候
 此時は米水一切無御座候間、米調申度銭四百文持参
 仕候、里人共七・八十人手々に竹鎗山刀抔持揃一同ニ渚へ
 来り、惣髪にて歯黒ク何ニか赤き物を食候躰ニ而、口の
 両脇赤汁にてよごれ、おそろしき有様故、両人大き二驚
 候へ共、兎角不遁命を覚悟仕、縦鬼成共逃帰るへき
 事無之、おつく側へ寄言語いたし候得共一切不相

 通候間、庄兵衛即テ日本水戸国と砂に書付見セ候
 得共、本之字不審之様子相見候故、本之字直ニ本と
 替候へハ合点之躰ニ御座候、其後飢に及候間食事
 あたへ呉候得と仕方ニて知らせ申候、先よりも色々言語 
 いたし候得共少も通シ不申候、庄兵衛ハ船へ帰り其次第を
 知らせ、左平太、十三郎も陸へ上りて米と云字を書て
 見セ候得者早速米四升計持来り候、悉飢候故四人
 とも打寄二握宛かみ候、又一握と手を掛ケ候所ニ里
 人共手を押へ、米ハ腹へあたり候間、飯を炊あたへべき
 との仕方をいたし候間、我々も又船中の両人へ少シ
 給度と仕方でしらせ少々宛かまセ残をは炊セ候
それから渚へ漕ぎ寄せたところ、遠浅で船を着ける事ができないので碇を下げ、善右衛門と庄兵衛両人が陸へ上りました。 伝馬船が無いので裸になり衣類を捧げて行きました。 船中では立てぬ程疲れていましたが、陸へ上る嬉しさで波にゆられて楽々と行きました。 この時は米も水も全く無くなっており、米を調達する為に銭四百文持参しました。 村人が七・八十人手に手に竹鎗や山刀等持ち一斉に渚へ来ましたが、総髪で歯は黒く、何か赤い物と食べたか口の両脇は赤い汁で汚れ、恐ろしい様子です。 両人は大いに驚きましたが覚悟を決め、たとえ鬼であろうが逃げ帰るものかと側へ近寄り言葉を掛けましたが全く通じません。 

庄兵衛は直ぐに日本水戸国と砂に書いて見せましたが本の字が分らぬ様に見えたので、本を正字に書き換えると理解した様子でした。 其後飢えているので食べ物を呉れと手真似で伝えましたが、先ほどから色々言葉を掛けても少しも通じません。 庄兵衛は船へ帰りその旨を報告し、左平太と十三郎も陸へ上り米と云字を書いて見せた所、早速米四升程持って来ました。 非常に飢えていたので四人共集まり二握ずつ噛み砕きました。 もうひと握りと手を出すと村人はその手を押さえ、生米は腹に良く無いので飯を炊いてあげるとの手真似したので、我々も又船中の二人の分も少し下さいと手真似し、残りを炊いて貰いました。
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 然処里人とも粥持来候間、陸の四人先ず少々宛
 喰候、暫有て同晩方に粥持来り候間是をも
 給候、然者角柱穴を明ケたる足械を持来、私共四
 人の足を片足ツヽ一本にはめ、両端を縄ニて縛り
 其夜者砂に臥申候、銚子出帆より四十三日ニ罷成、翌
 日残り弐人にも舟ゟ揚ケ、是にも足械をはめ、里人とも 
 船より荷物衣類持運び、船をハ川へ引込呉候、我々
 所持之銭四貫門有之候も取上られ、私等ハ砂の上ニ
 居候、食事ハ諸役人ゟ拵運び呉候、番人も始に
 上る時は八十人、後ニ者六・七十人番仕候、寒中に候得共

 昼は照強ク難凌候故、山ゟ木を伐出し日除ケをいたし
 呉候、廿三日之夜前時分足械を解、弐三丁陸の家屋
 明家へ連り、爰テ食事いたし候、後には別の役人ら
 しき家へ引出され色々ものがたり候得共、少も通じ
 不申候、又明家へ帰り縄にて片足宛縛られ居候得共
 廿五日に縄解レ、其所にて越年仕候、安南国マイニケ
 ハマと申所に御座候、正月の様子葉竹壱本宛門ゑ立
 祝申候、余り替り候事も無之候、十五日ゟ人足弐人宛私共
 相添近所の家々ゟ米を貰候て食事致候、十五日
 前の食ハ先達而渡候銭四貫文ニ而扶持仕候事と相見候
 其残り返シ不申候、我々も漸近付も出来候故、舂屋 
それから村人が粥を持って来たので、陸の四人が先ず少々ずつ食べました。 暫くして晩方にも粥を持って来たので是も食べました。 その後角柱に穴を空けた足枷を持って来て、私共四人の足を片足ずつ一本にはめ両端を縄で縛り、その夜は砂上で寝ました。 銚子を出帆してから四十三日になります。 翌日残り二人も船から上げ彼等にも足枷をはめ、村人達は船から荷物や衣類持運び船を川へ引込んで呉れました。 我々が所持した銭四貫文も取上げられ、私達は砂の上に居りました。 食事は諸役人が作って運んでくれました。 番人も始に上陸の時は八十人で後には六・七十人が番をしていました。 寒中ですが

昼は日差しが強く堪らないので山から木を伐り出して日除けをして呉れました。 12月23日の夜前、足枷を外して二三丁陸の家屋の空家に連れて行かれそこで食事しました。 その後別の役人らしき家へ引出され、色々話がありましたが少しも通じません。 又空家へ帰り縄で片足を縛られて居りましたが25日には縄も解かれ、そこで越年しました。 安南国マイニケハマと云う所です。 正月の様子は葉竹一本づつ門に立てて祝い、余り変った事もありません。 15日から人足が二人づつ私共に付添い、近所の家々から米を貰い食事しました。 15日前の食事は先に渡した銭四貫文で与えて呉れた様です。 残りは返しては呉れません。 我々も漸く村人と付合いも出来、米搗屋
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 抔の手伝働いたし米を求メ身命をつなき候、然ニ
 二月ニ成候而南京のコククワンサント申者成迚、日本語
 を遣ひて物語仕候間、私共も床敷存候而日本へ帰り申
 便りを問申候へハ、心易事也とて我々を役人の処へ連
 立、役人と物語し立帰り候、 弥長崎へ可被渡やと尋候得者
 心易事と計挨拶し、何方へ御行候、其後二月廿三日
 コククワンサン参候而,弥日本へ同伴可致、先ツ是ゟ十四五
 里南ニ会安と申大湊へ行へしとて、廿六日私共連レ
 在所の役人に暇乞仕候而手前舟ニ乗、コククハンサン一同ニ
 会安へ越し候、順風不宜候故所々に懸り内川ハ引

 船にて漸三月朔日会安へ着船仕候、翌日コククワンサン
 内通ニて会安役所へ参り、なにか物語いたし候得共、私
 等ニハ通じ不申候、役人ゟ米銭抔もらひ船へ帰り、是ゟ
 コククワンサン世話ニて六月迄同船に居候、船道具之内大
 綱・引綱・碇壱ツ・水樽壱ツコククワンサン計ニ売払ひ
 候得とも代物何程共為知不申候、此間之食料ニ成繋
 と相見へ申候、此時南京船会安に逗留致シ候間、何卒
 便船に日本へハ不及候共せめて南京迄も渡り候様に
 願候共、コククワンサン申候ニ者金子さへ有之候へハ米薪等之
 入用前金ニ船頭方へ相渡シ急き便船にて為乗と申ニ付。
等の手伝で働き、米を求めて命をつなぎました。 
2月になると南京のコククワンサンと云う者が日本語で話しかけて来たので私達も興味を持ち、日本へ帰る便が無いものか尋ねました。 彼は簡単な事だと言い、我々を役人の所へ連れて行き役人と話をして帰りました。 長崎へ渡る事ができるのかと尋ねると簡単だと言うだけで何処かへ行きました。 その後2月23日にコククワンサンが来ていよいよ日本に同伴する、先ずここから十四・五里南に会安と云う大きな港へ行くのだと云います。 26日私達を連れて在所の役人に暇乞いして、私の船にコククハンサンも同乗して会安へ向かいました。 風向きが良くなく所々に立寄り、川は引

船に頼り、漸く3月1日に会安へ着船しました。 翌日コククワンサンは会安役所へ行き、何か話をしていましたが私達には通じませんでした。 役人から米銭など貰って船に戻り、以後コククワンサンの世話で6月迄船に滞留しました。 船道具の中で大綱・引綱・碇一ツ・水樽一ツをコククワンサンが売り払いました。 代金が幾らかは知らされて居りませんが、この間の食料になったものと思います。
この時南京船が会安に逗留していたので、何とか便船で日本迄は行かずともせめて南京迄は渡航したいと願うと、コククワンサンは、金さへあれば米や薪等の費用を前金で船長に渡して直ぐにも便船に乗せられるとの事でした。
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 金四両相渡シ偏ニ世話頼入申とコクワンサン金子四両請取
 六月十五日船を出し而其後無沙汰ニ被致候、在所の役
 人ゑも罷出行衛相尋候へ共不通埒明不申候間、打捨申候
 然処奥州岩前郡小名之浜之者是も三人此辺ゑ
 漂流致候由ニて役人ゟ為知候故、私等三人参り候而対面
 致候、是等ハ船もそんじ候故私等船へ同道致し一処ニ居候
 七月十日ニ成、役人へ罷出南京へ便船渡りの事願出
 候事初ニハ相成候様ニ挨拶御座候間、又候十三日ニも
 罷出願候へハ、其節者当年ハ不相叶趣ノ返事有之候
 力を落し泣悲申候、其後者船中ゟかわりがわり罷出、其

 処に仕事いたし、或者舂屋等へ手伝ニ而日雇を *米搗屋?
 取、米銭心ざし次第ニ申請食事を求メ暮候、善右衛門事
 五月末ゟ不快ニ罷有痢病ニ成医者衆療治被致
 候得共、七月十五日方ゟ至極重り、廿四日年四拾四歳ニて
 相果申候、所之役人江申遣候得者、銭一貫文并棺人
 足弐三人ニて持来り墓所へ葬り申候、八月十三日成十三郎
 も痢病相煩、是も医薬難相叶段々重り、九月
 五日年三十三歳ニ而相果申候、前之通役人ゟ棺銭
 持来り同様ニ葬り申候、則此処ニて越年仕候、当亥ノ
 二月十五日南京船の船頭トンタイクンシと云人着岸
そこで金四両を渡して是非に宜しく頼みますと、コクワンサンは金四両を請取って6月15日に船から出て後は連絡が取れなくなりました。 現地の役人にも彼の行方について相談しましたが言葉も通じず全く埒が明かず放置しました。
その時奥州岩前郡小名浜の者三人がこの辺に漂着しているとの情報を役人から聞き、私等三人が行って面会しました。 彼等は船も失っているので私達の船へ同道して一緒に住みました。
7月10日役人に面会し、南京へ便船で渡航を願い出た所始めは可能な様子でしたが、13日に再度尋ねると当年は不可能との返事でした。 力を落として悲嘆にくれましたが、その後は船中から代わる代わる出掛けて町で

仕事をしたり、或いは米搗屋の手伝い等で日雇いとなり、米や銭を志次第に受取り食べ物も求めて暮しました。
さて善右衛門は5月末以来病気にかかり、医者にも診て貰いましたが7月15日頃から病状が悪化し24日44歳で亡くなりました。 現地役人に届けると銭一貫文と棺を人
足二三人が持参し墓場へ葬りました。 8月13日になると十三郎も病気に掛り、これも医薬の効なく9月5日33歳で亡くなりました。 前の通りに役人から棺と銭が届けられ同様に葬りました。
この会安でも越年しました。 今年に入り2月15日南京船の船長のトンタイクンシと云う人が着岸して
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 致シ日本之人此地に漂着之事を聞、其旅宿ゑ
 我等を招キ、日本へ便船ニて可送間、此方へ参り一同に
 食事致シ、出船を相待へしと日本詞ニ而被申候故、仏
 に逢し心地ニて拾八日ゟ七人不残船ゟ上り南京人の
 扶持貰候、トンタイクンシ并タイフウサン・遊横庵等何も情
 深キ人々にて懇に致シ候、就中
トンタイクンシ親方と相見候歳比
 六十余成高キ人品ニ御座候、私共七人へ単物十四ツ、雪踏十
 四足、銭九貫文合力いたし、其外たはこ等ハ時々貰申候
 五月二日私共の船売候事南京人の世話にて
 安南銭六貫文ニうりはらい申し候、代物請とり

 六月廿日出帆仕候、トンタイクンシ・遊横庵抔ハ後船
 に残、私共を乗せ来り候船頭ハ王世吉・ホイチウサン并ニ
 タイフウサン其外水主共ニ六十七人、私共四人小名之
 浜の者三人都合乗組、七十四人七月十六日長崎江
 着仕候、道すがら左の方ニ大清国の陸山を幽に見
 通り申候、日本の海ゟも波静に嶋なく一灘に走候
比ハタイハン嶋右に見候、余程大キなる嶋ニ御座候、夫ゟ
ウンシン嶋を目当に日本へ近寄、安南ゟ長崎迄昼
夜不休丑子ノ方へ向而日数廿七日ニ而着船仕候、道程
八百六十里と承候、会安ニ而爰かしこゟ貰申候品々
左之通ニ御座候
日本人が此処に漂着していると聞き、彼の旅宿に私達を招き、日本への便船で送るから此方に来て一緒に食事して出船を待ちなさいと日本語で伝えられました。 仏に逢った様な気持ちで18日から七人全員が船から上り、この南京人の世話になりました。
トンタイクンシ並びタイフウサンや遊横庵等は皆情け深い人々で親切にしてくれました。 中でもトンタイクンシは親方の様で年頃は六十余の高潔な紳士でした。 私達七人へ単物十四着、雪踏十四足、銭九貫文を援助して呉れ、 その外に煙草等は時々貰いました。
5月2日私達の船を南京人の世話で安南銭六貫文で売り払って代金を請取って

6月20日出帆しました。 トンタイクンシと遊横庵等は後船に残り、私共を乗せて来た船長は王世吉でホイチウサンとタイフウサン其外水夫達六十七人です。 私達四人と小名浜の者三人、合計七十四人で7月16日長崎に到着しました。 道すがら左の方に大清国の陸山が幽に見え、日本の海よりも波は静かでに島もありません。 一つの灘を走っている時台湾島を右に見ましたが、たいへん大きな島です。 それからウンシン島を目標にして日本へ近寄り、安南から長崎迄昼夜休まずに北北東に走り日数廿七日で到着しました。 道程八百六十里と聞きました。 
会安で彼方此方から貰った品物は次ぎの通りです。
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一扇子六本       一皮煙草入 二ツ  一孔雀ノ羽
一木綿煙草入 一ツ  一絹煙草入 十二  一羅紗煙草入壱ツ
一指かね   二ツ   一古暦  二冊    一はさみ 三丁
一数珠玉 五貫     一櫛   壱ツ    一すき櫛 壱ツ
一小鏡  弐枚     一筆 壱本       一安南銭
  右之通会安と申処ニて貰申候
・扇子 6本    ・皮煙草入2ツ ・孔雀ノ羽
・木綿煙草入1ツ ・絹煙草入12 ・羅紗煙草入1ツ
・指輪 2ツ     ・古暦  2冊 ・はさみ 3丁
・数珠玉 5貫   ・櫛   1ツ  ・すき櫛 1ツ
・小鏡  2枚    ・筆 1本    ・安南銭
    以上の通り会安と云う所で貰いました。


           安南国漂流記巻下
      安南国漂流記巻下
  安南国に逗留の中、見聞候雑談左之通
一私共始漂着候マイニチハマ五六拾軒皆草葺、内ハ
 土間寝処は床の上御座敷臥申候、扉ハ草へ押縁を当
 廻し戸ニいたし候、引戸は無御座候
一食事はシツホクと申候而指渡シ弐尺計の丸キ膳へ大キ瀬戸 
 物皿へ汁菜を入、三ツ四ツ並三四人宛集り箸しめシすくい
 上寄合て食申候、但シ飯は茶碗へもり一人切ニ給申候、貧者皆
 米計用申候、菜ハ魚類或ハブタ・鶏・家鴨等常ニ用イ申候
一衣類は貧者ハ木綿、中以上の人は絹仕立、拵様は唐 
 人と同御座候、髪髭不剃、油付ず男女共ニ櫛を後江
 安南国に逗留中、見聞しました雑談次の通り
○私共が始に漂着したマイニチハマは家五・六十軒あり、皆草葺で内は土間、寝る所は床の上に御座を敷き、扉は草に押縁を当て廻して戸にしています。 引戸はありません。
○食事はシツホク(卓子)と云い直径二尺程の丸い膳の上に大きな瀬手物皿に汁や菜を盛、三・四皿並べ三・四人集り箸ですくい上げて食べます。 但し飯は一人宛茶碗へ盛って食べます。 貧しい人々は米だけです。 菜は魚類、豚、鶏、家鴨等を常に食べています。
○衣類は貧しい人々は木綿、中以上の人は絹仕立てで作り中国人と同じです。 髪や髭は剃らず油も付けず、男女共に櫛を後へ
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逆さまに指、巻髪に致候、冠物は木綿或ハ絹ニて頭包ミ候
男女共ニ同じ衣類、ゆびへかねをはめ申候、但女は耳へ金を
さけ候而男女の別チ相見申候、会安ニ而五歳計の女子ニ耳かね
掛候を見るに、釘ノ様成物ニ而耳たぶへ穴を通シ、血留の
粉薬を付而、穴へこよりを入置候、苦痛無之ニや泣も
驚も不仕候様相見申候
一会安は海口ゟ一里程川上の湊ニ御座候、家数大千五六百
軒、表向キハ皆瓦屋塗床、裏屋計萱ニ御座候、扉ハ二枚廻シ
戸ニて内は大概土間ニ御座候、其中ニ少々縁板を張所も有、畳
と申は一切相見ニ不申候、寺三ヶ寺何も小寺ニ御座候、一ケ寺の
本尊は女ノ面躰ニて額には海国尊親と書申候、一ケ寺の

額には配徳金山宮と書、一ケ寺ノ本尊薬師、前に関羽の像有
一男女共生れ日本のごとくニ而色白ク人品宜御座候、就中女は
 美れいニて化粧も不致候、中以上の人ハ衣類繻子緞子を
 用申候、官人らしき人は日傘を差掛させ出入致申候
一安南の人は上下共ニ惣而ニホと申木の実をホイと云う白粉
 をカウといふ木の葉へ包、平生は腰の巾着へ入置、時々食
 申候、或ハ刻煙草へ交てもかみ申候、赤汁出て唇染り歯
黒ク成申候、私共も味イを見申候所、少渋クて口中さわやかニて
彼ノ 国ニては客人餐応ニも不絶相用申候
一正月ハ門々葉竹壱本宛十五日迄立置、新キ衣類を着し
 相祝申候、乍然日本之飾ハ造立不申候、男女正月遊びに
 
逆さまに指して巻髪にしています。 被り物は木綿又は絹で頭を包みます。 男女共に同じ衣類で指に金をはめています。 但し女は耳へ金を下げており男女の区別がつきます。 会安で五歳位の女子に耳金を掛けるのを見ましたが、釘の様な物で耳たぶに穴を通し血留の粉薬を付けて穴へこよりを入れて置きます。 痛くないのでしょうか、泣きも驚きもしていませんでした。
○会安は海口より一里程川上の港です。 家数大体五・六百軒で、表向きは皆瓦屋根で塗屋ですが裏は萱屋です。扉は二枚廻戸で内は大概土間ですが、その中に少々縁板を張った所もありますが、畳は全く見かけませんでした。
寺は三寺あり何れも小寺です。 一寺の本尊は女の姿で額には海国尊親と書いてありました。 

一寺は額には配徳金山宮と書いてあり、一寺の本尊は薬師如来でその前に関羽の像がありました。
○男女共に生れつき日本人の様に色は白くて人品も良くて中でも女は綺麗で化粧もしていません。 中以上の人は衣類に繻子や緞子を用います。 官人らしい人は日傘を差掛させて出入りします。
○安南の人は上下共に一様にニホと云う木の実とホイと云う白粉をカウと云う木の葉で包み、普段は腰の巾着へ入れて置き、時々食べ又刻み煙草にも混ぜて噛みます。 赤い汁が出て唇が染り歯は黒くなり、私達も味わって見ましたが、少し渋くて口中が爽やかになります。 ここでは客人の餐応にも必ず使います。
○正月は門毎に葉竹を1本宛十五日迄立て置き、新しい衣類を着て祝います。 併し日本の様な飾りは造り立てません。
男女の正月の遊びに
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 さぎちやうを作、細竹を弐本下ケ板両方へ貫き下ゟくさ
 びをしめ、板の上ニ弐本宛乗て突出シ、振申候、後には乗
 人同振動して遊び申候
一五月五日ニハ生米を笹の葉へ包ミ粽の様に相用候、草餅
も御座候得共艾を不用からむしの葉ニて染候ことに御座候、此日
 船遊仕候、小舟に十七八人乗、舳に龍頭を飾り艫に旗を立
 かいを左右へ十八丁立、ハイハイと囃て鉦太鼓を鳴しきそ
 い渡り申候、
一南京人ニ誘引せられ会安ゟ三里程西の在郷象の有所へ
 見物ニ参り象屋五ツ象五疋、長サ三丈計毛ハ鼠色ニて食事
 は笹・藁等相用候、私共銭をまき候へハ鼻ニ而壱文宛拾イ取

 背に乗候主人ニ渡シ候、笹を鼻ニて巻切、鎌ニ而刈たる様に
 すつハりと切取申候、象の背ニやぐら様成荷鞍を掛テ、三
 四人乗て河辺へ水飼ニ出ルを見物致シ候、象屋但シ番人
 には有之候、公儀ニて飼置候事と相見候
一葬礼を二三度見物仕候処、寝棺之上ニ美敷織物をかけ、
 こしへ乗せ長六尺余り廻り惣ほり物金銀を飾り、十六七人ニ而
かき申候、其外こし三ツ四ツ有、種々の造物を乗申候、又位牌の
様成事を掛物江書付、台の上ニ立て五六人ニてかつぎ申、長刀
の様成ものを両方へ対ニ分ケ百本計も立候、道具持ハ種々
の頭巾をかむり、旗・天蓋を左右へ四拾本程立候、供人にて男
は前布の様成荒目成物を着、頭にはちまきをしめ帯も
三毬杖(さぎちょう)を作り、細竹を弐本下げて板の両方へ貫いて下から楔を締め、板の上に2人宛乗って突出して振ります。 後に乗る人も同じく振り動かして遊びます。
○五月五日には生米を笹の葉に包み粽(ちまき)の様にしたものを使います。 草餅もありますが蓬(よもぎ)は使わず、からむしの葉で染めます。 此日船遊びを行います。 小舟に十七・八人乗って舳に龍頭を飾り、艫に旗を立て櫂を左右に十八丁立て、ハイハイと囃して鉦や太鼓を鳴らして競って渡ります。
○南京人に誘われて会安から三里程西にある村に象の見物に行きました。象小屋5つに象が5疋おり、長さ三丈程、毛は鼠色で食事は笹や藁を与えます。 私達が銭を撒くと鼻で壱文宛拾い取って、

背に乗っている主人に渡します。 笹を鼻で巻いて切ると鎌で刈り取った様にスッパリと切取ります。 象の背にやぐらの様な鞍を掛け三・四人乗って川辺に水汲みにでるのを見物しました。 象屋には番人が居り、公儀〔国王)が飼っているものと思われます。
○葬礼を二・三度見物しましたが、寝棺の上に美しい織物を掛けて輿に乗せますが、輿は長さ六尺余、廻りは総彫物の金銀を飾ったもので十六・七人で担ぎます。 その外に輿が三ツ四ツあって種々の造物を乗せています。 又位牌の様な文字と掛物に書付て台の上に立て五・六人で担ぎ、長刀の様なものを両方へ対に分けて百本程たてます。 道具を持つ人は種々の頭巾を被り、旗や天蓋を左右に四十本程立てます。 付き添う人々は、男は前布の様な荒目なものを着て頭に鉢巻を締め、帯も
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 同シ布ニ御座候、女は一所に集り、めぐりに長弐尺横壱間
 計の幕を引廻シ行候而、装束の様子ハ相見不申候
 棺の左右に両人顔を彩色鬼のごとくに作、鉄の棒を
 持て警護致シ候、僧拾人程鼠色の衣に袈裟を掛、日本
 の僧に違イ無御座候、小弓・三味線・笛・笙・鉦・太鼓其外
 名の知れざる器物を合打ならし通り候、惣人数三百人余と
 相見申候、其所の風俗を承ルに、貴人死ニては五ヶ月はかり
 不葬、家内へ棺を留置候、下輩ハ屍を当座に埋、其
 時は格式ノ葬礼ハ廻行候        
一南京のトンタイクンシも安南国王の居所
ホイホンコクとやら申所へ

 参り、安南王ゟ馳走に出候よし結構成乗物、上下拾四五
 人ニ而往来致し候、トンタイクンシも貴人と相見候
一安南国は火をたき申候時は硫黄つけきを不用、紙ほく
 ちニて吹付候得者、忽火移り候、畢竟暖国故薪芝火
 移り能生と相見候得共、着岸の始船道具を割、火たき
 申時付木無之、火付き兼申てこまり申候
一安南の稲作は年に二度宛刈収め候、種は陸田へ苗代
 拵蒔申候、一作は霜月植て三月刈、一作は五月植て九
 月刈候、日本の様ニ候得共苗倒ざる様ニ持て根をわけ
 逆手に植候、刈時は稲首の方を中刈に致シ、小束に
同じ布です。 女は一緒に集り廻りを長さ二尺、横一間程の幕を引廻しますので装束の様子は見えません。 棺の左右に二人、顔に色を塗って鬼の様に作り鉄の棒を持って警護しています。 僧は十人程で鼠色の衣に袈裟を掛け日本の僧と変りません。 小弓・三味線・笛・笙・鉦・太鼓其外名前の知れない器物を打鳴らして通ります。 総人数は三百人余と見えました。 土地の習慣では貴人が死ぬと五ヶ月程葬らずに家内へ棺を留め置きます。 庶民は死体を直ちに埋め、その時は格式に応じて廻ります。
○南京のトンタイクンシも安南国王の居所であるホイホンコクとか云う所へ参上し、国王の接待に出席しますが、立派な乗物で十四五人の従者で往来しますのでトンタイクンシも貴人と思われます。
○安南国では火を焚く時に硫黄付け木を使わず、紙ほくちに吹き付ければ直ぐに火が移ります。 これは暖国ですから薪や芝に火が移り易いのだと思いますが、漂着時に船道具を割って火を付ける時付木が無いので困った事があります。
○安南の稲作は年に二度宛刈り取りでき、種は陸田に苗代を作り蒔きます。 一作は11月に植えて3月に刈り取り、一作は5月植えて9月に刈り取ります。 田植えは日本の様にしますが、苗が倒れない様に持って根を分けて逆手に植えます。 刈る時は稲首の方を中刈りにして、小束に
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 まるき牛に踏せてもみ落し致候、稲こぎハ用不申、南京 
 人に日本稲こぎ道具図に書見せ候得者、南京と日本ハ
 同様と答申候、田を耕ハ牛弐疋ニ而犂壱丁を引せて鼻 
 取も無御座候、牛ハ日本の牛ゟも大ぶりニて様子違候、すき・
 くわ・はんのう等ハ大抵日本同様ニ御座候、麦・蕎麦・稗は一切
見当り不申、大豆・小豆・大角・粟・もろこし・菜・大根・芋・茄子・南
蛮夕顔・西瓜・木綿等ハ日本と同様ニ御座候、野菜供作年中
不絶在之候、極月寒中、安南国の暖気日本の五・六月之
様ニ御座候而、稲葉勢イ能生長致シ候、田畑ハ一作刈ニ而跡は
休メかわるがわる植付申候、田畑多キ中にも田かちの国と御座候
米直段日本升壱升程は安南銭ニ而拾弐文、酒廿四文ニ

御座候、酒の味日本の焼酒ゟも辛ク香風鼻を通し
私共一向呑れ不申候、木綿直段上品ニ而壱尺拾五文位イニ
御座候、安南国の壱尺は日本の壱尺五寸程御座候,安南銭日本
同様ニ而政和通宝抔と真字ニ書候、金の生も乏不宜ニ而
砕易ク御座候、トタンとやらを入て造り申し候由
南京人の物語ニ御座候
南京銭も多く入まじり通用仕候、是ハ金生は日本ニ而見懸
申候銭ニ御座候、惣而銭通用ニ而何程の大商にても何十貫と
勘定いたし申候、生銀ハ平生通用無之候や、小粒等も不相
見候、会安ニて或人私共へ金子を見せ申候、長サ
弐寸四五分厚サ
三分計り○○○○形如此ニて中くぼく割印御座候、大概五六十目
程ニ御座候、平生通用とは相見不申候、銭ハ六拾文を百文と定候
まるめて牛に踏せてもみ落し、稲こぎは使いません。 南京人に日本の稲こぎ道具を図に書いて見せたところ、南京と日本は同じだと答えました。 田を耕やすには牛二頭に犂(すき)一丁を引せて鼻取もしません。 牛は日本の牛よりも大振りで様子が違います。 すき・くわ・まんのう等は大抵日本と同様です。 麦・蕎麦・稗は全く見ませんが、大豆・小豆・大角・粟・もろこし・菜・大根・芋・茄子・南蛮夕顔・西瓜・木綿等は日本と同じです。 野菜の収穫は年中途切れずにあります。 12月の寒中でも安南国の温かさは日本の五六月の様で、稲の葉も勢いよく成長します。 田畑は一作刈りとった後は休めて代わる代わる植付ます。田畑は多いですが中でも田が多い国です。
米の値段は日本の升で一升が安南銭で十二文、酒は二十四文です。

酒の味は日本の焼酎よりも辛く香りが鼻をつき、私達は全く呑む事ができません。 木綿の値段は上品が一尺十五文位で、安南国の1尺は日本の一尺五寸程です。
安南銭は日本と同様に政和通宝等と楷書で書いてあります。 地金が良くなく砕け易いのはトタンとか言う物を入れて造るからと南京人が話していました。 南京銭も多く入り通用していますが是は日本でも見かける銭です。 一般に当地ではどんな大きな商いでも銭が使われ、何十貫と勘定します。 銀は通常通用しないのか小粒等も見ません。 会安である人が私達に金貨を見せて呉れましたが、長さ二寸四五分、厚さ三分程で図の様な形をしており、中が窪み割印がありました。 重さ大体五・六十目程ですが通常通用しているとは思えません。 銭は六十文を百文と決めて
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 間、安南国の壱貫ハ日本の長六百文也、さしはトウニ而より候
 トンタイクンシ南京ゟトタンを積来り、安南ニ而銭壱万弐千貫請
 取候時、私共并ニ小名ノ浜ノ者頼れ、
四五日貫指へさし手伝申候
一安南国ゟ買積候産物ハ砂糖・胡椒・牛ノ角・牛ノ皮・象牙・トウ
 大可楠・柄鮫等・薬種之類其外孔雀四十羽・鸚鵡四羽
烏のごとく成鳥・猫のごとくニ而尾長き獣の様ニ御座候、活象
を見て牙ハ少ク見へ候へは抜取売物ニ致シ、牙ハ長四五尺、
まわり八九寸有之候
一会安ニて氷砂糖を俵ニするを見申候、俵ハ竹をへぎ笊の如くニ
 作り俵ニ入候時は砂糖を庭へ山のごとくニ
まけ置俵へ入次第ニ入て
 棒ニ而つゝき込、日本の五斗俵程ニ作り秤ニふり申候

一安南の猿ハ尾長ク猫のごとく尻不赤、手飼ニ致時ハ尾を切申候
一安南人の太刀は日本同様ニ御座候、柄糸縁目貫鍔鞘等作様
 日本と同、鞘ハまきかねを致し、日本の三度拵同様成も
 御座候、柄と鞘とを糸の両端ニて縛り、左ノ肩へかけ、右之
 腰へぶらさげ申、上衣ニ帯無御座候、帯刀ハならず剣は
 一切見当不申候
一南京人船中ニて剣之類、武具之類所持不仕候
一安南ニ而蝋燭を甕の中に塩漬ニ仕貯候印も同様ニ御座候
一安南の剃刀ハ小包丁のごとく刃先キ角にて引廻して刃江かぶ
 せ置候、南京人の用イ候も同様に御座候
あるので、安南国の一貫ハ日本の六百文に当ります。貫さしはトウで撚ったものです。 トンタイクンシが南京からトタンを積んで来て安南で銭一万二千貫を請取った時、私達及び小名浜の者達は頼まれて四・五日銭を貫指に指す手伝いをしました。
○安南国から買い付ける産物は砂糖・胡椒・牛の角・牛皮・象牙・トウ・大可楠・柄鮫等薬種の類、其外孔雀四十羽・鸚鵡四羽、烏の様な鳥(九官鳥か)・猫の様で尾が長い獣(猿か)等です。 生きた象もあり牙は小さく見えるので抜いて売り物にしたのでしょう。 象牙は長さ四五尺、まわり八九寸あります。
○会安で氷砂糖を俵に入れるのを見ました。 俵は竹をへぎ、笊(ざる)の様に作り、俵に入れる時は砂糖を庭へ山の様に蒔いて置き、俵に入り次第入れて棒で突き込み、日本の五斗俵程に作り秤にかけます。

○安南の猿は尾が長く猫の様で尻は赤くありません。手飼にする場合は尾を切ります。
○安南人の太刀は日本と同様です。 柄糸・縁・目貫・鍔・鞘等の作り方も日本と同じで、鞘は巻金などして日本の三度拵と同様なものもあります。 柄と鞘とを糸の両端で縛り、左の肩へ掛けて右の腰へぶらさげ、上衣に帯はありませんので帯刀はできません。 剣は全く見かけません。
○南京人は船中で剣の類、武器の類は所持しません。
○安南では蝋燭を甕の中に塩漬けにして貯蔵します。卵も又同様です。
○安南の剃刀は小さな包丁の様で刃先を角で引廻して柄を刃に被せて置き、南京人の使い方も同じです。
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一安南ノ履ハ底ハ皮にて甲ハ羅紗・繻子抔相用申候
 木履ハ鼻緒有之日本の造のごとくはき申候、せったも
 日本同様御座候、草鞋ハからむしニて造り申候、日本の草履の
 ごとくニてつま先へ引かぶせ包申候、稲の藁ハ不用、惣而芝藁
 細工無御座候、縄綱等ニもトウ・イチヒ・シユロ・竹を細く分テ
 ヨリ合せ用申候、大竹有之候、川辺の小家ハ
皆竹ノ柱ニて作立申候
一籾ノ字安南ニては粟と書申候
一会安の湊に正月比ゟ南京船十七八艘或ハ廿艘其外
 諸国の船、七月の末迄逗留、商物仕入申候、南京人
 計も千弐三百人居り候間、上半年ハ町家至極賑ニて

 市のごとく押合て通り申候、田畑肥てこやし等も用不申候と
 相見へ申候、見圊小便所も無之、貴賎男女共大小便 *厠
 乱に平地へ下し候間、路辺悪臭甚候        *猥り
一南京船長崎江着候時は海口ニ暫く碇を下シ止り申候
 御番所ゟ物見船壱艘出、続て引船二艘にて
 出湊江引入申候、以上
  明和五歳子ノ四月吉日
   右之通ニ御座候、以上
○安南の履物は底は皮で甲は羅紗や繻子等を使っています。 木履は鼻緒があり日本の造りの様にして履き、雪駄(せった)も日本同様です。 草鞋(わらじ)はからむしで作り、日本の草履の様に爪先を被せ包みます。 稲の藁は使わず、一般に芝・藁細工はありません。 縄や綱等もトウ、イチヒ、シュロ、竹を細く分けたものを撚り合わせて作ります。 川辺の小家は皆竹の柱で作り立てます。
○籾(もみ)の字は安南では粟(あわ)と書きます。
○会安の湊には正月頃から南京船十七・八艘或は廿艘、その外諸国の船が7月末迄逗留して商品の仕入れを行います。 南京人だけでも千二・三百人滞在しますので、前半年は町中はたいへん賑やかで市場の様に押し合いながら通ります。
田畑は肥沃で肥やし等も使わないと見えて厠や小便所もなく、 貴賎男女共に大小便を勝手に平地にするので道端の悪臭は酷いものです。
○南京船が長崎へ到着する時は海口で暫く碇を下して停泊します。 御番所から物見船が一艘出て、続いて引船二艘で出島へ引きいれました、以上
  明和五年(1768)四月吉日
         右の通りです、以上
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     田村氏
              金十郎写
 田村氏
              金十郎写
底本: 国会図書館デジタルコレクション 安南国漂流記
翻刻及び現代文訳: 大船庵         

                 安何国漂流記 脚注             
P2
安南国: 現在のベトナム 此頃は広南阮氏の王国
常陸国磯原村: 常陸国は現在の茨城県、磯原村は現在の北茨城市内にあった。

P3
南京船:江戸時代の書で中国の事を清国という場合は稀で、一般に唐国、唐人、唐船と記述するのが
    多く、又南京国と云わないが、南京人、南京船と表現する文書も多い。 毎年初夏の季節風で
    中国船が4-5艘(主に南京に近い杭州から)、ジャワのバタビア(現ジャカルタ)からオランダ船が
    1-2艘交易の為長崎出島に入港した。何番船と云うのはその年長崎到着の順番の様である。
せいた踏絵: キリスト教に改宗していないかの検査、 板にキリストやマリア像が彫られているものを
         踏ませる
揚屋: 未決囚人を入れる座敷牢
六百弐拾俵: 一俵には米4-6斗入れたが、後に5斗俵と出てくるので5斗で計算すると約300石となる。 
      但しこの船は12反帆とあるので、船の大きさからすると150石積み。
銚子浦: 銚子港は奥州からの江戸、大坂に送る物資の中継湊で栄えた。 
      銚子で下した貨物を利根川経由で江戸に運ぶ場合もあった。
方角:  乾=北西、巽=南東 子=北 午=南 卯=東 酉=西

P4
たらし: 碇や綱を引っ張り船の流されるのを押さえる。 船のブレーキ
垢水 : 船内に打ち込んだ海水 
12反帆:   弁才船の帆の面積と積載との関係例 
                      10反帆 百石積 
                     16反帆 300石積 
                     25反帆 1000石積(150トン)
          一反の巾は2尺5寸(76cm)であり10枚並べてつなぐと10反帆となる
帆桁 : 和船の帆柱と交差して帆を吊るしている桁

P5
見知らぬ大鳥 : 小笠原島付近のアホウドリ(成鳥の翼長2.5m、体重7kg)と推定
マンビキ: シイラ 体長 1.2-1.5m 英語名はDolphinだがイルカとは別、
       米国のレストランのメニューでDolphinとあるのはこの魚をさす。
無人の焼島: 更に七昼夜走っているので西沙諸島だと漂着地ベトナムに近すぎる。
         フィリピン・ルソン島と台湾の間の島々と推定する。
五ツ時: 朝八時、四ツ時は十時 
  
P7
銭四貫文: 銭1000文が1貫文であり4貫文は金一両に相当、現在価値で10万円程度

下巻
P11
マイニチハマ 現場所不明、 会安(ホイアン)の北14・5里の海浜の小村

P12
会安: 海口から川を上る湊町、寺院の所在等から現在のホイアンといわれる

P13
さぎちょう: 正月の行事でどんど焼、青竹を束ねて立て、扇子短冊など下げて焼いた
        ここでは燃やしたかどうか不明だが、ブランコの柱にした様にも見える
粽(ちまき): 五月節句の頃、ちまきを作るのは日本も同じ
公儀: ここでは国王を指すか
天蓋: 傘状の装飾物、 仏像や貴人の寝台の上を覆う。
     述べている葬列は余程の貴人の葬儀と思われる
硫黄付け木、ほくち(火口):江戸時代、火打ち石でほくちと呼ばれる紙状のものに火を移し、
     更に付け木と呼ばれる薄い木片の両端に硫黄を塗り乾燥させたものに移した後、
     薪を燃やした。

P15
稲こぎ: 日本ではモミを稲束から取るのに鉄による櫛の歯状の道具を使った。 
      牛に踏ませ本当によく落ちるのか疑問
極月: 12月
トタン: 現在ではトタンと云えば鉄板に亜鉛めっきをしたもの。
     ここでは元の意味のポルトガル語tutanaga で亜鉛と思われる
さし: 貫さし 中国で古来から行われていたもので銭一文の穴に紐を通し1000枚を
    纏めて一貫文とした。 ひもに安南ではトウ(籐)を使った。
小粒: 豆板銀とも言う。 銀1匁(3.75g)から10匁(37.5g)迄の種々の銀塊。
     日本では金貨、銀貨、銭(銅貨)があり、金一両は銀60匁、銅銭なら4000文
     (四貫文)が江戸中期の公定レート。現在の価値に直すと定説はないが
     一両が10万円程度、 随って銅銭1文は25円となり1貫文は25,000円程
目: 重さの単位匁〔3.75g) の10匁、100匁単位に目を使う事がある 20匁=20目、100匁=100目

P17
トウ: ヤシ科の植物 籐、つるの一種で乾燥して使う、 トウの椅子等
イチヒ: イチビ 麻の一種 繊維を造る
シュロ: ヤシ科の植物 シュロ皮から繊維を造る