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享保元年 疫病流行 兼山秘策

 青地兼山編纂、兼山秘策 第三 享保元五月ー同二年十二月 出典 早稲田大学図書館

翻刻
一御当地町方疫病天行候而、凡八万人程死人御座候由申候、頃日ニ至
 候てハ棺もきれ申候故、軽き者ハ大方古樽ニ入候而葬申由申候
 火葬ニ仕候所も事外せぎ申に付、俄ニ可遣と申ニても不罷成、帳ニ
 付置、何の釜にても十九番廿番過不申候ヘハ成不申なとゝ申由ニ御座候
 焼仕候ても骨をひろひ仕迄ニ而それより又葬申候故はかとり
 不申候、依之身代も宜候者ハ新ニ金を為払候ヘハ事外過分の金
 子費用懸り申候、土葬ニ可仕といたし候へハ、寺々寺内すきとふさ
 かり古き墓ハ不残掘崩候様ニ仕候得共、それともニ尺地も無之様ニ
 罷成候故、火葬ニも土葬ニも俄ニハ難成、其分ニ難指置御座候に付
 頃日者軽き者ハ大方菰に包候而築地品川の海へ水葬ニ仕
 候由申候、ケ様之事ハ何とか 上ゟ被仰付可有之候義と奉存候
 当主御賢明之沙汰ハ御座可有、中々ケ様之義之御仕置ハ
 決ておよび申間敷奉存候、嘆ケ敷儀ニ奉存候、
 六月廿二日 小谷兄與小寺兄書(小谷兄、小寺兄に与える書)

   

現代文訳注
江戸府内で疫病が流行しており、凡そ八万人程死人が出たと聞いております。 
直近では棺も不足しており、軽輩の者は大抵古樽にいれて葬らうと聞いております。
火葬場も大変混雑しており、急いで焼く事もできず、帳面に付けて、どの釜も十九
番目か二十番目になってしまうとの事です。 焼いて骨を拾いそれから葬らうので
中々捗りません。
このため裕福な家は割増金を払って焼いてもらいますが、思いがけない費用が掛ります。
土葬にするにも、各寺共墓地に隙間なく一杯で、古い墓を掘起しても僅かな隙も
ありません。その為火葬に土葬にもできず、かと言ってそのままにもして置けず、
最近では軽輩の者大方は菰に包んで築地とか品川沖の海へ水葬にするとの事です。 
この様な事は上(幕府)から指示されたものと思います。 賢明な処置とは思いますが、
こんな処置をしなければならない事は嘆かわしい事です。
 (享保元年)六月廿日       小谷氏が小寺氏に与えた書より


注1 兼山秘策は室鳩巣(1658-1734、徳川家宣⁻吉宗側近)の弟子青地兼山が編纂
 した鳩巣の講話、書簡集。 上記記事は同じく弟子の小谷某が小寺某に書いた
 書簡を引用したものと思われる