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       安政ころり流行記   

  
転寝(ころびね)の遊目(ゆめ)序
正享間記と云う書の中に正徳六年(享保元年)の夏熱病が世に流行して、
江戸の町々でこの病で死亡する人が一月に八万人を超えた。 そのため
棺桶が間に合わず酒の空き樽を入手して亡骸を寺に送った。 しかし寺の
庭も埋める所もなく、宗派に拘わらず火葬せざるを得なかった。 
 このため皆が荼毘所に棺を送ったので、大量の棺が積み重ねられ、半月
過ぎても火葬できない状態となり、特に貧しい者の順番はかなり先になり、
荼毘所も困り幕府に訴えたところ、寺院に命じて、埋葬できない場合は弔い
の後、菰に包んで船に乗せて品川の沖に沈め水葬とする事となった。
 此度の疫病で多くの人々が死亡する状況は前述往時の事に似ているので
今と比べるため、往時の人の書いたものを読み返して、一つの話題として
序文に取り上げたものである。

安政戊午(1858)年の秋九月八日
      古庵に棲む紀のおろか記す

               白楳道人筆

注1 転寝は通常「うたたね」と読むが、ふりがなは敢て流行病ころりと
  掛けたものか
注2 享保元年(1716)、江戸の町で流行した病気はよく分かっていない
 ようだが、高熱が出たとの記録から風邪(インフルエンザ)が推定されて
 いる。 儒学者室鳩巣の書簡を編纂した弟子青地兼山の「兼山秘策」では
 享保元年六月、江戸で疫病が流行し町方で八万人が死亡したと聞くとある。
注3 著者は紀のおろかとあるが、仮名垣魯文(金屯道人の名も使う)の
   ペンネームの一つか。 白楳道人は絵師と思われる。
P4
安政ころり流行記概略
 紅花が風に散り、黄色の葉に霜が降り、盛んだったものが衰えて行く
ことは此の世の常で自然な事である。 そんな世で常でない風に誘われ、
若いものが老人に先立つ事もあり、生死は必ずしも予測できないものである。
それは兎も角、今流行の疫病で死ぬのは凡人の気持ちとして天命とは思えない。
今年、安政五年六月下旬、東海道方面から流行り始め、近国一円に広がり、
此の病気に罹る者は九死に一生を保つ事が稀である。 遠く隔たる土地の
事は分からないが、私の友人が既に見聞きした地の事を言えば、江戸では
七月上旬赤坂辺で始まり、霊岸島辺にも多く罹病者が出て短時日の間に
諸方に広がった。八月上旬より中旬にかけて病は更に増え、死亡者は一町で
百余人、少ない所でも五六十人となり、葬礼の棺の列が道と云う道に続き、
昼夜を分かつ事がない程である。 江戸内の多くの寺々は何処も門前に
列ができ、焼場の棺置き場では積重ねて山の様である。 
 夕べに人を焼く葬坊(おんぼう)も翌朝には自分が荼毘の煙りとなるかも
しれず、頼まれた石塔屋も今の内に自分の名を五輪塔に彫り留めるなど、
一々言い尽くせない程である。 
学者は是迄の日本の歴史をひも解いて見ても過去に例を見出せない
状況であり、著名な医者も此の病の根源を探り当てられず、唯頭を
傾げ治療も出来ず死を待つだけで何もできない。

 適々芳香散の様な治療法やオランダの医者シーボルトの経験等
の救急処置を知っても、罹病即死では処置する間がなく、回復の
機会を失うので、庶民はこの病名を孤狼狸(ころり)と綽名して、
あらぬ説を流言し、妖怪変化の仕業などと云い又水毒とか魚毒とか言う。
この為に市中の人は玉川の上水を飲まず、又桶に泳ぐ生魚も食べない。
貴人も賤人も日夜此病に罹る事を心配し、門戸には諸神の守札を張り
魔除けとして八ツ指(やつで)の葉をつるしている。
 町々では鎮守の神輿を担出し、獅子舞を廻して幣帛を振りながら
軒並家毎に祓い清める事もした。 こんな年早く過ぎてしまえと、
門辺に松竹を飾り注連縄(しめなわ)を引き巡らしたり、厄払いの
為と豆をまくものもある。 その様子は夏の祇園祭りと年越の風習を
一度に行うようなものである。 この様な状況は是迄見たこともない
珍しく不思議な事なので、まのあたりにした一部始終を記す序に
神仏の加護や妙薬の効果なども記し、再びこんな事が起きた時に
備えるのだと金屯道人は言う。
注1 シーボルト(1796-1866)ドイツ人、オランダ人医師として
  1823年から1830年迄長崎出島に滞在。 西洋医学の紹介に努めると
  と共に帰国後は日本の紹介を西洋社会に行う
注2 魚毒に関しては、同じ頃藤川整斎が書き記した安政雑記の中に
 鰹の刺身を食べて一夜で死んだ例とか、鰯売りの男が売れ残った鰯を
 夜食で食べ、翌朝死んでいた咄などが載っている。
注3 金屯道人= 仮名垣魯文、本名野崎文蔵(1829-1894)

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出島より千八百五十八年七月十三日(安政五年五月)報告
 此四五日、出島及び長崎市中共に下痢や嘔吐の症状ある者増え、
昨十二日には一時に三十人程の患者が出ました。 又アメリカ軍艦
ミシシッピ号でもこの病状の者が多数確認され、この病気は極めて
流行性の高いものと思われます。 外国でも最近多く流行っています。

一隣国の中国でも各海岸都市でコレラアシアテイス(病名)が
 流行し、毎日多くの人が死亡している由です。 これに依り
 出島に滞在するヨーロッパ人も思いの外下痢が多く、本物の
 コレラに罹らぬ様に予防に心掛けています。 
 現状では真正コレラの可能性もあり、この病気を助長する食物が
 顕かになっていますので、これらの食物を禁止するとともに応急
 手当を示します。
    第一 胡瓜(きうり)
    第二 西瓜(すいか)
    第三 李(すもも)、杏子(あんず)、桃(もも)
 最初の二つは下痢には絶対食べない事。
 三つ目は日本で使う様な未熟な果物は顕かに害になります。

一ヨーロッパ諸国及びその他の外国では、前述の様な病気を発症した
 時は、病気の重症化を防ぐために、国民に害になる食料を知らせると
 共に勿論売買禁止としています。これらはオランダ政府医者の役目です。
 日本については左に予防法を示します。 強いて言い難い事でもあります。
  第一 胡瓜・西瓜・未熟の杏子・李等食べる事を堅く禁ずる事。
  第二 裸で夜気に触れぬ様心掛ける事。夜分に衣類で覆わず
     決して寝入らぬ事。
  第三 日中暑気触れて余り疲れる様な仕事をしない事。
  第四 種々の不摂生、特に酒を呑み過ぎる事は一番よくない。
  第五 若し下痢を催したらすぐさま療養の手当をして、猶予しない事。
 右の通り申上げます。以上の筋道で私共を襲う危険な敵であるコレラ病を
 除去しますのでご賢慮願います。
           オランダ海軍第二医官
            日本滞在窮理学官
             ウエイヘルボムヘファン
                  メードルフヲールト
 この書は長崎出島に渡来したオランダ人から長崎奉行所へ提出した
文書の和訳で、日本だけの病気でない事を知らせる為特に記す。 
これより世界中の病気である事は顕かである。

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御触書の写し
 現在流行している下痢の病気はその治療法も色々あるようだが、
その中で素人が知っておくべき方法を示す。 予めこの病気を防ぐには
身体を冷やさぬために腹に木綿を巻き、大酒大食を慎むこと。 
其外消化し難い食物を一切食べぬ事。 若し此症状を催したら寝床に
入り飲食を慎んで全身を温め、次に示す芳香散と言う薬を使う事。 
是だけで治る人も少なくない。
又吐き気、下痢が激しく全身が冷える場合は、焼酎一合に龍脳又は樟脳を
四十~五十グラム入れて温め、木綿の布切れに浸して、腹及び手足に
刷り込み、芥子(からし)を胸、腹、手足に三十分程づつ張る事。

    芳香散  
 上品桂枝(シナモン)、益智(生姜の一種)、乾姜(乾燥生姜)の
粉末を同量調合し、一~二盃宛時々服用する。
 芥子泥(からし)粉と饂飩(うどん)粉の同量を熱い酢で堅く練り
木綿の布に延して張る事、但し間に合わない時は熱い湯で芥子粉だけ
練ってもよい。

    又別の方法
 熱い茶にその三分一程の焼酎を加え、砂糖を少し加えて使う。 
但座敷を閉めて木綿布にこの焼酎をつけ、頻りに全身を擦る事。
但し手足の先や腹の冷える所に温めた鉄や石を布に包み、湯に
入っているような心持になるほど擦るのもよい。
以上は今流行の病気で皆苦労しているが、その病状に拘わらず
直に対処しても害がない方法であるから、人々の心得のために
必ず間違いなく通達する事。

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   安政五年八月
〇千住小塚原辺の焼場では此度死人が多く、処理におんぼう(焼場人)の
 手が廻らず、数日棺をそのままにしてあるので臭気が立ち込め、下谷や
 浅草の辺り迄たいへん迷惑している。 特に夜中は更に臭気が強く、この
 臭気に触れた者が疫癘(えきれい)、敗熱等の病気も発すると医療関係者
 は心配し、 当分仮埋め等にするか、又は滞留を防ぐ方法がないか等
 工夫して二次災害を避ける様に助言した。
 その結果、寺社奉行から関係筋に通達があり、仮埋葬を取り計らう
 様になった。

〇此度流行の病症で死亡する人が多く市中全体が恐怖の余り、中には祈祷と
 唱えて手造りの神輿や獅子頭を夜中に町内を持ち歩く等により邪気を
 除こうとするが、これは庶民の意味のない行動である。 禁止はしないが
 穏やかに祈祷をする事。 但し多人数が集まる事は時節柄火の用心はもとより、
 騒がしくしない様にと兼ねて通達しているので堅く慎む事。 
 決してそのような計画はなく単に噂に過ぎないと思うが、喪中である事もあり
 万一違反する者があれば当人達は勿論、管轄の町役人迄取り調べ対象となる。
 この事を町中連絡漏れが無いように触れる事。
注1 十三代将軍家定が七月に死去しており、特に静謐にする様に厳しく通達
   したものと思われる

   同年九月
〇深川富吉町の道具屋の或人は、此度流行病で死亡した人で貧しくて
 葬式道具を準備できない人々に棺桶を寄付した。 毎日四十五六個
 になったと言うが、これはたいへんな功徳ではないか。

P11
〇当八月中旬佃島の一漁師に野狐が取り付いたと言う事である。
 近隣の者が駆けつけて神官や修験者の祈祷を頼み色々攻め立てたからか、
 狐はその漁師の身体を抜けて逃げ出した。 これを皆で追いかけて、
 打殺したが、 町の支配者の計らいで狐の死骸を焼いて、その辺に
 三尺四方の祠を建て 尾崎大明神としてその霊を祭った。

〇京橋南伝馬町壱丁目のある桶屋の娘が此度の病に冒され、嘔吐下痢が
 激しく危篤となった。父母は大へん驚き慌て、近辺の町医者の横田某に
 診て貰った。 この医者は娘の容態を見て脈拍から察してとても存命は
 出来ないだろう。しかし最後の薬を一服試そうと調合しているうちに
 娘は苦悶の中に息絶えたので、医者もなすすべなく近くの自宅に戻った。 
 ところが如何した事か、急に腹痛がおこりそのまま息絶えた。 妻も
 驚いて悲しむ中近隣の者も駆けつけて介抱したが、既に顔色は死人で
 脈も全くなかった。 此頃、先程医者を呼んだ桶屋は娘の死骸を納棺
 しようとしたが、不思議にも娘は突然蘇生した。 父母始め周囲の者達は
 再び驚くばかりである。 両親は盲目の亀が浮いている木に出会った
 様に喜びはたいへんである。 早速この事を医師に報告に行かせた所、
 医師はたった今死んだと聞き、又々驚き嘆く。

 この病の急変には驚く計りだが、不思議な事は死んだ病人が蘇生し、
 この病人を助けようとした医師が急死する等、死生が同時に手の掌を
 返す様に急である。 桶屋の娘が入る予定だった棺は不用になったので
 医師の方に送り有用になったのも何かの因縁か。

〇湯島三組町の或魚屋の妻は店に出て品物を売り、代金を受取ろうとして
 その侭倒れ三十分程激しい嘔吐を催し、喉の辺に膨らんだものができ、
 苦痛の中に短時間で息絶えた。 喉の例のふくらみは口中より黒い気と
 なって立ち昇り消えたのも不思議な事である。
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今の流行病予防法  外国名コレラ
一薄い羅紗又はうこん、木綿或いはもんばの類で昼夜とも腹を
 二重程に巻いて置くこと。
一桶に湯をいれ、からしの粉を五勺(15グラム)程加えて、折々
 両脚の足三里(膝の六―七センチ下の外側)の辺迄浸す事。
一家の内で何でも燃やして湿気を除く事。
一一切の果物を多く食べてはいけない。

  同治療法
一此病に罹ったら、熱い茶の中へ其茶の三分一の焼酎を入れ、砂糖を
 少し加えて飲むとよい。 又座敷をたて込めて風が当たらぬ様にし、
 羅紗のきれ、又はもんばに焼酎をつけて全身を残さず擦る事。
  但し手足又は腹部を特に注意し、冷える所があれば鉄や石を温めて
  木綿布等で包み、入浴したような気持ちになる迄擦る事。
    安政五年戊午(つちのえうま)年八月      施印

  此一枚は或る人が桜板で刷って提供したものを又各家でも写して
  広く流布したからか、此の手当だけで助かる者もたいへん多かった。
P13
〇私の知人の某が今年八月中旬に、当疫病で死去した者のため小塚原に
 ある火葬所に行った時の事である。
 焼場の担当の話によれば、去る七月十五日頃から焼釜が段々一杯になり、
 火葬数も多くなると思ったが月末になると少し減り釜に余裕が出た。 
 八月になり四日から五六日の間は死人が二三十人宛残り、十日過ぎから
 六百人程も残る。 この分では今日から来る分は九月の二日か三日頃で
 なくては骨を揚げる事は出来ないと言う。こんな状態なので金を幾ら
 出しても緊急に焼く事は出来ないとの事。


         焼場に運ぶ棺の列
            
P14

         荼毘室混雑の図

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 彼がその辺を見廻すと庭に無数の棺が積み上げてあり、とても
 数え切れるものでない。 初めは大通りを行ったのだが、帰りに
 箕輪辺に用事があったので焼場の裏門を通り抜けようと各寺院の
 庭内を覗きながら通り過ぎた。宗派によりそれ程でないところも
 あるが一向宗の荼毘所には特に多くの棺が担ぎ込まれ、場所がないので
 往復の通路の両側に積み上げてあり道は漸く一人が往来できる幅しかない。
 その臭気は激しく手拭で顔半分を包み足早に過ぎ新町の通りに出た。
 すると荼毘所に持運ぶ棺がずっと通りに続いており、上野広小路まで
 その数を数えたが、僅か一時間歩く間に荼毘所に送り込む死人の棺は
 百七十三も有ったと歎きながら私に語った。

〇江戸府内十五キロ四方の町数は三千八百十八丁、各三十六丁を壱里
 として百六十八里十三丁である。 此度流行病により死亡人多く、
 このために救援米が下された。

 ・表店八十五万十三軒
 男 三百四十万十四人
  壱人五合宛として此米高は壱万七十石七升 *計算合
 女 百七十万二十八人
  壱人三合宛として此米高は五千百石八升四合 *計算合
 ・裏店九十二万五千百二十人
 男 百十一万千百二十人
  壱人五合宛として此米高は五千百五十五石六斗 *百→五百の筈
 女 八十五万千二百八人
  壱人三合宛として此米高二千五百五十三石三斗二升 *三斗二升→六斗二升四合
 ・盲人 九千百十三人
 ・出家 七万百十人
 ・尼僧 三千九百九十人
 ・神主 八千九百八十人
 ・山伏 六千八百四十八人
 〆て九万九千四十八人、 此米高 四百九十五石二斗四升五合
 御府内町方総人数合わせて
 〆て七百十万千三百十八人也 *7,161,411?
 ・今回御救は表、裏限らず貧民へのみ下される
 ・但し長袖(僧侶)地借、三才以下には下されない。死亡人は勿論である。
 ・貧民男三十一万六千廿人、此米高 壱万五千八百壱石
 ・同 女子 廿万七千五十六人、此米高 八千百十六石八斗
 右は御救米六万俵高。御割付で下される
 貧民男女御救米合せて惣計二万三千九百十七石八斗
 四斗を相場の一両として此代金は六万両となる

注1江戸府内とは北は板橋、千住辺、東は砂村、亀戸辺、南は品川、大崎辺、
 西は代々木、戸塚辺で延享年間(1744-47)で1678町となっており、
 通説でも1600町余と云われているが、上記の数字はどの範囲か不明。
注2 江戸の人口は江戸中期以降町民50万人、武士50万人合わせて100万と
 云うのが通説であるが、上の数字は700万人以上で理解に苦しむ。
注3 最後の貧民男女への御救い米の計算で総石数と六万両と云うのは
 白米四斗を一両(一升百五十文程度)とすると計算が合う。
 又貧民男女数の総計が52万人となり、通説の江戸町民50万人と近いが
 町民全て貧民の訳がない。
注4 著者は有名な戯作者である仮名恒魯文であり、明治以降は新聞記者として
 活躍している程である。 それなりに根拠ある数字と思うが、江戸府内の人口
 としては多すぎる。 その頃の諸国合計の数字は3千万人と推定されている。 

P16
〇流行の病により亡くなった人々の中で有名人の名前を此処に記す。
 尚貴賤の差別をしていない事はご容赦願いたい。又余病もあったかも知れない。
書家 大竹蒋塘  作者 緑亭川柳  画師 箐々所其一 役者 松本虎五郎
同  市川米庵  同  柳下亭種員 作者 楽亭西馬  同  尾上橋之助
俳諧 惺庵西馬  画工 歌川国郷  太夫 清元延寿  同  嵐 小六
同  福芝斉褥無 角力 宝川石五郎 同  清元染太夫 同  嵐 岡六
同  過日庵祖郷 同  万力岩蔵  同  清元鳴海太夫三弦 岸沢文字八
狂歌 燕 栗園  三弦 杵屋六左衛門同  清元太夫  作者 五返舎半九
講談 一龍齋貞山 同  鶴沢才治  同  都与佐太夫 女匠 都 千枝
咄家 馬  勇  同  清元市辺  太夫 常磐津須磨 女匠 常磐津文字栄
同  上方 才六 碑名 石工亀年  同  常磐津和登 同  常磐津小登名
画工 立斎広重  画家 英 一笑  同        太夫 竹本梶馬
同  桜窓三拙  狂歌 六 朶園  人形 吉田東九郎 同  豊竹小玉

〇この時見聞した戯れ歌を三ツ四ツ記す。
 借金を娑婆へ残しておきざりや迷途の旅へころり欠落(かけおち)  紀のおろか
 此たびは医者も取あへず死出の山よみじの旅路神のまじなひ     作者不知
 ぜいたくを吐いて財布のはらくだし三日転(ころ)りと寝つゝけもよし はれます
 流行におくれさきたつうき中にアレいきますと恋もする也      思 晴
 埋(うめ)はこむ焼場は困る苦の中に何とて魚喰へなかるらん    作者しらず
   「お寺はよろこべ二日で仏になったハヤイ
 知己(ちかづき)を往つ返りつとふらひ(弔)のともにゆかぬぞ目出度かりける 
                                しな猿
P17
  〇八月朔日より晦日まで日々記録された死人の数
朔日 112人 二日 107人 三日 155人 四日 172人 五日 217人
六日 350人 七日 402人 八日 415人 九日 565人 十日559人
十一日 507人 十二日 579人 十三日 626人 十四日 588人 十五日 508人
十六日 523人 十七日 681人 十八日 562人 十九日 597人 廿日 469人
廿一日 392人 廿二日 363人 廿三日 370人 廿四日 379人 廿五日 414人
廿六日 397人 廿七日 416人 廿八日 435人 廿九日 417人 晦日 323人
   合計一万二千四百九十二人程有ったと言う。
前記分の外に人別なしの者の死者数を含めると一万八千七百三十七人となる。
九月になると死者数は大幅に減り、三四日頃は五六十人だったが、それ以後
パタッと此の病気で死ぬ人はなくなり通常になった。
或寺の院主の談話によれば、此度八月一ヶ月間にほぼ一年分の葬礼があった。
その為通常は飯炊き、門番老人及び門前の無職人を雇えば忙しい時でも間に
合ったが、此度は石屋、日雇を加えても足りず、井戸掘職人迄頼み漸く処理
できたとか。
注1.八月一ヶ月日毎数字加算すると12,600となり合計とは少し違う。
注2. 人別 江戸時代の戸籍。 武士、公家、賤民は含まない。
  上記日々の数字は一般の町人の死亡者で、人別なしを含めた18,737人は
  武士や賤民を含めたものと思われる。
 
P18
〇千住掃部宿に奈良屋平治郎と言う小間物商人が居た。
 その妻が此の年八月廿日頃浅草山谷に所用が有って行く途中、
 今戸の方から頭を剃り痩せて青ざめた若い男が裸で子供達に
 追われて来るのに出会った。 人が大勢眺めて騒々しいので
 何事だろう、狐つきの類だろうかと人に尋ねると、此度の病で死んで
 焼場に送られた者が生き返り、焼場を逃出し彼方こちらとうろついて
 いるのだと言う。 又例の空言と気に留めずその場を去ったが、後で
 聞くとこれは真実であり、蘇生の若者は市ヶ谷辺の商家の倅だとの事。

      焼場で蘇生して逃出した男
    
P19
〇湯島の辺に貧しい暮らしの夫婦があった。 夫は長く病の床にあり、
 此頃少しは快復したが未だに歩行は自由でない。 その妻は近年
 稀にみる貞節な働き者で、夫が長々の病で朝夕の食事にも事欠く
 状況の中、甲斐甲斐しく働き小さな商いをして日を過ごし、夕方
 家に帰ると夫の介抱も疎かにはしなかった。 ところがその妻が
 此度の流行病に罹り、一日病んでその夜には死去してしまった。 
 懐妊して九ヶ月だった。

 夫が病で葬式の手当もできないので、近隣の人々が相談して何とか
 金子を工面して菩提所で弔い焼場に送り、骨を拾う日を予約して
 彼等は帰った。
 ところがその夜、かの妻が焼場の葬坊(おんぼう)の夢枕に現れ、
 夫が長々の病に臥して蓄えの無い折から、我が身の為に更に物入りで、
 この後のやりくりが立たず是だけが迷いの種ですとさめざめと泣く。
 この事が三夜に及び、葬坊も不思議な事と思っていた。
 その夫が杖にすがって妻の骨を拾いに来たので、葬坊が色々尋ねると
 夢の内容とぴったり合うので、焼料を返してやり別に香典を与えて
 弔ってやった。 その後はもう不思議な事も起こらなかったとの事。

        自身の死後の焼き料を心配する女

P20
〇八月十八日の事だったとか、数奇屋町大虎
(家主書役兼道具屋)と言う者の裏長屋で
 煙管「らお」の挿げ替えを商売とする者が突然奇病を発した様子なので長屋の
 者達が集まり、野狐が付いたのではないかと大勢で取り巻き問い詰めた。
 この病人が言うには、私はその様な者でなく、京都より用があり鉄砲洲稲荷社へ
 使いに来た者である。 この仕事は四つ(四疋)で請負ったが、二つは道中の
 小田原で犬の為に命を落した。 しかし急用であり復讐は帰りに遂げよう
 と遠く此処へ来た。 空腹の由なので飯を食わせて其間種々問いかけると、
 我は八ツ狐と言う者である。今度野狐に憑かれない様にするには、八狐親分
 三郎右衛門と書いて門に張ると良いと話し終わると、づっと押さえつけていた
 四五人を振り倒して表戸を蹴破って駆け出した。 皆が後を追うと水谷町角の
 稲荷の拝殿の前で頼んだ様に見えたが倒れて気を失った。 連れ帰るとやがて
 病気も治ったので坂部と言う名主の管理下で届け出たと言う。 
 数奇屋町家主磯次郎と言う者の話である。
注1らを 煙管(キセル)の火口と吸い口を繋ぐ竹。 ラオスの竹が用いられ
 「らを」と呼ばれた。 やにで汚れた「らを」交換する商売があった。

厄神も長居ハならじあし原や
     さかさに立し箒星にハ
              百舌

    箒星の図

 天文の事は分からないが、西方に星が出て絵に書いた稲穂の様である。
 是を名付けて豊年星と言う。
      出来秋や空にあらわる豊年星    松瓶
   凡(おおよそ)ものハ祝ひがら
    よきもあしきもへのごとくに
     見やぶるゝも又一箇の大語か
 曇らざる夜にすいと出る放屁(ほうひ)星 
      武威にくさきもなびくしるしぞ   金瓶
注1 この年(安政五年)八月に北西の空にほうき星が出た。
  夜7時頃出て長さ3m、巾30cm、9時頃入る時は7.5m
  程の尾を引いたと日向国の高原所系図に記録されている
 
P21
〇ある大名の藩士で木津と云う人、元来豪勇の気性で武術も人に勝れた
 達人である。 此度ある夜の事だが、宿直勤務が終り宿所に帰る。 
 此人未だ妻もないので、勝手知った我が家の戸を引開け中に入り寝室に
 行くと、屏風の中から凄まじい形の妖怪が突然顕れ出た。 木津氏に
 飛掛る様子なので、来たれと身を避けて腰の刀を抜くやいなや妖怪の
 正面に切りつけると、此の形勢に辟易したか、かの妖怪は身を躍らして
 外へ逃げようとする。 これを木津氏は素早く追い留めて辛うじて生け
 捕り、明かりをかざしてよく見ると歳を経た大狸だった。
 今奇病が流行する虚に乗じて人々を誑かし悩ますものか。

          古狸の妖怪図

P22
〇中橋岩倉町に本間大英と言う町医者が居た。 此度の流行病で他の医者が
 見捨てた病人を自身の調合薬や医術を尽して快復させた。
 ある夜近隣で祝い事があり、それに招かれ少し酩酊して帰宅し、寝ようと
 した時、鼠の様な動物が大英の側に来た。 アレ鼠が来た、早く追い払えと
 妻に指図したが、妻の目には全く見えない。 そうこうする中に、鼠が膝に
 入った、如何したものかと苦しみ叫ぶと、入ったと思う所が腫れあがったので
 妻も慌てて其所を布で結わったりしていると、近所の人々も走って来たが、
 大英は大変苦しそうで、アレ又腕へ上がって来た、背中に潜ったとのたうち
 苦しんだが、今度は腹へ入ったとの事で其の侭終に絶命した。 その火急な
 事は瞬時である。 この様な不思議な事を数えるときりがないが、その一つ
 二つを次に揚げ、後世でこの様な事があった時の為に書くので読んで欲しい。

             奇病に苦しむ医者

〇前述大英の話しに似ているが死を免れた者も多い。 その治療法を見ると
身躰の膨れた処をしっかり押さえ、その前後を結ぶなどして狐憑きを責めると
同じ様に、さあ退くか退かないならば斯くすると刃を当てれば忽ち治る事もある。
又その場所を突いて血を出して助かる事もある。 或いはその処から黒気
(こくき)が立ち光を放って散る事もある。 実に不思議な事である。

P23
〇流行の前兆
此処高田の馬場辺に、ある大名の屋敷番の森山丈助と言う人が居た。 此人
は武術には達していたが、世事には疎いと思われていた。 頃は五月の事だが
ある夕べ気分が悪かったが独身の気楽さで夕食も摂らず寝てしまった。
夜半頃に枕辺に誰かが座っている夢を見て、目を覚ますと夢ではなく、
図の様である。
不審に思い尋ねると、我は厄神の王であるが、四五日宿を貸せと云う。 
それは迷惑な事である。 私は一人住まいであり一日病んでも困る、早く出て
行けと叱ると、彼の老人は微笑して、いやいや貴殿に苦労は掛けない、宿を
借りるだけで、他に厄介な事は何もないと言う。 それではあそこのひと間に
入って休まれよと許せば、老人は門に向かい差招くと賤しい感じの老幼男女
がぞろぞろとひと間に入った。 これは夢か現かと見ていると老人は
あらためて、彼等は皆我が一族である、宿のお礼にこれをと図の様な端書
を出し、是を門に張って置けば、我が配下は一人も入らない。 若し入った
家があれば此の札で身体を撫で、その病人の床の下へ敷いて置けば命を失わない。
又薬の調合法も伝授する。 此の年の秋には必ず病が流行するので多くの
人を助けよと言ってひと間に入った。
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            厄神王の図
翌日例のひと間には何も物はなく、自身も昨夕の苦しみはなく快く起き、
いつもの様に庭に出た。 中間達は是を見て、昨日の熱の様子では斯くも
直に出勤は無いと思いましたと語るので、厄神が宿を借りに来たと話せば
下僕も半真半疑で、自分でも疑問に思い馬鹿々々しくなり以後は人にも
話さなかった。
P25
六月も過ぎて七月初旬、築地に甥が奉公する屋敷へ所用で行ったが、彼の
屋敷の足軽頭が追って来て、此六月甥君(おいご)に話したと聞く厄神除の
札二枚と伝法の丸薬を作って頂けませんか、今我が部屋に熱病で苦しむ者が
二名あるからと強く頼まれ、いやとも言えず甥の家で是を作って与えた。
其翌日から病人は食欲が出て急速に全快した。 是は彼の甥が六月中
土用見舞に来た時に夢物語をした事を伝え聞いたものと云う。
それ以後彼の屋敷では札をたいへん珍重し我も我もと所望したが、中に
一人酒狂者が居て是に悪口を云ったが、その夜病気になり死んだと云う。
その他にも不思議な事があり、札を所望する者が多かった由。
又不思議な事は老人の言葉で、此秋流行と言い、札の宛名が邪と云う
文字からして例の熱病の事ではと察する。

安政五年五月二十五日の
  夜の約束を忘れたか。
    邪神王  定保 印

P26
白澤(はくたく)の図
 夜毎にこの絵を枕に添えて臥せば夢を見ず、
    諸々の邪気を避けるものである 

注1 白澤とは瑞獣(神獣、聖獣)のひとつ。 中国の古代からの
  伝説の獣で人間の言葉を解し万物に精通し、その絵図は魔除となる。

                おろか
     神たちが世話をやく病、この末は
           もうなかとミのはらいきよめて

 時に安政五戊午年季節は秋九月   天寿堂蔵梓


原文出典: 国立公文書館内閣文庫