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     安政箇労痢流行記   

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転寝(ころびね)の遊目(ゆめ)序
正享間記てふ書の中に正徳六年の真夏(なつ)
熱症おほく世に流行(はやり)て、大江戸のまちまちに
病(やみ)て死する、個(ひと)月のうちに八万に余りぬるに
その棺を工(たくむ)いとまなく、酒の空樽を贖ふて亡骸を
おさめ、寺院(てらでら)に野辺送る、おき土の庭も埋るに
ところなければ其宗体を論ぜず、火葬ならでは
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請おさめず、このゆえに誰も彼も荼毘所に
おくるに棺の数かぎりもなく、積重て半月を過れ
ども焼こと能はず、到来の順を待ば日数はるかに
経て貧しき者の亡骸ハいかにともすべなく、處の
長がはからひにも届かで終に
公庁に訴へまうしゝに、最もかしこき奉命を蒙り
速に寺院におほせて葬り難きハ回向の後に

菰むしろに包て船の乗せ品川の沖にしずめて
水葬になさせ給ひしとぞ記たり、されば此たびの
暴病(にはかやまい)に人のおほく損するさまもその時の事に
似かよひたれバいにしへを当時にたくらべ、今もむかし
となる折から、談柄(はなしぐさ)ともなしてんものをも、筆まめびとの
かひしるしたる老婆心をむげに見捨むことの  *書き記したる
本意なく、一種(ひとくさ)の暗記(そらおぼえ)を以て序に換るものならん

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安政つちのえ午の秋きく月
 はじめの八日にふきいほりにすむ     *鈍き庵  垢ぬけない庵か?
          紀のおろかしるす
   (図)   白楳道人筆

安政箇労痢(ころり)流行記概略
紅花の風に散黄葉の霜に移、盛なる物の衰ること、此世の
ならひ自然(おのづから)なり、さるが中に常ならぬ風に誘ハれ少(わか)きが老るに先立も
又定りたる業にして、生死ハ決て量(はかる)べからず、しかハあれ、当時流布の
暴寫病にて死るぞ、 凡俗の心にハ更に天命とハ思ひ設ず、今茲(ことし)安政
五戊午年六月下旬、東海道筋より流行初(そめ)、近国一円にひろごりて
此病に犯さる者九死に一生を保つハ稀なり、遠く隔る地ハいざ不知
僕が輩既に目前(まのあたり)に見聞しる土地(ところ)をいハんに、大江戸ハ七月上旬
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赤坂辺に始り、霊岸島辺にも多くありて、日ならず諸処に
押移り、八月上旬より中旬に至りてハ病倍々盛んにして、死する者
多きは一町に一百余人、すくなきハ五六十人、葬礼の棺大道小路に陸
続(うちつづき)て、昼夜を棄ず絶る間なく、御府内数万の寺院ハ何所も
門前に市をなし、焼場の棺所せきまで積ならべて山をなせり
夕に人焼葬坊(おんぼう)も旦に荼毘の煙りと登り、誂へられし
石塔屋も今の間に自己が名を五輪に止るなど、一々に言も
尽さず、物識の漢の倭の史ども披閲(くりひろげ)ても、未かかる例を見

出す、名だたる医工の鑑定にも病根名証をしるよしなく
徒に頭を傾け、手を拱きて死を待而巳、如何とも方便なし
適々芳香散の如き御伝方、和蘭シーボルトの経験なんど、救急
の要方を得るとも、卒病即死用るに間なく、復するに時を失ふ故に
土俗病名を孤狼狸と綽名して、あらぬ説を流言し、妖怪変化の
所為なりとし、且水毒といひ魚毒とす、是が為に市中の上下水上
清き玉川の流を汲ず盤に踊る生魚を喰ず、貴も賤も日夜此
病に犯されんことを愁ひ、門戸にハ諸神の守札を張、八ツ指(やつで)木の葉を
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釣し提、十字街(町々)ハ鎮守の神輿を舁出し獅子頭を舞(まわ)し
幣帛を振ひらめかし、軒並家毎を祓清めるあれば、かかる年の
疾過ぬべしと思ふよりか、門辺に松竹を飾り立七五三縄(しめなわ)を引
巡らし、煎豆を蒔もあれバ厄払ふとて、外面(そとも)に来るあり、その様
祇園会と年越とを打交へたる心地せり、是なん未曾有の珍事
にて、古今来の不思儀なれバ、目前(まのあたり)に見し顛末を記すついで
神仏の応護霊薬の効験(ききめ)をも誌しとどめ、後患(こうかん)なから
しめん事の用に備ふと金屯道人まうす

   於出島千八百五十八年七月十三日 当日本安政五年五月
此両三日中、出島市中とも一時に下痢且追々吐かかり申候、右患病
之者既に昨十二日一時に三十人相煩、将又亜墨利加汽船ミシシ
ヒーにおいても右様之服病多人数御座候ニ付右病原者究めて
流行のものと奉存候、右者他国にても頃日多分発(おこ)り申候
一隣国唐土にても諸街市海岸にはコレラアシアテイス病名
 流行仕、右ニ付日々死失多人数御座候由、依之出島に
 罷在候欧羅巴人どもニ付而者右下痢、殊の外変症仕、実真
 のコレラ病に不相成様防方可仕儀ニ御座候、右之模様ニ而
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 真実相発可申、右病之害と相成候食物顕然に御座候、右食
 物類禁止仕、保養之手当示置申候
   第一 胡瓜(きうり)
   第二 西瓜
   第三 李、杏子、桃
 右二品者至極大事之下痢不可服物に御座候、三品者
 於日本相用候様之未熟共果物者顕然害ニ相成申候
一欧羅巴之諸国、其外国々において右様之病気発候節ハ
 右病之増長防候為、其国民の右害に成候食料之儀

 告知せ、勿論売買禁候事か必用之儀ニ御座候、依之和
 蘭政府医師たる役目に御座候、且又日本人ニ付而者
 左之通り養生一統示方、強而者難申上儀と御座候 
  第一胡瓜・西瓜・未熟之杏子・李等相用候義堅禁候事
  第二人々裸ニ而かならず夜気に触不申様心掛可申、夜分
    決而衣類覆ハず寝入申間敷候事
  第三日中暑気ニふれ余り心労之仕事致間敷候事
  第四諸惰弱之行、殊に酒呑過候儀もっとも害に
    相成候事
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  第五若し下痢相覚候ハバ直様療養之手当致し
    猶予いたす間じく候事
 右之通り申上候、訳合ニ而私共を襲候危敵たるコレラ病除
 去候、御賢慮可被為在儀ニ御座候
           和蘭海軍方第二医官
           於日本窮理学官
             ウエイヘルボムヘファン
                  メードルフヲールト
 この写ハ長崎出島舶来の蘭人より奉行所へ書上候和訳にて全く日本
 国のミ右病の流行するにあらざることしらしめんがため、ここにしるして
 世界のわずらひなる事顕然たり

   御触書之写
此切流行の暴写病ハその療治かた種々ある趣に候得ども、その中
素人心得べき法を示す、予め是を防ぐにハ都て身を冷事なく、腹に
木綿を巻、大酒大食を慎ミ、其外こなれ難き食物を一切給申間敷候
若此症催し候ハヽ寝所に入て飲食を慎ミ総身を温め、左ニ記す芳香
散といふ薬を用ゆべし、是而巳にして治する者少からず、且又吐写甚敷
総身冷る程にいたりし者ハ焼酎壱弐合の中に龍脳又ハ樟脳壱弐両
を入てあたため木綿のきれにひたし、腹并手足へ静にすり込、芥子泥を
心下、腹、手足へ小半時ぐらいづつ張べし
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  芳香散  上品桂枝 細末益智、同乾姜、同右等分
右調合いたし壱弐はいづつ時々用ゆべし
   芥子泥(からし)粉  饂飩(うどん)粉  右等分
右あつき酢にて堅くねり、木綿きれにのばし張候事、但し間に
合ハざる時ハあつき湯にて芥子泥ばかりねり候てもよろし
   又法
あつき茶に其三分一焼酎を加へ砂糖を少し加へ用ゆべし、但雑敷を
閉、木綿きれに焼酎をつけ、頻りに総身をこするべし
  但シ手足の先并ニ腹冷る所を温鉄又者温石を布に包ミ
 
  湯をつかひたる如き心持に成程こするも又よし
右者此節流行病甚しく諸人難義致し候ニ付、其症に拘わらず
早速用て害なき薬法、諸人心得のため無急度相達候事
   午八月
千住小塚原辺此度死人、おんぼう数多之事故、手廻り兼、数日その
侭ニ致し置、臭気立、下谷辺、浅草辺等者殊之外迷惑之趣にて
夜中者猶更甚敷、此躰にてハ右臭気ニふれ候者共、疫癘(えきれい)敗熱等
之病症相発可申と医道方ハ此節ゟ心配致し候趣ニ付、当分仮
埋等も致し候か、又ハ手廻し致シ方可有之哉厚勘弁いたし右様
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之次第ニ不至様精々其筋へ可申渡候
右之通寺社奉行ゟ其筋へ申渡候間、町中其心得ヲ以埋葬之
儀取計候様可申渡候
    午八月
此節流行之病症にて死亡人多く市中一統恐縮之余り、中にハ
祈祷と唱手遊之神輿、或ハ獅子頭等夜中町内持歩行候哉之
趣、畢竟邪気除候儀と軽き者共心得違ニ而、右様の所業致間
敷とも難申、穏に祈祷等致し候儀者格別、多人数集り候様子
にてハ、平日と違、此節柄火之用心者勿論、都而物騒敷儀無之様

兼而申渡置候ニ付、相慎可罷在儀、右体心得違有之間敷、全く
風聞迄之義と相聞へ候得共、 御中隠中万一心得違之者
有之候ハヽ当人者不及申ニ町役人共迄急度可及沙汰候条、其旨
町中不漏様可触知(ふれしらすべき)もの也
    午九月
〇此節深川富吉町道具屋何某なる者、流行病にて死したる
 貧窮なるやからの葬具調兼候者へ棺桶を施すに日毎四十五六
 宛出す、是亦未曾有の功徳ならずや
〇当八月中旬佃島漁師何某なる者に野狐取つきけるにぞ
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 近隣の者駆あつまり、神官修験の祈りを乞ふてさまざまと攻ける故
 にや、狐彼者の躰を抜出外の方へ逃去を在あふ人々追欠て是を
 捕へ即時に打殺してけれバ、長たるもののはからひにて彼狐の死骸を
 焼捨て煙りとなし、其辺に三尺四方の祠を建て霊を祭り、すなハち
 尾崎大明神と崇けるとぞ
〇京橋南伝馬町壱丁目桶屋何某の娘、当病に犯され吐写甚
 しく絶も入べき有様なれバ父母大ひにおどろきあハて、近辺の
 町医横田何某を乞て見せしむるに、彼医者容躰をうち見、脈察
 してとても存命覚束なし、されども捨薬一帖を参らせんとて

 調合なすうち、彼娘ハ悶乱なして息たえしかバ、医師も本意なく
 そこそこに程近き我家へ立帰りしが、いかがしけん惣ちに腹
 いたミて其侭に息絶たり、妻なるものおどろきかなしむに
 近隣の者走あつまり様々に介抱なせども顔色死相に変し
 寸脈も通ハず、此時先に此医者を招きたりし桶屋にては、むすめの
 死骸を棺の中に納んとしける折、ふしぎにも彼娘茫然として
 蘇生しかハ、父母はじめあたりの人々再び驚くばかりなるが、両親
 ハ盲亀の浮木にあひたる如く喜ふ事大からならず、此よしを
 かかりたる医師の方へ告しらすに、医師ハ只今死したりときき
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 けれバ、再三驚腑慨嘆し、当病の火急なるに舌をまき、さるにても
 いぶかしきハ病者の死したりしと思ひしは却て蘇生、人を活さんと
 する医師ハ忽ちに死す、死生時を同じうして手の裏をかへすより
 速なり、されバ娘が入らんとせし棺ハ不用になりたれバとて彼医師
 のもとへ送りやり、彼方の有用になしたりしも因縁ところ思ハれたり
〇湯島三組町魚屋何某の妻、店に出て品物を売、銭を取ん
 として、その侭倒れ小半時の間吐写甚しく、喉のあたりにふくだ
 ミたる物出来て苦悩甚しく、終に其時を過さず息絶けるに、彼のんどの
一物口中より黒気と成て立昇り消うせけるもふしきの事也

  流行時症  異国名コレラ
一薄羅紗又ハうこん木綿或ハもんばの類にて
 昼夜とも腹を二重ほどまき置べし
一桶に湯をいれ、からしの粉を五夕計り其中に
 加えて、折々両脚の三里の辺まで浸すべし
一家の内に何にても炷もの炷をなして湿気を除くべし
一一切の果物を多く食ふべからず
  同治法
一此病をうけたりと知らバ、熱き茶の中へ其茶の
 三分一焼酎を入れ、砂糖すこしを加えてのむべし
 又座敷をたてこめて風にあたらぬやうになし
 其上羅紗のきれ、又ハもんばに焼酎をつけて惣身
 を残る方なくこすりてよし
  但し手足又ハ腹などへよく意(こころ)をつけ、ひえる
  ところあらバ温鉄或ハ温石をあたゝめ、布(もめん)につゝミ
  浴湯せしほどの心持になるまで摩擦(こする)べし
 干時安政第五戊午年八月            施印

  此一ひらハ何かしのとのより
  桜木にのぼせてほどこし
  給ひけるを、又いへ〱(家々)にても
  うつしえてひろくひろまり
  けるゆえにや、此手当にて
  たすかるものいと多しと也
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〇余が知己なる何某当八月中旬、こたひの
 暴病にて死せし者の為に小塚原なる荼毘所に至りし折、
 人焼葬坊(おんぼう)人足の語れる様を聞たりしに
 去ル七月十五日の頃ゟ焼釜追々に一はいに相成て、焼数
 多分なりと思ひの外、月末に至りてハ少しく減て釜焼も
 余り候ひしに、八月に至り四日ゟ五六日の間ハ死人二三十
 宛も残り、十日過ゟ六百人程も焼残り候へハ、此分にてハ
 中々今日ゟ来れる分ハ九月二日三日頃ならでハ骨揚には
 相不成、如此之次第故金子何程出し給ふ
            (図)
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 荼毘室混雑の図

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 とも中々火急に焼候事ハ出来不申と物語れり、彼人辺をかへり見るに庭
 に積上たる棺の数限りなくして、かぞふるに間あらず、始ハ大通りを至りしかど、其帰る
 さにハ三輪辺に所用あれハ焼場の裏門を抜出んと諸院の園中を指覗きつゝ
 其所を過るに、諸宗ハさもなけれと一向宗の荼毘所ハ殊に多く棺をかき入るゝに
 場所なけれバ、往還の傍に積揚て両側に充満し、道はば一身の往来のミなれバ
 其臭気甚敷、手拭をもて半面を包ミ、足早に新町の通に出たりしが
 追々荼毘所に持はこふ棺の数、往来に引続きて上野広小路までその
 数かぞへしが、わずかに半時の間道ハ半道にたらずして荼毘所に遣す
 死人とおぼしき棺数のミ百七十三ありとて、慨嘆の余り余に語れり

〇御府内四里四方町かず三千八百十八丁、各三十六丁壱里にして百六十八里
 十三丁なり、此度暴写病流行につき死亡人多く、依之御救被下置
 ・表店八十五万十三軒
  男 三百四十万十四人
  壱人五合ぶちとして此米高
    壱万七十石七升
  女 百七十万二十八人
  壱人三合ぶちとして此米高
    五千百石八升四合 
 ・裏店九十二万五千百二十人
  男 百十一万千百二十人
  壱人五合ぶちとして此米高
    五千百五十五石六斗
  女 八十五万千二百八人
  壱人三合ぶちとして此米高
    二千五百五十三石三斗二升
 ・盲人 九千百十三人
 ・出家 七万百十三人

 
・尼僧 三千九百九十人
 ・神主 八千九百八十人
 ・山伏 六千八百四十八人
  〆九万九千四十八人、 此米高 四百九十五石二斗四升五合
  御府内町方総人数合て〆七百十万千三百十八人也
 ・今般御救之儀ハ表裏限らず貧民へのみ被下置る
 ・但長袖、地借、三才以下にハ不被下、死亡人ハ勿論也
 ・貧民男三十一万六千廿人、此米高 壱万五千八百壱石
 ・同 女子 廿万七千五十六人、此米高 八千百十六石八斗
 右は御救米六万俵高 御割付を以被下置る
 貧民男女御救米合て〆二万三千九百十七石八斗
 為四斗相場、此代〆金六万両なり

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〇流行の病をもって身まかる人々の中の其名四方に聞えしを聊
 こゝに記す、猶貴賤の差別なきハ見ゆるし玉へ、又余病もあるべきか
書家 大竹蒋塘  作者 緑亭川柳  画師 箐々所其一 役者 松本虎五郎
同  市川米庵  同  柳下亭種員 作者 楽亭西馬  同  尾上橋之助
俳諧 惺庵西馬  画工 歌川国郷  太夫 清元延寿  同  嵐 小六
同  福芝斉褥無 角力 宝川石五郎 同  清元染太夫 同  嵐 岡六
同  過日庵祖郷 同  万力岩蔵  同  清元鳴海太夫三弦 岸沢文字八
狂歌 燕 栗園  三弦 杵屋六左衛門同  清元太夫  作者 五返舎半九
講談 一龍齋貞山 同  鶴沢才治  同  都与佐太夫 女匠 都 千枝
咄家 馬  勇  同  清元市辺  太夫 常磐津須磨 女匠 常磐津文字栄
同  上方 才六 碑名 石工亀年  同  常磐津和登 同  常磐津小登名
画工 立斎広重  画家 英 一笑  同  ―空白ー  太夫 竹本梶馬
同  桜窓三拙  狂歌 六 朶園  人形 吉田東九郎 同  豊竹小玉

〇当時のされ歌も聞およびしを三ツ四ツしるす
 借金を娑婆へ残してかきざりや迷途の旅へころり欠落    紀のおろか
 此たびハ医者も取あへず死出の山よみじの旅路神のまじなひ 作者不知
 ぜいたくを吐いて財布のはらくだし三日転りと寝つゝけもよし はれます
 流行におくれさきたつうき中にアレいきますと恋もする也  思 晴
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 埋はこむ焼場ハ困る苦の中に何とて魚喰へなかるらん    作者しらず
   「お寺ハよろこべ二日で仏になったハヤイ
 知己(ちかづき)を往つ返りつとふらひのともにゆかぬぞ目出度かりける しな猿

〇八月期日より晦日まで日々書上に相成候死人の員数
 朔日百十二人 二日 百七人 三日 百五十五人 四日 百七十弐人 五日 二百十七人
 六日 三百五十人 七日 四百弐人 八日 四百十五人九日 五百六十五人 十日五百五十九人
 十一日 五百七人 十二日五百七十九人 十三日六百二十六人 十四日五百八十八人 十五日五百八人
 十六日五百二十三人 十七日六百八十一人 十八日五百六十二人 十九日五百九十七人 廿日四百六十九人
 廿一日三百九十二人 廿二日三百六十三人 廿三日三百七十人 廿四日三百七十九人 廿五日四百十四人

 廿六日三百九十七人 廿七日四百十六人 廿八日四百三十五人 廿九日四百四十七人 晦日三百二十三人
   〆一万二千四百九十弐人  程有之候由
 此分全書上、此外々人別なしの者数一万八千七百三十七人、九月ニ相成候て
 九月に至りてハ大きに減し、三四日頃ハ五六十人に相成、夫よりハはたと
 相止、通例に相成申候
 或院主の談話しに曰く、八月一ヶ月に送礼数凡一ヶ年分も来りし故
 平日(つね)ハ飯炊、門番老爺、又門前の無業人(あそびと)を雇ひ、大概世話敷成たり
 とも事欠ことハなかりしが、此度は石工(いしや)定日雇(しごとし)も皆々懸りて間に
 合かね、 井戸掘(いどや)職人を頼ミたるにて、漸々安堵をなしたりとなん
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〇千住掃部宿に奈良や平治郎といへる小間物商人ありける、
 その妻当八月廿日頃 浅草山谷に所用ありて赴ける途中、
 今戸の方より頭を剃こぼち、痩枯色青さめたる若き男の
 素裸にて童等に追ハれて来るに行合たり、余りに人の立つどひて
 喧しけれバ、何事やらん狐つきの類にやと立よどミて人に問ふに、
 当病の為に死して焼場にやられし者の、只今蘇生(いきかえり)て
 焼場を逃出し此処彼処をうろつくなりと語りしかバ、例の虚言(そらごと)
 にやと心にも留ずその所を立さり後に聞、是全くの事にして
 蘇生の若人ハ市ヶ谷辺の商家の倅なりけるとぞ

    (図)
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〇湯島の辺に貧くくらす夫婦の者ありけり、夫ハ
 久しく病に臥て此頃少しく快気かたに赴きたれど、
 未だ立居自由ならず、その妻なるものハ今の世に稀なる
 貞節にして、夫が長々の病に朝夕の煙り立かぬるを
 その身かひがひ敷立働き、小商なとしてその日を過ごし、
 夕に家に帰りて、夫の介抱おろそかならず
 しかるにその妻此度の暴病に犯され、一日病て其夜
 終に空敷(むなしく)成けるが、懐妊して九ヶ月に
 成れり、知己(ちかしき)者打寄て談合し

 夫ハ病で葬式の手当もなかりしかバ、手段して金子を調へ
 菩提所に送り、焼場にやりて骨拾ふ月を約し、近隣の
 者ハ立帰りぬ、しかるにその夜、かの妻なる者焼場の
 葬坊(おんぼう)が枕辺に立顕ハれ、夫が長々の病に臥し
 不如意の折から、又我身の為に一倍の物入ありてハ後の
 術計尽果なんと思へバ、是のミ迷ひの種なりとさめざめと
 打泣ける、斯する事三夜なれバ、葬坊も奇異なる事に思ひ
 その夫が杖にすがりて骨揚に来れる日、子細を尋問、誠に
 夢想と割符を合せしごとくなれバ、焼料を戻せしうへ、
 別に香典の料をあたへ、回向して遣ハしけるにぞ、
 その後ハ別にふしぎもなかりしとぞ

    (図)
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 八月十八日の事なりとかや、数奇屋町大虎(家主書役兼道具屋なり)と申者の裏、煙管のすげかへ
 渡世の者、俄に異病躰にて同じ長屋の者寄合、野狐の付たるにやと大勢取巻問ひけるに、
 病人の申 にハ、某左様の者に無之、京都より御用向有鉄砲洲稲荷社人使の者なり、此御用
 我等ども四つにて承り候処、二ツハ道中小田原にて犬の為に命を落し候へ共、急なる使故
 帰りに敵(あだ)を報ハんと思へり、右左(とおく)に食に餓たれバ、此処へハ来りしよし、
 やがて飯をぞ食しける、其間種々事問ひ懸しに、我八ツ狐と申者なり、今度野狐に付れざるにハ
 八狐親分三郎右衛門と書、問戸(かど)に張べしと咄終り、ずつと立ち押へ居たる四五人を
 ふり倒し表の戸を蹴破り馳出す故、皆々後を追ふたりしに、水谷町角の稲荷の拝殿の前にて
 頼申といふぞとみへしが、打倒れ正躰無をつれかへりて、全快のよし坂部と申名主の支配下にて
 届を出し候よし、数奇屋町家主磯次郎といふ者の咄なり

 厄神も長居ハならじあし原や
     さかさに立し箒星にハ
             百舌

    (図)
 天文の事ハいざしらず、西方に星出て画にかける稲の穂のごとく、是を名号て豊年星といふ
      出来秋や空にあらハる豊年星  松瓶
   凡(おおよそ)ものハ祝ひがら
    よきもあしきもへのごとくに
     見やぶるくも又一箇の大語か
 曇らざる夜にすいと出る放屁(ほうひ)星 
      武威にくさきもなびくしるしぞ   金瓶
P21
〇或大諸侯の藩士木津氏なる人元来豪勇の気性にて、武術も又類なき
 達人なるが、今度或夜の事なりとかや、宿直より退出して宿所に
 至るが、此人未だ妻もなけれバ、勝手知りたる我が家の戸を引明け
 内に入て寝所に赴かんとするをり、屏風の中より最(いと)凄じき
 異形の妖怪忽然として顕れ出、木津氏に飛かゝるにものものし、 
 ごさんなれと身をはづして腰刀(ようとう)を抜より疾く妖怪の
 真向目がけて切付るに、此の形勢(いきおい)にへきえきしてや
 かの妖怪ハ身をおどらし外の方さして逃んとするを、木津氏透さず
 追とどめ、辛くして是を生捕、燭をてらしてよくよく見るに、
 是年経狸にて、当時奇病の流行せるその虚に付込、諸人たぶらかし
 なやむるものとそ聞えし
     (図)
P22
〇中橋岩倉町に本間大英といへる町医あり、こたびの暴写病に世の医師の
 見捨たる病人をも自己(おのれ)薬用医案を尽して多く本復させたりしが
 或夜近隣に祝義の事ありて、夫に招かれ少しく酩酊して家に帰り寝まらん
 としける時、鼠の如き獣物大英が傍に来りしかバ、アレ鼠の寄に疾退けよと
 妻に指揮(さしづ)せしかと、妻の目にハ更にふれず、兎角する内
 それ鼠めが膝へ入たり、いかがせんと苦しミ叫ぶに、入たりと思ふ所はれ上り
 ぬれバ妻も立騒ぎその所を布をもて結(ゆい)などするうち、近所の人々も走
 あつまるに、大英ハ最(いと)くるしげに、アレ又腕へ上りたり、背へ
 むぐりたりと悩乱するうち、こたびハ腹へ入たりとて終にその侭息絶ける、
 その火急なること寸間もあらず、是等の類ひの奇異ある事数ふる遑(いとま)
 あらず、 その一ツ二ツを後に揚て万々年の後、かゝる事あらん時の心得に
 書顕ハすをよミねかし
     (図)
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 前の大英の話しに似て死せざる者も数多あり、其療治かたを尋るに、彼の
 身躰なるふくれし処をしかと捕へ、又跡先を結などして狐付を責るが如く
 いざ退くか退かずハ斯の如しと刃を当れバ忽ち悩ミの癒るもあり、また
 其処を突貫き、血を出して助るあり、或ハ其処より黒気(こくき)たち
 光を放ち散じたりなど、実に不思議の事ともなり
〇時節の前表
 ここハ高田の馬場辺に去る大諸侯の屋敷守、森山丈助といふ人はり、此人
 武事にハ達したれども、世事に疎きと思ハれたり、頃しも五月の事なるが
 或夕べ気分悪敷独身の心安さハ夜食も喰ず寝たるが、夜半の頃に枕辺に

 誰やら座すると夢を見て、覚(さむ)れバ夢にあらずして図に顕セル如く
 不審に思ひ尋れバ、我ハ厄神の王なるが、四五日宿りを仮せよといふ、這(こ)ハ
 迷惑の所望かな、吾独住の事なれバ一日病ても難渋なり、疾立出よと
 叱したれバ、彼の老人ハ微笑いいやとよ貴辺(ごへん)ハ悩さじ、宿だに
 仮(か)し給ハらバ外に厄介なるまじといふゆへ、
 さらバ彼処の一ト間に入て休息あれかしと許せバ、門辺(かどべ)を指招くに
 いと賤しげなる老幼男女ぞろそろ一ト間へ入たりを見しハ幻夢現、老人やがて
 礼(いや)をなし、彼等ハ皆々我眷属、宿りの礼にハ斯こそと図の如く端書を
 出し、是を門辺に張置バ、我が徒一人も這入まじ、若や入たる家あらバ此札
 をもて、身内をなで其病人の床の下へ敷て置なバ命を欠ず、又薬方を伝授なして
 必ず此年秋
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   図
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 に至り多くの人を助けよと伝へ終りて一ト間に入しが、翌日其処の一ト間に
 物なく、自己も昨夕の悩ミに似ず最(いと)快く起たれバ、例の如くに庭へ出づ、
 中間共ハ是を見て、昨日の熱の様にてハ斯速かに出勤ハ在すまじいと思ひしなど
 語るに付て、厄神が宿りを仮に来りしと話せバ、下部も半真半疑、自己も一ツの
 疑ひあり、且安房(あほう)らしと恥らひて、其後ハ人に話しもせず、六月も過
 七月初旬、築地に甥の奉公せる屋敷へ用あり赴きたるが、彼屋敷なる足軽頭後
 追来り、此六月甥君(おいご)に話し有しと聞、厄神除の札二枚且伝方の丸薬を
 製して与へ給はらずや、今我部屋に熱病にて最悩める者両人ありと、強て乞れて
 黙止がたく、甥ケ宅にて是を拵へ与へたりしケ、其翌日より病人食気を催して
 とミに全快なせしことなり、是彼の甥が六月中土用見舞に来りし時、夢物語を
 なしたるを伝へ聞たるものとなん、夫よりハ彼屋敷にて大きに札を
 珍重し、我も我もと乞受る中に一人酒狂者あり、大きに是を悪口せしが
 その夜に病付死したるよし、其外不思議の話ありて、札を乞もの多きよし、
 又奇とするハ老人の言葉、此秋流行といひしより、札の名当の邪と云う文字にて、
 例の熱病ならぬを察しぬ

安政五戊午年五月二十五日之
  夜之約定ヲ忘タ乎
    邪神王  定保 印

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 白澤之図
  夜毎にこのゑを枕にそへて臥す時ハゆめをみず、
  もろもの邪気をさくるなり  
    (図)
  神たちケ世話をやく病、このすへハ
      もうなかとミのはらいきよめて

 干時安政五 戊午季穐九月   天寿堂蔵梓


出典 国立公文書館内閣文庫