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弘化雑記の記事より
左側原文、右側現代語訳

浦賀奉行から異国船接近を老中へ報告        戻る

弘化三午年閏五月廿七日浦賀奉行より御届
昨廿六日浦賀表え入津仕候船之者より、異国船弐
艘見受候風聞ニ付、御番所詰与力承糺候趣書取
申出候、別写相添此段御届申上候、尤御備場之儀
は無油断心付申渡候
   閏五月廿七日   大久保因幡守
               一柳 一太郎
弘化三午年閏五月廿七日浦賀奉行より御届
昨廿六日浦賀表へ入港した船の関係者より異国船
を弐艘巳懸けた、と云う風聞に付いて当所与力が
書き取って申し出てきたので、この写しを沿えて報告
致します。 勿論警備場所は油断なく気配りをする
ように申し付けてあります
   閏五月廿七日   大久保因幡守
               一柳 一太郎

尾張国中州直乗兵右衛門船頭・水主九人乗合船 
国許に於て米積立走下候所、当月廿三日昼九ツ時
頃、遠州新浜沖合地方より七里程之場所ニて、右
船より三里程隔異国船壱艘見受候所、大船
ニて凡五六百石積位ニ有べく候哉、船惣躰昨年
渡来候船趣ニ相見、檣三本、帆九ツ并遣り出帆 
等建、南風ニて東之方え向走、翌廿四日夕刻遠州
横須賀沖よりも相見へ候之處、其後は一向相見へ
不申候、尤船中人数・且人物之様子等は見極メ不
申段、船頭申立候


尾張国中州の船主兼船頭兵右衛門・水夫九人乗合
の船が国元で米を積み当地へ来航中当月廿三日昼
12時頃、遠州新浜沖合で陸地より七里程の場所で、
この船より三里程隔て異国船を壱艘見掛けましたが、
大船であり凡五六百石積位もありましょうか、船全体
は昨年渡来した船と同種に見え、帆柱三本、帆九ツ
更に前方縦帆も張り、南風で東の方え走行して、翌
廿四日夕刻遠州横須賀沖からも見えましたが、其後
は全く見えなくなりました。 勿論船中の人数や人物
の様子等は確認出来ない旨船頭は報告してします


三河国高須直乗助八船水主七人乗、右船於国許
町人酒・浦賀楊酒・其外拾ひ荷物積立走下候
所、当廿三日昼頃遠州新居沖合、地方より凡十里
之場ニて、右船より八九町隔異国船壱艘見掛候所
凡千石積位ニ候哉、相分不申候へ共大船ニて檣
三本并遣り出帆等建、船惣躰黒く中頃より白
く南風ニて東之方え向走、翌廿四日夕刻頃同州
横須賀沖よりも相見候所、其後帆影も一向相見
不申候、尤船中人数且人物様子等見極メ不申候段
船頭申立候ニ付、此段書取ヲ以申上候、以上
    閏五月廿七日     浦賀与力
                    中嶋三郎助
                    近藤 良介

三河国高須の船主兼船頭助八船水夫七人乗の船が
国元から町人酒・浦賀楊酒・其外拾い荷物積み、
当地へ走行中、当廿三日昼頃遠州新居沖合で陸地
より凡十里の場所でこの船より八九町隔て異国船
壱艘見掛ました。
凡千石積位でしょうか、分りませんが大船で帆柱は
三本、更に三角縦帆を張り、船全体は黒く中頃より白
く南風に乗り東の方へ向かい、翌廿四日には同州
横須賀沖でも見えましたが、其後は帆影も全く見え
なくなりました。 勿論船中の人数及び人物の様子等
は未確認ですが船頭が報告しておりますので、此件
書取報告致します、以上
    閏五月廿七日     浦賀与力
                    中嶋三郎助
                    近藤 良介

閏五月: 旧暦では季節のずれを解消する為、2-3年に一度閏月を入れて一年を13ケ月とした。 この年は五月と六月の間に閏月を追加したので5月の次が閏5月となり、その次に6月となる。
直乗: 直乗り、 船主自身が船頭として船に乗る事
浦賀奉行:大久保因幡守(忠豊)、在職1843-1847、一柳一太郎(直方)在職1845-1847

22
警備の諸大名から異国船情報を老中へ届出
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○ 同日御届                        
  今午ノ刻前相州松輪鼻異国船二艘相見     
  候ニ付、即刻人数差出候段、私領分上総国富津
  陣屋家来之者より申越候、此段御届申上候、以上
      閏五月廿七日     松平下総守 

○同日御届
  今辰ノ刻頃大嶋沖合え異国船相見候趣、三崎 
  陣屋詰家来之者より取敢ず注進申越候、依之
  午刻人数差出候段、大津陣屋詰家来之者より是又
  申越候、此段致御届候、以上
      閏五月廿七日     松平大和守       
○ 同日御届                        
 今日正午前に相州松輪鼻に異国船が二艘見え 
 ましたので即刻人員を派遣しました事、私領分の
 上総国富津の陣屋より家来から連絡ありました。
 此事を報告致します、以上
      閏五月廿七日     松平下総守   
○同日御届
 今日朝八時頃大嶋沖合に異国船が見える旨、三崎
 陣屋詰の家来から取り急ぎ報告がありました。 随い
 正午には人員を派遣致しました事を大津陣屋詰の
 家来より続けて報告ありました。 
 この事をご報告致します。以上
      閏五月廿七日     松平大和守     


○ 閏五月廿七日御用番阿部伊勢守様江
 房州勝山沖え異国船弐艘相見候趣ニ付、松平
 下総守富津陣屋え問合候所、異国船渡来ニ相
 違無御座候、人数手配等仕罷在候段申越候、其内
 右之船相州浦賀近辺え乗入候趣差出候、見分者
 より注進申出候、依之兼て申付置候固人数早速今
 日領分八幡浦え出張警固為仕候、此段御届申上候
 以上
   閏五月廿七日      阿部駿河守


○ 閏五月廿七日御用番阿部伊勢守様え
 房州勝山沖へ異国船が弐艘見える件で、松平
 下総守の富津陣屋へ問合せましたが、異国船の
 渡来に間違いありません。人員の手配を致しますが
 この船は浦賀近辺へ乗り入れたようだ、と調査に
 出した者から報告がありました。 以前から指示の
 通り警備人員を今日領分の八幡浦へ派遣して
 警備させます。 この事を御届します。 以上
   閏五月廿七日      阿部駿河守


松平下総守: 武州忍藩主(忠国1815-1868)、10万石、現在の埼玉県行田市付近領主、江戸湾房総側警備担当
松平大和守: 武州川越藩主(斉典1797-1850)、17万石、江戸湾三浦半島側警備担当
阿部駿河守: 上総佐貫藩主、一万五千石


31
浦賀奉行から異国船との交渉経過を老中に報告
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○ 弘化三丙午年五月廿七日
 今廿七日巳中刻異国船沖合江相見候段、三崎
 詰与力より注進申越、其後追々注進ニ付為見
 届組与力・同心・通詞為乗組六番船迄差出申
 候所、異国船弐艘ニて追々浦賀表え舵寄候
 ニ付、御固場厳重ニ申付、私人数召連平内え入
 繋止通弁申上、相糺取計旨相伺可申候、依之
 此段御届申上候、以上
        閏五月廿七日    大久保因幡守

○先刻申上候異国船追々走申頃沖え掛居候所
 一双は凡弐千石積位、一双ハ五百石積之船追々
 相見何もアメリカ船ニ相違有之間敷旨、組与   
 力・同心・通詞堀達之助乗組通弁中ニ御座候
 得共、逆意ハ無之様子ニ相見へ、人数両船ニて
 七百人程乗合、大筒・武器類多分積入罷在候様
 子ニ御座候段、組之者・通詞申聞候程、通弁次
 第ニ御届申上候、以上
   閏五月廿七日    浦賀奉行
                     大久保因幡守
○ 弘化三丙午年五月廿七日
 今日廿七日朝十時に異国船が沖合に見えると三崎  
 詰の与力より報告がありました。その後逐一報告があり
 確認の為、与力、同心、通訳を乗組せて六番船迄出し
 ましたが、異国船は弐艘で次第に浦賀湊へ向かって
 居るため警備を厳重に申付け、私も部下を連れ平内
 に船を繋ぎ止め、先方の言い分を聞き如何取扱うか
 お伺い致します。 随ってこの事を御届します。以上
          閏五月廿七日    大久保因幡守

○先刻申上げました異国船は段々当沖に近づきますが
 一艘は凡そ弐千石積位、一艘は五百石積の船と思わ
 れ何れもアメリカ船に間違い無い旨です。 組与力・
 同心・通詞堀達之助が先方船に乗組、通訳中で
 御座いますが 攻撃の意図等は無い模様です。人数
 両船合わせ七百人程乗合、大筒・武器類は大量に積
 込む様子で御座います、と奉行所の者達や通訳から
 聞いております。 更に通訳次第情報を御届します
 以上
       閏五月廿七日    浦賀奉行
                        大久保因幡守

○ 弘化三午閏五月二十七日浦賀奉行御届書之写
 先刻御届申上置候異国船、尚又組之者并通詞
 遣、船中之様子且国許等為相糺候所、北亜米利
 加バチトン船ニて、大小弐艘之内小船之方元船支
 配船之由、凡船長サ四拾弐間半・幅九間弐尺・
 深サ六間八分、大筒八拾三挺左右三段ニ仕掛、
 此余小筒八百挺・短筒八百挺所持罷在、船主ヒツ
 ラジト申、人数八百人乗組、小船之方長弐拾弐間
 程、幅五間九分 深さ四間四分、大筒弐拾四挺、
 左右一段ニ備 在、弐百人乗組罷在、去巳四月頃
 国許出帆之由
 尤子細相尋候所、全商売筋之儀ニ付、願之趣有
 之罷来候由、外ニ逆心等は御座無く候様見受候趣

 前文之者共罷帰り申聞候得共、右様多人数乗
 罷在、殊ニ大筒数多積込、外武器無之趣ニ候得共
 鉄砲類取揚申べき所、如何ニも厳重之備方ニ付
 容易ニ差出申間敷奉存候、申渡候ハヽ争論ニ及
 ひ候義も計り難く候間、浦賀湊より凡弐里程湯野
 北浜沖え船永掛留、番船厳重ニ付置申候、薪
 水之義は願の侭相応ニ相与ひ、外願之趣書面
 差出候得共、亜米利加語急ニ和解取調難き旨、
 通詞申聞候間、尚此上相糺之上取計方相伺可
 申候得共、願之趣意・船形等相糺候段取
 敢ず申上候、以上
   閏五月廿七日    大久保因幡守

○ 弘化三午閏五月二十七日浦賀奉行御届書之写
 先刻御届致した異国船ですが、尚又役人達や通訳
 を送り船中の様子や国籍等調べさせたが北亜米利
 加ボストンの船で大小弐艘の内小船の方は元船支配
 下の由、凡そ船の長さ四拾弐間半・幅九間弐尺・深サ
 六間八分、大砲八拾三門を左右三段に設置、その他
 小銃八百挺・短銃八百挺を所持、船主はビッドルと
 云い人数八百人乗組、小船の方長弐拾弐間程、幅
 五間九分、深さ四間四分、大砲弐拾四門、左右一段
 に設備、弐百人乗組、去年の四月頃国元を出帆した
 由、理由尋ねたところ純粋に商売筋の願があり渡来
 した由で攻撃の意図等は全く無いと見えます。
 
 役人達が戻り報告を聞きましたが、かくも多人数乗
 合わせ、しかも大砲を多数積込み、外武器は無くとも
 鉄砲類を取上げるべきですが、如何にも厳重な武装
 故容易に差出すと思えません、強行すれば争論となる
 事も予想されます。 随って浦賀港凡そ弐里程の湯野
 北浜沖に船を留めさせ番船を厳重に付けます。 
 薪水に付いては希望通り相応に与えます。 外に
 願書を差出しましたが、アメリカ語を急に和訳する
 事は難しい旨通訳が云っております。更に調査し
 取扱方針を伺いますが、願の目的、船形等調査
 結果を取敢えず報告
 致します、以上
       閏五月廿七日    大久保因幡守

○ 弘化三午年六月浦賀表え渡来亜米利加船願書
  左之通
       横文字和解
 アメリカハ支那ニ通商之信儀を結ヒ、彼都ニ数
 月滞船いたし、今年国え可帰之所当地は懇
 と渡来仕候、其次第は支那同様、若当地ニおいて
 も交易之道を開願せん事ニ御座候、若御免ニ御沙
 汰蒙候ハハ日本通商は御国法之通相守可申、我
 政司(誓詞)を以も奉差上候、和交之趣意通信致度
 存念ニ御座候
          弘化三午年閏五月廿八日

○ 弘化三午年六月浦賀表え渡来亜米利加船願書
  左の通
       横文字和訳
 アメリカは支那と通商の契約を結び、彼都に数ケ
 月滞船致しました。 今年国へ帰る所御当地へ友好
 に渡来致しました。 理由は支那と同様に、当地
 でも交易の道を開く事を御願する事です。 もし許可
 を戴けるなら日本との通商は貴国の法を守る事を,
 我国は保証致します。 国交の好を結びたい思いで
 御座います
        弘化三午年閏五月廿八日

32
諸侯の情報収集、網元の調査報告、ポンプの話         戻る

○阿部駿河守様御陣場詰之衆より来状向
      御用番      大坪御陣場
        東條助左衛門様  岩堀金右衛門
        印東万右衛門様  飯野弥一右衛門
                     岩堀 郡兵衛
  
然ば異国船之様子猶又網元与五右衛門え申付様
子承り合候處、別紙之通書面差出候間相廻申候、
宜御城代えも御申達可被成候、尤書面之外口上
ニて左ニ申聞候
一何様之願ニ候哉、願書和様認差出候由
一内海え乗通候節向岸へ付一里とも隔り不申候由
 懸居候内も大船より小船え度々通行候ても、一向
 番船等をも不恐様子之由
一船中歩行候ニも槍鉄砲ヲ携、剣を帯候由小船之
義は見届被参候得共剣をぬきおどし不為見届候由
一今朝御申越ニは久里浜え御引入之義は被仰渡
 候也とも、今以已前之場所え懸り居候旨、尤百首
 村よりも引船等差出、双方ニ而引船五十艘ニも
 相成候へとも一向申付をも不用由之風聞ニ候
一大筒并鉄砲・テンマ船之麁絵図網元より差出候
 間相 廻し申候、此外ニ相替之義無御座候、
 此段為御注進如何御座候、以上
         閏五月廿九日
 
     乍恐御届申上候
 今朝異国船之義様子聞合候様子被仰付、竹ケ岡
 村文蔵ニ聞合候處、左之通
一舟之義は三階造り、北アメリカ
一舟之長サ凡八拾三間程(間違いか四拾二間半)
一帆柱三本、但帆拾弐掛
一大筒穴三段十六挺ツツ、両側ニ而九拾六挺、凡
  五貫目玉位仕掛有之
一石火矢舳ニ弐挺、表ニ弐挺仕懸有之
一窓之障子透明ニ御座候
一鑓千本程
一小筒鉄砲千挺程
一大船人数八百人程
一小船弐百人程
一右大船壱番乗、浦賀御奉行様、小船壱番乗移り
 大和守様
 右之通御届申上候、以上
    閏五月廿九日    八幡村
                  与五右衛門
  御出張場
    御役人衆中様

(麁絵図)  大筒、  鉄砲鑓, テンマ
○阿部駿河守様御陣場勤衆からの来状向
        御用番          大坪御陣場
        東條助左衛門様    岩堀金右衛門
        印東万右衛門様    飯野弥一右衛門
                       岩堀 郡兵衛
  
さて異国船の様子を又網元与五右衛門へ申付聞かせ
たところ、別紙の通り書面を差出ましたので回覧します
御城代へもお伝え下さい。 書面の外口上でも左に
述べています
一どんな願なのか願書を差し出したそうです
一内海へ入って来て対岸とは一里も隔って居らず、
 停泊中も大船より小船へ度々通行しておりますが
 全く警備の番船等を恐れる様子はないようです
一船中を歩行するときも槍鉄砲を携へ剣を帯びて
 おり小船の方は見届けに行っても、剣を抜き
 おどして見せません。
一今朝申し入れで久里浜へ引入を命令されたましが
  今も以前の場所に停泊しております。 勿論百首村
  からも引船等差出し、双方で引船五十艘にもなり
  ますが全く云う事を聞かないらしいと風聞があります
一大筒及び鉄砲テンマ船の略図が網元から差出ました
  ので回覧します。 此外に替わった事はありません
  此件御注進しては如何でしょうか、以上
            閏五月廿九日
 
       恐ながら御届申上げます
 今朝異国船の様子を調査する様に仰付けられました
 ので竹ケ岡村の文蔵に問合せたところ左の通りです。
一船は三階造り、北アメリカ
一船の長さ凡そ八拾三間程(間違いか 四拾二間半)
一帆柱三本、但し帆は12枚
一大砲の穴は三段十六門宛、両側に都合九拾六門挺
  凡五貫目玉位の設備である
一大形大砲が矢舳に弐門、表に弐門設備あり
一窓の障子は透明でした
一鑓千本程
一小銃千挺程
一大船人数八百人程
一小船弐百人程
一右大船への壱番乗りは浦賀御奉行様、小船への
 壱番乗移りは大和守様でした
 右の通御届致します、以上
    閏五月廿九日    八幡村
                  与五右衛門
 御出張場
    御役人衆中様

(簡易図)  大筒、  鉄砲鑓, テンマ

○昨廿九日湊村名主角兵衛百首御用ニ付き出船
仕異国船大船之際江参り能々見帰申候、舟え水を
入参候處、異船より何か和らかきぐなぐな致候筒
差出角兵衛之水桶え入置候水を不残大船ニすい
込申候由、奇妙之仕懸と驚入候旨、いつれも大船
立派故目移いたし能覚候事成兼候由、井上春麿
江相噺候之儀ニ御座候
          六月朔日

○廿九日湊村名主の角兵衛は百首で御用との事で
出船し異国船の大船の際へ行き良く見帰り報告あり。
船に水を運んだところ、異船より何か柔らかいぐなぐな
した筒を差出し角兵衛の水桶に入れてある水を残らず
大船に吸込んだ由
奇妙な仕掛に驚いたという、何から何まで大船は立派
で目移りしてしまい良く覚えられなかった由、井上春麿
へ話した内容です
        六月朔日

百首村: 竹ケ岡ともいい忍藩の警備陣屋があった、現在の富津市竹岡
水を吸い込む話: コロンバス号は蒸気船ではないが当時蒸気機関も多方面に使われていたので
            蒸気機関によるポンプが搭載されていたと推定する

41
老中より浦賀奉行への指示
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   浦賀奉行え相達候趣
○此度渡来之異国船武器可取上所差出不申候由
 ニ付、大船湊内え不引入旨承置候事
 一食料・薪水之義別紙之通被申越候得共、今
 度渡来之船は漂流船とも違、彼より事を設渡
 来致候義故、食料・薪水とも相与ひ候筋ニは
 有之間敷候得共、最早彼人望候品相尋品書
 等差出候上は薪水之義は望ニ任セ相渡可申、
 食料・其外之品ハ相渡候義無用可被致候、乍併
 帰帆ニも及候様ニて彼より達て事実無拠事故
 伺書之内掛紙之所伺之通差遣し可申事
 右之通浦賀奉行え及差図候事

   浦賀奉行え申達趣
○松平大和守・松平下総守え別紙相達候通、今日
 御暇被下候ニ付ては早々出立可致候間、両家着
 之警衛向等凡相整候様ニ承知之上、異国人え
 諭書相渡、早々出帆候様可被申渡候、右ニ付て
 は別て厳重警衛致候方、万一之節御手後れとも
 可有之哉
 右之心得を無油断可被取計候、以上
   六月二日           連名
       大久保因幡守殿
       一柳 一太郎殿

  浦賀奉行え御達
○ 異国人渡来之義ニ付別紙横文字并和解イキ
 リス人え申渡写等、委細被申越候趣令承知候、
 則別紙書取を以、相達候間其通相心得、尤異
 国人え之諭書案壱通差遣候間、得其意何れも
 早々帰帆候様可被取計候、以上
     六月二日     連名
      大久保因幡守殿
      一柳 一太郎
   浦賀奉行へ指示の内容
○此度渡来の異国船は武器は取上るの規則であるが
差出さない由のため、大船を港内へ入れない事了承
した。 食料・薪水に付いて別紙の通報告しているが、
今度渡来の船は漂流船とは異なり、彼より理由を設け
渡来したのであリ、食料・薪水とも与える筋はないので
あるが、既に彼らの希望する品を尋ね書等まで差出
しているので、薪水は希望通りに渡すべし。
食料・其外の品は渡す必要は無い、併しながら帰帆
するのに如何しても必要な物であろうから、伺書の中
で掛紙した所は伺の通り与える事
右の通り浦賀奉行へ指示する事

   浦賀奉行へ指示内容
○松平大和守・松平下総守ヘ別紙で指示した通、
今日御暇を下さったの早々出発するはずであるから、
両家が到着して警備体制が整い次第、異国人へ
諭書を渡して早々出帆する様に言い渡す事。
右に付ては特に厳重な警備体制を行い、万一の場合
手後れにもならぬ様注意して取り計らう事、以上
   六月二日           連名
       大久保因幡守殿
       一柳 一太郎殿

 浦賀奉行への指示
○ 異国人渡来の件では別紙横文字ならび和訳した
イキリス人への言渡しの写し等委しく伝え承知させる
事、更に別紙の内容を伝え、それに同意させるべし、
異国人への諭書案を壱通送るので、その意をしっかり
汲んで早々帰帆する様に取り計らうべし、以上
     六月二日         連名
      大久保因幡守殿
      一柳 一太郎殿
 
 異国人江諭書
○ 此度我国ニ致交易度旨願ふといへとも、我国
 は新ニ外国の通信通商をゆるさすこと堅
 き国禁にして、ゆるさざる事なる故に早々
 帰帆いたすべし、先年より度々通商を願ふ
 国もゆるさず、其国とても同様之事なれハ
 此後幾度来り願ふとも無益之事なり、勿
 論外国之事は長崎ニてあつかふ国法ニて
 此地ハ外国之事あつかふ所ニあらざれハ
 願申度旨ありともここに来りてハ事通
 ぜらる間、再び爰に来ることなかれ
            連名
 
 異国人江諭書
○ 此度我国に交易したいと願うとても、我国は
新たに外国との通信・通商をゆるさず、
これは堅い国法で許されない事である故、早々
帰帆すべし。 以前にも度々通商を願う国も
あるがそれも同様に許していない事であり
今後も幾度来て願っても無益の事である。
勿論外国の事は長崎にて扱うのが国法であり
此地は外国の事を扱う所でないため願いたい
事があっても此処にきても通らない
随って再度此処に来ないように。
                 連名

当時(弘化三現在)の老中職: 阿部伊勢守(正弘)、青山下野守(忠良)、戸田山城守(忠温)、
牧野備前守(忠雅)、松平和泉守(乗全)であるが、弘化雑記から見ると阿部伊勢守がこの問題の
担当で青山下野守は六月の御用番と思われる

42
老中から警備体制について諸侯へ命令         戻る

○ 六月二日
              松平大和守
其方儀先達て御暇被下候所、居城住居向焼失ニ付
当秋中迄滞府之義願之通被 仰出候得共、此度
浦賀表え異国船渡来ニ付、早速相州御備場
え相越、松平下総守申合警衛向、其外諸事
無油断可被申付候  同三日御出立之由

               松平下総守
○ 浦賀表え異国船渡来候ニ付、御暇被下候間早
 速出立致富津陣屋え相越、松平大和守申合
 警衛向、其外諸事無油断可被申付候

 右今晩於伊勢守宅銘々申渡書付渡之、列座
 無之
○ 六月二日
              松平大和守
其方は先達て御暇を下されたが、居城の住居焼失により
この秋中迄滞府の願であり許可されていたが、此度
浦賀表へ異国船が渡来したので、直ちに相州警備
場所へ出張し、松平下総守と相談して警備、その外
諸事に油断なく行う事申付けられた。  
同三日出発された由

               松平下総守
○ 浦賀表へ異国船が渡来したので、御暇を下されるので
 早速出発し、富津の陣屋へ行き松平大和守と相談して
 警備、其外諸事に油断なく行う事申付けられた

 右は今晩伊勢守宅において銘々申渡の書付を渡された。
 老中列座はなし
○青山下野守様御渡  大目付へ
 浦賀表江異国船渡来ニ付、同所最寄領分之万石以
 上之面々、浦賀奉行より案内次第領内海岸等え為
 固差出置候人数を以、出張候様可致旨可被相触候
 六月二日
 右御書付左之面々え拾通ニて達
 大久保加賀守  米倉丹後守   阿部駿河守
 黒田豊前守    酒井安芸守   稲葉兵部少輔
 森川紀伊守    水野壱岐守   林 播磨守
 保科能登守
○青山下野守様御渡  大目付へ
浦賀表え異国船が渡来したので、同所最寄領分の万石以
上の面々は領内海岸等へ出した警備人員を浦賀奉行
より案内次第で派遣するよう触れる。 
六月二日
右の御書付を左の面々へ拾通で通達する
大久保加賀守   米倉丹後守   阿部駿河守
黒田豊前守    酒井安芸守   稲葉兵部少輔
森川紀伊守    水野壱岐守   林 播磨守
保科能登守

御暇下さる:用例としては大名が国許へ帰るとか、旗本出張で江戸の藩邸を離れる事を幕府が
        許可する時に使われている
大久保加賀守:相州小田原藩11万3千石、米倉丹後守:武州金沢藩1万5千石
森川紀伊守:下総生実藩1万石:黒田豊前守:上総久留里藩3万石 
酒井安芸守:安房勝山藩1万2千石、 稲葉兵部少輔:安房館山藩1万石
水野壱岐守: 安房北条藩1万5千石、林播磨守:上総請西藩1万石 

保科能登守:上総飯野藩2万石


45
帰帆通告に先立って警備船の用意及び薪水・食料の供給    戻る

○去ル三日北御番所ニて廻船方菱垣船屋共え左之通
此度松平大和守浦賀表え相越候ニ付、五大力五十
艘・三百石積五十艘、同人より差図次第、無差支
様可差出候
右之通ニ付永代辺等ニ右船数相揃置、夫々役当申
付有之候よし
          六月四日
 
○異国船之義兼て風聞之通、薪水追々御積渡シ
昨日鶏も御積入ニ相成候由、出帆ニも可相成と奉存候
處、昨日御奉行所より急ニ当湊江居合之船之内、千石
以上之大船御役船ニ相成、右船え御奉行・松平下総守
様・松平大和守様御備船ニ相成様子、昨今御奉行所
より下荷御積入、大筒御積立ニ相成、異船間近え乗廻
し候風聞如何相成候哉、 昨日上方入津、熊野沖合
ニて異国船見請候旨注進の噂、尚又小田原大久保
様より豆州・大嶋・相模之間へ三艘相見候趣、御注
進御座候噂、何分大騒動尤異船より追々願立
候品御手当御座候噂、追々水積方被仰渡候中余
者後便可申上候、以上
      六月四日
○去ル三日北御番所から廻船に付菱垣船屋へ
左の通
此度松平大和守の浦賀表へ出馬につ付、五大力
五十艘・三百石積五十艘、同人より差図次第、
差支えなく差し出す事
右の通なので永代辺等に右船数を揃えて置き、
夫々の役割を申付けるべし
              六月四日
 
○異国船に付き兼て風聞の通り、薪水を段々積渡し
昨日は鶏も積込の由で出帆になると思われていた。
所が昨日奉行所より急に通達で当港へ居合る船の
内千石以上の大船は御用船になり、右船は御奉行
松平下総守様・松平大和守様の警備船に成る様子

昨今御奉行所により積荷を下ろし、大砲を積込まれ
異船の近くへ乗廻すとの風聞、どうなるのでしょうか。
昨日上方からの入船が熊野沖合で異国船見た旨
注進したとの噂、尚又小田原大久保様よりは豆州・
大嶋・相模の間へ三艘見た由御注進があったとの噂
なかなか大騒動になる様子、さて異船からも段々
要求品物を用意している噂、追々水運搬を命令
されるので、続きは後便で連絡します。以上
              六月四日


一白米  二俵
一ムキ  二俵
一籾   二俵
一鶏   四百羽
一薪杉木 五百本
一水   五千荷
一玉子
一りんご 二カゴ
一瓜   二カゴ
右之通向方無心ニ付被遣候栗浜村船宿一手ニ
て仕送候由、外船持より仕送り候哉、其程不知
但水船ニて仕送り候砌、壱石も入候桶二ツ壱艘
積参候へハ皮の様成物右桶の中へ入候ヘハ
目はたきせぬ間ニ汲上ケ候申事、右仕送り候者 
へ付謝礼ニも候哉、菓子様の物を投ケ候、 御国
のふくへニ菓子様のものにて丸き方ニて火はし様の
ものにて穴を明ケ候もの也、更に味ひなしと云
      午六月七日帰帆


一白米  二俵
一ムキ  二俵
一籾   二俵
一鶏   四百羽
一薪杉木 五百本
一水   五千荷
一玉子
一りんご 二カゴ
一瓜   二カゴ
右の通り相手より無心があり与えるもので栗浜村の
船宿一手に用意した由、外の船主からも送るのかは
不明。
但水を船に送るとき壱石も入る桶二ツを壱艘に積み
行ったところ、皮の様なものをこの桶の中へ入れれば
瞬きもしない間に吸い上げたとの事、又運んできた者
への謝礼でもありましょうか、菓子様の物を投げましが
日本のふくへニ菓子の様な物で、丸くて火箸の様な
もので穴を明けた物です。味はないとの事
      午六月七日帰帆

五大力船: 関東で発達した50-500石積の小回りの効く船で・河川両用
北御番所: 江戸北町奉行、江戸の廻船問屋の管轄をしていたと思われる

51
異国船へ浦賀奉行より退去通達とビッドルの合意    戻る

○弘化三午年六月六日阿部伊勢守様え御届之写
浦賀表江異国船渡来ニ付、松平大和守・松平下総
守昨四日相整候段申越候ニ付、組与力・同心并
手付桜井貞蔵三番船ニ為乗組、大小御鉄砲其外
御武器類積込、異船相固御備場えは兼て据置候
大筒類別て手当仕、私共義も相詰罷有候、今朝
異国船え組之者・通詞差遣、異国人え諭書ヲ以、
通弁為申達候所、奉畏候旨御請書差出申候、
依之明朝出帆仕旨申聞候間此段御届申上候、
弥出帆仕候ハヽ見届船差出、房州洲之崎迄罷越
帆影も相見不申候旨、申聞候ハヽ尚又御届可
申上候、以上
        六月五日   大久保因幡守
                 一柳 一太郎
○弘化三午年六月六日阿部伊勢守様へ御届の写
浦賀表への異国船が渡来に付いて、松平大和守と
松平下総守が昨四日に警備体制が整った旨連絡
ありましたので組与力・同心及手付桜井貞蔵達を
三番船に乗組ませ大小鉄砲・其外武器類を積込み
又異国船警備場所には兼て据置く大砲に加えて
用意して、私共も現場に入っております。 
今朝異国船へ役人達や通訳を派遣して異国人へ
諭書に基づき通訳して通達致しました所、了解した
旨の請書を提出しました。 随って明朝出帆すると
聞いて居り此件お届けします。
いよいよ出帆となれば監視船を出し、房総の洲崎
まで行かせ帆影も見えなくなった事報告あれば
更に又御届します、以上
        六月五日   大久保因幡守
                 一柳 一太郎

○    異国人江諭書御請
 御当国ニおいて外国之通路通商不被為成
 御免候趣、今般以御書付被 仰渡奉畏候
 就ては風順次第早々出帆可仕、此段御請
 申上候
    暦数千八百四十六年
        七(か)月廿七日
         船号ユリユムジエスヒツテン
  右之通和蘭語ニ無御座御書付大意和解仕
  奉差上候、以上
   六月五日

○    異国人の諭書に対する請書
貴国において外国との通行通商をなされず許可
されない方針について今般書付による申渡を確
に受領致しました。
就ては風順次第早々に出帆致します。 
本件了承致しました。
    西暦千八百四十六年
             七月廿七日
               提督 ジェームス・ビッドル
 右の通オランダ語では御座いませんので大意を
 和訳 致し差上げます、以上
  六月五日





61
一触即発事件起る、船問屋の来状          戻る

○ 浦賀船問屋より之来状抜書
異国船今未明帰帆之約定ニて御奉行様え御請之書
付迄奉差上、弥帰帆ニ相成候ニ付引船人足等漁船
え被仰付右御手配有之、一昨日此内被下物為御礼
段歟旁彼船艀船ニて数人計乗参り、御奉行様御
懸候御備船と川越様御備船と取違、川越様御備
船へ乗入候所大筒有之候ニ付、其上に懸ケあり候
むしろを取、異国人一見仕候所、川越様御備船え
異国人参候訳無之ニ付、川越様御役人不審ニ思召
無沙汰大筒え手懸不礼之至り御立腹ニて、異国人
既ニ御打果シ可被成思召之所、異国人共無刀之事
ゆへ外侍衆御差留、異国人ハほうほうニ艀船ニて
元船へ乗戻り

彼船も間もなく大筒狭間ヲカタメ既ニ御取合ニ可
相成様子之趣、浦賀御奉行組与力衆何れも行違之
様子御見懸ケ直様異国船へ御乗移、行違之筋御聞
取相成、漸々右之段相済直之帰帆可致哉ニ被思召
候所、更ニ帰帆之気配も無之今以滞船仕候尤御用
御備船之分御当湊口え御引上ケニ相成異国船近く
船懸り之分湊口え引上ケ相成候浦賀川越忍御三方
とも大船十七艘ニ御座候小船の分未タ異国船近ク
御囲イ有之候、昨朝帰帆之様子ニ御座候へとも
江戸表初近国御大名様方江海陸早打ニ而御飛札
有之、今未明近国御大名様方御人数御繰出しニ
相成別紙絵図之通御陣立ニ御座候、則

平根山御備
   御奉行
    一柳 一太郎様
    大久保因幡守様
    昼夜交代
 外ニ両御奉行様江小田原様より七百人御加勢と
 申事ニ御座候、未小田原A御人数参り不申
 候風聞
平根山下
   米倉丹後守様
     御人数百五拾人
同続浦賀湊口燈明堂浜手
   保科能登守様
     御人数弐百人程
同続鶴崎御備場
   御奉行
    一柳 様  
    大久保様 但し昼夜交代
鶴崎浜千艘浦
   稲葉兵部少輔様  
     御人数百五拾人程
同所続飛井村浜手久里浜村
   酒井安芸守様
     御人数百五十人
三崎より松輪崎・金田村・宮田村・津久井・野比
長沢浜手
    松平大和守様
鴨居村・走水村・御陣屋
    御備場
    松平大和守様
野比・長沢村え
    大久保加賀守様
     御人数御繰出しと申事ニ御座候

大船千石以上、拾七艘
小船六百艘余
    浦賀御奉行様
    松平大和守様
    松平下総守様
    右御三方様ニて御備御囲ニ御座候
○ 浦賀船問屋よりの来状抜書
異国船は今未明帰帆の約束で御奉行様へ了承の書
付まで提出し、いよいよ帰帆となるので引船の人足等
漁船へ手配された。 一昨日下された物のお礼のため
か、異国人がはしけで数人来たが御奉行様の警備船と
川越様の警備船を間違えて、川越様の警備
船へ乗り込んだ。 大砲がありその上に懸けたむし
ろを異国人が取って見た。 川越様の警備船では異国人
が来る訳もないので、川越様の役人は不審に思われたが
断りもなく大砲に手を懸けるとは無礼なり、と怒って異国人
を切り捨てようとした。 異国人は武装していないので外の
侍衆が押留め、異国人は漸くはしけで本船へ戻った。

彼船も間もなく大砲を打つ準備をして今にも武力衝突に
なりそうでした。 浦賀奉行の与力衆は皆この行違いの
様子を見ていたので、すぐさま異国船へ乗移り行違の旨
説明して漸く此件は終わったので、直ぐに帰帆するかと
思われたが、帰帆の気配もなく今も滞船しております。
しかし警備指揮船は港口へ引き上げ、異国船近くの船
は皆港口へ引き上げましたが、これらは浦賀川越忍の
御三方の大船十七艘です。 小船の方は未だに異国船
近くを囲っております。 昨朝帰帆の様子では御座い
ましたが江戸表初め近国の御大名様方へ海陸の早飛脚
があり、今日の未明に近国の御大名様方人数が派遣され
別紙の図のような警備布陣になっております。 即ち

平根山御備
   御奉行
    一柳 一太郎様
    大久保因幡守様    昼夜交代
 外に両御奉行様へ小田原様より七百人御加勢との事
 ですが未だ小田原から人数到着していないとの風聞
平根山下
   米倉丹後守様
     御人数百五拾人
同続浦賀湊口燈明堂浜手
   保科能登守様
     御人数弐百人程
同続鶴崎御備場
   御奉行
    一柳 様  
    大久保様 但し昼夜交代
鶴崎浜千艘浦
   稲葉兵部少輔様  
     御人数百五拾人程
同所続飛井村浜手久里浜村
   酒井安芸守様
     御人数百五十人
三崎より松輪崎・金田村・宮田村・津久井・野比・長沢
   浜手
    松平大和守様
   鴨居村・走水村・御陣屋
   御備場
    松平大和守様
   野比・長沢村江
    大久保加賀守様
     御人数御繰出しと申事ニ御座候

大船千石以上、拾七艘
小船六百艘余
    浦賀御奉行様
    松平大和守様
    松平下総守様
    右御三方様で異国船を警備して囲んでおります

上記警備体制は六月六日朝の状況と思われる

62
浦賀奉行の緊急手配                 戻る

○六月五日浦賀奉行御差図書写、左之通
 兼て申達候通異国人え今日帰帆之義申達
 候所、少々存意有之趣ニ付、此上之時宜ニ寄異
 変 之義難計ニ付、其表詰人数早々浦賀表え出
 張可被致候、着次第可及差引候、此段早々
 申入候、以上
   午六月五日     一柳 一太郎
               大久保因幡守
    酒井安芸守様
○六月五日浦賀奉行の差図書写、左の通
 兼て通達の通り、異国人へ今日帰帆を申し入れた
 ところ、少々考える事がある様で今後場合によっては
 異変の可能性もあります。 そちらで用意している
 人員を早々浦賀表へ出張させられたし、到着次第
 差図します。 此件至急申し入れます、 以上
   午六月五日        一柳 一太郎
                  大久保因幡守
    酒井安芸守様

○ 六月六日御用番阿部様え差出
 異国船浦賀近辺え滞船罷在候付、私領分上総
 国青木浦え差出置候固人数、浦賀奉行大久保
 因幡守より昨五日酉ノ刻過案内有之、不残浦賀
 燈明台え地所請取相詰申候段、浦賀え出張
 仕候家来共より申越候間、此段御届申上候、
 以上
    六月六日      保科能登守

○ 六月六日御用番阿部様へ差出
 異国船が浦賀近辺へ滞船しているので私領分の
 上総国青木浦へ警備人数を出して居りますが、
 浦賀奉行大久保因幡守より昨五日夕6時に指示
 あり、残らず浦賀燈明台へ場所を請取り守る事を
 浦賀へ出張した家来から言ってきました。 
 此件御届します、以上
     六月六日      保科能登守










63
中島三郎助私信                     戻る

○ 去閏五月廿七日四ツ時頃渡来異国船略書
一大船人数八百人船長サ五拾間余、五貫目以上之
 大筒八十三挺、小筒八百挺、船五段ニ相成鑓剣
 之類数不知
一小船人数弐百人、船長サ弐拾五間余大筒弐拾壱
 挺小筒二百挺余、其外武器大船之通り三段ニ相成
 右之船者北アメリカ之内バヂトンと申所之船
 ニて昨年参候船之隣国之由ニ御座候、船中器
 財、其外種々広大紙筆ニ難尽、扨々驚入候
 仕合奉存候
一私義廿七日鶴崎御備場え罷出、廿八日相固候所
 御奉行より御差図ニて御宿所御固私え廿九日
 より出張、昼夜少も寝候事出来不申、同五日交
 易御断ニ相成退帆被仰付候所異船之方より故障
 を取拵出帆不仕、其日は一統討死と覚悟仕候
 三手より廻船千石積余之船十六艘え大小之筒を
 備、相固候へ共、異船共日本之城より厳重ニて
 中々幾艘当方より出張仕候ても叶候義は無御座
 候、只々君恩を報、討死とのみ相極申候所、漸翌
 六日昼頃出帆ニ相成大慶奉存候、猶々申上度候
 へ共只今帰宅、少しも筆を持候事も出来不申御
 察可被下候
   小田原  米倉   酒井
   稲葉   保科   其外三手

右各野陣を張、篝等を焚、前代未聞筆紙ニ難
尽奉存候、此程御出之御両人え甚失礼、宜御詫
可被下候
            六月九日夜   三郎助拝
   喜左衛門様
三郎助出宅之節辞世之由
  涼しさや鉄砲雨のしのをつく
○ 去閏五月廿七日十時頃渡来の異国船概要書
一大船は人数800人船長サ50間余、5貫目以上の
 大砲83門小銃800挺、船五段構造で鑓剣類無数
一小船は人数200人、船長サ25間余大砲21門
 小銃200挺余、其外武器大船の通り三段構造、
 右の船は北アメリカの内ボストンと云う所の船
 であり、昨年渡来した船の隣国との事です。船中
 器財、其外種々巨大で紙筆で書き尽くせない
 程で、唯々驚くしだいです。
一私は廿七日鶴崎の警備場へ出て廿八日も備えて
 いましたが御奉行よりの差図で御宿所の警備を私に
 命令され、廿九日より勤務して昼夜少しも寝る事も
 できません。同五日交易を御断りになり、退帆を
 申付けられたところ、異船の方より故障を言出し出帆
 しません。 其日は一筋に討死と覚悟しました。
 三手より千石積余廻船十六艘に大小の筒をを用意
 して武装しましたが、異船は日本の城より堅固であり
 何艘で当方より攻撃しても適うものでもありません
 只々君恩に報い討死するだけと決心していましたが
 漸く翌六日昼頃出帆する事になり大いに喜んで
 おります。 猶々申上げたい事もありますが、今帰宅
 して少しも筆を持つ事も出来ません事お察し下さい
   小田原  米倉   酒井
   稲葉   保科   其外三手

右の諸家が野陣を張って篝火等を焚き前代未聞で
筆紙に尽せません。此程御出の御両人に大変失礼
致しましたが宜しくお詫びして下さい
            六月九日夜   三郎助拝
   喜左衛門様
三郎助が出宅の時の辞世との事
  涼しさや鉄砲雨のしのをつく

中島三郎助:(1821-1869)当時浦賀奉行所与力見習、父中島清司は主席与力として
         ビッドルと交渉した。 ペリー渡来時は与力として活躍、その後軍艦建造に尽す 
         戊辰戦争では榎本軍に属し函館で戦死。
船の大きさ: 米海軍艦船辞典によればコロンバス号長さ58m, 幅16.3m、2,480トン、定員780名、
    大砲90門。 ビンセンス号長さ39m、幅10.3m、700トン、定員80名,大砲18門。 当時の
    日本の千石船長さ20m前後、幅7-8m、100-150トン。 随って千石船16艘集めてもコロンバス号
    壱艘分に満たない位の規模の差があり、大砲に到っては通常千石船には備えていない。

71
異国船去る、ビッドルの帰国            戻る

○ 六月七日
 今朝五ツ時過八幡網元注進申聞候ハ滞船之場所
 より異船弐里程引船ニて引出候由
 同四ツ時異船三崎鼻へ弐艘とも引出申候由、八幡
 御陣屋より申来ル
 弥帰帆ニ相成是より穏ニ相成可申と恐悦至極奉存候、
 早船ニて御注進有之候ニ付、当番中略文宥免書抜
 申上候、 以上
○ 六月七日
 今朝八時過八幡の網元が注進してきた事は滞船の
 場所 より異国船を弐里程引船で引き出した由です
 同十時には異国船を三崎の鼻へ弐艘とも引出ました
 との事、 八幡の陣屋より連絡あり、 いよいよ帰帆と
 なり以後穏やかとなると大変喜ばしい事と思います。
 早船で注進がありましたで当番中ですが略文書き
 抜き申し上げます、 以上

○ 異国船昨七日巳上刻野比浜沖出帆、午中刻弐
 艘共巳午之間え走、昼時頃大之方酉ノ方、小之方
 未申之方え走候所、今朝ニ相成ては弐艘共帆
 影も相見不申候段、為見届差出候家来之者罷
 帰申出候、此段御届候、以上
      六月八日       松平大和守


○異国船は昨七日朝十時野比浜沖を出帆、正午前
 に弐艘共南南東へ走り、昼時頃大船は西へ小船の
 方は南西へ走っていましたが今朝に成ると弐艘共帆
 影も見えなくなりました。 見届けの為行かせた家来
 の者が帰って報告致しました。此件御届致します、
 以上
         六月八日       松平大和守
 


○ 六月九日
  昨日御届申上候渡来之異国船最早致退帆候
  ニ付、浦賀表江出張之人数勝手次第引払可申
  旨昨夜大久保因幡守より家来呼出申越候間、則
  今朝人数不残同所引払、且私領分上総国
  青木浦海岸固人数儀引払申候段、在所家
  来共より申越候間、此段御届申上候、以上
      六月九日       保科能登守
 


○ 六月九日
 昨日御届申上ました渡来の異国船は既に退帆致した
 ので、浦賀表へ派遣の人数は勝手次第引払って
 良い 旨、昨夜大久保因幡守より通達されました
 随って今朝人数を残らず同所から引払、且私領分
 上総国青木浦海岸の警備人数も引払いました事を
 在所の家来達から報告が参りました。 
 此件御届申上ます、以上
       六月九日       保科能登守

1.八幡網元注進: 八幡警備は阿部駿河守の担当故、同藩内連絡書の抜書きと思われる
2.松平大和守と保科能登守の報告は老中宛