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                        日米一触即発を回避
                   
 ー 弘化3年ビッドルの浦賀渡来ー   


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 ペリーが米国大統領の国書を携え4隻の軍艦で浦賀に来航して開国を迫ったのは1853年であるが、それより7年前1846年に米国のジェームス・ビッドル(James Biddle,1783-1848)が軍艦二隻で浦賀に来航している。 この時の記録が弘化雑記第九冊(内閣文庫所蔵)に管轄窓口である浦賀奉行の対応及び江戸湾を警備する近隣諸大名の注進・報告、浦賀与力の私信、船問屋・名主など民間人の文書、風聞、幕府決定機関である老中から奉行や諸大名に対する指示等が順不同で多数収録されている。 今回はこれらの記録の中からいくつか選んで当時の状況を整理して見た。
右の画像はビッドルの旗艦コロンバス号を描いたもの(国立公文書館所蔵)

 1.ビッドル渡来の背景
   産業革命を成し遂げた欧米列強は製品の市場を求めてアジアに殺到した。 1830年頃から生産力が急速に拡大した米国も市場を求めて中国との通商条約締結に続き、日本とも同条約締結の交渉する事を広東駐在の全権大使に指示した。 この政府指令書を託されたビッドルは1845年6月4日米国ニューヨークを出発している。 ビッドルはコロンバス号(2,480トン、艦長トーマス・ワイマン)とビンセンス号(700トン、艦長ハイラム・ポールディング)の2隻のミニ艦隊の提督として喜望峰を廻りその年の12月末に広東に到着する。 しかし指令書を渡すべき全権大使のキャリブ・カッシングは既に帰国しており、後任のアレクサンダー・エベレットが病気のため、ビッドル自身が代わってカッシングが結んだ中国との通商条約の批准書を取り交わし、続いて1846年7月7日に日本へ向かい、同7月19日(弘化3年閏5月27日)浦賀付近に到着する
参考:Naval Historical Center Home Page (米国海軍公式ページ)

2.幕府の初動体制
  日本近海では弘化3年閏5月23日に浜松沖辺で二隻の異国船を見た、と云う情報が浦賀入港の国内廻船により浦賀奉行所へ閏5月26日に届けられ、浦賀奉行から幕府老中へその旨報告している。 27日朝十時頃にはこの二隻の異国船は浦賀方面に侵入して来たので与力、同心、通訳などを異国船に派遣した旨奉行より老中へ再度報告。 一方27日には江戸湾の三浦半島側を警備している川越藩、房総側を警備している忍藩及び沿岸の諸大名から異国船が現れたので夫々自領の浜辺に警備の陣を張った、との注進情報が洪水のように幕府老中に押し寄せる。
史料: 
   浦賀奉行より老中へ報告(附民間船頭からの報告聞書)
   警備の諸大名及び沿岸諸侯からの異船発見の御届
  
.浦賀奉行の調査
   27−28日には浦賀奉行所の調査によりビッドル艦隊は2艘のアメリカ船であり、大量の武器を保有しているが武力攻撃の意図はなく、目的はアメリカが最近中国と結んだ通商条約と同様に、日本とも通商路を開く交渉に渡来した事が分りその旨を老中に報告している。 この時通訳として堀辰之助が英語も分るオランダ語通訳として参加しており、ビッドルの要求の和訳も行っている。 沿岸諸侯も独自に情報収集をしており、網元からの情報など集めている
史料: 
    浦賀奉行より異国船調査報告(附要求の和訳)
    諸候の調査、網元からの情報

4.幕府老中の決定、奉行への指示
 
   弘化3年6月2日幕府より浦賀奉行へ指示が出され、薪水及びある程度の食料を与え立ち去らせる事、幕府の通商拒否の基本方針を書付で渡す事、なお通告に際しては不測の事態に備え、警備主力の川越・忍藩の警備体制が十分整ってから申渡す事などが記されている。 同時に川越、忍藩には藩主が陣頭指揮する事を命令し、又大目付を通して沿岸諸侯へも警備指示と浦賀奉行の指揮に随う事などの触れを出している
史料: 
    浦賀奉行への通達三通及び異国人への諭書
    老中より諸侯へ警備体制指示

5.警備船調達、水食料の積込
  老中の方針を受け、薪水・食料をアメリカ船に供給する一方、近辺の港に居る千石以上の民間船を奉行、川越、忍藩の御用船として徴用し、大砲を積み込むなどの準備を整える。 下に示す資料は何れも船問屋筋や名主筋からの情報の抜書きと思われる。
史料: 
    通告に先立ち警備船の用意及び薪水・食料の供給

6.ビッドルへの通告、ビッドルの回答
  弘化3年6月5日朝、川越・忍藩による浦賀警備体制も整ったので浦賀奉行は国法を盾に日本は交易の意思が無い事伝えビッドルへ退去を通告するが、ビッドルも日本側の真摯な対応と固い警備体制を見て通告を了承する文書も出した。 翌六日早朝には艦隊も去ると聞き、関係者もホッとしたようだが問題はこの後起った。
史料: 
    浦賀奉行両人の御届書および異国人の御諭書に対する請書

7.一触即発事件
  ビッドルは帰帆を前に薪水・食料など提供を受けた事に対し、浦賀奉行へお礼の挨拶のため艀に数人乗り、奉行の船を訪問しようとしたが間違えて川越藩の指揮船に乗り込んでしまった。 川越藩としては全く予期しない異人の訪問であり、通訳が居るわけでもなくふとした事から川越の一役人が刀を抜きビッドルを切り捨てようとした。 しかしビッドル側が無防備であるため川越側もその役人を押留め、その間ビッドルは本船へ戻り大砲発射の準備を指令して将に武力衝突になろうとした。 浦賀奉行の与力達がこの行違いに気付き、直ちにコロンバス号に乗り移り誤解を解くように努めたがビッドルの怒りは直ぐには収まらなかったようであり、浦賀奉行も直ちに近隣大名の警備陣を浦賀に集中させる指示を出している。 又後にペリー来日時に活躍する中島三郎助は当時与力見習だったが、彼の手紙でも討死を覚悟したとあり、6月5日は緊迫の一日だったようである。
史料:
     浦賀船問屋よりの来状抜書
     浦賀奉行の緊急指令
     異国船渡来趣手紙(中島三郎助)

8.ビッドルの帰国
 結局、浦賀奉行の与力達が説得に努力したのでビッドルもこれを受け入れ、浦賀奉行も無用のトラブルを避けるため奉行・川越・忍の大形の警備船全てを艦隊周辺から離し、浦賀湊口へ引き上げさせた。  艦隊は弘化三年6月7日早朝、びっしり取り囲んだ小船に引かれ停泊していた野比を去る。 6月8日には帆影も見えなくなり、浦賀奉行も八日夕方には諸家の警備態勢を解散する。
史料:
    引船による報告、 松平大和守帰帆見届の報告など

     あとがき  
 これは米国として初めて正式に日本へ開国・通商を求めた事件であり、結果は米側の失敗に終わったが更に日本を良く研究したペリーが七年後に国書を携え蒸気船を率いて浦賀に現れ、終に日本は開国する事になる。 一方日本ではこの事件で彼我の火力や艦船の差を見せ付けられ、大船建造や洋式武器の取入れ環境が醸成され、 ペリー来航後幕府は直ちに大形船建造を決定し、中島三郎助はじめ浦賀奉行の与力達に軍艦建造のプロジェクトを推進させた。 この国産第一号の洋式軍艦鳳凰丸は1854年に完成する。 しかしその時は既に世界は蒸気船の時代になっていたためか、余り高く評価されなかったようであるが、その後の日本の造船技術の発達に受け継がれたと思われる。 


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