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           文化三年ロシア船カラフトを襲う
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                       松前藩の注進
  蝦夷乱妨始末 カラフト島
 松前若狭守家来のものより支配向迄差越候書写
 以飛札申上候、然は寅九月上旬比、異国船一艘唐太
 之内東之方クシュンコタンと申處江、橋船にて数
 多上陸、何之訳も無く番人小屋江鉄砲打懸、番人共
 是に驚候内、無理に引立、大船江不残連参候趣、当
 三月四日、同所支配人元締徒格柴田角兵衛、ソウヤよ
 り出船仕、唐太シラヌシ江着船仕候處、同所乙名蝦
 夷アシニケより申達、右船江連参候番人名前
  富太郎 酉 蔵
  源 七 福 松
 右四人、書面之通御座候由、外に兼て同所蔵々図合
 船等に至まで不残焼払、夫より出船仕、同十一月下
 旬頃まて唐太沖に相見、其後相見不申由、西トンナ
 イ越年番小屋のもの共、元締角兵衛まて申達、猶又
 三月十一日、唐太、西ショウニと申所之沖に、右之大
 船走通候段、同所蝦夷共申達候付、同月廿四日元締
 角兵衛ソウヤ江着船仕、翌廿五日出之飛札、昨暮六
 時到着仕候付、此段申上度如此御座候、以上    
    四月七日
               新井田嘉藤太  
               新谷六左衛門
               高橋又右衛門
               工藤清右衛門
  原 半左衛門様 寺田忠左衛門様      
  山田 理兵衛様 深山 宇平太様



*文化三年九月上旬頃異国船一艘が
 渡来してクシュンコタンの番小屋襲う
 番人四人が拉致される

*文化四年三月四日に松前藩より
 元締がカラフトに戻り、シラヌシで
 この事実知る
*拉致された日本人番人名



*文化三年十一月

*文化四年三月十一日


*三月廿五日宗谷より飛脚を立て状況
 を藩庁に報告し、四月六日午後六時
 松前藩庁で受取る 
*報告者:松前藩家来〔松前にて)



*宛先:箱館奉行支配役
面々
roko02 
                      真鍮版に書かれた文          戻る
               
  真鍮版図省略其訳文云
 一千八百六年十月廿四日、ロシヤのユノナといへ
 る船に舶司の官たるホヲシトフ駕し、自らサハリ
 ン島及其土俗等をして、至恩のロシヤ皇帝第一世
 アレキサンドルに服従せしむる事を得たり、其証
 として、アニワ湾の西岸に居る土俗に、銀のメダリ
 を与ふ、此地ロシヤ領は勿論、他国の領地と雖とも
 此ロシヤ船至りし所の土俗は、ロシヤの属下た
 らんことを乞ふ、因て此徒には即此書に印章を押
 て以て与ふ、  


異国船はカラフトで略奪の後に左の内容
を記した真鍮版を残す。 
*文化3年9月13日
*船名:ユノナ号(ロシア船)
*責任者:ホヲシトフ
*土俗: カラフト在住のアイヌ
以上出典 通航一覧
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             文化四年ロシア船エトロフを襲う    戻る
津軽家書状写
一エトロフ詰御人数六拾七人之内拾壱人病死、
 卯六月十三日迄三拾壱人箱館着有之候内、
 諸手鳥居崎友弥・御城付足軽佐々木小兵衛両人
 同十四日夜呼出、横島弥太郎、工藤氏助、佐野
 賢次郎立合エトロフ始末之申出左之通り、
 尤残り弐拾五人之御人数も追々帰着之筈、
 壱人も怪我無御座候旨申出候

一卯四月廿四日夜五時シャナ御陣屋より早飛脚到着、
 蛮船弐艘来り候由注進ニ付、即刻関屋茂八郎、南部
 様并此方御人数拾五人引連、五大力と申船手船壱艘
 御図合船弐艘江惣人数乗込走出候処、廿五日ルベツ
 江着、廿六日ツルベツ江着候処、船乗合之夷不残
 山江逃候由、酒もたばこも望無御座、赤賊恐敷由之
 口上ニ而、漸々たまし乗合申付候内、先ニ乗候五大力
 
 ト申船戻り参り、関屋茂八郎申候者、只今同席児玉
 嘉内ナイホ江注進承候処、赤賊同所江打入候而南部
 御雇之番人五人、夷七人生取、会所夷屋焼払候間、
 一統シヤナ之御陣屋江引取、同所相固候様早速ニ
 漕戻り候処、廿七日夜、関屋茂八郎之乗合五大力ハ
 シャナ江着、此方御人数者廿八日シヤナ江着、
 尤此方御陣屋場所不宜候間、公儀御陣屋江一所ニ
 相成候様ニ付、武器并白米百三拾俵御陣屋江取越、
 出崎出崎江者幕打、夜ハ篝火焚候而厳重ニ守候處、
 
 翌廿九日朝二十里斗沖ニ赤賊船見へ申候
 夷人申候得とも、人数抔之目ニ者見へ兼候、折節大東
 風ニ而、日本船抔ハ沖之潟口江も寄付兼候大風ニ
 御座候由、 昼九ツ時頃ニ相成、三里程沖迄参候、
 此方何れもの目ニも見へ候船之形、大船者三千石位
 ニも哉、小船者千石位ニも哉、帆柱三本江貫弐本通し
 帆三つ懸り向東風かまわず両艘並び入津いたし候
 
 公儀御陣屋江南部・津軽人数江入込相堅申候、
 此方御人数者シベトロ、モヨロ両所江手合候故、シャナ
 ニ者廿七八人居候、内病人七人もの飯料持せ深山江
 引取セ申候、本陣ニ者斎藤蔵太、三橋要蔵罷在下知
 仕、門外江鉄砲組備操候者ニ者
 鎗手  鳥居崎友弥   御城付 佐々木小兵衛
 同    長内友之丞  御持筒 森山  吉郎
 御長柄 小野 幸吉   大組  八代  留弥
 ?之者 長尾 伝吉      工藤  唯七

 其外者卿夫ニ而鉄砲相掛不申、南部よりも廿人斗出候
 公儀御役人者壱人も加り不申候、無程大船壱里半程
 沖ニ罷在、小船千石位みなと江寄と見へし内端船
 三艘江赤賊弐拾人斗り乗合、岸江寄セ鎗六七本
 立候間、其侭右鎗ヲ臥セ大筒壱挺天ニ筒先を当ニ
 空江打放し申候、此節 公儀御役人町見方間宮
 林蔵遠目鏡ニ而見候而、只今赤賊上陸致候間、早ニ
 人数御差向可然旨、頻ニせきたて申候へとも、大将分
 戸田又太夫申分ニ者、若交易等之願ニ寄参り候も
 難斗間、決定之上打砕可申由申候処、間宮林蔵申候
 ハ最早御大事ニ及申候、此末如何様之義出来候共力
 ニ及不申候、勝手次第可被成候旨ニ而、大キニ嘆息
 被致候由
 
 公儀会所大通弁要助と申者呼出、此者南部大畑
 出生ニ而通事頭取被 仰付、七年以前より在住、
 委細之訳聞届参可申旨ニ付、上下七八人外ニ夷人
 拾人位相添参り候處、此内ニ赤賊上陸、陣屋門外
 足軽詰所より八拾間程要助参り候処、赤賊とも厳敷
 鉄砲打懸ケ追来候、同人股打抜たをれ候処夷人共
 肩に懸逃帰り夷人之内壱人打殺され申候、此磯上ニ
 鱒之油しほり申候小屋御座候、同所江赤賊二拾人
 斗り鉄砲持、外ニ車仕懸之大筒壱挺引入、鱒小屋を
 楯ニ取陣屋江打懸ケ候、 鉄砲板屋を通丸雷の如く
 ニ而御座候、此方よりも打候得共八拾間程之処殊ニ
 三分五厘玉ニ而花火の如く釣合不申候へとも只今ニ
 打申候、赤賊壱人打倒之申候様見江候得共
 小屋江引入候故相分り不申候、其内沖之大船より
 大筒打放し申候、  公儀会所之玄関口斗江打放
 申候、丁場懸ニ御座候得共、石火矢故玄関之破風・
 門扉打砕候、 むしり候様ニ相成申候、此方ニ者
 怪我無御座候、右大筒玉見候処、鉄壱弐歩之切玉
 にて細糸縄ニ而巻付円形ニ仕候
 
 鉄砲せり合九時頃より七時迄、此節亦赤賊鱒小屋江
 火ヲ懸ケ端船ニ乗移大船江乗入合戦相止メ候得共、
 番兵と相見端船之内ニテ鉦ヲ鳴らし申候、合図と相見
 沖之之大船より一二息之内ニ石火矢ヲ打懸ケ申候

一即日此方足軽不残御陣屋より七八丁之山江参り、
 若赤賊上陸致し候ハヽ打留可申と、右山上ニ罷在候内
 暮ニ及候得共船よりハ大筒時々打放、鉦を鳴らし申候
 ??子のほり之大山江響渡り、百千の雷落懸様ニ而
 御座候、
 然ル所今朝より 食事不仕候間、余り空腹ニ相成候間
 御本陣江帰り候処、高提灯数多立置、篝火焚て白昼の
 如くニ仕、公儀御役人衆初南部之御人数も間道を
 急落去候ト相見へ、人壱人も無御座候、
 依之御陣屋江参り候処斎藤蔵太・小野幸吉罷在候而
 此方之御陣屋江火を懸ケ焼払、惣勢引連陣払仕候而
 公儀御陣屋ニ其侭残居候玉薬尚又赤賊江打懸ケ、
 其夜シャナより壱里山奥之新道切開キ置候アリムイと
 申所にて御人数一統寄合、何れも米少々宛持参、
 食事仕翌五月朔日ルベツ江着、

 右アリムイよりルベツの山中ニ而戸田又太夫切腹仕
 候由、 間宮林蔵申出候節早速御人数差遣候へ者
 赤賊上陸ハ被致間敷処、欠談おそなハり赤賊上陸ニ
 相成ふかく落去候躰ハ申訳難相成と相見申候、
 年者三十五位にて御座候

一右落去候跡江翌日赤賊乱入、米酒を奪取船ニ積入
 酒ヲ呑歌様之事うたひ、大キにたのしミ引取候様子
 ニ而御座候、 其内船ニ乗りおくれし赤賊シャナにて
 壱人、アリムイにて壱人夷人打殺、衣類鉄砲胴乱
 奪取り 公儀会所江差遣候由、右鉄砲ハ箱館にて
 佐々木太右衛門江御預ケ也
 
 右鉄砲玉目六七匁筒丈弐尺四寸位ねちなし、玉至て
 薄巻候火皿火縄杖柄かと石杖、何れもれんしやく付
 腰ため斗りの様子、とうらんの内に日本木綿ニ而
 赤黄黒白のぬか袋の如きもの十ヲ斗、右不残
 硝煙入と相見申候、とうらんの皮拵堅実ニしてあをり
 位之袋、外ニすためんの赤頭巾壱ツ其くさき事論なし
 鉄砲之内よふやくほせり出し候処玉出候、今へき石の
 様の小石三ツ四ツ口網の如きものにて能々巻、油堅メ
 相見申候、雀鳥なと打にも可然哉、若又よハさを示の
 経略ニも哉御沙汰奉願候

一赤賊甲冑なし、下着黒皮、上着びろうど不残鋲メ
 かけはしり自由ニ御座候へ共、若つまづき候へバ起
 上り候事相成不申候様子、上陸さへ致居候へバ
 とらへ能候半哉

一足軽共三日絶食、途中サストリ・タヒエス江の類喰候
 黒米をやうやく求、陣笠ニ而炊キ給申候、途中の千苦
 万苦、 誠ニ不便至極ニ御座候由

一ナイホ江乱入候節生取日本人者其侭舟ニ置、蝦夷人
 も日本髪相成候間、不残肌江手入、惣身毛御座候ヘ
 ハ放し返し、毛無ハ日本人ニ御座候由ニ而船中ニ
 留置、長崎にての遺恨覚しかと、日本詞にて申候由、


津軽家の書状から
○エトロフ派遣部隊67人の内11名病死し、
 文化四年6月13日迄に31人箱館帰還しました。
 その中の鳥居友弥・佐々木小兵衛の2名を呼び
 横島弥太郎、工藤氏助、佐野賢次郎立会いで
 エトロフの状況を聞きましたので、以下報告
 します。 尚残り25人も近く帰着する筈 怪我
 人は一人も居ない事連絡してきております。

○文化4年4月24日夜8時シャナの陣屋へナイホ
 から早飛脚が到着、異国船二艘渡来報告あり
 即刻奉行下役関屋茂八郎が南部勢と津軽勢
 15人引連れ、五大力船一艘と図合船二艘で
 出発し、25日ルベツへ到着しました。

 26日フルベツで同乗蝦夷人達が全員が山に
 逃げた由です。 ロシア人が恐ろしく酒もたばこ
 も要らないとの事でしたが、、何とか説得し連れ
 戻しました。 
 
 そこで先に出た五大力船が戻って来て、関谷
 と同席の児玉嘉内からの報告で、ロシア人が
 ナイホに上陸し、南部藩の番人5人と蝦夷人7人
 が生捕られ、会所やアイヌの家が焼払われた由
 (今更ナイホに行っても無意味故)全員がシャナ
 の陣屋に引上げ同所を守る為、直ちに漕ぎ戻り
 ました
 
 27日夜には関谷が乗る五大力がシャナへ着き
 津軽勢は28日にシャナに到着しました。
 津軽の陣屋は場所が悪いので幕府の陣屋に
 合流し武器・白米130俵を運び幕を張り夜は
 篝火を焚き厳重に警備しました。

 翌29日朝20里程沖にロシア船が見えるが人数
 迄は目には見えぬ由。 折から東風強く日本
 船等は潟口に寄る事が出来ない程だが正午頃
 三里沖迄近付き誰の目にも見えました。 
 
 大型の方は三千石積位、小形の方千石位か
 帆柱3本、貫2本の船で帆を三つ掛け、東風に
 逆らい二艘並んで入港してきました。
 
 幕府陣屋に南部・津軽勢が合流し守りましたが
 津軽勢はシベトロとモヨロにも駐在して居るので
 シャナには27-8人居ますが、其内病人7人あり
 食料を持たせ山奥に避難させました。
 
 本陣で斎藤蔵太、三橋要蔵が指揮を取り、門外
 に鉄砲組として待機している者は左の8名。 
 その他雑役は鉄砲は持たず。 南部勢も20名程
 参加しまたが幕府役人は一人も参加ありません
 
 間もなく大船は1里半程沖に在り、小船千石
 位が港へ近寄り艀3艘に賊20人程乗り岸に
 押寄せ、鎗6-7本立てたのを伏せ、大砲を空に
 向け打放しました。 この時幕府役人の間宮
 林蔵は望遠鏡で見ており、今賊が上陸する故
 早く部隊を出し阻止すべきと、頻りに急き立て
 ましたたが、 大将役の戸田又太夫は交易の願
 か否か不明故、若し交易と明確になれば粉砕
 すると云います。 間宮は既に重大な事態故、
 今後何が起きても協力せぬ、勝手にせよ、と
 嘆息した由です

 (奉行下役が)幕府会所通訳頭の要助を呼び、
 上陸の理由を聞くため、7-8人と蝦夷人10人程
 付けて行かせた。 この要助は南部大畑の
 生まれで、通訳頭を拝命し七年程在住している
 者です。 この間に賊が上陸し、陣屋より150m
 程の所で烈しく鉄砲を打ち掛けてきました。
 要助は股を打抜かれ倒れたところ蝦夷人達が
 肩に担ぎ逃げ帰ってきました。 その時蝦夷人
 
 一人が撃ち殺されました。 磯辺にある小屋に
 賊が20人程鉄砲持参で入り込み、外に車付の
 大砲も引入れ、そこから陣屋に鉄砲打掛けます
 丸が板屋を突き抜け雷の様でした。 此方からも
 打ちましたが150m程あり、しかも3分5厘の玉故
 花火の様で釣合いません。 賊を一名倒した様
 ですがだが小屋に引入れたので分りません。

 その内大船から大砲を打ち、会所の玄関口に
 打ち込み、門扉や破風を砕き毟り取った様に
 なりましたが、此方に怪我は有りませんでした。
 大砲の弾は鉄の切玉を細縄で巻いて円形にした
 ものです

 鉄砲の打合いは正午から二時頃迄で、その後
 賊は小屋を焼払い艀で大船へ引上げ合戦は
 終りました。 番兵らしい者が艀で鉦を鳴らすと
 夫を合図に大船より直ぐに大砲を打ってきました。

○其日直ぐに足軽全員陣屋から800m程の山に
 登り、若し賊が上陸したら打留るべく構えていると
 暮になっても大船から大砲を打ち、鉦をならし
 山に響き雷が幾つも落ちる様でした。
 
 朝から食事をしておらず、空腹になり本陣へ
 戻ったら、高提灯多数立て篝火で白昼の様
 でしたが幕府役人 南部勢ともに間道から退去し
 一人も居ません。 
 
 津軽陣屋では斎藤蔵太小野幸吉が陣屋焼払い
 総勢引連れ撤退する時、幕府陣屋に残る火薬を
 使い更に賊に打掛けました。其後シャナから一里
 の山奥に新道を開いたアリムイで部隊を統合し、
 持参した米で食事をして、翌5月1日ルベツへ
 到着

 アムリイからルベツの山中で戸田又太夫は切腹の
 由。 間宮林蔵の進言通り直ぐ部隊を差向ければ
 賊を上陸させずに済んだのに決断が遅れ、撤退
 する事になり申訳ないとの事、年齢35歳位です。

○シャナ撤退跡に翌30日賊乱入し、米や酒を奪い
 船に積み、酒を飲んで楽しんだ様子。
 中に船に乗り遅れた賊をシャナで一名、アリムイで
 一人アイヌが打殺し、衣類、鉄砲、胴らんを奪い
 幕府会所に差出した由です。 鉄砲は佐々木
 太右衛門預り。
 
 この鉄砲玉は6-7匁、筒2尺4寸位ねじなし、

 
 胴らんの中には日本の木綿で赤黄黒白のぬか
 袋様の物10ばかりあり、全て火薬入れと思われ
 造りは丈夫であおり位の袋。 他にすためんの
 赤頭巾壱つ有りその臭さは例え様がありません

 鉄砲の中よりほじくりだした玉は、小石3-4個網の
 様なものでよく巻き油で固めてある様に見えます
 雀等の鳥を打つものに似ていますが、弱く見せる
 経略でしょうか、御意見を願います
 
○賊は甲冑なし、下着は黒皮上着はビロードで
 全て鋲〆故、 動き自由だが倒れると起き上がる
 事できない様子です。 上陸すれば捉え易いの
 ではないでしょうか

○撤退の途中足軽達は三日絶食で途中サストリや
 タヒエスの類食べました。 黒米を漸く求め陣笠で
 炊いて食べましたが途中の苦労は大変だった由

○ナイホへ賊が乱入し、生捕られた日本人は船に
 留置されました。  蝦夷人も日本髪故一緒に
 捕らえられましたが、 肌に手を入れ総身毛が
 あれば釈放し、無ければ日本人という事で船中
 に留置されました。 長崎の恨みを思い知れと
 日本語で言った由です。
 
roko04                                        戻る  
               ロシア船利尻島で日本船四艘略奪

一リイシリ島ニ而奪取られ候船者
  盤春丸 公儀御船ニ而軍用もの積入之分
  貞昌丸 松前手船唐太之行?
  儀厚丸 此辺の仕入物積入松前町伊達屋誰船
  青龍丸 右同 岡田屋誰船

 右盤春丸江積入候内大筒之内玉目八百目壱挺ハ
 往古太閤様朝鮮征伐之砌、彼地ニ手御手ニ入候
 蛮国物之由
 此度賊将得之而、名作六挺之内なりとて甚悦喜候
 由、殊ニ箱館よりソウヤ江大封御用状を披見大ニ悦
 候旨、鉄砲之儀者無勿体義旁心外之仕合有之段
 小川喜八郎密咄合ニ御座候

一賊船共奪取候品段々積入、過分ニ而積合不申右
 四艘之内器物ハ一段珍敷品ノミ取、大体其侭ニ而
 焼捨候船も御座候由、先右八人之者共申分之由

○利尻島で奪われた船
 盤春丸 幕府公用船、軍用品積込み分
 貞昌丸 実は吉祥丸、松前藩の船、カラフト島行
 儀厚丸 実は宣幸丸、仕入物積む松前伊達商船
 青龍丸 同上、岡田屋商船
 
 盤春丸に積載する大砲の中で800匁玉の壱挺は
 昔豊臣太閤の朝鮮征伐時、現地で入手の洋物
 の由。 今般賊将は是を手に入れ、名品6挺の
 中の壱つであると大喜びの由
。 
 鉄砲は勿体ない事だったと小川喜八郎
 (箱館奉行支配下役)が云って居ります

○賊船は奪った品々をどんどん積みましたが積み
 きれず、四艘の船の中の珍しいものだけ取り、
 後は焼き捨てた船もあったようです。 これは
 八人の者達の咄です
roko05                                                戻る     
                ロシア船利尻島で捕虜8名解放する(津軽家書状から)

一今日私共相揃罷出候様、被 仰付罷出候處、深山宇
 平太殿被仰談候者、異国人去秋唐太島ニ而生取候
 者并先頃エトロフ島ニ而捕候番人共之内、二人相残し
 八人者一昨日リイシリ島より相返し、右之者共江持セ
 候文通ニ者、先年交易之儀相願候所、長崎表江相廻
 候様被仰付候ニ付、同所江使を以申上候処、罷越候
 甲斐無之ニ付、幾重ニも交易之儀御聞済願度、此義
 御叶被下候ハヽ焼払候家迄夫々元之通建直し遣可
 申候、 御叶不被下候ハヽ明春大軍ヲ差向、北側一円
 打取可申と之趣相認、松前御役人中様ヲロシヤとの
 紙向有之候、尚又為対談ソウヤ江可罷越ト之旨ニ有之
 候得共、対談ト唱候儀ハ手段之程も無覚束候間、
 為心得申達候と之旨

一被生捕候者申分ニ者、我等如き下郎共而已捕候ても
 本意ニ叶不申候間、是よりソウヤ江向詰合之内、物頭
 とも可申者一人も生捕申度段、重立候者含有之候、
 然者其方達幸生て帰候事故、必ソウヤニ詰合不申様、
 若同所居候ハヽ厳敷打砕候ニ付怪我可致候旨、
 彼船手之者共より内意之由申聞候旨、内野五郎
 左衛門咄合御座候

一右八人之者帰候節糧米三石、ヲロシヤ国之図一枚外
 ニ国産之物珍敷品二三色呉遣候由、国図認方目を
 驚き候立派なる細図之旨、小川喜八郎咄合御座候

一一昨日宇平太殿被仰談候者、彼等文通ニ応じ返答ニ
 は相願候筋有之候ハヽ、兵器ヲ不持明春唐太島迄参
 候様ニ同所ニ而可為対談候、猶又唯今直談致度候ハ
 ヽ兵器携不申上陸有之候様、左様無之候ニ於てハ忽
 打取可申段申候得共、此返事に今彼船江達不申候、
 何れ近辺江参り候ハヽ可遣、依之此方も平服陣羽織
 に而待受候、 参候ハヽ重立候者を座敷得通し応対
 可致ニ付、御自分方ニも同様之仕度ニ而出席致し、
 如何敷見請候ハヽ早速打取候様、御人数之分ハ飛
 道具等夫々致用意幕陰ニ伏セ置候様ニとの旨

一彼船乗合人数大船の方ハ四拾人余、小船之方弐拾
 人余、 都合七拾人ニ不足之由

一賊将年齢三十四五位之由

一一昨日右両船共同所江乗込、弐里ニも相見候処、
 風順不宜入津相成兼、引返し申候而唐太島江参候
 事ニ相聞候

一異国船より相返し候八人之者江地役弐三人差添、
 小川喜八郎引連、此度箱館表江罷出申候、右
 公儀御役人中被仰談候趣、并風説之模様共大部
 御出状申上候得共、猶又御内意申上候以上
      六月   ソウヤ詰   山崎平蔵

 右書付江相添書状者十日付ニ而御座候、小川喜八
 郎も罷登申候ニ付、飛脚参候を六月廿八日相達申候
 爰元殊の外御用繁に御座候へ共、漸々写取申上候
 御覧被下成候、以上
      七月朔日


以上視聴草より

○今日私達は奉行所に呼ばれて出頭したところ
 深山宇平太殿が言われるには、異国人が昨秋
 カラフト島で生捕った者及び今般エトロフで生捕
 った番人達の中で、二人は残し八人は一昨日
 利尻島で返しました。

 その節彼等に持たせた書翰に寄れば、
 以前(ラクスマン、1792年)交易を願ったが、長崎
 へ行くように云われた。 
 そこで長崎へ使節(レザノフ、1804年)が派遣
 されたが、その甲斐も無かった。
 再度此処で交易をお願いしたい、 交易を認めて
 貰えるなら焼払った家も元通りに建直しましょう
 もし認めないなら、来春大軍を向けて北辺全体を
 襲うとの趣旨が書かれており、 宛名は
 松前御役人様御中、ロシヤより、との由です。 
 
 更に話し合いの為、宗谷へ来ると云う事ですが
 話し合いの内容も不確定故、是は参考のために
 御知らせして置くとの事でした

○捕らえられた者達の話として、彼等の様な下っ端
 ばかり捕らえても本来の目的に合わない。 今から
 宗谷へ行き将校クラスを一人でも捕らえよう、と
 幹部達は考えているので、 お前達は幸に生きて
 帰るが決して宗谷には来ない様に、もしそこに
 行けば烈しく攻撃され怪我する事になるだろう、
 とロシア船の下の者がこっそり教えてくれた、と
 内野五郎左衛門(箱館奉行関係者か)が話して
 いました。

○八人の者を返す時に糧米三石、ロシヤの地図
 一枚他国産の珍しい物二三品呉れた由です。 
 地図の書き方は驚く程立派で精密な図の様です
 小川喜八郎の話です。

○一昨日宇平太殿が言われるには、彼等の書翰
 に 対し返事が欲しければ、兵器を持たずに来春
 カラフト島へ来る様に、そこで話合いをしよう、又
 今すぐ話合いをしたいなら兵器を持たずに上陸
 する様,若しそうでなければ討取る旨云って
 いますが、この返事はロシア船に通じていません
 何れ近辺に来たら伝える事になります。 それで
 幹部を座敷へ通して応対するため、奉行側も
 平服陣羽織で待つので我々も同様な仕度をして
 出席し、もし疑わしい事あれば
 直ちに討取れるように、兵士達は鉄砲等用意して
 幕陰に伏せて置く様にとの事でした

○ロシア船の人数は大船の方が40人余、小船の
 方が20人余で合計70人以下の由です

○賊将の年齢は三十四五歳の由

○一昨日両船は宗谷へ乗込み、弐里程までに見え
 ましたが風順悪く入港は出来ず、引き返しカラフト
 島へ行ったと聞いて居ります

○異国船から戻った八人は地役人二三人付けて
 小川喜八郎が引連れ箱館へ出頭します。 これは
 幕府役人の話です。 追伸します
    六月 ソウヤ詰 山崎平蔵
この書付に添えた書状は六月十日付です、
  七月朔日
roko06                                            戻る  
                        ロシア船からの日本語書状

文化四年リイシリ島より異国人共、エトロフ番人四人
カラフト番人四人差戻し候節遣し候書状、表は横文字
裏へ片仮名にて此通認め有之

近く近所の事に御座候間、下々の者に申付、渡海通商
の事こひねかひに遣し候て、ほうばい同様に寄合吟味
相談の上、通商首尾よく致し候はヽ、誠に仕合に存候へ
とも、度々長崎へ使者を遣し候得共、只返事もなく返され
候故、異変はしめて此元の天下さまよりおきヽしく服立て
通商てもなくは赤人同様に唐太それによつて、最初願ひ
置候へとも、聞受なく、夫故此度此元の手並見せ申候て
きかない時には、北の地取あけ可申候、ならふならは
返事のたよりにてもすみます事に御座候、唐太又は島々
ウルップまて赤人いつてもいかれますによって、追ちら
してやります、又はこひねかひの筋叶はせ候はヽ、末代
こころやすく致たく心掛に御座候、左様無御座候得は、
又々船々沢山に遣し、此ことくに致し可申候
 月日            ヲロシヤ
  松前御奉行様
 
 ヲロシヤ船大将 ミカライサンダラン 三十二三歳
 下役        ヒヤウトロマルキチ 三十
            イハンヘトロエチ  二十五
 船頭        ヒャウトロキワノエチ 三十四五
 商人        ミハラエケミツネユフ 
 小船大将     ガブリウワイワノエチ 二十四
  右弐艘人数都合六十四五人
 七月十二日、高橋三平より来る、奉行へも申達る由也
 翌十三日奉行宅にて写を見る、表をヲロシヤ横文字
 裏片仮名よみにくし

(通航一覧より)










*ロシア皇帝が大変立腹 の意味か

*「此所相分り申さず、カラフトを赤人の
国同様に致すと申事に御座あるべきや
之旨番人これを申す」の註あり
*赤人=ロシア人








*ホウシトフ




*ダウエドフ

*高橋三平、箱館奉行吟味役


goro001                                        戻る
               高田屋嘉兵衛観世丸乗組員証言
             口書
          エトロフ島請負人高田屋嘉兵衛番人
                    長松 申三十六歳
                    外三十一名 連名
      右申口
  私共儀ヲロシアに被押候始末御糺御座候
 此段エトロフ島請負人高田屋嘉兵衛手船観世丸
 江、嘉兵衛并番人稼方共、都合四十六人乗組、当月
 二日シヤナ出帆仕候、同十二日スイシヤウ島に船
 繋仕候處、エトロフ御詰合様より、箱館江之油紙包
 御用状一封、嘉兵衛江御渡に付、クダリ風に而は箱
 館江之出帆も難相成、右御用状は急御用之趣相聞
 候に付、当御会所江差上、是より御差立相成候は
 ば、早々箱館江相届可申と、翌十三日昼頃同所出帆
 仕、翌十四日朝ケラムイ岬を替せ候頃、凡十五六間
 程相隔、図合船に異国人二十人計も乗組、私とも船
 江向漕参候様子に而、大筒之音も相聞候に付、ヲロ
 シヤ人参候と驚見候得者、異国船二艘繋罷在候
 間、沖之方江走出可申と船を廻候付、猶図合船之方

 江近く相成、異国人共よりは鉄砲を打懸、無程漕付、
 帆綱等に取付押上り、各脇差様之抜身を振廻し、又
 候異国之伝馬船一艘、凡二十人計乗込、漕付押上
 り、其節私とも乗組之内、海へ飛込、又爰彼処江
 隠れ候ものも有之、居合候者は勿論、隠候者とも尋
 出、嘉兵衛を始追々縛上げ、船中之刃もの類不残取
 上候て、ヲロシア本船之方江走付、ヲロシア人共に
 而帆を下げ、観世丸は二艘之間江繋き、碇一挺入候
 而、重立候ヲロシア人五人其外乗移、嘉兵衛江何か
 申候趣候得共、相分不申、其内指を七つ計折候而、ク
 ナジリ松前と申候而、死んだと申候付、右者去年ク
 ナジリに而被捕候者共之事にも可有之哉と相察、
 嘉兵衛より、松前に生て居ると申候得共、分らざる
 様子相見申候、夫より嘉兵衛を先に、追々縄をとか
 せ、嘉兵衛はヲロシア船之方江連行、私ともは観世
 丸に差置申候、乗組総人数調候處、与右衛門と申
 者一人、十四日之夜御当所へ罷出候よし被仰聞、残
 九人は海死致し候哉と奉存候、私共を始め残居候
 人数は、嘉兵衛共二十六人に御座候、私とも之橋船

 は皆具取上、異国人とも不残渠等か船江立帰、其後
 またまた嘉兵衛同道に而、重立候もの観世丸江罷
 越、帆仕舞いたし候様、嘉兵衛申候に付、私とも打寄
 帆仕舞いたし、碇も亦一挺入候上、嘉兵衛を連れヲ
 ロシヤ人とも本船江罷帰、翌十五日嘉兵衛同道に
 而、私とも船へヲロシア人とも参、嘉兵衛食事いた
 し度旨申、亦ヲロシヤ人五人江も、飯酒出候様申付
 候付差出候處、両様とも聊つヽ給申候、従者江も酒
 差出候處、見合居候處、頓而重立候者より差図いた
 し候得者、各盃に而一杯つヽ給申候、
       (中略)
  
 当十六日ヲロシア人重立候もの、嘉兵衛
 同道に而私とも船江罷越、乗組之内今四人、ヲロシ
 ア船江乗せ候様、仕形に而嘉兵衛江申聞候得共、嘉
 兵衛存念は、自分一人ヲロシヤ船江乗組、其余は残
 らず相返候様、仕形に而カピタン江強而申聞候得
 とも承引不致、いつれ五人乗組せ候様申に付、嘉兵
 衛も無詮方様子、其上誰々と可申事の難成哉、十方
 に暮候様子之處、船頭吉蔵、水主金蔵、平蔵、文次郎
 此四人は、久々嘉兵衛恩相成候に付、嘉兵衛江付添
 可申とて、乗組候積相成候
       (中略〕
 嘉兵衛外四人ヲロシヤ人とも一同、ヲロシヤ船江罷
 越候に付、右五人之着替夜具手廻之品々、玄米四十
 一俵、味噌三樽、此外遣残り之酢醤油抔、ヲロシヤ
 船江遣候處、彼船より二番明荷一、錠前有之箱一、
 古布子之類五梱、私とも船江差越、右は五郎次と申
 もの之荷物に付、陸江上り候はヽ相届候様申聞候
 付、其侭預り置、御会所江差出申候、
  (後略)
 文化九年申年八月
               長松   爪印
               外三十一人爪印
    御詰合様

          口述書
        エトロフ島請負人高田屋嘉兵衛番人
                    長松 申三十六歳
                    外三十一名 連名
      口述
  私共がロシア船に拘束の始末に付御取調
今回エトロフ島請負人高田屋嘉兵衛手船観世丸に
嘉兵衛及び番人稼方等合計四十六人乗組、当月
二日シヤナ出帆しました。同十二日水晶島に船を
繋いだら、エトロフ御詰合様から箱館向けの油紙包
御用状一封を嘉兵衛に御渡になりました。 

南風で箱館へ行くには時間も掛り、この御用状は
急用の由故、クナシリ御会所へ届け、そこから別便
を立てられれば早く箱館に届くと思い、翌十三日
昼頃同所出帆

翌十四日朝ケラムイ岬を廻った所、凡十五六間程
隔て図合船に異国人廿人程乗組私共船へ向けて
きます。 大砲の音も聞こえるのでロシア人が来た
と驚いて見ると異国船は二艘あるので、沖の方へ
走出そうと船を廻したら更に図合船は近付き、鉄砲
を打懸けられました。

間もなく漕着き帆綱等に取付き押上り、各々差様
の抜身を振廻し、更に異国の伝馬船一艘に凡
廿人程乗込み漕付上りました。 其節私共乗組中
で海へ飛込んだり、あちこち隠れたりしました。
居合せた者は勿論、隠れた者も探し出し、嘉兵衛
を始追々縛上げ、船中の刃もの類全て取上て
ロシア本船の方へ運びました。 彼等が帆を下げ
観世丸を二艘の間に繋ぎ碇をいれました。

重立ったロシア人五人との他乗移り、嘉兵衛に何か
云う様子ですが言葉がわかりません。 その内指を
七つ折って、クナシリ松前、死んだと云うので、これは
昨年クナシリで捕われたた者の事であろう、と察せら
るので嘉兵衛が、松前に生きて居ると云ましたが
分らなかった様子でした。 

以後嘉兵衛を先に順々に縄をとかせ、嘉兵衛は
ロシア船の方へ連れ行き、私共は観世丸に
残されました。
乗組の総人数を調べましたが、与右衛門と云う者
一人、十四日の夜ここの役所に出頭した旨
聞かされました。 残九人は溺死したのかも
知れません。 私共を始め残った人数は、
嘉兵衛共二十六人でした。

私共の艀の道具を皆取上げ、異国人達は船へ戻り
ましたが、 その後又嘉兵衛を伴い幹部が観世丸へ
来て、帆を畳む様に嘉兵衛が云うので私共は大勢
で帆を畳み、碇も更に一つ入れました。 その上で
嘉兵衛を連れてロシヤ人達は本船へ帰りました。

翌十五日、嘉兵衛を伴い私共の船へロシア人が
来て、嘉兵衛が食事をしたい云い、ロシヤ人五人
へも飯・酒を出すよう言いつけました。 どちらも
少しずつ給、従者へも酒を差し出したところ遠慮
していましたが、やがて幹部より指図があり各々盃
に一杯宛飲みました
        (中略)
  
八月十六日ロシア人重立った者が嘉兵衛を伴い
私共の船へ来ました。 乗組の中で後四人ロシア
船へ乗せる様手振りで嘉兵衛へ伝えましたが、
嘉兵衛の考えは、自分一人がロシヤ船に乗組む
ので残り全員は返す様に手振りで船長に強く
申し入れていましたが、船長は承知しません。 
誰でも五人を乗せると云う事で、嘉兵衛も仕方が
無い様子でしたが、それでは誰をと撰ぶのも難しく
途方に暮れました。 そこで船頭吉蔵、水主金蔵
平蔵、文次郎の四人が長く嘉兵衛に御世話に
なったから、と云事で乗組む事になりました
       (中略〕
 
嘉兵衛外四人はロシヤ人達と一緒にロシヤ船へ
戻るので、五人の着替・夜具手廻品等、玄米41俵
味噌三樽、此外遣残りの酢・醤油などをロシヤ船へ
持たせましたところ、彼船より二番明荷一、錠前付
箱一、 古布子の類五梱を私共に寄越し、是は
五郎次と云う者の荷物なので、陸へ上がったら
届ける様に云われたので、其のまま預り御会所へ
差出ました。
  (後略)
 文化九年申年八月
               長松   爪印
               外三十一人爪印
    御詰合様
goro01                                            戻る
                  文化九年クナシリへ帰還した五郎次証言
              エトロフ島番人小頭
                    五郎次 申四十五歳
右申口
 
 ヲロシア人に被捕、此度彼国之船に而渡来仕候
 始末御糺御座候
此段私儀、生国南部川内出生に而、若年之頃松前江
罷越、奉公稼いたし居候内、東蝦夷地御料相成候
付、享和元酉年と覚え、栖原庄兵衛世話にてエトロ
フ御場所稼方相成、御場所江罷越、其後追々番人小
頭迄被仰付、相働罷在候處、文化四卯年四月、御雇船
歓厚丸為荷役ヲイト江罷越候處、ナイボ江異国船
二艘参候よし注進申来候付、同所には番人不居合
候間、私罷越取始末いたし、異国船もシャナ御会所
前江参候様可取計旨、児玉嘉内様間
〔松前奉行支配下役)
り被仰渡候に付、早速ナイボ江罷越候處、大工三助
稼方六像、長内、左平、私共も都合五人に而合詰
居候處、翌廿六日四ツ時過、異国人伝馬船四艘江ニ
十四五人も乗組、海岸江上陸いたし候付、右之者と
も番屋江呼可申と、長内を遣候處、此もの留置、異国
人計五六人鉄砲を持、番屋之方江罷越候に付、三助
外二人は逃出、私一人に相成、迚もいたし方無之、
逃出可申と存候得共、嘉内様おり被仰付候儀も不
申聞候而は相済間敷と、番屋罷在候處、無程異国人

とも踏込、私を縛、逃出候三人之ものをも尋出縛候
而、直に五人とも伝馬船江連行、長内之縄を解き、
異国人とも大勢付添、蔵々を明させ、御仕入もの諸
品番屋に有之候着替、其外目立候ものは不残船江
運び、右運方は図合船に而、夷人に手伝はせ、運び限
り候上、夷人は不残差戻、私ともは本船江連行、縄を
解き、申寅年カラフトに而被押候源七、福松罷在、
富五郎、酉は小船之方居候よし、源七咄に而承り
候得共、此度同様にカラフト乱妨いたし、右四人も
被押、去年はヲロシヤ国に越年いたし、当年又々乗
組当所江参候よし申聞候、夫よりナイボ之方、家倉
江火をかけ不残焼払、此沖に両三日滞船いたし居
候内、大風吹候而小船之方は碇を引流れ、大船は磯
近く流れ候處、凪に相成、シャナ江乗廻し、上陸いた
し御仕入もの其外盗取、御会所其外とも焼払、此節
南部家火業師次五平(大村冶五平)を縛り連越、私と
も一同に罷在、此沖合に四五日も滞船仕候而出帆
いたし、ウルップ島江参り、伝馬船に而上陸いたし
無程立帰、又々シャナ、ナイボ之方江乗廻し
クナジリ島西之沖江参り候之處、海岸之方に日本

船之帆影相見え候とて大きに騒ぎ、船を左右に分
右船を取巻近見候へば、大滝
(此滝之儀、アトイヤとルロイ
の間、ショゲベと申所に有之候由に御座候)
 有之候に付、其
所を走出し
シレトコ崎より船を沖へ出し、カラフト江参り、伝馬船
をおろし、去年及乱妨候場所を見候て、此沖に一両日
滞船、夫より出帆リイシリ島江参り、日本船三四艘繋
罷在候處、日本人一人も不居合候に付、右船々之諸色
盗取、船を焼払候之上、南部家次五平、源七、富五郎
酉蔵、福松、長内、六蔵、三助此所江上げ候て出帆、
ヲホツカ江罷越候處、私共乗候船之大将、ミカライ・
アレキサンダラエテ・ホウシトフより重き役人之よし
参り、其節私共は船之下江隠し置候様子に而、外江一
向に出し不申、右役人申候には此度ミカライのいたし方
不宜趣に申候由ニ而、両三日立候而、岡より鉄砲を持候
もの大勢参候故、大に驚罷在候處、ミカライは船之下江
這入出不申、鉄砲持候者ともは、船之番人と相見候に付
此度及乱妨候始末は、弥過ちにも可有之哉と推察いたし
居候處、又々役人体之もの参、私とも両人は船に而も岡
に而も望候所に可居旨申候付、岡江参旨申候得者、直
に上陸いたさせ、コンパンヤと唱候交易商人之内江連
行ヲホツカ之役人イワンニカライチと申もの参り、持越
日本之品々不残蔵に入、番人付置、ミカライ并小船之
船頭、其外共岡江押込、番人付置候處、其年九月半頃
右番人江酒を振舞酔候上、ミカライ小船船頭とも夜逃
いたし、追て承り候得は、両人とも相果候由御座候
  (中略)

此度渡来之船は、軍船とは申候へと
も、其始末は一向不存、只々去年被捕候者とも之安否
を承度、右之ものとも罷在候處江参候旨常々申居、
此船之大さ、乗組人数、大筒小筒等之儀は、与茂吉
外五人之者より申上候通御座候、於御当所髪月代
被仰付、其上日本仕立之布子、襦袢、上帯、下帯、手拭
にいたる迄被下置候、此外可申上ぎ無御座候、
右之通、相違不申上候、以上
  文化九申年八月     五郎次 爪印
    御詰合中様

    (通航一覧巻之三百九より)


文化九壬申年四月、魯西亜国より帰国之漂民口書
            攝州三影村
              加納屋十兵衛手船
                歓喜丸水主
                   与茂吉 申三十八歳
     (前略)
一此度之船は、凡二千五六百石も積れ可申哉、高一
 丈五尺余、長十六間余、幅四間程、大将はカピタン
 一人、船頭一人、親父とも可申もの一人、書役二人
 医者二人、女四人、子依六人、マダロス共、(水主)
 漂流人を除、都合八拾人計乗組居、石火矢は唐銅十
 四挺、銃六挺、此外小筒数々有之、焔硝は艫之方に
 桶に入置、玉は箱詰にて帆柱之根に二十箱程有之
 此船は全体二艘仕立にて、今一艘は凡四五百石計
 も積可申、人は四十人乗組、前書之船之兵糧を積
 候船にて、ヲホツカを一緒に出帆仕候處、凡百里余
 も出候節、洋中にて難風に逢、小船之方は行方相知
 不申、私乗組候船之者とも、右小船はクナジリ島江
 参居可申旨、推察之趣相咄申候
    (後略)

     (通航一覧巻之三百二十より)







御料相成: エトロフ含む東蝦夷地が
寛政11年幕府直轄となる。  


エトロフではシャナに幕府会所〔役所)が
あった。 異国船の取扱はシャナで行う旨
五郎次は連絡の為、ナイホに出張する



この時点では薪水等の入手の為の上陸と
考えていた。






五名捕縛される

倉庫内の物略奪

夷人:アイヌ人
日本人五名は本船へ連行される

昨年カラフトで捕虜となった者達に船内
で合う。 彼等はロシアで越年している:

ナイホで略奪後倉庫、建物焼払う
ナイホ沖で三日程滞船
シャナを襲う


大村治五平が捕虜となり、船に来る
シャナ沖で四五日滞船
ウルップ島に上陸、直ぐ戻る
再度エトロフ方面に南下しクナシリ
沖へ行く




知床岬を通りカラフトへ行き、艀下ろし
昨年の襲撃の跡を見、二日程滞船後
利尻島へ行く


利尻島での日本船四艘焼討、略奪

利尻島で8名の捕虜解放

賊船はオホーツカに入港、8月頃か
オホーツカ役人による検問


ホウシトフ等の逮捕




五郎次・左平は交易商人に預けられる
日本からの略奪品は倉庫に入れ厳重
管理

同年9月中頃ホウシトフと小船の船長の
逃亡、死亡
        以下大意
○翌文化5年5月頃イワンニカライチの交代として
 ロシア本国からバハエフが来て日本からの略奪
 品を全て商会に渡して売払った。 只木綿類は
 私達に呉れた。 日本の地図等彼等に渡っては
 拙いを思い、役人を欺いて川に捨てたり焼いたり
 した。
○翌々〔文化6年)5月まで、私共に対する沙汰は
 なく、日本へはとても帰れないと思い、商会を逃出
 オホーツクから三十里程のヲリアに行き、鮭を取り
 生活していたが、七ヶ月程して発見され、
 オホーツカ に連れ戻される。
○文化6年5月日本に帰りたくアザラシ猟出ると云い
 小船を商会からかり、200里程南の島に上陸し、
 そこで十数人の漁師達と暫く一緒に働いた後、
 陸地 に渡り満州に辺の猟師の家をを転々とする
○食物に事欠き鯨の腐肉を食べたが、左平は
 それが原因ど死亡する。 猟師に手伝って貰い
 雪中に埋め墓標も立てる
○其の後ロシア役人に見付かり文化7年9月頃
 ヤクーツカに着く、役人方に落ち着く、爰で一日
 銅銭十文、2影宇610文貰う。 此地で昨年日本で
 ロシア人が捕えられた事を知る(文化8年7月の事)
○文化8年12月ヤコーツカの役人にイルコーツカ
 総督から同所へ来させる様通達があり、18日掛り
 イルコーツカに着く。 
○イルコーツカでは善六と云う日本人が居り、善六
 方に同居する。 ここでリコルドに呼ばれ日本に
 連れて行く予定と云い、支度金を貰う
○リコルドと共にヤコーツカへ今年3月着、 5月に
 オホーツカに着。 此処で日本の漂流民与茂吉
 外6名も日本へ連れて行く、一名 久蔵は足の
 凍傷を患い残る事になる。
○6月26日オホーツク出帆、8月4日10時頃センベ
 コタン沖に投錨。 船長が言うには、諸君を上陸
 させるので去年捕えられた者達が無事で居るか
 否か尋ねて欲しい、との事でロシア語の書状を
 用意し、これに添え書きをする様、云われたので
 以下認める
 「ゴローウィン船長並び6人の者の生死の情報及び
 此7人を返して頂きたい旨をロシア語で認めてある
 ので、ロシア語の分る方があればお聞かせ願う」
 と書付て一緒に封をする。
○先ず漂流民に書状を持たせ陸揚げしたがクナシリ
 役人は取り付く島もなく、何度めかに船長が陸に
 揚がって来るように云う、しかしリコルドはそれでは
 前回の轍を踏む事になるので断る
○最後に五郎次が上陸させられるが、ゴローウィン
 達は米の盗む等の罪で処刑されたと会所詰役人
 が云う。 五郎次はこれを船に戻りリコルドに伝える
○リコルド達は驚き戦闘準備をするが、処刑の旨の
 書類を出して貰う様、再度五郎次に使いをさせる。
○五郎次はそれでは残りの漂流民4人(二人は既に
 陸に拘束)も陸に連れて行き、代りに書付を貰う事
 試みる、と云う事で12日再度上陸する
○此処で全員拘束され、五郎次も翌13日には
 入牢し船に戻れなくなる
○その後五郎次の荷物が高田屋嘉兵衛の観世丸
 により、リコルドの五郎次宛ての手紙と共に届く。
 その手紙によれば、五郎次が偽ったと恨んでいる
 ようである(ゴローウィン達は処刑されず、無事な由
 嘉兵衛よりリコルドは聞いた事による)
註: リコルドは12日に上陸した五郎次が戻らず、
  日本側との通信が途絶えた為、14日観世丸
  を拿捕して、嘉兵衛を人質として船は解放して
  いる。
 

goro02                                             戻る
                幕府側が用意した事件決着へのロシア宛文書

当年魯西亜船罷越候節、此方より差遣候書面、魯西亜
語に相綴、魯西亜人友に添削為致候に付、猶又此方語
に反訳為仕候書付
              服部備後守

往時千七百九十二年中、魯西亜船松前に来り、并
千八百四年、魯西亜の使節長崎に来る、二度共に我方
より日本之法制を以て示すのみ、魯西亜を恥めしこと
日本之方より絶て是をなさず、然るに千八百六年、并
其明年、魯西亜の船、蝦夷島の北蝦夷地クシュンコタン
又はルウタカ、并エトロフ島に於て、皆日本人を捕へ、
又は家庫を焼き、猶又リイシリ島海上に於て日本船を
却し、又諸物を掠む、是如何なる所存、何之いはれ
なるや弁すべからず、其後千八百十一年中、魯西亜船
進退窮せるに依て、又クナジリに来る、往時の仕業
あるに依り、官吏魯西亜を疑ふ事ありて、七人を擒と
なす、此者を質問するに、彼等往時の船の仕業は、大賊
の形勢にして、魯西亜政家の絶てしらさる所なりと言、
然れとも此者共の一言、日本政家猶是を信ぜす、去年
魯西亜船又クナジリに来るといへとも、然も往時捕へ
去りし良左衛門、并一昨年破却の船より魯西亜地方
に助命せし日本人を伴ひ来り、以て生国にかへし、
依て捕へ置ける魯西亜人をかへさん事を願の意を示す
のみ、往時蝦夷島に来りし船、并大賊の仕業、政家の
知て命する所にあらさること確然たらは、官家より是
を答書中に明弁して贈らん事可なり、若し是を承諾し
当然の仕業ならば、其時江戸に乞ひ得て、捕へ置ける
皆の魯西亜人をかへすにいたらん
若し今年明弁書を贈る事あたはすんは、必明年明弁書
を携て箱館に来れ、
  文化十年三月十五日      高橋 三平
                      柑本兵五郎
〔付札〕魯西亜船渡来之節、相渡候本書之方江は
 本文両人書判為認申候
  松前の鎮台に従へる第一の高官二人、此令書
  に於てみつから題名し、并記印を点押す

右書面、私共両人に而魯西亜語に相綴り、魯西亜人
共江拝見為仕候處、彼等へ不相通廉も御座候に付、
所々加筆いたし呉申候、依之、猶又此方の言語に
反訳仕候處、御文言とは言語増減も御座候得共
右様無御座候而は、先方江も相通申間敷由申
聞候に付、得と御本紙比考仕候處、差而御文意に
は相違も無御座候哉奉存候に付、奉入御覧候、以上
   酉三月       村上 貞助
               上原熊次郎  

渡今年ロシア船が来た時に此方より差し出す書面
をロシア語で綴り、ロシア人に添削させ、更に日本語
に直したものです。
         服部備後守


:
*1792年にラックスマンが渡来
*1804年にレザノフが長崎に渡来
*二度とも交易は我国法故に断り
*ロシアを辱める事はしていない。 
*併し1806/07年ロシア船がカラフト
エトロフにおいて日本人を捕らえ、建物
を焼き、更に利尻島では日本船を略奪
するとは如何なる事か
*その後1811年ロシア船が薪水を求め
クナシリに来る。 
*以前の事があるので役人はロシアを疑い
7人を擒とした
*彼等によれば往時の暴挙は賊のやった
事でロシア政府の知らない事という
*しかし彼等の言い分だけてそれを信ずる
事はできない
*昨年又ロシア船がクナシリに来て以前
捕われていた五郎次と漂着の日本人
を送ってきてロシア人の解放を望む
*もし前に乱妨した船は賊の仕業であり
政府の命ずるものでないなら、その旨
政府よりこれを弁明されたし、
*さすれば日本政府の了解を得て、捕らえた
ロシア人を返すであろう。 
*もし今年書状が間に合わぬなら
必ず来年書状を持って箱館に来たれ
   
   文化10年3月15日  高橋 三平
                 柑本兵五郎
 (付札) ロシア船が渡来の節渡す本書には
       両人の書名押印させる
   松前の奉行に仕える第一の高官2名が此書
   には自ら書名し、押印する


 (通詞メモ)
右書面は私共両人がロシア語で書き、ロシア人に
見せ、 彼等へ通じ難いところもありましたので
所々加筆して呉れました。 それを又日本語に
翻訳したところ、元の文とは言語が多少増減
しますが、この様にしないと先方へ通じないと
云うので、元の文章と比べて見ましたが、文意に
相違もないと思いますので、御覧にいれます。
   文化五年三月    村上 貞助
                上原熊次郎

服部備後守:松前奉行
高橋三平: 松前奉行吟味役、 10年後に越前守を号し長崎奉行となりシーボルトに出島外で塾を許可した開明派官僚
村上貞助: 通訳であるが高田屋嘉兵衛と共にロシア側に非常に評価が高かった
上記文書日付からすると高田屋嘉兵衛は戻ってカムチャッカから戻って居ないが、 幕府側でも五郎次やゴローウィン
等の証言から、ホウシトフ等の暴挙にはロシア政府は関与していないと判断し、事件の収束を図ったと思われる。

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                      イルクーツク総督の書翰        戻る
文化十年九月十九日、船長イリコルヅ上陸、於箱館
沖之口、高橋三平、柑木兵五郎面会之時、船長より
差出す横文字書付
 
  伊児哥都加鎮台テレスキンより、松前鎮台江
  差越候横文字書翰反訳書付
 
 大魯西亜国を統御する英明の帝王官理にして、
 広大なる辺境イルコオーツカ轄の鎮台、文官補佐
 のテイスツウイテリにして、ヲルデンの官章を
 帯るテレスキンより、大日本国天子、公方、高位
 の官理なる、松前及此地北方御領地の鎮台江、懇
 親之書翰
 
 予は、大魯西亜帝国皇帝の聖命に依て、広大なる
 伊児哥都加轄の鎮台なり、我鎮する所の地と、其
 大日本帝国の地とは接境なるに因て、其天子公方
 高位の松前島及ひ其地北方所御領地の鎮台江、我
 腹心の官人、魯西亜官船の甲必丹にして、官章を
 帯る事を得るイリコルズを差遣候間、其鎮台腹心
 の御役人と、左に相記し候親和之御相談被成下候
 様願候、

一六年以上、ヲフツカの埠頭に、ホウヲシトフ及び
 ダウエドフと申者司り居候處の商船二艘到着
 いたし、承候處、此船クリヽツケ諸島なる、日本
 領の村落を襲ひ候よし、依之其節此儀を我帝王に
 奉し候處、右悪事之仕業を相怒り、其上甚敷事は
 彼ら我侭に、敢て魯西亜政家の名を仮り用ひ候
 事跡を承り、官人江其事を探索吟味之儀申付厳敷
 吟味いたし候處、彼等を召捕候故、国法の刑罰に
 行ひ申候ため、我帝都江差遣し、其罪に適当之刑
 に行ひ申候故、最早存命不罷在候、依之相考候は
 日本御政家にて、右之ホウヲシトフおよびダウエ
 ドフの我侭なる仕業は、魯西亜政家之命に依て仕
 候儀と被思召候とは不奉存候儀は、敦厚魯西亜
 帝王不適之儀、且其仁義ある情態に遠さかり候事
 御座候、奉使を受させられざる儀に報ひ、日本之
 村落に乱妨して平人を苦しめ、其上二艘の小き且
 商価の船を、我帝王の公事を以て差遣候と申儀は
 実々不相当之儀御座 候、

一其後今より三年前、魯西亜海上官甲必丹官章を帯
 るもの、ワシリイゴロウィンなる者酋長として、
 我帝家の船真水の要用に苦み、クリヽツケ第二十
 と名つくるクナジリ島辺にあり、此島は先年
 我魯西亜国の航海家、爰に至りし頃は、其地いま
 た何れの所にも日本之村落無御座候、右之甲必丹
 ゴロウィン儀は、魯西亜と日本との境界を聢と不
 存候處、飲水不足に及ひ、其属従之者之命を大切
 に存、心配差迫り不得止事、島島に於て真水を
 貰ひ候儀を存立、先最初試に彼等致上陸候處敵の
 如くに仕向被候に付無拠本船に立戻申候、真水は
 纔の桶に取候得共、夫より存立遠く地方を退申候
 然處、其後能直に村落之御役人より御使参り申聞
 候者其方存念を不知、誤て彼に鉄砲を打候間可相
 許且官人とも陸へ可参との儀御座候、甲必丹ゴロ
 ウィン儀は、自分の正直なる心を以て、其国人の
 ちかく親めるを信じ、欺き被招候意を不疑、元
 より悪事仕候事無之、ミイチマンモウル及び船師
 ハレフニコフ、并四人之水夫と共に上陸いたし候
 處、其所において不意に被相捕申候


   (中略)  大意は右小文字

一鎮台之所治伊児哥都加府、大魯西亜帝国皇帝神意
 を以、即位せしより十三年五月三日
          ニコライ テレスキン

右之通反訳仕差申上候、以上
    酉九月   *文化10年(1813)
      足立 左内  馬場佐十郎
      村上 貞助  上原熊次郎

ディアナ号船長のリコルドが箱館
で高橋三平柑木兵五郎に面会の
節提出した書翰


イルコーツカ総督テレスキンより
松前奉行へ宛てた書翰
の翻訳書

ロシア国帝王の官吏で広大な辺境
イルコーツカの総督である
テレスキンより日本の天子・公方の
官吏である松前及び北方領土の奉行
への書翰



私はロシア帝の命令により広大な
イルコーツカを統括する総督である
私の管轄地域と貴国とは接するので
腹心の役人でロシアの船長である
リコルドを派遣する。 貴奉行の
の役人と以下の事親しく相談願う



○六年前オホーツカ港にホウシトフ
とダウエドフが持つ商船二艘が到着
したが、千島列島の中の日本領の
村落を襲った由である。 帝王に報告
した所たいへん怒られた。更に彼等は
ロシア政府の名を騙った形跡があり
役人が調査し、逮捕の上裁判のため
我帝都へ送り処刑されたので生存最早
していない。 、

日本政府では彼等の暴挙はロシア政府
の命令と考えているとは思わない。
ロシア皇帝に有り得ない事であり、
全く仁義に外れた事である。 
使いをして受け入れられず、夫が為に
日本の村落を襲い人民を苦しめ、
其上小さな商船を我帝王が差向ける
など全く有りえない事である。

○その後三年前、ロシア海軍の艦長で
あるゴロウィンが我軍艦が飲料水不足
に苦しみながら千島第二十と名付ける
クナシリ辺にいた。此島は以前ロシア
航海家が訪れた頃日本の村落は無った
ゴロウィンはロシアと日本の境界を知
らず、飲水不足で部下の命が大切と、
やむを得ず此島で水を得ようと上陸
したところ敵の様に扱われ、仕方
なく船に戻り、僅かな水しか取れな
かったが陸地を離れた。

そこへ村の役人が来て、状況知らぬ
まま鉄砲を打ったが許してくれ。 
責任者を陸に招きたいとの事で、
ゴロウィンは正直な人間故、その人を
信じ、元々何も悪事はしていないので
モウル、ヘレニコフ、水夫4人と
上陸した所、その場で逮捕された。

(以下大意)
○船中に残された者達は彼等を取り戻そうと
 したが武力行使は政府の意に反するので
 オホーツカにもどった
○カムチャッカではロシア人が七人の漂流
 した日本人を助けたのに、クナシリでは
 ロシアの軍人達が欺かれ捕われてしまった
○ロシア帝はゴロウィン達が拘束された事を知
 る前、前記7人の日本人とホウシトフが拉致
 した日本人を日本領内の島に帰しホウシトフ
 等の行為は法に基づき刑に処した旨を説明
 する様命じた。その後ゴロウィン等の逮捕を
 知った帝はこれはクナシリの役人の無理で
 決して日本の天子公方の考えではないと
 考えられ、前の命令通り日本人達を送り届け
 ゴロウィン等の釈放を頼む様云われた
○国王の命に従い私はオホーツカから軍艦二艘
 をクナシリに派遣する事をリコルドに命じた
○この時クナシリの役人は取り付く島なく、
 日本人を上陸させただけでゴロウィン等の
 様子も聞けず、このまま帰れないと云う事で
 日本の商船を引き止め、船主及び4人を
 捕らえ、壱年後返す約束としたと言う。 
 この船主から聞くと、ゴロウィンは仲間と
 共に元気で、格式に応じた待遇を受けて
 いると言う事で、貴奉行に感謝する。
○状況が分ったので兵器を備えた大船で行けば
 貴方で不審に思れるので、小船でリコルドを
 役人として派遣する様にオホーツカ港の役人
 に命じた。 この船には昨年連行した船主
 及び四名と病気でオホーツカに残っていた
 カムチャッカ漂民一名を上陸させる
○貴奉行に御願したい事はゴロウィン及び仲間
 をリコルドに渡して欲しい
○若し此上貴奉行に何か理由がありゴロウィン
 を渡せないか、又はこの書翰の返事も
 リコルドに与えられないなら、何時、何処へ
 引取りに行けば良いか御知らせ願いたい。
○如何にしても返せないと云う事であれば、
 残念だが静謐の状況は騒動へと発展し
 嘆かわしい事である。
○此方に日本語の熟達の者が居ないのでドイツ
 語に訳して添える。 ドイツ語は長崎の
 異国人が明らかにして呉れるはず