日本最北端の緊張 戻る −文化魯寇及びゴローニン事件ー |
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今から200年程前、蝦夷地方の島々で日本の会所や商船を武装したロシア船が襲い、略奪・拉致する事件が 起きた。 それ以前にラクスマンやレザノフがロシア政府の意を受けて日本との交易を求めた事が有ったが、日本が 交易を断ったが故に、略奪があたかも国家の意志であるような犯行声明が残された。 ロシアと国交がある訳でもなく事件は未解決のまま日本側も警備を強化し、ロシア船打払い令なども出したが 暫く何も起らず四年程過ぎる。 次にロシア船が現われたのは小形軍艦のディアナ号だったが、薪水欠乏で調達の為 クナシリに近付いた。 警備を強化した日本側は砲撃したがロシア船は全く反撃せず、何とか接触を試みる為日本側も 上陸を黙認して上陸した艦長のゴローニン外7人を逮捕して箱館に送ってしまった。 この時点では日本は前回の略奪は国家の意志が働いていると考えており、ロシア人は全て罪人と考えたが、 何とか救出しようとする当時副艦長だったリコルドの努力で、 日本側も真相を知り二年後ロシア人達は解放される。 |
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p1 文化三年九月ロシア船一艘カラフト島松前藩番屋を襲う |
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文化三年九月上旬魯西亜船一艘カラフトに渡来、クシュンコタンに上陸し、松前藩管理の会所及び倉庫の穀類を奪い建物他全て焼払う。 この時会所番人(日本人のみ4名)を捕らえロシア船は十月初旬出帆する。この時連行された番人は富太郎、酉蔵、源七、福松の四名。 |
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P2 文化四年四月ロシア船二艘エトロフ島ナイホ、シャナを襲う |
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文化四年四月廿三日ロシア船二艘がエトロフに渡来、同廿四日ナイボに十四五人上陸して会所を襲う。 この会所には日本人番人六人が勤務していたが一名(豊蔵)は留守で4名(六蔵、佐兵衛、三介、長助)及び偶々帳簿を調べに会所本部から出張してきた五郎次の合計5名が捕虜となる。 ロシア人達は米や什器等奪い、会所や庫を全て焼払い引揚げる。ナイボ番人の一人(三之丞)が逃げ蝦夷人(アイヌ)二三名を伴い、同廿五日シャナにこの事を注進する。 シャナにはエトロフ会所の本部があり、爰に駐留する南部・津軽の両藩の警備兵及び箱館奉行支配調役等(戸田又太夫他)が出船しナイホに向かう。 途中フルベツ迄来たがロシア船は既にナイホを去り、会所其の他全て焼払われた事知る。 随ってナイボに救援に行く意味もないため、シャナに引き返し廿八日には箱館奉行支配向を頭に南部、津軽兵が一体になり、シャナの守りを固める。 |
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廿九日 ロシア船二艘シャナに渡来、艀で24-5人程上陸、会所通訳の川口陽助が対応に出向いたところ、鉄砲を打ち掛けられ股を打ち抜かれたが周囲に助けられ逃げ帰る。 その後警備隊と銃撃戦となるが敵は大砲迄陸揚げして烈しく打ち、一方警備隊側では鉄砲は有っても貧弱で、 銃と玉の不一致やら大砲も一発打ったらもう弾薬が無い等で一方的に攻められる。 終に撤退を余儀なくされ、シャナの総勢100余名はルベツを目指して敗走する。 途中指揮官役の戸田又太夫は敗走の責任を取ると云う事でアリムイとルベツの間の山中で切腹する。 又撤退の混乱の中で南部藩大筒役大村治五平がシャナでロシア側の捕虜となる。 ロシア人は無人のシャナで米や酒を奪い建物を焼払う。 史料:津軽藩の書状(視聴草) |
P3 ロシア船利尻島で日本船を焼討ち、捕虜八人を解放する |
文化四年六月四日、同ロシア船二艘がが利尻島に渡来し、番小屋に放火し同島に居合わせた日本船を襲う。 乗組員は伝馬船で向側のテシヲ(天塩)に逃げたが、船内の目ぼしい物は全て奪われ船は焼払われる。 是等の船は 盤春丸 1,400石積、幕府御用船、軍用武器積入カラフト行 吉祥丸 松前手船唐太行船 宜幸丸 1600石積、此辺の仕入物積入松前町伊達林右衛門船 青龍丸 此辺の仕入物積入松前町岡田屋誰船 この後ロシア船は日本人捕虜8人(カラフト4人、ナイボ5人の中3人、シャナ壱人大村治五平)を利尻島で下ろし彼等に書状を持たせている 同年六月十九日には利尻から帰還の8人と書翰が宗谷に到着する。 書状の内容は今回一連の犯行声明であり、元来日本はロシアと交易していたのに近来停止しており、交易は長崎に来る様に云われた。 遠路長崎を訪問したが属国の様に扱われ交易も実現しなかった。 無礼であるのでロシアの武力を見せる為カラフト、エトロフを襲撃した。 これでも交易を行わないなら来年大軍を繰り出し日本全体を襲う。 尚残る二名(ナイボの五郎次と左兵衛)を宗谷で引渡すので、ロシア船が見えたら通訳が非武装でこの書翰の返事を持って艀で来る様にと、記されている。 宗谷に出張中の箱館奉行調役並深山宇平太が待機するが、ロシア船は宗谷に入らなかった為会談は実現しなかった。 事件の決着は付かぬまま幕府ではロシア船打払い令を発令し北辺の警備を強化する事になる。 それから四年後、文化八年にクナシリ島で起きたゴローニン事件の解決過程で、ロシア船の暴挙の真相と拉致された五郎次達の消息も分ってくる。 史料:利尻島津軽家書状(視聴草 ) 宗谷へ捕虜帰還〔視聴草) ロシア船の犯行声明(通航一覧) |
P4 文化八年ゴローニン事件とその解決 |
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ロシア船打払い令の最中、文化8年5月末ロシアの軍艦ディアナ号が食料薪水の欠乏をきたし、何とか調達したいとクナシリ島センベコタンに上陸した艦長ゴローニン以下7名のロシア人及び現地人一名が南部藩警備隊に逮捕され箱館に送られた。 カムチャッカの奉行役となった副艦長のリコルドはゴローニン救出の為、カムチャッカに漂着して保護されていた攝津観喜丸乗組員6名と、オホーツクで保護されていた五郎次を携え、文化9年8月4日クナシリセンベコタンに到着。 日本人を上陸させてゴローニン等の消息を探るが、クナシリの役人は彼等は既に処刑されたと五郎次からリコルドに報告させる。 それではその旨公式の書付が欲しいとリコルドは求め、五郎次外残りの日本人を上陸させるが、彼等全員がクナシリ役所に拘束され、8月13日には全く連絡が取れなくなってしまう。 |
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ゴローニン等の消息を探る為に、同年8月14日リコルドはクナシリ島ケラムイ付近で高田屋嘉兵衛の 観世丸を拿捕し船は直ぐに解放したが、嘉兵衛他4名を人質として優遇しカムチャッカに同9月11日 到着。 リコルドは嘉兵衛よりゴローニン等が全員元気で松前に保護されている事を聞くが、この年 嘉兵衛等はカムチャッカで越年する。 史料:観世丸乗組員の証言 一方日本側では幕府も、ゴローニンや五郎次の証言からホウシトフ等の暴挙はロシア政府の関知しない 私的な海賊行為である事を感じ取り、一連の事件の決着を図る為にホウシトフ等の行為はロシア政府の 指示では無い旨、公の文書で弁明すればゴローニン等を釈放する旨の文書を作成し、ロシア船に渡す用意をする 史料:五郎次の証言(通航一覧) 松前奉行の解放条件書翰(通航一覧) |
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文化10年5月26日リコルドのロシア船がセンベコタン沖に渡来し、嘉兵衛等を艀で送り上陸させた ところ、日本側の用意した上記書状に接し、且つ又嘉兵衛等を拉致した事を日本側が責めて居ない事に リコルドは感激する。 早速箱館に行きリコルド自身が弁明する事を申出たが、嘉兵衛は慎重を期し 別な政府高官の書状を用意する事を勧める。 文化10年9月16日リコルドは日本側の釈放条件通り、ロシア極東を管轄するイルクーツク総督がホウシ トフ等の行為は政府の名を騙った海賊行為であり、調査の結果既に処刑した旨の文書とオホーツク奉行の 添書を携えて箱館に渡来する。 ゴローニン等は既に松前から箱館に護送されており、9月19日奉行所 役人立会で引渡しが完了し、翌朝ディアナ号は出帆する。 ここで7年余に渡った最北端における極度の緊張が漸く和らぐ事になる。 史料:イルクーツク総督書翰(通航一覧) |
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註 1.ロシアの港オホーツク地方のオホーツク及びカムチャッカ地方のペトロハウロフスクは松前の各地から 何れへも当時の船て片道凡30-40日の旅程を要しているようである。 2.蝦夷地方は段階的に松前藩の管理から幕府直轄になり、この時点ではカラフトの会所は松前藩管轄、 エトロフ会所は幕府の直轄であり、幕府直轄地は南部・津軽の両藩が警備を受持った。 3.箱館奉行所は蝦夷地方幕府直轄地の管理のため1802年〔享和2年)箱館に設けたが1807年(文化4年) 松前に移し松前奉行となる。 其の後1821年〔文政4年)蝦夷地を松前藩に全面移管の為松前奉行は 廃止。 更に1856年〔安政3年)箱館開港に伴い再度幕府の箱館奉行を置く 4.会所は幕府又は松前藩とアイヌとの取引をする事務所で、アイヌにこんぶ、にしん、鮭など収めさせ、 代りに米、みそ、醤油など与えた。 |