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オランダ別段風説書(天保11年、1840)

阿片招禍録 同現代文訳
和蘭暦数千八百三十八年天保九戌年に当るより四十年迄
唐国に於てエケレス人等の阿片商法を停止せん為に
起たる著しき事を爰に記す
西暦1838年から40年迄中国において英国人等の
アヘン取引を止めさせるために起った主な事をここに
記す
一此二ヵ年唐国に於て阿片商法を停止せんか為の事ハ
 皆人の心さす所にして其甚しき事他に比し難し
一此事に依て取極よろしき規則を立たり、 即ち其規則ハ
 唐国の改革を司とる官人の存寄にして一応ハ其意通りに
 成りたれとも、末に至りてのち爰に記する所の禍災
 起りたり
一此一躰の事を記する所に先其阿片商法の最有益なる事
 をも爰に載す
○この2年間中国でアヘン取引停止する為の事件
は皆が一致したものであり、その様な事は過去に
なかった

○この為法を設けたが、この法は中国の改革を目
指す役人により作られたもので、一応その効果は
あったが後にここに記す様に災難を引き起こした。

○この全体を記す前に、アヘン商売がたいへん
儲けになる事もここに記す
一唐国に於て専ら阿片を用ふる事既に三百余年に及へり
 是は欧羅巴人ある事未た唐国に知らざる前に亜猟皮亜
 国及ひ印度の地より唐国に弘まりたり、暦数一線七百
 九十六年の頃迄ハ其阿片ハ商法の最肝要たる桁と也、
 是によりて他の品と同様に運上増したり、
 此事に及びて阿片を国内に入ること並に人々是を用ふる
 事を厳しく戒め禁したり、昔諸密売のありし時禁制の行届
 さる事在りし時の如く、此節阿片停止甚厳なり、

 暦数一千七百九十五年
寛政七卯年に当るの頃に唐国に
 於て阿片焼捨に成たるハ員数一千箱なり、然るに一千
 八百十六年
文化十三子年に至りて又焼捨に成たる事三千
 弐百十箱に及へり、
 此後欧羅巴州静謐に及び印度内にエケレス国の菜地を
 新に得て、其所に阿片を制してエケレス人の己カ有益と
 なしてより此商法年々増長し一千八百三十六年
天保七
 申年
に至りてハ是を唐国に運送する事既に二万七千箱
 其翌年ハ三万四千箱に及へり、此銀高四千八百万
 ギュルデン
一ギュルデン」は我銀六匁弐部四厘に当る といふなり
    (中国におけるアヘン使用の歴史)
○中国でアヘンを使い出してから既に300年以上に
なる。 ヨーロッパ諸国と交流する以前、アラビアや
インドから中国にアヘンが広まり、西暦1896年頃に
輸入の主要商品となり、費用も増加した。 そのため
アヘンを輸入する事及びこれを使う事が厳しく禁じ
らた。 これは以前にも密売を禁止しても徹底しない
事が多かったが、アヘンに関しては特に厳禁だった。

西暦1795年頃、中国でアヘンを焼却処分した量は
一千箱だった。 これが1816年に焼却された量は
3,210箱に及んだ。
この後ヨーロッパの情勢が落着くとインドに新に領地
を得た英国はそこでアヘンを栽培し利益を上げ
年々この輸出が増加した。 1836年には中国向けに
アヘンを輸出する量は27,000箱になり、其翌年には
34,000箱に及び、其金額は4,800万ギュルデン
と云う。


1. 1ギュルデンはオランダ通貨単位、約1/10両 
 現在の1万円程度か
2. 欧羅巴州の静謐: ナポレオン戦争が終了し、
 各国の近代化が進んだ。

一近年阿片を潤沢に唐国に運送して商法するに、其代り
 物として唐国より渡す所の品々ハ其限を究め、既に此
 已前茶弐千弐百万「ポント」白糸七万ポント」に限りたり
 しに、当時に至りてハ茶四千五百万ポント」白糸百五
 十万ポント程の代り品々なりたり、是にて此商法の盛大
 になりしを推て知るべし
一亜瑪港及び広東辺専ら阿片を運送すること斯の如く
 甚しきに至りし事、大清帝の禁制を憚らず諸所の政道を
 司とれる官人等賄賂のために之を見逃し、其賄賂の金
 を以て己カ昇進の助の為となしたり
一当時の大清帝阿片の害ある事を考へ往昔の如く唐国に
 入れ又其用ふる事を堅く禁じたり、然るに其法度極て
 犯す者あらん、既に此以前も亜馬港及び広東にて阿片
 の密売ありし故、其法を犯したる者重き刑に処せられたり
 其次広東の奉行大清帝の命あれとも密売買の精勤行届
 かさるにより、其奉行職のもの卑官せられたり
一再び帝の寵を蒙らんカ為に出精し厳なる法を設け
 唐国商人及び外国の商人も阿片持渡の売買などを
 見逃すこと今に至りてハ叶ハさる也
   (アヘン商売拡大と禁止命令)
○近年アヘンを大量に中国に輸出し、代替として
中国から渡す商品は限られている。 以前は茶
2,200万ポンド、白糸7万ポンドだったが、現在は茶
4,500万ポンド、白糸150万ポンドになった。 これを
見てもアヘンの商売が増加している事が推察できる

○マカオや広東辺でアヘンを取引する事が、斯くも
拡大した事は、国帝の禁止命令にも拘らず、管理
すべき役人達が賄賂を得て密輸を見逃し、その
賄賂の金で自分の昇進を計る為である。

○現国帝はアヘンは害になるので昔の様に中国に
入れる事及び使用する事を堅く禁じた。 しかし法
を定めても是を守らない者も多い。 以前もマカオや
広東で密売を行った者は対し重い刑に処せられた。
しかし広東の役人は国帝の命令にも拘らず密売が
絶えない事からその職を罷免された

○再度国帝の信頼を得ようと役人は厳しい法を設け
中国商人や外国商人がアヘンを持込み、売買が
出来ない様になった。


1. 総督:1835-1840両広総督を勤めたケ延
2. 大清帝: 時の清国帝は第8代の道光帝
  (在位1820-1850)

一暦数一千八百三十八年
天保九年戌年第十二月に阿片を
 積込たる唐船見改られ、其乗組の内阿片等持主および
 其仲間相顕れしより、唐人の内にも法を犯し罪せられ、
 或ハ囚人となりたる者夥しくありたり、既に本商人首かせ
 を入れられたり
一外国人等ワンポアより広東にスクイねル
二本檣の西洋船
 及び其地の屋形船にて荷物運送制禁の法が立てられ
 本商人罪せられしより素に復し、阿片密売買する者
 あらハ唐国の役筋に渡され商売差留め、其住所を追出さ
 るゝなり、然る時ハ其の悪名一般に流布すれはなり
一此後此制禁を守らざる事間々あり、依て前にいへる唐船
 より阿片を取上られたるエケレス国の商人を広東より追放
 し、其他欧羅巴州の商人等を囲ひ置くことを禁じ、若
 是を改めせざる者何れハ其家を打毀つとの命あり
一諸外国人等訴しハ罪を犯したる者を一時に追払ふこと
 ちと役前ニても致し難く、さりとてハ家など其侭に致置け
 ハ唐国の法度に違ひ、詮方なきこと也、依て外国人此節
 申立る所の事ハ、其家取崩し等の三日ほと猶予あれ
 ハ万端之際の命ハ急度守るとの事也
一エケレス商人等阿片密売をせさる様に申談行届たり、
 然るに唐国の法度に逆へハ弥烈しき事に及ぶへきと
 計り、唐国商売を全く止めたり
   (英国アヘン密売買発覚と商売停止)
○西暦1838年12月にアヘンを積んだ船が発見され
乗組みの内アヘンの持主及びその仲間が明らかに
なり、中国人の中で法を犯した罪で囚人となった者
が多数あった。 その商人には首かせがはめられた

○外国人等ワンポアから広東にスクーナー船や
中国の屋形船で貨物を搬送する事が禁じられた。 
罪を犯した商人が復帰し、アヘンの密売した場合は
中国役人に引渡され、商売は出来なくなりその場所
を追出される。 叉その悪名は公開される。

○其後も法を守らない事が時々あるので、前に述
べた中国船に積んだアヘンを摘発された英国商人
を広東から追放し、他のヨーロッパ人も彼らを匿う事
を禁じ、若し違反すればその家を壊すとの命令が
あった。

○諸外国人達は罪を犯した者を追払う事も難しく、
かと云って放置すれば、中国の法に触れ仕方の
ない事である。 そこで外国人達は家の取り壊しは
三日程猶予して貰えば必ず法を守るとの事である。

○英国商人達はアヘンの密売をしない様に申合わ
せたが、中国の法に逆らえば益々酷い事になると
考え中国との取引を全面的に取りやめた。

本商人:行(ホン)商人の事、当時中国では貿易は
広東の特許商人に限られ、10社前後あり公行(コン
ホン)と云う組合になっていた。 
一一千八百三十八年天保九年第十二月十二日唐国商長
 の命にて亜墨利加商館の隣所にウユルグハアル
首を
 しめて死罪に行ふ柱
 を建たり、是は禁制の阿片商売をなし
 たる唐人を死罪に行ふ為なり
一此商売をなしたる外国人の住所少しも毀たれざる所より
 大に心得違して終にハ其罪を免かれず、其商館に様子
 を伺ふ唐人等其時集り、最初ハ物静なりしに兼て唐人の
 癖にて騒ぎ立たり、此時外国人等激して其唐人共を追
 出せしより大に不和起り、終にハ唐人とも外国人に対し
 礫を打大に騒ぎたり
一惣て外国人ハ棒を引?集りて唐人の勢を防ぐ事を勉強
 したれ共、漸々唐人の勢相加ハり、終に凡七千人に及び
 し故、外国人等其勢を防ぎ兼て各その館に立退たり
一マンデレイン
検使役のもの及び兵卒を出して外国人を防御
 せらるゝ様に本商人とも執成したり、然れとも唐国の外国
 館に乱入たる唐国の卑夫の勢夥しく、殊に乱妨なる故
 何れも逃退きたり、其時卑夫の礫一人のマンデレインの
 頭に中り、疵を受け倒れ全快のほと覚束なき躰なり
一唐国の卑夫ハ礫を打事に妙を得たる故に、硝子屑を
 外国人の家に投込、内々入らむとなりて乱妨募りし後、
 一隊のスタッツソルクア
街中を警固する兵士出て其一騒を
 防ぎ止む
 (アヘン密売中国人処刑と外国館へ暴徒)
○1838年12月12日、中国の商会長命令でアメリカ
商館の隣に処刑の柱が建てられた。 これは禁制の
アヘン取引をした中国人を死刑にする為である。

○アヘン取引をした外国人の家が壊されないので、
甘く見て終にその罪を犯した者である。 その商館
に様子を窺う中国人が集り、初めは静かだったが、
中国人の癖で騒ぎ出した。 外国人達は怒って
中国人を追出そうとした事から、大騒動になり中国人
は外国人に石を投げつけた。

○外国人達は集って棒を張り中国人の勢いを抑え
ようとしたが、次第に暴徒が増え7千人にも及んだ
ので防ぎきれず商館に立てこもった。

検使役人や兵卒を出して外国人を保護する様に
中国商人達が執り成したが、外国商館乱入の暴徒
の勢いが強く、彼らも逃出した。 その時検使役人
の頭に暴徒の石礫が中り、負傷し快復も覚束ない
程である。

中国人暴徒は硝子屑を外国人の家に投げ込み
中に入ろうとしていたが、一隊の警固兵士の出動で
防ぐ事ができた。
一外国人等前に訴出たか、次第に因てハ広東の都督の
 命令に仮令外国人等の住所たりとも決して其侭にいたし
 置訳なく、此住所ハ唐国の物たる事を示し、若此末共
 密売買せしものあらは、用捨なく唐国より追払ふとの
 事なり
一第十二月十八日にエケレスの重役より申渡あり、是則
 エケレスの商人等に示せし事にて、若禁制の商売したる
 船あらハ広東の川より追払ひい、唐国法令通取計ひ、
 其罪人はエケレスの役筋ハ用捨すへからずとの事也
一右申渡有たる末エケレスの重役申渡の意通りに成たる
 故に、其趣を広東の都督に直ちに申出、エケレスの商売
 千八百百三十九年
天保十亥年第一月一日に赦免ある様
 に申立、同二十二日に赦免を得て屋形船六艘広東と
 亜瑪港との間を通ハせ書状並に役掛りのものを卸したり
   (英国監督官より商人達に通達)
○外国人達は訴えたが広東の総督の命令である
から外国人の住居と云えども決してそのままにする
訳はなく、住居の土地は元々中国のものであり、もし
今後密売買すれば、容赦なく中国から追放するとの
事である

○12月18日(1838年)に英国の重役より英国商人達
に指示した事は、もし禁制の商売をした船があったら
広東の川より追放し、中国の法に従い罪人を英国
役人は保護しないとの事である。

○この通達の後英国重役は広東の総督に対し、
英国人の商売を1839年1月1日には許可される
様に申し入れ、 同22日には許可を得て屋形船6艘
で広東とマカオの間を通わせ、書類や役所書類を
広東に卸した。
一已前の通商売穏に遂る事に至らざる前日、唐国の法令
 厳しくして広東・亜馬老・ワンポアにある船の吟味甚しき
 によりて商売の障となり、殊に外国人等一向にしらさる
 禁制の品を取出し唐国役筋にて急度外国人の仕業と
 疑を受し事あり
一唐国高官の人等、帝に銘々の存寄を申立、阿片国中に
 用ふること及び入ことを防ぐ方便を考出し、其趣を進言し
 又々国中に命を下し阿片を用る者ハ勿論、仮令其器
 及び煙管等に至る迄、持扱ふものハ死刑に行ふへきと
 の趣なり
一此趣意通りに全く取扱ふにハ甚難き事ハいふに及ハ
 さる事也、其訳ハ外国の商人ハ勿論、唐商人も阿片
 商売にて莫大の利益あり、其利益ニて六ケ敷事ニも償ひ
 且此阿片を呑習し者は是を止る事実に難儀なる故に
 前にいふ如く互に手段を尽す
   (アヘン禁止の強硬論が拡がる)
○以前の様に商売が穏やかに行われる前に、中国
の法令を厳しくして、広東、マカオ、ワンポアに碇泊
する船の検査が厳しくなり商売に差支えた。 特に
外国人が全く知らない禁制の品を取り出し、中国
役人より、これは外国人の仕業と疑いを持たれた事
もあった。

○中国高官達は皇帝に夫々の意見具申し、アヘン
の輸入、使用を防ぐ方策を進言した。 その結果
国中に命令を下し、アヘンを使用する者は勿論、
仮令その器やキセル等に至るまで取扱う者は死刑
にすべきとの事だった。

○しかしこの趣意通りに実行する事は非常に難しい
事は云うまでもない。 それは外国商人は勿論中国
商人もアヘンの取引で莫大な利益を得ており、その
利益はリスクを上回り、間tあ一旦アヘンを使用した
者はこれを止める事が非常に難しいため、あらゆる
手段を尽くすだろう。

一千八百三十九年
天保十亥年第一月一日に大清帝より
 広東港に於ての調役兼奉行ヲ申付て阿片商売を停止
 の命あり、此大切なる用向を命せられしハ「リンチェイ
 チュン」といへるウックワンのオンドルコーニングなり、
 此人一躰勇且厳なり、是等の事ハ此人の取計風は知る
 へし
一第三月十日此人初に広東に到着したり、然るに其頃
 黙止かたき彼是の事ありたり
一皆人知るが如く唐国にてハ外国人江稠敷命あるは本商
 人の外、唐国の人と交を結ぶことならさるとなり、則其
 住居并品物蔵等も他と引離し建てあり、漸々復したる此
 禁制を第二月一日に再び改られて、外国人住居所及び
 蔵の裏手の戸市中の方に明き、市中の人と往来自由
 なるものを塗塞かれたり
一第二月二十六日外国館の方の地面に於て阿片商売
 唐人を死刑に行ひたり、 此事を外国人等知れハ極めて
 讐をなす事を計り、外国人等舟遊等の時を見済して其
 仕置をしたり、然るに外国人等帰館の上是等の事奇怪
 に思ひて商館に建たる旗を引卸したり、此唐人等大に
 取讐く事也
 其末外国商人等此等の事に付、大に迷惑する由唐国
 の酋長に申立たて共一切聞入さる模様なり

一第三月七日にエケレスの重役、唐国通を免されざる船
 川より追払ひ再び来らざる様に達したり
 (アヘン取締に林則徐欽差大臣に任命さる)
○1839年1月1日、中国皇帝は広東港の欽差大臣
を命名し、アヘン商売を停止させる事とし、この
重要な役に任ぜられたのが林則徐という湖広総督
である。 この人は大変勇気があり、且厳格である。
この事はこの人のやり方を見れば分る。

○3月10日林則徐は初めて広東に着任したが、其頃
黙止できない色々な事があった。

○皆が知っている事であるが、中国において外国人
に頻繁に命令された事は、指定中国商人以外の
中国人と交際しては許されなかった。 これは住居
並びに倉庫等も他と引き離して建ててあった。 
少しずつ緩んだこの禁制も2月1日に再び改められ
外国人住居及び裏手の戸が市中に向いて、市中の
人と往来自由だったものが壁で塗りふさがれた。

○2月26日には外国館の地域でアヘン取引をした
中国人が死刑に処された。 この事を外国人達が
知ると騒ぐと考え、外国人達が舟遊び等で居ない
時に行った。 帰館した外国人達がこの事を知り、
商館に建てた旗を引き降ろした。
外国人達はこの事に付いて大変困惑している事を
中国の責任者に申し入れたが一切聞き入れない
様子だった。

○年3月7日には英国の商務監督官は、中国
への渡航を許可されない船は広東の川から追放し
再度来ない様に通達した。

エケレスの重役: 商務監督官 C.エリオット大佐


一調役兼奉行「リンテャイチュン」広東に着迄の事ハ則
 右の如し、其末非常の事発りたり
一第三月十八日に「リンチャイチェン」より二通の申付書を
 渡し、一通ハ商人一通は外国人江渡したり、其外国人
 への申渡には外国人等広東の湊にある二十二艘の船
 積請たる阿片を唐国役方に相渡すへく、然上表通り其
 阿片を何の用にも立さる様にして以来持渡りを留め、若
 持渡り於ては其船及び積荷物をも取上げ、乗組の者ハ
 何れも死刑に行ふもの也、是等否の返答を三日程有免
 されたり
一エケレス人等命令を拒たれ共、第三月十九日廿一日に
 至て、亜馬港及び「ワンポア」の通ひ口を兵卒方便にて
 固め、川筋ハ武器を備へたる船にて立切唐人の意の侭
 に取扱れ詮方なく一千三十七箱の渡す事を承諾したり
一右渡したる高ハ「エケレス人等囲し内の僅の商の品とて
 リンチャイチェン」エケレス」商人のうち重立たる一人を
 召呼、意趣を申聞せて差出たる僅の高ハ受納せられす
 と申談たり、此後成丈逃れんが為此命令に服せざるに
 依て第三月廿三日に本商人二人足械と入れエケレス館
 の前に引出し、調役の意に逆ふるに於てハ用捨なく
 死刑に行ふと也
  (林則徐の外国船にアヘン差出命令)
○欽差大臣林則徐が広東に到着するまでの事は
前述の様な状態だった。

○3月18日に林則徐は2通の命令書を発し、1通は
商人1通は外国人宛で、外国人等に広東港に停泊
する22艘の船に積まれたアヘンを中国側役人に
渡す事、その上でアヘンを役に立たぬ様にし以後
持込みを禁止する。 もし持込めば船も荷物も没収
し、乗組員は死刑にする、というものであり、返答
には三日の猶予が与えられた。

○英国人はこの命令を拒否したが、3月19日、21日
にはマカオとワンポアの通船口を兵卒で固められ、
川筋には武器を積んだ船が配置されたので、圧力
に屈し仕方なく1,037箱を渡す事を承諾した。

○上記の引渡し量は英国人が保持している内の
僅かな量である、として林則徐は英国商人の幹部を
呼出し趣旨を説明し、受納しなかったという。

○その後英国商人も言を左右し、命令に従わな
かった為、3月23日には商人2人が足かせをされ
英国館の前に引き出され、欽差大臣の命令に
逆らう者は容赦なく死刑にすると言う事である


22艘の船:珠江川口に停泊しているアヘン密輸の
為の英国の洋上倉庫、公然の秘密倉庫だった模様

一第三月廿四日に外国商人江食用の品を与へし唐人
 死刑に行ふとの命令あり、故に外国人江仕へし唐人等
 其死刑を免れん為に其手を離れたり、右を妨かん為に
 川手の方ハ三艘の兵船を以て取囲ミ外国館の前には
 四千人の卒にて囲ミたり、其日ここに着せしエケレスの
 重役唐国の調役「リンチャイチェン」に我国の徒此地を
 離れん為に免状を願出たり、然とも此事持囲たる阿片
 差出し、以来禁制を背かざるため盟約したる後に右の
 願済たり、尤此盟約に破れたり
一此阿片密売買ハエケレス人のミにて、和蘭人仏朗西人
 および亜墨利加人等は決して右等のことをせぬといへ
 とも差別なく、エケレス日夜厳敷取扱を受たり
  (命令不履行に対する英国商人締付け
○1839年3月24日外国商人へ食料品を与えた中国
人は死刑にする、との命令があった。 そのため
外国人に召し使われる中国人達は死刑を避ける
為に、雇主を離れた。 食糧供給を阻止する為に
川手には三艘の軍船を配置し、外国館の前には4千
人の兵卒で取囲んだ。 

○英国の駐在幹部は英国商人達がこの広東を去る
ための許可を欽差大臣に求めた。 
しかし、それは保持しているアヘンを差出、再び
禁制に背かない事を約束した上で許可する、と云う
事でこの交渉は破綻した。

○このアヘン密売は英国人だけてあり、オランダ人・
フランス人・アメリカ人は決してこれを行わなかった
ので弾圧はなく、 英国人だけが日夜厳しい制裁を
受けた。

一第三月廿六日に又制札を出せり、其趣意ハ持囲ふたる
 阿片の四分一を差出候得者エケレス人に仕へたる唐人
 を返すへきとの事、阿片半高を差出さば食用の品を送り
 与へ、且船への通行免す事、四分の三を差出さは商売
 元々の如く免し、万事是迄の通に致置へきとの事也

一爰に於てエケレスの商人等差迫り此場免るゝに道なく
 思ひ、終に右の達に任せたり、エケレスの重役差嵌り
 其国の人に申諭せしハ「エケレスの奉行所にも自分より
 申諭ハ致遣ハす故、ここに持囲ひたる阿片ハ不残差出
 すへしとなり、 其阿片の箱数ハ二万二百八十三にして
 其値ハ二千四百「ギュルデン」なり
一其趣意通りに取計ひ出来迄外国の重役共并唐国の
 役人と打寄なと数度せし事あり、其打寄に関にて外国の
 重役共に取極をする様に申談たり
 其取極ハ阿片を一切持渡らず、若持渡るに於てハ船并
 積荷物取上、乗組の者なとハ死刑に行ふとの事なるに、
 外国人の重役も其事不承知ニ而、其一躰の取扱整はず
  (英国アヘン提出同意、誓約はなさず)
○1839年3月26日に叉命令書がでた。 その趣旨は
保持しているアヘンの1/4を差し出せば、英国人
に仕えていた中国人は返す。 アヘンを半分差し
出せば食料品を送り、叉船との連絡を許す。 3/4を
差し出せば商売を元の様に許し、全て今まで通りと
する、と言う事である

○ここで英国商人達も追い詰められ、此の場を凌ぐ
他の方法もなく、終に上記命令に服す事にした。
英国商務官が説得するには、英国政府にも自分
からも説得するので、保持しているアヘンは残らず
差出す様にとの事である。 そのアヘンの箱数は
20,283箱で金額にして2,400万ギュルデンである。

○上記の趣意通りに事が進むまで外国幹部と中国
役人と会合を数回している。 その会議ではアヘン
を一切持込まず、もし持込めば船と積荷は没収し、
乗組員は死刑にする、というもので、外国(英国)の
商務官はこれに同意せず協定は成立しなかった。
一第四月三日に阿片を渡し始て十六日に四分の一を渡し
 たり、因て外国人より召仕れし唐人ハ元々の通仕ゆる様
 に免されたり
一第四月廿四日に半高渡したり、然れ共通ひ船の通行
 いまだ免されさるに因て其余渡す事をせず、此事第五
 月四日に通ひ舟の通行及び商売免されし迄なり
一此日調役リンチュイテンより申諭書を出たり、 其書付の
 趣意ハ、唐国に引留られし阿片商法差留られしエケレス
 商人十六人唐国より追放したり
一エケレス商人より阿片一万八千箱五月五日に渡せし末
 商館の辺ニ五十人程の外国人を揃へて広東より追払ふ
 と云支度あり、然るに唐国役方の心得にて翌日まて用捨
 あり、其時尚叉申渡しけるハ此節一旦追払はれし者
 以来再渡罷成さるとの事也
     (アヘン商人の広東より追放)
○1839年4月3日にアヘンを渡し始めて16日に1/4
渡した。 これで外国人に召し使われていた中国人
達は元通りに戻された。

○4月24日に半分を渡した。 しかし船の通行が
未だ許されないので渡す事をやめた。 5月4日に
なり通い船の通行が許され商売も許可された。

○この日林則徐より通達書がでたが、その内容は
中国に留められていたアヘン商人16人を中国から
追放する事である

○英国商人よりアヘン18,000箱を5月5日渡した後
商館辺で50人程の外国人を広東より追放する動き
があったが、翌日まで猶予された。 その時再度
通達された事は、一旦追放になった者は二度と
渡来出来ないとの事である。

一エケレス」重役并数人の商人等、阿片渡せし後広東に
 居る外国人等自分の身分も貨物のこともさて置、先此處
 を立除き亜瑪港に潜む方便を専らとすへしと思ひしに
 果して意通りに成たり、此時他の外国人も夫に倣ひ、
 二百八十人居りし外国人の内、第六月に至て漸廿五人
 残りし様に成たり、広東を引払ふ前のエケレス商人に其
 重役より申付しハ、此節の損込の高を書記し差出さハ、
 其難渋の次第エケレス国役筋に申立へしとの事也、
 此一体の事ハ左に記す
 第一商売の為に数多の貨物を積込たる船ハ商売を遂ん
 事を計るも、且何の害にもならさるに□純粋の商売を全く
 差止られたる事
 第二広東に居る都ての外国人を理不尽に捕方いたし、
 既に其内には商売方重役も居りしに、斯くなしたるハ
 疑ふ處の阿片もを能く吟味せんか為也、 此阿片ハ
 欧羅巴人或ハ印度人の者にて、値二千四万キュルテン
 なりを渡させたり
 第三阿片を渡さゝる以前、外国人に対し申渡すに唐国
 の法を背くは死罪に行ふへきとの廉恕の令あり
 第四外国人共申極を致置し以前より参り居るハ勿論、
 新渡の右法を知さる者迄も同罪に行との事なれ共、是は
 非道なる話とて拒みたるに、調役「リンチェイチュン」より
 号令を下せしハ何れも罪を免れさるとの事也

 (英国商人マカオに逃避、英国政府に訴え)
○英国商務監督官及び数人の商人はアヘンを
提出した後広東に滞在する外国人達は自身並び
貨物の事もあるが、先ずここを立退きマカヲに潜入
する事を考え実行した。 その時他の外国人もこれ
に倣い、250人居た外国人は6月に25人に減った
広東を引払う時に英国幹部は商人達にその損失高
を記録し提出すれば、その困難さを英国政府に
報告するとの事である。

その全体は以下の通りである。
1.商売の為多くの貨物を積込み、取引しようとした
 がアヘンとは全く関係無いのに全ての取引を停止
 された。
2.広東に滞在する全ての外国人を理不尽に逮捕
 し、その中には商会幹部もいる。 これは全て
 アヘン所持を疑っての事であるが、このアヘンは
 ヨーロッパ人叉インド人の物であり、金額にして
 2千4万ギュルデン相当と差し出させた。
3.アヘンを差し出す前に外国人に対し、中国の法に
 に背く者は死刑にするという命令があった
4.この通達は前から滞在する外国人は勿論、新しく
 法を全く知らずに渡来する外国人迄も同罪にする
 と云う事なので、これは余りにも非道と拒否したが
 欽差大臣林則徐からの命令は何れも罪を免れぬ
 との事である
一六月五日に調役「リンチェイチェン」申諭せしハ外国人
 等是迄申立し訳あるに因て、其船を広東の港に入れ、
 元々の通商売を免し故障なく国に帰る事をも免すとの
 事也

一亜墨利加人のミ申談を承知して第六月十一日に商売
 元の通りニ復したり、 併エケレス人ハ此事を承知せず、
 其模様を窺て船を港に繋げ、何れも船中に潜り居たり
一エケレス人広東を立退き阿片商売を絶されし末、第七月
 中旬調役「リンチェイチュン」亜瑪港に至り禁制の品の
 堅く入さる様に取究め、夫に付色々手段有格別故、
 用ひにならぬ程の瑣細なる事ハ見のかしたり

一外国人亜瑪港に行き并調役リンチェイション」着以来
 起りし事を記す前に、唐国に渡した阿片停止の次第を
 纏め爰に記す
   (英国商人をマカオでも締付け)
○1839年6月5日に欽差大臣林則徐が通達した事
は外国人の是迄の言い分に理由があるものjは、
その船を広東の港にいれ、元々の商売を行って
帰国する事を許すとの事である。

○アメリカ人は中国側の主張を受け入れたので6月
11日には元に戻った。 しかし英国人は受け入れず
様子をみるため船を港に停泊させ、船中に潜んで
いた。

○英国人は広東を追出されて商売を停止されたが
7月中旬林則徐はマカオでも禁制の品物(アヘン)が
入らぬように極めた。 しかし役に立たぬ程の少量は
無視した。

○以上外国人がマカオに移り、林則徐もマカオ到着
の後起った事を記す前に、中国に渡したアヘンが
その後どうなったかを以下にまとめて記す。

一第五月廿九日大清帝より命せられしハ、外国人より渡し
 たる阿片二万二百九十一箱用に立ぬやうにせらるゝに
 因て、其旨土地の者ハ勿論外国人も承知罷在へしとなり
 但此阿片前に記せし二万二百八十三箱の外、広東にて
 取押へられたるによつて此高になる也
一エケレス商人の内罪を免れし者ハ第六月十七日に唐舟
 を以て定め置し場所に送られたり、此者の物語を条下に
 記す
一阿片を囲し場所ハ「チュンホウより至て近き處也、
 此時ハ川辺なり、 チグリス川の口より東に当る此所
 四五百フート
一フート曲尺にて一尺二分四角の墻あり、
 此東方を明け再び口の戸あり、此處に番所を建られたり
 但門通札所持せさる者ハ入る事ならず、此墻より出る所
 の者も能吟味し糺す、此土地の者数人川辺にて船中、
 或ハ其辺の家或は山の上等にこもり阿片滅却する模様
 を伺見たり、其時数多の軍勢、墻の南北に勢揃し居たり
一西方に当る墻の内に三つの壕あり、其壕ハ東より西に
 通り其長さ百五十フート幅七十五フート深さ七フート、
 底に敷く石あり、周囲に大なる木柵有て門を設けたり

一阿片を滅するに壕の内に凡二フート清水を入れ、此水
 ハ其近辺の山より流るゝ様に仕かけたり、其壕の中に一
 二フート宛間を離し板を置き、其末人夫共箱入の阿片を
 其板の上に持運び、箱より出し足にて踏砕き、壕の中に
 蹴入れ、此時外に人夫あいりて鋤鍬を以て上下に□せ
 叉外に人夫有て塩并石灰を投し、これに交ゆ

一此阿片能く水に和する間其侭にいたし置、其末二フート
 の溝の方便を以て阿片水を送出し、壕の中を水を以て
 洗ひ濯きたり
一其人夫凡五百人あり、其差配の為に六八拾人兵士を
 入たり、此兵士共ハ何れも屋根のある械にありて能々気
 を付て守りたり、外の兵士ハ箱より阿片を出し運ぶ所を
 守り、其箱ハ囲ある場所にて打明け、箱并色物番手、船
 より卸したるものと違ハさる様に気を付たり
一実に高価にして災を起すアヘンを斯く人々にも望む事
 の出来ぬ様になしたるハ此上の厳き仕方なしとエケレス
 人いへり
    (国帝の命で没収アヘン現地滅却)
○1839年5月29日国帝より命令された事は、外国人
が渡したアヘン20,291箱を役に立たなくなるように
する事であり、この事を中国人は勿論、外国人も
それを認識する事である。
但しこのアヘンは前に述べた20,283箱の他、広東で
押収されたでこの数量となる。

○英国商人の中で罪に成らなかった者は6月17日
に中国の船で決められた場所に送られた。 その者
の話しを以下に述べる。

○アヘンを保管する場所はチュンホウから近い所の
川辺である。 チグリス川の川口より東に当る場所
に400-500フィートの堰(かき)があり、東を開け叉
口の戸がある。 ここに番所が建てられ、通行証が
無ければ入れない。 この墻より出る者も厳しく検査
される。  この土地の住民が川辺、船中、或は付近
の家、或は山の上からアヘン滅却する様子を見た。
その時多数の軍勢が墻の南北に整列警備している。

○西側に当る墻の中に三つの壕があり、その壕は
東から西に長さ150フィート、幅75フィート、深さ
7フィートで底には石が敷いてある。 周囲に大きな
木柵があり門を設けてある。

○アヘンを滅却するには、壕の内清水を2フィート入
れ、この水は近辺の山から流れ込むようにしてある
壕の中に1-2フィート間隔で板を置き、人夫達が箱
入りのアヘンをその板の上に運び、箱から出して足
で踏み砕き壕の中に蹴落とす。 他の人夫は鋤鍬
で上下かき混ぜる。 叉他の人夫は塩と石灰と入れ
これと交ぜる

○アヘンに水が良く浸み込む迄そのままにして、
その後2フィートの溝にアヘンと水を送出し、壕の
中を水で洗い濯ぐ。

○それに掛る人夫は凡そ500人程で叉監視する為
60-80人の兵士を投入する。 これ等の兵士は屋根
のある建物で厳重に監視し、他の兵士は箱から
アヘンを出して運ぶ所を警備する。 その箱は囲い
のある場所で開き、箱の色、番手など船から卸した
ものと違わないように気をつけている。

○非常に高価だが災いを起すアヘンをこの様に誰も
望む事ができない様にする為にこれ以上厳しい方法
はない、と英国人は言っている

一調役「リンチェイチョン」亜瑪港に着してより厳き法令
 増たり、亜瑪港に滞船したるエケレス船の水夫上陸して
 土地之の人と交りしとて、其唐人ハ死罪に行ハれたり
一調役「リンチェイチェン」申付しハ其法を犯したる者
 唐国の法通りに戒むるに依て渡すへく旨を諭したれ共、
 エケレス人等承知せす、故に第八月十五日に至て食用
 の品を入るゝを留め、同十八日に至てハ広東にてせし
 如く其召仕の者を無理に引取たり、尚斯の如くなす時
 ハ必エケレス人等自分の方に害ありと思ふ様に唐人等
 計りたり、エケレス人等の考に斯の如きの模様ニてハ
 亜瑪港に居るホルトカル人等に至るまでも安心の場に
 は至らずとてエケレス人等眷属を召連船に引越すこと
 良計なりと決し、同廿六日に其意通りにしたり、 其後
 数艘の船ホンコングに至る、此ホンコング」ハ船繋がり
 に安全の場所なり
 (林則徐マカオに到着、英商人船に避難)
○欽差大臣林則徐がマカオに到着してから更に
厳しい法令が増えた。 マカオに滞船している英国
船の水夫が上陸して現地の人と交わった、という事
でその中国人は死刑となった。 

○林則徐の命令として、そのほうを犯した者は中国
の法令に従って処理するので引渡すべく要求が
あったが英国人はこれに応じなかった。 
その為8月15日に食料品の供給を止め、同18日
には召使の者を無理に引き取った。 尚この様に
する時は必ず英国人の方に非がある様に中国人は
取計らった

マカオにいるポルトガル人でさえ安心できない、と
英国人は一族を引き連れ船に引っ越すのが良いと
決め同26日には引っ越した。 その後数艘の船が
ホンコンに到着したが、このホンコンは船を繋ぐに
安全な場所である。

一第八月三十一日に唐国海辺の住人等エケレス人の
 上陸するを防ぐ事を命せられたり、故にエケレス人共
 殆ど食用に難渋して余儀なく乱妨して食を求ることを
 思ひ付たり
一此為にエケレスの軍艦二艘
 此内一ツハ「スクウネルにて
 二本檣の西洋船一ツハ「コットル」ニて一本檣の西洋船なり
唐国の
 砦ある所の近辺に押寄たり、其後其所に船繋したる唐国
 の軍艦に近きエケレス人の船国印ある旗を引揚、唐国の
 軍艦の頭役に知らしむるは、若食用の者を与へされハ
 建たる旗を引下け、直に戦に及ぶとなり、唐国の住人等
 海陸に食用の品を集し所、唐国の酋長食用の品を集め
 し唐人等にエケレス人に運ぶ事を禁したり、故にエケレス
 人等砦并唐船に向ひ石火矢を打掛しに、唐船三艘直に
 打砕け浜手に流れ、乗組の内少しハ即死したり、エケ
 レス船の方にてハ無難にて纔三人手負たり
一此時唐人を殺せしものを差出へく旨申付れ共、其意通
 にならず、調役リンチェイチェンより申渡せしハ「エケレス
 人上陸せは直様捕へ殺害すへしと唐人共に諭したり
 此時チグリス川に船繋したるエケレス船大に騒き立ち、
 端船等を卸し往返し騒きたり
   (英国商人兵糧攻めで暴発)
○1839年8月31日には中国海浜に住人達に英国人
が上陸するのを防ぐべく命令が出た。 そのため英国
人は食料に困り、止むを得ず力ずくで食料を確保
する事を考えた。

○この為に軍艦二艘(2本柱のスクーナーと一本柱
のコットル)が中国の砦のある所に押寄せた。 
そこに碇泊する中国軍艦に近づき、英国旗を掲げ
中国艦の長へ通達した事は、もし食料を与えなけれ
ば建てた旗を降ろし、直ちに戦闘に入ると云う事で
ある。 

○中国の住人達は海陸に食料を集めたが、中国側
責任者は英国人に運ぶ事を禁じた。 そこで英国艦
は砦と中国艦に砲撃を開始し、中国艦三艘は直ぐに
粉砕され、浜手に流れ乗組員も少々即死した。 
英国側は無事で僅かに3人が負傷した。

○この時中国人を殺した者を引渡すべく命令したが
その通りにはならない。 林則徐は英国人が上陸
したら直ぐに捕らえた殺害するようにと中国人達に
命じた。 この時チグリス川に繋留している英国船が
大に騒ぎ艀で陸地と往復した。

一第九月十二日にチイハアの湊に船繋したるイスパニア
 船
船号ヒルバルノを唐人等阿片を積たるエケレス船と見て
 数艘の軍船を以て取囲ミ始は船を焼打する為の仕組
 なれ共其企直に行ハれず、依て船に石火矢を打掛け
 仇をなすとなり、此乗組の者とも恐怖して逆はず船より
 飛下り、多くハ唐人の手に捕れ、其船ハ無理取して
 焼捨たり、乗組の内六人ハ唐人とも亜瑪港辺の小島に
 連越し、十三人ハ大端船に乗せ、其端船ハ棹も楫も
 奪ひ衝放したり
一此難渋に逢ふたる者共を格別エケレス人心配して助け
 亜瑪港に連越したり
一チイバーの湊の密売買等を除く為に亜瑪港にある
 ホルトカルの役筋より武器を備へたる船を出し、船々を
 吟味させ、若制禁の品積請し船あれハ取上たり
  (英国アヘン船と誤解しスペイン船焼討)
○1839年9月12日、チーハーの港に停泊のスペイン
船を中国人はアヘンを積んだ英国船と思い、数艘
の軍艦で包囲し船を焼討にする予定だったが計画
通りにならなかったので砲撃した。 乗組員達は恐れ
て逆らわず船より飛び降りた。 多くは中国人に
捕まり、船は取られて焼き捨てられた。 乗組員の
中6人はマカオ辺の小島に連れて行き、13人は艀
に乗せ、楫も棹も奪い突放した。

○この災難にあった者達を英国人は心配して助け
マカオに連れてきた。

○チーハーの港の密貿易を除くため、マカオにある
ポルトガル政庁より武器を備えた船を出し、各船の
検閲を行った。 もし禁制の品を積んだ船があれば
取上げた。

一エケレス商人ハ夥しき損込あれとも取扱ひ有之商売、本
 に復することを希たり、第九月四日にエケレス重役と亜瑪
 港の重役と寄合有之、唐国役筋よりの申渡書左之通
 出たり
 第一阿片を積たる船ハ唐国の渚に近寄間敷事
 第二阿片を渡したる船并十六人の追放されしエケレス人
 も子細なく唐国の地を立退くべき事
 第三唐人を殺せしエケレス人を渡すへき事
 第四其余ホンコン」にある船ワンボア」に至るへき事
一万端唐国趣意通に取計ふへき旨を以てエケレス重役
 申立しハ、極めてエケレス役筋より新に命令有へく間、
 夫迄猶予あり度旨申立たり、其後エケレス人亜瑪港も荷
 積する事を免されたり、其余の商人も此免を得て亜瑪港
 に帰り、其商売筋の事を本商人と談合したり
一諸事以前の通に復する事を希ひ、船々相互に吟味合
 テイケル川の外にて再商売を開きたり
一唐国役筋の趣意ハ阿片商売ハ其値ニハ拘らす全く停
 止する事を心掛、エケレス人奇怪に思ふ事を仕出したり
 其趣向ハエケレス船の底を打砕かれしより第十月廿六
 日に至りて大に騒動と成たり
 (中国主張を受入れマカオで商売開始)
○英国商人は莫大な損失を蒙ったが、 商売が元
通り復活する事を希った。 9月4日には英国商務官
とマカオの幹部が会合を持った。 中国側の通達は
次の通りである
1.アヘンを積んだ船は中国沿岸に近寄らない事
2.アヘンを積んできた船及び16人の追放された
 英国人は無条件で中国から立退く事
3.中国人を殺した英国人を引渡す事
4.ホンコンに滞留する船はワンポアに移動する事

○全面的に上記通りに従う予定だが、英国商務官
が主張したのは、英国政府からの命令を待つので
夫迄猶予願うと云う事である。 その後英国人も
マカオで荷積する事が許可された。 その他の商人
もこの許可を得てマカオに帰り、商談を始めた。

○中国当局の趣意はアヘン商売は金額によらず
完全停止の姿勢であり、英国人が驚くような事をした
それは(アヘン隠匿を疑い)英国船の船底を打ち
砕いた事で10月16日には大騒動となった。 

一調役并其他高官の人より諭せし事、彼是何れ共巨細に
 載せず、只爰に眼目たる事を記すハ亜瑪港よりエケレス
 人を追払ひ或ハ召捕或ハ商売船を焼払ふなとの事なり
一エケレス人ハ此無道の取扱にあへ共一向手を出さす、
 纔に記すが如き事に及べり
一第十一月二日にエケレス軍艦二艘
船号一はホラーセ、一は
 ヒヤシント
来り、其船石火矢五拾挺を備へ乗組三百人なり
 其船頭スミットの支配にて船をテイゲル川口に入れたり、
 其所にてキュンヘイにある調役に使者を遣り、其口達に
 先達てエケレス商売船を焼討の御手段の通、今一度有
 度、其御支度整ふ迄ホンコンに滞船するとせり、此口達
 の趣を答さるに依て、エケレス船頭味方の性命を全くし
 并財宝を奪われさる様に防き居りたり
一此末軍艦に暫く猶予いたし呉る様に唐国役筋より申出
 したり、此時船頭スミットは此返答を聞く為に三里程引
 退き居たり
一翌朝に至りて其エケレス船よりの掛合状を封も切らず
 何の答もせず返したり
 此節唐国の軍艦廿九艘出てエケレス船二艘に向ふの
 気色あり、唐国軍艦の乗組人数或ハ百人或ハ二百人、
 石火矢ハ或ハ八挺或ハ十六挺を備へたり、此時
 エケレス船頭スミット唐国船大将に掛合しハ、其御方の
 船此間の船に余り近寄さる様に成され度、若其事
 御承知なきに於てハ止を得ず石火矢を放つへき時節
 ニも及ふへしとなり、唐国の船大将の答に唐人を殺せし
 者を渡さるへくとのミにて斯の如くなせると答へたり

一唐船風に順ふて追々エケレス船に近付けれハ、唐国
 船大将の乗たる船の舳に始め弾丸一ツ中り、夫に続く
 其唐船より石火矢四発放したり
一戦盛になりて終にハ一時を過て唐人共敗北したり
一唐船三艘沈没に及び一艘ハ虚空に打飛され、其他
 数艘の船哀れの様子なり、乗組共何れも離散し多分ハ
 湊辺に泳ぎ上り助命する事を専ら出精したり
一唐船の内にハ散々の体に打れし船あり、大将乗り船も
 同様にて船大将石火矢にて深手を負ひ他の船に
 乗移たり
一エケレス人も夥しき災害にあひ、殊に疵請たる者一人
 あり、併唐国方の怪我人ハ四五人の間なり
  (再びマカオを追われた英国と川鼻海戦)
○欽差大臣及びその他中国高官があれこれ云った
事を細かく述べないが、只彼らの目的はマカオから
英国人を追払うか、逮捕するか、船を焼払うかで
ある。

○英国人達はこの非常識な取扱いに直面しても、
手を出さず、僅かに次に述べる事があった。

○1839年11月2日に英国軍艦2艘、ボレイジ号と
ヒヤシンス号が、大砲50門を備え、乗組員は300
人で艦長スミスの指揮でテイゲル川口に入ってきた
そこからキュンヘイに居る欽差大臣に使者を送り、
口頭で伝えた事は、先だって英国商船を焼討
されたが、 再度あると考えられるので、ホンコンに
滞船すると伝えた。 この通達の返事がないので
英国艦指揮官は英国人の生命、財産を守るため
に行動する。

○この後軍艦に暫く猶予を呉れる様に中国役所から
要請あり、スミス艦長は返答を聞く為艦を三里程
後退させた。

○翌朝英国艦からの申入書を封も切らすに返して
更に中国軍艦29艘が英国艦2艘に向う様子である
乗組人数100人、或は200人、大砲8挺叉16挺備え
ている。 この時スミスは中国の指揮官に伝えた事
は、余り此方の船に近寄らない様に、もし近寄るなら
止むを得ず砲撃する事もあるとした。 中国側は
中国人を殺した者を引き渡されたい、それだけだと
答えた。

○中国船が風の乗って段々英国艦に近づくので、
中国指揮官ののある船の舳先に一発打った。 
それに続いて中国千からも大砲4発打った。

○戦闘が烈しくなり二時間程で中国側が敗北した
中国船3艘沈没し、1艘は空中に飛び散り、その他
の船も哀れな様子である。 乗組員達は何れも離散
し大方は岸に泳ぎ着き助かる事に懸命だった。

○中国船は散々に打たれ、指揮官の乗った船も
同様で、彼も大砲で深手を負い別の船に乗り移った

○英国側もかなり被害があり、特に傷ついたもの1人
あったが、中国側の怪我人は4-5人である

ホラーセ: Volage 521トン 砲28門
ヒヤシンス: Hyacinth スループ 435トン 砲18門
一叉第十一月初旬にエケレス商売船数艘と戦し事有、且
 船を以て湊内に入さる様の仕組あり、エケレス船頭の内
 間には不承知の向もあれ共ホンコンに船繋する事ハ先
 止めチュンコーに行□一体の模様を伺ふへしと評議せり

一此非道なる事共ありし故、エケレス重役決定せしハ唐国
 役筋の意に任せ商売船頭商売元に復する事を希へ共
 第十一月廿日に斯の如き事ある間ハエケレス船チイゲル
 川口に入るを差留る方然るへしと決したり

一商売船船頭此の如く申付られたれ共、其存寄を止めす
 第十一月廿六日に至て調役及ひ其地の高官より申渡
 あり、其趣意はエケレス船二艘の外都而其余千八百三
 十九年
天保十亥年第十二月六日以後商売差留らるゝ
 事也
一エケレス商人亜瑪加船と商売を元の通にすることを
 試たり、其初めは至て都合よけれ共、第十二月廿六日
 故障あり、既に戒の為に船并荷物を取上られたり
一第十二月三日に阿蘭陀重役唐の地を立退、同六日に
 エケレス東印度商館の役人共立退きたり、何れも唐国の
 商売を止し上ハ何の望もなき故也
 (アヘンに無関係な英国商人達の不満)
○1839年11月初旬、英国商船数艘が中国船と戦
った事があったが、 兎に角港内に入れない様に仕
組んでいた。 英国船長の中に不賛成もあったが
ホンコンに繋留する事は先ず止めチュンコーに行き
様子を見る事を評議した。

○この様な圧力があり、商船の船長達は中国側の
の意向に沿い、商売を元に戻したい希望があったが
英国商務官が11月20日に決定した事が、この
ような状態では英国商船がテイゲル川口に入る事
禁じる事とした。

○商船の船長達はそのように指示されたが、一部は
自分達の意見を止めなかった。
11月26日になって欽差大臣及びその他の高官より
通達があり、英国商船2艘の他はすべて1839年12月
6日以後は商売を停止される事となった。

○英国商人はアメリか船と商売を元の様にする事を
試みたが、初めは良かったが12月26日に発覚し
船と荷物を取上げられた。

○12月3日にオランダの駐在代表が中国を去り、同
6日には英国東インド会社の役人達も中国を去った。
いずれも中国との商売を止めた以上、何の利益も
ない為である。


英国商船全てがアヘンを持込んだ訳ではなくアヘン
に無関係な船は、中国側要求を受入れて貿易再会
を望んだが、商務監督官エリオットはそれを許さ
なかった。 2艘の船トーマス・カウツ号とロイヤル・
サクソン号はエリオットの指示を無視して、アヘンを
持込まない旨の誓約を行った。
一第十二月の末にエケレス人叉々試に丁寧にして宜しき
 模様になる様仕り見たり、然るに右等の事少しも相□へ
 ず、唐国役筋より非道成仕打ありて既にエケレス方に害
 少からずなしたる故、エケレス方よりも其段ヲ以あしらい
 次項に記す次第に至れり
一第十二月廿七日にエケレス商人壱人唐国方より捕ハれ
 しゆへ、エケレス重役取戻しの相談をすれとも聞入す、
 依之千八百四十年
天保十二子年第一月四日に其川口に
 エケレスの軍艦十七日迄備を立て居たる、其備エケレス
 商人壱人を渡すやうにと弥厳重になしたり
一第一月十四日唐国役筋より命令にエケレス船焼捨、
 其乗組の人ハ捕へ殺となり、第二月初旬に法を立しハ
 亜瑪港に居るエケレス人を捕へしと也、此時エケレス人
 ハ其船に逃はしるより外に手段なし
一此法の立たるに依て亜墨利加人ハ夥しく難苦せり、
 此末亜墨利加人ハ自分要用の品に事欠く様になりたり
 畢竟此仕組ハエケレス人と亜墨利加人と交らざる様の
 為なり

一第二月廿五日に唐国方より試しハ「チュンコーに居る
 商売船数艘を焼打するとなり、併風悪敷其事仕損じ唐国
 方著しき害ありたり、既に焼打する火薬を貯へたる唐船
 の内にハ其薬に火移り大怪我出来たり
一第四月の末爰
咬留巴をいふに報らせ来りし事にてハ此
 模様替りし様子ハ見へず
  (英商人達のマカオからの脱出)
○1839年12月末、英国人は叉商売出来る様に試み
たが効果は顕れなかった。 中国側の圧力で英国側
に被害が少なくないので、英国側も対抗した。

○12月27日も英国商人が一人中国側に逮捕された
ので、英国商務官が取り返す交渉をしたが聞き入れ
なかった。 そこで1840年1月4日川口に英国軍艦
を17日まで配備し、1人に英国商人を返す様にと
中国側に圧力をかけた。

○1月14日中国役所の命令として英国船は焼捨て
乗組員は捕らえて殺すと云い、 2月初旬に法令を
出してマカオにいる英国人を捕らえる事になる。
この時英国人達は船に逃込むより他に方法が
なかった。

○この法の為アメリカ人は非常に苦慮し、自分達の
必要な品々に事欠く様になった。 つまりこの方策は
英国人がアメリカ人と交わらない様にする為である

○1840年2月25日は中国側の試みでチュンコーに
滞船する商船数艘を焼打ちを図った。 しかし風向
が悪く失敗し、中国側に大きな損害がでた。 焼打
用に準備した火薬に火が移り大怪我をしたもの。

○4月末、ここバタビアへ届いた情報では現在の
状況が変った様子は見えない
一阿片を唐国に持渡る事ニてエケレス人ハ勿論唐人も莫
 大の利益を得たれ共、今此商売の道を絶されたり、実に
 此已前ハ此商売盛なれハ極めて此末も時宜に寄てハ
 元に復する事もあらんかと思へり
一エケレス人唐国商売の止たるに因て夥しき損失あり、
 其銀高十五億ギュルデン也
 唐人方の損失も叉少からさる也、阿片手弘くなり人多き
 唐国の内、数千人此商売にかゝり渡せし者あれ共、此
 以来ハ其渡世に離れ終にハ盗賊となり亜瑪港広東の辺
 ニて甚しく其悪行をなせり

一是迄唐国に於て非道の振舞を受し事、追々エケレス
 商人共より其支配頭に申立しによって、其風説段々
 諸国に流布せり、爰にエケレス国者勿論喜望峰
地名
 印度に於て専ら武器を用意し、唐国に仇を報せん為に
 数艘の軍艦を出張する当時手段最中なり
一右唐国に責め寄する手段ハ陸手・海手と是を分り、其
 陸手者大将其外武官の者共騎馬兵卒を引ひ、其海手
 者数艘の軍艦武器を列して、先ツ海手より責寄せ広東
 を焼き払ふ手段なり、
 然れともエケレス極意の計ハ広東を焼払ふのミの手段
 にあらず、 成る丈の礼法を尽し丁寧に尊敬し、加ルに
 唐国に多分の国益を備え、帝王と盟をなして、以後
 睦しく故に復するを希ふ趣意なり
 (アヘン取引停止の影響と英国の戦争方針)
○アヘンを中国に持込む事により、英国人は勿論、
中国人も莫大な利益をえたが、今後この商売の道を
断たれた。 以前は非常に盛んな商売だっただけに
今後も状況によっては復活する事もあるのではと
思われる。

○英国は中国との商売が停止した事で大きな損失
を蒙り、その金額は15億ギュルデンという。
中国側の損失も少なくない、 アヘンが広まる事に
より数千人がこの商売も絡み生計を立てていたが、
この後は生活の糧を失い、終には盗賊となり、
マカオや広東辺で悪行をなしている。

○これ迄中国で弾圧されてきた事を英国商人達が
その関係筋に訴え、その噂は諸国に拡がった。
ここで英国は勿論喜望峰やインドにおいて武器を
準備し、中国に報復すべく数艘の軍艦を出動させる
準備を進めている。

○中国に攻め寄せる方策は陸・海双方からとし、
陸軍は大将や士官は騎馬で兵卒を率い、海軍は
数艘の軍艦に武器を積載し、先ずは海手より攻めて
広東を焼払う計画である。

○しかし英国の真意は広東を焼払うだけでなく、成る
べく礼を尽くして中国にも国益になるように国帝と
条約を結び、以前の様に商売を元に戻す趣意で
ある。


英国が中国に派兵を決定したのは1840年2月で
議会で賛否僅少差(271:262)で派兵となった。
右之趣、咬留巴頭役より申上候様申越候ニ付
 奉申上候
              かひたん
                 えてゆあるとがらんでそん

  右之通申出候ニ付和解仕、原書相添旨申上候
        子七月
                 中山作三郎
                 石橋助十郎
バタビアの総督より以上報告して来たので申上げる
        商館長 
              エデュアルト ガランデソン

  以上報告有ったので和訳して原書を添えて  
  申上げる
      1840年8月(天保11年7月)
                 中山作三郎
                 石橋助十郎

出典: 阿片招禍録 国立公文書館内閣文庫、 籌辺新編 佐賀県立図書館鍋島文庫    

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