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                オランダ風説書を読む その3
                
―初期別段風説書とアヘン戦争―
 
  別段風説書は中国におけるアヘン戦争の詳細報告から始まったと云われているが、漸く実際の
写本に接する事ができた。 1840年―1845年の6年分は別段風説書と云う名を使った写本はなく、
中国におけるアヘン戦争をテーマとした年次報告の形になっている。 籌辺新編(佐賀県立図書館
鍋島文庫、下記1-6収録)、阿片招禍録(国立公文書館内閣文庫、1-4収録)、エキレス人日記和解
(早稲田大学図書館古典籍、2-3収録)等の写本にそれぞれ部分的に組み込まれている。 
別段風説書の名前を使い始めたのは1846年(弘化3年)分からであり、叉その時からアヘン戦争問題
を離れ世界情勢の報告となるが、既に本HPでも紹介済みである。

各年次の主要内容は以下の通り
1.1840年(天保11年6月長崎到着)報告書     翻刻及び現代文訳・注へ
  1838年から1840年3月頃迄の記事。 国帝の命により徹底的にアヘン密輸撲滅を推進する
欽差大臣林則徐は英国商人達にアヘンを持込ない旨の誓約を迫る。 しかし英国代表の商務監督官
C・エリオットはアヘンに無関係な商人達にも誓約を許さなかった。 その結果英国商人達は広東を
追われ、逃込んだマカオも追われ洋上に彷徨う。 この状況下で英国議会は中国に自由貿易と開港を
名目に武力介入する事を賛否僅少差で決定する。 

2.1841年(天保12年)報告書           翻刻及び現代文訳・注へ
  この年オランダ船は嵐の為来航なく翌年分と併せ到着するが、1840年から1841年3月頃迄の記事。 
  英国艦隊が到着し広東川口を封鎖、主力は北上して舟山を占領、更に北上し天津に到達し北京政府
に圧力を懸ける。 動揺した北京政府は林則徐を罷免し、代わりにg善が英国との和睦交渉に当る。 
戦闘と交渉が繰り返され、英軍の広東攻撃を契機に和睦となり英国は舟山を返還しホンコンを得る。 
広東で英人商売再開する

3.1842年(天保13年6月長崎到着)報告書     翻刻及び現代文訳・注へ
  1841から1842年3月頃迄の記事。 ホンコン割譲を国帝が容認せず再び英人討伐を命令し広東の
外国人は船上に避難する。 英軍は直ちに広東に上陸し制圧、商館を取り戻す。 英軍は指導部を
一新し、ホンコンを拠点とし舟山を再占領すると共に、沿岸部の諸都市を次々攻撃占領しながら
北上する。 ホンコンを中心に貿易は再開される。

4.1843年(天保14年6月長崎到着)報告書      翻刻及び現代文訳・注へ
   1842年から1843年3月頃迄の記事。 英国の訓練された軍隊と圧倒的な艦船、武器の差で
中国側を圧倒して寧波、乍浦の占領後、揚子江(長河)を英艦隊は遡り、上海、鎮江を占領後
南京に迫る。 南北の物資輸送の大運河を英側に押さえられ、終に中国側は和睦を提案し8月29日
南京条約(五港開港、ホンコン割譲、賠償金2,100万ドル等)締結となる。 戦争が終わり各地
開港準備が進む一方、広東では英国不信は強く12月大規模な住民の暴動が起る。

5.1844年(天保15年6月長崎到着)報告書      翻刻及び現代文訳・注へ(抄)
   1843年から1844年3月頃迄の記事。 戦争の終結でホンコンでの英中の講和式典の様子及び
南京条約の細目、特に通商条約の交渉及び内容詳細(虎門追加条約)

6.1845年(弘化2年6月長崎到着)報告書       翻刻及び現代文訳・注へ    
   1844年から1845年3月頃迄の記事。 英国全権、初代ホンコン総督のヘンリー・
ポッティンジャーの裁判所設置、第2代総督ジョン・デービスの住民登録の政策等記述。 英国と
中国の貿易が大幅に増加し、アメリカ及びフランスも虎門追加条約に倣い、夫々通商に関し
望厦条約及び黄埔条約を締結した。

   この年次報告書(別段風説書)のソースはシンガポールや広東、マカオの英字新聞を
バタビアのオランダ政庁で整理しオランダ語で記述したと云われている。 従って戦闘記事等は
英国寄りの内容となるのは止むを得ないが、それでもアヘン密売撲滅を図ろうとする林則徐等は
好意的に書かれている。 この報告書がもたらされた当時日本では天保の改革の最中であったが、
異国船打払中止令等はこれ等報告書に基き決定したと云われている。

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写本 籌辺新編より       拡大 写本 阿片招禍録より       拡大

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