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1841年(天保12年)オランダ別段風説書

和蘭暦数一千八百四拾年天保十一子年ニ当ル より一千
八百四拾一年
同十二丑年ニ当ル にて唐国ニ而エケレス
人の阿片商法停止方ニ付記録いたし候事
西暦1840年より1841年迄の清国における英国人による
阿片売買停止について記録した事

一阿片一件ニ付唐国奉行所とエケレス人と相互ニ
 不平を抱きし発端の事を記し、此以前ニ差
 出候書面者、去ル一千八百四拾年
天保十一子年当ル
 四月
皇国三月ニ当ル迄の事、則エケレス人広東より
 亜瑪港ニ退き、不容易始末ニも可及と恐怖至極之場
 合ニ有之候段申上置候儀ニ御座候、然ル処其末右
 一件今以不相治、弥双方の勢相募り不穏事ニ御座候
一亜瑪港の地者、近来盗賊押入等の類夥敷有之、
 エケレス国の福有なる商売の、或ハ途中にて追剥、
 或ハ其旅宿ニ押入、狼藉に遇候事共有之候、右狼
 藉いたし候者ハいつれも唐人にて、是等ハ唐国にて
 近来無商売に相成候者とものよし、外に渡世の手段
 も無之候処より亜瑪港辺を徘徊いたし、或ハ盗賊
 或ハ家中に押入狼藉におよび、或ハ殺害等いたし候
 事も毎々有之趣ニ御座候
一右狼藉に遇候者者エケレス人のみならず亜墨利人
 にても其難を免る事を得ず、当惑いたし候事ニ候得
 共其防方なく大に迷惑いたし候事ニ候、右様狼藉の
 儀唐人共江不致様唐国奉行林氏より示も有之候
 由ニ候得共其験無之由候

    (英商人の広東からマカオに退避)
○前に提出した報告書は、アヘン取引について清国
役所と英商人の間で互いに不満を抱いた発端を記した
1840年4月迄の事で、英商人が広東からマカオに撤退
してが不穏な空気に英人が畏れて居た事を述べた。 

其後も前述の状態は今も治まる事無く、双方の不満は
増大していった。

○マカオは近頃盗賊が横行し、英国の裕福な商人の
旅行中や旅宿に押入ったりする。 これらの悪事を
行う者は常に中国人で、彼らは最近職を失った者達と
の事。 他に生計を立てる道もなく、マカオ辺をうろつき
盗賊や泥棒、あるは殺人等も引き起こしている

○これら災難に遭遇するのは英人だけでなく、米人も
被害を受け困っているが、これを防ぎようがない。
このような悪事をなさない様にと、清国総督の林氏よりも
通達を出しているが、一向に効き目が無い由。


林氏: 林則徐(1785-1850)、両広総督、欽差大臣
亜瑪港: 澳門、マカオ

一商売向都而相止ミ候ハ、和蘭三月十八日
皇国子二月
 十五日ニ当ル
 ポルトガル人ハ亜瑪港ニて商売相遂候
 得共、エケレス人には差障り、エケレス人のみ相困候
 訳に無之、唐国土地之者共エケレス人に茶・絹物
 其外諸色商ひ候者とも渡世を失ひ、以之外難儀ニ
 及び、其上其土地のものハ相互の商ひも 衰微致し、
 殊ニ食物等をエケレス船に送り、商ひ致し候事も制禁
 ニ相成り、遇ニ食物等をエケレス船に手に入候時ハ
 莫大の値を貪り、是等の悪業をいたし候ため、許多の
 唐軍船を河一般に浮へ有之
一唐国奉行の趣意ハ阿片商法一応差留候事ニ
 候得共、縦令如何様の大造の商売たりとも往々
 相止候心得ニ候、然れとも津々浦々にて密売手段
 出来候場所にて密売いたし候者有之候故、専ら
 右取押の兵を出し、或は軍船を出し夫等の事を吟味
 を遂げ違犯致候もの有之時は不差置死罪ニ行ひ、
 猶諸方の奉行江懸合候ニ者阿片持渡制禁之儀弥
 厳敷相触れ、阿片制し方一躰之儀唐国帝に逸々
 申立候様可致と之趣ニ 御座候
一広東には三四拾艘の小船用意いたし、数人乗込
 阿片を積候エケレス船を押領いたし焼捨申候
 且又小船拾艘程湊内に浮へ置き、唐国土地の者と
 エケレス人との交りをたち候手段ニ候
一色々不相済仕業等有之其上奉行林氏の申渡の
 内に不都合の事共夥敷有之、エケレス人ハ勿論、
 唐国土地のものとも甚不平に思ひ候事専ら有之候
  (林則徐のアヘン密輸禁止徹底)
○1840年3月18日には商売取引が全面停止になり、
ポルトガル人はマカオで商売ができたが、英国人は
出来なかった。 困ったのは英人だけではなく、中国の
商人も英人に茶や絹、他の品々を売る事ができなくなり
職を失い大変な困難に直面した。 更に中国人同士の
商売も細り、特に食物等を英国船に送り商売していた
事も禁止となった。 その為偶に食糧を英国船に売る時
は莫大な利を貪る。 これらの悪行を断つ為に、中国の
監視船が河に多数浮んでいる。

○清国総督の趣旨はアヘンの商売は当然禁止したが
それ以外どんな大きな商売でも禁止の方向である。 
しかし津々浦々で密売できる場所では密売する者が
いるので、これを取り締まる為に軍艦を出して監視し、
違犯するものは即死罪とした。 又諸外国出先には
アヘン禁制を厳しく通達し、これに関しては一々清国帝
に報告するとの事である

○広東では30-40艘の小舟を用意して数人が乗込み、
アヘンを積んでいた英国船を差し押さえ焼き捨てた。
又小舟10艘程港内に浮かべ、中国人と英人との接触
を断つ考えである。

○色々未解決の問題もあり、其上林氏の通達には
不都合の事が多く英人は勿論、中国民間人も非常に
不満を抱いていた。

註:
唐国奉行: 此の時の両広総督を指し、林則徐
一エケレス商売共ハ何れも己が国の重役之意を
 背く事無之、依之シュヘルインタント
役名エルリオツト
 
人名の命に任せ、唐人ニ阿片を渡し候事、其阿片を
 焼捨て全く損亡と相成候故、エケレス重役不平を
 抱き候事ニ成行候得共、何れ責懸候様に成行可申
 事ニ至り候て、印度并喜望峰等にて其用意の品々
 仕込候事顕然致候事ニ候
一唐人此時に臨んて防禦の方便無之訳ニ者無之、
 すでに欧羅巴流の仕組等を相恐れ、用心専らに
 いたし頻に防禦の手段心掛け、余程仰天致し候
 様子に相見江申候
一亜瑪港并其近辺の浦々に唐国より歩卒或ハ軍船
 を出して用心専らに致し候故、先は是にて安泰と
 心得居るやうに見へ候事ニ候
一一躰の事ハ和蘭六月廿一日
皇国子五月廿二日ニ当ル
 
至て、兼て待請しエケレス軍艦到着いたし候頃迄
 矢張同様之事ニ候
        (英国艦隊の派遣決定)
○英商人は自国の重役の方針に逆らわず、商務官
エリオットの命令に従ってアヘンを清国官憲に提出
したところ、そのアヘンを焼き捨てられ全損となった。 
そのため英国重役は不満を抱いたが、何れ武力行使
するために、インドや喜望峰で戦争のための品々を
準備する事が明らかとなった。

○中国側はその情報に臨み、防禦の方法が無い訳
ではないがヨーロッパ流の戦術を恐れ、用心して防禦
の手立てを心がけているが余程驚いたようである。

○マカオ及びその近辺の海岸に中国の兵や軍艦を
配備して用心しているので、先ずは是で大丈夫と見た
ようである。

○この状態は1840年6月21日の予定されていた英遠征
艦隊が到着する頃まで上記の状況だった。

註:
エルリオット:Charles Elliot (1801-1875) 1836-1841 
英国商務監督官、英全権使節、初代ホンコン行政官


一右エケレス軍船ハゴルドンブレーメル
人名といへる
 東インドニ有之エケレスの領地を支配するものの
 一手と又外ニ スコウトベイナクト
官名を相承罷在候
 エルリオツト
人名の一手、都合二手の勢ニ有之候
一右軍船亜瑪港前ニ碇を入れ、エルリオット
人名
 勢ハ メルヒルレ
船名に乗組、コルドンブレーメルの
 勢ハウエルレスレイ
船名に備へを立、其他大小之
 軍船十艘、何れも備へを立て罷在候、メルヒルレ
 
船名、ウエルレスレイ船名の両船ハいつれも石火矢
 七十四挺ツヽ備へ、其他ハ或は四十四挺或ハ
 拾六挺の石火矢を備へ申候、其外諸運送の船数
 艘并ストームボート
火気の仕かけニて風ニ不拘自由ニ
 進退する船なり
 四艘各武器を備へ、河々并諸渚の
 所ニ備へ罷在候
一多数艘之軍船之外、追々乗組之兵も能く揃ひ
 殊ニ要用之もの備りたる船々エルリオット
人名
 支配内に加り、右軍勢の外今二手のエゲレス勢ニ
 弁柄人一万六千人乗組罷在候、右弁柄人ハ諸所
 上陸なるへき所にて上陸致させ候手段ニて、都而
 良計と相見へ申候
一第一目当といたし候事ハ広東を焼討いたし
 猶要害の地を破壊して唐人を劫して、終にハ北京
 に討入唐国帝を苦しめ、是迄の遺恨をはらし、
 失費を補はんがため、且先々の通り商売の道を
 開んため計ニ候
   (英国遠征艦隊のマカオ到着と戦争方針))
○この艦隊はゴードン・ブレマーと言う英領東インドを
支配する者の指揮下にある艦隊と、遠征艦隊指令を
拝命しているエリオット提督が指揮する艦隊の二つで
ある。

○艦隊はマカオの港前で碇を卸し、エリオットは戦艦
メルヴィルに乗組み、ブレマーは戦艦ウェルズレイに
て其外大小軍艦10艘、何れも臨戦態勢にある。 
メルヴィル、ウェルズレイはどちらも大砲74挺を備え、
その他の軍艦は44挺或は16挺の大砲を備えている。
他に運送船数艘及び蒸気船4艘が武器を備えて河の
入口に展開した。

○艦船の外、乗組む兵も揃い、特に精鋭はエリオットの
指揮下に入る。 又別手としてベンガル人兵1万6千人
が乗組む。 これらベンガル人は各所上陸する所に
展開する手筈となっており完璧な体制と思われる。

○第一目標は広東を焼討し、更に要害の砦を破壊し
中国人を脅かし、最終的には北京を攻撃して清国帝を
苦しめ是迄の恨みを晴らして賠償をとり、又以前の通り
に商売ができる様にする事である。


艦隊指令: Geoge Elliot (1784-1863)英遠征軍
 司令官、少将、特命全権使節
ゴードン・ブレマー Gordon Bremar
Wellesley 戦列艦 1746トン 砲74門
Melville 戦列艦 1768トン 砲74門

一エケレスの軍勢ボクカーデグリスの砦を打壊、舟山
 辺をも押領し猶其地要害よき渚等を取り候ハエケレス
 人の勢盛んに相成へくと相計り罷在候事ニ候、エケレ
 ス人等積々計事有之候得共、子細有て先ツ暫此策
 相止申候
一和蘭六月廿二日
皇国当五月廿三日ニ当ル コムトレ官名
 ゴルドンブレメル
人名広東に到着の上、湊并河口を
 固メ出入ニ相許さず、依之是迄仕来候商売向も一切
 相止候程之義ニ有之候
一唐人者勢を集め諸々武備を調へ候ため大に出精
 いたし、渚を固め大なる石を積候数艘の船々を河に
 浮へ置、難ある時ハ是を沈めエケレス軍勢之入る事
 を防き、扨又河の両浜ニハ礫となるへき数多の石を
 集め積置申候

   (英遠征艦隊による広東の出口を封鎖)
○英軍はボッカテグリスの砦を破壊し、舟山島等占領
し、更にその近辺の海岸を占領すれば英側の勢いが
付くと計画していたが、何か理由がありこの計画は暫く
中止していた。

○1840年6月22日、ブレマー提督は広東に到着すると
港と河を封鎖し出入りを阻止した。 このため従来から
の商売も一切出来なくなった。 

○中国側は人を集め、武器を用意するのに精出し海岸
を固めている。 又大きな石を積んだ船数艘を河に浮べ
いざとなったら船を沈め英軍艦の進入を防ぎ、又河の
両岸には礫となる石を大量に集めて積んでいる。


広東の河出口を封鎖したのは、ブレマー提督の艦隊
ではなく、エリオットの艦隊ではないか。 その方が後
の展開に矛盾が少ない。

一エケレス人亜瑪港到着二日のコンモドレ
官名コルドン
 ブレメル
人名の組ハ渚辺を伝ひ北方に赴き、和蘭
 六月三十日
子六月二日ニ当ル スコウドヘイナク官名
 組并其余の軍船合戦を相初め、ドロイ
船名
 フヲラーゲ
船名ヒヤシント船名ハルね船名并武器を備
 あるマダカスカルと号すストームボート
前に註ス 等の
 船の後備として、広東の湊并河を固め、シュヘル
 インテンダント
官名エルリオット人名者スコウドヘイナグト
 
官名の船に乗組罷在候
一和蘭七月四日
子六月六日ニ当ル を唐軍の大将より
 命令出候ハ、エケレスの大軍船を奪取者あらハ褒美
 二万ドルラルス
一ドルラルス吟十匁七分五リン計 をとらセ、
 爰に准じオフシール
武士を討取、或ハ生捕者あらハ
 褒美五千ドルラルス、尚ソルタードを討取者あらハ
 褒美ハ百ドルラルス取らすと申事ニ候
一是を聞、自然と悪党或ハ懶惰人共数多相集てエゲ
 レス人を捕へ約束の褒美を得んため甚あセり申候
     (英艦隊一隊の北上)
○ブレマー提督の艦隊はマカオ到着の二日後海岸線
を北方に向かう。
1840年6月30日艦隊指令(G.エリオット)の艦隊は
戦闘体制に入り、ドロイ号・フォラーゲ号・ヒヤシンス号・
ラルネ号、武器を備えた蒸気船マダガスカル号等の
後備えとして広東の湊及び河を固め、監督官の
C.エリオットは艦隊旗艦に乗船している。

○1840年7月4日中国軍の大将から出た命令は
英軍艦奪った者には褒美として2万ドルラルス、士官を
討取るか擒にしたら5千ドルラルス、兵卒を討取れば百
ドルラルスを与えるとの事である。 

○これを聞いた悪党や風来妨ども多数が集り、英人を
捕らえて褒美を貰おうと競っている。


ドロイ:Duid 戦列艦 1170トン 砲46門
フォラーゲ: Volage 521トン 砲28門
ヒヤシンス: Hyacinth スループ 435トン 砲18門
ハルネ: Larne  スループ 463トン 砲18門


一コンモドレ
官名フレメル人名の一手の勢、和蘭六月
 廿三日
 子五月廿四日ニ当ル 亜瑪港を退き、和蘭七月
 三日
子六月五日ニ当ル に アモイ地名に着船し、コン
 マンダント
官名より唐国奉行に只書翰一通を送らん
 ため、白旗を建て備もなき端船を以て陸に赴せ申候
 但此白旗者和睦の印たる事ハ未た開けさる何れの
 国に於ても、兼て心得罷在候事ニ候得ハ勿論唐国
 にても承知の事ニ、計らすも浜辺に軍兵を備へて、
 エゲレス人の上陸を拒ミ候故、壱通の書翰を送り和を
 結んため参る趣再三申入れ候ても承諾せず、却而
 エケレスを指して、唯外国無道の者とハ一切交りを
 慎べしとの返答にて其書翰を請取らず、白旗を建て
 居候とも頓着なく無躰に大小の筒を打放し候故、
 存意も達せず漸々危険を凌ぎ引返し申候
一コンモトレ
官名ブレメル人名ハ此不法の逆背を怒り
 急度此仇を報ひ、右躰不法を以来懲すために簡を
 取極申候

同日アモイを引退きニンポー寧波歟に近き舟山島
 に向け船を出し、和蘭七月四日
皇国子六月六日ニ当ル
 舟山島に到着いたし候
   (英艦隊アモイに到着、更に北上)
○1840年6月23日ブレマー提督の部隊はマカオを出帆
し、7月3日アモイに到着する。 英司令官より清国総督
へ書翰を送るため、白旗を建て武器を備えない端船を
陸へ派遣した。 この白旗は和睦の印である事は未開の
国でも通常知っていることであり、勿論中国でも承知
している事である。 ところが中国側は海岸に兵を備え
英人の上陸を拒むので、一通の書翰を渡す為と再三
申し入れても承諾せず、外国の無道の者とは一切交わ
らないと返答し、白旗にも拘わらず大小の砲撃を加え
たので、端船は書翰も渡せず危険の中引返した。

○ブレマー提督は此不法な仕打ちを怒り、必ず報復
するべきと方策を考える。

○同日艦隊はアモイを去り、寧波に近い舟山島を目指し
1840年7月4日舟山島に到着する

一ねンホーを無益に犯して同五日皇国子六月七日ニ当ル
 朝渚辺に浮たる唐軍船に筒を打掛候処、初ハ甚厳
 敷防候得共、無程浜辺にて遁かたなく残らず討殺
 され申候、昼頃に至りエケレス人三百人并石火矢
 一備を分船卸シいたし、其城邑を押領セんと計候
 処、唐人共門を閉て砦櫓より小筒を打掛け防禦致し
 エケレス人の内少々ハ手負の者も有之候得共、
 エケレス方より石火矢を放ち其上カラナート
天砲
 打掛候故、相静申候
 翌朝に至りエケレス人ハ其城邑に踏込候ゆへ、
 其役人等仰天して或ハ家室を閉ち、或ハ其場を
 立退申候
一此後暫経て唐国の兵士と和談を遂候末、エゲレス
 の軍卒并船方之者共上陸仕、近隣の邑通行之節、
 其役人共差障事なく宜敷取扱ひ、其余立退たる者
 共過半間もなく立帰り、元々の如く市場賑ひ候ニ
 付、エゲレス人等日用之諸品を調に足り申候
一唐国奉行并マンデレイン
官名にハ敵対するとも
 其地ニハ聊仇をなさざる段、エケレス人等土人に
 示し安心いたし候心を尽し候得共、唐人は仮令
 如何なることにても往々其首長の意を背ク事なきが
 故に、如何諭し候而も其意味急ニ弁じかたく候
    (英軍艦隊による舟山島の占領)
○寧波に少々攻撃を加え、1840年7月5日朝、海岸近く
展開する中国軍艦に対し砲撃を加えた所、初めは
烈しく反撃したが、逃げられず中国船は全滅した。 
昼頃英軍3百人及び大砲一式を舟山に上陸させ、その
城邑を占領しようとしたところ、中国側は門を閉め櫓より
鉄砲を打ち掛ける。 英軍側にも少々負傷者も出たが
英軍は大砲や迫撃砲を打ち制圧した。
翌朝英軍は城邑に踏み込んだところ、役人は驚いて
門を閉めたり、或はその場を逃げ去った。

○この後中国軍と休戦し、英軍や水兵が上陸し城内
通行の際、中国側役人も阻止せず、又立ち退いた
役人も過半は戻り、町は平常に戻り市場も賑わい、
英人は日用品を調達する事ができた。

○英軍は清国総督や清国軍官には敵対しても民間
人には害を与えない事を示したが、中国人は中々
その支配者に背く事がないので、いくら説明して急には
敵意がなくならない


上記城邑は舟山島等を支配する定海県の県城。

一同月九日十日
皇国子六月十一十二日に至りエケレス人
 ねンポーの河口に到着いたし、和睦いたす哉否を
 伺んため、エケレス方大将書翰を唐国帝ニ通達いた
 し候故、アモイ
地名同様の振合ニて一切取用ニ相成
 不申候
一舟山島之向に有之ねンホーはアモイの湊の如く
 数多の軍船にて固メ居申候、和蘭六月三十日
 
皇国子六月二日ニアタルに至りて、許多の軍勢を率ひて
 スコウトベイナグト
官名亜瑪港よりねンポーに到着
 するを只管相待申候
一エゲレス方に舟山島を攻取候得者尤利方に相成
 候、都て其島を貪り候訳にハ無之、勿論此島者土地
 至てあれて貧地に者候得共、此島を取る時ハ此向
 に当る地を攻るに甚弁利に相成、其上フヲクキール
 
地名送りの糧米を奪取に弁利に相成候
一右の通舟山島を取候上ハ是まて渚に浮へ備を立
 候軍船の足立に相成、殊に舟山島者北京・其外富る
 郡県に近く有之旁にて弁利に有之候、此上ハ是非
 共唐人共万端心を用ひエゲレスに和降するの外
 手段無之候

  (寧波へ英軍からの和睦勧告、中国拒否)
○1840年7月9日及び10日になり、英軍は寧波の河口
に到着し、和睦するかどうか伺うため英軍司令官の書翰
を清国帝に送ろうとしたが、アモイの時と同様に一切
受け付けなかった。

○舟山島の対岸にある寧波ではアモイの港同様に
多数の軍船で警固している。 1840年6月30日にマカオ
から大軍を率いて出帆した艦隊が寧波に到着するのを
ひたすら待っていた。

○英側にとり舟山島を占領する事は有利になる。 この
島全てを取る必要はなく、勿論此の島は土地は荒れて
いるが、この島の向かい側を攻めるのに便利である。 
其上フォクキールから送る食糧米を奪取るに都合が
良い。

○英側に取って舟山島は艦隊の基地にもなり、特に
北京やその他の豊かな地域に近いので便利である。
従って中国側にとっては英軍に降伏するしかないと
思われる。

一右の次第ニ成行候得共広東・亜瑪港ハ其患無之
 地ニ而、広東専ら厳重に固メをいたしエゲレス方の
 障りと成るを専一に心かけ、既にカブシンモーン
地名
 にて軍船を焼討いたし、或ハ毒茶を売渡候義両度も
 有之候得共、其策通不申、此時奉行林氏数多の
 軍勢を引連ホッカーチグリス
地名砦より二里程はなれ
 乗出し碇を入れ備を立て、自然エケレス人ホッカー
 チグリエスの地を犯すの料簡あらハ盛ニ戦ふへく
 との心得の趣に候、然にエケレス方も又七十七挺の
 石火矢を備候ブレンヘイム
船名といふ軍船一艘、
 外ニ小軍船三艘相増し渚辺に備罷在候
一舟山島を取られ候以来、唐国北方の勢衰微致し、
 既に舟山島辺に乗船罷在候唐方の大将、コムモドレ
 
官名ブレメル人名の舟に来り申聞候ハその御方の
 如き強勢に向ひ敵対するハ実に愚なる事ニ候得共、
 主命遁れかたく、仮令患難恥辱を請候共退陣いたし
 かたき事ニ候
一エケレス人舟山島を押領いたし候時、唐方にて命令
 を出し候マンダレイン
唐方の官名 防禦行届さる故
 右始末ニ成行候と、帝王決心して厳科ニ所し申候
一舟山島前ニねンポー
地名・アモイ地名并其辺の渚ニ
 固め罷在候エゲレス人兵糧給へ患難多く有之候
 最初舟山島ニ沢山兵糧有之候処、右運送一時ニ
 相止ミ申候、畢竟是ハ土人何れも再其地を立退き
 候故之儀ニ有之候、然ニ食物潤沢ニ無之、其上
 水清浄ニ無之、気候悪敷有之候故か、痢病・熱病
 等病専ら流行して、兵士并船方の者共相煩ひ、
 都而心を病め申候
     (舟山島占領とその影響)
○舟山は前記の様な状況であるが、広東やマカオは
その影響が無く、広東では防禦体制を厳重しして、
英軍の障害となる事に心がけている。 既にカブシン
モーンでは軍艦を焼討したり、毒茶を売渡した事が
2度もあったが何れも成功していない。 この頃両江
総督の林氏は多数の軍勢を引き連れボッカティグリス
の砦から二里程沖に乗り出し、若し英軍がボッカ
ティグリスの砦を侵す様な事があれば、徹底して戦うと
云う意気込みと思われる。 
一方英側も74門の砲を備えたブレンヘイムという戦艦
及び数艘の小型軍艦三艘を増やして海岸に備えて
いる。

○舟山島を占領されて以来、中国北方の勢いは弱く
なり、舟山付近に展開している中国側の指揮官が
ブレマー提督の艦に来て云うには、 あなた方の様な
強軍に立ち向うのは愚かな事だと思う、しかしこれも
主命であるから止むをえない、仮令苦しく恥をかくとも
撤退する訳には行かない、との事

○英軍が舟山島を占領した時、中国側で指揮していた
将官は、防衛不行き届きと云う事で皇帝は処罰した由

○舟山島前の寧波やアモイ、其外海岸に展開している
英軍への食糧補給に苦戦している。 最初に舟山島に
十分な食糧があったが、輸送が滞った事及び土地に
人間が立ち退いた為である。
食糧が不十分であり、その上水が清潔で無く気候も
悪いためか、病気が流行して、兵士や船員が罹り
皆精神的に病んでいる。


ボッカティグリス: 広東から珠江河口(センピ湾)に
通ずる河の出口にあたる複数の三角州の地域。 
多くの砦があった、 Bocca Tigris。
ブレンヘイム: Blenheim 戦列艦、1747トン、砲74門。

 

一亜瑪港ニ罷在候亜墨利加商人とエケレス人と
 相互ニ奇怪を抱き候者、兎角亜墨利加人ハ
 懶惰を来し候故之儀ニ有之候、将又シエベルイン
 テンダント官名エルリオツト人名の振舞前々より当
 時ニ至るまて不快ニおもひ、其上エケレスの為に
 広東の固め厳重にして通商の出来ぬ事を
 恨ミ申候
一和蘭七月廿六日
皇国子六月廿八日ニ当ル 
 スコウトヘイナグ
ト官名エルリオット人名軍勢を引連れ
 舟山島前ニ着船いたし、同月三十日
皇国子七月二日に
 あたる
軍船五艘并武器を備たるストームボート前ニ訳ス
 一艘一同ニ此所より出帆いたしペイオー河の入口ニ
 有之候テーンチーン
地名に到り申候て相叶申へく
 ハ、事を北京ニ訴へ計ハんとのためニ候
一舟山島ハ専ら疾病流行いたし、一日ニ十人十四
 五人の病死いたし候程の儀ニ候、右仕合にて印度
 勢弐百四十人程も既ニ死湿いたし候
   (艦隊主力が舟山島に到着、更に北上)
○マカオに居住するアメリカ商人とイギリス人はお互い
に不信感を抱いていた。 アメリカ人は兎角暇を持て
余していた。 監督官エリオットのやり方に前々より
不快に思い、其上イギリスの為に広東の防禦が厳重に
なり、商売ができなくなった事を恨んでいた。

○1840年7月6日艦隊司令官エリオットは艦隊を率いて
舟山島前に着船した。 同月30日舟山島前を出船した
軍艦5艘及び武装蒸気軍艦1艘はペイオー河の入口に
あるテンチンに向う。 これは英国の商売の希望を北京
訴える為である。

○舟山島は病気が流行し、1日に14人から20人が病死
する程である。 このような訳で東インド軍240人程が
既に病死している。


ペイホー河: パイホー(白河)
テーンチーン: 天津 北京には100km程で近い

一和蘭八月上旬
皇国子七月上旬ニ唐国の砦の大将ホル
 トードヘルコー
人名の命令ニて唐国者亜瑪湊との境を
 たち申候、右者エケレス人を攻め亜瑪港より追出す
 為の手段ニ候
一右之通ニ成行候ニ付、相恐れ財宝・性命を全く
 セん事を計り、広東を固めニ出張し居るカビタイン
官名
 スミツトニ加勢を頼ミ候処、右スミツト承知いたし候
一ヒヤシント
船名ラルね船名并武器を備たるストムボート
 
前ニ註ス 一艘マカヲの湊より出帆いたし、唐人を
 砦并備の場所より追出す手段いたし和蘭八月十九日
 
皇国子七月廿二日ニあたる 唐人二千人乗組、石火矢十
 七挺を備へ砦前ニ船繋致居候、右砦并唐軍船ニ
 向石火矢打掛候処、暫相凌候得共其後間もなく
 唐軍勢とも船より立退申候、此時大半游き遁去申候
一右エケレス方軍勢の内より弁柄人二百五十人船より
 卸候節、唐人共より厳敷砲火打かけ候得共一切
 頓着不致、右弁柄人等唐人を追討いたし砦を押領
 いたし候処、唐勢散乱いたし候ニ付、跡ニ残る
 石火矢類打毀、砦并陣所ニ火をかけ申候
一右之節唐人死亡百五十人有之、エケレス方ニは
 漸四人有之候程の儀ニ御座候
一右の始末ニ相成候ニ付、亜瑪港辺ニ罷在候唐人
 共何れも広東ニ退き、亜瑪港ニ住居の者ハ安堵
 の場合ニ相成申候
   (中国軍のマカオ封鎖に対する英軍反撃)
○1840年8月上旬 中国側の砦の司令官ホルトード
ヘルコーの命令で中国本土とマカオとの境を遮断した
これは英人をマカオから追出す為の手段である。

○この様子に恐れた英人は財産・生命を守るため、
広東封鎖に展開しているスミス大佐に援助を頼んだ
ところスミスは是を承知した。

○ヒヤシンス、ラルネ及び武器を備えた蒸気船1艘で
マカオの港から、1840年8月19日に中国軍を砦から
追出すために出撃した。 中国側は2千人が乗組み
大砲17挺を備えて砦前に停泊している。 英軍はこの
砦と軍艦に砲火を浴びせたところ、暫くは持ちこたえて
いたが、軍勢は船を離れ大半は泳いで逃げ去った。

○英軍の中からベンガル人部隊250人を上陸させようと
したところ、中国側も烈しく砲火を浴びせたが堪えて
中国軍を追討して砦を占領した。 中国兵は四散した
ので残した大砲類は破壊し、砦と陣所に火を掛けた

○この戦闘で中国側死者250人で英側は僅か4人程
だった。

○この結果マカオ周辺の中国軍は広東に引揚げた
ので、マカオの英人達は安堵する事ができた


スミット: Henry Smith (1803-1887)

一和蘭七月三十日
皇国子七月二日ニ当ルスコウトベイナグ
 ト
官名舟山島出帆いたし八月十一日皇国子七月十四日
 ニアタル
至りペイホー河口のテイチン地名到着いたし候
一唐人等浜手ニ屯し敵船の動静を常ニ伺見罷在候故
 彼スコウトベイナグト
官名の到着と承知いたし罷在候、
 ヘセーリの奉行河口のタコー
地名に罷越、国帝の命
 令ニ随ひ、エゲレス人の上陸を待うけ、書翰を請取
 唐国帝ニ差出申候
一唐国之兵士一人和蘭八月十三日
皇国子七月十六日ニ
 当ル
 奉行よりの使者としてエケレス船ニ参申候、
 右口上ハ食物ニ相成候品相送可申との事ニて、其後
 程なく数多差送り代料ニハ不及段ニ御座候
一唐国帝より奉行ケセン
人名を使者として差遣エゲレス
 人ニ対し至て丁寧ニ有之、都而唐人の振舞以前より
 事変り既ニ下賎の者ニ至る迄、如何之振舞無之様
 相成申候
一エゲレス人の取扱かた、以前と違ひ唐国奉行より
 エケレス人ニ申渡書面ニバルバーレン
と書載致事
 一切相止ミ、既ニエゲレスは名誉の国抔と称し候
 畢竟右様ニ申候ハエゲレス人北京の近辺ニ有之候
 を恐れての事ニ被存候、扨タコー
地名者北京より漸
 九十里相隔候得共、唐人の見込ニハ迚もエケレス
 北京ニ仕越候事出来ましくと兼て思ひ込候処、此節
 ニ至り究て北京を目指候半と唐人とも考候事ニ被存
 候
 (英遠征艦隊が天津に到着、清国政府の動揺)
○1840年7月30日舟山を出帆した遠征艦隊は同8月
11日にはペイホー河口の天津に到着した。

○中国軍は海岸に屯して、艦隊の動静を監視している
ので英遠征艦隊が到着した事を知っている様である。
皇帝の命令でヘセーリの役人が河口にタコーに来て
英国の上陸を待ちうけ、書翰を受取り皇帝に差出した。

○同年8月13日、中国の兵士が一人、役所からの使者
として英艦に来て口上で、食物になる品物を送るとの
事だった。 その後沢山のものが送られ、代金不要との


○皇帝の使者として直隷総督のg善が遣わされ、極め
て丁寧に対応した。 中国側の態度が以前とは全く
変り、下僚に至るまで如何の態度が無くなった。

○英国に対する取扱いが以前と異なり、役所からの
書類に夷という文字が無くなり、英国は名誉の国等
と称している。 これは英軍が北京に近づいたのを
恐れた為である。
タコーは北京より90里程離れているが、中国側の予想
ではとても北京迄来る事は無いだろう、と思っていたが
此度の事で英軍が北京に進撃するのではないか、と
考えたと思われる


ケセン: g善(1790-1854) 清国官僚 直隷総督
 欽差大臣として以後英側と交渉。 林則徐が解任
 された後の両広総督も兼ねる

一和蘭八月十五日
皇国子七月十八日ケセン人名組アシユ
 ダント
官名ソーペイピイ人名と申者、唐国帝ニ通達の
 書翰を受取るためウェルスレイと申エケレス船ニ参候
 ニ付、翌十六日エゲレスより書翰を相渡し奉行ケセン
 
人名より通達致呉候様相頼申候
一ソーペイピイ
人名立退候後、ケセン人名より書翰到来
 致候、 右文意ハいつれ書翰を以て返答可致間十日
 程日限猶予呉候様との頼有之候、依之スコウトベイナ
 クト
官名致承知候
一此後エゲレス船ハ近辺ニ有之候島々并リョウトウ
地名
 
の渚を見繕ひ候ため参り申候、右リョウトウ地名にハ飲
 水・獣類并其他の食物用意致置候、此末廿七日
皇国
 子八月一日ニ当ル
 至り再びタコー地名ニ船繋り致候
一ケセン
人名の一件何共様子不相分候処、和蘭八月
 廿八日
皇国子八月二日ニ当ルに至り、武器を備候端船
 一艘、陸ニ参右約束の返答書を持参いたし、既ニ
 両日致逗留候得とも、エゲレス人壱人も陸ニ居合
 不申候ニ付、渡事出来さるよしニ候
一右返答ハいつれスコウトヘイナグト
官名面会いたし
 口述ニて申延んとの趣向にて、則和蘭八月三十日
 
皇国子八月四日ニ当ル 海浜ニてケセン人名と対話相済
 候筈に御座候、右ケセン
人名者至て手軽打立ニて飾
 道具ハすべて跡へ残し置、陣屋の天幕の下ニて双方
 通詞の者の外ハ人払にてエルリオット
人名を待請申候
  (林則徐に代わり、g善が英軍と交渉開始)
○1840年8月15日g善の部下のソーペイピイと云う者
が皇帝宛の書翰を受取るためにウェルズレイと云う英艦
を訪れたので、翌16日書翰を渡し、g善から申上げて
呉れる様依頼する。

○ソーペイピイが去った後、g善より書翰が来て内容
は、書翰で返答するが10日程待って欲しいとの事で
ある。 これを艦隊指令官は諒承した

○この後英艦隊は近辺の島々や、リョウトウの海岸を
物色する。 このリョウトウには飲水や肉用獣を用意して
あった。 8月27日には再びタコーに戻り碇泊する。

○g善の返答の状況が分らないので8月28日に武器
を備えた端船を1艘陸に送り、前述g善の約束書翰
を持たせ、2日程逗留したが渡す事ができなかった由

○g善の返答は何れ艦隊司令官と面会して、口述で
回答したい、との事で8月30日海浜で対話が済んだ
筈である。 g善は簡単な出で立ちで飾り道具は全て
持込まず、陣屋の天幕の下で通詞以外の人払いを
行いエリオットを待っていた。


リョウトウ: 遼東半島か

一エゲレスのパルレメント
官名より唐国帝ニ通達致候
 書翰の儀ニ付、彼方取計ニて手間取、三日程無益ニ
 日を送り候末、ケセン
人名より申来候ニハ右返答六日
 程猶予致呉候様ニとの儀ニて、其間ニ帝と相談
 いたし候様子ニ有之候
一右面会いたし度次第ハ国帝よりケセン
人名并その
 地の兵士ニ申付、エゲレス人の一躰の事を巨細ニ
 相糺候上ニて事済ニ致し度、併糺方ハ違諾隔候
 事ゆへ行届兼申候、依之広東ニて面会いたし候間
 軍船を広東へ廻し、スコウトベイナクト
官名広東ニ
 参呉候様、唐国コミサーリス
官名より頼越候
一和蘭九月十五日
皇国子八月廿に地ニ当ル スコウト
 ベイナクト
官名軍船を将ひ舟山島ニ赴候処、
 同三十日
皇国子九月五日ニ当ル着船致候
一唐人の所存ハ前条之通、只煩を延候ための様ニ有
 之候、且和睦の義ニ付タコー
地名ニて者何の相談も
 無之、広東ニて返答可有之趣申候者一之計略
 御座候、
 第一ニハ争戦を相止、第二ニハエゲレスの軍船を
 広東ニ退け自然と時日を引延、第三ニハ北京より
 通路大ニ相隔候故之義ニ候広東ニ引返候後、風並
 悪敷相成、此頃時候変り西風出不申候迄ハ北方
 ニ向ケ渡相叶不申候之事ニ候
一猶エケレス人毎度の往返ニ而労れ、或ハ気候暖ニ
 御座候得ハ自然と舟山島ニて右之通エケレス人等
 数多病を発し死失之者不断夥敷可有之との手段
 ニ候
一右ニ付エケレス人の計空敷相成、却而許多の失
 費或ハ兵士の損亡数多有之、右の仕合ニ成行候
 ニ付商人抔ハ眼前の利を失ひ、其儀を甚不承知ニ
 存居申候
     (g善より広東で和睦交渉提案)
○英国政府から清国帝への書翰に付いては、中国側
の取扱いに手間取り3日程無駄に過した後、g善は
返答を6日程待って欲しいとの事である。 この間に帝
と相談するものと思われる

○国帝にはg善や兵士から英国人の状況を事細かく
報告の上許可と取りたい。 しかし諾否がかけ離れて
いるので結論は出ない。 従って広東で面会したい
ので艦隊を広東へ廻し、艦隊指令官も広東に来て
呉れる様欽差大臣(g善)より依頼してきた。

○1840年9月15日 艦隊司令官は艦隊を率いて舟山
島に到着する

○中国側の目的は只返事を引き延ばすだけの様で
ある。 タコーでは和睦の事について何の話もなく
広東で返事をしたい、と言うのは計略である。
第1に戦争やめ、第2に英艦隊を広東に退かせ日時
を延引、第3に広東は北京から遠く離れているので
広東に引返した後、時期的に西風がなければ北方へ
上る事ができない事である

○更に英軍は毎度の往復に疲れ、気候が暖かくなれば
舟山島では、以前の様に病気が多くなり、死者も増す
という策である

○結果として英国の作戦は無駄となり、却って多くの
失費や兵士の損耗が増す、と云う事で商人等は目先
利を失うので、広東に引返すのは極めて不賛成だった


パルレメント: Perliament 議会とも取れるが、通説に
より時の英国外相パルマーストン卿(Palmerston)を
指すと思われる。 

一和蘭九月十八日 石火矢二十挺相備候アリカトル
 と申軍船アモイ
地名の湊ニ備居候処、同所ニ繋り
 居唐軍船と甚烈敷争戦いたし、唐船一七八艘も破却
 いたし、或ハ海底ニ沈め唐人数多致死亡候
一エケレス船より打掛候石火矢、唐船ニ請留候而ハ
 不相成と察し一夜の内ニ砦を築、石火矢弐百四挺備
 置申候、右砲の内ニハ玉目実重きも有之、兵卒ニ是
 を打放さセ申候
一右砦堅固ニ無之故、エケレス人乗取候事甚易く
 候得共、既ニ数多船具を損候ニ付、無余儀唐方の
 石火矢届兼候程の場所ニ船繋致候
一エケレス人元の場所を退候様子を見、直ニ唐人等
 大ニ勝利之旨国帝ニ使者を馳注進致候
一広東并亜瑪港頃日甚静ニ有之候、併亜瑪港ニ而者
 只用意の為唐軍備居候得共、敢て合戦を好候儀ニ
 ハ無之、且又於広東も今ニ備居申候
    (アモイ港での小競り合い)
○1840年9月18日、大砲20門備えたアリゲイターと云う
軍艦がアモイの港に入港したところ、同所の中国軍船
と戦闘になり、中国船17-18艘が破損又は沈没し兵士
多数が死亡した。

○英艦からの砲弾を中国船が受けてはならぬと察し
一夜の内に砦を築き、大砲204門備えた。 これら大砲
の中には巨砲もありこれを兵に打たせた。

○この砦は堅固ではないので、英軍が占領する事は
簡単だが、既に英艦の方も船具を破損しているので
止むを得ず中国側の砲弾が届かぬ所まで退き碇泊
した。 

○英艦が退いた様子を見て中国側は大勝利したと
皇帝に使者を立て報告した。

○広東及びマカオの近頃静かである。 併しマカオ
では中国軍が詰めているが、戦闘を仕掛ける様子は
ない。 広東でも同様である


アリガトル: Aligator 500トン 砲28門

一和蘭十月四日皇国子九月九日ニ当ル 国帝より申付候
 ニハ兵士等都而エケレス人ニ以来敵対致間敷旨相
 触申候、右は畢竟エケレス人等唐国の意を不背、専
 苦悩致候情合通し候故の義と被存候
一和蘭十一月一日
皇国年九月六日ニ当ルエルリオット人名
 者軍船五艘、ストームボート
前ニ註ス一艘を将ひ、ネン
 ポー
地名ニ向ケ出船致候、右ねンポー地名ニ赴候次
 第ハ運送の船ねンポ―
地名の渚辺ニ繋居候ニ難船
 ニ逢、アルチイルレリ―カヒタイン
官名其外乗組の者
 共、唐方ニ擒ニ相成居候ニ付其免を毎度乞候へ共
 許さず、 然を此節請取の為ニ参候義ニ候
一ケセン
人名ハ北京より広東に参候ため、ねンポー地名
 を通行之節、エルリオット
人名に面会いたし和談相整
 申候、 ケセン
人名申達候者囚人の義ハ大切ニ致置
 可申、乍去エケレス人舟山島を引払不申候へハ囚人
 返難き旨ニ付、エルリオット
人名不得止空敷立帰申候
一追々気候宜敷相成、殊ニエゲレス船より送越候食物
 等も潤沢ニ相成、舟山島流行病も相減、人死も少く
 可相成処、却而弥増ニ相成申候、扨又エケレスの
 軍兵ハ冬陣の用意を致し、城邑テインハイ
地名辺ニ
 砦を速ニ築き、舟山島の内未手ニ入不申地を押領
 可致つもりニ候
一奉行林氏ハ役目を被召放、吾陣を捨置至急北京ニ
 参り、阿片停止の義ニ付取計之次第、具ニ申披候様
 との命有之候、然処和蘭十月廿六日
皇国子六月二日
 ニ当ル
林氏北京ニ赴候ため既ニ乗船いたし居候処、
 国帝の命ニてケセン
人名当地到着まて広東ニ控居
 候様との義ニ付、林氏ハケセン
人名の到着を日々
 相待居候
一和蘭十一月六日
皇国子十月十三日ニ当ルエルリオット
 
人名、エケレス人等ニ申付置候ハ、ケセン人名との
 和談の模様相分候迄必此方より手出不致、仮令
 唐人共ニ不快の事有之候とも堪忍可致旨諭置候
 (広東での和睦交渉に向け中国側も停戦命令)
○1840年10月4日清国帝より指示された事は兵士達
が英国人に以後敵対しない様にとのことである。 
これは英国人が中国の方針に背かずに大変苦労して
いる事が通じたと思われる

○1840年11月1日監督官エリオットは軍艦5艘、蒸気船
1艘を率いて寧波に向けて出船した。 寧波に赴く理由
は、英軍輸送船が寧波の海岸近くに碇泊して座礁し、
船長その他乗組員が中国側に捉えられているのを、
此節受け取る為である。 

○g善は北京より広東に行く途中、寧波を通るので、
その機会にエリオットは面会して話し合った。 g善は
囚人は大切に預るが、英軍が舟山島から引払わない
限り囚人は返せないと云い、 エリオットは止むを得ず
空しく帰った

○気候も段々良くなり、特に英国船で送ってくる食料
も潤沢になり、舟山島の流行病も下火になった。 病死
者は少なく成る筈であるが何故か増加している。
ところで英軍は冬陣の準備を始、定海県の辺に砦
を築いて、舟山島の内未だ占領していない所を占領
する積りである

○広東総督の林氏は役職を罷免され、持ち場を捨て
至急北京に出頭し、阿片停止についての処理の状況
を詳しく説明するようにとの命令である。 1840年10月
26日に林氏は北京に出発する為乗船した所、皇帝の
命でg善が到着する迄、広東で控えておる様にとの
事になったので、林氏はg善の到着を日々待つ事に
なる

○1840年11月6日、エリオットが英国人達に指示した事
はg善との話し合いの結果が分るまで、決して英側から
手出ししない事、仮令中国人により不快な事があっても
堪える様にとの説得した


この囚人について和蘭別段風説では何も記述ないが、
清国貿易船船長の談話として、時の英国女王ビクトリア
の妹である、との古文書が残っている。(天保雑記巻50)

一和蘭十一月一日
皇国子九月六日ニ当ルエルリオット人名
 
軍船四艘并武器を備へたるストームボート前ニ註ス
 艘を将ひ、舟山島より亜瑪港ニ赴、同月廿日
皇国子
 十月廿七日ニ 当ル
 着船致候
 ケセン
人名と和談の義相決度段申遣候処、ケセン人名
 右一条ニ付日々広東ニ罷越候よしニ候
一舟山島ハ一大事の場所ニ付、唐人共種々要計を
 廻らし取戻手段致居候得共、エケレス之軍勢数多
 有之候ニ付、其事遂不申候
一スコウトベイナグト
官名亜瑪港ニ到着の上早速キウエ
 ーンと申ストームボート
前ニ註スを将ひ、シエーンベイ
 地名
に向ケ出船致候、右ハエゲレス人共来着致候旨、
 書翰を以ケセン
人名ニ掛合可申為ニ候、右船シエー
 ンベイの砦前ニ船繋致候上、アモイ
地名ニて致候通り
 端船一艘出之、和睦の白旗を建陸に遣し書翰を差出
 候処、是を請取直様砦より端船ニ大砲を打掛候、
 然処端船ハ幸ニ無難ニて本船ニ戻候得共右本船ハ
 大砲当り少破損致候、依之エケレス方よりも同様大砲
 を砦ニ打掛候処、砦大半破損いたし候、右始末ニ付
 シエベルインタン
官名ハ存意空敷相成、無余儀帰船
 致候
     (広東での和睦交渉難行)
○1840年11月1日エリオットは軍艦4艘及び武装蒸気
船を率いて舟山島よりマカオに出船し、同月20日に
到着した。 g善に和睦交渉の件伝えたところ、g善
はその件で広東に来るとの事である。

○舟山島は中国にとっても重要な場所故、中国側も
色々策を廻らし取り返すべく考えているが、英軍も
多数であり、それも出来かねている。

○艦隊指令官はマカオに到着後、早速クイーンと云う
蒸気船を率いてシェーンベイに向け出発した。 これは
英国人が到着した旨の書翰をg善に送り交渉する為
である。 この船がシェーンベイ砦前に到着し、アモイの
時と同様に和睦の白旗を建て陸に書翰を持たせた。 
ところが書翰を受取ると直ぐに端船に砦から大砲を打ち
掛けてきた。 幸いに端船は無事だったが本船が被弾
して多少破損した。 その為英側も同様に大砲を打ち
掛け砦の大半を打ち壊した。 
従って監督官(エリオット)は予定が狂い空しくマカオに
帰船した。


蒸気船名: Queen号。

一亜瑪港前ニ備候エケレス軍船拾二艘・ストムボート
 
前ニ註ス三艘、右軍船之内大船三艘翌日ニ至りボツ
 カレイグリス
地名の砦ニ向ケ出船致し候、右ハ唐方より
 砲火打掛候端船者武器も不備、殊ニ和睦の印旗を
 建候ニ、右様大砲を打掛不法至極候間、砦の首将
 ニ存寄を相尋候ためニ翌日書翰差送り申候
一和蘭十二月二日
皇国子十一月廿日ニ当ルコミサーリス
 官名ケセン人名広東ニ到着いたし候、此日ハスコウト
 ベイナグト
官名方へ返答可致日限ニ相当候間、ケセン
 
人名ハボッカテイグリス地名砦の前ニ繋候船ニ、使者を
 以取留さる返答致し候、右口上者エルリオット
人名
 一面会致度との事ニ候
一和蘭十二月五日
皇国子十位月十二日スコウトベイナグト
 
官名船々・其外エゲレス商人共ニ達候ハ此方事病気
 差重り候ニ付、不得止事本国ニ帰り申候、首将ニハ
 コムマントレ
官名フレメル人名立置と申聞候
一同七日
皇国子十一月十四日ニ当ルスコウドベイナグ官名
 
ハ軍船フヲラ―ケ船号ニ乗りエケレス国ニ帰帆致候
      (英遠征軍司令官の帰国)
○マカオに駐留する英艦隊12艘・蒸気軍艦3艘の中
大船3艘を以て翌日ボッカティグリスの砦に向け出発
する。 これは中国側が大砲を打ち掛けた端船は武器
も持たず、しかも和睦の白旗を建てていた。 砲撃は
極めて不法であるので砦の司令官にその趣意を尋ねる
書翰をおくる為である。

○1840年12月2日欽差大臣のg善は広東に到着し、
この日は英艦隊司令官に返答する期限である。 
g善はボッカティグリス砦前の英旗艦に使者を送り、
あいまいな返答をし、口上はエリオットに面会したい
との事である

○1840年12月5日、英艦隊司令官は各艦船及び英国
商人に対して通達した事は、病気が重いので止むを
得ず帰国するので、後任はブレマー提督である、と
いう事である。

○同7日前艦隊司令官(ジョージ・エリオット)は
軍艦ボラーゼで英国に向った。


英遠征艦隊指令G.エリオット(全権使節)突然の帰国
は商務監督官C.エリオット(全権副使節)との意見の
衝突が真の原因との説(陳舜臣 実録アヘン戦争)


一亜瑪港ニ繋候エケレス船ボクカテイグリス
地名辺ニ参
 り繋り居候而、若唐人共又々日限ニ至て返答不致
 節ハ砦ニ大砲を打掛可攻取所存候
一右之返答一向無之翌年正月七日
皇国子十二月十五日
 ニ当ル
まて無益ニ相待候へとも、何たる沙汰も無之候
 ニ付エケレス人等武威を以て是迄の所存を遂候為ニ
 ボッカテイグリス
地名の砦を可責掛と致決心候、
一和蘭正月七日
皇国子十二月十五日ニ当ル朝エケレス方
 海陸の兵千三百人上陸いたし、シエーンペイ砦の
 パリサーデン
柵の如きもの也に追々ニ押寄候処、唐人共
 直様ハリサインの後に隠れ小筒を以防禦いたし候ニ
 付エケレス方少々手負候得共エゲレスよりも大砲二挺
 ボンベン
天砲等盛ニ打掛ハリサーデンを焼壊し申候、
 夫より砦に討入候処、唐人等暫時者防候得共、終に
 ハ散々ニ遁去申候
一右同時ニ他の軍兵上陸いたしワートルカステール
 
海浜の城郭を攻取申候、右攻取候節ハ本船より出精
 いたし、此後唐船数艘ニ大砲を打掛候処、既ニ唐船
 一艘者空ニ打上ケ申候、及双方ホツカテイグリス
地名
 の両砦ニ勝利の印として旗立候、扨エゲレス方手負
 死人纔二十人有之候得共、唐方の死亡千人程
 有之、右死亡の内マンデレイン官名の者一人有之候
 (英軍によるボッカティグリス砦攻撃、第一次)
○マカオに駐留する英艦隊はボッカティグリス地区近く
に展開待機している。 若し中国側が期限になっても
返答ない場合は砲撃開始し、砦を占領する積りである

○この返答を翌年1841年1月7日迄待ったが、何の
返事も無いので英軍は武力をもって解決しようとボッカ
ティグリスの砦を占領する決心をする。

○1841年1月7日朝英軍は海陸1300人を上陸させ、
シェーンペイ砦の柵に向って押寄せたところ、中国側
は柵の後ろから小銃で応戦し英軍側にも負傷者が少々
出たが大砲2門と迫撃砲を浴びせ柵を破壊した。
その後砦に突入すると中国兵も暫くは支えたが終には
散々に逃去った。

○同時に別の一隊を上陸させ海浜の城郭を占領した。
この占領に当っては本船から援護砲撃を行い、中国船
数艘に大砲を打ち、一艘は空中に飛散した。 
ボッカティグリス地区の二つの砦を占領した印として
旗を立てる。 この戦闘で英軍は死傷者は纔20人
だったが、中国側の死者は千人程あり、此の中に
将官も一人いる。


ボッカティグリス地区には複数の砦や砲台があり、上記
は沙角砲台と大角砲台の二つと思われる

一翌八日エケレス人所々の砦を攻取候為出船致候、ア
 ニコンホイ
地名ワンホー地名并テイケル地名の諸砦ハ
 石火矢都合四百挺備へ格別要害の宜敷砦ニ御座候
 扨エケレス人アニユンホイ
地名并テイコクトウ地名の砦
 辺間近ニ繋ストームボート
前ニ註スよりボムベン天砲
 打掛申候、然る処戦を相止候合図としてエルリオツト
 
人名乗組候白旗立申候ニ付、戦を相止船々元の場所
 ニ船繋いたし候、若右の合図無之候者以前の如く砦
 も既ニ無難攻取可申所ニ候 
一戦を相止候次第ハ唐方より使者、エケレスの本船へ
 書翰を持参いたし候故の義ニ候、既ニ戦相始候節老
 婦両人漕申候端船ニ右使者乗り、エケレスの本船
 指て参り候ニ付、本船ニ白旗を建退陣の合図を致候
 義ニ候
一右砦のケレイグスマンダレイン
官名より差越候書翰
 趣意ハ、三日程戦を相止呉候ハヽ以前被相談置
 候義ニ付返答可相決と申越候、依之エルリオツト
 
人名者右の旨承知いたし合戦を相止返答相待居候
一エケレスの軍兵并商人共之内ニハ、右之義甚不承
 知と存候ものも有之、既ニ如此勝利を得候処、徒ニ
 相止、殊更唐方の計略ニ而時日を移し事を引延候為
 と推量致候故の義と被存候
   (ボッカティグリス戦闘の休戦)
○1841年1月8日英軍は所々の砦を占領する為出撃
したアニコンホイ・ワンボー・テイケル等の各砦は合計
400門の砲を備え特別堅固な砦である。 英軍はアニ
コンホイとテイコクトウの砦近くに蒸気軍艦を留、迫撃
砲を打ち掛けていた所、エリオットの船に戦闘中止の
白旗が揚がった為各艦船は戦闘を止め元の位置に
戻った。 若しこの中止の合図がなければ以前の様に
砦も占領できた筈である。

○戦闘を止めた理由は中国側より使者が英旗艦に
書翰を持参したからである。 戦闘開始の節老婦人
二人が漕ぐ船で使者がやって来たので、旗艦に白旗を
建て中止の合図をした。

○この砦の司令官からの書翰の趣旨は、3日程休戦
して呉れば、以前相談された返答をするとの事。 
エリオットはそれを承諾して戦闘中止し返事を待った。

○英軍内や英国商人の中にはエリオットの方針に不満
を持つ者もあった。 既に勝利を目前に徒に戦闘中止
した事は、中国側が計略を練り、時日の長引かせる
だけと推量した事によると思われる

一ケセン
人名兼而剛情の者ニ候へとも、此節聊なる
 戦争大ニ勇気撓ミ候と相見へ、失費を補候義肝要と
 心得、元の通り再商売を入候事治定いたし候義決着
 いたし居候へとも、唐国両湊ニエゲレス船を入候事
 未治定不致候
一和蘭正月廿日
皇国子十二月十六日 ケセン人名より和睦
 の義をエルリオツト
人名ニ懸合候まてニ候、兎角無益
 の事のみ有之候
一和睦のヶ条ハ則左之通ニ候
  第一エゲレス人ホンコン島を領候義者ワンボー
地名
  の通ニ相心得可申事
  第二取捨候阿片債として六百万ドルラルス唐方
  奉行所より可払事
一ドルラルス銀十匁七分五厘
  第三双方商売勝手ニ可致事
  第四エゲレス商売広東ニて再可始事


一エケレス人ホンコン島を領し兵を備へ奉行を居置可
 申候
一シユペルインテンダント
官名数度亜馬湊ニ罷越、和
 睦之義ニ付数ヶ条ケセン人名と相談いたし候へ共、
 決着不致、唐方ニおいてハ兎角万端引延候義ニ候
一エルリオツト
人名ハケセン人名より可然返答を聞、
 和蘭二月十五日
皇国丑正月廿四日ニ当ル亜馬港より
 帰船いたし、其翌日取極書ニケセン
人名の書判為
 致候ため、ストームボート
前ニ註スを差遣候故の義ニ
 付、仮令両日位ハ手間取候共相待候様との趣ニ候
     (和睦交渉開始と協定)
○g善は剛毅の者であるか、此のところの戦争不利に
気持ちも萎えたか、損害を減らす為にも元通り商売を
許す事を決心したが、英国船を両港に入れる事は未だ
決めていない

○1841年1月20日g善より和睦の事をエリオットに交渉
する迄に無益の時間を要した。

○和睦の条件は以下の通りである
 1.英国はホンコンを領有し、ワンホーと同様に心得る
 2.廃棄した阿片の代金6百万ドルラルスを中国役所
  が支払う
 3.双方商売は自由に行う
 4.英国人は広東でも商売を始める事

○英国はホンコン島を領有し、軍隊を置き総督を置く
事になる。

○商務監督官(エリオット)はマカオを数度訪れ、和睦
に就いて条件をg善と交渉したが決着しない。 中国
側は兎に角先送りをしている。

○エリオットはg善から一応の返答を得たので
1841年2月15日
マカオから帰着した。 翌日
条約書にg善のサインを得るため蒸気船で送るので
2日程はかかると予定していた。


両港:別写本では「北の両港」となっており、寧波と
アモイを指すと思われる

一唐人等者真実和睦いたし候義ニハ無之、矢張敵対
 之意味有之と相見へ、諸方より軍勢を広東ニ集め、
 大砲其外武器を調へ計略を廻らし、手強エケレスニ
 敵対候為の様ニ相見へ申候
一林氏の奉行職被相放候得共、此節再勤被申付候
 扨テイゲル河ニハ船の通行難成様、石を積込候船を
 沈置、猶亜馬港と広東との間を武器を備たる
 船を以通路を断切申候

一ストームボート前ニ註ス乗船いたし広東ニ参候義
 使者彼取極書ニ書判致させ候取計者扨置、右書
 面をケセン
人名ニ差出候事さへ出来不申、右等の
 ため二日程空敷日を送り立帰申候、右の訳ハ
 ストームボート
前ニ註ス参候を砦より見掛、直ニ砲
 火を打掛候事ニ候、畢竟右ハ唐人とエケレス人者
 兼て意味合有之右の始末ニ及候義と被存候
一右ストームボート
前に註スの者共立帰知らせ候ニ付、
 早速エルリオット
人名唐人共再敵対致候段、向々江
 相触れ、直様船々を将ひホンコン
地名を指出帆
 いたし、彼地ニ繋居候諸船と一手ニ相成、砦ニ
 攻掛申候
一広東・亜馬港ニおいてハ右の始末ニ相成候ニ付、
 舟山島にてもエケレス方無油断備申候、是又舟山
 島ハ流行病相減、人死も余程少く相成候得共、
 寒気 甚敷故歟、相悩候もの専有之候
     (和睦協定の不成立)
○中国側は本当に和睦する気は無く、矢張り敵対する
積りと見え、各地から軍勢を広東に集め、大砲等武器も
調達している。 計略を廻らし手強い英軍に対抗しよう
としている。

○林氏の総督職は解任されたが、再び勤める様命
ぜられた。
ところでテイゲル河には艦船の運航が出来ない様に石
を積んだ船を沈め、マカオと広東の間武器を備えた船
で通路を遮断している

○蒸気船で広東に向った使者は条約書のサインを
貰うどころか、この書類はg善に渡す事も出来ず
2日程無駄な日を過して帰ってきた。 この理由は
蒸気船が来たのを砦から発見すると、直ぐに砲火を
浴びせた。 これは中国人と英国人の意思疎通が無い
為と思われる。

○蒸気船が無為に帰って報告した事で、早速エリオット
は中国側が再び敵対した事を関係各所に通達し、直ぐ
艦隊を率いてホンコンに向かい、同地に駐留している
艦隊と一手になり砦に出撃した。

○広東やマカオで此の様な状況になったので舟山島
でも警戒を厳重にした。 舟山島の流行病は少なくなり
死亡も大分少なくなったが、寒気が厳しく将兵は苦労
していた。
一和蘭二月廿四日皇国丑閏正月四日エケレスの諸軍船
 ボツカチクリス
地名の砦前ニ着船いたし同廿五日同月
 五日
の早朝、軍勢何れも上陸いたし、ホウイツスル
 
大砲の類 を船卸いたし台場を築き申候
一右築立候を唐人共成丈ケ支候為只管砲火を打掛申
 候、併同日より翌廿六日
同月六日の朝迄ニかけ成就
 いたし候上、ホウイツスル大砲の類を盛ニ放候故、
 唐人共過半ハ逃去申候
一其後軍船を陸手ニ近々と押寄セ、大砲を打掛候処、
 唐人共初者可也ニ凌候得共、おいおい逃去り、
 凡八ツ時頃砦を乗取申候、全躰ボツカテイグリス
地名
 の砦要害、最堅固の様ニ唐人共兼々相心得、砦ニ
 籠り候ハヽ一人も手負無之エケレス人等を軽く追落し
 可申と頼ニせんと居候処、却而速ニ被乗取、剰被生
 捕候者千人、其外手負・死人夥敷有之、右砦ハ全く
 外見名のミ堅固と相見へ申候
一分取の武器共悉く砦より運び船積いたし、大砲の類
 ハ用ニ達さる様ニなし、砦ハ全破却致候
   (ボッカティグリスでの戦闘再開、第二次)
○1841年2月24日、英国艦隊がボッカティグリスの砦
前に着船し、同25日早朝軍勢は上陸し、迫撃砲を卸し
砲台を築く。

○この砲台構築を中国側が阻止する為に只管砲火
を浴びせたが、翌26日に朝迄に完成する。 以後迫撃
砲を盛んに打ち掛けたので、中国兵は過半が逃去る。

○其後軍艦を砦に近づけ、大砲を浴びせたところ、
中国側も初めは応戦したが、次第に逃去り、午後2時
頃には砦を占領した。 一般にボッカティグリスの要塞
は堅固だと中国兵は信じ、砦に籠もる限り負傷もせず
に英軍を軽く撃退できると頼りにしていた。 ところが
反対に砦を英軍に占領され、千人捕虜となり死傷者
も多数でた。 この砦は全く見掛け倒しだった。

○英軍は押収した武器は砦より運び出して船に積み、
大砲の類は使用出来ないようにし、砦は破壊した。


1841年2月26日の戦闘で虎門の要塞が陥落し、この
時、有名な将軍関天培が戦死した。 
一和蘭二月廿四日皇国丑閏正月四日エケレス人舟山島
 を引払候上、唐方ニ擒ニも成居候オフシール
侍分
 者壱人、円卒・水夫之者を約束通り取返申候
一エゲレスボッカテイクリス
地名の砦を乗取破却致、其
 後船々テイケル河を進ミ、近頃築立候諸所の砦を打
 砕申候、右合戦ニ而唐方のもの三百余人討死いたし
 唐軍船一組之内一艘をエケレス人焼討致候、右唐船
 ハ大砲三十挺備の大船ニ有之候
一エゲレス軍船追々盛ニ近候ニ付、唐国奉行兵を以
 支候得共、其詮無之、和蘭三月三日
皇国丑閏正月十一
 日
又々唐方よりパルシメンタイル官名エゲレス船江
 使者を遣し二日程合戦猶予いたし呉候様との頼ニ付
 エケレス人評議の上承諾いたし、直様ワンホー
地名
 湊ニ退き申候
   (英艦隊の広東への進撃)
○1841年2月24日 英軍は舟山島を引払い、中国側に
捕虜となっていた士官1名及び兵卒・水夫を約束通り
取り返した。

○英軍はボッカティグリスの砦を占領、破壊した後
艦隊はテイケル河を進みながら最近作られた各所
の砦を粉砕した。 この戦闘で中国側は3百余人戦死
し、中国の軍艦1艘を焼払った。 この艦は砲30門を
備えた大型船である。

○英艦隊が広東に近づくので総督は兵を動かし阻止
しようとしたが無駄だった。 1841年3月3日中国側
司令官より又々英艦隊に使者を送り、2日程戦闘猶予
を頼んできた。 英軍は評議の上承諾して直ちに艦隊
をワンホーの港に退いた。


一此節エルリオツト
人名よりケセン人名江の掛合之旨唐
 方使者申達候、此懸合の趣意ハ宜敷場所ニて商売
 相遂、 猶是迄の損亡補のため千二百万ドルラルス 

 一トルラルス銀十一匁七分五リん
 受納致度との事ニ候
一右之儀ニ付ケセン人名の返答取留候義無之、又々
 以前のごとく和睦不相整、和蘭三月七日皇国
丑閏正
 月十五日
再び一組のエケレス軍船出帆いたし、数日を
 経広東ニ着船いたし、弾丸届候場所ニ碇を入れ申候
一エケレス人城方ニ攻入らんを唐人等甚恐怖いたし
 家財諸具を持運び道方ニ遁退候者、夥敷く道路ニ
 充満いたし、右様取紛候ニ付、盗賊・悪党共城市の
 内外を縦横いたし、品物を奪ひ、人を害し或ハ家ニ
 火を掛狼藉いたし候
一右様火を掛候故、諸所烈敷燃付、美麗の街々も
 焼失いたし候、扨又エルリオツト
人名は其土人ニ
 申聞候は人を害し、諸財宝を奪候事抔ハ決て無之
 候間、其旨相心得可申聞候へとも、土人等大凡
 五分の四逃去申候
      (再び和睦交渉)
○此時エリオットよりg善に交渉の内容を中国側使者
に伝えた。 趣旨は適当な場所で商売ができる事、
是迄の損害賠償として1200万ドルラルス受取りたい、
と言う事である。

○この条件についてg善の返答は要領を得ず、又
前同様和睦は整わなかった。 1841年3月7日再び
英艦隊の1部が出帆し、数日を経て広東に到着し、
弾丸の届く場所に停泊した。

○英軍が市街に侵攻するのではないか、と中国人は
恐れて家財道具を持出し、道路は非難する人で溢れ
た。 この混乱に付け入り、盗賊や悪党が市街の内外
を横行し、品物を奪い人を殺し家に放火したり窓の
悪行を尽くした。

○この砲火の為に各所が烈しく燃え、美しい街並も
焼失した。 エリオットは住民に英軍は人を殺したり
財産を奪う事は決してないので安心する様伝えたが、
住民の5分の4は逃げ去った。
一唐国法度ニ任セ是迄指留候事弥厳敷致候時ハ 
 エゲレス人共のみニ拘候事を唐国奉行漸心付、直ニ
 数多の触書を出し申候、、然ニ和蘭三月廿日
皇国丑閏
 正月廿八日
諸国の商売、勿論エゲレスにも又々ワン
 ボー
地名ニて商売相遂候様相成候ニ付、エルリオツト
 人名
よりエゲレス商人ニ差免候ハ、以来元々の通
 ワンボー
地名并広東ニて商売可致との趣ニ候、
 併阿片者決而不相成段相達、若犯ニおいてハ
 厳科ニ可行との趣ニ候
一エゲレス人右ニ付再び商館を請取、以前の如く
 唐国商人と交易いたし候、
 扨又ケセン
人名とエルリオツト人名と取極候ヶ条の内
 ニ国帝不承知之事有之由ニて、砲火刀剣を以て
 エゲレス人を悉く可討取旨、和蘭三月三十日
皇国丑
 二月八日
 国帝よりの命ニ有之候、是又広東のシリ
 タインコムマンダント
官名国帝の命を請、ケセン人名
 
官職を召放、械ニ入れ北京ニ送り申候、依之跡ニ
 残居候親族難義ニ及び申候

一和蘭三月三十日皇国丑二月八日広東ニ而ケセン人名
 の風聞有之候にハ、ケセン
人名出立掛途中ニて
 国帝の使者ニ出逢其使者、ケセン
人名ニ向ひ絹の
 綱を相渡、命令の趣申渡候処、絞死候由ニ候
一ブレメル
人名和蘭三月廿六日皇国丑二月四日カル
 キュツタ地名ニ赴き申候、此時ブレメル
人名
 ブレイヘイン
船名のカビタイン官名を勤めテレム
 シンク
人名ニ首将の役を譲申候
  (協定成立、広東で英商人活動開始)
○中国の法に基き是迄禁止したことを更に厳しく
しれば英国人だけに拘わる事に中国政府も気づき
直ぐに多くの通達を出した。 その結果1841年3月20日
諸外国との商売、勿論英国を含め、がワンポーで
出来る様になり、エリオットも英国商人に許可したので
元の様にワンボー及び広東で商売出来る様になった。
但しアヘンの取扱いは決して許されず、若し違反すれ
ば厳科に処するとの方針である。

○英国人は再び商館を受取り、以前の様に中国人と
商売を始めた。
ところでg善とエリオットの取極めた条約の中で国帝
の不承知の事があり、武力で英国人を討取るべしと
1841年3月30日国帝が命じた。 又広東の司令官
が国帝の命を受け、g善の官職を剥ぎ、枷をはめて
北京の送った。 そのため跡に残った親族は大変
苦労したという。

○1841年3月30日 広東での噂では、g善が北京へ
出発の途中、国帝の使者に出会い、使者はg善に
絹と綱を渡して帝の命令を伝えたところ、首をくくり自殺
したと言う

○1841年3月26日 ブレマー提督はカルカッタの転勤
となり、後任にはブレンヘイム号のトーマスハーバート
艦長に艦隊指令の役を譲った


g善と英国との取決めの中でホンコン割譲に対し
道光帝が激怒したと云われている。 死罪の所
罪一等許され流罪となり、翌年復帰し南京条約に
参画している
ブレンヘイム Blenheim 戦列艦 1747トン、砲74門
テレムシンク: Thomas Herbert がBremarの後任

   是迄の処ハ、エケレスと唐国の和熟今以不相
   整趣ニ御座候、此末の儀者来年申上候様可仕候
          古かひたん
               えるてゆあると からんでそん
          新かひたん
               ひいとるあるへると ひつき


  右之分者昨年丑年可奉差上候処乗戻候ニ付無
  其儀、右之侭当年持渡候趣ニ候間和解奉差上候
  此末之儀は近日中可奉差上候、以上
 今現在英国と中国との和睦は未だ熟していない
 状況であり、この後の事は来年申上げる
     旧商館長
          エディアルト グランデソン
     新商館長
          ビートルアルベルト ヒッキ
 
この分は昨年丑年(1841年7月)に差上げるものだが、
昨年の定期船が途中で戻った為、そのまま今年持参
したので和訳して差上げる。 この後の報告書は
近日中差上げる  1842年8月(天保13年)


1841年(天保12年)7月到着予定だったオランダ交易
船は嵐に巻き込まれマカオに漂着、そのままバタビア
に帰環し長崎には来ていない。 上記はその時の船
に積まれていたものを翌年持参した。
 
出典: エキレス人日記和解(早稲田大学図書館)、阿片招禍録(国立公文書館)

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