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1842年(天保13年)オランダ別段風説書

  和蘭暦数千八百四十一年天保十二巳年より
  同千八百四十二年
天保十三寅年迄、唐国ニ而
  エゲレス人阿片商売停止方ニ付記録いたし候事
西暦1841年より1842年迄の清国における英国人による
阿片売買停止について記録した事

一前条奉申上候通、エゲレス商売元の如く相始エゲ
 レスの商館元ニ復し、諸事治り候趣相見江候得共、
 いまだ安堵の場合不戻、実ニ唐人等表に和熟の躰
 をなし、隠謀専らニいたし候、扨ボツカ
地名の砦を
 エゲレス人打砕候趣を聞て国帝より其弟メーンハン
 
人名に命し候は、ミニストル官名ホー人名并五万の
 軍勢を率ひ広東進発いたし、刀剱砲火を以エゲレス
 人を討取可申、又決而和睦不可致、若和睦いたし
 候においてハ可為死罪の旨申付候、唐方勢手弱埒
 明不申様相見候節者、国帝自身に数万の軍勢率ひ
 発向いたし、成敗可致旨申聞候趣御座候
一和蘭五月十八日
丑三月廿八日再戦争のきざし起り
 候迄者万端其侭ニ罷居申候處、其節ニ至り城市の
 土人等は家財を持運諸方ニ逃去、軍兵等は城市に
 備を立申候、右勢ハ大凡北国并韃靼より出て五万
 余と申事ニて、国帝の弟総大将として参着いたし
 候風聞有之候
   (道光帝の怒りと中国側の反撃体制)
○既に述べた様に英国の商売も元通り始まり、商館
も復活し全て治まった様に見える。 しかし未だ安心
するには至らず、中国側は表面的には和平を見せて
いるが裏では策謀をなしている。

ボッカの砦を英軍に破壊された事を聞いた国帝は弟
メーンハーンに命じた事は、大臣及び5万の軍勢を
率いて広東へ進発し、武力で英国人を殲滅する事、
又決して和睦してはならず、若し和睦すれば死罪に
するとの事である。 この軍勢でも決着つかぬなら、
国帝自身が数万の軍勢を率いて進発し、成敗すると
云う事である。

○1841年5月18日 再び戦争の兆しが起こる迄は
静かだったが、この頃広東の住民達が家財を運び
逃げ始めた。 中国軍が城市に展開してきたが、彼ら
は大分部北方の満州や蒙古兵で5万余との事で、
国帝の弟が総大将として到着したとの噂がある。

一広東に再び参居候エルリオット
人名より和蘭五月
 廿一日
丑四月朔日エゲレス商人共ニ廻文を以申遣
 候者、唐人等又々敵対いたし候趣に候間、何れも
 速に商館を立退候様との事ニ付、商人共即日其儀
 畏り申候
一右様和睦相破候次第は聢と相知れ不申候得共、
 究てエルリオツト
人名を悪み、猶エゲレス人等
 ホンコン
地名を決而引払不申ハヽ申募候処より
 右之始末ニ相成候哉ニ被存候
一諸軍船并運送船ホンコン
地名を引払候後、ボッカ
 地名
の砦の前に繋りいたし候
一エゲレス人不意ニ押寄候も難計、唐人等是を防方
 之用意専と相見江、数多之砦には大砲を用意
 いたし河辺に??せる術衢毎にはゲモスケール
 デハツニレイ
見ざる様蓋ひ隠たる台場 を経営し、
 広東北方の河辺迄堅固の砦相建連ねフランス
 フォルレイ并ドイツフォルレイ
共ニ河口に有小島
 砦には石火矢夥敷相備申候、扨又サーミン
地名
 
には新に砦を築、河水ケレーケン河水を引入て堀の
 如きを申候
 には夥敷フユールフロット?を組其上に
 焼打用意の砲火等の備有之もの
を浮へ、或はブランドル
 
火移燈を上るもの を用意いたし、是は失費を不厭、
 全くエゲレス人を追散らさんと決着いたし候儀ニ候
 フランセフヲレイ并ドイツセフヲルレイは広東の
 河口に有之候小島にて、唐国に通商いたし候
 欧羅巴人等園囲造り候場所ニ候、右島々之内
 或はホルラントセキュストオールド
阿蘭陀の借地
 或はフランスキュストオールド仏朗、或はエンゲル
 セキュストオールド
エゲレスの借地と称し候所等有之候
一前条エルリオット人名よりの通達之意に随ひエゲレス
 并其他国々の商人等、商館を遁退船々ニ参り申候
 然る處果して時も違ず、唐人共其侭エゲレス商館ニ
 押寄、商人共を悉く殺害可致心組有之たる由後に
 して相顕申候
一商人共船ニ逃来り候末、右商人共乗組罷在候
 エウロラー
船名と唱申候スクーネル一種の小型軍船
 ロイサー
船号と唱候コツトル一種の小型軍船、商館の
 真向ニ船繋いたし候、然るに兼て河口の其辺夜ニ入
 候得者、数多の小舟満ち賑々敷して許多の焼火
 照渡候得共、淋敷間に成行申候、六ツ時ニ到て
 アルゲリね
船名等の船安逸に見へし城市に間近く
 船繋いたし候

   (諸商館の広東から避難と戦争準備)
○1841年5月21日 広東を訪れたエリオットは英国
商人達に回覧文を送り、中国側が敵対するので、皆
速やかに商館を立ち退くようにとの事で、商人達は
即日退去した。
  

○此の様に和睦が破綻した理由は明らかではないが
中国はエリオットを憎み、特に英国人がホンコンから
決して撤退しない為と思われる。

○英国艦隊はホンコンを出発し、ボッカの砦前に
集結した。

○英軍が急に押寄せる事を考え、中国側は防禦の
用意に専念している様で砦には大砲を準備し、河辺
の要所に見えない様に砲台を築いている。 広東
北方の河辺迄堅固に砦を連ね、河口のフランス小島
ドイツ小島の砦には大砲を多数用意している。
又サーミンには新に砦を築き、河水を引入れた堀に
は多数の焼討用の艀や、焼討道具を金にいとめを
付けず、英軍の殲滅を目論んでいる。

フランス小島やドイツ小島は広東の河口に多数ある
小島のひとつで中国との通商をするヨーロッパ人が
島の周囲を囲った場所である。 これらの島の中で
オランダ租借地、フランス租借地、イギリス租借地、
などがある。

○1841年5月21日の前記のエリオットからの通達に
従い、英国及び他国の商人達は商館を退去し、船に
移動した。
その後直ぐに中国人が英国商館に押寄せたが、商人
達を全員殺害するする予定だった事が後に明らかに
なった。

○商人達が非難した船はオーロラ号というスクーナー
及びロイサー号というカッターで、商館の真向かいに
碇泊していた。 いつもであればその辺の河辺は夜
に成ると多くと小船が賑やかに浮かび、照明も明るく
照らしているが、今は寂しい限りである。 夕方6時頃
アルゲリネ号等が安全と思われる街の近くに停泊
している。

一同日凡四ツ時頃アユールフロツテン
艀を組其上に焼討
 の用意の砲火等を備へ有之
并ブランデンデヨンケン焼討
 用意の船
 汐合にて流れ夥敷火の光フアーデ地名
 にて相見、此時商人共乗組候スクーネル
前に出ず
 コットル
前に出す危き場合に望ミ候半はコミパグニー
 トイン
商館の園囲より右スクーネル并コツトルに理不尽
 に砲火を打掛ケ申候

一此時サーミン地名の砦よりもエゲレス方に砲火を打掛
 候ニ付コットルも盛に防禦いたし、ネメシスと唱候
 ストーンホ―ト
前に出ずを以てフユールフロッテン前に
 出ず
を散乱せしめ、玉目三拾弐ホント一ホント百三拾弐匁
 余
の大砲を以強く唐方に打懸申候
一モデステ
船名アルゲルね船名ベイラーテス船名等の
 船々よりサーミン
地名の砦にカロナーテ一種の大銃
 以打懸候處、右砦より唐人共石火矢を盛に放し申候
一夜半迄右様砲火せり合いたし、大に苦労いたし候
 末、漸唐方之砲火不届所にスクーネル、コットルは
 引退申候


一和蘭同廿二日
丑四月二日ニ当ルの早朝モデステ船名
 アルゲリね
船名ペイラ―デス船名等の軍船并ねメシス
 と唱候ストームボート
前に詳之を以、又々サーミン地名
 に責掛、最烈敷砲火を打掛候處、終には打砕微塵
 ニ相成申候、又此時にストームボートねメシス
船名
 以四拾艘の唐軍船をも河口のケレーキク
前ニ詳之
 追込多分は虚空に打飛し、或は河辺に打上申候
一唐方には兵士大ニ死亡致し候得共エゲレス方は
 死亡少く手負三人有之候
一サーミン
地名の砦を破却いたし候末、エゲレス軍船
 亜馬港パッサーゲ
地名に繋り、組内の船々を相待
 申候
      (広東での戦闘開始)
○同日夜10時頃、焼討用の艀や船が汐に流れ来る
夥しい光がファーデ辺に見え、この時商人達の乗った
スクーナーやカッター船に対し、商館の周囲から理
不尽に砲火を浴びせてきた。

○此時サーミンの砦からも英側に対し砲火を浴びせ
てきたので、カッターも応戦した。 ネメシス号と言う
蒸気船が焼討用艀を散乱させ、重量32ポンドの大砲
で強力に中国側を砲撃した。

○モデステ号、アルゲリネ号、ベイラーテス号等の
船よりもサーミンの砦にカロナーテで打ち掛けた所
中国側もも盛んに大砲で応戦した。

○夜半まで互いに砲撃戦が続き、苦戦したが漸く
スクーネル及びコットルを砲弾の届かぬ所まで引
退した。

○1841年5月22日早朝、モデステ、アルゲリネ、
ピラデス等の軍艦及びネメシスと言う蒸気船により
サーミンの砦を攻撃し、烈しい砲火を浴びせたところ
砦は微塵に粉砕された。 此時蒸気船ネメシスは
40艘の中国船を河口のケレーキクに追込み、対部分
は粉砕し或は岸に打ち上げた。

○中国側は多くの兵士が死亡したが、英側は死亡
はなく、負傷が3人だった。

○サーミンの砦を破壊した後、英軍艦はマカオの
パッサーゲに碇泊し、艦隊の船を待った。

スクーネル: スループ 300トン前後の帆船、砲10-18
コッテル: Cutter 100トン前後の帆船、砲6-8門
モデステ; Modeste スループ 562トン、砲18門
アルゲリネ:Algerine スループ 297トン 砲10門
ペイラーテス: Pylades スループ 433トン 砲18門

一翌廿三日
丑四月三日一手之エゲレス軍船相揃、陸手
 の兵を亜馬港パッサイゲ
地名に集り申候、右之地は
 広東より凡四五里の行程ある所に候
一和蘭同廿四日
丑四月四日コロネル官名モウンタイ人名
 の下知にて廿六手の勢を以て、再び異国の商館
 所々を取返申候、扨持運びの相成候品物等追々盗
 取らんためニ其所ニ罷在候盗賊・兵士等追出し、
 商館を全く不打潰候様患難を除き候得共、阿蘭陀
 并エゲレス商館は出張延引ニおよび候内、安穏に
 持候事不相叶、最早及破却、諸品を奪取られ立具
 類に至る迄一切無之、中には許多の高価の品物、
 殊に毛織端物等都而被盗取申候

一和蘭同廿五日丑四月五日エゲレス船に残居候軍勢
 上陸いたし広東北方の丘上に備を立て、韃靼勢を
 城市に追込め、其上船よりボンベン
大天砲、ガラナート
 
小天砲ホウウィッスル大筒名 を以韃靼人に打掛申候
    (英軍の上陸部隊による広東制圧)
○翌23日一隊の英艦隊が揃い、陸軍部隊をマカオの
パッサイゲに集合した。 ここから広東迄4-5里の行程
である。

○1841年5月24日 モウンタイ大佐の指揮で26隊の
部隊により、再び各国の商館を取り返した。 ところで
持運び出来る品物を盗み取る盗賊や兵士を追出し
商館を無傷に取り返したが、オランダと英国の商館は
手遅れで、既に商館は壊され、諸品々は略奪された
後で何も残っていなかった。 中でも多くの高価な
商品、特に毛織物など全て盗まれていた。

○同25日英国船に残っていた軍勢も上陸し、広東
北方の丘の上に防禦ラインを構築し、韃靼軍を城市に
追込み、そこへ船から爆裂弾や、カラナート、迫撃砲
を浴びせた

一和蘭六月五日
丑四月十六日エルリオット人名より其味方
 に相達候は、唐方大将の頼により先ず左之ヶ条の
 ため敵対相止候事候、則左ニ記し申候
  第一広東内外ニ居候唐国并韃靼軍兵都而六日の
  間ニ市中を立退き六十里外ニ居住いたし候事
  第二エゲレス国備銀之内六百万ドルラルス
一ドルラ
   ルス凡銀十匁七分五厘計
差出、右高之内百万ドルラ
  ルスは和蘭五月廿七日
丑四月七日期限相納可
  申こと
  第三当時の振合にてはエゲレス軍兵は其所に留り
  決而敵対不可致事
  第四六百万ドルラルス七日の内に相納候事出来
  不申時は百万ドルラルス相増、都合七百万ドル
  ス相納可申、万一十日の内ニ不相納時は八百万
  ドルス相納可申、若又廿日の内ニ相納候事出来不
  申時は、九百万ドルラルス相納可申事
  第五右納方相済候ハヽエゲレスの軍勢退出可致、
  猶是迄相備罷在候所々の砦も明渡し可申、
  右砦は双方和談相懸候迄唐方より再び兵を備候
  儀不相成事
  第六和蘭千八百三十九年九月
天保十亥年七月諸商
  館を敝ちスパーンブリッキ
一種の小型軍船ペルハイノ
  
船号を奪ひ焼討被致候節の失費直様相払可申事
一エルリオット右達書に猶又書越いたし候は唐国許多
 の軍兵最早城市を立退き五百万ドルラルス既ニ相納
 申候ニ付而は、コミサーリス
官名両人共城市を立退
 候ハヽエゲレス人等急度広東ニ引返し、砦等を明渡
 可申事ニ候
  (中国の休戦申入れと英側提示の協定案)
○1841年6月5日 エリオットより英軍に対して通達が
があり、中国側大将からの頼みで以下の条件で戦闘
休止する事が発せられた。

 1. 広東付近に展開する中国並び韃靼兵は全員
   6日以内に市中から立退き60里より外に去る事

 2. 英国に600万ドルラルス支払い、此の内100万
   ドルラルスは1841年5月27日迄に納める事

 3.現在の状態で英軍は其場所に留まり敵対しない
   事
 4.600万ドルラルスは7日以内に納められない場合
  100万ドルラルス増やし700万ドルラルスとなる
  万一10日以内に納めない時は800万、20日以内に
  納めない時は900万ドルラルスを納める事

 5.以上納付完了すれば英軍は退出し、是迄占領
  した砦も明け渡す。 但これ等の砦は和睦が整う
  迄中国側は利用しない事

 6.1839年9月に諸商館を破壊し、英国の小型軍艦
  ペルハイノ号を奪って焼払った損害を賠償する事

○エリオットの通達に追加として書き加えたのは、
中国側が軍隊を城市から去らせ、500万ドルラル納め
た後、清国代表2名共城市を立ち退けば、英国商人
達は必ず広東に戻り、英軍は砦を明け渡すとの事

一唐国のゲねラーリスシミユス
官名相触候にはエゲレス
 のオフシール
武士ソルダート歩卒を生捕、或は討取候
 者有之候ハヽ褒美として大望を取セ可申、猶ユルリ
 オツトの頸を取者には拾万スパーンセマツット
  
一スパーンセマットは凡銀拾匁七分五厘計り 取らセ可申
 との事ニ候
一唐国の首将より相触候趣にては、唐人等エゲレス人
 の趣意通差免候事は、只暫の事のやうに相見へ候、
 諸事先規に復候様成行候迄は色々手数も相掛候事
 顕然いたし候儀ニ候

一ホンコン地名には亦々難病流行いたし、一手の軍船
 は年長のゼーオフシール
官名テレミングシムホウセ
 人名
其外許多の士卒相悩申候
一唐人等よりラントスーン擒子を取戻候為め差出候金を相
 納候末、唐国并韃靼の軍兵城市を引払候ニ付、エゲ
 レス軍船広東より出帆いたし、エゲレス人諸砦を唐方
 ニ再び相渡申候、此後無益の達し事等双方より有之
 候外差たる儀無之候、将又亜墨利加・其外異国人
 との商売は不断有之候得共、エゲレス人々の交易は
 絶て無之候
一エゲレスの商館并商人の住所を押領被致候ニ付、
 右損失をエルリオツト
人名の命にて勘定致さセ、右
 損失丈の銀子を商人共にエゲレスの奉行所より相弁
 申候、右損失の惣高は三拾万九千六百拾五ドルラ
 ルスに相成申候
      (広東戦闘中止と処理)
○同時に中国軍の将官が触れている事は、英軍の
士官や兵卒を生捕るか、或は討取れば相応の褒美を
与える、尚エリオットの首を取れば10万スパーン
セマット(1スパーンマセットは銀拾匁7分5厘)を与える
との事

○中国軍の将がこの様に触れている以上、中国側が
英国の希望通り応じる事は、少しの間であり、全てが
元通りに戻るには未だ手数が掛る事は明白である。

○ホンコンでは又難病が流行し、年長の海軍士官他
多数の士卒が病んでいる。

○中国側は捕虜引取りの身代金を払い広東城市を
引払ったので、英軍も広東より出帆し、英軍の諸砦
を中国側に引渡した。 此の後はさして重要でない
通達のやりとりが有った以外は何事もなかった。 
又中国とアメリカ、その他外国との商売は続いたが、
英国との取引は絶えた侭である

○英国の商館及び商人の住居が占拠されたので、
エリオットはこの損失を計算させ、その損失を東インド
会社より商人達に弁済した。 この損失の総額は39万
9千6百ドルラルスだった。

和蘭八月九日丑六月廿三日スコウトベナグト官名
 ウイルリヤムパケル
人名并近頃ブレニポトテルテイヤ
 リス
官名に被申付候ヘンレイポッテインゲル人名亜馬
 港に到着いたし候迄は諸事是迄之通ニ御座候
一手の軍船は出帆いたし、且新ブレニポーテン
 テイヤリス
官名并フロートフォーグト官名来着いたし候
 ニ付唐人共大ニ恐怖いたし、再び戦争の用意等をい
 たし候、扨韃靼の軍兵は約定通広東より六拾里外に
 退き可申筈之処再び其地江立戻り諸砦を相備申候
 此時マンデレイン
官名并有徳の書人等広東を立退申
 候、依之右等之事を推察致し候、唐人共ハ戦争近く
 再発可致と大ニ心痛いたし候
和蘭八月廿二日
丑七月五日スコウトベイナクト官名
 プレニホーテンテリヤリス
官名并ケネラールコムマシ
 タント
官名ヒユグゴウグ人名軍船一手の内只弐三艘
 ホンコン
地名には相残し、其余は都而其地より出帆
 致し候
一広東は右様戦争の用意頻ニ有之候間、エゲレス
 商人共其地を引払、再び本船ニ罷帰候場と成申候
一許多のエゲレス軍船ホンコン
地名を引払候趣意は
 いまだ聢と相分り不申様々風説有之候得共、右風説
 之内先信用相成儀は、舟山并アモイ
地名を責取候
 末、北京江責入候心組と申事に候
     (英側幹部体制の一新)
○1841年8月9日 英国遠征艦隊指令のウィリアム
パーカーと最近全権使節に任命されたヘンリー
ポッティンジャーがマカオに到着する迄は全てが従来
通りだった。

○1841年8月22日 艦隊指令、全権使節及び総司令
官ヒュー・ゴウは艦隊の内僅か2-3艘をホンコンに残し
残りは其地から出帆した。

○艦隊は出帆し、且全権使節及び艦隊司令が到着
した事で中国側は恐れて再び戦争の準備を進めて
いる。 ところで韃靼軍部隊は約束では広東より60里
離れる事になっていたが、再び広東に戻り、諸砦を
構えている。 此時高級官僚や有徳の文化人達が
広東を立退き始めた事で広東市民は又近く戦争が
再発すると推察し、大変心痛している。

○広東は中国側が戦争の用意を頻りに進めており、
英国商人達は其地を引払い再び船に戻る事になった

○大軍の英艦隊がホンコンを引払った理由ははっきり
せず、色々情報があるが、先ず信用できる情報は
舟山及びアモイを占領し、北京に攻込む積りと言う事
である。


ウイルリヤムパケル: Willam Parker(1793 - 1857 )
   東インド及び中国海艦隊司令官
ヘンレイポッテインゲル:Henly Pottinger (1789 -
 1856)、 1841年 特命全権使節
ヒュグゴウグ:Hugh Gough(1779 -1869)
     1841年英遠征軍総司令

一和蘭五月二十六日
丑四月六日取究置候旨を守る事
 なく、唐人共新ニ砦を築き、又取戻候砦には兵を備
 へ且石を積込候船を河に沈め船の通路を断切、戦
 争の用意専らにいたし候様子候、依之カビタイン
官名
 ニヤス
人名右を支へ候ため、和蘭九月十五日丑八月
 一日
軍船ヘラルト船名ヒャシント船名スタルリングと号る
 スクーネル
小型の軍船并ホーグレトと号するストーム
 ボート
前に詳之 を率ひ、広東の河に走り入、翌日
 ワンポー
地名と広東との間に至り広東の方に近寄セ
 候処、唐人共河に仰山の石を沈め候様子見請申候
 右ニヤス
人名はスコウトベイナグト官名の手を焼き候
 末、年長之船方武士にてホンコン
地名に残居る
 エゲレス諸軍船を支配いたし候
一和蘭五月二十六日
丑六月六日取究置候儀と相違
 致し、唐人共右様戦争の用意致し候ニ付、ニヤス
 
人名大砲を打放し、石を積込候唐船三四拾艘も打
 散し、マンデレイン
官名の船六艘を打沈め、猶
 ワンテユン
地名砦并河辺の家を破却いたし候末、
 ホンコン
地名を指して帰船致し候
一ニヤス
人名ワンテユン地名砦を責取、且唐船数艘を
 打散し或は打沈め候末、帰船致し候ニ付広東一躰
 穏静り居候様に有之候得共、ホンコン
地名に於ては
 エゲレス船再び押寄可申儀を相恐れ、六千の軍兵
 を河辺に相備近付、防禦の用意いたしサミン
地名
 砦を築き申候
    (広東での協定違反と小競り合い)
○中国側は1841年5月26日の協定を守らず、新に
砦を築き、又取り戻した砦には兵を配備した。 又
石を積んだ船を河に沈め、艦船の通路を塞ぎ、戦争
の準備に専念している様子である。 このために
ニヤス大佐はこれを阻止するため、1841年9月15日
軍艦ヘラルド及びヒヤシンス、スターリング号という
スクーナー、ホーグレトという蒸気船を率いて広東の
河を昇った。 

翌日ワンポーと広東の間に至り、広東に近づくと、
中国人が沢山の石を沈めているのを目撃した。 
このニアス大佐は艦隊司令官の手を離れた末、
年長の士官という事でホンコンに残留する英艦船
の指揮をしていた。

○前記協定に反して中国側が戦争の準備をしている
のでニアスは大砲を打ち、石を積み込んでいる船
30-40艘を打ち散らした。此時指揮官の船6艘を沈め
更にワンテユン砦及び河辺の家を破壊してホンコンに
帰った。

○ニアスがワンテユン砦を占領し、且つ中国線数艘を
打ち散らし或は沈めた後帰船した事で、広東全体は
穏やかだったが、ホンコンでは英艦隊が再び襲来
するのではないかと恐れ、6千の軍勢を河辺に近く
備えて防禦の用意をし、サミンに砦を築く。


ヘラルド: Herald 戦列艦 500トン 砲28門
スタルリング: Starling カッター 108トン、砲4門
ニアス: J. Nias、ヘラルド号艦長

一和蘭九月廿五日
丑八月十一日亜馬港に注進有之候
 フラレニポーテンテイヤーリス
官名の者両人共軍船
 数艘を率ひ出帆致し候由ニ候
一前条の通エゲレス人アモイの城市を責取可申ため
 罷越候処、唐人共相恐れ失費を不厭防禦の手当
 厚くいたし候
一渚一帯に数ヶ所の砦并台場を築き、大砲八百余挺
 を相備へ申候
一和蘭八月廿六日
丑七月十日一手の軍船アモイの湊ニ
 到り直様諸砦并台場ニ大砲を放掛り候処、唐人より
 も同様烈敷砲火を放ち防ぎ申候、然る処エゲレス人
 砦并台場二三ヶ所打砕候上士卒水夫とも上陸いたし
 其後海辺ニ屯し、翌朝アモイ
地名に責掛候処唐人共
 盛ニ防禦いたし候得共、終ニ不相叶被乗取申候
一城市ニ有之候倉庫并唐軍船を焼払候末、其地奪ひ
 兵器は本船ニ積取り、或は用達セざる様ニいたし、
 其上最大の火砲八拾挺有之候を是亦過半は本船に
 積、或は再び用達セざる様ニ致し申候
一右合戦の節唐人の死亡夥敷有之候得共エゲレス
 には手負纔ニ有之候
一右の通悉く破却致し候上、エゲレス人其地警固の
 ため軍船弐三艘并騎馬武者一手を相残シ、和蘭
 九月四日
丑七月十九日再び北方を指し出帆いたし候
   (英軍によるアモイの占領)
○1841年9月25日マカオに報告あったのは全権使節
両人が艦隊を率いて出帆したとの事である。

○前述の通り、英軍はアモイの城市を占領する為
出撃したところ。中国側は費用を惜しまず防禦の準備
をしている。

○1841年8月26日英艦隊がアモイの港に到着すると
直ちに各砦及び砲台に大砲を打ち掛けたところ、中国
側も同様に烈しく砲撃して応戦した。 英軍は砦や
砲台を2-3箇所破壊した上で、陸軍部隊、水兵が
上陸して海浜に展開した。 翌朝アモイ城市を攻め
中国側も応戦したが叶わず占領された。

○城市に有る倉庫や中国船を焼払い、更に火砲
80挺を本船に積み、或は用立ちしない様にした。

○この戦闘で中国側の死亡は多数あったが、英側
は負傷者が僅かに有った程度である

○この様に全て破壊した後、英軍は警固の為軍艦
2-3艘及び騎兵一隊を残して1841年9月4日、再び
北を目指し出帆した

一広東にて風聞有之候は右エゲレス軍船定てネンポー
 
地名を責取、破却可致ため其湊に到り可申由ニ候
一和蘭十月二日
丑八月十八日エゲレスの軍船、舟山島
 の城市テインヘイ
地名前ニ来候ニ付、唐人共其地を
 相固可申為、アモイ
地名の如く手を尽し二時ほど挑み
 戦ひ候得共、エゲレスの海陸の軍勢より乗取られ、
 四方ニ敗走いたし候、扨此戦には唐人等兼てより
 万端防禦行届候得共、終ニは無利右の始末ニ相成
 候ニ付、唐方数多の大砲其外武器并ニ塩硝米?等
 もエゲレス方の手ニ落入申候、右大砲の内四拾挺は
 ?筒の由ニ候、扨右分捕の品多分は本船ニ送り其余
 は破却いたし候
一同月十日より十三日迄
丑八月廿六日より廿九日迄エゲ
 レス人ネンポーの河口ニ有之候城市シンハイ
地名
 責取申候、其節唐人等大ニ勇気を励し防戦いたし
 候得共、終ニは敗走いたし候付、エゲレス人ども其
 地を打毀焼払申候
一エゲレス人分捕致し候品物数多有之、既ニ大砲
 百挺、其外許多の武器等并百万ドルラルス
前ニ詳之
 の正銀有之候
        (舟山の再占領)
○広東での噂では英艦隊は恐らく寧波を攻撃し、
破壊する積りだろうと云われている

○1841年10月2日 英艦隊は舟山島の城市定海の
前に現れたので、中国側は其地を防禦する為に
アモイと同じ様に精一杯2時間程応戦したが、英軍
海陸の上陸部隊に占領され、中国兵は四散した。
中国側も英軍襲来は予想して多数の大砲、その他の
武器、火薬、食糧を準備していたが、これらが全て
英軍の手に落ちた。 この大砲の内40挺は青銅製
との事である。 これらの戦利品は大部分は本船に
運び残りは破壊した

○1841年10月10日より13日迄英軍は寧波の河口に
ある城市シンハイを占領した。 その時中国側は
烈しく防戦したが、終には敗走したので英軍は破壊し
焼払った。

○英軍の戦利品は多く、既に大砲百挺、その他武器
及び百万ドルラルスの銀貨があった


舟山は英軍が一度占領したが、エリオットが英人捕虜
と交換の為、中国側に返還していた。 
シンハイ: 鎮海(現寧波市鎮海区)

一エゲレス人アモイ
地名テインヘイ地名シンハイ地名
 責取破却致し候以来は、唐人共大ニ恐怖致し候故歟
 エゲレス人河を馳登りニンホー
地名ニ到り候処、唐方
 の大将并マンタシイネン
官名土人兵士等ニ到る迄、
 其地を打捨各財貨を持、数里陸手を指し遠方江立
 退き申候、依之エゲレス人戦をなさずして其地を押領
 いたし候上、分捕の品物余多有之候
一右之節広東は万端無事ニ有之候、尤唐方ニては
 新ニ砦等を築き、河の双方を堅固ニ致し、エゲレス船
 乗入不申様、防の手当専らニ候得共、唐商売船
 七艘取られ申候
一唐人共当時は砦并台場を築候も大砲を台場ニ置候
 ニも欧羅巴流を相用ひ申候、右ニ付風聞候には右
 等の事巧者の阿蘭陀人を召抱候と申噂有之、又外
 説ニはロシア国よりゲニーオフシール
官名三人北京
 に来り、其法を相伝候との趣ニ候
一唐人共ストムボート
前ニ詳之一種を製造いたし候得
 共ストームの手段は無之、人の手を以て動き候仕様
 ニ而有之候、右船終日河上ニ往来いたし候をエゲ
 レス人等見請申候由ニ候
       (寧波の無血占領)
○英軍がアモイ、テインヘイ、シンハイ等を攻撃破壊
した後は中国側は英軍を恐れたためか、艦隊が
河を走り上り寧波に到着すると、中国側の司令官、
官吏、住民及び兵士に至る迄其地を捨てて財産を
以て数里内陸を指し立ち退いた。 このため英軍は
戦わずして寧波を占領する事ができ、且戦利品も
多数あった。

○此の期間広東は全て平穏だったが、中国側は新に
砦を築き、河の両岸を堅固にし、英艦船が乗り入れ
出来ないよう手当てしているが、中国商船も7艘
取られた

○中国側は砦や砲台を築くのも大砲の設置にも
ヨーロッパ式を採用し、噂だがこの分野での技術に
長けたオランダ人を採用しているとの事である。 又
一説ではロシアより技術将校3人が北京に来て、その
方法を伝授しているという

○中国でも蒸気船を製造したが、蒸気機関が無く
人手で動かす仕掛けである。 此の船が一日中河
上で往来しているのを英人は見たとの事である

一和蘭十二月二十五日丑十一月十三日広東ニ再び注進
 有之候はエゲレス軍船アモイ
地名シンハイ地名を責取
 候趣ニ候、且又ネンポー
地名を責取候末、其地所々に
 責掛候の様子有之候処無之儀ニ而、唯其模様のみに
 御座候
一唐国帝より再び赦免を請候ケスチー
人名是は前ニ有之候
 ゲセンの事ニは無之哉
唐国の軍兵二万五千人城市ヒュン
 コウトー
地名に屯し、其先備したネンホーより五六里相
 隔陣を取申候
一ネンポー
地名にてエゲレス軍兵・水夫共壮健に有之、
 尚食物も沢山に唐人共世話いたし呉れ、エゲレス人と
 甚睦敷事ニ御座候
一ホンコン
地名には万端穏ニ相成、追々唐人共許多
 来りエゲレス人と商法を遂候儀、次第に繁昌いたし候
一広東には唐人等今ニ不絶戦争の用意専らいたし
 罷在、マンタレイン
官名数千の兵士并新規ニ士卒を
 召抱候ニ而商銀を相増、大砲・武器等を許多高価ニ
 買入申候
一大砲を取扱セ可申ため、唐方に欧羅巴人と数人召抱
 申候、右欧羅巴人は皆エゲレス或は其地の異国船
 より逃越候兵士・水夫の者に御座候、是等ニ一ヶ月
 三十ドルラルス
前に詳之の給料与へ申候
    (広東付近の状況)
○1841年12月25日 広東に再び報告あった事は
英艦隊はアモイ、シンハイを占領したとの事で、且
寧波を占領し、其周辺所々を攻撃するのではないか
と見られたが、それは無く只その模様だけである。

○清国帝より再度赦されたケスチーは中国軍2万5千
人を率い、ヒュンコウトーの城市に布陣したが、これは
寧波より5-6里の所である。

○寧波では英軍の士卒、水兵とも元気で、食物も十分
同地の住民より得て、英人と住民は親しくしている

○ホンコンは全面的に穏やかになり、中国人達が
大勢来て英人と商売をして次第に繁昌している。

○広東では中国側は絶えず戦争の準備をしており
将軍は数千の兵士・士卒を募集し、其財源を増やし
大砲や武器など高価に買い入れている。

○大砲の操作の為、中国はヨーロッパ人を採用して
おり、これらのヨーロッパ人は皆英国やその他外国船
から逃出した兵士や水兵である。 彼らに月に30ドル
ラルスの給料を与えている

一和蘭二月一日丑十二月廿一日プレニポーテンテイヤリス
 
官名シルヘンレイポツテインケル人名ニンホー地名より
 ホンコン
地名に着船いたし
 同月五日
同年廿五日触出候にはプレニポーテイヤリス
 官名
去ル和蘭十二月十七日丑十一月十五日セリステイリ
 スニメシスソレゲトンと号するストームボート
前に詳之等を
 率ひ城市ネンポー
地名より退き、河を走り城市ユヤツト
 
地名に到り、暫時戦争いたし、其地を責取、役所々々
 を破却致し米倉を開土人ニ与へ其後右ストームボート
 
前ニ詳之出帆致し、其末ツキー地名テユンクワ地名
 押領致し候旨ニ候、右ネンポー
地名よりユヤット地名
 行程四十里、ツキー
地名并テユンクワ地名に二三十里
 有之候
一右ツキー
地名并テユンクワ地名を唐国軍兵逃去候故、
 エゲレス人不戦して其地押領いたし、ユヤツト同様ニ
 諸役所を悉く破却いたし、米倉を開き土人等勝手に
 米を取去り候様致し置候、右者第一唐人を帰伏致
 させずニ唐国のマンタレイン
官名并ゴウフルナタント
 奉行所
に恨を報候ために候、依之其土人には決而仇を
 不致趣解諭し申候

一右の通に取計候上、ストームボート前ニ詳之再びネン
 ボー
地名を指し出船致し、和蘭正月十二日丑十一月
 三十日
彼地に致着船候
一エゲレス人河を馳登り所々の城市を押領致し候ニ付
 唐国のマンダイン
官名等大ニ相恐、右注進を聞、忽ち
 テユンコウホー
地名より逃去申候、右テユンコウホー
 地名
はネンポー地名より九十里相隔申候
   (蒸気船艦隊による河上諸地域攻撃)
○1842年2月1日 全権使節ポッティンジャー卿は
寧波よりホンコンに着船し、同5日報告した事は全権
使節は昨年12月17日 セソストリス号、ネメシス号、
フィリゲトン号の蒸気船を率いて寧波より河を走り、
ユヤットの城市に至り、短時間の戦闘で其地を占領
した。 役所は破壊して米蔵を開き住民に与えた。
其後蒸気船は出船し、ツキー、テユンハワの地を
占領したと言う。 寧波からツキーには40里、テユン
ハワには20-30里である

○このツキー及びテウンクワでは中国兵は逃去った
為、英軍は戦わずして其地を占領した。 ユヤット同様
に役所を全て破壊し、米倉を開いて住民に勝手に
米を持ち出させた。 これは住民達が中国の役人や
役所に服従せず恨みを持っている為である。 これで
英軍はその住民には決して害を与えない事納得
させた。

○以上の処理をした上で蒸気船艦隊は再び寧波に
向け出船し、1842年1月12日寧波に到着した。

○英軍が蒸気船艦隊で河を遡り、所々の城市を占領
するので、この情報を聞いたテユンコウホーでは支配
者達は直ぐに逃げ去った。 このテユンコウホーは
寧波から90里も離れている所である


蒸気船名: Sesostris, Nemesis, Phlegeton
ツキー: Tzeki 慈渓(現寧波市慈渓区)
ユヤット: Yuao (現浙江省余桃市か)

一ネンポー
地名よりエゲレス軍船帰帆致し候以来、和蘭
 三月十五日
寅二月四日迄者格別記録致し候様之儀無
 之候、且又再戦之用意等も絶而無之、エゲレス人より
 仕掛候節之手当のみニ候、扨唐人等エゲレス人を
 生捕候得者、直様殺害致候ニ付、エゲレス人は常に
 不快を懐き、仇讎打重候ニ付而者、元来唐国より通信
 致し度所存も当時の模様にてハ、追々其意薄く相成
 可申哉ニ被存候、
 右等之便宜三月十五日出之由にて、唐国よりシンガ
 ポーレ
地名に参り候故を伝聞仕る
○寧波より英艦隊が戻って以来、1842年3月15日迄
は特別記録するような事もなく、又戦闘の準備なども
なく、英軍より仕掛けた時の対応だけである。

中国人は英国人を生捕ると直ぐに殺害する事で英人
は不快感を持ち復讐に燃え、本来中国側から交渉
したい事も現在の状態では少なくなっている。

これらは1842年3月15日付で中国よりシンガポールに
到着した情報を伝聞したものである


1842年3月15日付けのシンガポールで発行された
英字新聞によると推察する


              古かひたん
               えぢゅあると がらんでそん
              新かひたん
               ひいとるあるへると ひいき
  右者先達而奉差上候末之儀、此段和解
  出来仕候ニ付奉差上候、以上
                     西 喜津太夫
                     本木昌左衛門
          寅          中山 作三郎
           七月       岩瀬 弥十郎
                     楢本 織之助
                     森山源左衛門
                     名村八左衛門
                     植村 作七郎
                     石橋 助十郎
                     末永 七十郎
                     西  記志中
                     小川慶右衛門
                     志築  竜太

         旧商館長
            エディアルト ガランデソン
         新商館長
             ビートルアルベルト ヒッキ
   これは先だって報告の後の分で、此度和訳
   したので報告差上げる
       1842年8月(天保13寅年7月)
写本出典:早稲田大学図書館、和蘭風説書和解1841-1842 国立公文書館、阿片招禍録

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