安政四年(1857年)別段風説書 | 現代語訳及び注 |
別段風説書 和蘭国 一千八百五十七年第七月一日安政四巳年五月十日まて稀 の如く和蘭国無事平穏にて、他の国々と睦敷暮せり 一貿易航海其余産業弥増なり 一千八百五十五年第十二月安政三辰年十一月頃オース テンレイキ国と条約取結たり、其旨趣は国民互に 永久弁利のため貿易航海の規定取極たるなり、尤是 迄は唯国民互に同等なるへきため書面、千八百十七 年文化十四巳年、千八百三十七年天保八酉年、千八百 五十年嘉永三戌年 引続取替置し而已なり 一スウエーデン国ノールウェーデン国フレイエ・ハンセス タット・ブレメン地名、オーステンレイキ国・プロイス国 ハノーフル国・サクセン国・サルヂーニー国と談判し 海外和蘭領地の港にコンシュライレ、アゲンテン役名 置へき規定を決せり 叉大ブリタニア国デーネマルケン国とも双方の領地、外 海外所領の港のため、右同様の談判におよべり、 右両国及びオーステンレイキ国の事は、既に千八百 五十五年第十二月安政二卯年一月頃治定せり、其全は 千八百五十六年初半安政三辰年四五月頃治定す |
別段風説書 オランダ本国の事 1857年7月1日、オランダ国は不思議な程平和で諸 外国と平和を保ち、貿易は益々盛んである。 1855年12月、オーストリアとの間で国民相互の便宜 の為に貿易協定を結んだ。 是迄は両国民の権利を 相互に尊重する旨の契約を1817年、1837年、1850年 に結んでいただけである。 スエーデン、ノルウェー、フレイエ、ハンセスタット、 ブレーメン、オーストリア、プロシャ、ハノーバー、 ザクセン、サルディニアと交渉し、海外のオランダ領 に夫々の国の領事、代理人を置く事を定めた 叉英国、デンマークとも双方の領地及び海外領地の 各港に上記同様の交渉を行った。 これら両国及びオーストリアとは既に1855年12月 に交渉成立した。 その他は1856年前半に夫々 成立した。 注 1.フレイエ、ハンセスタット、ブレーメン、ハノーバー ザクセン:何れもドイツの諸州、現在のドイツ連邦 2.サルジニア: イタリア中部、統一の中心国 |
一千八百五十六年第五月十九日安政三辰年四月十六日 スハーグ地名において和蘭国コロート・オーステン・デル フレイエ・メツセラールス・オルデ内密にて貧人を救ふ等の善 を行ふ人の組を言、の一百年回の祝儀あり、 叉プリンスフレデレッキデルネドルランデン人名の ゴロートメストルスカップ官職四十年回の祝儀あり 一千八百五十六年第七月十八日安政三辰年六月十七日 ハールレム地名において版行術発明者ラウレンスヤンス ゾーン・ コストル人名の像建立成就せり、此像は国民に 因て街市ハールレムに安置す 一オランエ人名王子誕日十六歳祝儀の折、王其王子を レチメントゲレナディールス・エン・ヤーゲルス軍陣の名の ロイテナントコロネル官名及び海軍のカピテインロイテ ナント官名およびゴロートコロイスファンデオルデファン デンネードルランヅレーク身分の名に任せり 一右王子当年欧羅巴」の北国へ旅行の志を起せり 一和蘭領インドの軍兵肝心たる証として、国王より其太子 を歩兵組のロイテナントコロネル官名の任に命ず 一千八百五十六年第九月安政三辰年八月頃スハーグ地名 において和蘭国諸手職製造方産業のため、毎年惣会 の五度目の寄合あり |
1856年5月19日、ハーグにおいてオランダの慈善 団体設立100年祭が行われた。 叉フレデリック殿下 の在職40年記念も催された。 1856年7月18日ハーレムにおいて活版印刷発明者 であるローレンス・コスターの像が建立された。 この像は印刷業者達によりハーレムに設置される。 オラニエ家王子の16歳の誕生を記念して、オランダ 陸軍の中佐及び海軍の中尉に任命された。 同王子 は1857年北方の国を訪問する希望をもっている。 オランダ領東インドに展開するオランダ軍兵士達が 重要である事の験として、国王は王子を歩兵中佐に 任命した。 1856年9月、ハーグにおいてオランダの製造工業 振興の為の5度目の会合が催された。 注 1. Laurens Jz Coster(1397-1468) 活版印刷を 発明。 ドイツのグーテンベルグ(1398-1468)より 発明は早かったという説もある。 2.Haarlem アムステルダムの西の街、印刷業が 盛んだった |
和蘭領印度 一セイチエキセレンシー尊称ゴウフルニウルゲネラル官名 グッパヒュット人名千八百五十七年第六月廿八日当巳閏 五月七日より第七月四日当巳閏五月十三迄レアングル地名 レゲント・スカツヘン地名に旅行す、其折キナ樹植付方を 点検せり、キナ樹皮は熱病最上の薬剤たる事顕然なり 今迄は唯南亜墨利加州の森林のみに生じ、其樹皮 得がたきものにより、其薬剤高価なりき、和蘭政府右樹 を今既に呱哇に取寄せたり、両三年後に至らハ、キナ の価安からんとの噂ある程なり 一和蘭領印度の執政デヘールメーストル尊称セツイス スル人名願に因て国王より其勤功を賞せられ、首尾能 退勤を免され、千八百五十七年第三月当巳年二月頃 和蘭国に赴たり 一近頃のデレクテユール・ケネラール・ツールネーメンド 官名デイレクテユール・ファン・フィナンシーン官名 デヘール・ヨングヘール尊称イフホウシツカマ人名和蘭 領印度の執政官に任ぜり 一スコウトベイナグト官名東印度海軍指揮役およびインス ペクテユール・デルマリーネ官名デヘール尊称イフド ボウリシユス人名はフィーセアドミラール官名に昇進せり |
オランダ領東インド パハド総督閣下は1857年6月28日より同年7月4日 迄 アングル、レゲント、スカツヘンを旅行したが、 その際にキナの植林の状況を視察した。 キナの樹皮は熱病の特効薬としてあきらかとなって いる。 従来は南米の森林にのみ生育しており、 その樹皮入手は困難で薬剤として大変高価なもの だった。 オランダ政府はこの樹木をジャワに移植 したので2-3年後にはキナの価格が安くなるだろうと 云われている。 オランダ領印度の執政官セツイッスル卿は退職願が 受理され、国王から勤務を表彰され1857年3月 オランダに帰国した。 最近迄本国の財務部長だったイフオウシツカマ卿が 新にオランダ領印度の執政官に任命された 海軍少将で東インド海派遣軍の司令官であるイフト ボウリシュス卿は海軍中将に昇進した。 注 1.キナ: 樹皮の成分はキニーネと呼ばれマラリア の特効薬として珍重された。 オランダがジャワで、 英国は印度スリランカで植林に成功した。 現在は キニーネは合成される。 2.Charles Ferdinand Pahud 総督在任 1856-1861 |
一千八百五十六年第七月十一日安政三辰年六月十日 セイネホーグヘイト尊称フィドレ地名のシュルタン国王 齢八十六歳にして死去せり 一千八百五十七年第二月十四日安政三辰年正月二十日 ボニーセレベス国を云国王アグマツトサーレ人名一名 アルブーギー死去せり 一千八百五十七年第六月廿八日当巳年閏五月七日昼後 リフヲイト地名のオンドルコ−ニング官名ラヂアアリ人名 死去せり 一千八百五十六年半末安政三辰年八月頃呱哇にエレクトロ ・マグネレイーセン・テレガラーフエレキトル仕掛合図の機 の造営を始む 一千八百五十六年第十月安政三辰年九月頃 既に右合図 咬留巴よりボイテンソルグ地名まで仕掛、第六月当閏 五月頃に至てサマラング地名まで其機械を設置り 一呱哇との貿易甚盛なり 一呱哇およびマデユラ地名の輸入輸出の租税千八百五 十六年中安政三辰年中六百二十七万八千零十ギュル デン一分九厘の高におよべり |
1856年7月11日、フィドレの国王陛下が86歳で 死去した。 1857年2月14日セレベスの国王アグマットサー レン、別名アルブーギーが死去 1857年6月28日午後リフヲイの藩王ラヂアアリ死去 1856年半ば以降、電信機の設置が始まる。 1856年10月にはバタビアとボイテンソルグの間が 開通し、当年6月にはサマラング迄設置される バタビアと各地の貿易は非常に盛んである。 バタビア及びマデユラの輸入輸出からの税金は 1856年には6,278,010.19ギュルデンに達した。 注 1.ボイテンソルグ: バタビア郊外、高級住宅地で オランダ総督の邸もここにあった。(與地誌略) |
一当年も先年の如く呱哇および外国の領地、志望の如く 気候堅固ならず、コレラ病・熱病・瘡デセンテリー病 烈しくして死亡甚多し 一外国領地折々地震あり、第四月当巳年二三月頃 ネイラ ゴロートバンダーおよびテイモルテルリ ホルトガル領地に おいて最甚し 一和蘭海軍再び印度海の諸方江海賊捕方のため 出張す 一我海軍許多の海賊を捕得たり、叉諸人のスラーフル レイ人を購ふて奴僕にするを云を脱る事を逐得たり 一ボルネオ地名の西方セレベス地名の東渚およびパレム バンク地名ラムポンダ・セデイステリグテン地名の不和、 和蘭兵軍の力を以平治せり 一テイモル地名に於て一小侯并一属長兵端を開し外は 和蘭領印度地中希望すへきの安静なり、テイモル地名 土冠防禦のため一手の軍勢出張せり 一当年の始、印度中和蘭政府とシュマタラ島アテイー 地名の地主と和平親睦交易の条約を取結たり |
当年(1857年)もジャワ及び近隣の領土の気候は 悪くコレラ・熱病・痘そう等烈しく流行した。 近隣の領地でしばしば地震があり、4月のネイラ、 ゴロートバンダー及びチモール(ポルトガル領)が 酷かった。 オランダ海軍は再び東インド海で海賊退治の為出動 した。海軍は多数の海賊を捕縛して、多くの人々が 奴隷となる事を救った。 ボルネオの西方セレベスの東海岸及びパレンバン ラムポンダ、セディステリグテン等で不穏な動きが あったがオランダ軍により鎮圧した。 チモールの一土侯が反乱を起した以外はオランダ 領印度は概して平穏である。 チモール鎮圧の為に オランダ軍より一隊が出動した。 当年の初め、オランダ総督府とスマトラ島にある アチェの指導者と平和条約と貿易協定を結んだ。 注 1.セレベス: 現インドネシアのスラウェン島、西方と あるが実際にはボルネオの南東である 2.ティモール; ティモール島は本来ポルトガル領 だったが、此当時は西半分がオランダ領になった。 現代は東半分は東ティモール民主共和国、 旧オランダ領はインドネシア共和国に所属する。 |
貌利太尼亜領印度 一千八百五十六年安政三辰年の始、ゴウフルニュール ゲネラール官名ロルト尊称ダルハウシー人名はロルト尊称 カンニン人名に官務引継英国に帰りたり 一オウデ地名は同年始、貌利太尼亜国領と成しかとも云 人移住には不及事相済たり、ニサム一侯の尊称の領地 たるインランツエスタート共和政事の地は今に貌利太尼亜 国領とは成ざるなり 一カルキュッタ地名よりの便にてハベンガラ国并マタラス 地名より二レギメント隊部の名の欧羅巴勢并セイロン 地名のヤーゲル軍陣の名一隊、唐国合戦のため出陣 すへきとなり 一極末の便にてはベンガラ国中において二十レギメント 前出の土兵騒擾を差起したるとなり 一ビュンヤップ地名オウデ地名其外北西の国々安静なり ベンカラ国名ホムハイ地名の軍陣親睦にして此方角は 静謐なり |
英領印度 1856年の始、総督ラムゼー卿はカニング卿に職を引 継ぎ帰国した。 アウド藩王国は同年の始英領となったが、人を移住 する必要はなかったと言う。 藩王の領地である 共和国は英領とはしなかった。 カルカッタからの情報ではベンガル及びマドラスから 2連隊のヨーロッパ勢及びセイロンの一隊を中国との 戦争の為に出動させる事になった。 年末の新聞ではベンガルにおいて第20連隊の現地 兵が騒いだ由である パンジャーブ、アウド、その他北西の国々は平穏で ある、ベンガルのボンベイの駐留軍も平穏である 注 1.総督 James Ramsay は第十代ダルハウジー伯爵 2.アウド藩王国: 印度では多くの藩王が分立して いたが英国が次々と藩王国を併呑していった。 3.清国との戦争;アロー号事件による第二次アヘン 戦争 4.パンジャーブ:現在のパキスタン 5.ベンガル: 現在のインド北東部及びバングラ ディッシュ |
一テルヒ府街は土冠の面々最会集の場所なり 一当第五月三十日・三十一日巳五月八日九日 土冠二度 迄打散され遂に第六月八日巳五月十七日欧羅巴軍陣の ために右府街中に追込られたり、デルヒ府街は欧羅巴 軍陣のために取囲れ、速に降参すべき模様なり 一ネーミック地名の砦を地下の一士官、土冠扶助のため 開遣したり 一ラホーレ地名に於ては騒乱全治りたり、是第五月三十 日巳五月八日メーリユツト地名の土冠悉皆打負し故なり |
デリーの町には英国に対する反乱部隊が集結した 1857年5月30日31日に戦闘となり、6月8日には 反乱軍はヨーロッパ軍(英軍及び近隣英領軍)の為 包囲され、降伏する様子である。 ネーミックの砦を一士官が開き、反乱軍を助けた。 ラホーレでは争乱は治まっている、これは5月30日の 戦闘で英軍がメーリュットの反乱軍を鎮圧したから である。 注 英国東インド会社の傭兵が反乱を起した事を発端 とし、弱体化していたがムガール帝国全体が蜂起し 首都デリーに反乱軍が集結した。 セポイの乱、 第一次印度独立戦争と云われる。 しかし蜂起は 失敗に終わりムガール帝国は完全消滅し、英側は 東インド会社を廃止して英政府直接統治を進めた。 |
貌利太尼亜領印度所属 シンガフール 一千八百五十六年安政三辰年の末并千八百五十七年 安政四巳年 の始頃は兎角唐人共信実の儀なく、 不作法の事のみ多し 一ヒーナン島においてハ唐人ども同年の始、騒乱を為ん としたりしかども速に安静に治りたり |
英領シンガポール 1856年の末から1857年始めにかけて、中国系住民 は誠実でなく兎角不法な事が多い ペナン島でも同年始に中国系住民が騒乱を起そうと したが、速やかに静かになった。 |
喜望峰 一一統物静なり 一此地においては益安泰繁昌なり |
喜望峰 全体が平穏で発展している。 注 喜望峰:現南アフリカ共和国、ケープタウン 当時英国領だった。 |
アウスタラリー 一金坑の物なり打続莫大なり 一フィクトリヤ地名より輸出の金掛目、公然の告知にて ハ千八百五十五年安政二卯年中、二百六十七万四千 六百七十七オンス量目の名にして、金価にてハ千六十 九万八千七百八ポントステルリンク銭名なり、金産之 儀は千八百五十五年安政二卯年は千八百五十四年 安政元寅年より三割五歩相増たり 一南アウスタラリアにおいては近頃一般運輸便利の ため、初て轍路を開きたり 一タスマニヤ地名において銀坑銅坑、并ネウロウト、 ワルレス地名において新に金鉱を見出たり |
オーストラリア 金の産出量ガ引き続き大きい。 ビクトリア州から輸出する金は、公表によると1855年 には2,674,677オンス、金額にして10,698,707 スターリングポンドだった。 金の産出は1855年は 1854年に比べ35%増である。 南オーストラリアでは最近輸送向上の為に鉄道敷設 を行った。 タスマニアでは銀及び銅の産出があり、ニューロート ワーレスでは新に金鉱が発見された。 |
支那 一支那の北方并西方にてハ土冠騒乱打続き、キャンシ州 の府街ハ大凡彼手に属し、其上今まで静謐なりしアガン クイまで土冠新に出来せり 一ヤンツエキヤン地名の南方の国も同様騒乱頻なり 一合戦の砌は官軍方利を失へり、土冠の首長タイピン ワン人名にハ近頃三万の軍勢ありて、第四月当巳三月便 之趣にては、クワンシンフェ府名其外フェリキ―ン地名 より北西に所置の場所へハ軍卒召連巡歴せしとなり 一近頃の便之趣にては、シャオウウト地名およびイーン ピン地名は土冠のため押領せられ、当時ハ土冠ホホウ 地名に責入たり、シュチアン地名近傍にてハ官軍公然 に擾乱を差起たり 一上海厦門は第五月便之趣ニてハ万端物静なり 一テグゴウ地名においては、土冠の勢威漸々弥増勝利 あるにより、騒乱益相募たり |
中国 中国の北方と西方で太平天国の乱が続き江西省 の街町は大方反乱軍の手に落ちた。 更に是迄 平穏だった安徽省迄反乱は広がった。 揚子江の南方でも同様に反乱が広がっている。 戦闘では官軍は勝てず、反乱軍首領である太平王 は最近3万の軍を動かし、1857年4月の新聞によれば クワンシン府、その外フェリキーンより西へ軍を従えて 移動している。 最近の新聞ではシャオオウト及びイーンピンが反乱側 の手に落ち、現在反乱軍はホホウを攻撃している。 シュチアン近傍では官軍が公然と反乱を起している 上海、厦門は今年5月の新聞では全体的に平穏で ある テグゴウでは反乱側の勢力が強くて勝利した事により 騒乱は益々拡大している |
一千八百五十六年第十月安政三年辰九月中、広東のマン ダレイエン官名英吉利国旗を穢し、其ための掛合をも 否ミ聞届さりしなり 一右に付英人兵端を開し處、其地滞在之仏朗西船よりも 加勢いたしたり 一広東河辺の両三砦は英吉利人の為乗取られたり 一広東府街は放発せられ、其火勢烈しく外街まで延焼 いたし、唐方には莫大の損害に相成たり 一漸々全無益の和講にて敵意は却て解さるなり 一外国人は広東よりワンポー・香港および瑪港の方へ 立退へき時宜に成行たり 一英吉利人の大損失を計り、唐人等広東の商館焼払たり |
1855年10月、広東の官吏が英国旗を侮辱した廉で 英国が抗議したが、中国側は受け付けなかった。 これを契機に英国が戦端を開いたところフランス船も これに加勢した。 広東河辺の主要砦は英側に乗取られ、広東市街は 烈しい砲撃に晒され、街の外延迄延焼して中国側に 莫大な損害が出た。 無意味な講和で却って敵意は解けず、外国人は広東 を脱出し、ワンポー、ホンコン、マカオへ立退く状態に なった。 英国人の損害を計り、中国人は広東の外国商館を 焼払った。 注 1.アロー号事件:英国旗を付けた中国のアヘン密輸 船アロー号を中国官憲が捕縛した。 英国は国旗に 対して侮辱と抗議した。 2.上記事件が第2次アヘン戦争の発端となる。 |
一ホンコンにおいてハ唐人等ブロート蒸餅中にアルセ ニシキュム毒薬を加調し、貌利太尼亜人を毒殺せん と計較したり 一然れども其悪謀成就せざりしなり 一千八百五十七年第六月十日安政四巳年五月十九日便 之趣ニ而は英吉利船と唐船と海戦いたし、唐人等利 を失ひ遂に英人の為に許多の唐船船底を打穿たれ たり 一近頃風説ニてハ広東飢饉なり 一英吉利人は其勢を愈募り、風評ニ而は英吉利国より 五万の大軍到るを待て鋭気を出し、此軍を盛んに せんと欲せり 一此内外の擾乱に因て貿易を妨る事甚し 一風説にてハ高麗国王自ら其国渚の港湊を諸外国 民貿易の為に開けり |
ホンコンでは英国人を殺害しようと、中国人がバンに 毒薬を調合したが、成功しなかった 1857年6月10日の新聞によれば、英国船と中国船 が海戦をしたが、中国側は英軍の為に多くの艦船を 破壊された。 最近の情報では広東では飢饉という 英軍は軍を強化に努め、噂では本国からの5万人 の大軍の到着を待って、一気に戦争を進めようと している。 この内外の擾乱で貿易に大きな支障が出ている。 噂では朝鮮国の王自身が自国の港を外国との貿易に 開いた。 |
大貌利太尼亜并イールランド 一千八百五十七年第四月当巳年三月廿日英吉利国の女王 嫡女を産めり 一魯西亜との戦争、英吉利の貿易に障る事なし 一千八百五十年、千八百五十一年、千八百五十二年 嘉永三四五年と比較するに、其輸出二千万ホンデン ステルリング銭名の高増益せり、所領江之輸出減少し、 外国への輸出増益せし事は著しき機変なり 一外国江の輸出は唯六千九百万ボンデンステルリング 前出にして、旧来斯の如き高に及し事ならず、所領への 輸出は是と異り、唯二千六百五十万ボンデンステル リング前出の増益なり 一輸出の高千八百五十六年安政三年の初七ヶ月の間 尚更夥し |
英国及びアイルランド 1857年4月、英国女王は嫡女を出産した。 ロシアとの戦争は英国の貿易の障害とはならなかった 1850年、1851年、1852年と比較すると、輸出は 2千万stポンド増加している。 自国領への輸入は 減少したが外国への輸出が増加しているのは 大きな変化である。 外国への輸出額は69,000千stポンドの増加で、 過去にこんなに高い事は無かった。 是に対し 自国領への輸入は26,500千stポンドである 輸出高増加は1856年の初め7ヶ月では更に著しい 注 1.ロシアとの戦争: クリミヤ戦争1854-1856年 2.輸出増は中国か |
一此年英吉利国の軍勢ハルシャ国へ向ふ、是ハ ハルシヤ人千八百五十三年嘉永六年取極し条約に 背き、アフガニストン地に属するミツデン・亜細亜州の 内肝要の場所へラット地を押領せし故にして、 アブーシル街を討取られハルシャ軍勢敗走せり 一ハルシャ国王爰に於て、使節フェリユックハン人名を パレイス仏朗西国の都府に遣し、千八百五十七年第三月 四日当巳年二月九日、英吉利と和平を結へり 一英吉利政府はニーウグレナダー地との通誼を破り、 第十二月三日辰十一月六日西印度海手の指揮役江命じ ニーウグレナダー地の港湊を取囲しむ、英吉利国の 希望はニーウグレナダー政府にて極りし英吉利人民に 対しての貨幣取引を整んが為なり 一魯西亜国と和平を結びし以来ハ、英吉利海軍減少 する處、軍艦六十一艘にて、備付大砲千百九十四門、 乗組一万三千六百九十一人なり 一陸軍も叉減少せり 一千八百四十二年天保十三寅年に取極し条約に循ざるを もつて英吉利国と支那と闘争を発せり、此軍の模様は 支那の部にて見るべし |
今年英国は軍隊をペルシャに向けた。 これは ペルシャが1853年の条約に違反し、アフガニスタン に属するミツデン及びへラットを占領した事による ペルシャ軍はアブーシルに侵攻され、敗走した ペルシャ国は使節フェリユクハンをパリに送り、 1857年3月4日英国を和平を結んだ。 英国政府はニューグラナダとの通交を破り、1856年 12月3日、西インド海方面の海軍司令官に命じて ニューグラナダの港を封鎖した。 英国の趣旨は ニューグラナダ政府が英国人との貨幣取引を整備 する様にとの事である。 ロシアと和平を結んで以来英海軍は減少し、軍艦 61艘、備付大砲1,394 門、乗員13,691人である 陸軍も叉減少した 1842年に結んだ条約が守られないことから英国と 中国と戦争になった。 この事は中国の項に述べる 注 1.ニューグラナダ: 南米コロンビアの前身 名前 New Granada 2.1842年条約: 南京条約、アヘン戦争終結 |
スウエーデン国・ノールウェーデン・デンエマルカ国 一ラップ マルケン地飢饉にて怖へきの荒廃あり 一デネマルカ国に於て其国王と執政官との間に大乱生じ 近頃の風説にてハ方今デネマルカ国に執政たる者なし との事なり |
スエーデン、ノルウェー及びデンマーク ラップ、マルケンでは飢饉のため完全に荒廃した。 デンマークでは国王と首相の争いがあり、最近の 情報では今デンマークには政治を行う者がいない との事である 注 ラップ、マルケン: ラップランド(スカンディナビア北) の事か? |
ベルギー国 一千八百五十六年第七月廿一日廿二日廿三日去辰年 六月廿日一日二日 の間、国王レオポルド人名即位より 第二十五ヶ年なるを以てブリュススル地に於て祝事を 行へり |
ベルギー国 1856年7月21日ー23日は国王レオポルドの即位 25周年記念式典がブリュッセルで行われた。 注 レオポルド一世(在位1831−1865): 1830年 オランダから独立以来の国王 |
仏朗西国 一千八百五十六年中此邦内に洪水の大災発せし地あり 一衆民其地の洪水或は家屋の破滅に就て、緊要の利徳 を得べき望を失ひ、其土を離散せり 一魯西亜セバストポル地を抜しマールシカルク官名ペリス シール人名は、国帝よりマラツコフ地のヘルトク官名に 任せられたり 一仏朗西国とハムビュルグ国の所有となるへき天然の 造化および術業に因し産物に就て双方証拠のため 盟約を決定せり 一パレイスのアールツビスコップ僧の官位モンセイグニュ ウル爵名シボウ人名、千八百五十七年第一月四日去 辰年十二月九日フェルゲルと称する僧官のために殺害 せられし故、其罪人は死刑に行へり 一彼者の相続をトウルス地のカルディナールアールツ ビスコップ僧の官位モンセイグジュール前出モルロット 人名に命せり 一近頃の人別計算にてハ、仏朗西国の住民男子千七百 八十七万百六十九人、婦女子千八百六十六万九千百 九十五人なり |
フランス 1856年中、フランス国内で洪水の災難に逢った所が ある。 この地の住民は家屋を破壊され将来の希望を 失い、土地を離れた。 ロシアのセバスポル要塞を落したペリスシール元帥は 国帝より、マラコフの侯爵に任命された。 フランスとハンブルグは相互の発明発見の技術を 共有する契約をおこなった。 パリの司祭シボウ師は1857年1月4日、フェルゲル といういう僧官に殺害された。 罪人は死刑となった シボウ師の後継として、トウルスの枢機卿モルロット 師が命ぜられた。 最近の人口調査では、フランス住民男子17.870,169 人、婦女子18,669,195人である 注 1.セバストポル:クリミヤ半島のロシア要塞、クリミヤ 戦争で連合軍(仏英サルジニア)が攻め取る。 マラコフは隣接する地域 |
オーステンレイキ国 一オーステンレイキ国女帝、千八百五十六年第七月 十二日去辰年六月十一日女子を産めり、此王女子の初名 をゴイルラリユドフィカーマリヤーと称ふ 一オーステンレイキ国アールツヘルトグ官名カーレル ローデウエイキ人名とサクセン国王女子マルガレータ 人名と第十一月四日 婚姻を取結へり 一オーステンレイキ国海軍新に整へし分隊の本陣は トリースト地に備ふへし 一其一組はウェーネン地に屯し、直に国帝の号令を 伝へんとす |
オーストリア オーストリアの皇后は1856年7月12日、女子を出産 した。 この王女はマリヤと名付けられた。 オーストリアのカール・ルイ大公とザクセンの王女 マルガリータは1856年11月4日結婚した オーストリアで新に編成した海軍の基地はトリエステ に建設する。 その一部はウィーンに駐在し、国帝の 命令を伝える。 注 トリエステ: アドリア海に面するイタリアの町、当時は オーストリア帝国の領地だった。 1857年にウィーンと の間に鉄道が開通した。 |
プロイセン国 一プロイスの海軍は方今大砲四十八門備と三十八門備 のフレガット船二艘、十二門備蒸気コルフェット船二艘 外ニ帆前コルフェット船壱艘スク―ネル船二艘なり 一ダントシグ地に於て尚捻仕掛コルフェット船二艘造立 あり 一プロイセン国の王子英吉利国女王の姉と婚姻を結へり |
プロシャ プロシャの海軍の現状は、大砲48門、38門を夫々 備えたフリゲート艦2艘、 同12門備えたコルベット艦 2艘、外に帆船コルベット1艘、スクーナー2艘である。 ダントシグに於いてスクリュー方式の蒸気コルベット 2艘を建造中である プロシャの王子と英国女王の姉と結婚した。 |
スウィッツル国 一プロイセン国王はネウフカーテル地フチルスト官名の 名目なりし處、徒党を催し其地を右国王の直支配に せんと勉強すと雖も、地頭等此徒党を征討せり 一欧羅巴州の大勢此事柄を引請たり、先察するに是等 はネウフカーテル地に於てプロイセン国王の緩優を 悉く除かしめんとするの意気を含めり |
スイス プロシャ国王は名目上ネウフカーテルの侯爵を兼務 している事から、其地にクーデターを起して国王の 直接支配にしようとしたが、同地の支配者により クーデターは潰された。 ヨーロッパ諸国はこの事を承認した。 推察では ネフカーテルにおいてプロシャの影響力が強まる 事を皆嫌ったと思われる 注 ヌーシャテル: Neuchatel スイス内にあるプロシャの 飛地で、1848年共和制になった。 従来の君主制に 戻そうというグループがあったが不成功。 プロシャが 直接介入する動きもあったが、ナポレオン三世の調停 で1857年プロシャと和解。 実質独立を保つ |
イスパニア国 一イスパニア国に於ては争乱打続き互に其勢力に乗して 競ひ、当時の風説にては女王方強勢なり |
スペイン スペインでは改革派と女王派の政争が続いており、 双方勢力を拡大している。 現在では女王方が優勢 との事である。 |
イタリヤ国 一ナープルス国王を劫し其政事を変革し其人民を緩に 治しめんがため、英吉利国并仏西国おいて勉強せり 一千八百五十六年第十二月八日安政三辰年十月十一日 ミリタイレバラーテ陣列備立の規式を云の折、或兵卒 ナープルス国王を殺害せんとしたれども、此儀空しく なれり、其者は死刑に行れたり 一オーステンレイキ国のアルツヘルトグ官名マキシミリ アーン人名は、王国ラムバルディーズ・フェネティ アーンスの ゴウフルニュールゼネラール官名に任せ られたり |
イタリア ナポリの国王を除いて、国民を緩やかに統治する 事を英仏では研究している。 1856年12月8日ナポリの軍事パレードで、ある兵卒 がナポリ国王を暗殺しようとしたが失敗し、兵は死刑 となった。 オーストリアのマキシミリアン大公は、ロンバルジア ベネチアの総督に任命された。 注: 1.ナポリ国王フェルディナント二世は初期は開明的 だったが、シチリアの独立運動を契機に反動君主と なり、英仏では頭を痛めた。 2. イタリア北部のロンバルディア、ベネチア地方は オーストリアに占領されていた。 |
ギリーケン国 一魯西亜国と戦争中、ギリーケン国の内所々出張の 仏朗西軍勢、仏朗西国に帰陣せり 一ギリーケン国社中の模様相替らず不便なり |
ギリシャ ロシアとクリミア戦争の際、ギリシャ国内各所に駐在 したフランス軍は自国に引上げた。 ギリシャの内政は相変わらず不安定である。 |
魯西亜国并トルコ国 一仏朗西国英吉利国サルデニー国并トルコ国と魯西亜 国と和親の条約、千八百五十六年第三月三十日安政 三年辰二月廿四日パレイスにおいて名判せし事は前年 述置た 一其後第四月廿七日三月二十三日パレイスにおいて和平 条約の本紙を取替せり 一此条約に因り、魯西亜国は軍勢にて攻取たるオトマ ニーセ国トルコ国を云の諸分地をトルコ国王に返却する事 を定めたり、 同盟方よりもセバステポル地名バラクラファー同上カミス 同上エウパトリア同上ケルツエニーカーレ同上ソウカウム カレ同上の港湊市街、其外押領せしものを魯西亜国江 返却する事に決したり、 オトマニーセ国前出独立の事は其侭にしてフルヘー フェネボルテ地名は欧羅巴州公然の規定談判の上 配分し利益とする事を免せり 此条約は全体三十四条にして圧伏の意を止め、専ら 諸国民の肝要を旨と し、以後権勢の国々信義を折を防へきの実意を示し、 平等和熟せんと欲るの情を表すものなり 一第四月十三日安政三辰年三月九日パレイスに於て 英吉利・オーステンレイキ国・仏朗西国と尚叉条約を 取結へり、是はトルコ国安全を誓ふの主意なり |
ロシアとトルコ フランス、英国、サルディニア及びトルコとロシアとの 講和条約が1856年3月30日、パリにおいて調印 された事は昨年述べた。 その後4月27日にパリで和平条約の本紙の交換を 行った。 この条約でロシア軍に占領されたオスマントルコの 各地はトルコに返却する事を定めた。 同盟側からも占領したセバストポル、バラクラファ、 カミス、エウパトリア、ケルツ、エニーカーレ、ソウカ ウムカレの港街、その外占領したものものをロシアに 返却する事に決めた。 オスマン帝国の独立は維持し、その都府はヨ-ロッパ 共有の資産とする事とした。 この条約は34か条からなり、征服の形を取らずに 諸国民の寛容を重んじ、国家の信義を失わなずに 平等の理念を表したものである。 4月13日にはパリで英国、オーストリア、フランスと 条約を結びトルコの安定を誓った。 注 オスマン帝国首府:イスタンブール、ボスボラス海峡 を臨む要港、黒海の出口 |
魯西亜国 一独逸国学校の設を知んが為差越せし博士、帰着之上 国帝の命に因て魯西亜国学校の趣向改正せらるべし 一手疵を負ひ永々軍中の務成がたきスタフオフィシール 兵卒差配に携らざる士官并外士官等は習熟練達なるを以、 カデッテン若年未熟の士官をいふ教導の為、武学館の頭と なるべし、而して魯西亜政府は専ら貨幣出納を改革し 軍隊并海軍を改正せんとす 一魯西亜政府は再び諸学探索の旅行を催し、魯西亜 海軍貴官の一士を其頭とし、世界を遍歴せしむべし、 魯西亜人発起の世界巡環は此節にて三十九度なり 一此国に於てフレイハンドル政府江は租税を出し、商人相互 の商法を云を企る者と、方今仕来の振合を守る者と争論 発りし處、諸人此地にてもフレイハンドル前出の行れん 事を希望せり、爰にモスコウ故魯西亜都府政府而已にて 既に千四百八十五個の製造所を取建、職業の者 十一万七千六百七十七人にして、毎年百十ミリユーン 一ミリューンは百万の数を云ギュルデン銭名の産物を出す 事あり 一支那に於て魯西亜国の貿易愈盛ニして、是に付両国 新に談判治定する事なりとの風聞なり、支那の北方 アミュル河辺にある魯西亜人の居所ニコライエフ地は 肝要ならざるに非らず |
ロシア ドイツの学校制度を研究するため学者がロシア皇帝 の命で派遣されたが、戻って学制改革をするだろう 負傷して長期の軍務に無理な事務方士官は優秀で あるので若年士官の教育に当らせる。 そのため ロシア政府は予算を計上して陸海軍を改革する ロシア政府は再度学校調査のため高位の海軍軍人 の一人をその長として世界中を回るだろう。 ロシア人の企画する世界巡回39度目である ロシアでは自由貿易を望む者と従来通りの取引に 固執する者と論争が起ったが、多くの人々が自由 貿易を望んでいる。 旧都モスクワ管轄だけで 1,485ヶ所の製造所があり、その職業に携るもの 117,677人である。 これから毎年110ミリオン ギュルデン相当の産物を生産している。 中国ではロシアとの貿易が益々盛んになり、此件で 両国が交渉するという情報がある。 中国北方の アムール河に位置するロシア人の町ニコライエフは 貿易地点として欠くことができない程重要になった。 注 1.ニコライエフ: ニコラエフスク・ナ・アムール アムール河口の町の事と思われる。 2.フレイハンドル:Vriihandel(蘭)=Free Trade 自由貿易 |
一魯西亜国新帝第二世アレキサンデル人名即位の儀式 を第九月モスコウ前出に於て取行へり、此時外国より 郡参の者并魯西亜官府人民花美を尽し、其綺麗なる 事類るものなし 一此折国帝より戦争に難渋せし海岸の諸国に許多の 憐恤を施すべきの詔を出せり 一和蘭国の事を取計し和蘭国王の叔父プリンス・ フレデリッキ人名は格別の取扱を請たり 一近頃公の書付にてハ千八百五十五年安政二卯年中、 ポーレン人を除き魯西亜惣国に、貴戚七万人、町人 三百五十万人、レイフェイ・ゲネブーレン人に養れて 農業するものを云 千百八十万人フレイエ・ブーレン 己の為に業る農民二万六千六百五十八人、コローン・ ブーレン官府の民十四万五千人、ヨードの徒十九万人 にして国中の街市六百二十三ヶ所なり 一魯西亜国のゴロートフチルスト官名コンスタンテイン 人名、国帝ナポレオン人名方へ見舞し處、数多懇の 待遇を請たり 一此大身、女王フィクトリヤ人名も亦見舞へり |
ロシアの新帝アレキサンドル二世の即位式典が 1856年9月、モスクワにて挙行された。 諸外国から の参列者もロシア官民も着飾り、その美しさは例え様 もないくらいである。 この式典に際して新帝は、戦争で苦労した海岸諸 地方に対する特別な恩典を与える詔を発した。 オランダを代表して参加したオランダ国王の叔父、 フレデリック殿下は破格の待遇を受けた。 最近公表された新聞によれば、1855年ポーランドを 除くロシア全体では、貴族70千人、商工業者3,500 千人、農奴11,800千人、自営農26,658人、役人 145千人、僧職190千人、 国内の町数623ヶ所である ロシアのコンスタンティン大公はフランスのナポレオン 三世皇帝を表敬訪問した。 叉彼は英国のビクトリア女王も訪問した。 注 1.クリミヤ戦争の終結で新体制出発と思われる 2.グロートフォルストGroot Volst 蘭 大公 (侯爵) |
エゲイプテ国 一エゲイプテ国副王、近頃国中の政事に肝要なる改正を 為せり 一シューエス地名の地峡を切通し、地中海と西紅海を合し 欧羅巴と亜細亜の貿易を盛にせん事を計較せり 一英吉利国の船々此處を通るに於てハ五十ケ日中に 支那へ到る事を得べし |
エジプト エジプトの副王は最近重要な政治改革を行った スエズ地峡を開削し地中海と西紅海を繋いで、 ヨーロッパとアジアとの貿易を盛んにする計画がある 英国の船がここを通過すると50日で中国に到達する 注 エジプトは独立しているがオスマン帝国が宗主国で あるため、最高権力者は副王と称する。 |
亜墨利加 一メキシコ地ビューブラ地名に於て、前司職サンタアンナ 人名を共和政治に引戻し、権威を古復せしめんとの 誓約空しくなれり 一門徒等一揆を起んと勉強したれとも、司職コモン フチルト人名の厳しき取扱を以て、其初発に於て 空しくなれり 一メキシコー地名の南方クエルレロ地名に於て、黄金豊饒 の地を発明せり 一ブラシリ并アルゲンテインの共和政治及びバラキュアイ の三国、和親貿易航海の条約を決定せり 一ユルギュアイ地名に於て評定官と司職の間に確執を 生ぜり、此義極て右共和政治とブラシリ地名の堅義を 折るに至らん 一合衆国ボリフィアに於ては、人々其司職とならん事を 欲するが故に不穏事屡なり 一セーリー地名は、当今平穏にして、ドンマヌエルモント 人名五ヶ年の間同所司職の任たり、 |
南北アメリカ州 メキシコでは前大統領サンタ・アンナを復活させよう、 という動きがあり、これは前大統領の信奉者達が 計画したものだが、現大統領コモンフォルトの対抗 措置のため初期において失敗した。 メキシコ南方クエルレロで金が大量に産出する場所 が発見された。 ブラジル、アルゼンティン共和国及びパラグアイの 三国は和親貿易及び航海ニ関する条約を定めた ウルグアイ共和国では大統領と評議官との確執が 起こり、これが隣国ブラジルとの友好に影響するの ではないかと見られる。 ボリビア共和国では大統領になろうと云う人が多く 不穏な空気である。 チリーでは現在平和で、ドン・マニュエル・モントを5年 の大統領職に任命した。 注 1.メキシコでは独裁的なサンタ・アンナ大統領 (在任1853-55)が破れ、 自由主義的なグループ から大統領が出た。 その中心がコモンフォルト 大統領(1855-57)である。 |
将北亜墨利加合衆国およびサルディニー国と和親 貿易航海 之条約を決定せり 一ビュカノン君北亜墨利加合衆国の司職に撰まれたり、 此人はスラーフルネイ人を購て奴僕に仕ふをいふの連綿を 護る人の列なるに、其相手とする人はスラーフルネイ 前出廃するを護るコロネル官名フーモント人名なり 一南北亜墨利加中、イスパニヤの亜墨利加諸共和政治 談判して、フレイボイトルス戦争の時に当て政府の命を以て 敵国の商船抔押領する人をいふ を止め、及び貿易筋容易の 趣向を取極、ワスヒングトン地名に於てニウゲレナタ地名 ギュアテマラ同上、メキシコー、ペーリュー同上、 ボリフィア同上、コルタリカ同上及びフェネシュエラ同上 の諸使節名判せり、将此条約を取行んが為、ボリフィア 前出のリーマー地名に於て集会あるべし 一北亜墨利加のフレイボイトル前出ワルケル人名事、 中央亜墨利加ボンヂュラス地名およびギュアテマラ地名 の頭領たらん事を欲せしに、屡其住民に罰れ、多分 破船するに至らんと見へたり |
極最近アメリカ合衆国及びサルジニアと通商条約を 締結した。 ブキャナン氏がアメリカ合衆国の大統領に選ばれた。 この人は奴隷制の継続を主張する民主党であるが 対抗者は奴隷制廃止を主張する共和党フレモント 大佐であった。 南北アメリカ州にあるスペインから独立した各共和国 は米国首都ワシントンに参集して、フィリバスターの 禁止と自由貿易の取り決めを行った。 これらの国は ニューグラナダ(コロンビア)、グアテマラ、メキシコ、 ペルー、ボリビア、コスタリカ、ベネズエラで以上使節 が調印した。 叉この条約実行に当り、ボリビアの首都 リマで会議がある予定である。 アメリカ合衆国のフィリバスターであるウオーカーと云う 者が中央アメリカのホンジュラス及びグアテマラの 主となろうとしたが住民達に反撃され、失敗した 注 1.米国第15代大統領 James Buchanan(1857-61) 次期16代大統領が共和党のリンカーン 2. フィリバスター: Vrijbuiter(蘭)、 Filibuster叉は Freebooter(英) 海賊・非正規軍事行為を云う。 3.米国人William Walker(1824-1860)が個人的に 中米ニカラグア共和国を乗取り大統領となる。 其後同国の反対派及び周辺諸国の反発で追放 される。 |
海軍 一終の紙面にては唐海并東印度出張の欧羅巴海軍 左の如し 副章Aの部を見るへし 一和蘭海軍同所出張左の如し 副章Bの部をみるべし 一北亜墨利加海軍唐国并東印度海出張左の船々なり 副章Cの部を見るへし |
海軍 最新の新聞では中国近海及び東インドに展開する ヨーロッパ諸国海軍はAの部参集すること 和蘭海軍の展開はBの部参照すること アメリカ海軍の中国近海及び東インドに展開する船は Cの部を見る事 |
Aの部 アコイン 船号 英吉利 大砲十二門 船司 アウアホード アリガトル 同上 同 ビュストルド 同上 同 同 二門 船司 フブコルリンソン ビッテルン 同上 同 同 六門 同 ハハベアミス コルキュッタ 同上 同 同 八十四門 リールアドミラール官名 船将 シルムセイモル ウィンクホルン カミユラ 同上 同 同 十六門 船司クフコルフィレ コミュス 同上 同 同 十四門 同 ルエンキンス コロマンドルス同上 同 同 三門 同 スドングラス コロイスル 同上 同 同 十七門 同 セフェルラウェエス エルク 同上 同 同 十二門 同 イフセハミルトン エンコウントル 同上 同 同 十四門 船将グウドオコルラグハン フェレイ 同上 同 同 六門 船司セトレクキー ヘルキュレス 同上 同 ホンコン 同上 同 同 四門 同 エフデント ホルネット 同上 同 同 十七門 同 セセフォルセイト インフレクシブル同上 同 同 六門 同 イコルペット ミンデン 同上 同 同 四門 同ハフェルリスマストル ナンキン 同上 同 同 五十門 同 船将ホンクステュワルト ニゲル 同上 同 同 十三門 同 同ホンアアコグラネ ビキュエ 同上 同 同 四十門 同 同シルフエニコルソン ラセホルン 同上 同 同 十二門 同 エクバルナルト ラレイグ 同上 同 同 五十門 同コムドレホンハケブブル サムプソン 同上 同 同 六門 同 船将 グスハント サラセン 同上 同 同 六門 同 イリグーツマストル セルセヲルベス 同上 同 同 三門 同キュルメ スパルタン 同上 同 同 二十六門 同 船将シルウィンハステ スタルリンク 同上 同 同 三門 同 アイフィルレルス スタウンク 同上 同 同 二門 同 ルウィルトマン セイピルレ 同上 同 同四十門 同 コムレホムエグイブエルリオト カプリシンセ 同上 仏朗西 同 船将 コルリール カティナット 同上 同 同 六門 同 シェルアルク マルセアン 同上 同 同 モラッテ ニシュス 同上 同 同十二門 同 シーレイリールアドミラール キュエリン フィルギニー 同上 同 同 五十門 船将 プラス アマソナ 同上 ポルトガル 同 六門 船司 イエスカルニヨー モンデクス 同上 同 同 二十門 同 コムタファレス ヨルグユアン 同上 イスパニア 同 四門 同 フデブリオネス |
船名 船種類 砲数 艦長 Acorn ブリック 12 Arther w Hood Alligator 病院船 Bustard 砲艦 4 Benjamin Collinson Bittern ブリック 12 James Goodenough Calcutta 戦列艦 84 准将Michael Seymore 艦長Willliam King Camilla スループ 16 George Colville Comus スループ 18 Robert Jenkins Coromandel 蒸気外輪船 3 Sholto Douglas Cruizer 蒸気船sw 17 Charles Fellowes Elk ブリック 16 Jhon Hamilton Encounter 蒸気スクリュー 14 Dog O'Callaghar Ferret ブリック 8 Charls Leckie Hercules ホンコン Hornet 蒸気スクリュー 17 Charles Forsyth Inflexible スループ 6 Jhon Corbett Minden 食糧船 Nankin 戦列艦 50 Keith Stewart Niger 蒸気船sw 14 Pedro Cochnane Picue 戦列艦 36 William Nicolson Racehorse コルベット 18 Edward Barnard Raleigh 戦列艦 50 Hery Keppel Sampson 蒸気船sw 6 George Hand Saracen コルベット 10 John Richards セルセヲルベス Spartan 戦列艦 26 George Hoste Starling 砲艦 3 Arthur Villiers Staunch 砲艦 4 Leveson Wildman Sybille 戦列艦 36 Brydone Elliot |
Bの部 パレムバング 船号 フレガット船 船将セイベルグホイス ボレアス 同上 コルフェット船 第一等助役アフック バタフィア 同上 蒸気船 船将センドルフファンレイン デハーイ 同上 ブリッキ船 第一等助役イファンマウリッキ ベイラデス 同上 アドフィースブリッキ船 同 グドアアムブト レムバング 同上 スクーネルブリッキ船 同 セイグストルムファン セイルプ 同上 同 同 コロイスセピラール サバルーア 同上 同 同 ムハンセン バンダ 同上 同 同 ハアモッドルマン ランシール 同上 同 同 オンドラート バダング 同上 同 同 フェイキリス 第十四番カノネールボート 第二等助役ルブストロイク メデュア 船号 捻コルフェット船 船将次官グファビュス プリンセスアメリヤ 同上 同 同 ウハアウエスセリンキ モンタラドー 同上 捻スクーネル船 第一等助役イアンデレアル アムストルダム 同上 蒸気船 船将次官アアデフリース メラビー 同上 同 同 ファンメーラン エットナー 同上 同 同 アドファラルクソン ブーニキス 同上 同 第一等助役フルツーマークル シュリナーメ 同上 同 サマラング 同上 同 同 イアファンオムメン セレベス 同上 同 同 エムセバーグ アドミラールファンキンスベルゲン 同上 同 同 グラムベルト オンリュスト 同上 同 同 アアアガイマンス |
オランダ船左の通り 1.捻コルベット、捻スクーネル 何れも蒸気船 スクリュー方式と思われる |
Cの部 サンヤシントー 船号 大砲十三門 コモドーレ官名イアルムスト ロングヘンレイハベル |
San Jacinto 蒸気船sw 大砲13門 提督 James Armstrong |
右千八百五十七年第七月二十日安政四年巳閏五月廿九日 第二番印度和蘭領都督職之決定に付属す 奉行所公用人 承知 名前意不詳 右之通り和解差上申候、以上 巳十月 名村八右衛門 楢林栄左衛門 荒木 熊 八 西 慶太郎 西 吉十郎 |
1857年7月20日第二番目オランダ領東インド総督の 決定事項に付属する 総督府事務官 承知 名前不詳 以上和訳して提出 安政四巳年10月 名村八右衛門 (1857年11月) 外 |
出典: 「幕末外国関係文書」安政四年十月記録より |