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  和蘭告密     
  和蘭国王書簡并献上物目録和解
                   渋川六蔵
オランダ極秘情報
 オランダ国王書翰及び献上物目録和訳
               渋川六蔵
註:
渋川六蔵(1815-1851)は幕府天文方、蘭学者。
天保の改革を推進した水野忠邦の抜擢で書物奉行
となるが、忠邦失脚後は渋川もこのオランダ国書の
内容漏洩という罪で、豊後臼杵藩にお預けとなる
 鍵箱之上書和解
此印封スル箱ニハ和蘭国王ヨリ
日本国帝
征夷大将軍ヲサシ奉ルナリ ニ呈スル書簡
ノ箱ノ鍵ヲ納ム、此書簡ノ事ヲ司ルヘキ命ヲ受ル
貴官ノミ開封シ給フヘシ
  暦数千八百四十四年二月十五日
天保十四癸卯
   十二月十七日ニ当ル

  瓦刺分法瓦
和蘭国都ニ於テ記ス
   和蘭国王密議庁主事 名花押 
   寄陽可澤名氏マシーアーフアンラプバン
 鍵箱之封印和解
  (和蘭国王密議庁)
 書簡外箱上書和解
日本国帝殿下      和蘭国王
   鍵箱の上に書いてある文章和訳
 この封印した箱にはオランダ国王から日本の国帝
(征夷代将軍)宛の書翰を納めた箱の鍵が入っている
この書翰を開く事を命じられた役人だけが開封できる
  西暦1844年2月15日(天保14年12月17日に相当)
   オランダ国都であるグラベンハーグにて記す
     オランダ国王秘書庁長官 
              マシーアーファンラプバン
 
 鍵箱の封印にある文字和訳
    オランダ国秘書庁
 
 書簡外箱に書かれた文字和訳
    日本国帝殿下     オランダ国王
  書簡和解
 神徳ニ倚頼スル和蘭国王兼阿郎月
仏朗察国ノ地名納騒
 独逸都国ノ地名ノプリンス爵名 ルクセンブルグ和蘭国ノ地名
 ノゴロートヘルトフ
爵名徴璽列謨二世、謹テ江戸ノ
 政庁ニマシマシテ徳位最高ク威武隆盛ナル
 大日本国君殿下ニ書ヲ奉シテ微衷ヲ表ス、希クハ
 殿下観覧ヲ賜ヒテ安寧無為ノ福ヲ享ケ給ハン事ヲ祈る
オランダ国王兼オラニエ・ナッソウ家、ルクセン
ブルグ大公であるウィルレム二世は謹んで江戸の
幕府の最高権威である殿下に書を心から捧げる。
願わくば殿下の一読を賜り、お役に立つ事を祈る


此時の将軍は江戸幕府第12代徳川家慶
一抑今ヲ距ルコト二百余年前ニ、世ニ誉高クマシマ
 セシ
 烈祖権現家康ヨリ信牌ヲ賜ハリ
慶長五庚子年和蘭国ノ船
 始テ本邦ニ来リ、同十四己酉年七月廿五日神祖ヨリ御朱印ヲ賜ル、
 己酉ヨリ今茲甲辰ニ至リ二百三十六年ナリ

 我国ノ人貴国ニ航シテ交易スル事ヲ許サレシヨリコノ
 カタ其待遇浅カラス、甲必丹モ年ヲ期シテ
 殿下ニ謁見スルヲ許サル、
古ハ甲必丹ノ江府拝礼毎年ナリ
 シニ、寛政二庚戌年ヨリ五年目トナレリ、此ニ年ヲ期シテト云ハ蓋シ
 近代ノ事ヲサシテイヘルナリ 
聖恩ノ隆厚ナル実ニ感激ニ
 勝ヘズ、我モ亦信義ヲ以テ、コノ変替ナキ恩義ニ答へ
 奉リ、弥貴国ノ封内ヲシテ静謐ニ、庶民ヲシテ安全ナラ
 シメント欲ス、然ト雖モ今ニ至ルマデ書ヲ奉ルへキ緊要
 ノ事ナク、且交易ノ事及ヒ尋常ノ風説ハバタビア
呱哇島
 ノ崎名ナリ、元和五己未年和蘭国人全島ヲ奪ヒ開瓦答利城ヲ改メテ
 バタビアトイフ、及ヒ和蘭領亜細亜諸島和蘭国ノ人印度地方ノ諸島
 ヲ併セ奪ヒテ是ヲ領ス、是ヲ和蘭領亜細亜諸島トイフ
 ノ惣督ヨリ
 告来ルヲ以テ両国書ヲ相通スル事アラサリシニ 
両国書
 ノ通スルコトナシト云ハ誤ナリ、慶長十四己酉年七月廿五日同一七
 壬子年十月、  神祖ヨリ和蘭国王へノ御諭書アリ、蓋シ和蘭歴代
 治平ノ日少ナキヲ以テ文献ノ徴スヘキモノナキニアルノミ
 今爰ニ
 観望シカタキ一大事起レリ、素ヨリ両国ノ交易ニ拘ルニ
 非ス、貴国ノ政治ニ関係スル事ナルヲ以テ、未然ノ
 患ヲ憂ヒ、始テ殿下ニ書ヲ奉ス、伏テ望ム此忠告ニ
 因リテ其未然ノ患ヲ免レ給ハン事ヲ
今より200余年前、有名な江戸幕府始祖の家康公
より信任状を戴き、我国の人民が貴国迄航海して
交易する事を許可された。 以後厚遇され商館長
も毎年将軍に謁見を許され、実に有り難く感謝の
次第である。 我等も又信義を尽して変心せずに
この恩義に応え、 貴国の平和と国民の安全を希望
するものである。 しかし是迄書を差上げなかった
のは火急の事もなく、それと通常の情報はバタビア
の総督を経由して交換しているので、両国が文通を
する事はなかった。

ところが今爰に見過ごせない大事件が起こる。
是は日蘭両国の交易上の問題ではなく貴国の
政策に関する事で心配な事があるので、初めて
殿下に書を認めるものである。
是非この忠告を聞いて戴き、禍を未然に防がれる
事を望む。


写本には渋川のものと思われる割注が頻繁に付け
られており、左の翻刻文では小文字で表示する。
1.日本とオランダとの接触は慶長5年リーフデ号
 (有名なウィリアムアダムスやヤンヨーステン乗組)
 の漂着を家康が保護し、慶長14年(1609年)には
 彼等に貿易の朱印状を与えた。
2. 商館長の江戸参府は毎年だったが寛政2年
  以後5年毎になった。
3. バタビアはシャワ島の都市で元和5年オランダ人
 が全島を植民地としジャカルタをバタビアに改めた
4. 日蘭の文通は過去にあったと渋川は言う、慶長
 14年に家康からオランダ国王への書簡がある由
一近年英吉利国王ヨリ支那国帝ニ対シ兵ヲ出シテ烈ク
 戦争セシ、本末ハ我国ノ船毎年長崎ニ至リテ呈スル
 風説書ニテ既ニ知給フヘシ、威武盛リナル支那国帝
 モ久ク戦ニテ利アラス、欧羅巴州ノ兵学ニ長セルニ
 辟易シ、終ニ英吉利国ト和親ヲ約セリ、是ヨリシテ
 支那国古来ノ政法甚タ錯乱シ、海口五処ヲ開ヒテ
 欧羅巴人交易ノ地トナサシム、 
五処ノ地方ハ即チ広州・
 福州・寧波・厦門・上海
 其禍乱ノ原ヲ尋ルニ、今ヲ距ルコト
 三十年前、欧羅巴ノ大乱治平セシ時 
寛政ノ頃ニ当リテ
 仏朗察国ニ(ナポレオン)ナルモノアリ、国ノ内乱ヲ嫌ヒ自立シテ
 王タリ、是ニ於テ兵ヲ四方ニ出シテ諸国ヲ併呑セントシ欧羅巴州
 大ニ乱ル、文化十二乙寅年諸国相謀テ(ナポレオン)ヲ擒ニシテ
 流罪シ、数年ノ兵乱治平セリ、 乙亥ヨリ今茲甲辰ニ至リ正ニ三十
 年ナリ
 諸民皆永ク治化ニ浴センコトヲ願フ、其時ニ
 当リテ古賢ノ教ヲ奉スル帝王ハ諸民ノ為ニ多ク商売
 ノ道ヲ開キテ民業殖セリ、然リシヨリ器械ヲ造ルノ術
 及ヒ合離ノ術 
万物ヲ離合して其質ヲ究理スルノ肝ヲ云 ニ
 因リテ種々ノ奇巧ヲ発明シ、人力ヲ費サスシテ貨物ヲ
 製スルヲ得シカハ、諸邦ニ商売蔓延シテ反テ国用
 乏キニ至リ、又中ニ就テ武威世ニ耀ケル英吉利ハ
 素ヨリ国力豊饒ニシテ、民心巧智アリト雖モ国用ノ
 乏キハ特ニ甚シ、故ニ商売ノ正路ニ拠ラスシテ
 速ニ利潤ヲ得ント欲シ、或ハ外国ト争論ヲ起シ、
 事勢已ムヘカラザルヲ以テ本国ヨリ力ヲ尽シ、其
 争論ヲ助クルニ至ル、是等ノコトニヨリテ其商売
 支那国ノ官吏ト広東ニテ争端ヲ開キ、終ニ兵乱ヲ
 起セシナリ、支那国ニテハ戦甚タ利ナク、国人
 数千戦死シ、且数府ヲ侵掠敗壊セラルヽノミナラス、
 数百万金ヲ出シテ火攻ノ責ヲ贖フニ至レリ
最近イギリス女王が清国皇帝に対し出兵し、烈しい
戦争を行った。 詳細については我国の商船が毎年
長崎にで提出する風説書で既に御存知と思う。
強大な清国も戦いに利なく、ヨーロッパの優秀な軍事
力に押され、終にイギリスに和睦を乞うた。 結果中国
古来の方針は崩れ、五箇所の港を開いてヨーロッパ
人と交易を行う事となった。 

この原因今から30年前ヨーロッパの戦乱が治まった
時、人々は平和が長続きする事を望んだ。 その時
各国の指導者は人民の為に交易の道を開き、産業
を促進した。 以後工業技術や物理化学が発達し、
各種機械器具が発明され、人力を使わずに製品を
作るようになったら商業は益々発展したが、歳費は
不足した。 

中でも特にイギリスは元来国も豊かで、産業技術も
優れているが歳費は特に不足していた。 その為
堅実な商売をするより早急に利益を得る事を考え
外国と争いになり、仕方なく本国から軍事力で支援
するに至った。 これは即ち商売上で清国官吏との
争いが広東で起り、終に戦争になった。 清国側は
戦いに敗れ数千の人々が死亡し、数ヶ所の都市を
占領又は破壊された。 其上数百万金の賠償金を
払う事になった。 


左翻刻文の割注(小文字部分1-3)
1. 五ヶ所の開港地は広州、福州、寧波、厦門、
 上海である
2. 寛政の頃、フランスにナポレオンがと云う者が
 居り、国内の内乱(フランス革命後の混乱)を
 嫌い、自ら皇帝となり軍隊を四方に出し諸国を
 占領しようとした。 ヨーロッパ中が大乱となったが
 文化12年(1815年)、諸国連合してナポレオンを
 島流しにした。 今から30年前の事である
3. 合離の術: 物質の分子論を述べていると
 思われる。
4. 国用乏しく: イギリスが考える程製品が中国に
  売れず、一方茶等はじめ中国からの輸入は増大
  し、イギリスとしては入超になり銀が流出した。
  これを打開する為にアヘンを売り込み、中国では
  これを禁止する中国官吏とイギリス商人との
  争いが起った。
一貴国モ今亦此ノ如キ災害ニ罹リ給ハントス、凡ソ災害
 ハ倉卒ニ発ルモノナリ、今ヨリ日本海ニ異国船ノ漂ヒ
 浮フコト、古ヨリモ多ク成行キテ、是カ為ニ其船兵ト
 貴国ノ民ト忽争端ヲ開、終ニハ兵乱ヲ起スニ至ラン、
 是ヲ熟察シテ深ク心ヲ痛マシム
 殿下高明ノ見マシマセハ必其災害ヲ避ルコトヲ
 知リ給フヘシ、我モ亦安寧ノ策アランヲ望ム
貴国にも又此の様な災難が降り掛ろうとしている。 
一般に災害は出し抜けに来るものである。 今後日本
近海に外国船が出現する事は、過去に比べ多くなり
そのため外国船の乗組員や兵士と貴国の人民との
争いが起これば、それが戦争に発展する事になろう。
それを考え心を痛めるものである。 

しかし殿下は賢明であられるので此危機を回避する
事をご存知と思うが、私も平和維持の方策を望む
ものである
一殿下ノ聡明ニマシマスことハ暦数千八百四十二年
 
天保十三壬寅年ニ当ル 貴国ノ八月十三日長崎奉行ノ
 前ニテ甲必丹ニ読聴カセシ令書ニ因リテ明ナリ、
 其書中ニ異国船ヲ厚遇スヘキ事ヲ詳ニ載スルト雖、
 恐クハ猶未タ尽サヽル所アランカ、 其主トスル所ノ
 意ハ難風ニ逢、或ハ食物薪水ニ乏クシテ貴国ノ海浜
 ニ漂着スル船ノ処置ノミニアリ、モシ信義ヲ表シ或ハ
 他ノイハレアリテ貴国ノ海浜ヲ訪フ船アラン時ノ処置
 ハ見ヘス、是等ノ船ヲ冒昧ニ排斥シ給ハヽ必ス争端ヲ
 開カン、凡争端ハ兵乱ヲ起シ、兵乱ハ国ノ荒廃ヲ
 招ク、二百余年来我国ノ人貴国ニ留リ居シ恩恵ヲ
 謝シ奉ランカ為ニ、貴国ヲシテ此災害ヲ免レシメント
 欲ス、 古賢ノ言ニ曰、災害ナカランヲ欲セハ険危
 ニ臨ム勿レ、 安静ヲ求ント欲セハ紛冗ヲ致ス勿レ
殿下が聡明であられる事は1842年旧暦8月13日に
長崎奉行より商館長に通達された命令書によって
明白である。 この令書で外国船を厚く遇する事が
詳しく述べられている。 しかし今一歩の処もある。

それは通達の趣意は大風に遭遇したり、食物薪水が
欠乏して貴国の海岸に船が漂着した場合だけであり
礼儀を尽し或は他の正当な理由で貴国を訪れた船
がある場合の処置は不明である。 もしこれ等の船
をやみくもに排除すれば必ず争いが起こるだろう。
そして争いはやがて戦争に発展し、戦争は国の荒廃
を招くだろう。 2百余年の間我国が貴国から受けた
恩恵に感謝すればこそ、貴国が斯かる災難に逢われ
ない事を願う。 古人曰く、災害を防ぐには危険に
近付くな、平和を求めるなら揉め事を起すなと。


商館長に通達した命令書は、文政8年に公布した
異国船無二念打払令を取りやめ、食物・薪水を供与
し、速やかに立去らせるという天保薪水供与令を
指す。(天保13年7月29日老中より通達)。 左の翻刻
文では上記法令の割注は省略した。
一謹テ古今ノ時勢ヲ通考スルニ、天下ノ民ハ速ニ相
 親ムモノニシテ、其勢ハ人力ノ能ク防ク所ニアラス、
 蒸気船
 蒸気船ハ水車ト蒸気筒ヲ設テ石炭ヲ焼テ蒸気筒中ノ
 水ヲ沸騰シ、 其蒸気ニアリテ水車ヲ回転セシメ、風向ニ拘ラス
 自由ニ進退スル船ナリ、文化四丁卯年ニ創造スト云フ
 ヲ創造
 セシアリコノカタ、 各国相距ル事遠キモ猶近キニ
 異ナラス、斯ノ如ク互ニ好ミヲ通スルノ時ニ当リ独国
 ヲ鎖シテ万国ト相親マザルハ人ノ好ミスル所ニアラス、
 貴国歴代ノ法ニ異国人ト交ヲ結フことヲ厳禁シ給ヒシ
 ハ欧羅巴州ニテ遍ク知ル所ナリ
 老子曰、賢者位ニ在シハ特ニ能治平ヲ保護ス
 此意ニ
 当るへき語老子ニ見ヘス、後考ニ譲ル
 故ニ古法ヲ堅ク遵守
 シテ反テ乱ヲ醸サントセハ、其禁ヲ弛ムルハ賢者ノ
 常経ノミ、是
 殿下ニ丁寧ニ忠告スル所ナリ、今貴国ノ幸福ナル
 地ヲシテ兵乱ノ為ニ荒廃セサラシメント欲セハ、異国
 人ヲ厳禁スル法ヲ弛メ給フヘシ、是素ヨリ誠意ニ出ル
 所ニシテ、我国ノ利ヲ謀ルニハアラズ、夫平和ハ懇ニ
 好ミヲ通スルニ在、懇ニ好ヲ通スルハ交易ニアリ、冀ク
 ハ虜智ヲ以テ熟計シ給ハンことヲ
是迄の歴史を見ると世界の人々は互いに交流する
ものである。 しかし人力では及ばない蒸気船が製造
される様になって益々世界の国々の距離は近まり
交流しようと言う時にあたり、 一国だけ国を閉ざし
他国と交流しない事は好ましい事ではない。
貴国が歴代の法によって外国人と交わる事を厳禁
している事はヨーロッパでは皆知っている事である。

老子の言葉に賢者が指導者になれば特に平和の
維持に心を尽す。 古い掟を堅く守る事が却って
乱の原因になるなら、その規則を弛めるのが賢者
やり方である。

殿下に最も忠告したいのはこの点にある。 現在
幸せである貴国を戦争による荒廃から守りたければ
外国人を厳しく排除する法を緩められよ。 是は全く
誠意で申上げるものであり、我国の利益の為では
ない。 平和は親しく交流する事であり、親しく交流
する為に交易がある。 願わくば英知を以て熟考
されたし。

1.蒸気船割注部分:蒸気船は水車と蒸気筒からなり
 石炭を燃やして蒸気筒中の水を沸騰させ、その
 蒸気によりより水車を回転させる。 風向きに関係
 なく船を自由に進退させる事ができる。 文化四年
 (1807年に当り、米国のロバート・フルトンがハドソン
 河で外輪形蒸気船を試運転した)に製造された
2. 老子曰: 渋川の見解ではこれに相当する言葉
 は老子には見当たらないと云う。
一此忠告ヲ採用シ給ハント欲セハ
 殿下親筆ノ返翰ヲ賜ハルヘシ、然ラハ又腹心ノ臣
 ヲ奉ラン、此書ニハ概略ヲ奉ル故ニ詳ナル事ハ
 其使臣ニ問ヒ給フヘシ
此忠告を採用されるなら、殿下親筆の返書を賜りたく
そうなれば腹心の臣下を送りましょう。 此書では概略
を述べているいるだけなので、その使節に詳しくお尋
ね下されたい。
一我ハ遠ク隔リタル貴国ノ幸福治安ヲ謀ルカ為
 ニ甚タ心ヲ痛マシム、是ニ加ルニ在位二十八年ニ
 シテ四年以前ニ譲位セシ我父微璽列謨第一世王
 モ遠行シテ悲哀ニ沈メリ 
微璽列謨第一世ハ安永元壬
 辰年ニ生レ文化十癸酉年ニ和蘭国ヲ興復シ、同十二乙寅年
 王位ニ封セラレ、天保十一庚子年今王ニ位ヲ譲リ、同十四癸卯年
 卒セリ、癸酉ヨリ庚子ニ至リ在位二十八年歳七十二 

 殿下モ亦是等ノことヲ聞シ召給ハヽ我ト憂慮ヲ
 同シ給ハン事明ナリ
私は遠く離れた貴国の幸福と平和が続くかたいへん
心配している。 更に加えて在位28年の後4年前に
譲位した我父、ウィレム一世王が死去した悲しみも
ある。
殿下もこれを聞かれれば私の気持ちをご理解戴ける
と思う。


1.ウィレム一世(1772-1843) オランダ君主、ルクセン
  ブルグ大公在位1813-1840、27年間
  ウィレム二世(1792-1849) ウィレム一世息子
  国王在位1840-1849、9年間
  徳川家斉(1773-1841) 家慶の父、征夷大将軍
  在位1787-1837、50年間
  徳川家慶(1837-1853)、征夷大将軍在位1837-
  1853、16年間
 当事者であるウィレム二世と家慶は年齢、父の長期
 政権、父の死去時期等非常に良く似た境遇である。 
一此書ヲ奉スルニ軍艦ヲ以テスルハ
 殿下ノ返翰ヲ護シテ帰ランカ為ノミ、亦我肖像
 ヲ呈シ奉ルハ至誠ナル信義ヲ顕サンカ為ノミ
 其余別幅ニ録スル品ハ我封内ニ盛ンニ行ハルヽ
 学術ニヨリテ致ス所ナリ、不腆トイヘとも我国ノ
 人年来恩遇ヲ受シヲ聊謝シ奉ランカタメニ
 献貢ス、向来不易ノ恩恵ヲ希フノミ
この書簡を差上げる為に軍艦を派遣したのは、殿下
の返書を警固して帰る為である。 又私の肖像画を
差上げるのは誠の信義を顕す為である。 其他別紙
目録にある品々は我領内で盛んな産業技術により
作られたものである。 粗品ではあるが我国民が長期
にお世話になった来たお礼の印として差上げたい。 
今後も相変わらず宜しくお願いしたい.


此時の軍艦がパレンバン号(フリゲート)、使節は
コープス大佐、450人余で来日。
一世ニ誉レ高クマシマセシ
 父君ノ治世久ク、多福ヲ膺受シ給ヒシヲ、奉佑
 セル神徳ニヨリテ
 殿下モ亦多福ヲ受、大日本国永世彊リナキ天
 幸ヲ得テ静謐敦睦ナラン事ヲ祝ス

 即位ヨリ四年暦数千八百四十四年二月十五日
 
天保十四癸卯年十二月二十七日ニ当ル 瓦刺紛法瓦 
 
和蘭国都 ノ宮中 ニ於テ書ス
                   徴璽列謨
     テ・ミニストル・ハン・コロニユン
外国ノ事ヲ司ル
                            大臣官名
 瑪陀
高名な父君は長期に渡る平和を維持されたが、神の
導きにより殿下も又幸せで日本国の平和を全うされん
事を祝す。

即位より四年、西暦1844年2月15日(天保14年12月
27日)、 オランダの都ハーグにて記す
                オランダ国王 ウィレム二世
           オランダ植民地事務大臣 マーダ

  日本国殿下へ和蘭国王ヨリ奉献候貢物
  目六
一和蘭国王姿画           一枚 
  但身之丈正写周ニ金緒ヲ付テ和蘭国高名之画工
  ハンデルヒルスト
人名之画ニ御座候
一水晶大燭台            二本
  但三方ニ火燈候様拵有之候
一同大花生              一
  但造花添有之候
一六挺込短筒            一揃
  但一箱入

一カラベイン筒            一挺
  但短筒一種之名一箱入
一新刊地図              一
  但欧羅巴州諸国之属集有之候
一同大                一
  但和蘭領之東印度之国ニ有之候
一シュリナノ
人名道中記      一冊大
一和蘭国領所東印度風土記   三冊大
一東印度草木之絵図       二冊大
一呱哇草木之絵図         三冊大
一日本草木之絵図         一冊中
一同獣類之絵図          四冊中
一星学ニ拘候地理書       二冊中
一地理書               一冊中
一星学書               二冊小
一天文書               五冊小
一デガラーフ
人名之星学書    一冊小
一ハンカダンス
人名之星学書   一冊小
一総世界之風土記         一冊小
一万物之説録             一冊小

一サテルニス
人名之輪之説録   一冊小
一ユンケ之彗星説録        一冊小
一星学稽古書            一冊小
一ハルレイ之彗星説録       一冊小
一天文書               一冊小
一彗星観察之書           一冊小
一万物之記録            一冊小
日本国殿下(征夷大将軍)へオランダ国王よりの
    献上物目録

○オランダ国王肖像画
   実物大写生で周りに金モールを付け
   高名な画家ハンデルヒルストの作
○水晶製大蝋燭台
   三方に蝋燭立てがある
○水晶製大花瓶
   造花が付属している
○六連発ピストル
   箱入りセット
○カービン銃(蘭Karabijn、 英Carbine)
   小銃の一種(銃身が短く騎兵銃として使われた)

○その他左記の書物、地理、天文学関係書籍が多い

 

  巳四月               森山源左衛門 印
                     森山 栄之助 印

1845年(弘化2年4月)  通訳
                 森山源左衛門
                 森山 栄之助

オランダ国王書簡を運んだパレンバン号が長崎に
入港したのは天保15年7月2日(1844年8月15日)の
記録があり、江戸へ国書到着は1844年8月末頃と
思われる。 右にある日付巳四月1845年5月であり、
翻訳を上げた日付にしては遅すぎる。 翻訳者渋川
六蔵とこの両名通訳及び日付の関係は分らない。
出典: 北海道大学図書館力石雑記巻一より

                     



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和蘭国摂政へ之御書翰并御別幅甲必丹へ御諭書 オランダ国摂政への書簡及び別紙商館長への説明書
          久世出雲守      内藤紀伊守
         青山大膳亮      林 大学頭
         稲生出羽守      遠山左衛門尉
         鍋島内匠頭      石河土佐守
         松平河内守      久須美佐渡守
         平賀三五郎      松平式部少輔
         小出 織部       山口 内匠
         石谷鉄之丞

去年阿蘭陀国王之書翰差越候ニ付、別紙之通り
今度各より彼国重役へ書翰差遣候、右者最前存寄
相尋銘々見込之趣被申聞候儀ニ付、為心得写相添、
此段相達候事
 久世出雲守       内藤紀伊守
 青山大膳亮       林 大学頭
 稲生出羽守       遠山左衛門尉
 鍋島内匠頭       石河土佐守
 松平河内守       久須美佐渡守
 平賀三五郎       松平式部少輔
 小出 織部        山口 内匠
 石谷鉄之丞
昨年オランダ国王の書簡が送られてきた件に付き
別紙之通り、 老中連名で同国の政府重職に書簡
を出した。 これは最近諸役の考えを尋ねた事でも
あり、参考の為写しを添えて通達する事

註: 上記は寺社奉行、勘定奉行、町奉行、大目付
 目付であり、所謂評定所のメンバーである。 

  甲必丹へ諭書写
我国往昔より海外ニ通問スル諸国少ナカラサリシニ、
四海泰平ニ治リ法則ヤヽ偏リ朝鮮・琉球ノ外ハ信ヲ
通スルコトナシ、其国・支那ハ年久シク通商スルト
イヘ共信ヲ通スルニハ非ス、然ルニ去秋其国王ヨリ
書翰差越トイエ共厚意ニメデヽ、夫カ為ニ答レハ則
信ヲ通スルノ事ニシテ、祖宗ノ厳禁ヲ侵ス、是我カ
私ニアラス、故ニ返翰ノ沙汰ニ及カタシ、然トイヘ共
多年通商ノ好ミヲ忘レス至誠ノ致ス処、祝着コレニ過ス、
其懇志ノ程イサヽカ会釈ニ及ハサレハ礼節ヲ失ヒ、
且誠意に戻ル、依テ其重役へ書ヲ送テ其厚キヲ謝ス
又品々贈越トイヘ共返翰ニ及ハレサル上ハ請納メ
難シ、然レ共厚意ノモダシ難キ故ニ、其意ニ任テ
納メトヽム、就テハ是ヨリも会釈トシテ国産ノ品々送リ
遣スナリ、然レハ後来必書翰サシ越ことナカレ、若
其事アリ共封ヲ開カスシテ返シ遣スヘシ、正ニ礼ヲ
失フニ似タリトイヘ共、何ソ一時ノ故ヲ以祖宗歴世ノ
法ヲ変スヘケンヤ、是ヲ以テ他日再ヒ事ヲ費すこと
ナカレ、此度書簡相贈候トテ其返報モ固ク無用タル
ヘシ、此旨能々心得本国へ申伝フヘシ
    オランダ商館長への説明書
我国は昔から海外諸国と通交する事は決して少なく
なかった。 しかし国内が安定し平和になると、法則
はやや偏り、朝鮮・琉球以外は国交を閉ざした。 
貴国と中国とは長く通商してきたが国交はない。
ところが昨年秋に貴国国王より書翰が送られ、厚意に
応えて返書を送れば、これは国交に当り祖法の厳禁
を侵す事になる。 是は私的なものではないので
返書を行う事は出来ない。 そうは云っても長年通商
の好関係を忘れず心からの忠告であり、これは有り難く
思う。 この親切に応対しなけばたいへん礼儀を欠く
事になり誠意に反する。 その為貴国の政府重役に
書翰を送り親切を感謝する。 又贈答の品々は返書
をしない以上受け取る事は出来ない筋であるが、
厚意を無視する事もできず、これは納め、代わりに
こちらから応対として国産の品々を送る。 しかし
決して書翰を送らないで欲しい。 もし送られても封を
切らずに返送する。 たいへん礼儀に反する様で
あるが、どうして一時の事で祖法を変える事ができよう
か。 このような訳であるの将来再び無駄をしないで
戴きたい。 今回書簡を送ったからと云って返礼など
固くお断りする。 この事を十分に理解して本国に
伝えて欲しい。

註:
通信ある国、通商ある国: この言い方は1792年に
 ロシアのラクスマンが通商を求めてきた時に初めて
 日本側から言い出した様である。
戻ル: ここでは反するの意味
モダシ: 黙(もだ)し、 無視する
去歳七月貴国使价船、齎 
国王書翰、到我肥前長崎港、崎尹伊沢美作守受而
達之江戸府、我主親読之、
貴国王以二百年来通商之故、有遥察我国之利害
見忠告一事、其言極為懇款、且別見恵珍品若干種、
我主良用感荷、理宜布報、然今有不能然者、我祖創
業之際、海外諸邦、通信貿易、固無一定、及後議定通
信之国通商之国、通信限朝鮮琉球、通商限貴国与
支那、外此則一切不許新為交通、貴国於我、従来有
通商無通信、信与商又各別也、今欲為之布報、則違
碍祖法、故俾臣等達此意於公等、稟之於   
国王、事似不恭、然祖法之厳如此、万以不得已、請諒
之、至見恵礼物、又在所可辞、然而厚意所寓、遠方送
致、倘併返納益渉不恭、因今領受、薄普土宜数種、以
表報謝、具録別幅、勿却幸甚、抑祖法一定、嗣孫不可
不遵、後来往復幸見停、或其不然、雖至再三、不能受
幸勿為訝、至於公等書翰、又準此、不為報也、但貴国
通商則遵旧約勿替、又是慎守祖法耳、幸稟之於   
国王、雖則云璽、至於                 
国王忠厚誠意、則我主亦深感銘、不敢疎外也、因今
俾臣等具陳、言不尽意、千万諒察、不備  
 
阿蘭陀国政府諸侯閣下
           阿部伊勢守正弘判
           牧野備前守忠雅判
 日本国老中   青山下野守忠良判
           戸田山城守忠温判
  弘化二年乙巳六月朔日




用語解説
 齎:持ってくる 懇款心からの親切
感荷深く恩を感じる 碍:妨げ、防ぐ 倘:若し
稟之:これを申上げる 云璽:しか云う
具陳:具(つぶさ)に陳(の)べる。 
不備: 手紙の最後、草々に相当

去年7月貴国使節船が国王の書簡を運び、我国の
肥前長崎港に到着した。 長崎奉行の伊沢美作守
が是を受取り江戸城に送った。 我主〔将軍)はこれを
親しく読み、貴国王が200年来の通商の故を以て、
我国の利害を遥かに察した忠告を見る。 其内容は
心からの親切から出ており、又珍しい品々も添える。

我主は深く恩を感じ,報せもよく理解した。 しかし
今返書を送る事は出来ない。 我祖(徳川家康)創業
当時は海外諸国と国交・貿易の区別は無かった。 後
に国交ある国及び通商ある国を定め、国交は朝鮮と
琉球に限定し、通商は貴国と中国に限定してそれ
以外は一切新に交通を許さなかった。 貴国は我国
と従来から通商はあったが国交はない。 通商と
国交は別であり、 今返書を為そうとすれば、則祖法
に抵触する。 故に弊臣等がこの状況を貴公等に送る
ので国王に申上げて頂きたい。 

この事は礼を失する様であるが、祖法の厳しさは此
如きものであり、万止むを得ないので諒承願う。 
贈り物も辞すべきものであるが、厚意で遠方より送ら
れたものであり、若し返納すれば益々礼を失する事と
なるので、是は受領し此方の土産を感謝の印とする。
別紙目録の通りであるが返事を返さないで頂きたい。

そもそも祖法の掟に子孫は遵わない訳にいかない。
今後往復書を停止する事が幸いである。 若し書簡
が再三に渡るとも受ける事は出来ない。 訝しく思わ
ないで頂きたい。 貴公等の書簡も同様である。

但し貴国との通商は従来通りとして変更しない事、又
是も祖法を遵守する事である。 国王の親切と誠意
に我主も深く感銘しておる事を国王に申上げられよ。
爰に弊臣等が具に陳べるが意を尽くしていない事も
あり、この点諒解願いたい。 不備

オランダ国政府諸侯閣下
         阿部伊勢守正弘 
         牧野備前守忠雅
         青山下野守忠良
         戸田山城守忠温
  弘化2年(1845年)6月1日
  別幅
 貼金画屏風      一双
 撒金画架        一座
 撒金硯紙函      一副
 撒金文台硯函     一副
 撒金堤合櫃      一具
 華紋綸子        二十端
 華紋紗綾        二十端
 彩亀綾          二十端
 彩綾           二十端
 彩紬           二十端
   整

 別紙目録
   左の通り
出典: 北海道大学図書館力石雑記巻一より
力石勝之助: 力石雑記77巻の著者。 日米和親条約による箱館開港に伴い箱館奉行の下で
組頭、支配役などを勤めた記録がある。 天保から安政期に掛けて成立した視聴草(宮崎成身著)、
蠧余一得(向山源太夫著)、弘化雑記、安政雑記等と同様に武士による各種分野の写本集成で
ある。 著者の業務柄か過去の海外交渉関係写本が多く含まれる。 明治12年(1879年)没65歳。


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