和蘭告密
―1844年オランダ国王の忠告―
アヘン戦争(1840—1842)の結果清国がイギリスに敗れ、 五港開港、香港割譲、賠償金支払い等が南京条約 (1842年8月)で取極められた。 開戦から和議に至る 迄の情報は当時異国船打払い政策を遂行していた 日本でも、逐一オランダ風説書(オランダ船による)や 清国風説書(中国交易船による)により長崎経由で幕府 でも入手していた。 当時日本では水野忠邦(老中首座) による天保の改革の最中であった。 現実主義者の水野 は清国不利を知り、1842年3月直ちに異国船打払令を 中止し天保薪水供与令に切り替えた。 これは彼我の 軍事力の差を認識した水野が、無差別打払いは清国の 轍を日本でも踏む事になる、と考えた事による。 |
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長崎に到着した国王使節船パレンバン号と日本側警固船 | |
その様な時に日本の鎖国を心配したオランダ国王が幕府に国書を送り、開国忠告したのが |
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