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文政十亥年風説書   1827年     視聴草第二集之六     解説に戻る

一当年来朝之阿蘭陀船二艘六月八日咬留巴一同出帆
 仕、海上無別状今日一艘御当地着岸仕候、跡船之儀ハ
 日数八日程類船仕、其後見放候得共、無程入津可仕
 奉存候、右二艘之外類船無御座候
一去年御当地より帰帆仕候船二艘共十二月廿四日海上
 無別状咬留巴着船仕候


当年来日のオランダ船二艘6月8日バタビアを同時
に出帆し、海上以上無く本日一艘長崎に到着した
後船は当初8日程一緒で其後見失なったが、
間もなく到着する事と思われる。 この二艘以外に
仲間船はない
昨年長崎から帰帆した船二艘は12月24日海上異常
なくバタビアに到着した。 

注:オランダ風説書日付は西暦を旧暦に変換して
 ありバタビア出発6月8日は1827年7月1日で長崎
 到着は閏6月3日なので1827年7月26日となる。 
 帰国の出発日不明だがバタビア帰着1828年2月
 9日となる
一印度辺ハ何方も静謐ニ有之候得共、欧羅巴州之内
 フランス国アンゲリヤ国イスパニヤ国戦争差発候趣
 風聞有之候、乍然結定之儀ハ未ニ相分り不申候
一暹羅王より商法為取組、咬留巴表江使差越申候
一ペルシャ国よりリエス国へ押寄候得共、リエス国大ニ
 得勝利、ペルシャ国人敗走仕候
一トルコ国都コンスタンテイポトレンニおゐて、諸士之
 内一揆相発候とも、国王速に相鎮申候


東インド付近は静かであるがヨーロッパの諸国の
フランス、イギリス、スペインの間で戦争が起ると
いう情報もあるが今のところ明確でない

暹羅(タイ)王が交易の為バタビアに使いをよこす

ペルシャ国よりロシア国に攻込んだがロシアが大
勝利を得て、ペルシャ軍は敗走した

トルコ国の都府コンスタンチノープルで軍隊内で
反乱があったが、速やかに国王が鎮定した。
一此節於洋中唐船見掛不申候
  右之外相替儀風説も無御座候


今回航海中中国船は見掛けなかった。
以上の外変った情報はない。
           かひたん
            ケレマインエリツキスイメラント
 右之趣今日入津仕候船頭阿蘭陀人申候かひたん承り
 申上候通、和解仕差上申候、以上
       寅 閏六月三日    通詞目付 
                     大小通詞
   商館長
       ヘルマン フェリックス メイラン
 上記本日入港のオランダ船長が語るのを商館長が
 聞き報告したので和訳申上げる
     文政10年閏6月3日  (1827年7月26日)
                  通詞目付
                  大小通詞

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te04                                           解説に戻る
 阿蘭陀船入津通詞口上書
 天保四巳年六月十一日長崎ヘ入津之阿蘭陀壱番船彼国風説書  (1833)天保雑記第四冊

一当年来朝之紅毛船壱艘五月六日咬瑠吧出帆、海上無
 別条、今日当着岸仕候、右壱艘之外類船無御座候

一去年御当地より帰帆仕候両船同十一月十六日咬瑠吧
 江着船仕候
当年来日のオランダ船一艘5月6日バタビアを出帆
海上異常なく本日(6月11日)長崎に到着した。 
この一艘以外の仲間船はない。

昨年当地より帰帆した二艘の船は11月16日に
バタビアに到着した。

注:バタビア
 現在のインドネシアのジャカルタ。 17世紀初期
 からオランダ東インド会社の本拠があり、日本
 へのオランダ貿易船はバタビアと長崎を往復
 1799年に同会社は解散となり、以後同所で
 東インド政庁が引き継ぐ。
一トルエ国トエシト国ト戦争差発、トルエ国敗軍仕候

一去年も申上候フランス国之内ブラハト申所阿蘭陀配下ニ
 致置候処、国法相背候ニ付義絶仕候段申上候、フランス
 国、エケレス国和平致取扱候得共、紅毛国王承引不致
 夫より両国之軍船海上ニ出張、咬瑠吧より本国へ往来之
 阿蘭陀商船奪取、右取扱承引致候上ハ右船預ケ置候段
 申立、質ニ取、理不尽之取計ニ而相妨候趣ニ付、当
 正月下旬以来本国より左右有之候迄、咬瑠巴より本国
 江之通路見合罷在候

一ホルトア国王跡式相続之義ニ付、兄弟相争及合戦候
トルコとエジプトの戦争が勃発し、トルコが敗れた

昨年も報告したがフランス内ブラバンドはオランダ
の支配下にあったが、条約に背いた故断絶した。
フランス及びイギリスは承認したがオランダ国王は
同意しない。 それ以来仏・英両国の軍艦が出動し
バタビアとオランダ本国を往復する商船を拿捕、
オランダが和平を認める迄船を質に取るとの事で
斯かる理不尽に対し、本国から情報が有るまで、
今年正月下旬以来バタビアから本国への航海を
見合わせる事にした。

ポルトガル国王の後継を巡り兄弟で争い、内戦に
発展した。

注1 トルコーエジプト戦争 1831年-1833年
 エジプトはオスマン帝国〔トルコ)の属州だったが
総督ムハンマドアリは近代化を進め、宗主国トルコ
とも争い勝利して半独立を勝ち取る
注2 ベルギー問題
ブラバンド〔現ベルギー)はウィーン体制の下で
オランダの支配下になったが、1830年オランダから
独立革命を起し翌年レオポルド一世が国王となる。
注3ポルトガル内戦
ポルトガル王の継承に関する兄弟の戦争であるが
議会もからみ、立憲君主制か絶対君主制かの
争いで長期化する〔1828-1834)
一インド辺格別相替儀無御座候
一此節於台湾辺、唐国へ向乗渡申候壱艘見掛候得共
  当地通商之船ニハ相見へ不申候
オラン領東インド辺りは特に変った事はない

此度台湾辺で中国に向う船は一艘見かけたが
日本へ交易船とは見えなかった
  右之通和解仕差上申候
   巳六月
                 カヒタン
                  ハンシロトス
                   大小通詞
天保4年6月11日(1833年7月27日))
        商館長 ファン シットルス
             大小通詞連名

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te05                                       解説に戻る
天保五午七月  風説書1 834年          天保雑記第六冊   
五月廿五日出船、六月廿九日迄日数三十五日経入津
阿蘭陀船咬瑠吧出し人数55人内44人阿蘭陀人、拾人黒坊                  

一当年来朝之阿蘭陀壱艘五月廿五日咬瑠吧出航仕候
 處、台湾辺より風並不宜、既ニ七八日已前より御当国
 地方見掛申候得共相漂ひ罷在、海上無別条今日
 御当地着岸仕候、右壱船之外類船無御座候
一去年御当地より帰帆仕候船十一月廿三日海上無
 別条咬瑠吧着船仕候


当年渡来のオランダ船一艘は5月25日バタビアを
出帆したが、台湾付近より風向きが悪く、既に7-8日
前より日本の陸地を見て居たが海上を漂い、事故
無く本日(6月29日)到着した。 此一艘以外仲間
船はなし

昨年当地より帰帆した船は海上事故なく11月23日
にバタビアに到着
一去年申上候フランス国之内ブラパントと申所、阿蘭陀
 配下ニ致置候處、国法相背候ニ付義絶仕候段申上候、
 末サクセンコーペルリ
地名の国王レヲポルト人名右ブラ
 パント自立之王と成に、右ニ付而双方の規則相立様に
 専ら取扱ひ有之、右レヲポルトはエゲレスのカルロツタの
 寡夫にてブラパントの王と成る、而後フランス王ミロライス
 ヘリツペの娘ロイセと再婚仕候

一イスパニヤ国ヘルデイナント第七代目之王死失候後、
 其王之遺言に付て五才ニ成る実女、ドンナイサペルラを
 女王となし、其王の寡婦を右女王之年輩に成る迄後見
 に致置所、其死する王之兄弟なるドンカルラス王位を
 嗣んとて争ひ起り、終には国中乱の場と相成申候

一南亜墨利加州之中ブラシリ国王のドンペトローといふ位
 を辞したる王の娘ドナマリア、右ベトローの後見を請て
 ポルトカル国の女王位をリツサホントいふ所において
 嗣けり、然るにドンベトローの兄弟なるドンミキユウ
 エールいふ者彼ポルトカル国王の位を取らんとて己が
 勢ひ殆衰ふ事をも不厭して今に其位を争ふ、夫故に
 ホルトカル国中不穏儀ニ御座候


昨年報告したフランスの内ブラパンドをオランダの
支配下においていたが、国法に背いた為に断絶
した事は申上げた。 サクセンコーブルクの国王
レポルドがこの独立したブラパンドの王となるので
条約作成している。 レオポルドはイギリスの
シャーロットの寡夫でブラパントの王となり、後に
フランス王ルイフィリップの娘ルイーゼと再婚した。

スペインの王フェルデナント七世の死去の後、王の
遺言で五歳の娘ドンナ・イサベルを女王とし、王の
寡婦を女王が成長する迄の後見とする。 ところが
王の弟ドンカルロが王位を継ぐべき、と争いが起り
国中混乱している。 

南アメリカのブラジル国王のドンペトローはポルトガル
王の位を辞退、同王の娘ドナマリアがこのベトローの
後見を請てポルトガル国の女王位をリスボンと
云う所で継承した。 しかしドンペトローの弟であるドン
ミゲルがポルトガル王の位を主張して争う。 
夫ゆえポルトガル国中が混乱している。


1.レオポルド一世 ベルギー国王
2.シャーロット: イギリスのジョージ四世の娘
3.ブラバンド又はフランダースは元来オランダの
 支配下にあったがこの時独立してベルギーとなる

一エゲレス国におゐてはブリスト或ハ其地の所々に於
 一揆起り国制を改んがため支配に逆ふ、今専ら評議
 中ニ御座候

一ヲロシア帝王ニコラース人名ポローニヤ国を攻取兼領
 す、然ルニポローニヤの高位高官の人々発起せし故、
 軍兵を以これを誅罰しヲロシアの旗下に亦々帰伏させ
 しめ、数多のポロニヤ人をシペリヤに追放致候

一厄日多国の小王トルコ国の帝に和睦之取究に付て無理
 押をしたり、然れとも矢張其国のヲツプルヘール
官名
 成し置申候
一爪哇(ジャワ)其他近方に在る印度之諸国去年地震
 甚敷津浪之患有之、人多ク損シ申候


イギリスではブリスト他所々で騒動が起っており
これは制度を改革しようと支配者に逆らっているので
今専ら対策を検討中

ロシア皇帝ニコライ一世はポーランドを併合するが、
ポーランドの有力者達が反旗を翻したので、軍を
出動させロシアの支配下に置く。 多くの
ポーランド人がシベリアに流刑となった。

エジプトの小王(ムハンマド・アリ)はオスマントルコ
の皇帝との和睦の交渉に際して、無理押しをしたが
トルコは彼を矢張りエジプトの支配者として据置く。

ジャワ近辺のインド諸国で昨年激しい地震があり
津波の患いもあり、多くの人命を失った
一去年申上候咬瑠吧より本国江往来之船留メ、元之通
 通路相開申候

一此節於台湾辺唐船壱艘見掛申候

一去巳年帰帆仕候へとるよはんねすえるていんにいまん
 儀此度新カヒタン申付古かびたんと交代致候様申付
 越候

昨年報告したバタビアよりオランダ本国への往来の
航海中止は解除となり、元通りとなった。(注)

この度台湾付近で中国船を見かけた

昨年帰帆したヘトル〔事務長)のヨハンネス 
エルドウィン ニーマンが此度新商館長として、
前商館長と交代を申し付けらる

注: ブラバント地方がフランスの支援で独立して
ベルギーとなるため、オランダとフランスの間が険悪
となり、オランダ船がフランス海軍に脅かされる事
になったため船留めをしていた



  右之外相替候風説無御座候
          古かひたん
            はんしつとるす
          新かひたん
            よはんねすえるてういん
                   にいまん
天保5年6月29日〔1834年8月4日)
    前任商館長 ファン シットルス
    新任商館長 ヨハネス エルドウィン ニーマン

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te10                                          解説に戻る
天保十年己亥六月廿四日入津、風説書 1839年    出典蠧余一得四集巻一 和蘭新聞紙

一当年来朝之阿蘭陀船一艘五月廿日咬留巴出帆仕、
 海上無別条今日御当地着岸仕候、右一艘之外類船
 無御座候
一去年御当地より帰帆仕候船十月廿二日海上無滞
 咬留巴着船仕候
今年来日のオランダ船は一艘5月20日バタビアを出帆
し、海上別条なく今日長崎に到着した。 此一艘意外
に連れ船はない。
去年長崎から帰帆した船は10月22日に海上で遅滞
なくバタビアに到着した。
一ドイツ国之内オーステンレイキの帝ロンバルテイス
 
ヨーロッパ州之内 及へねチヤ同上を兼領仕候
一ドイツ国ニ有之候エゲレスの領地ハンオーフルの儀
 者エゲレス国王之没後、当時キュンブルランド侯の支
 配となり申候、此侯者早没たるエゲレス国王の第三
 男ニ御座候
一去年申上候イスパニア国の戦争今以平和ニ相成
 不申候、尤其余欧羅巴諸州穏ニ御座候
ドイツ国の一員であるオーストリア帝はロンバルディア
及びベネチアを領有した。

ドイツ国の中にある英国領のハンブルグは英国王の
没後、現在キュンブルランド侯の支配下にある。
この侯は早没した英国王の第三男である

去年報告したスペインの内戦は未だに終了しないが
それ以外の欧羅巴各国は平和である
一メキシコ南アメリカ州之地人等フランス国之幟を奪取候
 に付、夫を取返さんが為に戦争差発、フランス人等
 メキシコの港口数多之軍艦ニ而取囲、其末ヘラキュ
 ルスといへる城邑を大砲を以打懸ケ終に奪取申候
一去年申上候アメリカ州之内エゲレス国の配下カナダ
 と申所之一揆今以静謐相成不申候
メキシコ人等がフランス国旗を奪い取った事で、夫を
取り返そうと戦争になった。 フランスはメキシコの
港口を多くの軍艦で取囲み、ヘラキュルスという城を
大砲で攻撃し終に奪い取った。

昨年報告のアメリカ州内のイギリス支配下にある
カナダで反乱が起き、未だ鎮静化していない
一於広東エゲレス国人等之阿片密売するを禁ぜん為、
 官府より令尹を差越して其地に貯ふる所之阿片を隠
 不置悉皆可差出旨の厳命あり
 依之是を貯ふる欧羅巴人等大ニ窮苦せり、其末於
 支那国都ニても阿片を用ふるものありと聞ハ、執れも
 刑に行ふへき旨之命令あり、其中ニ者此命令を犯せし
 者は厳科に処せられ候趣ニ御座候
広東ではイギリス人が行う阿片密売を禁止する為に
朝廷より欽差大臣を派遣して、隠匿する阿片を全て
提出する様に厳命があった。 
是により阿片を貯蔵するものは非常に苦境に追い込
まれた。 更に中国国都でも阿片を使う者がいると
聞けば何れも刑に処する旨の命令があった。
其の中で此命令に反したものは厳罰に処せられる
事になる。
一去年申上置候和蘭国王之孫軍艦ニ乗して咬留巴表
 江着船之後、諸島遍歴して終ニ去年之暮無恙
 和蘭本国江着船仕候
一フランス国王之嫁一男子を産、其子フランス国之嗣子
 に相成申候

一此節於台湾辺唐船弐艘見請候得共、御当国江
 通商之船とハ相見不申候 

 
 右之外相替候風説無御座候
去年報告したがオランダ国王の孫が軍艦でバタビア
に到着した。 その後各地廻り昨年暮、無事本国に
帰帆した。

フランス国王の妃が男子を出産し、その子がフランス
国の跡取りとなる。

今回台湾付近で中国船2艘見掛けたが、日本との
通商船とは思われない

外には変った事はない
           かひたん
            しでゆあると
              がらんどそん
 右之趣今日入津仕候船頭阿蘭陀人申口かひたん
 承り申上候通和解差上申候以上
   亥 六月廿四日   岩瀬弥十郎
                楢林栄三郎
                岩瀬弥七郎
       商館長
         エデユアルト グランディソン
 今日入港の船長の報告を商館長が聞き、報告
 あったので邦訳して提出する
     天保10年6月24日   岩瀬弥十郎
                   楢林栄三郎
                   岩瀬弥七郎

                          解説に戻る
 


















te11                                          解説に戻る 
庚子七月朔日阿蘭陀船入津風説書    天保11年 1840年     天保雑記50冊

一当年来朝之阿蘭陀壱艘六月九日交留巴出帆仕、
 海上無別条今日当地着岸仕候、右一艘之外類船
 無御座候
一去年御当地より帰船仕候船、十一月十日海上無滞
 交留巴着岸仕候

当年来日のオランダ船一艘6月9日バタビアを
出帆し、海上事故なく本日〔7月1日)到着致した
この一艘以外の仲間船はない

昨年長崎を立った船は11月10日海上事故なく
バタビアに到着した
一ヲロシヤ国嗣子アレキサントルニコラウイツ、和蘭国を
 通行し、其節国王江見舞立寄申候
一エケレス国王之娘フィキトリヤといへる人女王ニ立申候

一和蘭国王之嗣子ウニルデンブルグ国名之女王ソフィヤ
 と縁組仕候
一トルコ国帝辞世、嗣子位ニ即申候
一デーねマルク
国名之王辞世、嗣子位に即申候
一右エケレス国之女王、サクセンマイフェルクユツタ
国名
 之王子を婿に取申候

ロシヤ皇太子アレクサンドル・ニコライはオランダ
を通過し、その際国王に面会した

イギリス国王の娘ヴィクトリアを女王に推戴した

オランダ国皇太子はウィンデンブルグ国の女王
ソフィアと婚約した

トルコ皇帝死去、皇太子が即位した
デンマークの王死去、皇太子が即位した

イギリス女王はザクセンコバーグの王子を婿に
取る
一和蘭国之支配東印度奉行エーレンス病死仕、デンカ
 ラーヘフリンホケントルブ跡役ニ相成申候
一唐国ニ而エゲレス人ニ無理非道之事共有之候所より
 エゲレス国より唐国江師を出し、エゲレス国は勿論、
 カアプデホプ(アフリカ州之内)及び印度エゲレス国
 之領地ニ而専ら兵を揃へ唐国に報せんと仕組御座候

オランダ領東インド政庁の総督エーレンスが病死
したのでホーゲントルプが後継した

中国ではイギリス人に対し無理非道ありとの事で
イギリスでは軍隊を中国に発し、イギリスは勿論、
ケープタウン(アフリカ)及び英領インドで兵を整え
中国に報復を準備している

注:アヘン戦争の勃発前夜
。 

一右申上候外印度辺相替候義無御座候
一於台湾辺、唐船七艘見掛候へ共、御通商之船ニ而
 無御座候、且右之辺ニ欧羅巴州之船二艘見掛申候、
 右者エゲレス船共ニ者無御座候哉ニ察申候
一右之通船頭・ヘトル阿蘭陀人申口承り申上候


上記以外インド付近で変った事はない
台湾辺で中国船を七艘見かけたが通商の船では
無いと思われる。 又ヨーロッパの船二艘見かけ
たがイギリスの船ではないかと思われる

上記はオランダ船船長及び事務長の口述を報告
         カピタン  エデユアルト カランドウン
  右之通和解差上申候
    子七月朔日
    商館長 エデュアルト グランディソン
   上記和訳
      天保11年7月1日 〔1840年7月29日))

                      解説に戻る










te13                                         解説に戻る
壬寅和蘭風説書         天保十三年(1842)      天保雑記50冊

一当年来朝之阿蘭陀船弐艘、五月十八日交留巴一同
 出帆仕海上無別条、今日御当地江着岸仕候、右弐艘
 之外類船無御座候
一去々子年、御地より帰帆候船十一月十一日無別条、
 交留巴着船仕候
一昨年御当地江向、五月廿二日交留巴出帆仕候處、
 台湾ニ而大風ニ遭、帆并端船弐艘被吹取船具悉ク損シ
 本船動揺仕候付、水船ニ相成既水深く凡五尺程ニ及び
 凡弐万斤程之砂糖浸し候程之儀ニ而、其余楫之方より
 今三尺程水相増、工合悪敷候故、覆申候儀を恐れて
 カキニ乗入候上、荷物取楫修復相加へ可申決心仕候
 然處右修復之料ニ差支候付、右荷物之内、大半雑費に
 売払候、右等之儀ニ而、旬季後レニ相成、御当地へ
 乗渡之義出来不申、終に去九月廿四日彼地より乗帰
 申候、然處又々洋中ニ而大風に遭、帆柱等も吹折大
 難渋仕、漸く十一月六日迄日数四十一日を経交留巴
 へ帰帆仕候


当年来日のオランダ船2艘、5月18日バタビア
を一緒に出帆し、海上事故無く本日〔6月19日)
長崎に到着した。 この2艘の他に仲間船はない

一昨年当地より帰帆の船は11月11日事故なく
バタビアに到着した

昨年日本に向け5月20日バタビアを出帆したが、
台湾で大風に遭い、帆やハシケ2艘が吹き飛ば
され船具も全て失い、船も動揺して浸水も5尺に
及び、凡そ2万斤の砂糖が水浸しとなり、更に楫の
方からも三尺程浸水し状況は悪くなった。 転覆を
恐れてマカオに乗り入れ荷物を取り去り、楫の
修復を決めた.
従って修復代を支払うため荷物の大半を売払った。
以上の訳で日本へは既に時期遅れで航海できず、
昨年9月24日当地帰帆した。 ところが又大風に
遭い、帆柱も折れ苦心惨憺で漸く11月6日、41日目
にバタビアに帰帆した。

通常は一艘だが此年に二艘きているのは前年
上記理由で渡来できなかったためと思われる。

一阿蘭陀国王、位を太子ニ譲申候
一フロスの国王死去、太子国王ニ相成申候
一エケレスの国の女王ノ乗候車へ対、短筒二挺打掛候者
 有之、已危キ場合ニ及び候義ニ御座候
一エケレス国ノ女王、男子を産申候
一イスハニヤ国王、政事を其娘ニ譲申候
一イスハニヤ国今以静謐相成不申候
一フランス国ノ所々ニおいて、徒党を催シ候へ共速ニ静
 申候、然ルニ其国王并王子之命も然り候義も有之候得
 共、追々及露見申候


オランダ国王は位を太子に譲った
プロイセン国王死去、太子が国王になる

イギリスの女王が乗る馬車にピストル2挺打掛た者
があり危ない所だった。
イギリス女王が男子を出産した

スペイン国王は国政をその娘に譲った
スペインでは未だに混乱が続いている

フランスの所々で暴動があったが直ぐに
鎮まる

一唐国とエゲレスとの戦争、今以(不)穏候、去々子年
 より之儀者追々別段ニ申上候
一昨年来アフニスタン、エケレス支配ノ印度地、右之国民
 等エケレス国より差越候支配対し一揆を起し、エケレス人
 数多殺害致し、右之始末ニ而及戦争、自今静ニ不
 相成候
一東印度有之阿蘭陀領地何れも静謐御座候


中国とイギリスの戦争は今も穏やかにならない。 
一昨年以来の事は追って別段に報告する

昨年来アフガニスタン(イギリス支配インドの地)では
国民がイギリスの支配に対し反乱を起し、イギリス人
多数を殺害した。 此のため戦争が起り今の所
治まっていない。

東インドのオランダ領では何れも静謐である。


アヘン戦争 1840年6月28日ー1842年8月29日
此風説書が提出された頃は終わっている。 此年
からアヘン戦争の詳細を報告する為、別段風説書
が提出されるようになったと云われている。 

一台湾辺ニ而唐国ニ通ひ候船三艘、欧羅巴船弐艘見掛
 申候、右等エケレス船ニも候やと奉存候
一弐番船ニ新かひたん乗渡り申候
    右之外相替り候風説無御座候


台湾辺で中国に向う船3艘、ヨーロッパ船2艘
見かける。 イギリス船と思われる

二番船で新商館長が赴任した
壬申六月十九日   古かひたん
                 えてゆあると・カランテソン
               新かひたん    
                 ヒイトカアルヘルトヒツキ
天保13年6月19日〔1842年7月26日)
   前任 商館長  エデュアルト グランディソン
   新任 商館長  ピーター アルバート ビック

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te14                                    解説に戻る
天保十四年癸卯七月九日入津蘭船風説書
  1843年    出典蠧余一得二集巻四和蘭風説

一当年来朝之阿蘭陀船一艘六月五日咬留巴出帆、海上
 無別条今日御当地着岸仕候、右壱艘之外類船無御座候
一去年御当地より帰帆仕候船弐艘十一月十二日海上無
 別条咬留巴表着岸仕候
当年来日のオランダ船一艘6月5日バタビアを
出帆し、海上事故なく本日〔7月9日)到着した
この一艘以外の仲間船はない

昨年長崎を立った船は11月12日海上事故なく
バタビアに到着した
一フランス国嗣子乗車より落、煩ひ終ニ相果申候
一七月廿七日唐国とエケレス人和睦相整申候
一阿蘭陀国王之娘サクセン国名嗣子ウェイマルエイセナ
 クト婚姻取組申候
フランスの太子は馬車より落ち、それが元で死去
した。
7月27日清国と英国は和睦が整った
オランダ国王の娘はザクセン国の太子、ウェイマル
エイセナクトと婚姻が成立した。
一台湾辺ニ打揚候エケレス船弐艘を 唐人共破却し、乗組
 之者を殺害致候ニ付、エケレス軍船を差遣し始末相糺、
 奉行所江訴候処、唐国帝より早速厳命を以て台湾奉行
 を召捕、唐国江呼越、吟味之上可処厳科旨御座候
一此節於洋中唐船見懸不申候
 右之外相替候風説無御座候
台湾辺に漂着したイギリス船2艘を中国人が破壊し
乗組員を殺害した件で、イギリスは軍艦を派遣して
調査して清朝政府の報告した。 清国帝より厳命が
あり台湾の清国総督を逮捕し、取調べの上処罰した

今回途中で中国船は見掛けなかった。

外に替わった情報はない。
右之通船頭阿蘭陀人申口承申上候
    かひたん
            ビットルアルベルトピッキ
右之通和解差上申候、以上
    卯七月九日        通詞
以上オランダ船船長の報告を聞いて申上げる
        商館長
           ピーター アルバート ビック

以上邦訳して申上げる
   天保14年7月9日       通詞
    〔1843年8月3日)

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te15                                      解説に戻る
天保15年 風説書  (1844)             天保雑記第56冊
天保十五年甲辰渡来之阿蘭陀船より差越候横文字書翰和解
   船頭之名   セハリース
   船之名    スタットテイール
     大サ四百七十ラスト  *一ラスト=二トン
   類船之有無  無御座候
   交留巴出船  五月十五日
   役掛り之名  ナルフ
   渡来り之有無 ビツケル
  右之通和解差上申候
    辰六月十五日   小川
                志筑

一去年御当地より帰帆仕候船、日本地方之内ニ而大風
 ニ逢ひ、本船大ニ動揺仕候而喰入漏強く候間、唐国
 之内ホンコン地名地方入レ修復相加申候、右之仕合
 ニ而漸去十二月廿一日交留巴着船仕候
一当年来朝之阿蘭陀船一艘、五月十五日咬留巴
 出船仕、洋上無別条今日御当地着岸仕候、於洋中
 外国船并唐船見掛不申候

昨年長崎より帰帆の船は日本の陸地近辺で大風に
遭い、本船は大揺れで浸水が酷く、香港に立寄り
修理を行った。 そのような訳で漸く12月21日
バタビアに到着した。 

当年来日のオランダ船一艘は5月15日バタビアを
出帆し海上異常なく、本日(6月15日)長崎に到着
した。 途中外国船や中国船は見掛けなかった

注: 昨年の帰国船は通常より約一ヶ月送れ
一エケレス国女王為見舞、フランス国王并ヘルキト国王
 方へ参候
一阿蘭陀先国王去十一月死去仕候
一オロシヤ国帝、ブロイス国王方江為見舞参り申候
一イスパニヤ国中之一揆静謐ニ相成申候、イサベルテ
 と申国女王子女王ニ即位仕候


イギリス女王は表敬でフランス国王並びベルギー
国王を訪問した。

オランダ国王は去る11月死去した。

ロシア皇帝がプロイセン国王を表敬訪問した

スペインの内乱は終息してイサベルが女王として
即位した
注: イサベル二世の即位1843年、13歳。 5歳で
 前王の後継と遺言されたが、継承争いの内戦
 (カルリスタ戦)、それに続く保守派、進歩派の
 クーデターなど経て、この年に正式即位
一フランス国より唐国江使節差越、軍船挽連候
一唐国とエゲレス国との一件是迄追々申上候、末々
 模様ハ別段相認差上申候
フランスから中国へ使節が軍艦を率いて渡来した

中国とイギリスとのアヘン戦争後の状況は詳細を
別段で提出する
 かぴたん 
              ひいとまあるへると
                   ひつき
   右之通船頭并へとる阿蘭人申候、かひたん来り
   申上候ニ付和解差上申候
  商館長
     ピーター アルバート ビック
  
 以上船長並びに事務長より報告あった、と
 商館長より報告あったので和訳申上げる

天保15年6月15日(1844年7月29日)

注: 天保15年は12月2日弘化に改元 

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te15b                                          解説に戻る
 天保十五辰年六月別段風説書      1844年   天保雑記第56冊  

 和蘭第八月上旬皇国六月十八日ヨリ七月二日比迄ニ当る 
 和蘭国王之フレカツト
軍船ノ名パレムバンク船号又者
 コルヘツト
軍船ノ名ボレアス船号又者其他国王所持之
 船之内、然者当節和蘭国王より御国ケイズル
帝ト訳ス
 是ハ彼国ヨリ公方様ヲ 申上ル
 に奉捧書翰を差越候船ニ
 御座候、此書翰差越候儀
 御政道御為ニも可相成候事故可申上義ニ御座候
 右書翰者阿蘭陀商売筋ニ拘候義聊無之哉ニ奉存候
西暦1844年8月(和暦6月18日から7月2日)に
オランダ国王のフリゲート艦パレンバン号又は
コルベット艦ボレアス号、又はその他の国王所有の
船により、此度オランダ国王より貴国王(将軍)に
差上げる書翰を送る。 此書翰は貴国の政治に
役立つ事を申し上げるものである。 尚この書翰
はオランダの交易に拘わるものではないと存じる

    辰六月         カヒタン
                 ひいとる あるへると ひつき
 天保15年6月(1844年7月)  
    商館長
     ピーター アルバート ビック

 

                           解説に戻る

















ko02                                          解説に戻る
弘化二年乙巳六月廿日入津蘭船風説書 1845年         出典 蠧余一得第四集巻一

一当年来朝之阿蘭陀船一艘五月廿六日咬留巴出船仕、
 海上無別条、今日御当地着岸仕候、於洋中外国船
 其外唐船見懸不申候
一昨年九月廿九日御当地より帰帆仕候商売船、十月廿七
 日海上無滞、咬留巴着船仕候
一昨年十月十八日御当地より帰帆仕候本国仕出シ船
 パレムバンク
船号十一月十八日海上無滞、咬留巴表江
 着船仕、当年二月朔日同所より本国表江向ケ出船仕候
当年来日のオランダ船一艘5月26日バタビアを
出帆し、海上べ別条なく本日〔6月20日)到着致した
途中海上で外国船や中国船は見掛けなかった。

昨年9月29日長崎を立った交易船は10月27日海上
遅れなくバタビアに到着した。

昨年10月18日長崎より帰帆した本国船、パレンバン
号は11月18日滞りなくバタビアに到着し、今年2月
1日オランダ本国に向け出帆した。


パレンバン号: オランダ国王の国書を長崎に運んだ
軍艦
一ねードルランツセインディ和蘭領印度地の都督メルキュス
 
人名昨年六月十九日死去仕候
一和蘭国王彼地都督とミニストル
官名を相勤候ロギュスセン
 
人名に申付候
オランダ領東インドの総督メルキュスは昨年6月19日
死去した。
オランダ国王は後任総督に国務大臣である
ロギュセンを任命した。

オランダ東インド総督
Pieter Merukus 1841-1844 
Jan Rochussen 1845-1851
一魯西亜国帝の第四女ゴロートフォルステイン官名アレキ
 サンダラーニコラウナー
人名儀ヘツセン国名のプリンス官名
 フレデレッキ
人名のゲマール内室の義 昨年和蘭第八月
 死去仕候
一フランス国王、見舞としてエゲレス国王方江参り申候
一魯西亜国帝見舞としてエゲレス国王并阿蘭陀国王方江
 参り申候
ロシア皇帝の第四子〔第三女)アルクサンドラ・
ニコラエウナ大公女はヘッセンカッセルのフレ
デリッキ・ウィリアムの内室だが昨年、1844年8月
死去した。
フランス国王はイギリス女王を訪問した。
ロシア皇帝はイギリス女王及びオランダ国王を訪問
した

フランス国王 ルイ・フィリップス
イギリス女王 ビクトリア
ロシア皇帝 ニコライ一世

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ko03                                            解説に戻る
弘化三午年(1846年)オランダ風説書          弘化雑記第7冊
阿蘭陀船交留巴出壱艘、人数四拾三人乗組昨廿一日申ノ刻入津仕候 

一当年来朝之阿蘭陀船壱艘、閏五月廿一日交留巴出船
 仕、海上無恙参今日御当地着岸仕候、右壱艘之外類船
 無御座候
一去年御当地より十月三日帰帆仕候デンユルスホウト船号
 日数廿七日経、海上無恙参十一月朔日交留巴着船仕候
 於洋中唐船見掛不申候趣、唐国江罷越候欧羅巴之
 蒸気船壱艘、且阿蘭陀国領地辺ニおいて欧羅巴之商船
 数艘見掛申候
一去年帰国之阿蘭陀船ヲ以、御差送ニ相成候江府より
 阿蘭陀国王江之御返翰、ブリッキ
軍艦之一種スワーリユ
 船号を以十一月四日阿蘭陀国江差送り申候、右軍船者
 カピタインロイテナンドテルゼー
官名エフセーベー
 ヘットホーフト
人名之支配ニ御座候、且又右御返翰、一同
 被下置候御品々十二月十三日フレガット
軍船一種
 ヤーソン船号を以差送申候、右船はカビタイン
 ロイデナンドテルゼー官名イーエフボウリフシユース
人名
 之支配ニ御座候

当年来日のオランダ船一艘閏5月21日バタビア
を出帆し海上異常なく、本日〔6月21日)長崎に
到着した。 此船一艘だけで仲間の船はない

昨年当地より10月3日帰帆のデンユルスホウト号
は日数27日を経て、海上事故なく11月1日に
バタビアに到着した。 中国へ行くヨーロッパの
商船数艘を見かけた

昨年帰国のオランダ船が預った江戸からオランダ
国王宛の返書はブリック(軍艦)のスワーリユ号で
11月4日オランダ本国へ送った。 この船の艦長
はヘットホーフト中佐。 又返書と一緒に戴いた
贈り物は12月13日フリゲート〔軍艦)のヤーソン号
で送った。 此船の指揮は艦長のシューズ中佐

注: 2年前1844年にオランダ国王から将軍宛の
 親書(英仏の脅威と開国の勧告)に対する幕府
 の返書
一阿蘭陀国領地東印度ゴウフルニュールゼネラール
 
エムデーメルキユス人名之跡職、国王の令ニ依て、阿蘭陀
 領地東インド之ゴウフルニエールゼネラール官名オロプル
 ベフエルヘツブルファンデホルランゼー
エンランドマダーベ
 オーステンデカーブデグーテホーブ
官名ミエストルファンス
 タート
官名兼コロートコロイスデルオルデファンデンネード
 ルランツレーフ
官名イーエスロキュスセン人名去年八月
 廿七日、阿蘭陀国より交留巴江着船仕、即日フーセンシ
 デントフアンデンラトーワールネーメンデゴウフルニユール
 ゼネラ―ル
官名イーセーレンス人名より諸用引受申候

オランダ領東インド政庁の総督メルキュスの後継
として、国王の命でロキュスセンが昨年8月27日
バタビアに赴任した。 即日レンス氏から引継ぎ
を行った。


Gouveueur General 総督
Pieter Merkus 東インド総督在任1841-1844
Jan Jacob Rochusen 在任1845-1851
J C Reijnst 在任1844-1845 引継ぎ総督か?
Over Bevel-hebber van de Holland Zee en Land
Marcht Beoosten de Kaap 喜望峰以東蘭領海陸
軍総司令官
Minister van staat 国務大臣
一去ル辰年瓜哇江船々千七百六艘入津仕候、右之内
 千三百七拾五艘は阿蘭陀船ニ而三百三拾一艘ハ外
 国之船ニ御座候、同年瓜哇より千六百五拾八艘出船仕
 候、右之内千二百三十八艘ハ阿蘭陀船ニ而三百二拾
 艘ハ外国船ニ御座候
一去年五月廿九日アジヤ州中トルコ国之於港、大火
 有之、拾七時
日本八時半ニ当る之間家数五千軒焼失ニ
 及び、弐千四百万ギュルデン
日本拾五万貫目に相当る
 損失相立申候


2年前ジャワへの船は1706艘入港した。 この内
1375艘オランダ船で331艘が外国船である。 
同年ジャワより1658艘が出港し、内1238艘が
オランダ船、320艘が外国船だった

昨年5月29日アジア州トルコ国の港で大火が
あり17時間で5000軒の家を焼失し、2400万
ギュルデン(日本の銀15万貫に相当)の損害。
一去年六月頃阿蘭陀国王、エゲレス国江見舞候処、
 エゲレス国女王甚丁寧之餐応有之、エゲレス軍陣
 之フェルドマールシカルク
官名之礼を以取扱申候
一去年七月頃エゲレス国女王ドイツ国江見舞候、右途
 中レイン
地名河辺ニ而プロイス之国王待受、面会いたし
 帰路エゲレス国女王、フランス国王を暫時見舞申候
一北アメリカ之一致国之内クイヘッキ地名おいて出火有
 之、家数二千軒焼失致、九百万ギュルテン
日本凡五万
 五千貫匁ニ当
 損耗相立、又同国ニーウヨルク地名
 おいて家数百軒焼失いたし候
一去年十二月頃魯西亜帝イタリヤ国江見舞申候


昨年6月頃オランダ国王がイギリスを表敬訪問
したところ、イギリス女王の大変丁寧な饗応が
あり、元帥の取り扱いを受けた。
昨年7月頃イギリス女王がドイツを表敬訪問した
時、途中のライン河辺でプロイセン国王が待受け
面会した。 帰路同女王はフランス国王を短時間
表敬訪問した。

北アメリカのケベックで出火があり、2千軒の家が
焼失、900万ギュラン(日本5万5千貫相当)の
損失、又ニューヨークでも百軒の家焼失した

昨年12月ロシア皇帝はイタリアを訪問した
一去年五月廿七日より当正月下旬頃迄、唐国より茶
 左之高八拾一艘ニ積分欧羅巴江運送いたし候
  一黒茶 三千三百六十五万六千三百拾七ポンド
  一青茶 五百八拾万七千五百廿四ポンド
  〆三千九百四拾六万三千八百四拾壱ポンド
    此斤数凡三千三百万斤余
     但壱ポンド八合余ニ当ル
一当年正月廿一日薄明アトラント海シンヘレナ島名港ニ
 於いて海震有之、始之程ハ不烈候へとも、終夜次第ニ烈
 敷相成、翌日ニ至り船繋り致居候拾三艘之船、及破損
 陸手ニおいてハ損耗不少有之候


昨年5月27日より今年の正月下旬頃迄中国から
茶を下記の量を81艘の船でヨーロッパに運んだ
 黒茶 33,656,317ポンド
 青茶  5,807,524ボンド
  〆て39,463,841ボンド
   但し一ボンドは八合余に相当

当年正月21日夕暮、大西洋のセントヘレナ島港
で地震があった。 初めはそれ程激しくなかったが
夜になり次第に激しくなり、翌日になって13艘の
船が破損し、陸地でも被害は少なくなかった
一瓜哇近辺ニ有之候バリー島之近海ニおいて、ヒリリ 
 ング
地名之船と阿蘭陀国之船出会之節、旗を引揚候義
 ニ付出入有之、且同所国王ニも阿蘭陀国領地、東印度
 奉行所と申極有之候所、ヒリリング
地名之国王相背候ニ
 付、海陸軍之内一組ハリー島へ差向申候、右ハ全く
 是迄之主意を相立候為ニ御座候、夫故当年閏五月五日
 ハレイン村之東方ニ陣を構、其上船手之援兵有之、
 石火矢六十挺備有之候同所を責取申候、翌日至り
 右軍勢シンガレデイヤ
地名ニ赴、速ニ王の城邑を取篭、
 其後焼払申候、多分其王は纔之近習と共ニ山中ニ
 逃去候と被察候
一瓜哇中物静ニ御座候、此節交留巴より御当所江之
 洋中唐船見懸不申候
ジャワ近辺にあるバリ島の近海でヒリリングの船
とオランダの船が出会った時、旗を揚げなかった
事で問題が起った。 又同所の酋長とはオランダ
領東インド政庁との決め事もあったのに、これに
背いた。 これによって陸海軍の一隊をバリ等へ
派遣した。 これは全く是迄の約束を実行させる
為だった。 当年閏5月5日ハレイン村の東方に
陣を構え、海軍の援兵で大砲60挺備えた。 
ハレイン村を占拠した。 翌日軍勢はシンガレ
デイヤに赴き、王の城を取り囲み焼き払った。 
多分王は僅かの近習と山中に逃れたと思われる

ジャワ全体は静謐である。 此度バタビアから
長崎へ航海中中国船は見かけなかった。
              よふぜふへんりい
                   れいそん
   右之通船頭并へとる阿蘭陀かひたん承り申上
   候ニ付、和解差上申候以上
         午六月廿一日   通詞目付
                      本木昌左衛門
                  同   西  与一郎
                  通詞 楢林 鉄之助
                      森山源左衛門
                      植村 作七郎
                      中川索左衛門
                      西  記志十
                      志筑  龍吉
                      岩瀬 弥七郎
                      名村 貞五郎
                      横山  源吾
                      楢林 寛一郎


   ヨウセフ ヘンリー レフィスゾン

船長及び事務長より商館長が聞いて
報告したので、和解差上
   弘化3年6月21日(1846年8月12日)

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ko03b                         解説に戻る
弘化三年別段風説書
                             力石雑記より

一阿蘭陀国王において大度且武勇にして、至而堅固之
 生質に有之、勿論国中者安寧繁華弥
 盛ニ御座候
一国王、ミニストルアンスタート
官名にゴーフルゼネラール
 
官名を申付、其段領地東印度の政事を任せ申候

一バーリー
地名の国王等阿蘭陀領地東印度奉行所ニ対し
 軽率奇怪の取扱にて争乱を招くに相当候故、既ニ阿蘭
 陀方より数艘の軍船右征伐として彼地へ差向申候
一ロンボック
地名国主等右征伐道理に叶ひ候事を弁へ
 使者を遣し、加勢の事を申越候処、国中にて事足り
 候故、夫に及ハさる由礼を尽し申断候
  (オランダ国及びオランダ領東印度)
オランダ国王は偉大、且武勇に勝れ大変しっかり
した性格であり、当然ながら国は安定しており益々
繁栄している。

国王は国務大臣に東印度領の総督を命じて、
同所の政治を任せている。

バリ島の国王が東印度総督府に対して反抗的で
争乱の兆しがあるので、オランダ軍の軍艦数艘を
征伐のために派遣した。
ロンボク島の国王等は、上記に理解を示し協力を
申出たが、オランダ軍だけで十分であり、協力は
礼を尽して断った。
一アルゲリー地名において国主アフドカードル人名
 其地の軍勢、今二万の兵相増候由に有之候
一フランス国とエゲレス国と一致いたし兵をマダカスカル
 
国名の内タマターフエ地名へ差向申候、右者タマターフェ
 の女王、其地へ在住のフランス并エゲレス国の商人を
 故なく追放いたし候之処より差起り申候
一タマターフェ
地名の女王へ一体の駆引都合者その
 近辺に有之候エゲレス国の領地、マンテイラエス
島名
 ボウルホン
島名よりいたし候様所存有之由御座候

一フランス国の使者ラケンね
人名、唐国と申究に因て外国
 通商の五港にフランス人も渡海いたし候、但非常の節
 者右五港に不拘、唐国何方の港たりとも入港いたし
 不苦候様相成申候、将又フランス国との取究の援革左
 之通御座候
一フランス人自国の旗験をタヒチ
島名・エイモー島名に建
 て、右二島の防禦主と号し、其末其の島の人民と戦争
 におよひ申候、就而者マルキュイアス
地名に居住も不安
 意不勝手に御座候

     (フランス海外進出)
アルジェリアでは国王アブドラカーデルの軍勢は
2万人増加している

フランスとイギリスは協力して軍をマダガスカルの
タマターフェニに派遣した。 これはタマターフェ
の女王が同所に在住の英仏の商人を理由なく追放した事による。 
タマファーフェの女王に対する交渉は、近くにある
英領マンテイラエス島及びボウルホン島より行った


フランスの公使ラケンネと清国と条約を結び
外国向けに開いた五港にフランスも使用し非常の
場合にはそれ以外の港に入って良い事になった。

フランスはタヒチ及びエイモーの島に自国の旗を
建てて領有をもくろみ、島の人民と戦争を始めた。
その為マルキュイアスに居住は不安定である


マダガスカル: ポリネシア系のメリナ王朝が支配
していた。 この当時は女王ラナヴァルナ一世の
時代でありキリスト教弾圧を行っている。 1896年
にフランスが属国とする。
フランスー清国は英国ー清国の南京条約の後
黄哺条約を結ぶ
一港出入免許取究候前後、唐国においてエゲレス国の
 商法銀高左之通に有之候
 紀元一千八百三十一年取究前売渡荷物銀高
   九百二十三万六千二百二十三ドルラルス 
    一ドルラルスは日本銀拾匁七分五厘に当る
 同買入荷物銀高
   千三百十七万六千二百五十三ドルラルス
 同一千八百四十四年取究後、売渡荷物銀高
   二千三十五万六千五百八十ドルラルス
 同買入荷物銀高
   弐千七十六万五千五百十四ドルラルス
 右之外売渡候阿片并買入候金銀者有之候へ共組入
 無之候、右相加候得者倍の銀高相成申候

一広東において数度混雑の儀有之、其原因者唐国下輩
 之向、エゲレス人に市中在留差免し候儀を不平に思ひ
 若市中徘徊いたし候者其商館焼払ん事を企候故、
 唐国奉行より当午年二月十二日触書を以て取鎮申候、
 且又エゲレス方に唐国合戦雑用年賦弁納相済候上者、
 舟山を差戻し可申儀にて、舟山に出張の軍勢退陣の儀
 も港出入免許の時宜に拘候??に御座候
    (イギリスー清国関係)
阿片戦争による清国五港開港条約前後の
イギリスの交易銀高以下の通り
1831年開港以前の売上高  9,236,223ドル
     (1ドルは日本銀10匁7分5厘に相当)
           同買入高 13,17
6,537ドル
1844年開港以後の売上高 20,356,580ドル
          同買入高 20,765,514ドル
上記には阿片の売上高が含まれていないので
これを加えると倍の売上高になる。

広東では数度混乱が起きている。 原因は清国
の国民がイギリス人が市中を徘徊する事を嫌い、
若し彼等が市中を徘徊するなら、商館を焼払う
姿勢を見せている。 是に対し清国役所は当年
2月12日付で触書を出して鎮めた。
且またイギリスがアヘン戦争の賠償金を清国が
支払う迄の間という事で舟山を占拠しており、
イギリス軍の舟山からの撤退の時期もからみ
不満が高まっている。
一昨巳年九月頃エゲレスの蒸気船プシゲトン船号船頭
 ロス
人名、エゲレス国の領地印度の都督より交址国王へ
 差向候書状并音物持越申候、右者エゲレス船弐艘
 交址国の渚において難破致候節、仁情の取扱を受候
 礼を表し候儀ニ御座候
一右船頭ロス
人名交址国において種々丁寧の饗応有之
 交址国王よりエゲレス国王への書翰請取罷帰申候

一エゲレス国と東印度并唐国との通路にハ蒸気船弐艘
 相用、壱艘者エゲレス国よりアレキサンデイリ
地名
 一ヶ月に両度通ひ、又壱艘ハエゲイブテ
地名通路を
 いたし候様相極申候、右同様之仕法にてホンコン
地名
 唐国海并マニルラ
地名より交留巴迄阿蘭陀蒸気船を
 以て通路いたし申候、且呱哇と阿蘭陀所領東印度付属
 の諸島江定例之通路有之候
一エゲレス国の奉行所印度并唐国への蒸気船の通路を
 ニーウリイードアフレス
地名へも相広め申度所存有之候
 (イギリスのベトナム訪問、蒸気船定期航路)
昨年9月頃イギリスの蒸気船プシゲトン号の艦長
ロスは、英領印度の総督の使いとして、ベトナム
国王への書翰と贈り物を運んだ。 これは過去
イギリス船2艘がベトナム海岸で難破した際に
人道的取扱いを受けたことに対するお礼である
ロス艦長はベトナムで丁重な待遇を受け、同国王
よりイギリス女王宛ての書翰を受け取り帰る。

イギリスと東印度及び中国との定期航路便として
蒸気船2艘が投入された。 一艘はイギリスより
アレキサンドリアに月2回通い、一艘はエジプトと
の航路を通う。 同様の方法でホンコンからマニラ
経由ジャワのバタビア迄はオランダ蒸気船で航路
を確保する。 又ジャワとオランダ領東印度所底の
各島との定期便航路がある。

イギリスの当局はインド及び中国への蒸気船航路
をニューリードアフレスへも延長したい考えである
一エゲレス国の所領東印度の奉行所より配下の者数百人
 ボルねオ
国名の内北渚へ遣し、ボルねオ国よりラファン
 
島名を引渡候取究有之候、但此渚ハ阿蘭陀領地東
 印度の所領に無之候、且右之序北渚において海賊を
 平らけ、エゲレス船の為度々敗北いたし候、又ボルねオ
 国王、エゲレス国江ラブアン
前に有之 を相渡候取究
 に携り利を求候大臣共を悉く皆殺害いたし候
一フランス国の使者ラケンね
人名及ひフィセアトシラール
 
官名セシル人名にハシラン島名を譲り候儀、フランス国王
 は徳なりと存不申候
一ニーウゼーランド
国名において同国の住人とエゲレス人
 と闘戦たへす有之候
一エゲレス人サントウイス島を領候儀を国王ハ徳なり
 と存不申候
英領東印度の総督府より配下数百人をボルネオ
の北岸に派遣した。 ボルネオ国よりラブアン島を
引渡す取決めがあった。 但しこの北渚は元々
オランダ領ではなかった。 イギリスは序に北渚の
海賊を攻め海賊は度々敗北した。 一方ボルネオ
国王はイギリスにラブアンを渡す取決めに拘わり、
利をえた大臣達を皆殺しにした。

フランスの使節ラケンネと提督セシルにハシラン島
を譲る件でフランス国王は乗り気ではない。

ニュージーランドでは同国の住人とイギリス人との
争いが絶えない

イギリスがハワイ島を領有する事に同国王は賛成
していない
一エゲレス国の所領東印度都督、昨巳年十一月十五日
 高札にラホレ
地名の奉行所へ兵を向け候儀を触出申候、
 右者ラホレ
地名奉行所の兵、エゲレス領分を故なく押領
 いたし候故に有之候、依之同月廿日同廿三日同廿四日
 エゲレス国の兵とラホレ
地名の精兵合戦いたし候処双方
 ともに殊之外不利有之、乍去エゲレス国勝利ニ有之
 既ニ石火矢七拾九挺奪取申候、当午年正月三日再ひ
 戦候処、又々勝利を得、石火矢六拾七挺奪取申候、
 二月十五日にいたり勝負の決戦有之候処、エゲレス国
 の兵一万人ラホレ
地名を取かこミ、大将ハ領分に引取
 申候
英領インドの総督は昨年11月15日、高札を立て
ラホールの役所へ軍隊を派遣することを通告した
これはラホールの役所の兵が理由なくイギリスの
領地を占領した為である。 此後同月20日、23日
24日とイギリス兵とラホールの兵が戦ったが、 
双方共予想以上に苦戦した。 
しかしながらイギリス有利となり大砲79門奪い取り
今年正月三日再度戦い大砲67門奪った。
2月15日には最後の決戦がありイギリス兵一万人
がラホールを包囲し、大将は自領に退却した。


ラホーレ:パキスタン、パンジャーブ地方
一フランス国の日記に有之候者ステイルレソイドセーと
 印度海を通行いたし候に、パナマ
地名の地を越し蒸気車
 通道の術、或者カナール
掘割高畦の大きをいふ の方便に
 因て其事遂候仕組有之候、右用金の触出有之、蒸気車
 の道造入用千万フランケン
日本四十三万七千五百貫目に当る
 相懸候趣に有之候
   
  (パナマ地峡の鉄道、運河構想)
フランスの新聞によればステイルレソイドセーと
インド洋を通行するのに、パナマを越す蒸気車と
鉄道の技術、或は運河を掘削するかによって便利
にする方法があると述べている。 この為の費用は
一千万フラン(日本の437,500貫目の相当する)
掛るとの事である。
 アメリカ州の一致の国と唐国の取究略記左之通有之

一テキサス
地名の内メキシカー地名の属国、北アメリカ州
 一致の国の内に加り申候候、カリフヲルニー
島名は多分
 此振合に不相成、先年より北アメリカ州此島を領するの
 志有之申候
一コリユムビヤ河の北方に相当るオレゴン
地名の儀に付
 エゲレス国と北アメリカ州一致の国と出入有之候処
 右一件ハ争乱の基ニも可相成人々相思申候
   (アメリカ合衆国の事)
アメリカ合衆国と清国との条約概略は末尾に示す

メキシコの属国であるテキサスはアメリカ合衆国に
加わった。 カリフォルニアはこの通りにならず
以前よりアメリカ合衆国は此地を領有する意思が
ある。

コロンビア河の北方に当るオレゴンは、イギリスと
合衆国の争点であり、これは将来両国争乱の基
になると人々は考えている。
一魯西亜国奉行所においてカスピーゼー海名を乗渡とて
 蒸気船三艘打建申候、右者カウカシ
国名・ペルシー国名
 并ミロデラーシー
地名へ通路いたし候弁利に有之候
一ペルシー国王老衰いたし、嗣子後見の附議として
 魯西亜国へカスピゼー
海名に有之候属国の内一国
 相譲申候、此土地より許多の石炭出申候
一カウカキユス
地名のヘルグフラケン山住の人をいふ魯西亜
 に随従なしかね候人物と相見候へとも、先頃山林を
 焼払候、始末堪兼、止むことを得す山林中に逃込候
 者□□いたし候哉御座候
    (ロシアーカフカス地方)
ロシア当局はカスピ海の航海の為、蒸気船3艘を
建造した。 これはカフカス、ペルシャ、ミロデラ
シーとの通行を便利にする

ペルシャ国王は老衰により、 嗣子後見を依頼する
為、カスピ海にある属国の一つをロシアに譲った。
其土地から石炭が大量に産出する

カフカス地方の山岳民族はロシアに服従する事を
嫌っている。 先頃ロシアが山林を焼払ったので
止むを得ず山林に逃込んだ者達は□□かである


カフカス: コーカサス地方、チェルスク人が
ロシアへの抵抗勢力として此後も活動する
一北アメリカ州へ引越候トイツ人は年々五百人ツヽ相増、
 就中テキサス
地名へ引移候者数多有之候
一オーステンレイキ
国名において西紅海と地中海との
 通行にカナール
前に有之 を通候都合相成申候、
 エゲイブテ
国名のオンドルコーニングオンドルは下といふ義
 コーニングは王といふ義
も同意可致哉に候
     (スエズ運河構想)
北アメリカ州へ移住するドイツ人は年々500人
増加し、特にテキサスへの移住者が多い

オーストリアでは紅海と地中海の通行に運河を
通す事をエジプトの支配者と打ち合せ同意を
得ている。
一日本海の内琉球島江フランス国の配下之者居住之
 儀、又切支丹宗門を広め候義者フランス国執政官より
 沙汰いたし候と申事を兎角にあかし不申候
一アメリカ州のフレガット
軍艦の一種コリユンヒュス船号
 日本に罷越候由広東の日記に有之候、右者彼国の配
 下如何の取扱に相成候儀訴へ候為の趣に有之候、但
 此船者コマンドル
官名ヒユツドル人名の支配に有之候
一フランス国のフィセアドミラール
官名セシルシ人名軍船
 二三艘一同、日本に罷越候由噂有之候
一当午年三月十四日広東の風説書に、フランス国の
 フレガット
軍船の一種 サヒーネ船号、日本へ罷越可申
 由、右ハ日本地方にて同国の鯨漁船難破いたし候噂
 有之候故、右患難の乗組の者穿鑿の為に有之候由ニ
 御座候
    (日本へ向うアメリカ、フランス)
日本海域の琉球にフランスの者が居住し、キリスト
教を広めようとしている件については、フランス政府
からの指示である、と言う事は明らかにしていない。

アメリカのフリゲート艦コロンブス号が日本に行った
事が広東の新聞に出ている。 これはアメリカ国民
の取扱いについて改善を要望する為と云う。 
尚此船はビッドル提督の指揮にある。

フランスの提督セシールがフリゲート艦サピーネ号で
日本に行くとの事。 これは日本の海岸でフランスの
鯨漁船が難破したとの噂があり、その乗組員を捜索
する為である。

ko03c              黄埔条約及び望厦条約            解説に戻る

一唐国とエゲレス国・フランス国・北アメリカ州一致の国
 の取究一条の?文是に付属いたし候

中国とイギリス・フランス及びアメリカ合衆国と締結した
条約文をここに付け加える。
    唐国とフランス国との取究箇条書 中国とフランスと締結した条約(黄埔条約、1844年)
      第一
一両国の人民代々平和且懇意に可致事
      第二
一フランス人とも眷属一同広東・アモイ
地名・舟山・
 ニンポー
地名・サンハイ地名、右五港に勝手に渡海、
 且在住不苦候事
      第三
一右五港においてフランス人の貨物盗取申間敷事
      第四
一右五港にフランス国の軍船備置候儀不苦候事
      第五
第一条 両国の人民は代々平和を守り、親密たる事

第二条 フランス人及びその家族は広東、アモイ、
舟山、寧波、上海に在住する事ができる。

第三条 前記五港においてフランス人の荷物を
盗むべからず

第四条 前記五港にフランスの軍艦を置く事ができる

第五条 空白
      第六
一出入の諸荷物の儀者代銀定法書に引合、右代銀
 割合を以運上銀相定可申、右ニ付其筋の役人江音
 物等致間敷、又右運上銀他国の者共差出候高に
 相増申間敷、土地の者同様取計可申事
      第七
一持渡荷物の義者運上銀相済次第、国中ニ取入れ
 若他所江差送候ハヽ、其運上銀別段差出可申、
 右様之節土地之役人共音物等取扱申間敷事
      第八
一密売荷物者土地之アウーテイー役人取上可申事
      第九
一諸荷物勝手に土地之者江売掛、一手にて買上候
 儀者不相成事
      第十
一売荷物償銀の儀者双方の奉行所より相弁不申、尤
 役人共取計を以無違背、相納候様可致事
第六条 輸出入の全ての荷物は関税率表に照らし
この関税率に従い税金を定める。 この件に関し税関
役人に贈り物などしてはならない。 又この税金ば他国
が納める金額よりも増額してはならいない。 国内業者
と同様にする事

第七条 輸入品は関税を支払い次第国内に取入れ、
若し他所に送るときは別途関税を納める事
此場合中国の税関役人に贈り物などせぬ事

第八条 密輸入貨物は、税関役人が取上げる事

第九条 全ての荷物は勝手に中国人と売買しては
ならない。

第十条 売買荷物の代金回収に双方の関係役所は
保障しない。 担当役人の監督の下でお互いに約束
違反なく支払う事。

      第十一
一港内瀬方案内の者の儀ニ付取究の事
      第十二
一唐人共トルアンブテナール役人を主役としてフランス
 船において混雑無之様、滞津中警固可致、右警固の
 者ハ乗船いたし候共、又小舟に罷在候而も不苦、尤
 債料者船主より差出不申運上役所より手当可致事
      第十三
一フランス船入津後二日の内に船号・大サ・積書可
 差出、 若惰怠有之候ハヽ其罪難免事
      第十四
一入港のフランス船荷揚前二日の内に外港へ出帆致
 候節者港運上銀差出に不及、商売いたし候港にて
 差出可申事
      第十五
一港運上銀の儀ハ百五十トン
一トンは日本千六百斤ニ当る
 積以上の船者一トンに付五匁、其以下ハ一匁ニ
 相定、滞津の日数に不拘唯一度差出可申、且本船
 に乗組の者并書状食物等運ひ候船ハ運上銀差出に
 及ひ不申、尤売物運送の船ハ一トンに付壱匁差出可
 申事
第十一条 港内水先案内人に付き取決めて置く事

第十二条 中国側役人の指揮でフランス船が港に
滞留中は護衛する事。 護衛の者はフランス船に
乗船しても、又は小船で護衛してもよい。 但護衛
費用は船主が支払うのではなく、その港の税関役所
が負担する事

第十三条 フランス船は入港後二日以内に船名、船
大きさ及び積荷書を差出す事、 若し遅滞した場合
は罪となる。

第十四条 入港したフランス船が荷上げ前二日以内
に外港へ出帆する場合は港使用料を払う必要は
ない。 商売をした港で税金を納める事

第十五条 港使用料は150トン(一トンは日本の1,600
斤に相当) 積以上の船は一トンに付銀五匁、それ
以下は一匁と定める。 港滞留の日数に拘わらず
一度支払えばよい。 尚本船に乗組む船員、郵便、
食物など運搬する船は港使用料を支払う必要はない
      第十六
一唐国運上銀役、荷物改方并運上銀勘定之事
      第十七
一運上銀ハ荷揚之節差出可申、右運上銀相済、荷物
  再積入地之港へ差送候節者、送り先ニ而再度差出
  に不及候事
      第十八
一買入荷物運上銀ハ荷積の節差出可申、且運上銀
  はシーセー
銭の名にても何国の銀にても不苦候事
      第十九
一五港の運上役所においてハ広東にて相定候通の尺
 度并量度相用可申事
      第二十
一積荷物船移の儀に付規定の事
第十六条 中国税関役人は荷物の検査および関税
徴収を行うこと。

第十七条 関税は荷揚げの際に支払う事。 支払
済みとなれば、荷物を再度積入れ持ち帰る場合は
再度支払は不要

第十八条 買入荷物の関税は荷積みの際に支払う事
但関税は清国の貨幣でも何国の銀でも良い

第十九条 五港の税関事務所では広東で定めた
度量衡を使用する事。

第二十条 積荷を別船に移し替える規則を作る事
      第二十一
一フランス船主并売人共、荷物揚卸の節勝手に
 唐国の小舟并働の者雇入候儀不苦候事
      第二十二
一フランス人とも五港において居宅又地面を借、造作
 いたし居、且寺院或者病院并墓所を建て居候義
 若唐人共乱妨狼藉いたし候ハヽ厳科に可行事

      第二十三
一五港在留之フランス人共双方の役人より相定候
 場所之外猥に徘徊不相成事
      第二十四
一フランス人共五港において通弁の者・手芸職人・
 水夫并唐国諸州の俗語に達し候者召抱、且フランス
 書売渡、唐本買入不苦事
      第二十五
一フランス人と唐人との出入有之候ハヽ、フランス国の
 役人取扱可申、無拠折ハ唐国の役人一同取捌可
 申事
第二十一条 フランス船主及び商人は、荷物揚げ
降ろしの為に中国の小船や労働者を自由に雇い入れ
て良い

第二十二条 フランス人が五港において、居宅又は
地所を借りて造作を行い、且寺院、病院、墓所など
を建てた際、若し中国人がそれに対し乱妨狼藉を
した場合厳しく罰する事。

第二十三条 五港に在留するフランス人は両国役人
が取極めた場所意外に妄りに徘徊してはならない

第二十四条 フランス人は五港において、通訳・
手芸職人・水夫及び中国諸地方の方言に熟達した
ものを雇い、且つフランスの書物を売ったり、中国の
書物を買入る事は自由である。

第二十五条 フランス人と中国人の争いがあれば
フランスの役人が解決する事、止むを得ぬ場合は
中国の役人も一緒に解決する。
     第二十六
一唐国の者ともフランス人江妨不致様所 向より心付
 可申、若盗賊又フランス商館・病人養生所并居宅
 に狼藉指火等致し候者ハ其罪に応し厳科に可行事
      第二十七
一右に准し唐人とも己が奉行所において捕ハれ其罪
 難免事
      第二十八
一フランス人共互の争又外国の者と出入有之節ハ
 唐国の役人ニ不拘取捌可申事
      第二十九
一唐国の奉行所よりフランス船に海賊無之様手当
 可致、 若右様の儀有之候ハヽ召捕荷物者其筋へ
 差返可申事
      第三十
一フランス国の軍船乗組の者共五港の内何方へ罷越
 候とも客分に取扱、商売船に差支之儀有之候ハヽ
 深切に取扱可申、若破損等有之候ハヽ扶助可致事
第二十六条 中国人はフランス人に妨げをなさぬ様
関係当局は注意を払う事。 若し盗賊やフランス商館
病院療養所、居宅等に暴行したり放火した場合、その
罪に応じて厳刑に処する事

第二十七条 前記について中国人は中国の役所に
捕らえられ、その罪は赦されてはならない。

第二十八条 フランス人の相互の争いや外国人のとの
争いに中国役人に処理を持ちこまぬ事

第二十九条 中国役所よりフランス船に対する海賊
行為がなさぬ様に対策を行う事。 若し起きた場合は
海賊を捕らえ、荷物は関係者に返還する事

第三十条 フランスの軍艦乗組員は五港の内の何れ
でも客分として扱う事。 商船に何か差支えあれば
親切に取扱い、船破損などあれば修理を助ける事
      第三十一
一フランス人の内出奔いたし候者ハ召捕、フランス国の
 役人へ引渡可申、且唐国の罪人フランスの居宅又
 船中に隠れ候者有之候ハヽ、土地の役人願に依て
 相渡可申事
      第三十二
一唐国と外国と争乱有之候ハヽフランス国ハ何方へも
 荷担不致事
      第三十三
一双方取遣の文体相定、文通其外同輩ニ相心得候事
      第三十四
一フランス国の奉行所よりペーキン
地名の城郭へ文通
 致候節ハ、フランス国コンシュル
役名より広東のミニスト
 ルファンボイテンセサーケン
役名、又ハ唐国の奉行江
 差出可申候、右返書ハ同様の手数を以て請取可申事
一右取究の箇条ハ十二ヵ年の間相変申間敷、尤他国の
 者都合能儀申究候事も有之候ハヽ、フランス国も夫に
 准し可申事
   
第三十一条 フランス人で逃げた者あれば、逮捕して
フランスの役人に引渡事、又中国の罪人がフランス人
居宅又は船中に隠れていた場合は、中国役人の要求
で引渡す事

第三十二条 中国と外国との争乱があった場合、
フランスは何れへも荷担せず中立を守る

第三十三条 両国の取り交わしの文体を定め、文通
を含め両国が平等の立場で接する事

第三十四条 フランス政府より北京政府へ文通する
時は、フランス領事より広東の欽差大臣叉は両広
総督の役所へ提出する事。 前記返書は同様の
ルートで受領する事になる。 

上記取決めの箇条は12年間変更しない事。 但し
他国がより都合の良い条件を中国と定めた場合、夫は
フランスにも適用される事

1844年10月24日 黄埔条約 (黄埔=広東郊外地名)
   紀元千八百四十四年第七月三日 
    
日本去々辰年五月十八日にあたる
   ワンギア
地名においてアメリカ州一致の国及ひ唐
   国の惣督職セーキュスシング
人名とケイイン人名
   の取究略記
西暦1844年7月3日(弘化元年5月18日に当る)
マカヲの望厦でアメリカ合衆国及び清国の代表者、
セレブ クッシング(米公使)と耆英(両広総督)の
間で取決めた条約の略記
      第一
一両国の人民代々平和に可有之事
      第二
一持渡并売渡荷物運上銀の儀者、取究箇条書の
 中に有之候定直段に引合可相定、右運上銀者何
 国の者たりとも可差出高より相増申間敷、且諸進
 物之代ハ相省可申、又唐国の奉行所より外国奉
 行所江弁利の義差免候ハヽ、アメリカ人においても
 同様相心得可申事
      第三
一アメリカ人共眷属一同広東・アモイ
地名・舟山・
 ニンポー
地名・サンハイ地名、右五港に渡海并居住
 勝手に可致事
      第四
一五港においてコンシエル
役名并役掛の者相互に
 公用私用の文通同等に相心得、不都合の義者相改
 候様可致事
      第五
一アメリカ人において自国或ハ他国の荷物持渡、且
 買入荷物自国或ハ他国江持越候義、取究方に
 不漏品々ハ定式の運上銀相済次第、勝手に可致事
第一条 両国の人民は代々に渡り平和である事

第二条 売買する商品の関税は取極めた箇条書に
定めた価格に合わせて決める事。 関税は何れの国
も定めた金額より増加してはならず、且進物の提供は
省く事。 尚中国より外国に便宜を与えた場合、米国
にも同様の事を考慮する事

第三条 アメリカ人及びその家族は広東、厦門、舟山
寧波、上海の五港に入港及び居住は自由である。

第四条 五港において領事と関係役人は相互に
公用私用の文通対等に行い、不都合あれば都度
改める事

第五条 アメリカ人が自国或は他国の商品を売込み
且買入商品を自国或は他国へ持ち行く時、 取決め
から漏れていない商品は関税を払い次第自由に売買
できる。
      第六
一港運上銀の儀者千五百トン
一トンは日本の千六百斤ニ
 当る
  以上の船ハ一トンに付五匁、其以下ハ壱匁に
 相定、船の大サ改誓ハ相省、 港運上銀の義者一度
 差出候ハヽ、縦令他の港ニおいて荷物売掛候とも、
 運上銀差出に不及事
      第七
一乗組の者通路、書状或者食物運送に相用候船者
 運上銀差出に不及事
      第八
一荷物運送船借入れ、且按針役に仕へ候者、諸色売
 込人通弁の者、并諸職人雇入の義可為勝手事
      第九
一唐人共運上役人相立之、在津之舟々心付可申
 右役人ハ船中に罷在候共、小舟に罷在候共不苦、
 尤船々より遣物或ハ食物受納致間敷事
      第十
一入港いたし候ハヽ二日の内に船号其外の義可申出
 若怠候ハヽ咎可受候、且又定例の手数相済候ハヽ
 荷揚の義ハ勝手に可致、若荷揚前二日の内出帆
 いたし候節ハ、運上銀差出に不及、二日後に相成
 候ハヽ運上銀差出可申事
第六条 港使用料は1500トン(1トンは日本1600斤)
以上の船は一トンに付5匁、それ以下は1匁の銀
とし、船の大きさの確認は省く。 港使用料は一度
支払えば、仮令他の港に入り、商売しようも、料金を
支払う必要はない

第七条 乗組員の移動、郵便或は食物運送に用いる
船は港使用料を支払う必要はない

第八条 荷物運送船の借入れ、港水先案内人の
補助、商品売り込みの通訳、各種職人の雇い入れは
自由である

第九条 中国は税関役人を備え、港滞留の船の安全
に注意を払い、これら役人は船中にいても、小船でも
よい。 但し各船より贈り物や食物を受け取らない事

第十条 入港の船は二日以内に船名その他届け出る
事。 怠った場合は罪となる。 定例の手続きが済めば
荷揚げは自由に行ってよい。 もし荷揚げ前二日以内
に出帆する場合は港使用料の支払いは不要、二日後
になるなら同料金支払う事
        第十一
一荷物揚積并右に拘候出入候義付吟味之事
        第十二
一五港において唐人と勝手に商売いたし不苦、一
  手にて買上、或ハ売捌候を支候儀不相成事
        第十三
        第十四
        第十五
        第十六
一両国の商人共借財の出入有之候共奉行所より
 不相弁、尤当人共払入候様取計可申、且一旦約
 束致し候義、違背無之様心付可申事
      第十七
一アメリカ人共江居住或ハ諸事取計の為、居住及び
 地面・寺院・病院・墓所、或ハ右等を営候地面を貸
 渡可申、且五港并其近隣江往来の義勝手に可致
 尤郷地へ罷越候義ハ不相成事
        第十八
一アメリカ人とも唐国諸州より学者を抱入れ、彼地
 の言語を習、唐国書籍買入候義不苦候事
        第十九
一唐国奉行所において国中の者ともアメリカ人に
 対し不致様防禦の役人手当可致事
        第二十
一荷物を他之港江持越候節ハ運上銀差出に不及事
第十一条 荷物の陸揚げや船への積込みに関して
揉め事があれば詮議する事

第十二条 五港において中国人とj自由に売買して
良いが、一手に買い上げ、売り捌きをしてはならない

第十三条
第十四条
第十五条

第十六条 両国の商人が借財で揉め事があっても
役所は補填しない。 当事者同士で決済する事、且
一旦約束した以上違背が無い様に気をつける事

第十七条 アメリカ人に居住或は生活全般の為に、
住居及び地面、寺院、病院、墓所或はこれ等を営む
地面を貸す事、且五港及び近隣への往来は自由で
ある事。 但し地方の村々へ行く事は禁止する。

第十八条 アメリカ人は中国各地の学者を抱え、その
地方の方言を学習し、中国の書籍を買入も許される。

第十九条 中国役所では中国民がアメリカ人に対し
不埒な事をせぬ様に護衛の役人を備える。

第二十条 荷物を他の港へ移動する場合は関税を
払う必要はない。
        第二十一
一両国の奉行所において罪人如何なる次第有之
 候ハヽ召捕其罪に可行事
        第二十二
一唐国と外国と戦争有之候節ハ、アメリカ州一致
  の国において、何方江も荷担いたさゝる事
        第二十三
一五港に罷在候コンシュル
役名共年々の商売銀高
 ぺ―キン
地名の役館へ持書候様致度候事
        第二十四
一アメリカ人と外国人と出入有之候ハヽ唐人より
  差構に不及候事
        第二十五
一アメリカ州の配下の物より唐国役人江の文通は
 前広コンシュル
役名に申出其差図に可随、唐国役人
 よりコンシュル
役名もの書状も同様唐国アウトソー
 テイト
官名の差図を以て差遣し候様可致事
第二十一条 両国の役所は罪人があれば逮捕し、刑
を行う事

第二十二条 中国と外国と戦争に成った場合、
アメリカ合衆国は何れにも荷担しない。

第二十三条 五港に駐在する領事は毎年の貿易高
を北京の官庁へ報告すること。

第二十四条 アメリカ人と外国人の間の揉め事に中国
人は関与しない。

第二十五条 アメリカ合衆国の人民が中国役人に
文通する場合は、事前に領事に報告してその指図
を受ける事。 中国役人からの書状も同様に中国
の外国掛りの指図によって提出される。

       第二十六
一商売船の儀者乗組之者共一同、アメリカ州役人の
 支配に可有之、唐国奉行所においてハ、アメリカ人
 と外国人との混雑取捌方に携るに及申ましく
 尤唐国に拘候海賊等の義ハ防禦いたし、若右様之
 義有之候ハヽ、罪人召捕、盗取候品者取上、持主
 手に入候様取計可申事
       第二十七
一難破船有之候ハヽ乗組の者并諸荷物、不都合の
 義無之様警固いたし、船之修復心配いたし、荷物
 紛失有之候ハヽ差返候様可致事
       第二十八
一居住の者或ハ船中において、縦令如何様の義
 差起候共、唐国方より取囲の義致間敷事
       第二十九
一アメリカ船乗組の内、出奔いたし候ハヽ召捕、コン
 シュル
役名或ハ他の役人江引渡可申、唐国の罪人
 アメリカ船或ハ居宅ニ隠候ハヽ、唐国の役人願に
 応し相渡  可申事
       第三十
一取遣の書状文体相究、諸事同輩に相心得、両国
 の奉行所互の音物等有之間敷事
第二十六条 商船の乗組員はアメリカ合衆国の役人
の管轄であり、中国役所ではアメリカ人と外国人との
争いを裁く事には携らない。 但し中国人の関係する
海賊等は防禦の事。 若し海賊行為があれば犯人を
逮捕し、盗難品を取上げ持主に返還する様にする事

第二十七条 難破船に対しては乗組員や荷物に
不都合ない様に警固し、船の修復にも心配りをして
荷物紛失あれば返還する事

第二十八条 居住者又は船中において、どの様な
問題が起こっても、中国側から包囲しない事。

第二十九条 アメリカ船乗組員が逃げ出した場合は
逮捕して領事或は他の役人に引渡す事。 中国の
罪人がアメリカ船或は居宅に隠れた場合、中国側
役人要請で引渡す事

第三十条 往復の文書の形式を決めて全て平等と
心得、 両国の役所は互いの贈り物をしない事
      第三十一
一アメリカ州奉行所より唐国府江差向候書状ハ唐国の
 役人、外国の義を司候ケイズルレイキコミサーリス

 官名
或ハリヤングキャング地名リャングワング地名等の
 奉行所の沙汰を以て差出可申事
      第三十二
一軍船ハ唐国何れ之港においても客分の取扱に致し
 食物買入方等の心配いたし不勝手の儀無之様可
 致事
      第三十三
一通商不差免港にて停止の品を売払候義、或ハ阿片
 其外国禁の品々を持渡候者ハ唐国奉行所において
 ハ取扱不致事
      第三十四
一右取究の箇条ハ十二年以来無変化、アメリカ州
 一致の国の者共、唐国江差越候者ハ都而惣督職の
  もの差配可致定ニ有之候事
第三十一条 アメリカ合衆国政府から中国政府へ
の書状は、中国の外国関係を司る欽差大臣或は
両江総督、両広総督の役所の指示により差出す事

第三十二条 軍艦は中国の何れの港でも客分の
取扱いとして、食物調達の心配りをして、不自由の
無いようにする事

第三十三条 通商を許可していない港で停止の品を
売り払ったり、或はアヘン其他禁止の品々を持込む
者は中国役所では取扱いしない事?

第三十四条 此度の取極めた条文は12年間変えず
アメリカ合衆国の人民が中国に来たときは、全て
総督職の者の支配下にある事


  右之通御座候
              かひたん
                 よふせふへんりい
                       れひそん
 右之趣横文字書付を以申出候付、和解差上申候
 以上
    午六月              通詞目付
                       大小通詞
上記の通り
        オランダ商館長
          ヨーセフ ヘンリー
               レフィソン
上記の内容をオランダ語の書類で報告あったので
              邦訳申上げる
以上
   弘化三午年六月(1846年7月)
                      通詞目付
                      大小通詞

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ko04                                       解説に戻る
弘化四年(1847年)オランダ風説書       弘化雑記第11冊
弘化四丁未年申上候書付
   六月廿六日渡来之阿蘭陀船より差越候余小文字
   書翰和解
  六月廿六日質人御糺ニ付申口左ニ申上候
 一定例之商売船壱艘五月廿五日交留巴出帆仕、洋中
  無別条今日着岸仕候
 一乗組人数凡四十四人     一船頭之名 マテイセン
 一船之名 スゲルトーケンホス 一船之大サ 四百三十三ラスト
 一類船之有無 無御座候

一当年来朝之阿蘭陀船壱艘五月廿五日交留巴出帆
 仕、海上無別条今日御当地着岸仕候、右壱艘之外
 類船無御座候
一台湾ニ於て唐船凡十二艘、日本地方に於て四艘見
 掛申候
一去年御当地ヨリ十月六日帰帆仕候ファンネイ船号
 日数廿日経、海上無別条十月二廿六日交留巴着船
 仕候、バンカー海辺に於て唐船一艘見掛申候、右
 唐船ハ六日後れ交留巴着船仕候


当年来日のオランダ船一艘は5月25日バタビアを出帆
し、洋上異常なく本日〔6月26日)長崎に到着した。
この一艘以外に仲間船はない

台湾で中国船凡そ12艘、日本の陸地近くで4艘
見かけた。

昨年当地より10月6日帰帆のファンネイ号は日数
20日をかけ洋上異常なく。10月26日バタビアに到着
バンカ海辺で中国船一艘見かけたが、此中国船は
六日遅れてバタビアに到着した。

注:バンカ スマトラ島の北、 バンカ海峡
一去年申上候ホビリンシゾ地名の王并右王の兄弟
  カラングアスサム国之支配罷在候もの
者山中に隠れ居、其
 場所ヨリ出兼、印度惣都督赦免を得べきため、使者を
 差送り申候、右王申極を相立改る奉行所ニ随従とし、
 十分のヶ条相立候上、赦免いたし遣し候
一ゼリング
地名中に砦を築き阿蘭陀国の軍兵之内を残
 し置申候、其外之軍兵兵一隊之軍船者瓜哇ニ引取
 申候
一阿蘭陀国王へ右勝利之趣相達候処、格別軍功有之
 候兵を致賞美候


昨年報告した様にヒリリングの王及びその兄弟
(カラングアスサム国を支配している者)は山中
に隠れてそこから出られず、オランダ東インド都督
の赦免を得るために使者を送ってきた。 この王が
改めて役所の指示に従う様、取決め赦免した
ゼリング中に砦を築き、オランダ兵を一部残し、残り
の軍兵及び軍艦はジャワに引揚げた

オランダ国王に上記の勝利を報告したところ、特別
軍功の有った兵への表彰が行われた
一和蘭陀暦数一千八百四十六年弘化三年当るの末半年
 之間ニ唐国ヨリエゲレス国に茶二千九百六十一万八千
 二百八十五ポンド差越申候
一瓜哇中物静ニ御座候
  右之外相替候風聞無御座候


西暦1846年(弘化3年)の後半半年の間に中国
よりイギリスへの茶を29,618,285ポンド輸出した

ジャワ全体静謐である。
  以上他に変った事なし
かひたん
            ようふせふへんりい
                 れいそん

右之通り船頭并へとる阿蘭陀人申口かひたん承申候
ニ付、和解差上申候
                通詞目付
                大小通詞 連名
弘化4年6月26日(1847年8月6日)
 オランダ商館長
     ヨーセフ ヘンリー レフィスゾン
 以上船長及び事務長の口述を商館長が聞き、
 これを和訳
           通詞目付
           大通詞
           小通詞
              連名

                    解説に戻る


















ko04b                                               解説に戻る
     弘化四年(1847年)別段風説書              弘化雑記第11冊

一阿蘭陀国王益尊敬せられ、親族に至迄無恙相暮申候

一阿蘭陀国領地印度の船難波之節、ボーターのラディヤ
 爵名其乗組を留置、所持之品物を奪取、如何之
 取扱致候、然るに元来右ラディヤは東印度奉行
 所支配に有之ビーマー
地名のシュルタン爵名の幕下に
 有之候
一東印度の惣都督命を下しビーマー地名に軍船被遣
 候てビーマーのシュルタン
爵名ポーターのラディヤを
 攻め、犯せし罪を顧、赦免を乞ひ、奪取候荷物積候様
 取計申候、右荷物全て積候後、惣都督目代の集会有
 之、此時ビーマーのシュルタン并其支配高官之輩此席
 に列し候所、ホーターのラディヤは相背かれ候故、罪
 の赦免を公に願ひ申候、右ニ付奉行所より赦免有之候

 (オランダ本国及びオランダ領東インドの事)
オランダ国王は益々尊敬され、親族に至る迄
恙無く暮らしている

オランダ領インドの船が難破した時、ボーター
酋長がその乗組員を拘束、積荷を奪い取る
事件があった。 元来この酋長は東インド政庁
の支配下のビーマーの王の傘下にある

東インドの総督がビーマーに軍艦を派遣して
ビーマーの王とポーターの酋長を攻めたので
犯した罪を反省して赦免を乞ひ、奪った荷物
を返した。 荷物が積み返された後、総督
命の集会があり、ビーマーの王及び支配下の
酋長達が列席の中で、ポーター^の酋長は
赦免を公に願出たので総督府はこれを許した
一マカツサル地名に外国船通商の一港を相立、諸荷物船
 積卸等勝手にいたし、海陸とも運上差出不申候様相成
 申候

一和蘭陀暦数一千八百四十五年
弘化二巳年ニ当ル中に
 印度より阿蘭陀本国江左之荷物差送り、奉行所の勘定に
 相立申候
  一コーヒー豆  九十三万二千六百六十七樽
  一砂糖     二十二万三千八百六十俵
  一青黛     一万二千六百廿三箱
  一瓜哇産茶   八千四百十九箱
  右之他荷物許多有之候
 右荷物を船数百六十艘ニ而運送いたし候


マカッサルに外国船通商の港が造られ、荷物
の積卸が自由になり海陸とも関税を払わなくて
良い様になった。

西暦1845年(弘化2年)にインドよりオランダ
本国への以下之荷物が送られ、総督府の
勘定に役立った
 コーヒー豆  932,667樽
 砂糖      223,860俵
 青黛       12,623箱
 ジャワ産茶    8,419箱
  上記外多数の荷物が有る
 これら荷物を述160艘の船で運送した


一唐国とエゲレス国と和睦相整ひ候折、舟山を戦争の失費
 償のため質物として相渡申候
一右失費償之年限相済候而、阿蘭陀暦数一千八百四十
 六年七月
弘化三年午閏五月ニ当る舟山を唐国アウトリイト
 
官名に差返申候
一唐人共己が方よりも申極めの約定を正路に守候様、
 エケレス人共思念罷在申候、然る所広東之下輩の者共
 同所に外国人勝手に入込候義を不平におもひ、不纔
 混雑有之候
 右混雑を取鎮め候為、ホンコンに罷在候エケレス奉行
 シルヨンターフース
人名和蘭暦数一千八百四十七年第
 四月二日
弘化四年未二月十四日蒸気船三艘、其他の
 軍船并海軍一隊を引連れ、広東の川に赴候、ホッカー
 テイクルヌ
地名の砦を子細なく奪取申候、エケレス船ハ
 其夜ワンポー
地名に罷在申候
 翌朝軍勢乗込候、蒸気船弐艘広東に赴申、同所
 に於ても砦を押領いたし、広東に罷在候唐国奉行
 ケイイング
人名ホンコンに罷在候エケレス奉行の方に至り
 双方申極を相立申候、其大意左之通り
    (中国の事)
清国と英国でアヘン戦争の和睦が整った際に
舟山を戦費賠償の質として英国に渡した
この賠償が支払われたので1846年7月(弘化
三年閏五月)イギリスは舟山を清国に返した

清国側から定めた約定を正しく守る様に
イギリス人は思っていた。 とこらが広東の下
役人は同所に外国人が勝手に入るのを不満
に思い混乱が絶えない
この混乱を鎮めるために香港のイギリス総督
ジョン・デービス卿は1847年4月2日(弘化4年
2月14日)に蒸気船三艘、その他軍艦及び
海軍一隊を引きつれ広東の川に赴いた。

ホッカーテイクルヌの砦を簡単に奪い取り
イギリス船はその夜はワンポーにあった。
翌朝軍勢乗込み、蒸気船二艘は広東に赴き
同所でも砦を占拠した。 広東の清国総督の
ケイイングは香港のイギリス総督を訪問し、双方
で決めた事大意は以下の通り

注:
二代目香港総督Sir Jhon Davise 1844-1848
 和蘭陀暦数一千八百四十七年第四月六日弘化四年未
 二月廿一日ニ当る
、広東に罷在候唐国奉行とホンコン地名
 に罷在候エケレス国奉行と申極候ヶ条大意を記す


一第四月相定候以後二ヶ年の間、広東之地にエケレス
 国配下の者共出入可為勝手事
一エケレス国配下の者共広東近隣の地に職業又ハ発
 散の為サンハイ
地名同様居住赦免すべく候、若エケレス
 人の居住を妨る輩於有之者可為厳科事   
一第十月十一日船方の者に致狼藉候者并第三月
 十二日福州コロネル
官名セスネイ人名及び其地に乱妨
 せし者共、諸人見せしめの為罪に行へく、尤セスネイ
人名
 に乱妨いたし被召捕居候者共ハ広東に引連、同所に
 おいてエケレス国王の執政より其為メ差遣候者共の
 立会にて可行罪科事
一川よりホーナン
地名の方に有之候広地ハエケレス国の
 商人等に家屋倉庫取立の為メ可貸渡、尤場所相定候義
 ハ執政の者、広東を立退候以前に可致事
一外国の商館より領し候土地の近隣ハ寺院建立の
 為メ地貸渡し、ワンポー
地名の内相応の土地を死亡の者
 葬之為メ可定置事
一両花地の間に橋其他造作勝手たるべし、尤海辺に店を
 取立候義ハ致間敷事
一諸事混雑無之為メ川入口に有之候諸舟ハ商館より隔
 繋置べき事


1847年4月6日(弘化4年2月21日) 広東在
の清国総督と香港在イギリス総督が取り決めた
大意を記す
1. この四月の協定以後二ヵ年の間、 イギリス
 国の者広東へ出入り自由である事

2.イギリス国の者広東近隣の地に職業又は
 発散の為に上海同様居住を許す事。 若し
 居住を妨げる者あればこれに厳罰を科す事
3. 10月11日船員に乱暴した者及び3月12日に
 福州でセスネイ大佐及びその地に乱暴した
 者達は公開で見せしめの罪を行うこと。 但
 セスネイに乱暴して逮捕された者は広東に
 引き連れ、同所でイギリス国王の執政から
 その為に派遣された者の立会いの上、刑を
 行う事
4.河より江南側にある広地はイギリスの商人
 達に家屋倉庫建築の為に貸渡す。 但場所
 については執政が広東を去る前に決める事
5.外国の商館が領する土地の近隣は寺院
 建立の為に貸渡し、黄哺の内相応の土地を
 墓地として決めておく事
6.両花地の間に橋その他造作は自由とする
 但海辺に店舗は造らない事
7.混雑を避ける為、川の入り口に停泊する舟
 は商館より離して繫ぐ事


清国代表: Qiying 耆英 両広総督1844-1848
一エケレス人共此節奪取候砦の大砲八百挺の火門に釘を
 打込、用達致さず様に致し申候
一一千八百四十六年第十二月六日
弘化三年午十月十八日ニ
 当ル
ホンコンよりエケレス国に唐船壱艘出帆致候、
 一艘ケイングと号し、エケレス国の船頭ケルレッテ

 支配に有之候、尤乗組の者共ハ多分唐人に有之候、
 斯く遠海危難の波涛を唐船乗渡る事、是迄更に無之候
一北アメリカ合衆国の新コミサーリス唐国と諸事を取計
 の為メ、マカヲに至り申候、右コミサーリスの名は
 エフエレフトと申候
 右新コミサーリスとオンドルコーニング
(オンドルは下ノ義
 コーニングハ王と云義)
ケイインク人名と衆会いたし候
一フォルトローネン
人名唐国にてフランス政事を取扱候者
 に命ぜられ、サークゲラステイグデと申官職に相成申候

イギリス人達は奪い取った砦の大砲800挺の
火門に釘を打ち込み使用不能にした

1846年12月6日(弘化3年10月18日)香港より
イギリス国へ中国船一艘が出帆した。 
ケイング号と云い、イギリス人船長の指揮だが
乗組員は主に中国人であり、斯かる遠洋危難
の波濤を中国船が航海する事は是迄無かった
事である

アメリカ合衆国の新公使が清国との取り決めの
為マカオに到着した。 新公使の名は
エヴェレットと云い、ケイイング清国広東総督と
会談をした。

フォルトローネンが清国におけるフランス政府
代表を命ぜられ、公使の官職になった
一東印度に罷在候エケレス国軍勢許多両三度の中
 フーロービナング
地名に相集り申候、フィセアドミラール
 官名
イングロフィールド人名はエケレス国の軍船フェルーン
 船に乗組、当時ボメオ
トロク地名の間に赴候様達し
 有之候

一跤趾国ファウロンネ
地名の港内に於てフランス国の
 軍船四艘と跤趾国軍船五艘との闘戦有之候、右戦
 争の原因ハフランス国の執政を陸に呼寄、其間隙
 にフランス国の船を奪取候為、跤趾国の都府より差向
 候者共密に襲候事と被察候、小本時之間戦候後
 跤趾国の舟三艘空中に飛散申候、余弐艘ハフラ ンス
 人奪取、焼捨申候、フランス人ハ只一人戦死いたし
 今一人ハ深手負者有之候
 跤趾人一千人程も討死いたし候と被察候

一暹羅国王外国との商法を弥専要の事といたし候様
 相見へ申候
一暹羅国王の命に因て当時美麗のフレガット
軍船一種
 を打建、暹羅国エケレス国に砂糖運送の為に相用ひ
 申候、今四艘暹羅国の雑用にて打建の最中ニ有之候
 

   (東南アジアの事)
東インドに駐留するイギリス海軍の多数が
三度程フォーロービナングに集結した。 
イングロフィールド提督が軍艦フェルーンに
乗組み、現在ボメオとトロクの間に赴いている

ベトナム国のファウロンネの港内でフランス軍艦
4艘とベトナム軍艦5艘の戦闘があった。 戦闘
の原因はフランスの執政を陸に呼び寄せ、その
隙にフランスの艦を奪おうと、ベトナムの首都
から派遣された者達が襲ったと見られる。
小一時間の戦闘でベトナム船3艘は空中に
飛び散り、残り2艘はフランスが奪い焼き捨てた
フランス側は一人戦死、一人負傷、ベトナム側
は千人程討死したという

シャム国王は外国との商売を重要と考えている
様子である
同国王の命令で現在美しいフリゲート艦を建造
してシャムからイギリスへの砂糖運送の為に使用
している。 外4艘シャム国の雑用の為に建造中
である。

注: シャム= タイ国
一アウスタリー州の内エケレス人所領の土地漸々と広
 まり申候、此故に当時はボルトアデラーテ
地名の港、
 商法の為入津の船数に応じてハ狭きと申説有之候
一スタヲールフォレス
地名の北方の渚に有之候ネウカスト
 地名
之港を、荷物貯置候為の港を相立運上無様相定
 申候

一一千八百四十六年第七月
弘化三年午閏五月ニ当ル
 エケレス人共数多の海軍を以てボルネオブロベル国
 の内ブルナイ
地名のシュルタン爵を攻伐申候、其所者
 右シュルタン
フルナイの海辺に災害いたし候海賊
 共に荷担いたし候故に有之候
一一千八百四十六年十二月
弘化三年十月ニ当ルエケレス人
 ボルネオ地北方の渚に有之候ラボアン島を所領いたし
 候、右島に石炭山を開き其石炭を唐国とシンガポール

 とに往返いたし候蒸気船に相用候様相成申候

    (英国領東インドの事)
オーストラリア内のイギリスが領有する土地が
次第に広がっている。 この為現在はアデレート
港は商売で入港する船数の割りに狭いと云う
説がある
スヲールフォレスの北方にある渚のニュー
キャッスルを荷物貯蔵の保税港に定めた

1846年7月〔弘化3年閏5月)イギリスは多数の
海軍によりボルネオブロベル国のブルネイの王
を攻めた。 理由はこの王がブルネイ海辺で
悪事を働く海賊に荷担したという事である

1846年12月〔弘化3年10月)イギリスはボルネオ
北方の渚にあるラブアン島を所領した。 これは
此の島で石炭山を開き、その石炭を中国と
シンガポールを往復する蒸気船に使う為と云う

一フランス人共オタヘイテを取鎮候義相違不申軍勢
 相増度、頻に希相待申候
一エケレス人と新ゼーラント国の国民との確執ハ今に
 相済不申、同様に相増し勢を差送り申候、右ニ付
 土地を退舟致し候軍卒等に相渡、其地に家族を
 遷し候義を企候由噂有之候
一ロンドン
エケレス国の都より東印度へ蒸気船にて渡海ハ
 シンガポール・ヤーフハ
・ティモール・ホルトエス
 セングトン
地・トルレスタラ―ト・ネウストレ・シティレイ
 
を経候事も有之
 又或ハセイロン
よりスワンリフェル地・ホルトアデライデ
 等へ経候様成行候へ者、最早速にアウスタラリーに及
 不申可申、
 然る處シユエス
地中海と西紅海と相接する 地峡の名を掘切り
 大船の通路を開き候ハヽ甚弁利に有之候、
 此業を当時エケレス国、フランス国并にオーステンレイキ
 
国名にて目論居候由ニ御座候、
 
 エゲイプテ国中に於て原野に水を灌候為ネイル河を堰
 築致し候業専ら出精致居申候、
 
 シベリー国中、就中ウーラル河の水筋に於て当時許多
 の金を掘出し申候、 其高千八百四十六年
弘化三年に
 当ル
は弐万八千四百廿五ネートルランポンド一ポンドハ
 日本一升六合七勺に当る

    (世界地誌の事)
フランス人はオタヘイテ(タヒチ島)を取鎮ようと
しているに違いなく、軍勢を増やす様に頻りに
頼んでいる

イギリス人とニュージーランド国民との確執は
治まらず、軍勢を追加派遣している。 又退職
の兵士に土地を渡し、その地に家族を呼寄せ
居住させる計画と聞く

ロンドンから東インドに蒸気船で渡海するには
シンガポール、ヤーフハ、ティモール、ホルト
エス、セングトン、トレスタラート、ネウストレ、
シティレイを経由する事もある
又はセイロンよりスワンスワンリフェル、アデレード
等経て最早速にオーストラリアに行けるとは
云えない。 

ところがスエズ(地中海と西紅海が接する地峡
の名)を堀切り大船の通路を開けば非常に便利
になる。 この事業を現在イギリス、フランス、
オーストリアで計画している

エジプト国では原野に水を灌ぐ為にナイル河
を堰きとめてダムを造る事研究している

シベリア、特にウラル河流域で現在大量の金
を掘り出している。 その量は1846年〔弘化3年)
には28,425ポンド(1ポンド日本一斤六合七夕)
一オレゴン河に於てエケレス国と北アメリカ州合衆国との
 境の義ニ付、両国確執有之候所、双方和談に相成申候
 オレゴンの領は北アメリカ州に属し申候
一テキサス地名を北アメリカ合衆国に合候一條ニ付
 同国とメキシコ国名と闘戦有之候、是迄合衆国の方に
 勝利有之候得共、敵軍の防禦思ひの外堅固に有之候、
 マンテレイ地名を四日の戦にて奪取申候、当年二月
 廿二日
弘化四年未正月八日惣督シントアンナー人名メキシコ
 軍の司ハイロツイ
人名と合戦に及び、右はイロツーハ
 合衆国の軍勢の一組と共にサルテイルロー
地名迄駆抜け
 其大戦二日続き申候、尤シントアルナー
人名は其陣を
 遠きに退き候様相成申候、フラキュルツ地名并シント
 ユアントユルは既にアメリカ合衆国の別将、名はスコットと
 申より奪取られ候由噂有之候
 
一オリフラルニー
地名には其前年合衆国の軍勢長居申候
 

    (北アメリカ州の事)
オレゴン河(コロンビア川)でイギリスとアメリカ
合衆国の間で境界に関して両国の確執が有
ったが、和議が成立しオレゴンは合衆国に属す
〔1846年オレゴン条約)

テキサスをアメリカ合衆国に併合するに際して
同国とメキシコの間で戦争があった。 初めは
合衆国側が勝利していたがメキシコの防禦も
予想以上に堅固だった。 モンテレー〔メキシコ)
を4日の戦いで陥落させた。 今年(1847)2月
22日サンタアナ将軍のメキシコ軍の将である
アンプディアと戦闘になった。

アメリカ合衆国軍勢の一組と共にサルティーヨ
迄駆け抜け戦いは二日続いた。 サンタアナ
将軍はその陣を遠く退いた。 ベラクルス及び
サンタユアントルはアメリカ合衆国の別将スコット
に占領されたとの噂である

カリフォルニアにはその前年合衆国の軍勢が
駐留していた。
一イスパニヤ国中に於而嗣位を争ひ候處、漸穏ニ相成
 申候、亡父の国政を嗣候幼君の女王ハ公子フランス
 ユーデアシスシー
人名と婚姻いたし候、右公子ハ彼の
 女王の叔父の子にして、国王トンカルロス
人名の兄弟の
 子に相当り申候、然るに右ドンカルロス自ら其位を嗣べ
 きと思念罷在候、右国主嗣位の念有之候ハ全く其嫡
 子ヘルトク
官名デモウチノウリン人名を立度所存ニ候所
 右デモウチノウリンハ民間に墜入り放遂も同様イスパニヤ
 国外に周流いたし候
 
一ポルトガル国に近頃一揆差発申候、右ニ付色々取
 扱有之候得共、今に於て全く鎮り不申候

 
     (スペイン・ポルトガルの事)
スペイン国では王位継承の争いがあったが漸く
穏やかになった。 亡父フェルナンド七世の国政
を継いだ幼君の女王は、公子フランスコ・デ・
アシースと結婚した。 この公子は女王の叔父の
子であり、国王を僭称するドンカロルスの弟の
子である。 このドンカルロスは本来自分が王位
を継ぐべきと思っていたが、兄フェルダナント
七世は女王を禁じた法律を変えてドンカルロを
追放し、娘に王位を継がせる様にした。
(カルリスタ戦争)

ポルトガルで最近暴動が起った。 対策が種々
講じられているが今のところ鎮まっていない
一欧羅巴諸州に於てアールドアップル芋の類の不作ニて
 ドイツ国フランス国殊更スコットランド国名アイルランド
 同上に於てハ食物乏しく有之候、依之北アメリカ
 州より数多の玉蜀黍并麦粉を差越申候         

一魯西亜国とカルカシュス
地名山住の者共との争乱今 
 に於て鎮り不申候、魯西亜国民カルカシユスに兎角に
 住馴がたく有之候  *コーカサス
 
一フランス人とアルケリー
地名エミルアブトエルカート人名
 との争乱今に鎮り不申候、尤同人共の勢余程衰へ申候
一右エミルアブトエルカードルはフランス国の領地を去り
  僅の随従と荒野に走り申候


一エゲイプテ国名執政ムハメットアリ人名の嫡子イブ   
 ラハムバーカー職の者パリイス
フランス国都府并ロンドン
 
エゲレス都府に見舞候所、両所にて懇意に取扱申候
一フェーニス国名の国主もフランス国に見舞候所、
 右同様に取扱申候


  (その他ヨーロッパ諸国及びアフリカの事)
ヨーロッパ諸国ではジャガイモが不作でドイツ、
フランス特にスコットランド、アイルランドでは
食物が乏しくなった。 随って北アメリカより
大量のとうもろこし及び麦粉を送った。

ロシア国とコーカサスの山に住む人々との争乱
は未だに鎮まっていない。 ロシア人はコーカ
サス 地方には兎角住みにくい様である

フランス人とアルジェリアのアブデルカーデル
との争乱は今に鎮まっていない。 但同人の
勢力かなり衰えてきた。
1847年終にフランス軍がアブデルカーデルの
軍を破り、彼は僅かの部下と共に荒野に去った

エジプトの執政(王)のムハンマドアリの嫡子
イブラハムパシャがパリ及びロンドンを表敬訪問
し、両所で歓迎された
フェーニスの国主もフランスを表敬訪問したが同様
歓迎された。


アブデルカーデル:アルジェリアの民族運動家
でフランスの支配に抵抗したが1847年フランス軍
に敗北した。
一フランス国の星学家レフェリール人名曜星を新に 
 見出し、其星をネプチューンと唱申候 
一ドイツ国の医学ボッツセル
人名綿にスワーフルシュール
 
硫黄酸を濡し放発の勢を保候工夫を発明いたし、此綿を
 少し小砲に込め放ち候得者、其丸塩硝を込め発し候勢
 と同様に有之候
一アメリカ州に於てズワーフルエエットル
薬種を以て人体 
 を痿し候工夫を発明致し候   
 此薬にて如何程厳き療治受候共、痛を触れ不申候
 此法欧羅巴中へも伝り申候  *麻酔薬
一欧羅巴より交留巴へ紙製の偶人を差越申候、其機関
 微細の部至る迄、全く人体を写て解離し候様拵有之候
 右の人体の内部の事心得候為の物に有之候
一欧羅巴に於ても北アメリカ州に於ても漸く道筋を開き
 申候、右目論ハアメリカ州東諸より西諸に、又ニウヨルク
 
地名よりオレゴン領のコロンビヤ河に往来の為に有之候
 此道にて重荷を一時の内に六時行、或ハ十二時行候程
 運送致候    *鉄道敷設


     (新発明・産業の事)
フランスの天文学者のルヴェリエが新しい惑星
を発見し、ネプチューン〔海王星)と名づけた

ドイツの医学者ボッセルは綿に硫黄酸を浸み
込ませ爆発する力を貯える発明をした。 この
綿を少し小銃に込めて発火すれば弾丸は塩硝
を使って発砲するのと同様である

アメリカ合衆国でズワーフルエエットル(薬種)
を使って人体を萎えさせる方法を発明した。
此薬でどんなに厳しい治療を受けても、痛み
を感じない。 此方法はヨーロッパ中へも伝わる
(麻酔薬)
ヨーロッパよりバタビア(ジャカルタ)へ紙製の
人形を送ってきた。 人体の各機関を細かく
模型にして作ってある。 これは人体内部の事
を理解する為の物である。

ヨーロッパ及び北アメリカでは次第に鉄道を
敷設し始めた。 この計画はアメリカ合衆国東側
各地より西側各地へ、又ニューヨークから
オレゴンのコロンビア河迄往来の為である。
鉄道では重い荷物を一時間に6倍から12倍の
行程を運送する。

右之通御座候
               かひたん
                ようせふへんりい
                     れんそん
  右之趣横文字書付を以申出候ニ付、和解差上申候
                   本木昌左衛門
                   西  与一郎

オランダ商館長
       ヨセフ ヘンリー レフィスソン

和訳 
    左記

弘化4年〔1847年)

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ka01                                        解説に戻る
嘉永元申年七月風説書  1848年  嘉永雑記第二冊

一当年来朝之阿蘭陀船五月廿五日咬留吧表出帆仕 
 海上無別条、今日御当地江着岸仕候、右壱艘之外類船
 無御座候
一「タイワン」其外日本近海に於て唐船見掛不申候
一去年御当地より十月五日帰帆仕候スヘルトーゲンホス
 
船号日数拾四日経、無滞同月廿九日交留巴着船仕候

当年来日のオランダ船は5月25日バタビアを出帆し
洋上異常なく本日長崎へ到着した。 此一艘以外
に仲間船はない

台湾や日本近海で中国船は見かけなかった

昨年長崎より10月15日帰帆したスヘルトーゲンホス
号は日数24日を経て、順調に10月29日バタビアに
到着した。
一去年御当地より御送相成候アメリカ人三月朔日
 「アメリカ」江向ケ差送り申候
一瓜哇中物静ニ御座候      
 右之外相替風説無御座候


昨年長崎から送還のアメリカ人は3月1日にアメリカ
に向けて送った

ジャワ全体は静謐である
   以上の外特に情報はない
注: 返還漂流民前年択捉島に漂着したアメリカ
   漁船ロー^レンス号の7名

             カビタン
              よふぜふへんりいれいそん
    右之通、船頭・へとる阿蘭陀人よりかひたん承り申
    候付、和解差上申候
         申六月廿九日   大小通詞
  商館長
    ヨーセフ ヘンリー レフィスゾン

  以上オランダ船長及び事務長より商館長が
  聞いて報告したので和解申上げる
      嘉永元年6月29日〔1848年7月29日)
             大通詞・小通詞 連名
 

                  解説に戻る














ka01b                           解説に戻る

嘉永元年別段風説書 1848年7月29日長崎到着
一和蘭国王之次男フリンスアレキサンテル儀胸痛相煩、
 旧臘之末頃マデラ島名之気候相応仕候ニ付、寒凌之
 為同所ニ相越養生仕候得共、終ニ者其後二三ヶ月を
 住候而、養生不相叶、行年二十九歳ニ而死去仕候、
 右ニ付国中一統忠勤仕候儀ニ御座候
一当年欧羅巴諸州過半一揆差起、騒動ニ及候得共、
 和蘭に於而ハ安寧ニ御座候
       (オランダの事)
オランダ国王の次男、プリンスアレキサンドルは胸を
煩っていたが、昨年の12月末頃マデイラ島の気候が
寒気を凌ぐのに良い、と云う事で同所で療養したが
2-3ヶ月後終に死去した。 行年29歳だった。 此件
で国中忠勤を尽した。

当年はヨーロッパ諸国大半が動乱に見舞われたが
オランダに関する限り安定していた。

旧臘: 陰暦12月の事
Madeira島: 北大西洋 ポルトガルの西1000キロ
ヨーロッパの動乱: 当年1848年2月にフランスで2月
革命が起こり、これが各地に飛び火し3月革命となり
ドイツ、オーストリア、イタリア各地で動乱となった
一当年二月廿八日、和蘭国領所東印度ニ於而旧令を
 改め良法を相立、掟書相定申候、依之所業都而掟書
 を以取扱候様相成申候
一広東ニ罷在候和蘭国之執政センフアパセル
人名其職
 を辞しヘエルブロウン
人名譲り申候
一去年諸州并アメリカ合衆国へ茶五千五百七拾九万百
 三十五ホント
ホント皇国二百六拾七匁九分余ニ当ル差送り
 申候
     (オランダ東インド領の事)
当年2月28日にオランダ領東インドにおいて、法令を
改定して、全ての事を法律に基き取扱う様になった。

広東に駐在するオランダ執政センファパセルは職を
辞しヘエルブロウンに譲った。


昨年ヨーロッパ諸国及びアメリカ合衆国へ茶輸出
は5,5790,135ポンド
(1ポンドは日本267匁9分に当る)である

一唐国とエケレス国と之引合今以穏ニ相成不申候、広東
 之者共外国人を悪ミ一揆を起申候
一去未年十月廿八日エケレス国若輩之者共六人、広東
 近隣之河ニ遊参之為漕入上陸致候処、徒党之者共
 数多押寄殺害仕、其時広東之執政ケイシグ、右殺害
 仕候者を其罪ニ処し罰し候得共、エゲレス人ハ其戒を
 不足に思ひ、怒気を含自国之者并其所持之品等之儀
 ニ付無覚束思ひ、専用心仕候儀ニ御座候
一右ケイシグ
人名令命を請、去未年正月十一日より広東
 より北京江立帰申候
一唐国帝ケイシグ
人名の倅キンクシー人名ニ令し、父子
 面会為致申候
一広東執政之取替ハ直ニ次席のセンフタイねン
人名
 候様達有之候
       (中国とイギリスの事)

中国とイギリスとの関係は未だに穏やかにならず、
広東の者は外国人を憎んでいる。

昨年10月28日イギリスの若者6人が広東近隣の河
で遊ぶ為に上陸したところ、暴徒が多数押寄せ彼等
を殺害した。 その時の広東執政のケイイングは
殺害者を処罰したが、イギリス人は其刑が不足と云う
事で怒りが収まらず、 自分達の安全及び財産保全
に不安を覚え非常に用心している

上記ケイイングは命令を受け昨年正月11日より広東
から北京に向った
清国帝はケイイングの息子のキングシーに命じ父子
面会させた
広東執政の交替は次席のセンフタイネンが受持つ
事となった

広東執政=両広総督 〔広東、広西)
 Qiying  耆英 1844-1848
 Xu Guangin 徐広縉 1848-1852
一唐国之不法相働候をエケレス国之僧侶心付、其以来
 サンハイ
地名ニ罷在候エケレス国之執政、同所を取締
 のエケレス之軍船を以、舟山之湊内を立切り、不法致
 候者をエケレス国之手ニ而十分戒候、北京ニ運送之
 穀物を 差留申候
一ホンコン
地名ニ而出版之エケレス記録ニ有之候ニ者、
 琉球島ニ罷在候外国人、彼地おいて殺害被致趣ニ
 御座候、然共右記者之説、琉球人ハ兼而温和之気質
 ニ候得者、迚も殺害致候儀者有之間敷、右風説疑敷
 旨御座候
一ホンコン地名ニ罷在候エケレス之執政シルヨン
 ターフェス
人名は職を辞ホンハム人名ニ譲申候、
 右ホンハムは此以前エケレス国之所領ブールピナン

 地名
マラッカ地名シンカフール地名之執政之者ニ御座候
中国が不法な事を行っている事をイギリスの僧侶が
気づき、それ以来上海のイギリス執政は同所の取締
る為に、イギリス軍艦で舟山港を封鎖し、不法を行う
者はイギリスにより処断した。 北京に送る穀物を差
留めた。

ホンコンで出版するイギリス新聞によれば、琉球に
駐留する外国人が殺害されたとの事である。 しかし
この記者の説は疑わしい。 何故なら琉球人は非常
に温和な性質でとても殺害などする事はありえない。

ホンコンに駐在するイギリス総督のジョン・デービス卿
はその職をジョージ・ボンハムに譲った。 彼は以前
イギリス所領プローペナン、マラッカ、シンガポールの
総督を勤めた者である

プールピナン: Pulau Pinang  ペナン島
一唐国海ニ防禦之為備有之候海軍左之通御座候
一手負を救候船 但船号アルクカードル  壱艘
一ブリッキ
軍船之一種但船号シキルールス壱艘筒数拾六挺備
一ブリッキ
同前   但船号コリエムピナサー壱艘 筒数前同断
一ブリッキ
同前   但船号セムピータル壱艘 筒数拾弐挺備
一蒸気船 
但船号 マテア      壱艘 筒数四挺備
一フレガツト
軍船之一種但船号 メラムヒユ壱艘筒数四拾弐挺備
一兵糧船 但船号 シンデン    壱艘 
一蒸気船 但船号 フチエトー   壱艘  筒数四挺備
一同   但船号 スコウト     壱艘 筒数拾六挺備
中国海域に防衛の為展開中の海軍は以下の通り
病院船   Aligator号   一艘
ブリック艦  Albatross  大砲16門
ブリック艦  Columbine   同上
ブリック艦  Serpent     同12門
蒸気船    Media     同4門
フィリゲート艦 Maeander  同42門
兵糧船   Minden    一艘
蒸気船   Fury      大砲6門
スループ  Scout      同18門
一ケイシグと申唐船去々年十月十八日、ホンコン島より
 エケレス国へ向出帆致候処、逆風ニ而彼国へ着船致
 かたく、無拠北アメリカ州江赴、去未年五月廿五日
 ニーウルク
北アメリカ州之地名に着船仕、当年二月比再ひ
 エケレス国へ向出帆、漸同国ロンドンニ着船仕候
ケイイング号と云う中国船が一昨年10月18日
(1846年)、ホンコン島からイギリスに向け出帆したが
逆風の為同国に着船できず、やむを得ず北アメリカ
州に向昨年5月25日ニューヨークに着船した。 今年
2月頃再度イギリスに向出帆し漸くロンドンに到着した

一交址国王は当年四月比死去仕、同人倅当年十八歳
 ニ相成家督相続仕候、右新国王唐国へ使者を以差向
 北京江罷越而赦免を請申候、然ニ交址国家督之儀者
 規矩之通、於北京可被令由御座候

一当年四月比マニルラ島ニ在勤之イスハニヤ国奉行之
 者ソロセン諸島之内ホランギンキ之人を征伐之為、軍
 勢を差向候、以前ハ右島人共海賊を業と致し、是迄
 諸島之人民を奪取、スラーヘン
身之□□主人之□□ト為
 売物仕候故ニ有之候
一右征伐ニ蒸気船三艘、スクーねル
船之一名三艘、石火
 矢船八艘、兵卒六百人、大砲方五十人、野戦筒二挺
 差越候所、右海賊共稠敷防禦致候得共、終ニ者其砦
 を乗取、凡百五拾艘余之船打崩し、大砲百廿四挺奪
 取候上ニ而、右スラーヘン既ニ□リ二百人を助放申候
一右海賊一人も逃去得不申候
一右之儀未承知不致前、和蘭国領東印度役所よりも
 同所之海賊征伐之為、軍船数艘差向候得共、其人数
 未東印度ニ帰国不仕候

一オタヘイテ島ニ於而ハ女王ポマン并其随従之者共、
 フランス人之扶助を相欺申候、且フランス人は此地
 住居の心弥決候様相見申候
一サントウイグ諸島中ホノリュリーに街市或者家屋等を
 美築いたし美麗相成申候、併此島ハコロフヲルニー地
 近隣有之を以、追々交易不進之、土地繁昌之程無覚
 束奉存候
    (ベトナム国、フィリピン、タヒチ、ハワイの事)
ベトナム国王は今年四月頃死去し、同国王の息子で
当年18歳になる者が家督を相続した。 新国王は
中国へ使者を立て北京政府の許可を請うた。 その
結果ベトナム国家督は規定どおり北京で承認された


今年4月マニラに駐在のスペインの政庁はスールー
諸島の内ホロ島の住民を征伐するため、軍隊を派遣
した。 是迄此島民は海賊を生業として他の諸島の
住民を略奪して奴隷として売っていた。

この征伐軍は蒸気船3艘、スクーナー艦3艘、砲艦
8艘、兵卒600人、砲兵50人、野戦砲2門で向った。
海賊側も烈しく抵抗したが終にその砦を占拠して凡
150余艘の船を破壊、大砲124門を奪った上、前記
奴隷となっていた人々200人を解放した。
海賊達は一人として逃亡できなかった

上記の報告以前にオランダ領東印度政庁からも同所
の海賊征伐に海軍を派遣したが、軍隊は未だ東インド
に帰国していない。


タヒチ島では女王ポマン及びその部下はフランスの
援助に欺いたので、フランス人は此地を占拠しようと
決めたようである

ハワイ諸島の内のホノルル市街は家屋が立ち並び
繁華になった。 併しコロフォルニーが近くにあり、
交易は進まず土地に繁昌は望めないと思われる。


コロフォルニー:不明

一フリタニア国領印度之奉行ロルトハルディンケ其職を
 辞し、ロルトダルホウシーと申者跡職ニ相成申候、是者
 以前高官相勤候ものゝ由ニ御座候
一右新奉行昨未年十二月頃支配向引請之為マタラスニ
 到着同所よりカルキュッタ江罷越、フリタニヤ其外国々
 之支配引受候上、商売物港出入運上平等致し、又東
 印度之内フリタニヤ所領彼地之諸港往返分者、諸荷物
 運上全く相止申候


一喜望峰内ブリタニヤ国領ニ向ひカッフル人共軍を起候
 得共、右新奉行シルハルレイスミット智略を以相静申候
  (イギリス領インド、喜望峰の事)
イギリス領インドの総督ハーディング卿はその職を
辞し、ダルホージ伯爵が交替した。 彼は以前高官
を勤めた者との事である。
新総督は昨年12月頃業務引継ぎの為マダガスカル
に到着し、同所よりカルカッタに到着した。 彼は外国
との関係を調整し、商品の港出入りの税金を平等
にした。 又東インド内のイギリス領諸港との往復分は
貨物の関税を廃止した。

喜望峰内のイギリス領に向ってカッフル人が蜂起
したが、新総督のハリースミス卿は智略により鎮圧した


インド総督 
Henry Hardinge 1844-1848
James Ramusay (10代 Dalhousie伯爵)1848-1856
    前職は商務院総裁1845-1848
カッフル: Kaffir 軽蔑的に南アフリカ黒人を云った
 ここではKhoikhoi、コイコイ人、ホッテントット とも
 呼ばれる原住民の事と思われる
 Sir Harry Smith: 英領ケープ総督(1847-1852)

一モール国之首長ニして世ニ名あるアブデルカーテル
 
人名アルケリー地名ニ於而、フランス人ニ数年敵対致候
 得共、終ニ者昨未年十二月十六日フランス国王之倅に
 無拠屈伏いたし候、右倅者アウマーン地のヘルトク
爵名
 ニ而アルケリー地之奉行職兼罷在候
一右アブレデルカーテルは即刻フランス国ニ差送、憐憫
 之取扱ニ相成候得共、再戦之恐有之故籠置申候
      (アルジェリアの事)
モロッコのリーダーで名高いアブデルカーデルは
アルジェリアにおいて、数年来フランスに抵抗して
いたが、終に昨年12月16日フランス国王の息子に
やむを得ず降伏した。 この息子はアウメイルの
公爵でアルジェリアの総督も兼務している。
アブデルカーデルはフランスに送られ、丁寧な取扱
を受けたが、再度反抗の恐れがあるので幽閉された。


フランス国王倅: ルイ・フィリップ王の5番目の息子
Prince Henri, Duke of aumale、1847年アルジェリア
総督、 ヘルトク: オランダ語hertog, duke 公爵の事
一メキシコー地ト北アメリカ合衆国と之戦争相起候、始
 末者北アメリカ之軍将スコットと申者、昨未八月六日
 メキシコー江討入、其街市ニ而手強戦有之候
一右戦争和議之義ニ付、殊更躊躇致候末、漸ニーウ
 カーフヲルニー地を令相渡儀を以和睦相済申候、
 依之北アメリカ州之所領ハオレゴン河より北緯三十二
 度ニ至迄南大平海之方ニ付属仕候
一合衆国之人民、安永九庚子年ニて唯弐百万人有之
 候程ニ近来取調候所、二千八百七拾万人ニ相成申候
 依之商売或ハ土民之出精次第ニ盛ニ年々荒広之地
 を切開、田地ニ仕候
     (アメリカ合衆国の事)
メキシコとアメリカ合衆国の戦争が起こり、後者の将軍
でスコットと云う者は昨年8月6日メキシコに進撃し、
その市街を占領した。
この戦争の和議は紆余曲折の末、カリフォルニアを
メキシコがアメリカに渡す事により漸く和睦が成立した
これによりアメリカの領地は北はオレゴン河より南は
北緯32度に至るまで太平洋に接する事になる

合衆国の人民は安永9年(1780年)には僅か2百万人
だったが最近の調査では2千8百70万人になった。
これにより商業が発達し、住民の努力で年々荒野を
開き盛んに田地にしている。
一昨未年欧羅巴諸州凶作ニ而、諸食物等直段高価ニ
 有之難渋仕候得共、当年ハ幸其難を免申候
一ホルトカル国中の一揆、エケレス国・フランス国・イスハ
 ニア国之取扱ニ而相治り申候、昨未年四月廿八日
 ホルトカル国之女王命令を下し、一揆徒党之者一統
 差免申候
一スウイッツル国中年来之一揆、昨末頃ニ者既ニ戦争之
 崩共相成申、併事なく相治申候
一欧羅巴諸州過半不穏、兎角一揆カ間敷義御座候
      (ヨーロッパ全般その他)
昨年はヨ-ロッパ諸国は凶作で食物の価格が高騰し
苦労したが、今年は幸いに難を免れた。

ポルトガル国内の反乱にイギリス、フランス、スペインが
収拾に協力して治まった。 昨年4月28日ポルトガル
女王は命令を下し反乱の当事者達を赦した。

スイス国内でも反乱が起こり昨年末には戦争になるか
に見えたが事なく治まった。

ヨーロッパ諸国大半が穏やかでなく、住民の反乱が
各地に起こっている。

一近来フランス国中国政之事ニ付大ニ動乱仕候、当申
 年正月十八日フランス国之都府ハレイスニ於而、烈敷
 騒動相起、三日之間一揆之者と軍兵と挑戦いたし
 終ニ者一揆之方ニ而も□□を撰候様相成申候、国王
 者眷属を召連フランス国を引払、エケレス国ニ立退申
 候、 一揆之者者再ひ国王を立る事を不好、以来者
 国民之内より佳なる者を撰ミ、頭人とし、其支配を請候
 を専相好申候様相見へ申候、併此儀者迚も連綿無覚
 束事ニ御座候
一オヽステンレイキ国・フロイセン国・其他ドイツ国之内
 にて同時ニ騒動相起申候、併其模様今ニ巨際ニ者
 相分り不申候へとも、諸人之目当ニ致候者、土人等
 国政之事ニ携り、困窮之者等を救可申趣意ニ候
      (フランスの事)
最近フランスでは国政に関する大動乱が起きた。 
今年正月18日フランスの首府パリで烈しい騒動が
起った。 三日間に渡り反乱側と軍と睨み合った結果
終に反乱側が国政を支配する様になり、国王は一族
を引連れフランスを引払いイギリスに亡命した。 反乱
側は再び国王を立てる事をせず、国民の中から勝れ
た者を選び、統領として支配される事を望んでいる
様に見える。 しかし是はとても長続きする様には思
えない。

オースtリア、プロシャ、其他ドイツ国内でも同時に
騒動が起こっているが、その状況の詳細は分らない
しかし彼等が目標としているのは、住民が国政に関与
して困窮する者達を救うと云う趣旨である。


フランス2月革命:1848年2月パリで起こる。
ブルジョアジーよりの政治に不満を持つ労働者
農民が2月22日集会の解散命令で爆発、24日には
臨時政府樹立
3月革命 オートリアのウイーンに飛火しメッテルニヒ
が失脚しウィーン体制が崩壊する。 更に革命は
ドイツ各地及びイタリア各地に飛火する。
一ベンエレン国ローデウェイキ人名当申二月十六日位
 を辞し、其嗣子マキシミリヤーンデウエーデと申者国政
 をつかさとり申候
一スレースウェイキ
国名并ホルステイン国名中之土人、
 多分者元ドイツ国人ニ候得者、デーねマルク
国名
 支配相免候様専相心懸申候
一右之企を是迄デーねマルク之国兵相拒可罷在候
 へ共、 ドイツ国一味之輩集会之上、右支配を不得止
 事武備を以手段仕候様決定仕候
     〔ドイツ国の事)
バイエルン国のルートビッヒ一世は今年2月16日王位
を辞し、その嗣子のマキシミリアン二世が国政を司る
事になった。

シェレージェン国とホルステイン国の住民は大部分
元来ドイツ人であるので、デンマーク国の支配から
遁れるべく運動していた。
このような動きをデンマークは軍隊で抑えていたが
ドイツの一部はこの支配を止めさせる為、評議の上
武力に訴える事決定した。
一イタリヤ国就中シヽリヤ国ニ於而者、既ニ数年来騒動
 相起候所、去未年十二月七日ハレルモー
地名中一揆
 相起り、終ニ者一国中之騒動と相成申候、右一揆之
 事ニ付而者、シヽリヤ
国名とナープルス国名との政事向
 区別仕候様相成申候、併ナープルス之王ハ先前之
 通シヽリヤ之王を兼帯罷在候
一カトレイキケルキ
寺院之名之首長パウスファンローメ僧官
 之名
 者異国之俗衆支配の事ニ携り、土人之惣代之者
 と一同事を議し候様相成申候
一ロンハルテイ
地名并フェねテイー地名之土人ハ数年来
 オーステンレイキ国之支配ニ随ひ居候も、此節右役方
 ニ向き一揆を起申候、サルディニー
地名之王ハ自己之
 軍兵を以右一揆為致加勢申候、合戦其後オーステン
 レイキ国之軍兵者イタリヤ諸市街より追払ハれ申候
       (イタリアの事)
イタリアでは特にシチリア国で数年来騒動が起きて
いたが、昨年12月7日ハレルモ(国都)で革命が起き
終に国中が動乱となった。 シチリア国とナポリ国との
政治を区別する事が革命の要求だった。 併し結局
ナポリ国の王が従来通りシチリア国の王として兼ねた

カトリックの長であるローマ教皇は外国の支配の事に
携り、住民の代表達と一同に会し話し合った。

ロンバルディー及びベネチア地方の住民は数年来
オーストリアの支配に従っているが、このたび支配者
に対し反乱を起した。 サルディニア国の王は自分
の兵でこの反乱に加勢した。 合戦の後オーストリア
軍はイタリアの各地から駆逐された。


此時のローマ法王はオーストリア寄りであり、ローマの
イタリア人から反感を買い、後ローマから逃げ出して
いる。
右之通ニ御座候     
               加比丹
                よふせふ ヘンリイ レイソン
前記の通り     
         オランダ商館長
      ヨーゼフ・ヘンリイ・レフィソン


Joseph Henrij Levijssohn 1846-1850 出島駐在
出典: 北海道大学図書館力石雑記巻五より














ka02                                              解説に戻る
嘉永ニ酉年風説書  1849年          オランダ風説書集成下

一当年来朝之阿蘭陀船、五月十九日咬留吧出帆仕、 
 海上無別条今日御当地江着岸仕候、右壱艘之外
 類船 無御座候
一台湾辺におゐて唐船見掛不申候、尤日本近海ニ而
 唐船壱艘見請申候
一去年十月廿日御当地より帰帆仕候ヨウセフイネ
 カタリーナ
船号日数十八日経、海上無滞十一月八日
 交留巴着船仕候
当年来日のオランダ船は5月19日バタビアを出帆し
洋上異常なく本日長崎へ到着した。 此一艘以外
に仲間船はない

台湾付近で中国船は見かけなかったが、日本近海
で壱艘見かけた

昨年長崎より10月20日帰帆したヨウセフイネ・カタ
リーナ号は日数18日を経て、順調に11月8日バタビア
に到着した。
一瓜哇中物静ニ御座候      
 右之外相替風説無御座候
ジャワ全体は静謐である
   以上の外特に情報はない

             カビタン
              よふぜふへんりいれいそん
    右之通、船頭并へとる阿蘭陀人申口かひたん
    承り申上候に付、和解差上申候、以上
         酉六月廿三日   御立人
                    阿蘭陀通詞中
  商館長
    ヨーセフ ヘンリー レフィスゾン

  以上オランダ船長及び事務長より商館長が
  聞いて報告したので和解申上げる
      嘉永2年6月23日〔1848年8月11日)
                 通詞中

                  解説に戻る








ka02b                                          解説に戻る
阿蘭陀風説 1849
嘉永二酉歳之阿蘭船七月着船、別段風説書和解    視聴草続八集四、 安政雑記第二冊 
致差上候書付之写

一当年ハ和蘭国も殊之外難渋ケ間敷相困申候
一先年油絵仕立之絵像差上候和蘭国王ウイルレム
 テウエーヲ、漸一両日之病ニ而当酉二月廿三日
 死去いたし候
一同人義壮年之頃より英才武勇有之、軍事之時ハ
 大将軍之任ニ相当り国敵を攻戦致候
一天保十一子年同人父ウイルレムテユールステ之跡
 即位致、正直仁愛を以臣下之撫育致、臣下之ものも
 忠勤を専らと致候
一同年死去致候二三月以前、国中所々被差出候訴書
 夫々取捌、且是迄之制度を改め、国民弥心服
 いたし候
一同人義齢五十六歳ニ而終前文之通空敷相成申候
一当酉三月十二日国王之礼法通り葬式手厚く致し
 テルフト地名ニ有之国王一族之墓ニ葬り申候
一文化十四丑年正月出生之太子当節ウイルレムテルテと
 改名致、国中制度を司り申候


一嘉永元申年三月七日、摂政官ヘアヘハローフアンカベ
 ルレン人名死去致候、同人義右官職ニ相成候以前ハ
 和蘭国領東印度之都督をも相勤たるものニ御座候
一当年ヨーロッパ州之内ニハ騒動之国も有候得共、和蘭
 国ニおゐても静謐ニ無御座候


  (オランダ本国の事)
今年はオランダも予想外に困難だった
以前に油絵に仕立て差上げたオランダ国王の
ウィルム二世が急な病で今年(1849年)2月23日
死去した。 同王は若い頃から英邁で武勇に
勝れ、軍の大将軍として敵に当たってきた。

天保11年(1840)王の父ウィルム一世の跡を継ぎ
正直仁愛を以て臣下を育て、臣下も又王に忠誠
を尽してきた。
死去の二三ヶ月前に国中所々からの訴状を捌き
又是迄の制度を改め、国民は益々心服していた
同王は56歳で亡くなった
今年3月12日に国王の礼に従い手厚く葬儀を
行い、テルフトの国王一族の墓に葬られた

文化14年(1817)正月出生の太子が此の度
ウイルム三世として国を司ることになった。

嘉永元(1848)3月7日摂政官であるヘアヘハロ
ーファンカベルレンが死去した、同人はこの官職
に付く以前はオランダ東インドの都督を勤めた

今年はヨーロッパでは各国で騒動があり、
オランダも又例外ではなく、静謐とは云えない
一和蘭国領東印度より此節改而軍勢をバリ島江
 指向け、其首長心得違ニ而規定違背致候義を
 相糺、当海浜住居之輩、難破船を見掛財貨を奪
 掠シ、渡海之妨と相成候ものを討征致候
一嘉永元申年右島人征討之儀相企、既ニヘリリング国王
 之要害を攻撃致、敵之死亡も多く有之候得共、勝利
 無之、殊ニ欧羅州より之便りニ而者、此度勝負決候程之
 軍勢者難指越旨申越候ニ付、総勢瓜畦ニ退帆致候、
 
一当年指向候軍勢ハセネラールマヨール官名アフユミ
 シイールス人名司り申候
  其勢左之通御座候
一海軍フレカツト船  三艘   一コルヘツト船 二艘
一スクーネルブリッキ船五艘   一スクーネル船 弐艘
一蒸気船       七艘   一武器積小船  二三艘
 右之外商船数艘、軍勢往返之為借り入申候

一右将司バリー島江到着致、ヘリリンク
地名カラングアスサム
 
地名の酋長等我意ニ募り候故、穏ニ帰服為致度、右説得
 之ためニ集会ニ及申候
一右様実意を施候得とも徒労と相成、既ニ四月十五十六日
 両日之間デイヤガラガ
人名ヘリリング地名の酋長と厳敷
 合戦ニ及、終ニハ其要害攻取申候
一右首長とも山中ニ遁去候処、間もなく軍将クーチー
 テイランチーキ人名と共ニ己が臣下之者ニ殺害あひ申候

一四月中旬頃和蘭国之大将コロンコンク人名ハ首長を
 随身為致度心得ニ而、再度乗船致候
一右首長も逆心有之候ニ付、当酉四月其軍勢をスー
 ンギーラーウス地名カスーン地名におゐて攻伐致候処、
 翌四日之夜不時ニ和蘭勢之陣所ニ厳敷攻掛ケ申候、
 此時和蘭軍勢大ニ勇威を振ひ合戦ニ及候処、敵方逃去り
 死亡千人手負八百人有之候得共、和蘭勢ハ只オフシ
 ―ル官名壱人、オントルオフシール官名四人其外士卒の
 討死有之候
一右討死のオフシール官名ハシシールと申ものニ而
 ゼネラル官名を一方之軍勢に有之甚勇敢之者ニ有之候
 処、終ニハ右様相成り誠ニ不弁之至りニ候

一敵方ニおゐてハ和蘭軍の勇威ニおそれ一応ハ随身致候
 処軍将死去、且軍卒等之病疾致候ニ付、其虚ニ乗シ又々
 相背キ、既ニコロンコング地名キャンアル地名首長等兼而
 達シ置候集会ニも出席不致等之事有之候ニ付、ロイテナン
 トコロネル官名ランスーイーテン人名将司として此敵を攻討
 候処、二度目ニもスウンキーワス地名ニ有之祠并トユーハ
 地名之敵陣を打破り候
 然ル処右首長等ジャガタラへ使節差遣、和睦を乞ひ候ニ
 付、パリー地名ニ出陣之軍勢、其地を引払ひ、瓜畦ニ引取
 申候
一和蘭国領東印度ニおゐて惣軍号令之儀者和蘭国王より
 サーキセンウエイマルエイセナク島のヘルトク官名
 に被命置、同人義者三拾余年和蘭国軍中ニ相勤、毎度
 名誉を題シ申候
一昨年三月和蘭軍艦弐艘ソーロー島ニ差遣申候、右ハ
 其島主の臣下とも海賊致候を相糺、且印度奉行所
 従役人之者彼ニ被捕居候を取返しの為ニ御座候
一此時島主の返答不穏候ニ付、島主江日限を掛合置、軍艦
 弐艘を以其都府を焼討致候
一右和蘭軍艦ソーロー島江繫居候処、同所内之者数千密ニ
 逃退、其折ニ游来候右之内奉行所従役之ものも有之候
一右游来候者とも自由之身と成自国江帰り申候

   (オランダ領東インドの事)
オランダ領東インドから今度改めて軍勢をバリ島
へ派遣し、その酋長が約束を違えた事を糺すと
共に、当地海浜に住む者達が難破船から財貨を
奪い、貿易の支障となるので征討した

昨年(1848)前記島人の征討を企て既に
ヘリリング国王の要害を攻撃し、敵の死亡も多数
あったが勝利には至らなかった。 特に本国から
の連絡では勝負を付けられる程の軍勢を送る事
困難との事であったので、全員ジャワに引上げた

今年派遣の軍勢はアフユミシイールス将官の
下、以下の通り
海軍フリゲート艦 三艘、 コルベット艦二艘
スクーナーブリック船五艘、スクーナー船二艘
蒸気船       七艘、武器運搬船二三艘
上記の外商船数艘を軍勢の輸送の為借入れた

上記軍勢がバリ島に到着し、ヘリリング及び
カラングアスサムの酋長達を穏やかに帰服させ
たく、説得の為に集会も持った。
しかしこれは徒労に終わり、4月15日・16日の
両日にヘリリングのデイヤガラガ酋長と激戦
となり、終にはその要害を占領した。
酋長達は山中に逃去ったが間もなく、軍将
と共に配下の者に殺されたという

4月中旬頃オランダの大将コロンコンクは酋長達
を随わせようと再度乗船した。
スーンギラーウスやカスーンでも酋長が謀反を
企ているので、今年四月これらに軍を進めた処、
不意にオランダ陣地に攻撃があった。 オランダ
軍も奮戦し、敵は死亡千人負傷800人を蒙り逃げ
去ったが、オランダ側も将校5名其外士卒が討死
した。 
将校の一人はシールという将官で非常に勇敢な
者だったが、此の様な結果となり気の毒である

敵方はオランダ軍の威力を恐れ一端は服従した
が、オランダ側の軍将の死去や軍卒の病気流行
に乗じて再度反抗し、コロンコングやキャンアル
で酋長達が出席すべき集会にも出なかった。
故にランスイーテン中佐を指令として敵を攻め、
スワンキーワスやトユーハの敵陣を粉砕した。
酋長達はバタビアへ使節を送り和睦を乞った
ので、バリ派遣軍は陣を払いジャワに引揚げた。

オランダ領東インドにおける軍の総司令は国王
よりサーキンウェイマルエイセナク島の総督に
命ぜられおり、同人は30年余軍籍にあり、毎度
名誉を得ている

昨年3月オランダの軍艦2艘をソーロー島に派遣
した。 これはその島主の部下が海賊を行った
のでこれを糺し事、及び東インド出張所の下役の
者が捕らえられたのでこれを取り返す為である

島主は是に拒否の返答をしたので、日限を切り
軍艦二艘でその都府を引払った。
この軍艦をソーロー島に繫いだ処、同所の者
数千人が逃げ去った。 その時に艦に泳いで
来た者の中に出張所の下役の者もいたが、彼等
は自由の身となり自分の国へ帰った。
一唐国ニおゐてハ国民とエケレス人との確執今ニ不穏候
 エケレス人の趣意者天保十三年寅年、南京ニおゐて申極
 候通り、弘化四未年より外国人とも広東府内を徘徊致度
 儀ニ有之候
一右府内徘徊之儀ハ弘化四未歳二月廿一日双方取極
 之ケ条相立候節、其頃ホンコン在勤之エケレス奉行
 二年之間猶予いたし候
一広東之者とも右一条年限ニ至り候而も、極之通不致候
 相拒ミ申候、将又唐国政家の威勢を以、国民之意ニ
 逆ひ取扱候義も致し難く様相見へ申候
一右一件より追而再乱ニ及可申と世人掛念致候、尤唐国
 出張之エケレス海軍当時減少之折柄ニ付、右擾乱暫
 時ニ再発致候義ハ有之間敷候
    (中国の事)
中国では国民とイギリス人との確執が治らない
イギリス人の趣旨は天保13(1842)年に南京条約
通りに弘化4年(1847)には外国人が広東市内を
徘徊できる様にする事である

上記の条件は弘化4年2月21日だったが、当時
香港駐在のイギリス総督が2年間猶予を与えた。

広東市民はこの猶予条件でも拒否しており、一方
清朝政府も国民の意思に反して処理する事も
出来ずにいる様である。

この一件から再び戦争が起きるのではないかと
見ている。 しかし中国派遣のイギリス海軍も現在
減少しているので、直ぐには騒乱は起きないと
見られている。
一当酉四月三日迄之評判記者欧羅巴諸州より唐国
 江出張之海軍左之通ニ候
エゲレス国
 一病人養生船壱艘
   但船号アルソガートル 船司ノ名ハンギール
 一筒拾弐挺備フリツキ船壱艘
   但船号アラフ     船司ノ名モーニス
 一同拾六挺備フリツキ船壱艘
   但船号コロンヒネ   船司ノ名ハイ
 一同六挺備蒸気船壱艘
   但船号チユネイ    船司ノ名ウイルコクキス
 一同断     壱艘
   但船号インフレキシブル船司ノ名ホセアトン
 一同四拾四挺フレカツト船壱艘
   但船号ミアントル   船司ノ名イーツフル
 一同拾六挺フリツキ船壱艘
   但船号アリネル    船司ノ名ミュツチル
 一兵糧船     壱艘
   但船号シンテル    船司ノ名ミチハル
 一筒四挺備蒸気船壱艘
   但船号フリケトル   船司ノ名ニフレツト
 一同拾六挺備フリツキ船壱艘
   但船号ビロツト    船司ノ名レイオンス
嘉永2年4月3日(1849)付の新聞によれば、中国
派遣の各国海軍は次の通り

英国
船の種類  船号    砲数   艦長
病院船   Alligator     ハンギール
ブリック   Arab     12  William Morris
ブリック  Columbine  16  Jhon Hay
蒸気外輪 Fury       6   James Willcox
蒸気外輪 Inflexible   6  Jhon Hoseason
フリゲート Maeander   44  Henry Keppel
ブリック  Mariner    16  Charles Mitchell
兵糧船  Minden        Michael Quin
蒸気船  フィリケトル号 4  ニフレット
ブリック   Pilot     16   Jhon Ince

アメリカ州
 一同拾挺備船壱艘
   但船号ドルビン    船司ノ名オクステン
 一同弐拾弐挺備フレカツト船壱艘
   但船号フレイモント  船司ノ名二人キーモンス・ケトネイ
 一同拾四挺備フレカツト船壱艘
   但船号プレプル    船司ノ名キリン
フランス国
 一同三拾六挺備コルヘツト船壱艘 
   但船号テハヨンナイセ 船司ノ名ラカフィーネ
 アメリカ合衆国
Dolphin号 ブリック  砲10   オクステン艦長
Vermont号フリゲート砲22キーモンス・ケトネイ
Preble号 フィリゲート  砲16    キリン艦長

フランス国
テハヨンナイセ号コルベット砲36ラカフィーネ
艦長


一広東奉行兼外国執事ケイインク人名退勤致
 セウトと申もの其跡職ニ相成申候

一北アメリカ合衆国執事廻相成、イフタツイスと申もの
 唐国江罷越申候
 合衆国フレカツト船フレブル船司キリン長崎より漂民召
 連レ唐国ホンコン江帰帆致候

広東総督兼外国掛ケイインク(耆英)が退任し、
セウト(徐広縉)が新任する

アメリカ合衆国の中国駐在公使が替わり、ジョン
デービスと云う者が派遣された。
同国のフリゲート艦プレブル号、キリン艦長が
長崎より様流民を伴い香港に戻った


在清国米全権使節 Caleb Cushing1843-44
             Alex Everett 1845-47
             Jhon Davis  1848-1850
一当酉年二月廿六日暹羅居住の唐人とも風聞之通
 一揆を起シ候、尤唐人数千人敗北致、漸ク治り申候、
 エケレス所領印度之地ニおゐてセイクス
(ヒユンシヤフ国民
 
ノ名)大戦を発し候、右セイクスハ往年エゲレス所領
 印度奉行所申談、規定相立置候処、近来規定ニ相背キ
 申候

一右戦争の為ニヒユムシャフ地名ハエケレス領印度の地ニ
 付属致候
一セイロン島ニ一揆相起り候へとも速ニ鎮り申候
一エゲレス人とも当時ラハーン
(ポルネ島近隣)居住の儀
 おもひ付候、右ハ此地石炭山をひらき度よしニ候、此地ハ
 外国よりまいり住居致候ニハ季候甚不宜候


  (英国領東インドの事)
当年2月26日(1849)シャム(タイ国)居住中国人
達数千人が反乱を起したが敗北して鎮圧された

英国領インドではシク王国(パンジャブ地方)が
反乱を起した。 シクは往年イギリス領インド役所
との間で条約があったが、この条約の背いた。
この戦争の結果パンジャーブ地方はイギリス領
インドに併合された(1849年)

セイロン島で反乱が起ったが直ぐに鎮圧された

イギリス人は現在ボルネオ島近辺のラブアンに
居住を計画している。 此の地に石炭の山を開く
意向である。 此の地は外国から来て住むには
気候が良くない。
一近頃北アメリカ合衆国中メキシコと付属のニーウカ
 リホルニー地名ハ諸所土中深サわつかの所ニ夥敷黄金
 出産致候、右金山を初メ見出候者とも、大きニ利分得候
 当時者諸方之人々同所ニ往返シ、数多の船ニ食物類
 運送致、右黄金と交易致候、右ニ付而者諸民の
 居住速ニ相増シ交易も次第ニ繁昌可致、又太平海の
 往来弥増シ候様ニ相見へ申候
一チアンテイヘ并ハマナ峡の通路速ニ開度専らニ相励候、
 尤漕水轍路等之工夫最中ニ而最早少々取掛居候
一新和蘭国領ポルトヒリプス
地名ニおゐてカリホルニー地名
 より勝れて黄金若干出産之地有之趣、先頃見出し候由
 ニ候
一北アメリカ合衆国ニおゐてぜネラール官名タイロルト申もの
 国民の撰ニよつて首長ニ相立候、尤国法通り先勤め首
 長ポルフ同人と交代いたし候

    (北アメリカ州の事)
近頃アメリカ合衆国のメキシコと接するカリホル
ニアで土中僅かの所から大量の金が産出した。
当初発見した者達は大金持ちとなり、。現在では
各地から当地へ人々が行き、多くの船で食物を
運びこの金と交換する。 これに伴い住民は急速
に増加し交易も繁昌し、又太平洋の船の往来も
盛んになるものと思われる

パナマ地峡の通路を開く事検討しており、鉄道
を敷設する工夫をして既に少し取掛かっている

オーストラリアでもカリホルニア以上の金が
発見されたという情報がある

アメリカ合衆国では大将のテイラーと云う者が
国民に撰ばれて大統領になった。 随って法律
通り前任大統領のポークは交代する

注 
アメリカ大統領12代 Zakary Taylor 1849-1850 (
任期中死去)、  11代 James Polk 1845-1849
一昨年春より欧羅巴州諸国之人気不穏候処、終ニ大乱
 之基と相成候
一フランス国ニおゐて徒党を結び都而国民自己の財宝
 所有と申儀を相止メ、国中上中下平等之配分いたし
 度企有之候
一右徒党之者盛ニ相成、既ニ昨年六月頃パレイスフ
 ランス国都府 街中ニおゐて火砲打掛、散々騒動差起り、
 数千死傷有之候
一右徒党全ク退治致、ゲネール官名カラアイナクと申すもの
 数月之間政事を司り候
一国政相改候以来ハ国民衆評之上、首長一名プレシデント
 と唱へ申候者を相立、四ヵ年を期限ニ而交代致候様相定
 候
一前条之次第を以、此年二月頃ローデウエイキナポレ   

 ヲンと申もの首長ニ相撰、同人前フランス国帝ナポレ 
 オンの甥ニ候、右国帝ナポレオンハ既ニ一度欧羅巴州中
 数国を掌握致居候処、終ニ文政四巳年シントヘン島江
 流罪被致、其所ニ而相果候
一右ローデエイキナポレオンは其伯父の如く諸国掌握の志
 念者無之候へとも、只其国政を専ニ致し度存念之様   
 ニ相見へ申候   
一フランス国過半ハロードウエイキセリブス昨年二月頃  
 の一乱ニ而王位ニ離れ候義を相歎キ、又多くハ右王之  
 親族或もの全国カーレルティーンテの一族再度王位ニ
 即ケ度願望ニ候

    (フランスの事)
昨年春よりヨーロッパ各国の情勢は不穏になり
大乱の兆しがある

フランスでは昨年1848年2月に反乱が起り、全て
国民は自己の財産を否定し、全て平等に配分
する企てをなす(フランス2月革命)
反乱の群集は昨年6月にはパリで騒動を起し、
数千人が死傷した
反乱を鎮圧した軍将のカラアイナクと云う者が
数ヶ月政治を司った(国王ルイ・フィリップス亡命)

国政を改めるため国民評議し、大統領を選び
四年を限りに交代する様に定めた(ルイ・ブラン
の臨時政府、第二共和制)

選挙の結果、ルイ・ナポレオンが大統領に選
ばれた。 同人は以前のフランス皇帝ナポレオン
一世の甥である。 同皇帝はヨーロッパ数カ国を
掌握したが、最後は1821年にセントヘレナ島に
流され、そこで死去した。

ルイ・ナポレオンは伯父の様に諸国を掌握する
意図は無い様だが、国政を完全掌握したい気
は有るようである

フランス国内過半は昨年2月の革命で王位を
追われたルイ・フィリプス王を歎き、又王の親族
やブルボン家の人々は再度王位に立てたいと
思っている。

注: ルイ・ナポレオンは1848年12月大統領に
 就任し、1852年クーデターを起しフランス皇帝
 ナポレオン三世となる。 〔第二帝政)

一ドイツ国政先年より諸邦ニ分別の処、一国一政帝王 
 相立度義諸人之存意ニ候
一右一条ハ容易ニ難整候、其次第ハドイツ国諸政司
  各々趣意有之、殊ニ何程も政権を壱人帰候義を
 不相好候
一初発ハオーステンレキ国アールツヘルトク爵名の壱人を
 ドイツ国の政司ニ相立候儀可然との評決有之候得 
 とも、ドイツ各国目代之人々フランクフラルト地名集会之 
 上、プロイス国王をドイツ国帝ニ相立候様決談致候、然ル
 処プロイス国王ハ右評決ニ不応、帝位ニ即候儀を再
 許ニ及ばさる程ニ辞退致し候      

一オーステンレイキ国帝フエルテーナントエーステ儀昨年
 十一月七日其甥アーツルヘナク爵名フラスヨフリ人名の
 為に退身致候
一国中一揆相乱、既ニ昨年四月十八日フェルデナント
 エールステ
国帝ノ名、其都府を退去致候  
一昨年九月頃コロアチー地名軍勢と官軍と一致シ右
 都府を包囲し十月四日ニハ都府を取返し候     
一ホンカリヤ国王兼オーステンレイキ国帝ニ対し、一揆を
 起し候者ともウエーネン地名の一揆ニ加勢旁彼地ニ進軍
 致候所、官軍の主将ウインテイースカラツフ人名彼地
 の近辺におゐて右一揆と戦ひ相勝チ候、其後官軍
 ホンカリヤ国名に帰り以来其地今ニ戦争有之候

   (ドイツ・オーストリアの事)
ドイツ国は以前から諸国に分立していたが、一国
一帝王を立てたいと多くの人が思っていた
しかしこの事は中々実現できなかった、それは
ドイツ各国の首長は各々異見もあり、政権を一人
に委ねる事を好まなかった

初めオーストリアの貴族の一人をドイツ国の
首長にしては如何と評議をしたが、ドイツ各国の
人々がフランクフルトに集り、その結果プロイセン
国王をドイツ皇帝に立てる事にした。 しかし
プロイセン国王はこれを断り、二度と撰ばぬ様に
と辞退した。(フリードリッヒ・ヴィルヘルム四世)

オーストリア皇帝のフェルデナント・ヨーゼフは
昨年11月7日、その甥のフランツ・ヨーゼフに帝位
を譲り退位した
オーストリア国中に反乱が起り(三月革命)昨年
4月18日フェルデナント・ヨーゼフ帝はその都府
ウィーンを退去した。

昨年9月にはクロアチア軍とオーストリア官軍と
協力してウィンーンを10月4日奪回する。
ハンガリー国王兼オーストリア皇帝に対し、各地
で反乱を起した者達がウィーンの反乱に加勢し
進軍したが、官軍の主将ウィンテェル・ラデッキ
が反乱軍に打ち勝った。 その後官軍は
ハンガリーに帰ったが、未だに戦争が続いている
注:
 フランスのニ月革命が翌月にはオーストリアの
 民族主義の三月革命となり、ナポレオン以後
 ヨーロッパの 秩序を保ってきた、ウイーン
 体制が崩壊し、ヨーロッパ中が大混乱に陥る。
 ウィーン体制の中心だったオーストリアの宰相
 メッテルニヒは英国に亡命した。

一ロシア国帝はマルダフィー地名・ワルラセイエ地名におゐて
 武備之用意専ニ候、猶ロシア軍右両所ニ兵を備へ申候、
 依之ロシア国とトルコ国との和睦相破れ再乱ニ可及哉と
 諸人掛念致候
一ロシヤ国帝はオーステレキイ国勢ニ加勢の為にセーヘレ
 ベルゲン地名に軍兵を相集メ申候
     (ロシア・トルコの事)
ロシア皇帝はモルダヴィア及びワラキア地方に
武備を整え、兵を両所に送っている。 これは
ロシアとオスマントルコとの和睦が破れ再び争い
が起きると人々が懸念している

ロシア皇帝は三月革命で苦しむオーストリア国
を支援するために軍をセーヘレベルゲンに集結
させている

一オーステンレイキ国ハ政事改革有之、新帝新奉行相立
 騒動相治り申候


一オーステンレイキ国付属のロンバルテイ地名フェネイチ地名
 
同様一揆相起り、今ニオーステンレイキ国人フェネチ地名
 押領致居候 
一サルディニー国王カーレルアルベルト
人名右地を奪ひ返シ
 自己の支配ニ致度、ロンバルティ
地名に両度出勢いたし候
 右国王ハ両度ともケネラール
官名ラートルスケイヤと申ものの
 為ニ合戦打負、終ニ其国を立退、位ハ嗣子フィクトルエマ 
 イールと申ものニ相譲り候、
一ローヤ
地名ニおゐて国民とも其国王パウス官名、代十四世
 ピンクスと申者ニ敵対いたし候
一右パウス
官名昨年十月三十日密ニナーフルス国のカエター
 
地名ニ逃去申候、右ハウス官名速ニ帰国致候様諸人希ひ候
 左様無之候而者国政相乱、強盗抔之悪有之故ニ候
一ナーフル国王軍兵を出シ右一揆を取静申候、右取静
 の手当シシリ島迄ハ不行届、右一揆島中諸街市、殊ニ
 ミスシナ
地名シラキュサ地名を押領致居候て、今ニ戦争
 絶不申候

   (オーストリア・イタリアの事)
オーストリアは政治改革を行い、新帝フランツ・
ヨーゼフ一世は新しい内閣を立て騒動は治まる

オーストリアに付属するロンバルディア及び
ベネチア地方で反乱が起ったが、オーストリア
は抑えている。
サルディニア国王のカルロ・アルベルトはこの
両地方を奪い、自己の支配下にしようと二度出軍
したが、二度ともオーストリアのラデッキー将軍に
敗れた。 終に退位し息子のヴィクトリオ・
エマヌエルに位を譲る。

ローマではバチカンの法王ピウス9世は
オーストリア支持であり独立を求めるローマの
国民と対立する。 暴動を恐れ法王はナポリ国
のガエタに逃げた。 法王に速やかに帰国を
求め、そうでなければ国政も乱れ強盗がはび
こるなど云われた。 
結局ナポリの国王がローマの反乱を鎮めた、
しかしこの鎮圧はシシリー島迄は行届かず、島
中の諸町特にミスシナやシラクサでは反乱軍が
占領しており、今も戦争は絶えない


ローマ法王 英語Pope オランダ語Paus
 
一欧羅巴州北方ニおゐてはセレース地名ホルステイン地名
 の儀ニ付、デーネマルク国とドイツ国と亦々戦争相起り候、
 デーネマルクの方ハ大敗軍と相成候、故にリーニー船の
 うち壱艘被焼討、虚空ニ飛散シ尚壱艘者敵ニ被奪取候
一欧羅巴州之二ヶ年凶作ニ而食物払底之処、昨年以来
 豊饒ニ相成候 
一昨年者又々欧羅巴州及びエケレス国、コレラ病名流行
 致、右病疾此度者先度之如く夥敷者無之候
  (ヨーロッパその他)
北ヨーロッパでシュレースヴィッヒ・ホルスタイン
の帰属をめぐり、デンマークとドイツの間で戦争が
起きた。
デンマーク側の負けとなり、最大の戦列艦の
壱艘焼討ちされて空中に飛び散り、今壱艘は
敵に奪われた

ヨーロッパでは1845年(ジャガイモ)46年〔小麦)
の不作が2年続き食物が払底したが、昨年以来
豊作となった。

昨年は又々ヨーロッパ及びエジプトでコレラが
流行したが前程は酷くなかった

一エケイプテ国のオントルコーニンク官名メヘメツトアリーと申
 もの昨年老衰致候ニ付、其養子者ラヒユンバカーと申もの 
 国政を引継申候 
一右ハカー
人名其後程なく死去致、当時はメヘメットアリ人名
 の孫アブバスパカと申ものエケイフテ国政を司り申候
一アプバスハカア人名ハ国王拝礼之為コンスタンテイノーブル
 国に罷越候
一右アブバスハカア
人名は右国王よりコロートヒシール官名
 并エゲイフテ国のオンドルコーク
官名に被称候、同人帰国
 之上掟相改、殊更彼国之者役義相勤居候を役義召放シ候
   
     (エジプトの事)
エジプト国の支配者であるムハンマドアリは老衰
のため、その養子イブラヒー
ム・パシャ
国政を引き継いだがこのパシャも程なく死去
したので、現在はムハンマドアリの孫である
アッバースパシャが国政を担当する。

アッバースパシャは国王拝礼の為コンスタンチ
ノープルに挨拶に行き、宗主国であるオスマン
帝国皇帝よりエジプトの支配者と認められた。
エジプト帰国後は特に外国人の役職者を解職。

注: ムハンマドアリ(1769-1849)
 オスマントルコの属国だったエジプトの総督と
 なり、エジプトを半独立で近代化に務める。 
 宗主権はオスマントルコのままだがムハメット
 アリ朝を確立する
   
               カピタン
                 ヨフセフヘンリイレイソン

 右之通横文字を以書付差出申候ニ付、和解仕差上申候
    酉七月            通詞目付  
                    大小通詞


 
商館長 
   ヨーセフ ヘンリー レフィスゾン

  以上オランダ語書類を和訳
      嘉永2年7月(1849年8月)

       

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参考:WIKIPEDIA (インターネット百科事典) 英語及びオランダ語版

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