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         越叟夜話(えっそうやわ)現代語訳

   1.秀康公の幼少から秀吉卿養子へ
ある人の質問 松平越前家の元祖である中納言秀康公とは、
かたじけなくも東照大権現家康公の二男という事です。 嫡男である
岡崎三郎様が亡くなったあとは嫡子となり、天下の主ともなるべき方
ですが、そうはならず漸く越前一国を治める事になったのは、どんな
事情があったのでしょうか。
拙者等も当家に代々仕えた者ですが、世代も代わり断片的には伝わって
おりますが確かではありません。 この中納言について詳細をお伺いしたい。
 ご質問の趣旨は良く分ります。長い年月の事ですから、家中でも
はっきり知っている人は少ない筈です。
私なども時代が違っており、全てを知る立場ではありませんが
既に八十歳になります。私が若い頃は秀康公の時代に生存していた人々も
偶におり、まして忠直公・忠昌公の時代に仕えた人々とは毎度会って
おりましたので、直接聞いた話や、その時代の人々の覚書等も見た上で
知りえた事を基にお答えします。

中納言秀康公は幼名を於義丸君と云いました。
家康公に何かお考えが有ったのか本多作左衛門殿へ預けて、
そのまま公表もなく成長されましたが、岡崎三郎様はご存じでした。
於義丸君が三才の時、家康公が岡崎の城に見えたので、三郎様から
作左衛門殿へ内意を伝え、父子対談の座敷の障子を次の間から
於義丸君に叩かせました。

家康公がこれを聞き咎め尋ねられたので、三郎様は座を立ち
於義丸君の手を引いて戻られ、是は私の弟於義丸です、
ご覧下さいと申上ました。家康公も膝の上に抱き上げ、
丈夫に育ったなと云われたので、三郎様も此者が健康で成長した
後は私の良い協力者になるでしょうと申上ると、家康公も
たいへんご機嫌で来国光の脇指を与えて浜松の城へと帰られました。
それ以後は家中の上下の人々も於義丸君と尊敬する様になりました。

1 岡崎三郎 (1559−1579) 家康長男、松平信康、岡崎城主
  家康と信長が同盟中、武田方への内通を信長に疑われ自害する
2 結城秀康(1574−1607)家康二男、秀吉へ養子、結城家へ養子、越前へ
3 松平忠直(1595−1650)秀康長男、越前二代目後、改易、豊後へ配流
4 松平忠昌(1598−1645)秀康二男、越前三代目
5 本多作左衛門(重次 1529−1596)武将、家康股肱の臣
  作左衛門が戦陣から妻に送った手紙は簡潔な事で有名
  「一筆啓上火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

質問、天正五丑年、岡崎三郎様が遠州二股の城内において自害された
後は於義丸君が惣領になりますが、どんな事情があって羽柴家の養子と
なられたのでしょうか。
、不審に思われるのも当然です。三郎様が自害された時
秀忠公は未だお生れでなく、於義丸君が四歳ですから、七八年の間は
確かに嫡子でした。

天正十年織田信長公が甲斐の武田勝頼を攻めた時、往路は信濃路経由
でしたが帰路は東海道を通り、遠州浜松のお城に立寄り於義丸君へ
面会され、中々良い子だと信長公にも褒められたと伝わっております。
しかしその年の六月二日、明智日向守光秀の謀叛の為に信長公は
京都本能寺で自害されました。
家康公は武田家の穴山伊豆守と同道し、信長公に会う為に摂津の堺に
居られました。 信長公他界の報せに接し急遽堺より脱出を図られ、
近江の信楽から甲賀越えをして、伊勢の白子より船で三河の大浜へ
到着し、それより無事岡崎へ帰城されました。 

一方上方においては羽柴筑前守秀吉が信長公の弔い合戦と称して
軍勢を揃え、備中の国より攻上り山崎合戦に勝利して明智を追討しました。
その後秀吉は自立の志があったので柴田勝家と覇権を争い、終に柴田を
討滅し織田三七殿をも殺害しました。

更に尾張内府信雄卿とも争いに及び、大軍を擁して尾張へ軍を
進めました。今まで信長公に取立られた諸大名も皆信雄卿を
捨て秀吉方に付いたので、信雄卿より家康公へ加勢の依頼がありました。
それに応え家康公は尾張の小牧へ出陣し、長久手において一戦を遂げ、
大将秀次軍を追崩し池田正人・同紀伊守・森武蔵守等三人を討取りました。
その武略に秀吉も大いに驚いて軍勢を引き、その後伊勢の矢田河原に
おいて秀吉は信雄卿と和睦を調え、今後家康公とも親睦を深めたいと
ありました。

そこで信雄卿の仲介により於義丸君が秀吉の養子となる事が決まり、
天正十二年十二月於義丸君十一歳の時に大坂へ移られました。
その時石川伯耆守殿次男の勝千代と本多作左衛門殿舎弟孫左衛門の
長男源四郎の両人が児々姓としてお供しております。
この結果、家康公の三男秀忠公が天正七年のお生れですから、
六歳で嫡子として取立られました。

同十三年七月十一日秀吉卿が関白に任ぜられ、列国の諸大名衆も
各官位に進んだ時、於義丸君も元服され羽柴少将参河守秀康と
称しました。これは十二歳の時です。

1. 家康の関西脱出 信長の死により各地の土民が蜂起する中、家康は
 この時軍勢を連れて居らず、究めて危険な状況だったと云われている
2. 秀吉の自立 秀吉は信長の家臣であるが、信長の嫡男信忠も本能寺で死亡
  したので、信忠の子三法師(幼児)を立て、二男信雄、三男信孝(三七)
  を除き実権を握る
3 穴山伊豆守(信君?−1582)武田氏の一族、宗家滅亡後家康の庇護で
  甲斐の一部支配。家康と堺で別れた後、土民の襲撃で落命

質問 秀康公はたいへん若い時に軍勢を率いられたと聞きますが、
何歳の時で、どこの合戦で率いられたのでしょうか
  天正十五年、薩摩の太守島津修理太夫義久が先祖より受継いだ
所領以外に、日向の国を始め隣国に侵攻し、大いに武威を揮いました。
その上秀吉卿の命令にも拘らす上洛もしないため、島津征伐として
秀吉卿が出馬し、その時秀康公は十四歳で初陣でした。

同年四月筑紫の国岩石城に薩摩の熊井備中と云者が立籠っているのを、
一気に攻める様に秀吉卿の命令があり、先手は蒲生氏卿・前田利家、
二の手は佐々陸奥守成政・水野下野守忠重で大将は秀康公でした。
山半分程攻取ったところで落城し、最早軍勢を向ける必要がない事を
利家・氏郷より報告がありました。
秀康公はこれを聞かれ、はやく落城したので、城攻の戦いを出来ず
無念だと涙ぐまれました。 これ見て成政・忠重両人は、敵城が
こんなに速く落ちたのは二の手大将の威光が強かったからで、
これ即ち秀康公のお手柄ですと宥めました。

その後に秀吉公の前で秀康公の事を持出して、流石に家康卿の
御子息だけの事はございますと大いに褒めたところ、秀吉卿は、
それは成政の間違いである。秀康は家康の子であるが、私の養子に
したのだから、軍事の気性はこの秀吉に似たのだと云われたそうです。

    2.秀吉卿養子から結城家の家督相続へ  
質問 その通り秀康公の事を太閤も誇りに思われながら
どんな事情があって結城家に出されたのでしょうか。
 秀吉卿について云えば小身の時より勝れて大機となる
素質の人であり、その上武運にも恵まれて大身となりました。
更に信長公が他界の後は次々と軍を起こし、関西で十五ヶ国程
手に入れ、行々は関東・奥州も支配したい志は在りました。

しかし家康公は新田源氏の正統の家柄であり、その上若い頃から
武田や北條の両家をはじめ、諸方の敵と戦い負け戦らしいものもありません。
中でも遠州三方ケ原・江州姉川・越前金ケ崎に戦いにおける退き方などは
天下の武士が称賛する事であり、弁舌を揮う様に軍略に勝れた
働き盛りの大将です。
その上領国として三河、遠江・甲斐・駿河合せて四ケ国を支配されています。
秀吉公も家康公の事を一目置いておりましたが、長久手の一戦で改めて
その手際を確認して、これは家康公と敵対しては自分の天下を取るという
大望は遂げられないと考えました。 

そこで先ず信雄卿と和睦して後家康公とも和睦を調へ、秀康公を養子にすれば
家康公も必ず上洛あるだろうと考えました。
しかし秀吉卿の考へとは大いに異なり、織田内府からも種々説得にしましたが
家康公は上洛しません。
羽柴下総守も度々浜松へ下り、かくもご上洛を拒まれると和睦も破れ、
三河守秀康殿の身にも支障が有るやも知れませんと云う。
家康公はこれを聞き、三河守は秀吉が養子にしたいと云う希望に任せた以上
最早私の子ではない。親として子を殺しても良いかどうかは秀吉の気持ち
次第であるというご意見でした。

秀吉卿はこれを聞き、重ねて妹朝日姫と家康公の縁組を羽柴下総守に取持たせ、
天正十四年五月十四日朝日姫は浜松のお城へ輿入れとなりました。
この様に深い親戚関係になりましたが、家康公は中々上洛の様子がありません。
一方秀吉卿は九州征伐の件が差迫っており、一時も早く家康公との関係を
緊密にしたく、弟の大和大納言秀長卿の反対を押切り、終に母の大政所を
人質として岡崎に城に差出す事にしました。
天正十四年九月に至り浅野弾正長政を差添え大政所を岡崎の城へ差下しました。

ここに及び家康公も何の気遣いも無くなったので早速上洛の為出発されました。
家康公が大坂へ着くと秀吉公の思いがけないもてなしで、接待の総元締の
大和大納言殿、実務担当藤堂与右衛門殿の両人が京都迄付添いました。
今回のもてなしには家康公もたいへん喜ばれ、以後は親密な関係が築かれ双方で
使者の取交わしも頻繁となりました。

さて秀康公に関しては、元々秀吉卿が何とかして家康公と親しくなるための
手段として養子としたものでした。
そんなある時、天正十七年秀康公が十六歳の時、伏見城内の馬場において
秀吉卿が乗馬を見物され、秀康公も馬を召ましたが、太閤の馬役の侍が秀康公の
馬と競い、その時の態度が無礼だった事で秀康公は不機嫌となり、馬上から
只一打に切落しになりました。太閤の見物所からも近い所だったので
皆大騒ぎとなり、太閤も無礼があったのだから仕方ないと云われたが、
心の内では秀康公を人に勝れた器量の持主と思っておられた事に少し疑問を
持つに至りました。

そのような時、天正十八年の春、下野の国の結城左衛門督晴朝が多賀谷安芸守
と云う家老を上洛させ、晴朝は年齢五十歳を越えましたが家督を継がせる
男子が有りません。ぜひ太閤一族の内一人を戴ければ、自分の娘と結婚させて
結城の家を譲りたいと願い出ました。
秀吉卿は、結城の家は関東の名家であるから、由緒の正しくない者を行かせる
訳には行かない。 幸に自分に養子の息子があるから、是を差上げようと
秀康公の事を約束されました。

此年北條家退治として、太閤が小田原へ下向の節、秀康公も出陣し、
小田原が落城後直に結城へ行かれました。
同年八月晴朝が隠居して家督を秀康公へ譲り、その時の結城本領は
十万千石と伝えられています。太閤も奥州よりの帰がけに結城へ立寄ったと
言います。

文禄元年の高麗陣では太閤が筑紫へ下向の節、秀康公も千五百の人数で
名護屋に在陣し、慶長二年廿四歳の時参議に進み、結城宰相秀康公と
云われました

1 大和大納言(豊臣秀長1540−1591 )秀吉弟、 病死
2 羽柴下総守(滝川雄利1543−1610)織田信長家臣、後秀吉の御伽衆の一人
 関ヶ原で西軍に属したが、家康に召し出され常陸片野藩二万石を与えられる
3 籐堂与右衛門(1556−1630)後の大名籐堂高虎 浅井家の足軽から出発し、
 この時は羽柴秀長の家臣
4 結城晴朝(1534−1614)下総国の戦国大名、結城家17代当主
5 高麗陣 秀吉の朝鮮侵攻
6 結城 下総国結城、現茨城県結城市

     3.秀康公伏見に参勤
質問 太閤秀吉卿の他界後、大坂で石田治部少輔三成と諸大名衆と
争いがあり、三成自身の生命に危険が迫るのを佐竹義宣からの知らせで、
大坂を逃出し伏見へ行き家康公に庇護を願い、佐和山の城へは秀康公が
送ったと有りますが、どの様な事情があったのでしょうか。
  この争いは一朝一夕の事ではなく、高麗陣以来のものです。
事の次第は複雑で細かい説明を省きますが諸大名の中で加藤肥後守殿・
同左馬之助殿・福島左衛門太夫殿・浅野左京太夫殿・黒田甲斐守殿・
細川越中守殿は特に三成と仲が悪く、その当時七人衆と云われて
いたそうです。

家康公も治部少輔を不届な者とは思われましたが、困難に際し命を
預けての頼みに見捨てる事もできないので、七人衆の方々へ説得に当り、
幾分彼等の興奮も収まったので、三成に穏便に佐和山へ帰城されよ、
と云われました。
その夜中伏見の城中で火縄の匂いがするので目付衆に調べさせた処、
七人衆の屋敷だけではなく他の大名衆の屋敷でも火縄の音がすると
報告ありました。これでは三成が帰城する途中が不安であると思われ
秀康公に見送りを指示されました。これを聞いた堀尾帯刀殿も、
拙者も秀康公の道連れにと願出て慶長四閏三月七日、三成見送りに
同道しました。

伏見を出ると醍醐・山科の辺のあちらこちらの藪陰に五騎十騎と人数を
見かけるので秀康公も気を付けていましたが、佐和山から登ってくる
三成の家来共でした。間もなく五六十騎にもなったので三成は、
私の家来共が迎えに来たようですから、もうお帰り下さいと再三断りました。
しかし秀康公は同意せず瀬田迄送ってきた処で、三成の家来の大場土佐と
云う者が軍勢をつれて、佐和山より迎に来たので、瀬田の大榎木の下で
三成は乗物より下りました。帯刀殿が近くに来たので

三成は、三河守殿に此処まで送って戴いた事は忝い事です。 しかし貴殿も
御覧の様に家来共も迎の為に追々来ておりますので、もう貴殿も秀康公に
同道して帰京されたいと。
その旨を帯刀殿が伝えたので秀康公も三成が休んでいる所に来られ、
御断りの件は分りますが、佐和山の城下迄見送る様にと内府から云われており、
此処で帰る訳には行きませんと。
治部少輔も、それは尤の事ですが是までの事は私に護衛が無かったので、
お見送りに預かりました。更にお見送りと云われては、私の男が立ちませんので
是非これより御帰り下さい。 それでもお見送りと云われると此処に幾日も
逗留しなけれなりません。

三成が帯刀殿からも三河守殿が帰京されるように頼んで欲しいという事で、
帯刀殿も秀康公を説得します。秀康公も、そこまで言われるなら帰りますが、
私の名代として土屋左馬之助と云う者を差し添えますと云う事で別れて
瀬田から帰京されました。

堀尾帯刀殿も同じく帰り、直に伏見へ参上し秀康公による瀬田迄の心遣いの
様子や、家中の人々に腹巻・胴丸等を着けさせ、鉄砲五挺に一挺毎火縄に火を
付て持たせていた事等報告した所、家康公もたいへん御機嫌で、そなたの云う
通りであれば若者にしては行届いている、と云われたそうです。

一方三成は佐和山の城へ帰ると土屋左馬之助を大いにもてなし、正宗の刀を
自身で持出して来て、是は故太閤の秘蔵の刀で私が拝領したものである。
是を貴殿へ預けるので、若し三河守殿が見て気に入れば喜ばしいと、
左馬之助へ渡したと伝えられています。

1 堀尾帯刀(吉晴1544−1611)豊臣政権三中老の一人、家康と反家康との
 仲介を勤める。
2 佐和山城 近江国彦根にあった戦国時代の城、この時は石田三成の居城
 
質問 その頃の事でしょうか、大坂城中で奉行達が申合せて家康公を
暗殺する計画がありましたが、当時秀康公は何所に居られたのでしょうか
 その時は秀頼へ重陽の御祝儀を申上げるため慶長四年九月七日、
家康公は伏見より大坂へ下り西の丸に滞在されました。
九日の朝本丸へ入られる時、浅野弾正がお迎えに出て先導し、強力の
土方勘兵衛が後ろから抱きかかえ、大野修理が殺害すると云う計画でした。
この情報を細川越中守殿が入手、西の丸に訪れて密かに知らせ、
今から病気という事で九日の登城は中止し、養生の為と云って伏見へ
お帰りになるのが良いと強く説得します。 

しかし家康公はこれに同意せず九日朝の登城の節、譜代大名衆や
その外御使番衆の中から屈強の人々を選び数名を召連れました。
本丸へ入る時桜の門の番人共が、お供衆が多すぎるので残る様にと押留め
ましたが、聞き入れず各々が本丸までお供し、御使番衆は何れも玄関に
残りましたが、譜代大名衆は秀頼卿面会部屋の次の間に控えたので、
事前の計画とは大に異なり、何事もなく西の丸へ帰られました。

そのまゝ伊奈図書を召して秀康公への伝言を預けられ、伊奈は早馬で
伏見へ帰り、伝言の内容を秀康公へ申上げた所、早速留守に残っていた
人数殆んどが一騎駈けの様にして大坂へ下り、秀康公は手勢で本丸を堅め、
各出口を自身で見分し、堅固に護衛されたそうです。

間もなく此暗殺計画が明らかとなり、調査の結果、外の奉行衆は無関係で
浅野弾正一人の仕業と言う事になり、弾正・勘兵衛・修理三人は何らかの
罪科に問われねばなりません。 
しかし家康公が言われた事は、弾正等の気持ちでは、此家康をさへ殺せば
秀頼の為になると云う考えで事を起したものであるから、不了簡とも
言えないので死罪や遠流にする程でもない。息子の左京太夫へ預ければ良い、
大野と土方については更に軽くせよとの差図があり、弾正は甲斐の国へ、
土方は常陸、大野は下野へと夫々の配流が決まり、大坂は先ずは静かに
治まり家康公は伏見へ帰られたと言う事です

但し弾正が云うには土方と大野は他人へ預けられ、自分が首謀者であるのに、
倅の左京太夫へ預けられたのでは、国持の隠居の様な気楽のもので是は
本意ではない。その上老躰に甲斐の山中の住居では寒風も辛い。願わくば
家康公の領分の内である武蔵の府中は甲斐にも近いので、ここに閑居したい
と願った所、好きな様にと云われたので軽い工事で住居を調へ武蔵の府中に
住み、後々は家康公も府中辺に鷹狩に出かけらた時、弾正の閑居へ立寄り
囲碁などされたと伝えられています。

1 重陽 五節句の一つ、旧暦の9月9日 菊の節句とも言う
2 秀吉の遺言による豊臣政権の秀頼を立てる職制で大名からは
 五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜田秀家、上杉景勝)、
 三中老(生駒輝正、堀尾吉晴、中村一氏)
 五奉行(浅野弾正長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)
3 大野修理(治長?−1615)暗殺未遂事件の時は秀頼近侍、警護隊長
4 土方勘兵衛(雄久1553−608 )織田信雄家臣から秀吉に仕える、
 事件後佐竹義宣に預けられる。後下総多古藩初代藩主一万五千石

     4.関ヶ原戦と秀康公の越前入部
質問 石田三成が乱を起した時、秀康公は何方に居られたのでしょうか、
関ヶ原へ出陣した諸大名衆の中に名前が見えません。
 上杉中納言景勝が石田三成と申合せ、会津の城に立籠もっているのを
家康公が聞かれ、秀頼卿が幼年であるからといって景勝の勝手な振舞は
不届きであると諸大名に諮り、自ら会津へ追討の軍を出す事になりました。
慶長五年六月十六日大坂を出発、伏見城へ帰り留守居として鳥居彦右衛門殿
・松平主殿殿・内藤弥治右衛門殿・松平五左衛門殿の四人の衆を残し、
同十八日伏見を出発、七月二日江戸へ到着、同廿一日江戸を進発、
廿四日下野の国小山に着陣されました。

秀忠公は宇都宮に陣を構え、秀康公は小山と結城とは近いので、軍勢は
結城に残し手勢のみで小山の本陣に詰めて居られました。
そこへ上方より追々飛脚が到来して、今度関東へ諸大名が下向の後、
石田三成が佐和山の城を出て大坂に現れ、小西摂津守、増田右衛門尉、
長束大蔵、安国寺等と計り、宇喜田中納言秀家、毛利中納言輝元、
筑前中納言秀秋、岐阜中納言秀信、島津兵庫頭義弘等を始として、
その外数名申合せて、先ず伏見の城を攻落して夫より関東へ攻下るか、
叉は家康公が上洛する時にその中途で迎えて一戦に及ぶ等の情報が
種々報告されました。

家康公は最初に秀康公を召して本多佐渡守殿一人を側に置かれ、
今度の事について、先ず会津へ進発し急いで景勝を追討し、それから上方へ
進発すべきか、叉は会津に対しては押さえの軍だけを残し、先に上方へ
攻上るべきか、この両案について貴殿はどう思うかと尋ねられました。

秀康公が申上げたのは、景勝儀は若い武将ですが軍事に勝れ、有能な部下を
多く持ち百万石の大身です。特に会津城は甚だ堅固ですから急いで攻め
つぶそうとしても、かなり時間が掛かる事が考えられます。
一方今度上方において敵対する大将達の中で、これと云う人物は一人も
おりません。故に上方へ進発し一戦の上勝利さへなされば、景勝は自然に
降伏する以外なくなります。私は今度の下向に同行した諸大名と連れ立ち、
お先へ攻上るべきかと存じますと申上げました。

家康公も同じ考えの様子で、それなら景勝の押へは誰にやらせるかと尋ねます。
秀康公は再度、先程の様に景勝は単独とは云いながら簡単な敵では
ありませんので、それを考慮して人選が必要と存じます。
家康公、夫ならば貴殿以外に景勝の押へに残す人は無いので、左様
心得られたいと上意がありました。

秀康公、今度上方に於ける一戦は天下分目の合戦とも云うべきものです。
故に私は残る事が本意ではなく、たとへ御機嫌に背いても御断りして
上方へ本隊に先立ち攻め上がりたく存じます。
家康公、先程そなたは、上方はこれと云った強敵もなく組し易く、一方
景勝は単独でも難敵であると云う。それなのに上方に行きたい、と云うのは
景勝を相手にするのが嫌なのかと、秀康公を理詰めされました。

そこで秀康公も、此上は何れの道も御奉公は同じですから景勝の押へを取ります。
私がお請する以上は上方へ御出陣後の事は少もご心配なくと申上げました。
この潔い承諾を側に控えた佐渡守殿は聞いて感涙を流し、家康公もたいへん
満足と感涙され、納戸掛かりに指示して鎧を一領取寄せ、是は若年の頃より
数度の戦で使用したが一度も不覚を取った事がない秘蔵の鎧である、
今度大事な留守を頼むので是を譲ると上意がありました。

秀康公はこれを拝領し陣屋に戻ると結城代々の四家老多賀谷・水谷・山川・
岩上等を呼んで、上意の趣をを聞かされ、拝領の具足を披露されました。
秀康公は彼等に、自分は今度重い役目を蒙ったので、若しも御留守の間に
異変があれば命を掛ける覚悟である。各々方もその積りで忠勤されよと
申渡しました。
その後宇都宮・氏郷・那須・大田原辺へも折々出馬し、会津の押さえとして
小山に在陣されたとの事です。

家康公は九月朔日、江戸を出発、同十五日関ヶ原の一戦を勝利され、
関の藤川の台に馬を繋いでいた所へ、秀康公が付けられた真砂作兵衛と
山名与治兵衛両人が共に手柄を上げその印の首を持参したので目通りして
褒められました。
この合戦勝利の様子を一刻も早く秀康公へも知らせたいと思われ、両人にすぐ
戻るかと上意ありましたが、両人共負傷しており、急ぐ旅は難しいと
御断りしたので、別人に秀康公への自筆書状を持たされました。
その文言は、今度の濃州関ヶ原の合戦で勝利できた事は偏に貴殿が奥州方面を
強固に押さえ、関東が静謐だったからである。
今までの人生でこれに勝る喜びはないという事でした

さて秀康公は関ヶ原戦の勝利の一報以後も小山に在陣しましたが、
信州の真田安房守も降参したので、景勝も勢い尽きて秀康公へ降参の
申入れがありました。そこで榊原式部殿を始め奥州押への面々に
軍勢引上の命令があったので、小山の陣を引払い江戸に出、早速使者を
上方に立て、天下一統のお祝いを申上げました。

その年の十一月廿七歳の時、越前の国を拝領する事が結城に
知らされたので、お礼の為小栗備後を差し上らせ、本多伊豆守に城を
請とらせました。
翌年の春上杉景勝を同道して上京し、五月に至り伏見より大津へ出、敦賀を
経由して、越前へ入部、その年の九月より北の庄城の工事に掛かりました。

この越前拝領のお礼のため秀康公が江戸へ参勤された時
秀忠公は鷹狩りの序にと品川迄出かけられ、対談の上同道され直に本丸へ入り、
秀康公の乗物をも玄関へ横付する様に言われました。
秀忠公が待って居られ、お先へと上意がありましたが、秀康公は将軍より
先へは、と控えられれば、秀忠公が、では御案内のためと先へ入られました。

饗応が済んだ後秀康公は二の丸の御殿へ入られ、家老衆始め御供衆は、
老中方の居屋敷を一軒明渡してのもてなしです。 
この逗留期間で秀康公が本丸へ上り、今日の下りは遅くなる筈という事で
御供衆は用意された館へ帰りました。ところが以外に御用が早く済、
玄関までお下りしたが御供衆が居らず、呼ぶ様に云われたところ見送りの
老中方の手配で当番の両御番衆が二の丸迄御供して帰られたと伝わっています。

1  織田秀信(1580−1605)織田信長嫡孫、幼名三法師、岐阜城主13万石、西軍
2 上杉景勝(1555−1623)上杉謙信の養子、豊臣政権の五大老の一人
3 真田安房守(昌幸1547−1611)武田家臣、武田滅亡後、独立後豊臣家臣
 会津120万石、江戸幕府の初代米沢藩主30万石
4 両番 将軍の身辺警護をする書院番、小姓組番
    
      5.越前は制外の家
質問 越前家を世間では制外の家と云っておりますが、これは
どんな事でしょうか。
 越前家は制外、と言うのは特に幕府から公式に出たものではありません。
家康公は、秀康公の事を天下をも譲るべき人と考えられ、秀忠公にとっても
正統な兄上という考えがあっての事でしょうか。越前家は諸事に関し特例が
認められた事がありました。

例えば家康公、秀忠公の両代の間に、旗本衆の中には上へ不満を抱たり、
叉は御機嫌に背き、或は喧嘩の上で仲間を討つ等して旗本を去って越前へ
流れた者でも、その理由が武士道の落度で無ければ姓名も元の侭で召出しても
幕府から特にお咎めもなく、芦田右衛門・天方山城・御宿勘兵衛・島田右京
などを始として、其外数人あったそうです。

さて叉秀康公が越前より木曽路を通り参勤に上る為、上野の国笛吹横川の
関所を通る時、鉄砲を持参していたので関所の番人が出てきて鉄砲は禁制で
あるからと押し留めました。
その報告を秀康公が聞かれ、それは番人共が私の事を知らないからである、
それを良く伝えよ、といわれました。 その事を細かく、説明したところ、
幕府の関所においては、誰殿・彼殿も通る事はできないと口々に雑言しました。
秀康公はこれを聞き、鉄砲が禁制なら、その理由を云えば良いのに、
幕府を重ずる番人として、私を軽く見て無礼な事を云う不届者共である。
一人残らず討殺す様に云われたので、御供の面々は鑓・長刀の鞘をはらい、
押込んできたので番人共は皆逃げ去り、夜通し江戸へ走り事態を報告しました。

家康公はそれを聞いて、それは番人共が相手を知らなかったからだ、
打殺されずに幸だったという事で何のお咎めもありませんでした。
右の様な事から世間では制外の家と云ったものでしょう。

次に慶長十年四月十六日、山城国伏見において秀康公が従三位中納言に
任ぜられ、家康公・秀忠公同道で秀康公の御宅を訪問された時、
目出度い事であるから猿楽の興行を用意されるに違いないと皆思っていた所
以外に相撲を上覧に供しました。そのころ天下相撲の大関は加賀の家中の
松村惣次郎と云う者で元来は徳永法印寿昌の家来でした。
相撲をよくとり、北野千本における勧進相撲で七日間で一度も負をとらず都合
三十三番の勝名乗りを上げたので、異名を順乱と云い天下相撲の名人と評判を
取ったそうです。

此順乱も秀康公へ当日召出されて、越前の嵐追手と云う者と三番取組み、
始は追手が勝、二番目は順乱が勝ち引分けとなりました。
その時勝負をさせる様にと上意があり、叉取組み、双方手を砕きながら
立合う前代未聞の見物で両御所様もたいへんご機嫌だったと言います。
終に順乱が負けたので三番の勝相撲は越前の嵐追手と名乗りを上げました。
これに庭先の見物人からは御前であるのに憚りも無く賞賛の声が暫く
止みません。 御目付衆が駆けつけ制止するも鎮まらず、そこで秀康公が
立上り庭先を見回すと、諸人の声も止み皆平伏しました。
この様子を家康公は見られ、還御の後、秀康公に威厳の程を感じて
語られたそうです。
将軍家来訪のもてなしに相撲などを行う事も他の大名方ではできない
事だと当時も話題になった由です。

1 徳永法院(寿昌1549−1612)武将、美濃高須藩初代藩主

質問 秀康公にはお子様は幾人あったのでしょうか
  嫡子は参河守宰相忠直公、次男は伊予守宰相忠昌公
四番目の子息は出羽守直政公、五番目子息は大和守直晴公、
六番目子息は但馬守直良公、以上男子五人、三番目は女子で
毛利長門守殿の奥方になりました。
但大和守直晴公については慶長九年北の庄において出生後、
そのまま結城晴朝方へ養子に出され、晴朝の下で成長し結城の家督を  
継ぎました。秀康公はその年より徳川の本性に立帰り、名乗も以前の様に
秀康と改められました。結城の家督の間は秀朝公と申したそうです。

質問 秀康公へ御城普請の御手伝を割当られた事等はあるのでしょうか。
 御手伝を割当られたと言う事はありません。
家康公が駿府のお城に移り、普請を計画されている事を秀康公が聞き、
慶長十一年本多伊豆守を駿河へ派遣し、越前の人夫によって富士の
山間より用木を伐りだしました。
翌年の春に至り、伊豆守はこの用木を残らず沼津へ引出して後、
駿河へ参内しその件を報告したところ、家康公はたいへん御機嫌で、
伊豆守を召出し、料理を下され、左文字の銘刀を自ら与えられた事が
ありました。この様な事を御普請の御手伝と言う事もできます。

1 本多伊豆守(富正 1572−1649)秀康越前入部時の付家老
 越前藩初代―三代に仕える

      6.秀康公の死去
質問  秀康公はまだ若い中に逝去されたと聞きますが
本当にその通りでしょうか。
  慶長十一年の春頃より少し体調が悪くなり、白山の入湯など
されましたが次第に悪くなり、翌年の春に至っては病状も差し迫りました。
御自身も今度は快復する事は難しいと考え、お佐の局を駿河へ派遣し、
私は病気が重く、養生も出来ない状態となりました。
先月廿八日に尾張の薩摩守も死去され、今度私迄先立つ事になるのは
仕方ありません、御暇乞のため局を送り申上げますと、口上で伝えました。

家康公はこれを聞いてたいへん悲しまれ、秀康公は同じ御子様方の中でも、
度々手柄もあったのに、越前一国だけしか与えていなかった事を
今更残念に思い、今度病気が快復したら祝儀の加増として、近江・下野の
内両所を合わせて都合百万石になる様進ぜられた由です。
局にこの書付を持って急いで越前へ帰る様云われたので御前を立って
早乗物で帰る途中岡崎の駅において、去四月八日秀康公が逝去
された事を知りました。局は泪にむせびながら、岡崎より駿府へ立帰り、
直に御城へ上り、家康公は調度囲碁の最中でしたが、秀康公の逝去を
申上げ例の書付を返しました。

家康公はたいへん悲しまれ、局は女性ながら歎きの中でよく気が付き、
書付を返上したと上意が有ったそうです。
但しこれは局の余計な分別だったとも伝えられています。
秀康公は三十四歳にて逝去されました。

1 尾張薩摩守 松平忠吉(1580−1607)家康四男、関ヶ原での負傷が元で病死

質問 秀康公逝去の節、家来衆の殉死が多かったと伝えられていますが、
それはどんな人達だったのでしょうか。
  土屋左馬之助と永見右衛門の両人は殉死を遂げました。
左馬之助は武田家に仕えた土屋右衛門尉の甥ですが、秀康公に段々に
取立られて、越前の内大野において三万八千五石を戴いていました。
永見右衛門も同じく近習の者で知行壱万五千石まで戴いた者です。
但土屋の家来長治四郎左衛門、永見の家来田村金兵衛の両人も各主人の
ために殉死したので殉死人数が多い様に聞こえます。

その節本多伊豆も殉死の覚悟でしたが、役目上多亡であり、これらを
処理した後でと考えていた所、将軍と大御所の耳に入り、
秀忠公より伊豆守方へ直書を下げられ、その文言に、今度中納言の供を
考えている事が聞こえて来たが論外である。三河守忠直を取立、忠節を
尽くす事が肝要であり、深くその事を考えよと云われました。

叉家康公から越前の家老方へ直書の文言でも、今度中納言の死去に
追腹を切って供をしようと云う者がある由聞こえてきたが、
死ぬ事は易く、その主を立る事は難しい。若しその様な事があれば、
越前は肝要の地であるから、別な処理をする事になろう。
中納言へ忠節を思う者は決して供する事が有ってはならない。 
若し有れはその子孫迄絶やすと述べられており、
この書面を読んだ家老達が集まり、伊豆守に強く説得したので、
思い留り落髪しました。
右の書面二通は今でも本多孫太郎方に伝わると云います。

1 本多孫太郎(長員1669−1717)本多伊豆守富正孫、福井藩三代目家老

質問 秀康公の宗旨は禅宗ともあるし、叉浄土宗ともあるのは
何故でしょうか。
 結城に孝願寺と云う曹堂宗の寺があったのを越前の城下へ引移して、
菩提所として建立されたので、秀康公の逝去の節は、この孝願寺で葬儀が
行われました。 その事が駿府へ報告されると家康公は、元々結城を
名乗っているなら禅宗でも良いが、結城の家を別に立て、徳川(松平)
の姓に戻った上は、徳川代々の宗旨であるべきと言われます。
そこで急遽京都知恩院の満誉上人を越前へへ下らせ浄土宗の一寺を建立し、
満誉上人を開基とする浄光院と称する寺へ改葬して法事を営みました。
法名は淨光院殿前黄門森巌通慰運正大居士と云います。 

秀忠公も秀康公の逝去を聞かれ、落胆したとの上意で増上寺に位牌を
建て仏参されました。
綱吉公(五代将軍)の時代に増上寺方丈が焼け、代々の位牌が残らず
焼失した時、秀康公の位牌も一同に失われましたが、幕府によって
代々の位牌と同様に建かへられました。
これは元々秀忠公の上意で建てられた為だと聞いております。

     7.二代目忠直公と越前騒動
質問 中納言秀康公の事は大体了解しました。
二代目宰相忠直公は何歳の時に家督を継がれたのでしょうか。
 忠直公は、文禄四年、下総国結城において出生され、幼名を
国丸君と言いました。後に長吉君と改名され、慶長十二年に秀忠公が
諱の一字を下さり、秀康公の跡を相続する様に仰付られました。
これは十三歳の時の家督です。

質問 忠直公の代に越前家中で大きな争いがあり、最早身上を
保てなくなる様な事がありましたが、家康公より特例の処置が出され、
忠直公の身上に障りなく、叉家も安泰だったと伝えられています。
どんな事が有ったのでしょうか。
 これは慶長十六年、忠直公十七歳の時と聞いており、その内容は、
久世但馬と云う壱万石取りの者と、岡部自休と云う町奉行役の者が
争った時です。 今村大炊・清水丹後・林伊賀の三人の家老達が一致して
自休に味方をし、中川出雲と云う者、これは清涼院殿の弟で知行四千石
取の者ですが忠直公に近い親類故権勢があります。この出雲を右三人の
家老が取込、但馬と自休の争いは、但馬に非がある様に報告させました。

忠直公は年若く経験不足のため、これに惑わされて、但馬を不届者で
あると判断された様です。本多伊豆をはじめ、牧野主殿、竹島周防等の
面々は、この争いは最初より但馬の言い分が当然で、自休に非があると
判断していたので、但馬方と自休方に家中が二つに割れてしまいました。

牧野主殿は考える所ありと高野山に蟄居してしまい、その後竹島周防を
捕えて刀・脇指を取上げ城内の矢倉へ押し込め、久世但馬を成敗すると
決まりました。
一方但馬は片手討には成るのは不本意と屋敷へ籠もり討手を迎え、
切死すると覚悟を決めていると噂がありました。

忠直公は、本多伊豆は日頃但馬と親しい様だから、但馬宅へ行き意見する
様にと云われました。 たいへん難しい御使いですが、断る訳にも行かず
当然ながら他人へ譲る様な事でもなく、必死の覚悟を決めて但馬宅へ行き
面会を求め、供の者共達は門外に残し侍両人連れて屋内に入りました。
但馬に対面して本人の思いを一通り聞いて帰ろうとした時、但馬の家来
木村八右衛門と云う者が、伊豆を切殺しましょうと強く言うのを、
但馬は制して、私の身命はいずれにせよ無い。死後に私の思いを申し開き
してくれる者は伊豆以外にない。決して手出しはならないと押留たので、
伊豆は助かり門外へ出ました。 
同時に討手が塀を乗越えて入り、但馬家来百余人と烈しく切り結び、
その間に但馬は切腹して事は終りました。

しかしその後も鎮静しない状況が江戸に聞こえ、忠昌公が十五歳の時ですが
老中方に、越前の家中に騒動があるようなので、私は急いで馳参して
兄三河守と相談の上何とかしたいのでお暇を下さいと願出ましたが、
両御前は許可されません。

上意により本多伊豆、今村大炊・清水丹後・林伊賀・中川出雲・竹島周防
及び当事者の岡部自休始、其外数十人江戸へ呼び付けられ、その時
牧野主殿も高野山よりより参じました。
取調べの結果、本多伊豆が言上した通りで間違いないと云う事で、
大炊・丹後・伊賀・出雲・自休は全てお預けとなり、本多伊豆・牧野主殿・
竹島周防三人は越前へ返されました。しかし周防は刀や脇差を取られた事が
口惜しく、道中で自害して死亡したそうです。

さて越前の家中では大身の家老が三人も身上を失ったので本多作左衛門殿の
子息飛騨守を加増して旗本より越前の家老に付け、今村大炊の領地であった
丸岡を下されました。それ以後越前家の両本多と云われています。

右久世但馬を成敗する時、伊豆守が但馬の門内へ入ったら合図をして
城中の鐘をつかせ、それと同時に討手の者共が但馬の家へ乗入、伊豆をも
但馬と一緒に打果そうと、悪党共は計画していました。
その合図をしたその時に釣鐘の撞木の吊緒がきれて、鐘を撞く事ができない
内に伊豆守は門外へ出て難を遁れたと云う事です。
たいへん不思儀な事だと、その当時の咄の種になったと伝えています。

忠直公は若輩と云っても既に十七歳であり、家中で右の様な大きな騒動が
起き、甲冑を付け飛道具を用いて人も多く死亡しており幕府の裁きも
ある以上、他の大名方であれば決して身上を保ち得ない事です。
しかし何の別条も無く、本多飛騨を家老として付けられる事から見て
偏に故中納言の家柄であるからだと世間では評価したそうです。

此年忠直公は従四位下少将に任ぜられ、秀忠公の姫君が越前北の庄の
城へ輿入れされました。
慶長十九年の冬、大坂の陣で廿歳の時初陣に立ちました。

1 清涼院(岡山)中川一元女、秀康側室 忠直、忠昌生母
2 秀忠公の姫君 勝姫(1601−1672)秀忠三女、慶長16年輿入れ、後の高田様
3. 本多飛騨守(成重1572−1547)幼名 仙千代。 一筆啓上に出てくるお仙

   
     8.忠直公と大坂夏の陣
質問 大坂夏の陣では忠直公の働きについて疑わしい事がありました。
事の始終は五月七日の一戦の先手は加賀と越前と軍令があったのに、
大軍である加賀の部隊を追越して、先に合戦をしたというのは、どんな
事情が有ったのでしょうか。
 大坂攻めにおける総先手は藤堂和泉守殿と伊掃部頭殿と事前に決まって
いた事でした。しかし五月六日藤堂殿は矢尾(八尾)において、城方の
長曽我部と一戦し、掃部殿は若江で城方の木村長門守との一戦があり、
掃部殿の部隊でも負傷者や死人があり、これに続けさせる事はできず、
藤堂殿の部隊でも先手を受持つべき家老達が大かた討死を遂げ、部隊を
指揮する者は渡辺勘兵衛只一人が残った様な状態でした。

この報告が両御所に上がったので両家共に先手からを除き、明七日の
先手は加賀と越前に決定しました。忠直公の気持として、加賀の手を
借りずに一の先手と成りたいとあり、秀忠公の本陣へ両本多が参上して、
本多佐渡守殿へその事を申出ました。

その時家康公が入って来られ、佐渡守、あそこに居るのは誰だと上意が
あるので、越前の家老の伊豆と飛騨ですと申上げた所、家康公は両人に
向かい、今日昼の合戦時、そちの家中の者達は昼寝をしていたのかと
云われ、佐渡殿へ向って両人は何の用で来たのかと尋ねられました。
佐渡守が、明日の先手を伺う為に参上したものですと申上げれば
叉両人に向って、明日の先手は加賀に命じてある、とだけの上意だった
ので両本多は止む無く陣所へ帰り細報告しました。

忠直公は大いに不満で、此戦は明日の一戦で決着が付くだろうから
帰国したら速に越前の国を差上げ、武士を捨て高野山に住居するしか
無いと云います。両本多共に、それはどうしてですかと問えば、
忠直公は、加賀の筑前守が勤まる事を此三河守には勤まらないだろうと
両御前に見下されては、越前の守護が一日も勤まるかと言われる。
伊豆守はこれを受け、その様なお考えなら明日の一戦を成されたい様に
戦い、その上で軍令違反を理由に越前をお上に召上げられるというのは
如何でしょう、と飛騨守も同時に申上げました。

忠直公は大いに喜び、そなた達両人がその様に考えるなら、これで明日の
一戦は加賀を差し越して一番先手の合戦と決めるので皆もその様に心得よ、
と云われました。
伊豆守は重ねて、そうと決まれば吉田修理を呼び明日の一戦の事を
相談されるのが良いでしょうと言えば、則修理を呼び説明されました。

修理は、なる程お考え了解しました。それでは夜も短いので殿も早速御仕度
下さいと申上げ、両本多に向って拙者は陣所へ帰り支度出来次第に組の者と
手勢を率い先へ出発します。御両人も押詰め続いて下さいと云い残しました。

修理は陣所へ帰って急いで準備を整え、部隊を繰出して進めれば、加賀の
先手の者達は、是は何方の部隊が我々の部隊に並ばれるのか、と問えば
修理は馬を乗寄せて、是は越前家臣の吉田修理と云う者です。今日天王寺
攻めの先手を三河守に命ぜられたので部隊を進めています。岡山筋の
先手は加賀へ命ぜられたと此方では聞いております。此件は各々方へ
筑前守殿から言われていないのですか、と言捨て部隊を進めます。
それに続いて両本多を始、忠直公の旗本勢まで一続きで加賀の部隊を
押退けました。

未だ夜の内だが、修理は味方の部隊の中で主だった面々の馬の側へ
乗寄せて、昨晩両御所の上意に、昨六日の合戦の節、越前の家中の
もの共は昼寝をしていたのかとあった事は当家の名折れである。
今日は目の覚たような働きをしなくてはならない。此修理は働き死の
覚悟を決めているので各々も大に働かれよと云い回りました。

さて夜も完全に明けたので、城方の将毛利豊前守、真田左衛門佐を始、
城兵は次第に部隊を調へ双方睨み合となる。朝十時過頃より城兵が静に
部隊を進めたので、味方も足軽を進めて鉄砲を打ち掛けると同時に、
本多伊豆・同飛騨の両部隊の面々が前後左右構わず、えいやの声を上げ
しゃにむに突っ込めば、毛利・真田の部隊も懸って来て一戦に及びます。

城兵が終に戦負けて引退く所を越前勢が勇み進んで追討し、討取首数
三千六百五十、その中に真田左衛門佐は西尾仁左衛門が討取り、
御宿勘兵衛を野本右近が討取りました。
家康公は茶臼山の陣場で真田及び御宿の首上覧の時、西尾と野本も
御前へ召しだされ、感心の上意を下されたと伝えられています。

此日家康公は合戦が始る頃、玉造り口方面の谷蔭の様な所で乗物に乗り、
お茶など飲みながら御側衆と若い頃の合戦の話などして居られました。
秀忠公はこの事を存じなく、越前勢の各部隊が先頭に立って戦って
いるのを家康公の旗本と見間違えられました。 その為かなり焦り
旗本を前に出そうとされたが、其頃諸大名の部隊も遅れてならじと
ひしめき合うので大軍の旗本勢を進める場所がなく心苦しく思われて
いました。 その後二条城で諸家の働きについて評価の時、それが
越前の部隊だった事が分り、ほっとされたそうです。

1 前田筑前守(利常1594−1658)加賀二代目藩主 父は前田利家
2 木村長門守(重成1593−1615)豊臣軍の主力として八尾・若江の戦いで討死
3 真田左衛門佐(信繋1576−1615)別名幸村、昌幸二男
4 毛利豊前守(勝永1577−1615)秀吉家臣、森姓を秀吉の計らいで毛利に改姓
    
      9.忠直公、豊後へ配流
質問 右の状況では忠直公は軍令違反が明らかであり、何らかの御咎が
有って然るべきですが、それが無いのは何か言分けの立つ事でも
あったのでしょうか
 これに関しては二条城で諸軍の働きを評価する時、前田家から訴へも
ありましたが、それについては両御所より前田家へ何か上意が
あったようです。

勿論越前家の家老達へも色々尋ねられた様です。本多伊豆守の報告は
去六日夜半頃、こちらの先手組にお上もよく御存知の吉田修理が居りますが、
何と思ったか手勢及び配下の部隊を引連れて敵城の方を目指して出発すると、
これを知った私共両人(伊豆、飛騨)の部隊の侍達も動き出して修理に
続きました。従って私共両人も止むを得ず出発しましたので、先手の
者達が全て出発してしまった以上、三河守の旗本部隊も是非なく続きました。
夜が明けてからの事は申上る事もありません。

吉田修理は激戦の後、天満川を乗渡るいって不覚にも深みに落ちて
馬共々に沈んでしまい、何も事情を調べ様もありません。たいへんな
不調法であり申訳ございませんと云った由。 この様な次第で忠直公の
言分けも成立ったのでしょうか。 その証拠に何の御咎めも無かったと
伝えられています。

その年忠直公は参議に任ぜられ、初花と云う天下無双の御茶入を拝領しました。

質問 吉田修理と云う人は越前家古参の人ですか、それとも新参ですか。
  修理は、秀次関白殿に仕えていた者ですが秀康公の代に、武功の者
という評判を聞き、召し出して知行壱万四千石を与えられました。
大坂辺は十分知り尽した者なのに、深みにはまり不慮の死を遂げるとは
疑わしいと当時の評判でした。

質問 忠直公が豊後の配流先へ行かれたのは何歳の時でしょうか。
  元和九年三月、忠直公が廿九歳の時、豊後国萩原へ行かれました。
出家名を一伯と改め、慶安三年九月、五十六歳で逝去されました。

1.忠直豊後配流 家臣をむやみに殺したり、勝姫を殺そうとした等の乱行の為
 幕府より隠居、配流を命ぜられた。

       10.忠昌公と大坂夏の陣
質問 忠直公の事も大体分りました。と言う事で伊予守忠昌公の
成立も知りたいのですが。
  宰相伊予守忠昌公は秀康公の二男で、慶長二年十二月十四日大坂で
出生され、幼名を虎松君と云いました。
慶長十二年十一月虎松君が十一歳の時、駿府へ下り家康公に初てお目見え、
直に江戸へ下り、秀忠公に御目見した所、上総国姉ケ崎において壱万石
拝領しました。
慶長十九年大坂冬の陣の節、十八歳にて初陣となり、秀忠将軍旗本の
本多佐渡守殿の部隊に所属しました。

翌年元和元年早春の頃より、今年も叉大坂の陣があるとの噂が有りました。
但し今年は前髪などあり童顔の者は貴賎共に出陣する事は出来ないと云う
情報を虎松君は聞き、毛受某と云う児々姓に云い付け、夜中に前髪を落して
男に成りました。
事前に幕府への届けもなく前髪を取る事とは、たいへん素忽な事なので、
これは簡単な御咎めでは済まないだろうと家来達は心配しながら事を
老中方へ報告しました。
早速報告が上に上ると、秀忠公は特に御機嫌で、良く似合うではないか、
と上意があり、正月廿七日虎松君を召して従四位下侍従に列し、名も
伊予守とし、叉諱の一字を下され忠昌公となりました。

質問 忠昌公は大坂夏の陣において、御自身の手柄として首二つあった
と世間で伝えられていますが、その場所は何方での事でしょうか。
 夏の陣の節も忠昌公は去年の通、旗本組で本多佐渡守殿の部隊に
配属され、本陣に詰めていました。
五月六日の夕方、本多佐渡殿に頼み、明七日の一戦は兄三河守と一所に
在て相応の奉公を仕りたいとあるので佐渡守殿が上申した所、秀忠公は
暫く思案の後、それなら思う様ににと許可があり、早速御前に御礼を
申上げ、夫から忠直公の陣所へ引移りました。

翌七日の朝は、両本多の部隊の真中に位置して、60−70mも先へ出て隊列を
揃え、合戦が始るや否や諸勢より勝れて一番に突撃するのを見て、
両本多の部隊も同じく突撃に移り毛利・真田の勢を切崩しました。
その時忠昌公は僅かな手勢で首数五十七討取り、内首二つは御自身の手柄です。
しかもその一つは城方で剣術の名人と言われた念流左太夫と云う者と勝負し、
終に念流を突伏、首を取ったものです。
此時突き折れた十文字の片鑓が今に至るまで越前家代々の持鑓となりました。
この御手柄について両御所(大御所家康、将軍秀忠)も感心されたと言います


       11.忠昌公の越前本家継承
質問 忠昌公は壱万石の初知行拝領から、僅か十年程で段々と加増があり
廿五万石迄の取立に成られたとの事、本当にその通りですか。
 前にも述べた様に慶長十二年十一月上総国姉ケ崎に壱万石拝領は
十一歳の時です。
元和元年大坂より帰陣の後十一月に至り、常陸国下妻に三万石拝領と
なったのは十九歳の時です。
元和二年八月信州松城に十二万石拝領したのは廿歳の時です。
元和四年越後高田廿五万石拝領は廿二歳の時と伝えています。

質問 忠直公の身上が破綻し、越前の国が幕府に召上げられた時、
忠昌公の身上も大分危ない様子だったとあるのは、どの様な事情が
あったのでしょうか。
 越前の国が幕府の管理する所となって、一年以上も守護の任命も
ありませんでした。
寛永元年四月に至り、忠昌公が召されて登城したところ、土井大炊頭殿を
初め老中列座にて言渡された事は、三河守は不行跡により配流となり
領知も取上げられました。しかし故中納言殿は徳川家の嫡流であり、
その家が断絶となる事はお上(秀忠将軍)も残念に思われ、あなたに
本家相続を仰付られ、越前の国を下されるとの上意です。 
後に御前において直接お話がありますが、たいへんおめでたい事ですと
挨拶がありました。

忠昌公は、故中納言の事を考慮戴き、本家相続を私に仰付られるとの
上意は、誠に身に余り忝い事です。しかし三河守は自身の不徳で身上を
失いましたが、仙千代と云う倅があります。この仙千代を捨置く事は無い
という事であれば、今度のお話をお受けしますが、もし仙千代迄も
打捨てると云う事であれば、私は本家相続をお受け出来かねますと
申上げました。
大炊頭殿は、仙千代殿は御上の筋目近い人(外孫)ですから将来的には
捨置事は無いでしょうか、当分の間は法の定め(武家諸法度)通りに
なるでしょう。
それは暫く置いて、中納言家の相続は重要ですから先ずはお受けするのが
良いでしょうと一座の老中方が一同に意見を述べます。 
忠昌公は同意せず、先ずは仙千代を捨置く事はないと云う御内意でも、せめて
承らなければ私は本家相続はお受け出来ませんと申されました。

大炊頭も、お気持は分りましたので今日はお帰り下さいとの事で、
忠昌公は退出し翌日より気分が勝れないと引込みましたが、家中では
その訳を知る者は殆んど居ませんでした。そこで世間では伊予守殿も
何か上意に背き上の覚え悪く、越前同様に、越後も召上げられるのでは
ないかと噂したと云う事です。

そんな時再び召され登城したところ、先日は仙千代の事を申上げたところ、
良く分ったので安心する様と内意が有った旨説明ありました。
その後御前において、本家相続の事を任命され越前の国と城地共に下さる旨
直接の上意があったと云う事です。これは忠昌公が廿八歳の時の事です。

その年の七月に忠昌公は越後より越前へ引越、昔から北の庄と云った所を
福井と改められました。

1 松平光長(1616−1707)幼名仙千代、忠直と勝姫の子、秀忠の外孫
2 土井大炊頭(利勝1573−1644)秀忠政権における筆頭老中

質問 忠昌公が秀康公の跡継として任命された以上、全てにおいて忠直公
の代の通りでしょうか。叉は様子が少し先代に劣る事などあったでしょうか。
 少しでも前代に劣る様子はありませんでした。
結局忠昌公は、秀忠公に御馴染深く、家光公とも御懇意厚かったので、
御三家方を始め、諸家の付合いも先代とは別格だったと伝えています。

特に本家相続の任命を発表された時も、今度伊予守を故中納言殿の
後継とするので、本多伊豆を始、家中の面々は忠勤を励む様言渡され、
徳川家一門以外は各殿文字を用いる様にと有りました。勿論直接将軍の
親書を戴く時は書判があります。叉参府の節は品川迄上使を下されて、
到着即登城となり一般の大名からは下乗下馬で送られ、直に御目見も
仰付られます。

寛永二年には上野の国の内に鷹場を拝領しました。
同三年に大御所秀忠公、将軍家光公共に上洛の時、忠昌公も上京され、
正四位参議に任られ、全て忠直公の代と替る事は無かったと伝えております。

質問 忠昌公が越前を拝領したので、夫迄の領知である越後高田の
廿五万石は直ぐに光長公が拝領したのでしょうか。
 前に述べた様に忠直公の一子仙千代殿を見捨ない事を忠昌公へ
内意を出されましたが、幕府の大法に抵触すると思われたか、
光長公へ直接には下されません。
今まで伊予守に下された越後高田廿五万石は、勝姫様の御化粧田として
遣わされました。夫迄は越前の御前様と云われましたが以後高田様
と呼ばれました。

その後高田様より御願されたのは、女の身で城地を拝領するのもどうかと
思いますので、倅仙千代に譲り、応分の奉公をさせたいとありました。
是も忠昌公が取持ち、高田様の願い通りに許されました。
その時言渡された事は今度越後高田廿五万石の所は、高田様より仙千代殿へ
譲られる事になった。 そうなると藩を管理する人が必要である。
本多伊豆をはじめ、家老職分の者は本家を立去る様な事をしてはならないが、
其外の面々については大身・小身・近習・外様に拘らす越後へ行きたいと
思う者は、少しも遠慮なく自身の書付を用意し申告する様と有りました。

そこで大身の外様では萩田主馬、小栗備後、岡崎壱岐、本多監物、
片山主水、本多七左衛門、野本右近などを始として、小身の数人が
仙千代殿付きとなりました。

この時の事でしょうか、高田様より、故中納言の代より越前家に伝わる
名物の道具類や書状等は、忠昌公の本家相続が決まった以上は、
あなたに進ぜるのでその積りでと云われました。
忠昌公は、故中納言殿の治められた越前の城地を拝領したので、
是で十分本家相続の訳は立つので、その外道具諸色は仙千代殿が所持
されたら良いと返答されたと伝えられています。 このため例の
初花の御茶入はもちろん、立派な道具類は全て越後の方に残りました。

1 大法 慶長二十年(元和元年)に全国大名に対して幕府より
 武家諸法度が公布された。多くの大名がこの法に触れたと云う事で
 改易された。
   
       12.越前の家柄
質問 秀忠公(大御所)が江戸西の丸で病気の時、御見舞いとして
在国の諸大名衆が道中早駕籠で参勤したと伝えられています。 
現在ではその様な事もないと思います。
 右の病気とは、寛永六年の事の様です。
その前、駿府において家康公が病気の時、諸国の大名衆が何れも
お見舞いとして訪問がありました。
今度も病気が重いとの事が国々へ伝われば、必ず皆が参上する
だろうから指止る様にと、大坂や京都等へも連絡ありました。
それでも参上する人々は押し留める様にと、品川迄御目付衆を出して
置かれました。

忠昌公も越前より道中を急いで川崎に到着した所、今度参向の大名方は
江戸に入る事は誰も出来ません。何方もお帰りになる様にとの事でした。
そこで忠昌公は川崎の港より船を使って浅草の屋鋪へ入り、直に老中方
を廻り様子を伺う時、厚恩を受けた私ですから、たとえ御機嫌に背いても
止むを得ないと思い、川崎から船で参りましたと云われ、その詞が上に
伝わったところ、秀忠公も特に喜ばれ登城が許されました。秀忠公の
側近くに召され、諸人に替る参勤の事をたいへん満悦している旨の
上意があったそうです。

其後は益々将軍家と関係が良く、寛永十年に江戸龍ノ口に初て上屋敷を
拝領し、同十一年霊巌島に下屋敷を拝領、同十四年に越前国木本の領地
二万五千石を加増として拝領しました。

1 龍ノ口 江戸城大手門外、現在の丸の内一丁目付近
2 木本 福井県大野市、木本藩として忠昌の弟忠良が分与拝領していたが、
 忠良が勝山藩3万五千石に加増あり廃藩となっていた。

質問 肥前国島原で切支丹が蜂起し、同国原の古城に立て籠もった時、
九州各国の大名衆は近国ですから殆んど出陣を命ぜられ、命令の来ない
所もその準備をしておく事が当然の成行きでした。
その外四国や中国の諸大名方はそれ程準備の指示も無かったのに、
北国の越前福井では盛んに準備をしていたのは不可解です。
何か幕府から特別に内意等があったのでしょうか。
 切支丹蜂起の成敗を九州の大名衆へ命じられた事を忠昌公が聞、
私が島原に行って鎮圧するのでお暇を下さい。厚恩を受けた私ですが、
世が治まっているので奉公する所がありません、せめてこの様な事
でもと、お願しましたが、家光公の上意は言葉は嬉しいが、切支丹の
成敗如きをそなたの家柄でやる事では無いと云う事でした。

今後万一将軍自ら出馬するような事態になれば、名代として任命する
から、其様に心得よとの事でした。そんな訳でもし出陣する事になった
時に備え、家中の人々もその心得だったと伝えられています。

1 島原の乱 寛永14年―15年 
 
質問 忠昌公が国許で病気の節、上使を遣わされ様子を尋ねられた
と聞いておりますが、そんな事があったのでしょうか。
 それは寛永十六年の事で、忠昌公が福井において病気が重いとの
事が江戸へ聞こえて、家光公の上聞に達したので、心配された様で
中根大隅守殿を上使として、越前へ下向なされました。
それ以後寛永十九年参勤の為の道中にて発病され、容躰も重いと
上聞に達し、上使として島田庄五郎殿が駿河の国島田の宿まで来られた
事もありました。

質問 忠昌公が相模国鎌倉へ行かれた事が有ったそうです。
鎌倉見物の為であれば、江戸越前往復の時等に立寄でも出来るのに
態々お暇を願って出かけられたのどんな御用が有ったのでしょうか。
 これは寛永十九年、忠昌公が江戸滞在時ですが、八月廿三日、
水戸英勝院殿が逝去され、鎌倉英勝寺において法事が行われたので、
九月になってお暇を願い出かけられたものです。

詳しい事情は英勝院殿に男子に恵まれず、家康公の上意により幼年の
忠昌公の養母となる事になっていましたが、その後に水戸頼房公が
誕生されたので代って頼房公の養母になりました。
忠昌公も一度は親子の関係があった事により、お暇を願い英勝寺へ
参詣されたのだと伝えています

1 英勝院(1578−1642)家康側室、太田道灌の曽孫説ある
2 水戸頼房(1603−1661)家康の十一男、水戸徳川家祖
 側室養珠院の子、英勝院が養母となる

質問 越前家の一門方は、何れも所持の挟箱になめし皮の覆いを掛けますが、
これは御先祖秀康公の代からでしょうか。
  秀康公と忠直公の代は勿論、忠昌公の代になっても御三家方の挟箱と
変わる事は有りませんでした。
忠昌公の代になって江戸龍ノ口に始めて上屋敷を拝領以来、在府の期間が
長くなり、方々へお出かけも頻繁になると、しばしば御三家方と見間違えて、
下乗下馬される大名衆が多くあるのを、忠昌公が嫌がり紋の見へない様にと、
なめし皮の覆いを掛けさせました。
以来、越前家と云えば挟箱は金の紋付ではなく、皮ゆたんを掛けたものと
なりました。

細かく言えば、皮ゆたんを掛ける時は物静かな時で、何か緊急時とか、
混雑や騒動で家柄を顕す必用がある時は、上のゆたんをはずし、下の紋が
見える様な趣向でした。 いつも必ず皮ゆたんを掛けて置くと云う訳では
ありません。

質問 家老の本多孫太郎と毛利家の吉川監物の両人は種々の点で幕府の
待遇が結構な家老との事、加賀・陸奥・薩摩の三家を始、諸家の家老の中にも
同じような人は見えませんが、これにはどんな理由があるのでしょうか
 毛利家の吉川はその人に依り、当家の孫太郎は主君の家柄によるもので、
その事情は異なります。

まず吉川については、慶長五年関ヶ原の一戦の時、主人の毛利輝元は
石田三成と同盟して関東へ敵対し、領地は全て取上げられ身上を失いました。
その時吉川は毛利宰相殿と心を合せ、家康公へ忠節の奉公をした事により、
毛利の本領の内、周防・長門両国を吉川に与えられ、それを輝元へ下さる
事になりました。主人の家を残した吉川は、特別の思召しで、陪臣と
云えども直臣同様の格式になったと聞いております。
これが人に依ると云う理由です。

当家の両本多については、例えば尾張の成瀬隼人、紀州の安藤帯刀、
水戸の中山備前、更に当家の本多伊豆、同飛騨などは同格であり、
家康公、秀忠公の代に付家老として任命されたものです。 
今も以前通りの待遇であり、これは主人の家柄に関係すると云う事です。

1 毛利宰相(秀元1579−1650)元就孫、毛利家重臣
2 毛利輝元(1553−1625)元就孫、毛利本家、関ヶ原西軍総大将
3 吉川広家(1561−1625)毛利一族、家康に内通、関ヶ原で中立

質問 故中納言秀康公は秀忠公にとって正統な兄上ですから現将軍家の
本家と言う事になるでしょうか。
  一般的に武家の系譜では本家と嫡家の別があります。
先ず本家とは、其家代々の本家を嫡男で継ぐのは云うまでもありません。
たとえ何か理由が有って嫡子を惣領に立てず、次男や三男が相続しても
是を本家と云います。
その家の嫡子が生れながら何か事情があって、本家の相続が出来ず
次男を立てた家をさして、本家の方からは嫡家といいます。
それでは秀忠公の場合は、秀康公の弟ですが惣領に立てられ、
天下の譲渡を受けられたのですから、越前家から見れば本家以外に
言い様がありません。
一方将軍家から見れば越前家は嫡家であるとされます。

これにより、前にも述べた通り越前家は他の諸家とは違って懇意と
される理由でもあります。その証拠には、忠直公が配流となる様な事実が
あっても、越前家の相続を弟忠昌公へそのまま継がせ、更に忠直公の息男
光長公迄も特別な処置として越後高田廿五万石を拝領する等は、是は全て
嫡家の筋目を考慮されたためと思います。

今の諸大名家においても、本家と嫡家の関係の家々は多くあります。
先水戸家は本家であり、松平讃岐守殿は嫡家、松平陸奥守殿や
井伊掃部頭殿は本家で伊達遠江守殿、井伊兵部少輔殿などは嫡家です。
この様に大身から小身迄幾らでもあります。

そんな訳で本家の方からは外の連枝の家よりも嫡家を特に親しみ深く、
叉嫡家の方からは本家の事を一門の列をはなれて大切にする事が古今の
武家の作法です。この事より宰相忠直公は大坂の陣において諸家に
抜出た軍忠をなされ、後の宰相忠昌公も、西国のはてなる島原一揆の事を
北国にある身ながら出陣御願し、或は秀忠公病気の節、他の大名衆とは
関係なく只壱人川崎より船で廻り、御機嫌を伺っても何の御咎もなく、
却って御上も御機嫌に応じ世間のそしりもないのは、偏に本家と嫡家の
筋目が根拠と云えるでしょう。

1 水戸頼房二男光圀本家相続、嫡男頼重は松平讃岐守初代藩主
2 井伊直政二男直孝本家相続、長男直勝は兵部頭家となる
3 伊達政宗二男忠宗本家相続、長男秀宗(遠江守)伊予宇和島初代藩主 

質問 越後と越前の家はどちらを本家、どちらを嫡家と云うのでしょう。 
  その件は前にも述べた通り、忠直公は秀康公の嫡男として、然も
その家督を相続した方の嫡子である中将光長公を本家と云うべき
ですが、先程も云った通り忠直公は幕府の勘気を蒙って配流となり
越前の城地共に全て召上げられました。

一年余も過ぎてから、特別に忠昌公が本家相続を仰付られて越前の城地を
拝領し、本多伊豆を始、諸家老達も皆当家に勤めるという幕府の計らいにより、
故中納言時代に替らず続いてきたのですから、この家以外を越前家の本家と
云う人は居ないでしょう。そうなると越後の家は、越前の家からは嫡家と
云う事になります。

  享保元八月       大道寺一葉軒友山
                  七拾八歳記之

     天保七丙申年秋八月
              一葉軒自筆以越叟夜話校之

     平成26年10月10日 大船庵これを現代語に訳す


現代語に訳すに当り、原文に使われている人の敬称
原文 権現様  (徳川家康神号)   家康公とした
   台徳院様 (二代将軍秀忠法名) 秀忠公とした
   大猷院様 (三代将軍家光法名) 家光公とした
   常憲院様 (五代将軍綱吉法名) 綱吉公とした
それ以外の敬称は原文のままとした
   公、卿、殿、様、君、なし