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            越叟夜話
p1                               *現代文タイトル:秀康公幼少より秀吉卿養子へ
或人問て曰、越前家の御元祖中納言          
秀康公と申奉るは、かたじけなくも               *徳川家康二男(1574-1607)
東照大権現様の御二男にて御座被成候よし、然者
御嫡男岡崎三郎様、御座不被成以後の儀は        *家康長男信康(1559-1579)
御嫡子におそなハり、天下の主とも御成なさる
べき処に、左様無御座、漸々越前一国を御領知
被成候儀は、如何様の子細を以の義に御座候哉
拙者なとも御家御代々のものには有之候へとも
段々と生れかハりに罷なり候に付、端々申伝
へ候儀共にたしかならず存る事に候、右
p2
中納言様御代の儀委細に承り度御事ニ候
答て曰、御申の旨尤の事に候、程久敷事ニ候へ者
御家中においても聢と存たる人はすくなき筈
の事ニ候、手前なとも時代違ひの儀には候へ者、委細を
可存様とてハ無之候へとも、既に八十歳に及申年来
故、拙者若年の砌まてハ 秀康公の御代に
徘徊いたせし輩も間々存生仕、況や忠直公・忠昌公
両御代に御奉公申たる面々とハ、毎度参会致して
直物かたりをも承り、叉はその時代の人の慥なる
おぼえ書なとを披見いたして覚悟仕り候趣を

以て御返答申にて候、中納言秀康公の御事ハ
御誕生被遊御名をは 於義丸君と申奉り候
しかれども
権現様思召の子細有之、本多作左衛門殿へ御預ケ    *権現様=徳川家康
被遊、御沙汰なしに御成長被成候を岡崎三郎様  
にはよく御存ゆへ 於義丸君三歳の御時
権現様岡崎の御城へ被為入候刻、三郎様より
作左衛門殿へ御内意被仰含、御父子様御対談
の御座の間の御障子を御次の間より
p3
於義丸君にたゝかせ奉り候を
権現様御聞とかめ被遊、御尋被遊候時、三郎様御
座を御立有て 於義丸君の御手をひかれ御出
被成、是は私の弟 於義丸にて御座候、御覧被遊
下され候様にと被仰上候へ者
権現様御膝の上へ御抱き上被遊、丈夫なる生れ付
にて候と上意に付、三郎様にも此もの息災にて
成長仕候ハヽ、私ためよき力にて候と被仰上
権現様殊の外なる御機嫌にて来国光の御脇指
を被進、浜松へ御帰城被遊候、其以後ハ御家中

上下共に於義丸君と申て尊敬仕り候となり
問て曰、天正五丑年岡崎三郎様御事遠州
二股の城内において御生害被遊候以後は
於義丸君御惣領に御具り不被遊してハ不叶
儀に御座候処に如何様の御首尾を以羽柴家
の御養子とは御なり被成さる儀に哉、
答て曰、御不審の通、三郎様御生害之節
台徳院様にハいまた御誕生不被遊、於義丸様ニハ   *台徳院 二代目将軍秀忠
御四ツの御年の義に候ゆへ、七八年の間は成程
御嫡子に御具り御座なされ候、依て天正
p4
十年織田信長公甲斐の武田勝頼を退治
として、御下向の節ハ、信濃路へ御廻り御帰陣の
時は東海道を御帰路候とて、遠州浜松の御城
御立寄、於義丸君へ御対顔被成、扨々よき御生れ
付に候とて、信長公にも殊之外なる御褒にて御座候
よし申伝へ候、然處に其年の六月二日明智
日向守逆心ゆへ、信長公には都本能寺ニおいて
御生害の節
権現様には武田家の穴山伊豆守を御同道被遊
摂州堺の津に御座被成候処に、信長公御他界

のよし相聞へ候に付、堺より直路に御懸り被成、江州
信楽通り甲越を被遊、勢州白子より御船に
召され、参州大浜へ御着被遊、夫より岡崎江
御帰城なされ候、扨上方において羽柴筑前守
秀吉、信長公の御弔合戦と号して勢を
催し、備中の国より攻上り山崎合戦に打
勝て、明智を追討して後秀吉自立の志有之
を以、柴田勝家と権を争ひ、終に柴田を討
滅し、織田三七殿をも殺害致し、叉候哉尾張
内府信雄卿とも弓矢にとり結び、大軍を
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催し尾州へ発向有之刻、信長公の御取立に
預りし諸大名も悉く信雄卿を捨て、秀吉方ニ
なるを以、信雄卿より
権現様へ御加勢の儀を御たのミ有に付、尾州小牧表へ
御出陣被遊、長久手において御一戦を遂させられ
大将秀次を追崩し、池田正人・同紀伊守・森
武蔵守此三人を御討取被遊候、其御武略に秀吉
も大きに手ををかれ勢を引入、其後勢州
矢田河原において信雄卿と秀吉和睦の儀
相調、向後

権現様とも御入魂申度とある儀をたのミ申さるゝ
に付、信雄卿程々の御取持の上、於義丸君を
秀吉の養子として、天正十二年甲申十二月
於義丸君十一歳の御時、大坂へ御越被遊
に付、石川伯耆守殿次男勝千代本多作左衛門殿
舎弟孫左衛門惣領源四郎、右両人御児々姓にて
御供也、依之
台徳院様には天正七年の御誕生にて、其年
御六歳に被為成候を御嫡子に御立被遊候也
同十三年七月十一日秀吉卿関白に被任候
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節、列国の諸大名衆も各官位に御進の刻
於義丸君も御元服有て、少将参河守秀康公と
申奉る也、是御十二歳の御時也、問て曰
秀康公にはいまだ御若年の御時、御陣立被成
と申は御何歳の御時、何国の陣に御立被成
たる儀に候哉、 答て曰、天正十五年薩州
の太守、島津修理太夫義久先祖より領知
仕り被来候本領の外、日向の国をはしめその外
隣国を犯しかすめ、大きに武威をふるひ、
秀吉卿の下知を違背して上洛無之に付、島津

追討のためと有て秀吉卿出馬あられ候刻、
秀康公十四歳の御時御初陣なり、同年四月
筑紫の国岩石の城に薩州熊井備中と
申者楯籠り候を一時責に可仕旨秀吉卿下知
に付、先手ハ蒲生氏卿・前田利家、二の手ハ佐々
陸奥守成政・水野下野守忠重、惣大将には
秀康公、山半分程御攻とり被成候処に落城候間
最早御勢を被上に及ばさる旨、利家・氏郷より
被申越候へは、秀康公此注進を御聞なされ
はやく落城ゆへ、城攻の手筈に御逢不被成候段

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御無念と有て、御涙くミ被成候を成政・忠重両人
共に敵城のケ様に早く落去仕ると申ハ御大将の
御威光つよきゆへにて候へは、是以 少将公の御
手柄にて候なとゝ申なため参らせ、その以後
秀康公の御事を秀吉卿の御前において
佐々成政に申出し、流石家康卿の御子息程
おハしまし候と大きにほめ成し候へば、秀吉卿
御聞候て、夫ハ成政が心得違ひなり、秀康事ハ
家康の子にて候を我等養子に致せし故、弓矢
かた気ハこの秀吉に似てその通りなるハと御申候
となり、 
問て曰、右のとをり秀康公の御事を              *現代文タイトル:結城の家督相続
太閤にも御秘蔵加り給ひながら、如何なる子細を
以て結城の家へは被遣たる儀に候哉、 
答て云
秀吉卿の事ハ小身の時より勝れて大機なる
生れ付の人にて、その上武運にも相叶、大身と成
殊更信長公他界ましましける以後ハ、段々と弓
矢に取つのり、上方辺にて十五ヶ国はかりも手に
入申ニ付、往々ハ関東・奥州辺も仕置あるべきとの
志有之といへとも
権現様の御事ハ新田源氏の御正統にて御家から
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申、そのうへ御年若き時分より武田・北條の
両家をはじめ、諸方の敵と御出会被成候ても
負軍と申儀を一度もあそばされず、就中遠州
三方ケ原・江州姉川の御一戦・越前金ケ崎の
御退口などの儀は天下の武士の褒事ニ致して
舌をふるひ申ごとくなる御武略つよき御大将ニて
殊に御年盛りと申、其上御身上とても御本国
三河、遠江・甲斐・駿河合せて四ケ国を御領知
被遊候を以、秀吉公にも
権現様御事をハ、かたの如くふくミ入思ひ給ふ折

ふし、長久手において御一戦の御手際をミ届ケ
申されて、とかく
権現様と敵対有ては手前の大望ことゆくまじ
との考を以、先信雄卿と和睦有て後
権現様とも御和睦になり、秀康公を養子に
申請られ候ハヽ、定而御上洛あるべきと秀吉卿の
考へ給ふとハ大きに違ひ、御上京不被成候へば
織田内府よりも種々御異見有之、羽柴下総守
も毎度罷下り、ケ様に御上京も不被成候てハ
御和睦も破れ可申歟にて候、左候てハ参河守殿
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の御身上にも相障り可申かなどと有之儀を
権現様御聴被遊、三河守儀は秀吉養子に致し
度の所望にまかせ遣し候後ハ、我等の子にてハ
無之、親として子を殺してもくるしからざる儀な
らハ、秀吉の心次第なりとある御意の段、秀吉卿
へも相聞へ候に付、重而叉秀吉卿の御妹朝日の
姫君を浜松へ御縁組と有之儀を、羽柴下総守
御取持申、天正十四年五月十四日浜松の御城
御入輿被成候、かくのごとく御重縁に御なり被成
候ても、中々御上京可被成御様子に無之、秀吉卿

には九州征伐の儀差懸りたる儀なれハ片時も
はやく
権現様へ御入魂被成致度との大望故、御母儀大政所を
岡崎の御城内へ被差下べきと有之処に、御舎弟
大和大納言秀長卿大きに不興有之、種々異見を
申され候へとも、太閤終に承引なく天正十四年
九月に至り、浅野弾正長政を差添、岡崎の城へ
御差下のうへには
権現様にも何の御気遣も無御座に付、早速御発駕
被遊、大坂へ御上り被成候処、秀吉公殊の外なる
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御馳走にて、表奉行たる御馳走人には大和
大納言殿、細々の御用聞には藤堂与右衛門殿、右両人
京都までも付添被申候と也、今度の御馳走の儀
権現様にも深々御悦喜に被思召、其以後ハ御入魂
ふかく被為成、御双方より御使者の御とり
かハしなども繁々に有之候となり、さて
秀康公の御事ハ右申ごとく、秀吉卿如何ニもして
権現様と御入魂被申度とある手段ばかりに申
請られたる儀に候処に、天正十七年秀康公
十六歳の御時、伏見城内の馬場において、秀吉卿

乗馬を見物あられ候節、秀康公にも御馬に召
れ候刻、太閤の馬役の侍共も乗込にせめ            *乗馬を競う
馬仕候とて、秀康公の御馬とのりちがへ候節
無礼の仕形有之候を、秀康公御不興被成
馬上より只一打に御切落し被成候、太閤の御
見物所より程ちかき儀なれば、諸人騒動仕候と
なり、太閤にも慮外ものゝ儀なれば、尤とハ
御申し候へとも、底意には秀康公の御器量の
人に勝れさせ給ふを、少ハ隔意におもひ入給
と也、然る處に天正十八年の春、下野の国
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結城左衛門督晴朝より多賀谷安芸守と申
家老をさしのほせ、晴朝年齢五十歳に余り、家督
致させ可申男子無之に付、貴族の内を一人給り
候ハゝ、手前の娘と一所に致して、結城の家を
ゆづり申度と有願に付、秀吉卿御申候ハ、結城
の家は関東の名家なれば、由緒正しから
ざるものハ遣しかたく、幸我等養息ある儀
なれば、是を可遣と有て、秀康公の御事を
約諾有、此年北條家退治として、太閤小田原へ
下向の刻、秀康公にも御出陣有、小田原落去

の後、直に結城へ御越被成、同年八月晴朝隠居
有て、家督を秀康公へゆづり被申候、結城の本領
十万千石の由申伝へ候、太閤にも奥州より御帰
がけに結城へ御立寄候と也、文禄元辰年高麗
陣と有て、太閤筑紫へ御下向の節ハ、秀康公
にも千五百の御人数にて、名護屋御在陣、慶長
二酉年廿四歳の御時、参議にあられ結城宰相
秀康公と申たる也、
問て曰 太閤秀吉卿他界                  *現代文タイトル:伏見参勤    
の後、大坂において石田治部少輔三成と諸大名衆
と出入の儀有之、三成身上相立がたきに極り候を
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佐竹義宣の心よせを以、大坂を罷出伏見へ遁行
権現様江御願申ニ付、介抱被成、佐和山の城へ被遣
候節、秀康公路次の間御送り被成候と有之
儀は、いか様のわけにて候哉、 
答て曰
 此出入と申ハ
一朝一夕の儀にても無之、高麗陣以来の
出入にて、事の次第入組たる儀共に候へば、子細
を申に不及候、諸大名と申中には加藤肥後守殿
同左馬之助殿、福島左衛門太夫殿、浅野左京太夫殿、
黒田甲斐守殿、細川越中守殿、此人々別而三成
と中あしく候に付、其時代七人衆と申ふれ候由

権現様も治部少輔を不届ものとハ思召候へとも
時の難儀にのぞミ、身命をゆだねて頼入奉ると
申て参候ものを、御見捨て被遊様も無御座に付、右
七人衆の方へ種々御異見被仰遣候を以、何もの
口ぶりも少やわらぎ候に付、三成穏便の躰ニ而
佐和山へ帰城あられ可然と被仰聞候処に、其夜中
伏見の城中、殊の外に火縄のにほひ仕候に付、
御目付衆を以御吟味被成候得者、右七人衆の屋敷
〳〵の義ハ不及申、其外諸大名方の屋敷にても
悉く火縄の音仕候と申上るに付、三成帰城の
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路次の儀御心許なく思召、秀康公に御見
送り被遣候様にと被仰付、御越之段堀尾帯刀殿
被聞及、その儀においてハ、拙者儀も秀康公の
御道連れに可罷成と有て、慶長四閏三月七日
三成を御同道にて伏見を御出被成候處に
醍醐山科の辺において、爰かしこの藪かげに
五騎十騎などつゝ人数相見候ニ付、秀康公
御気遣被遊候へば、佐和山より罷登りたる
三成家来共にて、程なく五六十騎にも罷成候ニ付
三成申候ハ、私家来共儀も迎の為として

追々罷越候と相見へ申候間、最早是より御かへり
被成被下候様にと再三御断申上候へとも、秀康公
御合点なく、瀬田まで御送り被成候処に、三成
家来大場土佐と申もの人数を召つれ、佐和山
より迎に参候に付、瀬田の大榎木の本ニ而、三成
乗物より下り候て居申所へ、帯刀殿参懸られ候へハ
三成申候は、三河守殿これまて御見おくりの
段は忝次第に候、乍去其許にも御見及の通り
家来共も迎のため追々罷出候間、最早
秀康公を御同道有て、貴殿にも是より御帰京
p14
あられ給り候へと申に付、その趣を帯刀殿被
申上候へば、秀康公にも三成休らひ居申所へ
御越被成、断被申候段尤には候へとも、佐和山の
城下迄見送り候様にと、内府被申付候うへハ
是より帰候様に致しかたきと被仰候へハ、治部少輔
申候ハ、仰御尤には候へとも、是までの儀は
手前無人にも御座候へハ、御見送りに罷預かり候
猶御見送りと有之候へは、向後我等男を
たて可申様も無御座候間、是非これより御帰
可被下候。此上にも猶叉御見送り可被成との

儀にも候ハヽ幾日も此所に逗留仕る外は無
御座候間、是より三河守殿御帰京候様に帯刀殿
を偏に頼入候と、三成頻に願に付、帯刀殿にも
然る上ハこれより御帰被成可然と被申上に付、
秀康公被仰候は、達て断のうへハ従是可罷帰候
然ば我等名代として、土屋左馬之助と申ものを
遣し候と被仰、御暇乞被成、瀬田より御帰京被成候
堀尾帯刀殿にも同じく被帰、直に伏見へ参上
有て、 秀康公瀬田まで諸事御心つかひ
の次第并に御家中何も腹巻・胴丸などを着籠
p15
に致し、鉄砲五挺に一挺ツヽ火縄に火を付て御
もたせ候儀など逐一被申上候へば
権現様にも、殊の外なる御機嫌にて、其許御申の通
にも有之候へば、いまだ年わかきものにハ奇特に
候と被仰候となり、扨三成は佐和山の城へ罷帰、
土屋左馬之助を大きに馳走致し、正宗の刀を自身
持出候て、是は故太閤の御秘蔵の御差料にて
候を我等拝領致し候、是を貴殿へ遣し置候
若も三河守殿御覧有て御気に入、御差料
にも罷成候へば、大慶の至りに候とて、左馬之助へ

被渡候よし申伝候、
問て曰 其砌の儀に候哉、大坂
城中において、奉行中申合せ
権現様を害し奉らむと相計候儀有之、其節
秀康公には、何方に被成御座候哉、
答て曰 
其儀ハ秀頼へ重陽の御祝儀を可被仰と有て、慶長
四年九月七日、伏見より大坂へ御下り被遊、西の丸ニ
被成御座候処に、九日の朝本丸江御入被成候節、
浅野弾正御迎として被罷出、御先立を致され、
強力の土方勘兵衛に御うしろよりいたかせ奉り、
大野修理に御殺害申様にと有之陰謀の旨、
p16
細川越中守殿伝へきかれ、西の丸へ参られ密
かに御知らせ申上られ、唯今より御病気分に被遊
九日の御登城をば被相止、御養生の為と有て
伏見へ御帰城被成可然旨、達而御異見被申上候へ共
権現様御承引不被遊して、九日の朝御登城の節
御譜代大名衆・其外御使番衆の中にて、その
人からを御撰有て、数輩被召連、本丸へ被為入
候刻、桜の門の番人とも、御供衆おほく候間、被残
候様にと申て、押へ留め候得共、聞も不入、各御座
の間まで御供被致、御使番衆ハいつれも御玄関ニ

残られ、御譜代大名衆は、秀頼卿江御対顔の
御座の次の間まで伺公有之に付、かねての謀計
大に相違仕、御別条なく西の丸へ御帰座被遊
候と、そのまゝ伊奈図書を被為召、秀康公へ被仰
遣旨有之、伊奈ハ早馬にて伏見へ罷帰、御口上
の趣を秀康公へ申上候へば、早速御下知を被加、
御留守に残し置れ候御人数を大かた壱騎かけ
のごとくにして大坂へ被指下候、秀康公にハ御手勢
を以、本丸を御堅め被成所之口々を御自身御顕見
有て堅固に御留守を被成候よし、然る處に
p17
右の謀計の次第相あらハれ、穿鑿の上にて
外の奉行中には少も不存儀にて、畢竟浅野
弾正一人の所行と有之訳に事定り、弾正
勘兵衛・修理三人の儀は何分の罪科に成とも
権現様の思召次第など有之処に、其節被仰候は
弾正などが心底には、此家康をさへ殺し候ハヽ
秀頼の御為に可罷成とある勘弁より、事起きたる
儀なれば、不了簡にても無之儀なれば、死罪・遠
流の沙汰に可及ぶ事にても無之候、息男左京太夫へ

御預ケにて事済べき儀なり、大野・土方儀は
猶以かろくとある御差図に付、弾正儀ハ甲斐の
国へ、土方ハ常陸、大野は下野へと各配所相究
大坂表先は静謐に事おさまり、
権現様にも伏見へ御帰城被遊候由、但弾正申候ハ
土方・大野儀は他人江御預ケ、我等儀ハ張本人
の身分も御座候処に、世倅左京太夫江御預ケ、国持
の隠居のごとくにて安楽に罷在べき段、本意
にあらず候、其上老躰の儀に候へば、甲州の山家
住居寒風をも難儀仕候間、願くば
p18
家康公の御領分の内武州の府中は甲州へも
手寄に候へば、此所に閑居仕度と願被申処に、心次第ニ
被致候へと被仰に付、軽キ普請を調へ、武蔵の府中
に住居致され、後々は
権現様にも府中筋御鷹野に出御の節ハ、弾正
閑居へ御立寄被遊、囲碁など被遊候由申伝へ候
問て曰 治部少輔乱の砌、秀康公には何方に      *現代文タイトル:関ヶ原戦と越前入部
御座被成候哉、関ヶ原へ出張ありし諸大名衆の
中に御名相見へ不申候、 
答て曰
 上杉中納言
景勝・石田三成と申合せ、会津の城に楯籠候旨

権現様被聞召、秀頼卿御幼年たるに依て、景勝
気随の振舞、不届に被思召、諸大名衆を
御かたらひ被成、御自身会津へ御発向被遊、御
追討可被成と有て、慶長五年六月十六日、
大坂を御立なされ、伏見へ御帰城被遊、当城の
御留守には鳥居彦右衛門殿・松平主殿殿・内藤
弥治右衛門殿・松平五左衛門殿、右四人之衆を被残
置、同十八日伏見を御立有て、七月二日江戸へ
御着被成、同廿一日江戸御進発被遊、廿四日下野
の国小山に御着陣
p19
台徳院様には宇都宮に御陣を被遊、秀康公
には小山と結城と其間近く候に付、御人数をば
残し置れ、御手廻計にて小山の御本陣御詰
御座被成候処に、上方より追々飛脚到来して
今度関東へ御下向の以後、石田三成佐和山の
城を出て大坂へ罷越、小西摂津守・増田右衛門尉・
長束大蔵・安国寺なとゝ相計て、宇喜田中納言
秀家・毛利中納言輝元・筑前中納言秀秋・岐阜       *織田秀信 信長嫡孫(幼名三法師)
中納言秀信・島津兵庫頭義弘なとを始として
その外数輩申合、先伏見の城を攻落して

夫より関東へ責下るべき共聞之、叉は
権現様御上洛においては中途へ出迎ひて一戦に
及ぶべきかなどまち〳〵とり〳〵の注進相聞へ候節
最初に秀康公を被為召、本多佐渡守殿一人
を御側に被差置、今度の義先会津へ御発行
有て、急に景勝を御追討被成、其後上方へ御
進発可被遊哉、叉は会津表へは押への勢を
被指置、先上方へ御攻上り可被遊哉、右両様の内
其許にはいかゝ被存候哉と、御尋被遊候得ば
秀康公被仰上候ハ、景勝儀はいまだ年わかき
p20
ものにハ候へとも、弓矢を利発にとりまハし、能
人をもおほく持、百万石に及ぶ身上にて、殊に
会津の城は甚堅固にも有之候へば、急に御攻  
つぶし可被成と思召候ても、よほと御手間をとられ候
儀も御座有べく候、今度上方において御敵対
申諸大将の中にハ誰有て心にくゝ存る仁ハ一人
も無之候、然ば景勝方へは押の勢を被差
置、片時も早く上方へ御進発被遊、御一戦の上
御勝利にさへ被成候ハヽ、景勝儀はひとりころび
仕る外御座有まじく候、私義ハ今度下向被

仕候諸大名と打つれ、御先へ攻上り申にて可有
御座候と被仰上候へば
権現様にも御高慮に御叶被成たる御気色
にて被仰候は、然らハ景勝押へには誰をか被指
置可然哉と御尋に付、秀康公重而被仰上
候は、最前にも申上候通、景勝義は一孤独身
とハ申ながら、心安き敵とハ申がたく候間、その
御勘弁を以、被仰付御尤と被仰上候へば、左様被
存においてハ其許ゟ外に景勝押へに可被差
置人思召付無御座間、左様相心得られ様ニと
p21
上意に付、秀康公被仰上候は、今度上方に
おいての御一戦は天下分めの合戦とも可
申歟にて候、然るに私義御跡に罷残候儀ハ本意
にあらず候、たとへ御機嫌に背き候共御断申上、
御旗本に先達而可罷上と被仰上候得ば
権現様被聞召、最前其方には、上方の儀は手ニ
立敵もなき儀なれば心安し、景勝儀は一孤
独身ながらも六ケ敷相手の様子申され候、然るに
上方へのぼらずしてハ叶ふまじきと、あるハ手剛
景勝を相手にきらハれ候かと、 秀康公を御理

屈づめに被遊候に付、然るうへは何れの道にも御奉公
は同じ儀に候間、景勝押へに可罷立候、私義ケ様ニ
御請を申上候うへは御出陣の御跡の儀においてハ
少も御気遣被遊まじき旨、いさきよき御請の
次第を御側において、佐渡守殿承られ、感涙を
ながされ候へば
権現様にも御満悦被遊候との上意にて、御感涙
被遊、御納戸衆に被仰付、御鎧を一領御取寄被成
是は御若年の節より数度の御陣に被為召
一度も御不覚を御とり不被成、御秘蔵の御召料
p22
候へとも、今度大切の御留守を御頼被遊候に付
御ゆつり被成候との上意にて、秀康公御拝領
被成、御陣屋へ御かへり被成、結城代々の四家老
多賀谷・水谷・山川・岩上等を被召呼、段々
の上意の趣を被仰聞、御拝領の御具足を御
見せなされ、秀康公被仰候は、手前儀重き
仰を蒙り候うへは、若御留守の内、何変也
有之においてハ、身命を抛つべき覚悟の
外他なし、おの〳〵も其心得を以、忠勤尤のよし
被仰渡、宇都宮・氏郷・那須・大田原辺へも折々

御馬を被出、会津表の御手遣仰付られ、小山に
御在陣被成候由
権現様には九月朔日江戸御動座被遊、同十五日
関ヶ原御一戦を御勝利に被遊、関の藤川の台に
御馬を立させられ候處へ、秀康公より御付置
被成候歩侍、真砂作兵衛・山名与治兵衛両人共に高名
仕り、その印を持参仕候へば、御目通り被召出、御
賞美被遊、此表御合戦御勝利の次第を
秀康公へ片時もはやく、御知せ被成度思召候
両人の者共罷下るべきやと上意の處に
p23
両人共に手疵を蒙り、路次を急ぎ罷下り
候儀は仕りがたき旨、御断申上るに付、別人を以御
自筆の御書を秀康公へ被進候、その御文言
にも、今度濃衆表合戦の勝利候事、偏に其方
奥州筋手強く被押、関東静謐之故ニ候、御
一世の御大慶不過之被思召候と被遊候となり
さて秀康公にハ関ヶ原表落着の御一左右
以後も、猶小山に御在陣被成、信州真田安房守
も降参仕、景勝も勢ひ尽て、秀康公
迄降参之儀を申上るに付、榊原式部殿を始

奥州押への面々、勢を引入申され候様にと御下知
有て、小山の御陣所を御引払、江戸へ御出、早々
御使者を以、天下一統の御祝儀を被仰上、その年
の十一月御年廿七歳の御時、越前の国御拝領
之段、結城へ被仰下候、為御礼小栗備後を被差上、
本多伊豆守を以城を御請とらせ被成、翌年の春上杉
景勝を御同道にて御上京被成、五月にいたり
伏見より大津へ御出、敦賀へ御懸り、越前へ御
入部被成、其年の九月より、御城普請被仰付候          *北の庄城
右越前御拝領の御礼として、江戸へ御参勤の節
p24
台徳院様御鷹野に御事よせられ、品川迄出御
被遊、御対談の上御同道被遊、直に御本丸へ御
入の節、秀康公の御乗物をも御玄関へ横付
に被仰付
台徳院様御待合せ被遊、御先へと上意の時、
秀康公、将軍の御先へハと被仰、御ひかへ被成候へば
御案内のためと有上意にて、御先へ被為入
御饗応相済候以後、秀康公にハ二の御丸の
御殿へ御入被成、家老中をはじめ、御供衆の義ハ
御老中方の居屋敷を一軒御明渡し有て

の御馳走なり、此節御逗留の内、秀康公御
本丸へ御上り被成、今日は御下り遅く可有御座候とて
御供衆御馳走場へ立帰り候処、存之外御前早ク
相済、御玄関まで御下り被成候得共、御供衆居
合不申、呼に遣し候様にと被仰候へば、御見送りに
御出候御老中方の御指図を以、当番の両御
番衆、二の御丸まで御供にて御帰被成候由申
伝へ候、
問て曰 越前の御家を世上において          *現代文タイトル:越前家は制外
制外の御家と申候は如何様の子細にて候哉
答て曰 越前家は制外と有儀をあながち
p25
公儀より被仰出たる儀にてハ無之候へとも
権現様の御高慮にも、秀康公の御事は
天下をも御譲り可被遊御人をとおほし召され
台徳院様の思召にも正しき御兄子様をと、被
為思召候ゆへにても御座候歟、越前家の儀は
諸事ニ付御用捨を御加被成たる儀なども
おほく有之候、たとへば
権現様・台徳院様御両代の間に、御旗本衆の
中に或は御上へ御不足を被申、叉ハ御機嫌に
背き、或は喧嘩の上にて相番衆を討など

致して、御旗本を立去、越前へ罷越候ものた
り共、其子細を御聞届、武士道の乙度さへ
無之候へば、御呼出し、性名までも元のごとくにて
御召仕被成候得共、公儀より何の御とがめも無
御座候、芦田右衛門・天方山城・御宿勘兵衛
島田右京などを始として、其外数輩有之候
よし、扨叉秀康公、越前より木曽路を御
参勤の節、上野の国笛吹横川の御関所を
御通りの刻、鉄砲を御もたせ被成候を、御関所
の番人罷出、御制禁の由を申て押留候に付
p26
その旨申上候処に、秀康公御聞被成、それは
番人共が我等儀をしかと不存故にて有べき間、
其訳をよく申聞よと被仰に付、その段委細に
申聞候処に、公儀の御関所においてハ、誰殿かれ殿
も入事にてハ無之など口々に雑言申候を
秀康公御聞被成、鉄砲御制禁の義ならハ、その
理の申様も可有儀なるを、公儀を重ずる番
人として、我等を軽じめ慮外を申とあるは
不届の奴原なれば、一人も残らず討殺し
候様にと、仰付らるゝに付、御供の面々、鑓・長刀の

鞘をはづし、ひしめき候を見て、番人とも
悉く遁さり、その夜通しに江戸へ罷越、段々の
次第を言上仕る處に
権現様にも被為聞召、それは番人めらが人をしら
ずしての儀なり、打殺されざるは大きなる仕合
なりと有上意にて事済、重而何の御咎も
無御座候と也、右ケ様の儀などを以、世に制外の
御家トハ申にても可有之候哉、次ニ慶長
十年巳四月十六日、山州伏見において             *山城国伏見
秀康公従三位中納言に任られ候刻
p27
両御所様御同道被遊、 秀康公の御宅へ被
成候儀有之、目出度御成之儀にも有之候間

定而猿楽の御興行にても可被仰付と諸人
存の外、相撲を上覧に御入被成候、其比天下
相撲の大関と申は加賀の家中に松村惣次郎
と申候もの、元来徳永法印寿昌の家来にて
相撲をよくとり、北野千本において勧進相撲
有之刻、七日が間罷出、一度も負をとらず、都合
三十三番名乗り候を以、異名を順乱と申、            *勝名乗り
天下相撲の名人と沙汰を仕り候由、此順乱

儀も、秀康公へ御成の当日被召出、越前の
嵐追手と申ものと三番とりむすび、はじめハ
追手とり勝、二番目には順乱とり勝、とり分に
罷成候刻、勝負を致させ候様にと上意に付、叉
とり組候て、双方手を砕きたち合申あり様
前代未聞の見物故
両御所様にも殊の外なる御機嫌に御座被成候由
終にハ順乱とりまけ候に付、三番の勝相撲、
越前において嵐追手と名乗候ニ、ひとしく
庭上の見物人、御前と有憚もなく、ほめ
p28
感じ候声、しハらく相止不申候に付、御目付中
走かゝり下知あられ候へとも、鎮りかね候処に秀康公
御座を御立有て庭上を御見まハし被成
候へば諸人声を止、平伏仕候様子を
権現様にも御覧被遊、還御の後、秀康公
の御威厳の程を御感被遊候と也、将軍家
御成の御馳走に相撲など有之儀も、自余の
大名方にてハ、罷成まじき儀、その時代ニも
沙汰仕り候由、
問て曰 秀康公には
御公達御幾人御座被成候哉、
答て曰
 御嫡子ハ
参河守宰相忠直公、御次男ハ伊予守宰相忠昌公
四番目の御息ハ出羽守直政公、五番目の御息は
大和守直晴公、六番目の御息ハ但馬守直良公、以上
御男子五人、三番目は御女子にて毛利長門守殿
の御奥方様に御なり被成候、但大和守直晴公の
御事ハ慶長九年北の庄において御出生被成
候とそのまゝ、結城晴朝の御方へ御養子分と
有て被遣、晴朝の御手前にて御成長被成、結城
の家督に御たて被成、秀康公には、その
年より徳川の御本性に御立帰りなされ、
p29
御名乗をも以前のごとく秀康と御改被遊候
結城の御家督にて御座被成候間ハ、秀朝公と
申たりよし、
問て曰
 秀康公へ御城
普請の御手伝被仰付たる儀なども有之候哉
答て曰 御普請御手伝被仰付たると申にてハ
無御座候
権現様駿府に御座城可被遊との思召を以、御
普請の御思召立有之由、 秀康公御聞
被成、慶長十一年本多伊豆守を駿河へ被遣            *越前藩付家老
越前の人夫を以、富士の山家より御用木を

御差出させ、是を被差上候、翌年の春に至り
伊豆守其功を相遂、御用木を不残沼津へ
引出して後、伊豆守駿河へ罷越、其段申上候へば
権現様御機嫌不斜思召、伊豆守を被召出、御料理
被下置、左文字の御腰物を御手自、伊豆守ニ
下され候儀有之、ケ様の儀を以、御普請御
手伝と申にて可有之候、 
問て曰 秀康公には、いまだ御年若にて御逝去被遊候様に  *現代文タイトル:秀康公の死去
及承候、弥其通りに御座候哉、                   福井鑑以下下巻
答て曰
 慶長十一年の春の比より少々御不快に御座被成に付
p30
白山の御入湯など被遊、よほど御不快の様子
御座候処に、翌年の春に至り、御気色御差重り
被成、御自身も今度は御快気被成まじきと
思召候哉、お佐の局を駿河へ被遣、被仰上候は、私
義病気さし重り、養生相叶がたき仕合に
罷成候、先月廿八日、尾州薩摩守にも死去
被致、叉候哉私まで御先立可申儀、不及是非
仕合ニ奉存、御暇乞のため、局を以申上候との
御口上なり
権現様被聞召、御愁傷不斜して被仰出候ハ

秀康公の御事ハ同じ御子様方の中ニも度々
御忠功も有之候処に、越前一国計を遣し
置れ候事、今更残念に思召候、今度の御
病気御快復の御祝儀と思召候間、御加増として
近江・下野の内両所にて都合百万石に被成
被進候由、御書出を帯し局儀急き越前へ
可罷帰旨被仰渡に付、則御前を罷立早乗物
にて罷帰候処に、岡崎の駅において、去ル四月八日
秀康公御逝去被成候との儀を承り、泪にむぜび
ながら、岡崎より駿府へ立帰り、直に御城へ
p31
上り候處に
権現様には折節囲碁を被遊御座被成候処へ、局
参り、秀康公御逝去の由申上、件の御書出を
差上候へば、殊の外なる御愁傷にて、局義女性
の身にて、なげきの中に心付、御書出を返上致
し候と上意のよし申伝へ候、但これは局のいは
れざる分別たてのよし申伝へ候、秀康公御
とし三十四歳にて御逝去被遊候也
問て曰 秀康公御逝去の節、御家来中に
殉死の衆おほく有之候由申候、それは如何様の

衆中にて候哉、 
答て曰 土屋左馬之助、永見右衛門
此両人殉死を遂候、左馬之助事ハ武田家に
罷在し土屋右衛門尉が甥にて候を、秀康公
段々御取立被成、越前の内大野において
三万八千五石被下置たるものにて候、永見右衛門
事も同じく御つかひ立のものにて、知行
壱万五千石まで下されたるものにて候、但
土屋が家来長治四郎左衛門、永見が家来田村
金兵衛、此両人義も、主々のため殉死仕候故
人数多き様に相聞へ候、其節本多伊豆儀
p32
も殉死の覚悟に候へとも、その身諸懸りの御用
おほく候を沙汰し終て後の義と存詰罷り
在候処に、両御前様上聞に達し
台徳院様より伊豆守方へ御直書を被成下候
その御文言に、今度黄門供可致由、達而存ル
之旨聞召被及候、沙汰の限りに候、三河守を取
立るに至てハ、忠節不儀思召候間、深く其旨
を可存者也と被遊、叉
権現様より越前の家老共方へ御直書を以
被仰出候御文言にも、今度中納言死去に付

追腹を切可令供と申者共有之由被及聞召候
其死を致す事ハ易く、其主を立る事ハ
難しと在之、若左様の意有之ニおいては
越前ハ肝要の地に候間、別に御手置可被           *手置 別に処置
仰付候、中納言に忠を存る輩は、ケ様の儀
有之まじく候、若有之においてハ子孫迄
御絶し可被遊候由、被仰出に付、右の御書面
を以、家老中打寄、伊豆守へ達而異見を
加へ止候付、無是非存じ留り落髪致し
候となり、右の御書両通共に、今以本多孫太郎
p33
方に相伝り有之由なり、 
問て曰 秀康公の御宗旨ハ禅宗とも申、叉は浄土宗にて
御座候共沙汰仕り候ハ、如何様の訳にて有之候哉
答て曰 結城に孝願寺と申曹堂宗の
寺在之候を、越前の城下へ御引移し、御
菩提所ニ建立有之候に付、秀康公御
逝去の節は、右の孝願寺において、御葬礼
相済候処に、其段駿府へ相聞へ
権現様被仰出候ハ、其はじめ、結城を
名乗候内の義ならハ、禅宗も尤の事に

思召候、結城の家を別に被立候て、徳川の御
本性に立帰られ候うへハ御代々の御宗旨
たるべき儀と被思召候との上意にて、俄に
京都知恩院満誉上人へ被仰付、越前へ
下向有て、浄土宗の一寺を御建立有、満誉上人
開基にて浄光院と号し、此寺へ改葬なし
奉り御法事有之候、淨光院殿前黄門
森巌通慰運正大居士と申奉り候、その砌
台徳院様にも秀康公の御事を御聞被遊
御力落に被為思召候との上意にて、増上寺に
p34
御位牌を御建被遊、御仏参被遊候、依之
常憲院様御代、増上寺方丈炎上の刻、御代々
の御位牌不残御焼却の節、秀康公の
御位牌も御一同に御焼失候へ共、御公儀より
御代々の御位牌御同然に御建かへ被遊候は
元来
台徳院様の上意を以、御建置被遊たる故の
儀と承り伝へ候、
                                  *現代文タイトル:二代目忠直公と越前騒動
問て曰 中納言秀康公の御                  *以後二代目忠直について
噂はあらまし承知し奉り候、御二代目宰相
忠直康にハ御何歳の御時の御家督にて有

之候哉、 
答て曰 忠直公には、文禄四乙未年
下総国結城において御出生被成、御童名をハ
国丸君と申奉り、後に長吉君と御改名被成候
慶長十二年
台徳院様御諱の御一字を被下、秀康公の
御遺跡御相続被仰出候、然バ十三歳の御時の
御家督なり、問て曰 忠直公御代、御家中ニ
大きなる出入の儀有之、御身上相立かたき
様なる儀有之候処に
権現様より御制外の御仕置を被仰出、忠直公
p35
御身上の御障りも無御座、御家も無別条
相立候と有之儀を申伝へ候、いか様の子細にて候哉
答て曰 此儀は慶長十六年、忠直公十七歳
の御時の儀に候由承り及候、其子細は久世
但馬と申て壱万石取候高知分の者と、岡部
自休と申町奉行役のものと、出入の義有之刻、
今村大炊・清水丹後・林伊賀此三人の家老衆
心を合せ、自休方を致され、中川出雲と申者
これは清涼院殿の御舎弟にて、知行四千石          *秀康側室忠直、忠昌生母
取候もの、忠直公のちかき御親類ゆへ、威勢つよく

有之候、此出雲を右三人して相かたらひ、但馬
と自休出入の義、但馬非分の様に取りなさせ候
に依て、忠直公御年若に御座なされ候に付、
御聞まとひ被成、但馬儀を不届ものとおほし召
とゝけられ候よし、本多伊豆をはじめ、牧野
主殿、竹島周防など申面々は、此出入の義
最初より但馬申分尤にて、自休非分の
様に聞とゝけ候に付、但馬方、自休方と御家中
二つに相別れ候節、牧野主殿は存念有之
高野山に蟄居仕候、その跡にて竹島周防を
p36
召とらへ、刀・脇指をとり御城内の矢倉へをし
籠置、久世但馬御成敗と相極候に付、但馬儀は
御片手討には罷成まじきと申て、居屋敷へ
とり籠り、討手を待請、切死と覚悟相極罷
在候由風聞有之処、忠直公より、本多伊豆
儀は、日比但馬と入魂の由に候間、但馬宅へ罷
越、異見を加へ候様ニと被仰付に付、難儀至極
の御つかひながら、御断に可及儀にもあらず、尤
他人へゆつり可申事にても無之に付、必死の
覚悟を究、但馬居宅へ罷越、案内を乞、供

の者共をは門外に残し、侍一両人召つれ、屋内へ
入、但馬に対面致し、自分の存念一通りを申
聞て罷帰る処に、但馬が家来木村八右衛門と申者
伊豆を切殺し可申旨、達て申候を但馬大き
に制し、我等身命ハとかく相立不申候、相果候
跡にても、我等存念を申披てくれ可申ものは、
伊豆より外にハ無之、必以手さし致すまじき
よし申て押留候に付、難なく伊豆は門外へ
罷出候とひとしく、討手のものとも塀をのり
入候、但馬家来とも百余人出向ひ、随分と
p37
相働き、各切死に仕候間に但馬ハ切腹いたし
事済申候、然れとも其跡猶も静まりかね候
よし、江戸表へ相聞へ候に付、忠昌公十五歳の          *秀康次男
御時なるに、御老中方迄被仰上候は、越前
の家中騒動のよし相聞候間、私儀急ぎ
馳参し、三河守と相談の上申付様も可有之
間、御暇被下置度旨、達て御願被成候へとも
両御前様御免不被遊、上意を以本多伊豆、今村
大炊・清水丹後・林伊賀・中川出雲・竹島周防
本人岡部自休なとをはじめ、その外数十人

被召呼候節、牧野主殿儀も高野山より被召下
御穿鑿の上、本多伊豆言上之通、相違無之に
相済、大炊・丹後・伊賀・出雲・自休など何れも
御預ケニ被仰付、本多伊豆・牧野主殿・竹島
周防三人之義は越前へ御返し被遊候、周防
儀は刀脇差をとられ候段口おしく存、道中ニ而
自害仕相果候由、扨、越前の家中大身の
家老衆三人迄身上相果候に付、本多作左衛門殿
子息飛騨守御加増を以、御旗本より越前へ
御家老に御付被遊、今村大炊が領地、丸岡を
p38
被下置、夫より越前家の両本多とハ申候也
右但馬御成敗の刻、伊豆守儀、但馬門内へ
入候ハゝ合図をいたして、御城中の鐘をつかせ
候と、ひとしく討手の者とも、但馬が家へ乗
入、伊豆をも但馬と一所に打果し候様にと、
悪党共相計、その合図を致し候處に、其刻
つりかねのしもくのつり緒きれ候て、鐘をつき        *釣鐘の撞木の吊緒
申事不罷成内に、伊豆守儀は門外へ出罷
帰候て、その難をのがれ候と也、甚以不思儀の
至と、其時代さた仕り候由申伝へ候、忠直公

御若輩之節とハ申ながら、既に十七歳の御
年齢にも御座なされ、御家中に右の通の
大きなる騒動出来、甲冑を帯し飛道具
を用、人死多く有之、既に公儀の御さハき
と罷成候上には、外々の大名方の義に候ハヽ
中々御身上相立申まじき儀に候へとも
何の御別条も無御座、本多飛騨などを以て
御付人に被仰付様なる儀は、偏ニ故中納言様
御家からゆへの御事と、世以てとり沙汰
仕候よし、此年従四位下少将に任られ
p39
台徳院様の御姫君様、越前北の庄の城へ         *秀忠将軍娘 勝姫
御入輿被遊候、慶長十九年の冬、大坂御陣
の節、御とし廿歳の御時御初陣に御立
被成候、 
問て曰 大坂夏の御陣の節、忠直公          *現代文タイトル:忠直公と大坂夏の陣
御働の次第ニ付、不審之儀在之候、子細は
五月七日御一戦の御先手をば、加賀・越前
と被仰出たる由に候処に、大家中の加賀の手
を被差越、一の先合戦を被成たると有之
儀は如何様の次第にて候哉、 
答て曰 大坂表の
惣御先手儀は藤堂和泉守殿・井伊掃部頭殿

と有之儀は、かねての御備定にて候、然る処に
五月六日藤堂殿には矢尾表において、城方
長曽我部と一戦有、掃部殿にハ若江表にお
いて、城方木村長門守と一戦有て、掃部殿        *八尾・若江の戦い
手においても手負死人有之といへとも、これハ
させることにあらず、藤堂殿家中にては
先手をも仕る家老共は大かた討死を遂、
人数をも支配仕るものゝ中には渡辺勘兵衛
只一人残り候ごとくの次第を
両御所様達上聞候を以、両家共に御先手を被
p40
差除、明七日の御先手の義は加賀・越前に
被仰出候處に、忠直公の御心には、加賀の
手に御かまひなく、一の御先を被成度おほし
めさるゝに付
台徳院様の御本陣へ両本多罷上り、本多
佐渡守殿へ其段申談る折ふし、
権現様にも被為入、佐渡守、あれに見へ候は誰ぞと
上意の時、越前の家老伊豆・飛騨ニて御座候と
被申上候へハ、両人かたへ御むかひ被遊、今昼の
合戦の刻、其方家中のもの共ハ昼寝を

致し罷在候哉と被仰、佐渡殿へ御向ひなされ
両人義ハ何用にて罷出候と御尋被遊ニ付、明日の
御備の儀を窺奉るべきため罷上り候と被
申上候へば、叉両人へ御向ひ被遊、明日の御先手
をば、加賀の手へ被仰付たるハと迄の上意ニ而
台徳院様と御咄を被遊、御座被成候ニ付、両
本多義、無是非御前を罷立、御陣所へ
立帰り、御前の首尾を委細に申達したれハ
忠直公大きに御不興有て、此表の儀は明日
の一戦に落着可致の間、御帰陣の上ニてハ
p41
速に越前の国を差上、男を止て高野の住居
をする外ハなきぞとある仰ニ付、両本多共に、それは
いかなる思召にて左様にハ御意被成候哉と申上
ければ、忠直公御聞候て、加賀の筑前守が可
仕ほどの義を、此三河守は、元仕るまじき者と
両御前様の御下量に預りて、越前の守護が
一日もつとまる物かと被仰けれハ、伊豆守うけ給、
実に左様の思召にも御座候ハヽ、明日の御一戦ニ
被成度まゝの御働を被遊、其うへにて御軍
法御違背と有て、御上より越前を召上

らるゝ様には如何可有御座候哉と、飛騨守一同に申
上ければ、忠直公大きに御喜悦被成、其方両人
も左様にさへ存候ハゝ、弥以明日の御一戦にハ
加賀の手をさし越、一番合戦と究る間、各
にも左様心得候様にと被仰付に付、伊豆守重而
申けるハ、弥右の思召に候ハヽ、吉田修理を被召出
明日の御一戦の次第を、御相談被遊御尤と申ニ付、
則修理を被召呼、右の通りを被仰聞候へば
なる程御尤の思召に候、然らハ短夜の義にも
御座候間、御前にも最早御支度可被遊候と
p42
申上、扨両本多にむかひて修理申けるハ、拙者
儀は陣所へ罷帰り、支度出来次第に組衆
手勢を召つれ、御先へ打立可申候、御両所にも
押詰られ候様に可然と申置て、修理は陣所へ
帰りて、急ぎ支度を調へ、備をくり出し
押行候処に、加賀の先手の者とも、是ハ誰殿
の衆にて候へば、此方の備とは押なれべら
れ候哉と、しきりにとがめければ、修理馬を
のりよせ、是は越前の家中に吉田修理と

申ものにて候、今日天王寺表の御先手を
三河守に被仰付候ニ付、備をすゝめ候、岡山筋
の御先手の儀ハ加賀へ被仰付候と在之儀を
此方へは被仰渡候、その段おの〳〵へ筑前守殿
より被仰渡ハ無之候哉と申捨、備を押通シ
たれば、両本多をはじめ、忠直公の御はた
本備まで、一つらねに成て、加賀の手を
押抜候と也、いまだ夜のうちの義なるに
修理は味方の備の内にても口をきく面々の
馬の側へ乗よせて昨晩
p43
両御所様の上意にも、昨六日の合戦の節、越前
の家中のもの共ハ昼寝を致して罷在たる
かとの上意の段は、当家の名をりと存る間、今日
の義は、目の覚たるごとく忠勤なくてハ不可叶候
此修理においてハはたらき死と覚悟を究罷在
事候、各にも随分精を出され候へと、申まハり候と
なり、扨夜も明はなれ候へば、城方の将毛利豊前守、
真田左衛門佐をはじめ、城兵段々に備をたて
まふけ、双方にらミ合、巳の刻の終りより城兵        *朝十時―十一時
静に備をすゝめ候に付、味方も足軽をすゝめて

鉄砲を放しかけ候とひとしく、本多伊豆・同飛騨
此両組の面々、前後左右のかまひもなく、えいや
声を揚て無二無三に突て懸れハ、毛利・真田が
勢も相懸りにかゝり来て、一戦に及ぶといへとも
城兵終に戦まけて、引退く所を、越前勢
いさミすゝんで追討に討取、首数三千六百五十
也。その内に真田左衛門佐をば、西尾仁左衛門討取
御宿勘兵衛をバ野本右近これを討取なり
権現様茶臼山の御陣場において真田・御宿が
首を上覧被遊刻、西尾・野本儀も御前へ被
p44
召出、御感の上意を被成下候よし申伝へ候、此日
権現様には、合戦はじまり候節ハ、玉造り口の方
谷蔭の様なる所に、御乗物に被為召、御茶など被
召上、御側衆と御年若く御座候時の御合戦
の次第、御咄し被成御座候を
台徳院様には御存じ不被遊、越前勢の諸手に
先達而ひつかゝりに懸り候儀
権現様の御はた本と御覧たがへ被遊、ことの外ニ
御せき被遊、御旗本を寄られたく被思召候へ共       *急き
その刻ハ諸大名方の備々をも、我おとらしと         *我劣らじ

押詰候に付、御大軍の御旗本をすゝめらるへき
場所無之、御気の毒におほし召れ候処に、二条に
おいて、諸家の働を御穿鑿の刻、越前の勢
にて有之由、御聞被遊、御安堵被成候よしなり
問て曰 右の次第に在之候へば、忠直公には御        *現代文タイトル:忠直公の配流
軍法を御違背被成たる道理に候へハ、一旦の御咎
めなどハ可有御座儀に候處ニ、左様にも無御座候
は、何とぞその砌、被仰分の相立たる品も有之候哉、 
答て曰 其砌二条の御城において、諸手
の様子御吟味の節、前田家より御訴の品も
p45
有之、就夫
両御所様より前田家へ、上意の旨御座候よし
勿論越前家の家老中へも、段々御尋の様子
在之候処に、本多伊豆守言上仕候は、去ル六日
夜半比に至り、此方先手組の中に、御上にも
能御存知の、吉田修理儀、いかゝ相こゝろへ候哉
手勢并組の侍共を引つれ、敵城の方を
さして押出し候と在之儀を承り候とひとしく
私共両人組下の侍ともも、各のり出し、修理に
差つゝき罷越候と申に付、私共両人義も不得

止事、打立申候、右の次第にて、先手の者共
残りなく押払候うへは、三河守旗本をも是非
なく被押詰候、夜明候ての儀は申上るにも及不申候
吉田修理儀ハ軍散々候以後、天満川を乗
渡し候とて、不慮に水はまりを致し、その身
馬共に沈ミ果候へば、何をか承届様も無御座候
近頃不調法の至り、恐入奉存外ハ無御座候と申
上候由、右の次第にて、忠直公の被仰分ともに
相立候にや、其心得ハ何の御咎メと申儀も無
御座候よし申つたへ候、その年忠直公参議
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に任せられ、初花と申天下無双の御茶入を
御拝領被成候、 
問て云 吉田修理と申たる仁は
御家古参の仁にて候哉、叉ハ新参衆にて候哉
答て云 此修理事は、秀次関白殿に罷在
たるものにて候を、秀康公御代、武功の者
とある儀を御聞及被成、被召出、知行壱万四千
石被下置候、大坂辺随分の案内者にも在之候
処、水はまりを致し、不慮の死を仕候段、不審
のよし、その節沙汰仕候と也、 
問て曰 忠直公豊後の御配所へ御越被成候は、御何歳の

御時の義に候哉、 
答て曰 元和九年三月に
忠直公御年廿九歳の御時、豊後国萩原へ御
越被成、御法躰名を一伯と御改、慶安三年
庚寅九月、御年五十六歳にて御逝去被遊候なり、
                             
*現代文タイトル:忠昌公と大坂夏の陣
問て曰
 忠直公の御噂もあらまし奉           *以後三代目忠昌について
承知候、とての儀に伊予守忠昌公の御成立      *迚の義 と云う事で
をも承度御事に候、 
答て曰 宰相伊予守
忠昌公と申奉り候ハ、秀康公の御次男にて
慶長二年十二月十四日大坂にて御出生、御童
名をば虎松君と申候、慶長十二年十一月
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虎松気味十一歳の御時、駿府へ御下り被成
権現様へ初て御目見被仰上、直に江戸へ御
下り
台徳院様へも初て御目見被仰上候處に
上総国姉ケ崎において壱万石拝領被仰付
慶長十九年大坂冬の御陣の節、御とし
十八歳にて御初陣、御旗本本多佐渡守殿
相備に仰付らる、翌年元和元年早春の
比より、今年も叉大坂御陣と風聞有之
但今年の儀は前髪など有て、童顔の輩ハ

貴賎共に出陣不罷成候と、ある儀を申触候を
虎松君御聞なされ、毛受某児々姓に被仰付
夜中に御前髪を落され、男に御成なされ
候に付、前方公義への御伺も無之して、前髪
御とり被成事、近頃御素忽なる御事なれば
只大形の御咎めにてハ有間敷と、家来中大
きに気遣なから、其段を御老中方迄申上候ニ付
早速被達上聞候処に
台徳院様には一段と御機嫌よろしく、能似合
候哉と、ある上意にて正月廿七日虎松君を被為
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召、従四位下侍従に被仰、名をも伊予守に罷成
候様にとある上意にて、御諱の御一字を下され
忠昌公と申候、 問て曰 忠昌公大坂夏の御陣之刻
御自身の御高名首二つとある儀を世間にて
申ふれ候、其場所ハ何方にての義に在之候哉
答て曰 夏御陣の節も忠昌公の御事は
去年之通、御旗本組にて、本多佐渡守殿相備
と被仰出、御本陣に御詰被成御座候処に、五月
六日の晩景に至り、本多佐渡殿を御たのミなされ
被仰上候は、明七日御一戦の節ハ、兄三河守と一所に

罷在て、似合の御奉公をも仕上度と有之段、
佐渡守殿御申上候処に、暫くハ御思案被遊、程有て
さ様に存候ハヽ、心まかせに仕候へと被仰出に付、則
御前において、御礼被仰上、夫より忠直公の御
陣所へ御引移被成、翌七日の朝ハ、両本多が
備の真中通りを、五六反計も先へ御出張有て
御備を立られ、合戦初るやいなや、諸勢ニ勝れ
一番に御かゝり被成候を見て、両本多が備も
同じく突く懸り、毛利・真田が勢を切崩し候
時、忠昌公纔かなる御手勢の中へ、首数五十七
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御討取被成候うち、首二つは御自身御高名
なされ候、然も其一ツの内に城方にて剣術の
名人と名を呼れ候念流左太夫と申者と勝負を
被成、終に念流を御突伏、首を御とりなされ候
此時十文字の片鑓を御突折被成候てより
以来、今に至るまで御代々の御持鑓と罷成
候也、右御手柄の次第
両御所様にも殊の外御感じ被遊候と也
問て云 忠昌公の御事ハ、壱万石の御初知御
拝領より、只十ケ年程の間に、段々と廿五万石

迄の御取立に御逢被成たると申ハ、弥其通の
義に候哉、 答て曰 右にも申通り、慶長十二年
十一月上総国姉ケ崎において壱万石御拝領と
申ハ、十一歳の御時なり、元和元年大坂より
御帰陣の後、十一月に至り、常陸国下妻にて
三万石御拝領と申ハ、十九歳の御時也、同二年
八月信州松城十二万石御拝領は廿歳の
御時なり、同四年越後高田廿五万石御拝領
は御とし廿二歳の御時の義と申伝へ候
問て曰 忠直公御身上御果有て、越前の国を      *現代文タイトル:忠昌公の越前本家継承
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被召上候節、忠昌公の御身上もよほど危き
御様子の義有之たると申ハ、如何様の子細にて
在之候哉、
答て曰 右越前の国公儀へ上り
候ても、一年余り主護の被仰付も無御座候処に
寛永元年子の四月に至り、忠昌公を被為召
登城被成候処に、土井大炊頭殿を初、御老中方
御列座にて被仰渡、三河守儀は不行跡に付、
配流被仰付、領知被召放候、然れ共故中納言殿儀ハ
御当家の御嫡流にも在之候處ニ、其御家の
断絶に可及段、御上にも御残念に被思召候に付

其許へ本家相続の儀を被仰付、越前の国を可
被下置との上意に候、追付御前において、御直ニ可被
仰渡候、重畳目出度御事ニ候と、各御挨拶の處に
忠昌公被仰候は、故中納言義を被思召に付、本家
相続の義を私に可被仰付との上意の段、誠以身ニ
余り忝次第奉存候、併三河守儀は、其身之
所行不宜に付、身上御果し被遊候而も、仙千代と
申世倅有之候、此仙千代義を御捨置被遊間
敷とある思召にも御座候ハ々、今度の御請可申上候
若叉仙千代義をも御打捨置可被遊思召にも御座
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被成候ハヽ、私儀本家相続の御請は難申上候と
被仰候へば、大炊頭殿御申候は、仙千代殿義ハ、御上     *秀忠外孫
にも御筋目ちかき人の義に候へば、往々の義ハ御
捨置不被遊にても、可有御座候へとも、当分之儀は、
御大法の通りにならでハ、被仰付かたき儀に候間
先其通りに被成置、中納言殿御家御相続と
申儀ハ、重き御事に御座候間、先御請あられ可
然と、一座の御老中方、一同に御異見候へ共、忠昌公
御同心不被成して、とかく右通り仙千代義を
御捨置被成間敷とある、御内意をなり共、せめてハ

承り申様にも無之候てハ、私本家相続の御請ハ
得申上まじきと被仰放候へば、大炊頭にも、此上は不
及是非候、左候ハヽ先今日は御帰宅可然と御申ニ付、
御退出有之、翌日より御不快と有て御引込
被遊候へとも、御家中にてハ、その訳を存たるものハ
さのミ無之候、然れとも世上においてハ、伊予守殿も
何やらん上意違背あられたる儀有之、御膳向
よろしからず、越前同様に、越後をも可被召
放かなど、専ら取沙汰仕り候よし、然る處に、重て
叉被為召、御登城被成候へば、先日は仙千代義
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を申上候段、委細聞召届られ候間、安堵可仕旨御
内意被仰聞、其後御前において、本家相続之儀
被仰渡、越前の国城地共に被下置之旨、御直
上意被成下候由、是忠昌公廿八歳の御時之儀也
其年の七月に至り、越後より越前へ御引越
古来より北の庄と申たる所を、福井と
御改被成候、 
問て曰 忠昌公を以、秀康公の                 
御遺跡とある被仰渡のうへは、万事忠直公の
御代の通りにて御座候哉、 叉は御様子のすこしハ御
先代に御おとり被成たる儀なども御座候哉

答て曰 少にても前御代にをとりたる御様子
とては無御座候、結句忠昌公の御事ハ
台徳院様へは御なじミ深く、 大猷院様も御懇意      *大猷院 三代将軍家光
厚く御座被成候ゆへ、御三家片をはじめ、諸家の
用ひともに、御先代とハ格別の様に有之候由
申伝へ候、就中御本家御相続之儀被仰渡候
砌の被仰出にも、今度伊予守を以、故中納言殿
遺跡に被仰付候上ハ、本多伊豆を始、家中の面々
忠勤を可励の旨被仰渡、御一門の外ハ、各殿
文字を用ひ候様ニと在之、勿論御内書御頂戴
p53
の節も御書判にて被下置、参府の節は
品川迄上使を下され、御当着候ハヽ即刻御
登城被成、尤惣下座被仰付、直に御目見も
被仰付候、寛永二年上野の国の内において
御鷹場拝領被仰付、二年御上洛に付、
忠昌公御上京の節、正四位参議に任られ、万事
忠直公の御代に相替る儀とてハ無御座候由申
つたへ候、
問て曰 忠昌公越前御拝領被成、夫迄
の御領知、越後高田廿五万石をば、直に光長公      *松平光長 幼名仙千代
御拝領にて候哉、 
答て曰 右申ごとく、忠直公の

御一子仙千代殿義、御見捨被遊まじきの旨
忠昌公へ御内意被仰出たる儀ニハ御座候へ共、御大法に
相障り申とある思召にても御座候哉、光長公へ
直には被仰付ずして、只今まで伊予守に被下
置候、越後高田廿五万石の義は、姫君様へ
御化粧田として被遣候との被仰渡にて、夫迄ハ
越前の御前様と申候を、高田様と申候、其後
高田様より御願被仰上候は、女の身にて
城地致拝領罷在候もいかヽに候へハ、世倅仙千代に
ゆつり候て、似合の御奉公をも致させ申度と
p54
ある義を、是また忠昌公御とり持被成、高田様御
願ひの通りにと被仰出候、その節仰渡候は、今度越後
高田廿五万石の所、高田様より仙千代殿へ
御譲り被成候、然るうへは、御知行相懸の御人
なくては不叶の間、本多伊豆をはじめ、家老
職分のもの義ハ、本家を立さり可申様ハ無之候
其外の面々の義ハ、大身・小身・近習・外様に
よらず、越後へ参り度とある所存之輩は、少も
遠慮なく、壱人前に書付を以て、可申上のよし

被仰渡に付、大身の外様にてハ、萩田主馬、小栗
備後、岡崎壱岐、本多監物、片山主水、本多
七左衛門、野本右近などを始として、小身の数輩
仙千代殿衆と罷成候、此砌の義に候哉、高田様
より、故中納言様御代より御家に相伝り候名物
の御道具の品、御書付を以、忠昌公へ被仰遣候は
今度其許へ、御本家相続の義被仰出候上ハ
以前より御本家に在来候名物之御道具の義は、
其許へ可被進くと思召候間、左様心得被成
候様にと在之候処、忠昌公被仰候は、故中納言殿
p55
御座被成候御跡の、越前の城地拝領被仰付候へハ、
是に増たる儀も無御座、本家相続の訳は相立
申候、其外道具諸色の義ハ、仙千代殿御所持
なくて不叶儀に候との御挨拶の由申伝へ候、依之
初花の御茶入之義ハ不及申、よろしき御道具
ともは、悉く越後の御家に相残り申候なり
問て曰                             *現代文タイトル:越前家の家柄
台徳院様、江戸西の御丸において、御不例の節
御機嫌伺として、在国の諸大名衆道中早
打にて参勤有之候由伝へ承り候、今時などハ

左様の義ハ有之まじき事の様に被存候
答て曰 右の御不例と申候ハ、寛永六年の事
のよし、其以前駿府において
権現様御不例の節、諸国の大名衆いづれも
御機嫌伺として、参向の義有之ニ付、今度も
御不例御大切のよし、国々へ相聞へ候ハヽ、定而何れ
も郡参あるべきの間、指留候様にと仰出され
大坂・京都などへも被仰遣候へとも、猶叉参向の衆
有之候ハヽ、押へ留候様にと被仰付、品川迄御目付
衆御出し置被成候処に、忠昌公にも越前より
p56
御道中御急ぎにて、川崎まで御下着有て
御聞被成候へは、今度参向の大名方、江戸仲へハ入
候事、一円に不罷成、何れも御帰り登りと在之
に付、忠昌公にハ、川崎浦より御船に被為召、浅草の
屋鋪へ御上り被成、直に御老中方へ御廻り、御
機嫌の御様躰御伺ひ被成候節、御厚恩の私義
に候へば、たとひ御機嫌に相背候共、是非なき
次第と存、川崎より船にて罷越候と被仰に付
その趣を以、被達上聞候処に
台徳院様には別して御機嫌に思召、翌日登城

被仰付、御座ちかく被為召、諸人にかハり、参勤の条
御満悦不浅被思召候との上意被成下候由、其後ハ     *秀忠死去寛永9
猶以御前むきよろしく、寛永十年に江戸
龍の口において、初て御上屋しき御拝領有、
同十一年霊巌島にて御下屋敷御拝領、同
十四年、越前国木の本領二万五千石御加増         *越前木本藩
とて御拝領被成候、
問て曰 肥前国島原において
吉利支丹蜂起致し、同国原の古城に              *寛永14年
とり籠候刻、九州大名衆の義ハ近国の義な
れば、大方ハ出張被仰付、たとひ被仰付の無之
p57
衆中共に、その用意あられ候ハ尤の義に候
其外四国・中国の諸大名方にはさのミ用意
支度之沙汰も無之候処に、北国の越前福井ニ
おいてハ専ら支度有之たりと申ハ、一円心得
かたき義ニ候、もし公儀より御内意の被仰
渡なども御座有たる儀に候哉、
答て曰 吉利支丹蜂起に付、御成敗の義、九州大名衆へ被
仰付候段、忠昌公御聞被成、私義彼表へ罷越、踏
つぶし可申候間、御暇被下置度候、御厚恩之私
儀に候へ共、御治世の節に候へば、御奉公の申上所

も無御座候へハ、せめてはケ様の義をなり共と、
御願ひ被仰上候處に
大猷院様上意には、言上の趣甚以御感悦被遊候、   
然れとも吉利支丹御成敗ごときの義に、可被
遣その方家がらとハ不被思召候、此以後万一御
動座をも可被遊様なる儀も出来候節は、御名代
として被遣儀も可有之間、左様心得候様
にと被仰出候由、右の次第の義ゆへ、若御願
の通被仰出候時のためと有て、御家中にお
いても、人々その心得を仕候よし申伝へ候
p58
問て云 忠昌公御国許において、御病気の節、
上使を以、御尋の義御座候由及承候、左様の義
有之候哉、
答て曰 其儀ハ寛永十六年の事にて、忠昌公福井に
おいて御病気御大切と有之旨、江戸表へ相聞へ
大猷院様達上聞、無御心元被為思召候様由にて、
中根大隅守殿為上使、越前へ御下向在之候
其以後寛永十九年、御参勤之節、御道中にて
御煩なされ、御容躰重く候段達上聞、為上使
島田庄五郎殿、駿河の国島田の宿まで御越の

儀在之候、 
問て云 忠昌公相州鎌倉へ御越被成
たる儀有之候由、彼地御見物の御為に在之
候ハヽ、御交退之節などの御立寄にても、御座ある
べき処に、態と御暇被仰上御越と有之候は
如何様之御用に付ての儀に御座候哉、 
答て曰 右申寛永十九年、御在江戸のとし八月廿三日 
水戸英勝院殿御遠行に付、鎌倉英勝寺に            *遠行=死去
おいて、御法事在之に依て、九月に至り御暇被
仰上、御越なされ候、其子細は英勝院殿御腹に        *英勝院  家康側室
御男子無御座候に付、
p59
権現様上意を以、忠昌公御若年の砌、御養子分に
御契約なされ候処に、其以後水戸頼房公            *水戸徳川家祖
御誕生被成候て、英勝院殿御養子に御なり
なされ候へとも、忠昌公にも一度親子の御契約
を被遊候訳を以、御暇被仰上英勝寺へ御参詣
被成候よし申伝へ候、 
問て云 越前家の御一門方には、何も御持の挟箱に
なめし皮のゆたんを御かけ被成候ハ、御先祖秀康公の
御代よりの儀に御座候哉、
答て云 秀康公・忠直公の
御代の儀は不及申、忠昌公御代になり候ても

御三家方の御挟箱に相替る儀は無之候處に、        *挟箱 衣服を入れて道中を運ぶ
忠昌公の御代に至り、江戸龍の口において、初而
御居屋敷を御拝領被成候てより、御在府の間
久しく罷成候に付、方々御出行の義も繁く
に候處に、やゝとも致してハ、御三家方と
見まかへ、下乗下馬致され候衆、おほく有之候を
忠昌公御いやがり被成、御紋の見へぬ様にと有
て、なめし皮のゆたんを御かけさせ被成候より
以来、金の葵の御紋付にて無之挟箱共に
越前家とさへ申せば皮ゆたんをかけずして            *ゆたん 風呂敷
p60
不叶ごとく罷成候、右の子細に候へば、皮ゆたんを
かくると申ハ、物静か成時義也、何ぞ事いそがハし
き時分、人こミ騒動の中において、御家からの
相顕ハれ可然と在之節は、何時も上のゆたん
をとりのけ、下の御紋の見ゆる様にと有、御物
数奇にて候、常変共に必皮ゆたんをかけず
して不叶と申義にてハ無御座候、 
問て云 御家老の本多孫太郎と、毛利家の吉川監物両
人ことごとくなる御公儀の御あいしらひの結構なる
家老と申義ハ、加賀・陸奥・薩摩之三家をはじめ

諸家の家老の中には、似たるも無之候は、如何なる
子細にて候哉、 
答て曰 毛利家の吉川事ハ
その人に至り、御家の孫太郎事ハ、主君の御家       *本多伊豆の孫
がらにかゝりての事にて候へば、其子細別段の
事ニ候、いかんとなれハ、吉川事ハ慶長五ねん
関ヶ原御一戦の刻、主人の毛利輝元は石田
三成と一味有て、関東へ御敵対被申候ニ付、領地
悉く被召放、身上果し被遊候、其砌吉川  
事ハ毛利宰相殿と心を合せ                   *毛利秀元
権現様へ御忠節の御奉公たて有之を以
p61
毛利の本領の内、周防・長門両国をば、吉川に
御封し有て、輝元へ被下候との上意にて、主人の
家を相続致したる吉川義なれハ、御感の
思召を以、陪臣たりといへとも、直勤同前の格式に
被仰付たる儀と相聞へ候、是を以その人にかゝり
たるとハ申にて候、御当家の両本多と申ハ、たとへハ
尾州の成瀬隼人、紀州の安藤帯刀、水戸の
中山備前、扨は御家の本多伊豆、同飛騨など
を以は、同格のごとく
権現様・ 台徳院様両御代被為仰付を以、御代々

不相替以前の通の御あしらひに被成置儀に
有之候へば、御主人の御家からに懸り候とハ申にて候
問て曰 故中納言秀康公の御事ハ
台徳院様の御為には、正しき御舎兄様の義に
御座候へば、御当代の御本家などとも可奉申候哉
答て曰 惣而武家の系譜には、本家・嫡家の
差別有之候、先本家と申ハ、其家代々の本家を
嫡男にて相続仕るにおいてハ、申にも不及候、たとへ
故有て嫡子を惣領に立ずして、次男・三男
の中を以、相続致し候共、是を本家と申候、その
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家の嫡子とは、生れながら何とぞ子細有て、本家
の相続不罷成して、次男に相立たる家をさして
本家の方より嫡家とハ申ニ有て、これは
台徳院様にハ、秀康公の御舎弟様ながらも、御惣領ニ
御立被遊、天下の御ゆづりを被為請候へば、越前の
御家からハ、御本家とより外にハ可奉申様無之候       
さればまた御公儀様からも、越前の御家をハ
御嫡家と御立置被遊御事に候、依之前にも申
通り、越前の御家の義をハ、列国の諸家とは
違ひ、御懇意の訳共も有之様にて候、其証拠

には、忠直公のごとく成御仕合のうへにも、御家の御
相続をハ、御舎弟忠昌公へ無相違被仰付、其上ニも
御息光長公へは、格別の思召を以、高田廿五万石
を被下置候様なる義、是皆御嫡家の御筋目を
被思召候ての御事と奉存候、当時諸大名方の
御家においても、本家・嫡家の訳の在之家々多候
先水戸の御家ハ御本家ニして、松平讃岐守殿
には御嫡家也、松平陸奥守殿・井伊掃部頭殿ニハ
御本家にて、伊達遠江守殿、井伊兵部少輔殿など
には御嫡家也、如此の類、大身小身へかけ、如何
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程も有之事ニ候、去に依て、本家の方よりは
外々の連枝の家よりも、嫡家の義をハ別而
親しミ深く在之、叉嫡家の方よりハ、本家の
儀をハ、一門の列をはなれて大切に致事、古今
武家の作法也、爰を以、宰相忠直公には去ル大坂
表において、諸家に抜出たる御軍忠をなされ、
後の宰相忠昌公にも、西国のはてなる島原一揆
の義を、北国に御座有御身として、御願ひ          
被成、或は
台徳院様御不例の節、列国の大名衆ニハ、御

貪着なく、只御壱人川崎より船にて御廻り
有て御機嫌を御窺ひ被成候へとも、何の御咎
の御沙汰も無御座、却而御上にも御機嫌に
応じ、世間のそしりも無之候は、偏に御本家
御嫡家の御筋目からの御事故と可奉申候
問て曰 越後の御家と、越前の御家とハ、いづれを
御本家、いづれを御嫡家と可申候哉、 
答て曰 其段ハ右にも申通り、忠直公の御事ハ
秀康公の御嫡男として、然も其御家督を
御相続被成たる御方の御嫡子にて被成御座候からハ
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中将光長公を以、御本家と可申儀に候へとも
最前にも申通り、忠直公にハ御勘気を御蒙り
有て、配所へ御越之節、越前の城地共ニ一円に
被召上、一年余りも程過候て後、別儀を以て
忠昌公へ御本家御相続の義を被仰付、越前の
城地御拝領被成、本多伊豆を始、諸家老中皆以
御家につとめ被居、公儀の思召ともに
故中納言様御時代に相替儀無之御様子ニ
在之候、其御家筋を御相続なされ被来たる        *なされ来られたる
儀に有之候へば、此方の御家より外ニ、越前家

の御本家と可申御方とてハ無御座候、然ハ越後の
御家の義は、此方の御家より申時ハ、御嫡家と
申奉るべき御事に候                     *越叟夜話はここで終了 
                                   以下は福井鑑に朱で加筆あり

   君のためと おもひはいれと 梓弓
      八そじにちかき その身なれは

  享保元八月       大道寺一葉軒友山     *享保元=1716年
                  七拾八歳記之


     天保七丙申年秋八月               *天保七=1836年
            一葉軒自筆以越叟夜話校之