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暹馬人口陳書取、白石先生真跡写
ロウマン
 ホンテヘキスマキスイムスアルパアヌス座下
  サチュルドスヨワンハツテスタシロウテ

日本へ渡来候事ハ、むかしより、我法
此国に行はれ候事、年久しく候處に
タイカフサメの代 (
太閤様と申事か、彼国
         の書に、此事をしるしたり)

法禁をたてられ候より此かた、我法の

師徒誅滅をまぬがるるものなく
我法ついにふさがりて、東土に行はれ
ざる事数十年、前の本師
ウンテイシムス在世のうち、此事をふかく
歎き候ひしかど、其志むなしくして
十年前ニ死し候キ、今の本師
アルバアヌス、前師の座を補し候ひしより
其志をつぎ、ふかく此事を歎き

其座下を集め議し候へども
異議まちまちにて、年月を経候うち
二十二人のカルヂナアル、一同に
議定し候旨は、むかしより支那の国
我法をきびしく禁せられ候へとも
我法の邪ならざる事、すでに分明に
なり候後、其禁を除かれ、今は

我法威に行はれ候、近く暹羅
にても、十八年の前、纔人の説に
よりて、きびしく我法を禁ずと
いへども、程なく讒人の説
実ならざる事あらはれて、今は
我法行はれ候事もとのごとし、しかれば
日本の御所様にも、我法の邪
ならざるよしを申披き

国禁をゆるめされられ候ハん上に
かさねてカルヂナアル等の信使を
奉りて、ながく両国の好を結び
我法のふたたび東土に行はれ
むことをこふ事、支那の例の
ごとくなるべきかとの旨に、衆議
一定して、まず最初の使を

撰はれて、衆議また一同の上、某を
撰出され候、これよりして
日本の風俗を習ひ
日本の言語を学ひ候事、六年の後
六十余歳の母、并老たる兄妹等を
うちすて、万里の風波をしのぎ
御国に来り候事、いかにも仕り、本師
の使命を

御聴に達し候ハんためのミ御座候
某はじめ使命をうけ候日より
志を決し候所、三事にすぎず候
第一ハ本師本意のごとく、我宗の
邪法ならざる旨を
聞含ひらかれ、我法東土に行はれ候
事、もとのごとくに候ハバなにの事が

これに過べく候ハんや、第二には
今までのごとく
国法にまかせられ、いかなる刑戮に
行はれ候ハんにも、法のため、師のため
はじめよりすておき候身命、惜しむ
所も候ハず、但し人の国を侵し
うばひ候凶賊の間使などと、御沙汰
候て刑戮にあひ候ハん事、遺恨

なしとは申難く候へども、すでに
御国へ身を寄せ候上は、骨肉身
躰は、いかやうにも御沙汰に任せ候
事、勿論の御事か、第三には
すみやかに、本国にをし返され候ハん事
本師の使命をもなし得ず
我身の本志とも達し得ず

むなしく罷帰候ハんには、本国の
人に対し、面目をうしなひ
いきがひもなき事に候へし
但しそれとても、我法行ハるべから
ざる時の不幸にあひ候事、これ又
恨むる所もあるべからず候か、某
御国へ志候旨趣、此三事の外は
これなく候、しかるに今月今日は

本国にての新年の初日にて、祝ひ候
日に候に、右より此御たづねに
あひ候事、せめてハ志のほどを申
述候幸と存し候て、祝着の至候
十二月四日

横田備中守・柳沢八郎右衛門
同座にて物語仕らせ候趣
       通詞
        今村源右衛門
        品川 兵次郎
        加福 喜 七
以上
       新井勘解由 
右借越中守榊原氏蔵幅写本
ローマ人の口述書、新井白石先生の書筆写
ローマ人
 アルバアヌセ法王配下
  サチュルドス・ヨワン・バッテスタ・シロウテ

日本へ渡来したのは、昔は此国でも
キリスト教がしばらく行われていましたが、
太閤様による禁止(註:1587年豊臣秀吉の
バテレン追放令を指している、全般的な
キリスト教禁止は1613年徳川家康による)
以来、キリスト教の宣教師と信者達は全て
抹殺っされ、日本で教えも途絶えて已に
数十年になります。

前の法王十一世が在世の時、この事を深く
憂えていましたが、志も遂げず十年前に
死去致しました。 
今の法王アルバアヌスが法王の地位を継ぎ
先師の志も引継ぎ深く憂え、配下の宣教師を
集めて議論しましたが、意見がまとまらず
年月だけが過ぎました。

その後22人の枢機卿が一同に会し議論した
結果,
昔中国でもキリスト教を厳しく禁じたが、これが
邪教では無い事が明らかとなる事によって
その禁止が解かれ、今ではキリスト教が
盛んに行われている。 
最近ではシャム(現在のタイ)でも18年前に
誤った説が流され、一旦禁止されたが
直ぐにその説が偽りである事が明かとなり
元通りになった。 
日本でも支配者にキリスト教が邪教ではない
事を訴え、その禁が弛めば次に枢機卿等を
使節として送り、両国の好を結び中国の様に
再びキリスト教が日本でも行われるのでは
ないか、
という事で衆議一決しました。 

まず最初の使いを選出するに当り、衆議
一致で私が選出されました。 これにより
日本の風俗・言語を学び6年後、六十余才
の老母と兄妹と別れ万里の風波に耐えて
日本に参りました。 これは法王の使命を
御聞いただく為だけでございます。

私はこの使命を請けた日より堅く心に決めた
事は以下の三ヶ条です。
第一は法王の本意である、キリスト教は邪教
でない事を認めて戴き、教が昔の様に日本で
広がればこれ以上の事はありません

第二は是迄の様に国法により、如何様の
刑罰が与えられようとも、教義と法王の為
初めから捨てた命ですから惜しむものでは
ありません
但し他国を侵略・略奪する者の使いとして
刑に処せられる事は無念ですが、既に貴国
に入国した以上は、この身体を如何様に
なされても結構です。

第三に直ぐに本国に送還される事です。 
法王の使命も果たせず、自分の志も遂げず
空しく帰国することは、母国の人々に対し
面目も無く、生きがいも無い事です。 しかし
それも、キリスト教が許されない時節への
廻り合わせで止むを得ない事でしょうか。

私が日本を目指した趣旨はこの三つ以外
には何もありません。

本日はローマでは新年の初日に当り
この祝うべき日に御尋ねになった事で
せめてもの志を述べる幸せを戴き
たいへん喜ばしい事です。
十二月四日(宝永六年)註 1710年1月3日

上記は横田備中守・柳沢八郎右衛門(註:
両者共に切支丹奉行)立会いで語らせた
ものです。
         通事 今村源右衛門
             品川 兵次郎
             加福 善 七

 以上
         新井勘解由 (註:新井白石)


出典: 内閣文庫弘化雑記第五冊より
参考: 岩波書店 新井白石 日本思想体系(西洋紀聞)
シロウテ: Giovanni Battista Sidotti (1668−1714)、ローマ司祭
       屋久島上陸(宝永5年8月,1708年)
       長崎で取調べ(同年10月)、 
       江戸での取調べ(翌宝永6年12月)、 江戸で死亡 (正徳4年10月、1714年)

西洋紀聞: 白石は幕府を憚りこの著書を門外不出としたが、孫の時代寛政五(1793)に
      幕府に献上したという。 しかし上記口述書は奉行も同席の上なので当時に
      公に報告されたもの思われる。

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