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                屋久島に密入国したローマ人
                 −新井白石とシドッチー

    文政雑記、天保雑記、弘化雑記、嘉永雑記、安政雑記は江戸後期文政から文久迄30年余
の間、同時代に生きた藤川貞という剣術の名人が剣術師匠の傍ら収録したと云われ、事件や世相等
多方面に渡り収録されたものである。 その分量は和綴本で99冊、記事本数は合計で約4、000本と
莫大である。又この中には当時の事件に関連するもので、筆者より前の時代の記事も参考として
随時収録されている。 

    弘化年間(1845年前後)琉球にフランスやイギリスの艦船が訪れ、琉球国と交易を開く
目的で、無理やり自国人である医師や宣教師を調査、通訳の為に琉球に残留させた事があった。 
弘化雑記にはこの事件についての記事が多数収録されているが、その中に当時より140年程前
(宝永年間)に薩摩藩屋久島に単身密入国したローマ法王配下の宣教師に関する新井白石の文が
収録されている。 
    新井白石は江戸中期の有名な学者であり、六代将軍家宜、七代家継の時代には政治家と
しても活躍している。 白石の多くの著書の中で「西洋紀聞」はこの密入国した宣教師を尋問した
際に得た知識を元に、彼の渡来の経緯、当時の西洋及びアジアの地誌、キリスト教の概要等を記録
している。 白石はこの宣教師が究めて博学で特に天文、地理に明るい事に感心している一方、
宗教に関する話となると全く別人の様に愚かと評価している。

    この宣教師はシドッチ(Giovanni Battista Sidotti、白石の書ではシロウテと表記)と云い、
ローマ法王から日本での再布教の先兵として送られた。フィリピンで日本の侍の服装、刀を用意
して船内で月代を剃り、宝永5年8月28日(1708)屋久島迄スペイン船で送られた。 同29日に侍の
格好をして日本語の様だが意味不明の言葉を発する長身の男が一人上陸しているのが村人に発見
された。 早速保護して食事を与えると共に薩摩藩に急報され、薩摩藩からは長崎奉行に9月13日に
第一報が報告されている。 屋久島から薩摩経由長崎に送られ、長崎奉行で取調べを受けて一年程
獄舎に入れられたが、その後江戸に送られ翌年(宝永6年12月)新井白石が尋問する事になった。 
江戸では切支丹奉行の監視下の獄舎に収容されていたが五年後(1714年)病死している。
 シドッチが日本に来たのは調度今から300年前の江戸時代中期の事である。

    新井白石によるシドッチの陳述書及び現代語訳