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ハリスへ条約調印の延期を申し入れ(安政雑記第八冊より)
安政五年戊午五月二日蕃書調所において井上信濃守
案文にて使節へ相渡
          エキセルレンシータウンゼントハルリス
日本国の老中自分共今般 大君の命を以、日本国にては
井上信濃守・岩瀬肥後守に任し、亜米利加合衆国にては
大統領の命に仍て其許を差越し、当年正月五日双方談判
の上条約決定せりといへ共、日本国において安寧を存する
重大之事柄あるに依て、調印の義、同七月廿七日迄延引
せんことを我望に応じて其許承引せり、併此事変改又は期限
を延引せざる事疑ふべからず、且此後も国々外国人と条約
談判及事ありとも、亜米利加合衆国の条約へ調印するの後
三十日を経ざる内は調判することあるべからず、謹言
                 使節出府懸り
安政五午年五月二日       御連名
(1858年6月12日)
井上、岩瀬両全権とハリスとの間で交渉の末
条約は合意に達した。 幕府では開国、交易に
反対する有力大名の意見を封ずるため、朝廷
の勅許を後盾とする試みを行ったが、御三家
意見を統一する様にと差し戻された。 
そのためハリスに取敢えず調印の延期を求め
ている。
正月五日 (1858/2/18)
七月廿七日(1858/9/5)

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調印の契機となった事件
(安政雑記第八冊より)
安政五年戊午六月十八日御達
       大目付え
去る十三日下田湊え亜墨利加国の蒸気船弐艘入津致し、同所
に滞留致し候、魯西船も一艘一昨十六日下田え渡来、引続き
入津致すべく趣ニ相聞候、且又英吉利・佛蘭西船も近々江戸
近海え渡来致すべき哉の由申立候間、心得の為相達候
右の趣向々え早々達せらるべく候
      六月十六日

六月十七日申刻小柴沖えアメリカ船壱艘入津申立
今般イキリス・フランス両国唐船と戦争の所、両国勝利相成候に
付、右引払魯西亜・トルコ四カ国一同江戸近海へ乗入、尤
四カ国とも十艘ツヽ相越候趣の由、注進申出候
         御勘定奉行   永井玄蕃頭
         長崎奉行    岡部駿河守
         下田奉行    井上信濃守
         箱館奉行    堀 織部正
         御目付      岩瀬肥後守
         同         津田半三郎
 右之面々出張被仰付候

(1858年7月23日)に米軍艦ポーハタン号が
下田に入港し、最新の情報をもたらした。 
英仏連合が清国に勝利し、大艦隊で日本に
押し寄せるという事で幕府は危機感を募らせる
井伊大老も事ここに至っては止む無しと調印を
指示する。
調印はポーハタン号上で井上・岩瀬両全権
とハリスとの間で行われた
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幕府より諸侯へ条約締結の通達(安政雑記第八冊)
安政五年戊午七月 太田備後守殿御渡
               大目付え
亜墨利加条約の義、先般仰出されの通、御余義無き次第に
て条約調判相済候儀候所、其頃より魯西亜船も渡来、去巳年
仮条約為取替相済居候、応々取広条約取結相済度旨申立
魯西亜の儀は貿易御差許も相成居候義に付、申立の件は精々
談判の上取縮、亜墨利加の振合を以、条約御取結相成候
然る所兼々風聞の通、此節英吉利船も追々渡来、十分の条約
取結の義申立、佛蘭西船近々渡来可致由に付、是亦精々談
判に及申立候、兼々取縮亜墨利加の振合を以、条約御取結可
これあり候、尤先達て叡虜の趣 仰進められ候次第これあり候
に付下総守義御使 仰付られ、日ならず上京の上、余義無き
訳柄委細 言上に及び候筈に候間、其意を得られべく候

右の通万石以上の面々え相達候間、万石已下の面々え心得
の為達せらるべく候 
         七月
(1858年8月)
アメリカとの条約は先般報告の通り、止む
を得ず調印も済んだところ、引続きロシア
も前年の和親条約の改定を要求し、貿易
も許されるので交渉の上、アメリカに倣い
条約を締結した。 又前からの風聞通り
イギリスからも条約締結の申し入れが
あり、フランスも近々渡来するので、是
等もアメリカと同様に条約を結ぶ予定で
ある。 先だって朝廷へも報告している
ので老中間部下総守を直ちに上京させ
止むを得ない次第を委しく報告する予定
である。
上記の通り万石以上の面々へ通達する
と共に、万石以下の面々にも心得の為
通達する事

    
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条約批准使節団、米軍艦で送迎
(安政雑記第八冊より)
亜墨利加合衆国全権兼コンシュルゼネラルトウンセントハリルス
此度の条約本書華盛頓に於て取替させの節、日本国初めて
航海の義に付、貴国軍艦を以て送迎すべしの趣、心入の段忝
存候、我来る十一月下旬より後に右船差越されか、此段貴国
政府え然るべく申立これあり候様存候、謹言
   安政戊午年          太田 備後守 花押
    七月十九日         間部 下総守 花押
                     久世 大和守 花押
条約批准の為ワシントンへ赴く使節団を
米軍艦で送迎する事をハリスが提案し
夫に対し老中が連名で御礼をしている
日付は条約締結直後の(1858年8月)で
その年末位を予定してるが、実際はその
一年後であり、所謂安政の大獄で延期
となったと思われる
安政五年7月19日(1858年8月27日)
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批准使節団及び別船咸臨丸乗員
(安政雑記第四冊より)
○ 安政七庚申年正月        
亜墨利加国え軍艦乗組罷越候名前
             軍艦奉行
                       木村 摂津守
             両御番上席
              白須甲斐守組
             御軍艦操練所教示方頭取
                       勝  麟太郎
             同所操練所
              勤番頭
  御免相願彼地江不罷越      佐藤 桃太郎
             浦賀奉行与力
                       佐々倉桐太郎
             御代官
             江川太郎左衛門手代
                       肥田 浜五郎
             浦賀奉行組同心
                       浜口仲右衛門 
                       山口 金次郎 
                       若田  平作 
             御賄方
                       小杉 雅之進
             同下役
                       小永井五八郎
             江川太郎左衛門組同心
                       鈴木 勇次郎 
             御普請方
                       中浜 万次郎 
             牧野越中守家来
                       小野 友五郎
             松前伊豆守家来
                       牧田  備助
右は当十二日品川沖にこれある咸臨丸御船え乗組、同十三
日出帆、横浜迄罷越申候、又候品川沖帰帆、同十九日
ホウハツタン一同出帆


(以下ポーハタン号使節団メンバー)
      亜墨利加国え御使名前
              御小姓組番次席
              外国奉行 
              神奈川奉行兼常
                      新見 豊前守
              外国奉行
              神奈川奉行兼常
              箱館奉行
                      村垣 淡路守
              御目付
                      小栗 豊後守
              御勘定組頭
                      森田 岡太郎
              外国奉行
              支配組頭
                      成瀬 善四郎
              同調役
                      塚原 重五郎
              御勘定詰御徒目付
                      日高 圭三郎
                      刑部 鉄太郎
              外国奉行支配定役
                      吉田作五右衛門
                      松平 三之丞
              御普請役
                      益頭 俊次郎
                      辻  芳五郎
              支配勘定詰通詞
                      名村 五八郎
                      立石 得十郎
              御小人目付
                      栗島 彦八朗
                      塩沢 彦次郎
              寄合医師
                      宮崎 立 元
              御番医師
                      村山 伯 元
              松平肥前守家来
                      川崎 道 民

右は当十八日築地御軍艦所より船にて品川沖にこれある
ホウハツタン船え乗組、同十九日出帆
     但御軍艦壱艘ホウハツタン船外壱艘都合三艘にて出帆
     ホウハツタン船  長サ四十五間余
     大砲 三拾挺  蒸気船車四ツ有之由
(1860年2月)
咸臨丸乗組

旗本2000石、提督役
(1830-1901)


旗本200俵、後の海舟、艦長役
(1823-1899)

病気の為辞退

勝と共に海軍操練所一期生
(1830-1875)



*輿右衛門(1830-1894)
*山本(1843-1864)


操練所機関科(1843-1909)



*鈴藤

*ジョン万次郎(1827-1898)

勝と操練所同期、数学者、笠間藩士
         (1817-1898)
医師、松前藩主松前崇広家来
横浜で米人同乗者ブルック大尉
(John Mercer Brooke)ら11名乗船
外水夫、釜焚き等は65名
実際は一月十九日浦賀出帆






正興 (1822-1869) 正使



範正 (1813−1880)副使 

忠順 (1827−1868)副使


















甥の斧次郎(17歳)を見習として同行







佐賀鍋島藩
医師見習

総勢76名
ここで云う外壱艘の記録不明、実際は
ポーハタンと咸臨丸だけと思われる。 尚
ポーハタンは実際は一月廿二日日本出帆
咸臨丸は三日程早く日本を出帆している
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使節よりサンフランシスコから書簡
(安政雑記第四冊より)
万延元申年散浮嵐紫翠港より三月十日これを出す、四月
神奈川着同十五日江戸居留ミニストル館より達ス
   
内啓仕候、春暖罷来候、各様弥御壮健奉恐悦候、然らば二月
十六日サントウイスより函館迄幸便に託し一封差立候得共
多分達滞致すべく哉と存候間、猶又最前の次第左に、正月
廿二日神港出帆已来、時化がちにて揺動甚しく、一同当惑、
同廿七日者南暴風にて夜中は別して強くバツテイラ一隻を
失ひ、コモドール二十余年の航海中不覚大時化の由にて
檣の傾三十二度までに至り、士官一同必至の働にて船の損も
格別の事もこれなし

二月七日に至りサンフランシスコ迄石炭不足の趣にてサントウ
イスえ立寄候旨申聞候間、兼ての日積りもこれあり今更不足と
申も不審に存承り候所、捻仕掛に候へば順風の節は蒸気相止
候へども、外車にては順風にても車を止候事相成申さず蒸気
相成候事にこれあり、殊ニ逆風勝にては船路捗取兼候間
不足の趣尤に相聞

且サントウイスの様子士官共へも追々承り候所兼て承り及び候
とは違ひ、太平海の孤島全独立王国の趣に付、立寄候義も好し
からず、何とか断り申すべしと種々示談仕候へども、素より航海
中の儀、彼の船に乗組候は如何ともいたし方これなく、其意に
任せ置、同月十四日昼九時サントウイス諸島の内オハホ島王府
ホノルル着船仕

石炭も積入、船繕等之間上陸致し候様申聞候へども、成たけ
船中に罷在るべく候心得の所、最早旅宿も設上陸を勧メ、初て
廿日余の航海、殊に早き故か風波強く一同困苦を極め、何れも
疲労致し着港に再生の心地、上陸を渇望の情余儀なき次第に
御座候間七日滞船之積(墨ケシ)上陸止宿仕
市中仏人の旅店に候 

ホノルル港には英・亜・仏・其余国々のミニストル居留罷在、追々
尋問として旅宿え相越候、各国の礼にて、其国に入候へば必
其政府のミニストルを問候事に付、一同相越候様コモドール
申聞候間、外国局に罷越候所ミニストル面会、右の内外国人
接待の館これあり、同所へ引移り候様頻りに勧め候へども相
断り、最初の旅宿に罷在候

其後国王面会致したき旨申聞候間、是又相断候所、各国の礼
にて是非面会いたしたき段再々申聞、強て断辞すべき柄も
これなく候間、其意に任せ二月十七日王城え相越面会、妃も
同様面会致し、誠に奇成事と筆端に尽しがたく、帰府万々
申上べく候

既に右等の事も大造に半虚を交ぜ新聞紙に出し候、定めし
以外の事に御承知成らるべし哉と荒増申進置候、王も頻りに
懇信に仕向候様子等相考候所、亜人共此度の御使殊の外
自慢の躰にて、拙者共百揆の諸侯と申位に申成候哉相聞候
尤甚赤面の事共、しかし御国威海外に顕れ其趣は難有

十四日より十八日迄上陸致し候所、何分あまりの懇切にて
うるさき事共斗に付、一同久々食物并湯水に困苦いたし、大
病後の躰も少々は魚類等相用養生いたし、気力平常躰に復し
候間、一日も早く出帆致したく、せり立候処実は大時化の節
蒸気の機関を損じ候故、其後は馬力を減しサントウイス迄参り
候事にて余程の修復に相成、何分急速の事に相成候へども
十九日には一同旅宿引払、乗組

同廿七日夕三時に出帆致し、其後海上も大に静に相成、一同
馴候気味もこれあり、格別困苦仕候様の義これなく風順も宜しく
千二百里の海上十二日、同月三月九日朝五半時米利堅領
サンフランシスコ港え着船仕候

一サントウイスは八島の内オワホ島は王府に候へども港入口
狭く、乍去大船も波場辺え碇泊能湊にて、市中は函府の一倍
位の体
近来開ケ候由、西洋人多く土人ハ黒色、甚麁暴ニ相見へ
国王も手軽にて、城と申せど古寺の如き破れたる土塀一重に
これあり、船中へも王妃も暇乞として罷越候
事々様々新奇にて目を驚かし候事ども御推考下さるべく候
サントウイスにては五月頃の季候、西瓜・木瓜日中単物
相用申候

同所出帆後追々寒冷に相成、サンフランは北緯三十七度
江戸同様の処にて西北海を受候故、寒暖六十度小袖二ツ着
候位
此港は江戸海の如く入口は一里余これあり、奥え二十里程
それより川え相成、能キ港にて函府に似たる体に見請、人家
も多く立派にて中々ホノルルの体にこれなく候、しかし其地は
多分空原斗、山々の様子等都て蝦夷地も同様の事に見請
申候

一ホノルルは勿論、サンフランも物価の高直には驚入候、玉子
壱ツ壱匁五分、旅宿銭一回壱人三ドル、入湯一風呂三ドルと
申位、其外右にて御承知下さるべく候、何分にも入費に当惑
御土産などは迚も心に任せ申さず御一笑下さるべく候
各国中御国程物価下直の所これなき由申唱へ居候
横浜には多く、且は船々輳致すべき哉、メキシコドルラルも御国
にて格別相場宜相成候に付、当所一割直段引上申候、都て
かくの如き姿にては往々疲弊は眼前の事と心痛仕候
  
一御軍艦咸臨丸も別条なく十五日以前にサンフランえ着港
致し居木村攝津始一同面会いたし候所、何れも壮健にて安心
仕候、乍去風波甚しく殊の外難義致し御船御損じもこれあり
当港ネヒヤールと申船製造場にて彼方にて十分に御修復致
最早五日にて出来候由、入費等の都て政府にて致し候事の
趣に申候、当所のコモドールより政府え伺中の趣に相聞候

勝麟始一同格別の骨折、業前も存外熟し居候旨ブルーク申
聞候、同人も好人物居合宜、必至の働致し候由、万次郎も
存外平穏、一言も出不申候、軍艦にも取締等至極宜しく安心
仕候
当所にて御軍艦御仕出シに相成候は驚入候由にて、速に
新聞紙に出し、昨日拙者共入港祝砲これあり、港内数艘の内
にて旭章を引揚げ合砲ヤヽ半時の間数声珍らしき事に御座候

勝麟は出帆間も無く風邪強く引受、廿日程平臥絶食の由
其内も働居格別の差はまり感伏致し候、

拙者共帰朝の義は治定仕らず、彼方にては華盛頓に六ヶ月も
滞留いたし候哉と存候様子に付、当六月中には帰国積り段々
コモドールえ相咄能分り、帰路も此ホーハタンの積りにて巴納痲
え留置、士官のみ交代致候方都合宜存、コモドールは決心の
様子に候へども政府の令無き内は治定いたし兼候由申聞候へ
ども多分間違これなき様子、コモドールは当所へ早蒸気にて
先へ相越、巴納痲に手配、且華盛頓の仕度等致し候趣申聞候

右に付閏月中旬華盛頓着、十日程にて一同引払の積、何れも
四月朔日を帰朝出帆の見込六月中か遅も盆前迄には帰府の
見込に御座候、夏分太平海は風も多分順風、至て穏の様子に
付最早是迄程の義はこれあるまじくと楽しみ罷在候

亜人の懇信に世話いたし候には感伏、コモドール始何れも
穏和の人物、更に隔もこれなく所々のミニストール共抔は都て
例の人物様の人は更に見受申さず候、米都府にも至り申さず
候へども御咄は海山の如く、帰府迄には何程もこれあるべし哉
其内七分は嘆息の事のみ御座候、何分筆紙に尽しがたく
明日神港に便船等これあり候旨申聞候間、船中にて急に認
例の乱筆御判読くださるべく候、誠に心事九牛の一毛に
御座候
謹言
    
    我三月十日 サンフランシスコ之内       淡路守
            ネビャールトホーハタン中ニ認  豊前守
      
      讃岐守 様      
      左衛門尉様  
      隠岐守 様  
      織部正 様  
      石見守 様  
      筑後守 様  
  

猶以時候御厭成さるべく候、拙者共始一同無異罷在候間
憚りながら御放念下さるべく候、本文の趣御序の節、然る
べく御申上置きくださるべく候様致したく、成る丈け帰路は
差し急ぎ罷在候間、御地にても相替らず御用多と遠察仕候
当方においては明暮の立居候のみになん
去る廿七日時化揺動の有様、先年浦賀港より甚しく波涛更に
瀧の如く船上を飛び、言語に尽しがたく、左衛門尉殿・隠岐守
殿には左の次第御察も御座候事と奉存候
翌廿八日先々一同蘇生の心地に相成、誠に以て恐縮此上な
く筆紙に尽し兼候
小栗・森田よりも内状差上候趣も御座候間、当所にも御聞糺
成さるべく候、右両人とも格別に差はまり、宜万端隔意なく
談判、取締らざるの儀これなく一同大安心大慶仕候
(1860年3月31日)サンフランシスコ発、
(1860年6月4日)江戸米公使館から着
*(日付)は太陽暦に変換したもの

時候の挨拶
Sandwich(ハワイ)より一報託すが未着と思
われるので始めから報告
(2/13)神奈川出帆後、時化がちで揺れ
(2/22)暴風雨、はしけ壱艘流す、提督の20年
余の航海で最大の時化の由、マストも32度
まで傾いたが士官達の働で事なきを得た




(2/28)サンフラン迄は石炭不足するのでハワイ
に寄る旨聞き、日程もあるので困惑して聞いた
所、スクリュー方式は順風時蒸気止めるが
外輪船では順風でも蒸気を必要とし、逆風だと
進行が遅いので更に蒸気を必要とする由
*ポーハタン号は外輪型
 咸臨丸はスクリュー型


ハワイは改めて聞くと太平洋上の孤島で独立の
王国でありとの事故、立寄りたくなかったが
航海中の事であり、仕方なく(3/6)昼12時に
ハワイ諸島の内のオアフ島王府ホノルルに到着





石炭の積込、船の整備の間上陸する様云われ
出きるだけ船内にいる積りでいたが、既に宿も
用意との事(市内仏人の旅館)
20日余の航海、特に時期が早い為か風波が
強く、皆苦しみ、疲労し上陸を渇望、船も七日
滞船の予定故止むを得ず宿泊



ホノルルには英、米、仏、其の他の国の公使が
駐在しており、挨拶に旅館で挨拶の訪問受ける
又必ず此国の大臣を訪問する事が礼である旨
提督から聞き外国局を訪問し大臣に面会
その中で外国人接待館があるのでそちらに移る
様に勧められたが断り、元の旅館に戻る



その後王が面会したいと聞き、これも断ったが
再三乞われ、強いて断る理由もないので
(3/9)王城え行き妃にも面会
奇妙な事書尽くす事難しく帰国後申上げる




使節の事も大まかに虚も交ぜ新聞に出た、 
王が熱心に接近してくるので考えた所、米人達
が使節の事を自慢して、我々が大大名である
かの様に吹聴した模様、赤面の至りだがお国
の名が海外で知られるのは有り難い



四日間上陸したが、余りにも親切で煩わしく
皆久々の食物・湯水の苦労も癒し、魚類等も
食べ養生したので元気も回復、早く出帆を
期待したが、大時化で機関が破損し馬力を
落としハワイ迄来たので大掛かりの修復となる
少しまだ早いが(3/10)には旅宿引払い乗船




(3/19)夕に出帆、海上穏やか、皆船に馴れ
苦しみもなく、風も良く1200里の海上12日
(3/30)朝9時米国領サンフランシスコ港へ着船



ハワイは八島の内オアフ島は王府だが港の
入口狭く、しかし大船も波止場辺に碇泊できる
良い港、市内は函館の倍程
近来開け西洋人が多い、土人は色黒く粗暴に
見える、国王も身軽で城も古寺の様、船中に
妃と共に暇乞いに訪問
事々、様々新しい事で驚かされる
ハワイは五月頃(6-7月)の気候、西瓜、きゅうり
単物を着用





ハワイ出帆後は次第に寒冷になり、サンフラン
は北緯37度江戸と同じ、西北が海で温度華氏
60度(15℃)、小袖二つ着用
港は入口一里程、奥20里程で、それから川に
なる良港、函館に似る、人家も多くホノルル
の比ではないが、市外は大部分は原野で山の
様子も蝦夷地の様である





ホノルルは勿論サンフランも物価が高く卵
一個一匁五分、旅宿一泊三ドル、入湯三ドル
程其の他も同じ、費用が掛かり土産など思うに
任せない、世界で我国程物価の安い所はない
横浜では船々が出入りし、メキシコドルの相場
もあがり一割程値上がりした、すべてこのまま
だと将来の疲弊は明らかと心痛




咸臨丸も無事15日前にサンフランえ到着
木村攝津守始め一同皆元気
しかし風波は烈しくたいへん苦労し、船も傷む
当港の海軍工廠で米側で修復してくれ、後5日
で完了する、費用は米政府が持つ方向で当地
の提督が政府に問合せ中と聞く



勝麟始め一同特に努力し、技術も大に熟達と
ブルックも云う、同人も好人物で皆と協調し
よく働いた由、万次郎も静かで一言もなし
軍艦の方も取締が良く安心した
当地では日本が軍艦を派遣した事に驚き、直ぐ
に新聞に出た、我々がサンフランに入港すると
祝砲があり、合砲半時続き珍しい事である



勝麟は風邪で廿日程寝込み絶食、それでも
心をこめて働いており感心した


我々の帰国の経路は未定、米側はワシントンに
6ヶ月も滞留すると見ている模様、我々は(7月)
には帰国の積り、提督と話し合い帰路もこの
ポーハタンの予定でパナマに留めておき、士官
のみ交代する事を提督は決めた様だが政府
の方針がなければ決定できない由、提督は
これから行くパナマやワシントンと連絡をとる



ワシントンに閏三月中旬(5月上旬)に到着予定
10日程で引払い(5/21)帰朝出帆予定で
(7月下旬)遅くも盆前には江戸着見込み、
夏の太平洋は穏やかで往路の様な事
あるまいと楽しみである
*結果は大西洋から喜望峰経由世界一周


米人達は親切に世話して呉れ感服、提督始め
穏和な人物ばかりである、 各国の公使達にも
会ったが提督程の人物はいない。 米首府にも
未だ到着していないが既に咄は山の如く、帰国
迄にどんな増える事か、その内7分は嘆息する
事ばかりで書き尽くせない。明日神奈川に行く
便船があるので急ぎほんの一部を認める



太陽暦(1860/3/31)
サンフランシスコ内ネイビーヤード 村垣淡路守
 ポーハタン号中にて認める    新見豊前守

*溝口讃岐守直清 外国奉行
*赤松左衛門尉範忠 外国奉行
*酒井隠岐守忠行 外国奉行
*堀綾部正利熙 外国奉行

*松平石見守康直 外国奉行
*水野筑後守忠徳 西丸留守居




追伸
ー状況を老中へ報告願う
ー皆様忙しい事と思うが我々は一日中、唯
  立っているだけである
ー(2/22)の暴風雨はたいへんで生きた心地が
  しなかった  時化 しけ
ー小栗・森田からも書状が来ると思うが合わせて
 見て欲しい。 彼等も心をいれて頑張っており
 使節団全体が良くまとまっている

*安政七年は三月十八日に万延と
改元され 且三月と四月の間に
閏三月があり、一年が十三ヶ月
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幕府老中よりハリスへの謝辞(安政雑記第四冊より)

万延元申年四月十九日
   亜墨利加合衆国全権兼
      ミニストルエキセルレンシー トウンセントハルリスえ
書翰を以って申入候、我国使節新見豊前守・村垣淡路守
当一月十八日貴ホトハタン船え乗組、揚帆し船中欠乏の品
用立のため、サントウイスの内オアフ島ホノルル港え一旦入津
猶同所出帆、我三月九日恙無くサンフランシスコえ着岸せしめ
今便申越候、且洋中風波烈しき折りもありしかども、水師提督
の周旋至らざるなきが故に、使節一行いづれも危惧の意なかり
し旨をも繰述したり、其厚意心付する也
ともに開帆せし我船咸臨丸はサントウイスえは立寄らず
二月廿六日サンフランシスコえ着帆あり、尤洋中に於て船具
其外破損せる分、政府の令にて修理を加へらるる段告をも
合せて聞知せり、取敢えず先ず其許え謝辞申入れたく、是の
如く候、拝具謹言
     万延元申年四月十九日    脇坂中務大輔 花押
                        安藤 対馬守  花押


(1860年6月8日)



一月十八日(1860/2/9)品川乗船日

ポーハタン号は(1860/3/30)SF着
提督 Commodore Josiah Tattnall
         (1795-1871)

咸臨丸はポーハタンの三日後出帆
(1860/3/18)にSF着
米国政府が修理を指示してくれた
(結果的には修理代を取らなかった)
其許(そこもと) あなた

老中連名